◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-1 今夜、おいで。 

 

彼は初恋。子供の時からずっとずっと恋してきた。
当然、片想い。大人の彼を追うだけの……。
 
彼は、車屋を経営する父親の部下。
会社は自宅と併設しているので、彼の姿は毎日見てきたけれど。
十歳年上の彼には追いつかない。彼は先に行ってしまう。
そう、恋人と結婚だって……。きっとしてしまう。
 
でも。お兄ちゃんは独りになってしまった。
彼女が他の男性と結婚することを決めたから。
 
いつもは静かで落ち着いてるお兄ちゃんが、その夜、青いMR2で哀しみを振り払うように遠くへと走ろうとしていた。
おねがい。連れていって。お兄ちゃんをひとりになんかしない。私、一緒にいる!
助手席に乗り込んで、彼の隣にいた。彼と一緒に、その哀しみの果てまで、ついていった。この道の果ては、瀬戸内海を照らす大きな灯台がある『岬』だった。
 
 
それから二年。
小鳥は大学生。もうすぐハタチ。
 
 
彼が言った。
『小鳥の誕生日まで、あと何日?』
 
ハタチになるまで待っていた。
子供だった小鳥がまだその時、本当に俺をまだ見てくれるなら……。
 
 
ハタチの誕生日を迎える、五日前。
お兄ちゃんからの突然の告白だった。
 
その夜。大人のキスを熱く教えてもらい、柔らかい肌にキスの刻印もされた。
乳房の下に、彼の唇の痕。大人の、愛し方……。
 
彼に通じた想い。コドモの時からの想い、『初恋』だった。
彼は初恋で、初めての恋人。なにもかもハジメテの……。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 今日、二十歳になる。

 

 いつもよりちょっと可愛くしていこう。
 ふわふわの白いニットワンピース。これにしよう。これに……。
「だめだ。可愛すぎる。わたしらしくない」
 本当は着てみたくて買ったくせに。この日に着ようと思って買っておいたくせに。だって、お母さんが『友人披露宴』で着ていた写真を見たら、すごく素敵だったんだもん。あんなふうになってみたい。娘だもん、私も似合うかも。――と思って買ったのにと、小鳥はため息をつく。
「今日は女らしくしていく。していくんだから、着ていくんだから」
 だけれど、いざとなったら、いつもはクールな服を好む自分には似合わない気がして放ってしまう。
 結局、いつものチェックシャツにデニムパンツになってしまった。鏡の前で、顔を覆って『なにをしているんだか』とひとりで情けなくなってみたりする。
 昨夜はいつもより眠れなかった。二十歳になるって、こんなに落ち着かないものなの? 数日前からずうっとドキドキしている。それもこれも……『お兄ちゃん』のせい。
 
 まだ寒い冬の朝。部屋の窓を見ると、遠く見える海がやっと太陽の光を得てキラキラと輝きはじめる。
 それでも少しずつ日の出が早くなり、春の気配。小鳥はこんな朝に生まれたのだと、父親の英児が毎年話してくれる。

 これまでの誕生日で、いちばんの想い出と言えば――。

『お前の名前、本当はセナだったんだよ』
 小学生の時、父親からその話を聞かされ、小鳥はとても驚いた。
 『セナ』て。もしかして、あの『セナ』!? あの格好いい『セナ』!
『そう。音速の貴公子、史上最速のF1ドライバー。アイルトン=セナな』
『ど、どうして。小鳥になっちゃったの』
『なんだろうなあ。お前をだっこした瞬間に、セナじゃねえ小鳥だ――と感じたんだよなあ』
 それを聞いて、子供だったけれど、小鳥はもの凄く怒った記憶がある。
『なんで、セナってつけてくれなかったのよ! 父ちゃんのバカ!』
 小鳥なんて、いつまでも赤ちゃんみたいな名前じゃなくて。小鳥なんて男っぽい滝田には似合わないと男子にからかわれるような名前じゃなくて。『セナ』て名前の方が可愛いじゃん。しかも、あの『アイルトン=セナ』から名付けてくれたって、如何にも車屋の娘でかっこよかったじゃん!!
 誕生日なのに家を飛び出して、近くの公園に籠城したことがある。だけど、母は働きに出ていたし、父は店を離れられるはずもなく迎えに来てくれなかった。最初に見つけてくれたのは弟の聖児。だけど彼も付き合いきれなくて家に帰ってしまった。
 夕方。銀パイプのすべり台の中に隠れていたら、男が顔を覗かせた。
『お前の意地っ張りは、なかなかのもんだな』
 父親の英児だった。まだお店も開けているはずの時間なのに、龍星轟のワッペンがついた作業着のまま捜しに来てくれた。
 それでもむくれて、膝を抱えたまま身体を硬くして出てこようとしない小鳥を見て、英児父がため息をつきながらも、お馴染みのヤンキー座りでパイプの前に座り込んだ。
『小鳥って名前、父ちゃんは気に入っているんだよ。大内のお祖父ちゃんが、琴子にプレゼントした眼鏡ケースが小鳥だろ。祖父ちゃんが、琴子は小鳥と言って選んでくれたんだってよ。母ちゃん、それからずうっとあの眼鏡ケースを大事に使っているだろ。死んだ父ちゃんが選んでくれた想い出のプレゼントだからよ。コトコとコトリ、可愛いママさんと可愛い赤ん坊でお似合いだった、お前達。ふたりが俺の龍星轟に来てくれて、父ちゃん、すんげえ嬉しかったなあ』
『お母さんが大事にしているあの可愛いケースの小鳥のこと?』
『そうだよ。祖父ちゃんは娘の琴子のことは大人になっても『いつまでも可愛い小鳥』だって、父親として娘のこといつまでも可愛く思って選んだんだろ。父ちゃんも会えなかった大内の祖父ちゃんのその気持ち、同じ気持ちを持つ父親になるぞ。と、お前を抱いた時に思ったんだ。そういう気持ちにさせてくれた祖父ちゃんからのプレゼントにしてあげたかったんだ』
『大内のお祖父ちゃんからの、プレゼント。小鳥に?』
 そうだ。と、父が目尻にシワを寄せるこの上ない優しい笑みを見せてくれる。いつも怖い顔をして車屋をやっている親父さんがそんな顔を見せる時は、子供心にもとても愛されていると感じることができた。

 そんな想い出。

「おはよう」
 毎朝のリビングに出ると、制服姿の弟ふたりは既に食事中。父の英児も食後の珈琲を片手に新聞を読んでいる。母の琴子も、眼鏡をかけた朝の姿でキッチンに立っている。いつもの朝。
 小鳥も自分の席について、用意されている朝食を食べ始める。
「姉ちゃん、今日、誕生日だね。おめでとう」
 いつまでも愛嬌たっぷり、みんなを和ませてくれる末っ子の玲児が一番に言ってくれた。
「ありがとう、玲児」
「今日から『成人』てヤツだね〜」
 玲児も高校生になった。姉弟同じ高校に入学した。小鳥が卒業して二年になるが、車屋滝田の三姉弟として、穏やかな性格の玲児でもひと目で知らない人に『滝田の……』と言われるらしい。
 車好きは三姉弟変わらないのだが、どうしたことか、この末っ子。美術が得意! 元々、琴子母がそれに長けたところがあったとかで、その血筋じゃないかと言われている。なのに、この末っ子。近ごろは母親が勤めているデザイン会社に頻繁にお邪魔しているらしい。あの気難しいデザイナーである雅彦おじさんのところに出入りしているとか……。
 弟たちは知っているのか、知らないのかわからない。だけど小鳥は既に『雅彦おじさんは、琴子母の元カレ』と知っていたから。まさかの末っ子が『デザイナー志望』でびっくりしていたりする。
 そんなところ。父の英児はどう思っているのだろう、とか、たまに心配になってしまう。
 車好きの元ヤン親父とお洒落でいつまでも愛らしいお嬢様ママの琴子母。その間に生まれたはずの末っ子が、何故か、母親の元カレみたいにデザイナーになりたいとか、父はどう思っているのだろうと。
「成人かよ。じゃあ、今日から酒もOKか。飲酒運転して捕まんなよ」
 トーストを大口で頬張る聖児は、とにかく口が悪く、素直じゃない。喧嘩をするといえば、歳が近いこの生意気な弟とすることが多い。
「飲酒運転なんかするわけないじゃない。絶対、飲まない」
「でもよ。今日、サークルでパーティをしてくれるんだろ。絶対に飲まされるぜ。ハタチの記念にってさあ。悪ふざけで、飲むまで煽られて追いつめられてさあ」
「そんな強引な飲ませ方は、最近は禁止されているし、マナー違反として白い目で見られるよ。プライベートの遊びでも、守れなかったら学校も厳格に処分するようになっているでしょう。そういうやり方をするサークルのリーダーは管理能力がないと批判されるし、就職活動にも影響するんだよ」
「なに熱くなってんだよ。車屋の娘が捕まったら恥ずかしいから、捕まるなよって言っただけじゃんかよ」
 玲児は素直におめでとうと言ってくれるのに。この生意気な弟はほんっと口ばかり達者で素直じゃない。
「そうだ、そうだ。スミレちゃんが狙われやすいから、気をつけておくね」
 生意気な口を制するのにいちばんの殺し文句はこれ。『スミレちゃん』。すると、あんなに粋がっていた聖児がムキになって言い返すこともなく、むっつり黙り込んでしまった。
「安心したわ、昨今の大学生の方がことの重大さはわかってくれているようでよう」
 黙って珈琲カップを傾けていた英児父が新聞をたたんで、子供達へと向かう。
「小鳥、ついに二十歳だな。おめでとう」
 改めての言葉に小鳥も背筋が伸び、座っている姿勢を正した。
「ありがとう。お父さん」
「今日はサークルで祝ってくれるんだな。では、家族での祝いは次の週末にしておくか。いいな、琴子」
 キッチンで小鳥の紅茶を入れてくれている眼鏡の母がにっこり微笑む。
「そうね。お祖母ちゃんも楽しみにしていたわよ。みんな、何が食べたい」
 末っ子の玲児が開口一番、元気よく答える。
「お祖母ちゃんのバラ寿司」
「俺も、祖母ちゃんのバラ寿司、食いたい」
 そして小鳥も。
「私も、お祖母ちゃんのバラ寿司大好き。あとね、お母さんのビーフシチュー」
 弟たちも『いいね』、『いいな。俺も母ちゃんのビーフシチュー』と同調してくれ、やはり三姉弟、子供の頃から食べてきたものが一緒で、好物も揃ってしまう。
 琴子母も嬉しそうに『はいはい』と受け答えてくれる。そんな子供達と母親を見て、英児父も笑っている。だがまた英児父が険しい顔つきになる。
「話はまだ終わっていない」
 いつもは誰よりもおおらかで豪快な父ちゃんが、ここぞという時に見せる顔だと誰もが気がつき、お喋りを止める。
「二十歳になった。お前達が望んでも望まなくても、ささやかながら晩飯はご馳走という誕生日会を準備してきたが、小鳥の祝いは今年で終了だ。いいな。大人になったんだ。来年からは一緒にいたいと思った友人と過ごしたり、自分のための日と思って歳を重ねていけ」
 いざというとき、この元ヤン親父の言葉はとても重く、そしてそれが小鳥や弟たちを歩かせてくれる。
「うん。わかった。いままで美味しいごちそうで祝ってくれて、ありがとうございました」
 お辞儀をすると、弟たちがしんみりして妙に大人しくなってしまった。姉弟でいちばん上の姉が最初に成人し、そこで初めて両親がどう考えているか知ったからなのだろう。
 いつまでも小さな時のように大事に大事にしてくれているわけではない。ここで、ある程度突き放す、手を放す、大事に繰り返してきたことをやめる。そんなことも考えていたのだと。
「そして。聖児が言った通りだ。酒を飲むなとは言わない。仲間と酒でふざけて楽しみたいのが目的なら『エンゼル』はここにおいていけ」
 『エンゼル』とは、小鳥の愛車、青いMR2のこと。小鳥だけのステッカーを貼っているのだが、そのデザインに天使が描かれているので、父親が『エンゼル』と呼ぶようになってしまった。
「飲酒運転に限らず、車で他人様に迷惑をかけた場合。その時はエンゼルと縁を切ってもらう」
 たかが車かもしれない。だがこの家ではそうではない。車は家族同然。だから大事に乗る。それがモットーで親父さんのポリシー。『縁を切る』という表現は、この家では大袈裟ではない。
「わかっているよ。悪ふざけにも絶対に負けない。お酒で楽しむことよりも、エンゼルで走っている方が断然楽しいだろうと思っているから」
「わかった。その気持ち忘れるなよ、小鳥」
 父の強い眼差しに、小鳥も強く頷いた。

 身支度を済ませ出かけようとすると、琴子母に呼び止められる。
「小鳥ちゃん。今日はその恰好で行くの」
 ハタチの誕生日、友達が集まって祝ってくれるのに。いつも通りの恰好だったからなのだろう。
「別に。いつもの仲間だから」
 だけど琴子母は小鳥をじっと暫し見つめていた。
「なに。お母さん」
「そうね。可愛くしていくなら、本当に見て欲しい人ひとりで充分よね」
 え、それってどういう意味。聞き返したくても、なにもかも見透かされていると気がついた小鳥は顔が熱くなるだけで言葉がでてこなかった。
「いってらっしゃい、小鳥ちゃん。あんまり遅くならないでね」
 門限ももうなくなる。それも思い出した。
 それは前々から両親が言っていたことではあったが、琴子母はそれでも、娘が調子に乗って遅く帰ってこないか案じているのだろう。
 小鳥を見送ると、母も仕事に出かける準備があるからさっとリビングに戻ってしまった。
 それとも。顔を真っ赤にした娘の気持ちを思いやって?
 ――本当に見て欲しい人ひとりで充分よね。
 その本当に見て欲しい人が誰だか。母は知っている。
 だけど。その人への想いが通じたことはまだ知らない。
 彼とキスをしたことも。既にこの肌を許して愛してもらったことも。その印がまだ肌に残っていて、そして、乳房の先が熱い痛みを覚えていることも。
 もう、母には言えない。これからは彼との秘密になっていくのだろう。

 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 今日の講義は二時で終わる。その後、夜の十九時までバイト。バイトが終わったら、そのパーティーに参加する。
 毎日毎日、なにかしら予定が入っている。スケジュール帳のどの日もどの時間も埋め尽くされている。だけれどこれが小鳥の日常だった。
 ガレージに向かい、今日も青いMR2へ。
 青いドアにキーを差し込んだ時だった。
「おはよう」
 龍星轟の紺色作業着姿の青年がガレージの入り口に現れる。
 小鳥の胸がドキドキとせわしく動き始める。
「お、おはよう。お兄ちゃん」
 桧垣 翔。ずっと小鳥が片想いだった十歳年上のお兄さん。龍星轟社長である英児父の部下。
 一重のクールな眼差し。それとはうらはらに、八重歯がちらりとみえる笑顔がとても素敵で、初めてこの笑顔を見た時から、毎日それが見たくてときめいてきた。それが今日もここに。
 そのお兄ちゃんが薄暗い朝のガレージへと入ってくる。
「今日もバイトだろ」
「うん」
「サークルの仲間と集まるんだよな」
「うん……」
 五日前。この彼と両想いになっていたことを知ることが出来た。つまり……もう『恋人同士』。だけど、まだ五日目。あれから二人きりで会う時間もなかった。
 そしてなによりも。この五日間、彼からなんの誘いもなかった。
 小鳥がハタチになるまで待っていた――と言ってくれたのに。そのハタチの日にどうするか。何も言ってこなかった。そして小鳥も、ハジメテの彼氏に対して、いきなり『一緒にいて』と言えずにいた。
 
「今夜、おいで」
 
 大好きな笑顔でお兄ちゃんがさらっと言ったので、小鳥は呆然としてしまった。
 
「このまえ渡した合い鍵があるだろ」
「う、うん」
「待っている」
 それだけ言うと、翔は背を向けてガレージを出て行った。
 まだ『カノジョ』として上手く受け答えできない。小鳥は張り詰めていた緊張を解くように、はあっと息を吐く。脱力感が襲ってきて、MR2のルーフにもたれた。
「ほ、ほんとうに、翔兄のカノジョでいいのかな」
 これから毎日、こんなに緊張? こんなにドキドキ?
 小鳥はダウンジャケットのポケットから『カモメのキーホルダー』を取り出す。
 五日前。翔兄と気持ちを確かめ合った岬の夜、彼からの贈り物だった。
 ハタチになった時、誕生日に、小鳥に渡そうと思ってだいぶ前からキーホルダーも探して準備していたんだ。そういって握らせてくれた『合い鍵』。
 小鳥じゃなくて、エンゼルじゃなくて、翔兄は小鳥を『カモメ』と喩えてくれたようだった。
 その鍵を握りしめ、小鳥は騒ぐ胸を宥めようと呪文のように呟く。
「大丈夫、いつも通り。いままでの私でいいの。きっと、そう」
 コドモみたいに思われていてもいい。なにもかもが初めてでぎこちなくてもいい。翔兄はきっとわかってくれている。
 カモメの合い鍵を握っていた手を開くと、それでもうっすら汗が滲んでいる。
 緊張しているのは、『初カレシ』が出来ただけじゃない。
 誕生日の、ハタチの夜に。恋人になった彼から『おいで』の合図。
 小鳥の乳房の下には、『予約』といいながら彼が口づけた痕がまだ残っている。

 

 

 

 

Update/2013.5.1
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