◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-10 恋はいちごの香り。

 

 もう春は目の前といっても、まだ夕暮れは早い。
 島からのフェリーを降り、空港の海際を走り、漁村へと向かう海岸線に抜ける。
 その時にはもう薄墨色の海が柔らかに闇に溶け込もうとしていた。
 ライトを点けて海岸線を走り続ける。
 おじいちゃん。今頃は夕食の支度かな。そう思い描きながら漁村へ向かう。
 後部座席には、島の魔女さんから預かったレモンの篭が揺れている。
 
 海岸線の国道にある『シーガル』の前へとさしかかる。いまはもう真っ暗。カモメの看板も、いまはあまり灯ることはない。ずっと前なら、この時間でも伊賀上のおじいちゃんは店のカウンターであれこれ準備をして、夜にやってくるお客を待っていたはず。暗い国道にぽつんと明るいカフェがある。波の音に紛れて、月の光に映し出されて。その優しい穏やかな雰囲気に惹かれなにげなく入った人々が、またマスターに会いたくなってやってくる。そんなお店だと小鳥は子供の時から見てきた。そういうお店が好きだった。そして、カウンターでいつだってにっこり笑って待っていてくれた優しいおじいちゃんが大好き。
 琴子母もはやくに父を亡くしたせいか、伊賀上マスターをいまは父親のように思っているよう。だから、小鳥も『お祖父ちゃん』だと本気で思っている。
 いまは暗闇に寂しく閉ざされている『シーガル』の前を切ない思いで小鳥は通り過ぎる。
 店の前を過ぎて、直ぐの角を小鳥は曲がった。漁村の家が海へ向かって何軒か並んでいる小さな道を、フェアレディZを徐行させゆっくり進む。
 おじいちゃんの家はもう目の前。海の近く。
 漁村の古い小さな道。両脇に民家の軒下には干物篭や干し網などが置かれている家が多い。そんな中、ひとつだけモダンな一軒家が現れる。そこが伊賀上マスターの自宅だった。
 五十歳の頃に、都会のバーテンダーから身をひいて、城山が見える一番町のホテルラウンジを最後に引退。故郷の長浜にマスターは第二の人生を生きていく為、また介護のための家を建てた。
 おじいちゃんのセンスがうかがえる、海辺のモダンな家。そこだけ外国のようだった。
 ワーゲンバスがあるカーポートの前にフェアレディZを駐車させる。それだけで玄関の灯りがついた。
 このエンジン音が聞こえると、おじいちゃんはすぐに気がついてくれる。滝田の誰かが来たと。
 玄関のドアが開き、白髪の大柄な老人がひょっこり顔を出す。
「じいちゃんー。小鳥だよ!」
 運転席の窓を開けて、手を振った。
 おじいちゃんの顔がにっこり優しく崩れる。
「小鳥、いらっしゃい」
 ドアを開けて、玄関から出てきてくれた。
「今日、興居島(ごごしま)の果樹園に行って来たんだ。珠里おばさんからもらってきたよ」
 後部座席にある柑橘篭を取りだし、おじいちゃんに差し出す。
「ありがとう。そろそろお願いしようかと思っていたけれど、いつもお願いする前に気がついてくれて。本当に助かるよ」
「朝、父ちゃんがそろそろだから、行ってきてくれって」
「英児君が。そうか」
「珠里おばさんも、マスターによろしくって。大洋もおじいちゃんのこと元気か気にしていたよ」
 レモンに大玉のオレンジやキーウィーなど、島の果物が盛られた篭を見下ろし、マスターがちょっと寂しそうに微笑む。
「ああ、大洋にもしばらく会っていないな。果樹園のお手伝い、頑張っているみたいだね」
 本当はおじいちゃんも、あの素敵な果樹園に行って、あの空気を吸いたいんだな――。小鳥はそう感じた。
「じいちゃん。今度は私と一緒に行こうよ。珠里おばさんと大洋が喜ぶよ!」
 元気に言うと、おじいちゃんも笑顔になってくれる。
「そうだな。小鳥の運転で連れていってもらおうかな」
 昔は逆だった。島に遊びに行った時におじいちゃんもやってきて、そこの水色のワーゲンバスに子供達をいっぱい詰め込んで、島の海水浴場まで連れて行ってくれた。しかもおじいちゃんが一人で子守りをしてくれて――。
 小鳥に、聖児に玲児。真鍋の大洋に、蒼志。そして真田の璃々花姉さん。子供達みんなの優しいおじいちゃんだった。そして親たちにとっても、伊賀上マスターは『お父さん』でもあった。
「まだ冷えるね。さあ、おはいり」
 海辺のモダンな家にお邪魔する。
 どの部屋も洋式だけれど、一室だけ和室がある。そこで母親の介護をしていたのだとか。おじいちゃんの部屋も一階にある。和室の直ぐ隣。そして小鳥はそこもお気に入りだった。
 真っ白な出窓の部屋。おじいちゃんなのに、ギンガムチェックのベッドカバーをいくつも持っていて、そして古いレコードやCDのラック。なによりも大量の本。バーテンダーはたくさん本を読まないといけないらしい。様々なカクテルが持つ物語と歴史は隣り合わせ。お客様から説明を求められなくても、そのカクテルで物語って酔ってもらわないといけないから――と言っていた。
 そこは伊賀上祥蔵の世界。出窓を開けると海が見えて、波の音が聞こえて。そして小鳥が知らない大人の音楽。おじいちゃんの本の匂い。おじいちゃんが料理する匂い。ここだけ『フロリダ』。真鍋会長がそういう。伊賀上マスターの店に行くと、キーウェストのヘミングウェイの気分だって。時々、窓の下をのんびりと横切っていく黒猫とか、ちょっと魚の匂いがする風とか。この家のなにもかもが大好き。おじいちゃんのおうち。小鳥の田舎のおじいちゃん。
 そんな雰囲気の家に今夜もお邪魔する。介護のために建てられただけあって、バリアフリー。リビングは吹き抜けで天井にはブロンズ色のシーリングファン。壁も窓枠もアンティーク調の階段手すりも真っ白で、二階の窓から燦々と日射しが降りそそぐ。介護したお母さんも、そんな家をとても気に入ってくれたんだとか。
 今日は夜だから、その窓からは星空が見える。月が綺麗に見える日もある。そういうなにもかもが、中心街でも珍しい設計。建ててからだいぶ時が経ったとはいえ、だからこその趣も加わって、まるで海辺の別荘のよう。
 暖が整っているリビングで、おじいちゃんは映画を見ながら食事中だったようだ。
「小鳥もお腹が空いているだろう。好きなものを作ってあげよう。食べていきなさい」
「うん。いただきます!」

 おじいちゃんのご飯大好き。小鳥は『私も手伝う』と、厨房のような作りになっているキッチンにマスターと一緒に向かう。
 キッチンも見事な設計。厨房と言っても、こちらは二宮キッチンのような料理のためのというより、『お酒のためのキッチン』だった。
 沢山のリキュールとお酒がいっぱいに並べられている棚と、様々な形のグラスが収められている大きな大きな食器棚。その気になれば、自宅を利用した隠れ家バーでも開店できそうだった。
「パスタがいいかな。リゾットもできるよ」
「んー。やっぱ、パスタかな」
「鰯のペペロンチーノでいいかな」
「うん!」
「冷蔵庫にね、惣菜があるから好きなものを選びなさい」
 ゆったりとした動作でフライパンを火にかけるマスター。もう高齢でも動作がゆっくりでも、それでもきちんとお店で出していた味が出せる手際が身に付いている。
 エプロン姿で料理をするおじいちゃんの手元から、香ばしいガーリックとオリーブオイルの匂いがたちこめる。小鳥は冷蔵庫を開けて、一人でわくわくしている。おじいちゃんのお惣菜も、どこかのデリカテッセン並。季節野菜のサラダに、魚介のマリネ。フルーツやナッツにチーズをつかった和え物などいろいろ。きっとバーテンダー時代に覚えていたものなんだろうと思う。
 いろいろな惣菜をすこしずつ小皿にとって選んでいる内に、もうペペロンチーノが出来上がっていた。
「さあ。一緒に食べよう」
 リビングのケヤキのテーブルで、おじいちゃんと一緒に『いただきます』と食事をする。
「おいしー。ほんと、おじいちゃんのご飯、大好きー」
 なんでも元気よく頬張る小鳥を見て、おじいちゃんもにこにこにこにこ嬉しそうに笑ってくれる。
 最後はフルーツが必ず出てくる。はずだった。だがこの日、おじいちゃんが『ちょっと待っていて』とリビングからふっと出て行ってしまう。出て行ったのはキッチンではなく、自室がある廊下だった。
 おじいちゃんがリビングに戻ってくると、その手には真っ赤な箱。それを小鳥の前に静かに差し出してくれる。
「二十歳になったんだよね。おめでとう、小鳥。大きくなったね」
 心なしか、おじいちゃんのつぶらな瞳が潤んでいるように見えてしまった。そうしたら、小鳥も目頭が熱くなってしまう。
「ありがとう。おじいちゃん」
「僕ね。結婚しなかったから、子供のことは諦めていたんだけれど。英児君と琴子さんのおかげで、小鳥が生まれた時から今日まで本当の『お祖父ちゃん』の気分をさせてもらえて、嬉しかったよ」
「おじいちゃん……。私だって同じだよ。滝田のお祖父ちゃんはもう年取っていたから小学生の時にいなくなっちゃったし、大内のお祖父ちゃんは生まれた時にはもういなかったし。ずっとずっと一緒にいてくれたのは伊賀上のお祖父ちゃんだよ。お母さんだって、お父さんに似ているって、マスターのことお父さんみたいってよく言っている」
「僕も、滝田の三姉弟は本当の孫だと思っているよ。小鳥が生まれた時から、ほんとうに楽しかった」
 これまでの沢山の想い出が溢れだして、お祖父ちゃんより先に小鳥が泣いてしまう。そんな小鳥を見て、おじいちゃんが優しく笑う。
「蜂蜜付けにした苺の紅茶が大好きだったね。小さな時は、僕が作るイチゴミルクが飲みたい飲みたいと大泣きして、琴子さんを困らせていた」
「おじいちゃんがつくるものは、みんな大好きだよ。だから、私……」
 それを継ぎたいの。守りたいの。ずっと私のそばに置いておきたいの。
 そっと囁いた。おこがましくて、胸を張って言えないのが情けないと思いながら。
「うん。僕も小鳥にずっと覚えておいて欲しいから。これから少しずつ教えるね」
 びっくりして、小鳥は顔を上げてしまう。これまで『お祖父ちゃんの味を継ぎたい』とは何度も言ってきたが、まるで子供の戯言だと言わんばかりに笑って流されてきた。
 なのに。今日、お祖父ちゃんが初めて『教える』と言ってくれた!
「これから、月に二回か三回。僕のところにおいで。一緒に夕食を作って食べるんだよ。その時に教えてあげるよ」
「ほ、本当に!?」
「僕もいつまでも元気じゃないよ。わかるよね、小鳥……」
 島に素材を選びに行けなくなった。店も開けられなくなった。その老いを小鳥は見てきた。年齢の割にはしっかりしているのは、仕事を続けてきたこともあるだろうし、まだ生き甲斐があるから。それでも思い通りに生きていけなくなった老いはお祖父ちゃんを少しずつ追いつめていく。
 そんな中、小鳥に本気で教えてくれると決断してくれた?
「小鳥はもう大人だ。やりたいと思ったこと、真っ直ぐに取り組むんだよ。若いと思っていてもあっという間に時間は過ぎるし、若い時から取り組んできたことは、いつ花開くかわからないけれど、いつか開くための栄養になる。三十やそこらで成功しようだなんて思っちゃけいない。でもチャンスも逃しちゃいけない。謙虚に弁えて、腐らずに淡々と、そして沢山のものを見て目を養うんだ」
 バーテンダーという職人の言葉だった。小鳥はゆっくり静かに頷く。
「開けてごらん」
 小鳥は真っ赤な箱を開けた。
 繊細な唐草の透かし模様が入ったグラスがふたつ。箱にはバカラと記してある。
「いつか愛した男性と一緒に使って欲しいな。小鳥の花嫁姿が見られないかもしれないから、いま贈っておこうね」
「ヤダよ。おじいちゃん。そんなこと言わないで……」
 きっと伊賀上マスターも、小鳥が誰を好きか知っているはず。ずっと真っ直ぐにその人だけを見てきたことを、黙って見守ってくれていたのだろう。
 それが誰か琴子母同様、おじいちゃんも口にはしない。
「でも嬉しいな。やっと小鳥に僕のカクテルをご馳走できるね」
 あ、ほんとうだ。
 小鳥もこぼれそうになった涙を止めて、そのグラスを手に取った。
「おじいちゃん。これに……カクテルつくって。私の初めてのお酒だよ」
 伊賀上マスターがちょっと驚いた顔をした。
「てっきり。もうお友達と呑んでしまったのかと思っていたよ。でも、」
 おじいちゃんがゆっくりと立ち上がる。
「初めてでも、初めてでなくとも。誕生日を迎えた小鳥が会いに来たら、そうするつもりだったんだ。お父さんとお母さんには僕から事情を説明しておくから、今夜は泊まっていきなさい」
「うん。そうする。嬉しい! 私の初めてのお酒、おじいちゃんのカクテルになって嬉しい」
「この時の為に、僕ね、小鳥のためのカクテルレシピを考えておいたんだ」
 え、私のためのカクテル? 小鳥は目を見開いて、大きなおじいちゃんを見上げる。
「そうだよ。さあ、そのグラスを持って、キッチンにおいで」
 お祝いのグラスを持って、小鳥は嬉しくて嬉しくて、優しい熊さんのようなおじいちゃんについていく。
 
 食器棚の前には、小さなカウンターが設えてある。
 そこに伊賀上マスターが出したのは、凍らせた『苺』、『ラズベリー』、『クランベリー』。そして今日、小鳥が二宮からもらってきたレモン。そしてリキュールの棚からいくつかの瓶が並べられる。
 今夜はシェイカーではなく、小さなミキサーにクラッシュド・アイスと、ベリーと、レモン、そしてリキュールが入れられる。それをおじいちゃんがミキサーでブレンドする。
 真っ赤なフローズンタイプのカクテル。それが新しいバカラのグラスに注がれる。最後にミントの葉がちょこんと乗せられた。
「苺が大好きな『リトルバード』だよ」
「……それ、このカクテルの名前?」
 おじいちゃんがにこりと笑って頷いてくれる。
「苺が好きな女の子が、ちょっと背伸びをして初めて呑むカクテルという意味」
 それが『リトルバード』。まだ飛べない小鳥さん、どうぞ召し上がれ。あまりにもいまの自分にピッタリで、さきほどやっと抑えた涙がまた滲んだ。
「いただきます」
 静かに、冷たいグラスを手に取った。
 とろっとしたフローズンをひとくち。口の中に、小鳥が大好きなベリーの香りが広がる。そして二宮のレモン、初めて味わう香り高いリキュールの甘みと苦み。そっと飲み込むと、喉と胸にぽっと熱いものがともる。
 これがお酒の味、身体がお酒を知るとこうなるの。まるで……。お兄ちゃんが好きで、好きで、たまらないって。あの狂おしい気持ちになった時と似ている?
「お酒て、恋するみたい」
 ふと思ったことを呟いたのに、伊賀上のおじいちゃんが驚いた顔をした。
「……小鳥。ほんとうに大人になったんだね。女としても幸せになりなさい」
 恋を知らなければ、そんな言葉は出てこない。そうは言わなかったけれど、おじいちゃんの目が優しくそう小鳥に言っているようだった。
「おいしい。気に入ったよ、おじいちゃん。おじいちゃんの苺シリーズはどれも最高」
 もの心つく前は、イチゴミルク。小さな女の子だった時は、蜂蜜漬け苺の紅茶。大人になった女の子には、フローズンベリーのカクテル。情熱的な赤色。元気になりたくなる苺色。小鳥はそっと目をつむって、おじいちゃんがいつもプレゼントしてくれた苺を味わう。
 こうして私はこのおじいさんに大事にしてもらってきた。そして私はこの味をいつか……。
「ところで、小鳥。今夜は、エンゼルじゃなかったね。お母さんはいま、何に乗っているのかな。明日、ゼットがないと困るんじゃないかな」
 ああ。ここでもまた。説明しなくちゃ――。
 小鳥は頭を抱えながら、伊賀上マスターにも、エンゼルに乗っていない理由を説明した。
 おじいちゃんもとても驚いて心配そうな顔になったが、その後は、カウンターで顔をつきあわせて、フルーツを食べたり、二宮からもらってきたレモンパイを食べたりして、夜遅くまで沢山の話をした。
 
 この家に泊まるのは初めてではない。夏休みに、弟たちと泊まったり、おじいちゃんが体調を崩した時は琴子母と泊まり込んだこともある。
 その為、滝田の誰かがいつでも泊まれるよう、伊賀上邸には二階にゲストルームを用意してくれている。
 おじいちゃんの部屋のように、ギンガムチェックのベッドカバー。そしてちょっとの本とDVDとテレビを置いてくれている。海の波の音が聞こえ、小さなシャワールームまである。おじいちゃんは女性が喜ぶ小物を見つけるのも用意するのも上手。シャワールームにはいつも、まんまるお月様のようなコイン型のゲストソープを置いてくれている。フランス製のジャスミンの香りがする小さな石鹸。そしてナイトテーブルにはラベンダーの花束もリボンで結んで小さなフラワーベースに挿してくれている。
 まるでペンションに泊まりに来たような素敵な気分になれる白い部屋。琴子母もこの部屋がお気に入りだった。弟たちでさえ。この部屋の香りが、おじいちゃんの海の家の匂いだって……。
 小鳥はベッドに横になりながら耳を澄ます。
 真下はおじいちゃんの部屋。そこから微かに聞こえてくる音楽。
 今夜はミッシェル=ポルナレフの『Love Me, Please Love Me』。
 おじいちゃんもきっと、忘れられない恋をしたんだろうな。
 出窓の向こうに見える入り江。向こう岸に見える工業地帯の光、そのすぐ隣が空港。そして、龍星轟がある街。遠く揺らめく光を見つめながら、小鳥はメールを打つ。
 翔兄ちゃん。初めてお酒を飲んだよ。
 おじいちゃんのカクテル。『リトルバード』っていう私の名前のカクテルだよ。大好きな苺の味。おいしかった。
 だけれど。返事が来なかった。それでも待っているうちに、大好きな部屋に溶け込むように微睡んでいた。 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 目が覚めると、またフレンチ・ポップスが聞こえる。
 今朝はシルビィ・バルタンの『愛はジタンの香り』?
 真田会長はこの漁村のことをキーウェストみたいに思わせてくれるというけれど、おじいちゃんの家にいると南フランスの地中海の漁村にいるような気分になる。
 優しいジャスミンの石鹸で顔を洗って、身なりを整え、小鳥は一階へと向かう。階段の窓にもおじいちゃんは緑を飾っていて、そこに燦々と朝日が降りそそいでいる。
 キッチンにはいると、早起きのおじいちゃんがエプロン姿でもう食事を作ってくれていた。
「おはよう。小鳥。初めてのお酒は大丈夫だったかな」
「うん。大丈夫だったみたい」
 記念だったから、あの一杯を大切に飲んで終わりにしただけだったが、お酒との相性は悪くはないようで小鳥もホッとする。
「学校があるんだろう。ここから龍星轟に帰って、そこから北条方面だろう。遠いな。足止めして悪かったね」
「走るの大好きな私にそれ言っても無駄だよ。私たちなんて、こっちからあっちなんてすぐ飛ばしちゃうんだから」
「そうだけれど。心配だな。その三菱の車がなにを思っているか怖いね。二度と小鳥と遭って欲しくないよ、おじいちゃんは……」
 ここでも心配をされてしまい、小鳥も大人しく口をつぐんだ。
「英児君がいるから大丈夫だね。ああ、でも。英児君も、カッとなると止まらなくなっちゃう時があるからねえ。まあそれも若い時の話かな」
「父ちゃんって。若い時、短気だったの? どんなヤンキーだったの」
「ヤンキーと言っても、いろいろな子がいてね。ソフトな方だったけど……。僕が初めて彼を見た時は、剃り込みを赤くメッシュに染めたリーゼントだったかなあ……」
「わー。考えたくないけど、やっぱり見てみたい」
 でも『ヤンキー時代の写真を見せて』と弟たちと何度かせがんだが、父は頑として見せてくれない。琴子母だけが見たことがあるらしく、その写真は琴子母に隠すようきつく言い渡しているようだった。
「喧嘩っ早いといえば、そうだったかな。でも英児君が怒るのは根性曲がっているヤツ許さねえなんてところかな。あと仲間が傷つけられた時は、後先考えずにほんとうロケットのようにすっ飛んでいくんで、武智君や篠原君がストッパーだったねえ。うーん、こうやって思い出すと、やっぱり小鳥は英児君に似たんだね」
「もう、それヤダ。聞き飽きた!」
 元ヤン親父の若い時そっくりと言われると、自分も元ヤンみたいな気分になりそうで、似ていると言われると小鳥はついムキになってしまう。
 そんな小鳥を見て、おじいちゃんも楽しそうに笑い出す。
「だから。無茶はするんじゃないよ。彼も……哀しむよ」
 ドキッとした。おじいちゃんが初めて……『言わなくても誰か知っている彼』のことを口にした。
「今度、彼と一緒に来なさい。待っているよ」
 いつもの、優しい優しい伊賀上おじちゃんの静かな微笑みを見せられる。
「……うん。わかった」
 彼とどうなったなんて、まだ真向かって言えないけれど。でも小鳥は頷いて、大好きな彼をおじいちゃんに紹介する約束をする。
「さあ。食べよう。急いで着替えに帰らないとね」
「うん」
 綺麗なスクランブルエッグとか、かりかりのトースト。おじいちゃん特製の柚子マーマレードに苺ジャム。生ハムのサラダに、紅マドンナのカットフルーツ。おじいちゃんの店にあった苺のカップに入れられたミルクティー。綺麗な綺麗なモーニングの食卓ができあがっていて、小鳥も目をキラキラさせてしまう。
「いただきまーす」
「沢山食べるんだよ。小鳥はほんとうにフル稼働なんだから」
「大好きなおじいちゃんの朝ご飯が食べられるなんて、とってもいい気分」
 ほんとうに、おじいちゃんのお店も、おうちも、お部屋も、ご飯も大好き。
 だからなくしたくない。おじいちゃんが一人で創ってきた世界の中で、小鳥は育ってきた。龍星轟という自宅とは違う、もうひとつの『私の家』だと思っているほどに。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 漁村の伊賀上邸に行くと、ほんとうに元気になれる。
 なにもかもが小鳥を包んでくれる、優しい空間。すっかりいい気分。天気も良くて、朝から煌めく瀬戸内を横に海岸線をゆったりと運転をして龍星轟まで向かう。
 朝一番、龍星轟の店先へと小鳥は到着する。
 いつも通り、朝一番に出勤してくるのは事務の武智専務。そして、整備のスケジュールを管理している桧垣 翔。銀色のゼットを事務所前に停車させ、小鳥はいつもの朝早い二人を見つけて微笑んでしまう。
 だけれど。よく見ると二人だけではなかった。朝から龍星轟の男達が集まっている。矢野じいも、清家のおじさんも、兵藤のおじさんもいる。中堅整備士の藤田さんに、若い整備士のノブ君にマコちゃんも。
 そして、親父さんが社長席でもの凄い顔で腕を組んで座っている。朝から尋常ではない様子に空気を小鳥は感じ取る。
 いつもは邪魔をすまいと、こういう時は事務所を避ける小鳥だが、今日は我慢できずに事務所に駆け込んだ。
「父ちゃん、ただいま」
 小鳥が帰ってきた姿を見て、どうしてか龍星轟の男達がホッとしたような顔をした。だが小鳥は『マコちゃん』を見て青ざめる。
「ま、慎(まこと)ちゃん。どうしたの、それ」
 額にガーゼを張り付けた手当がしてある。少し血が滲んでいて小鳥はますます驚き硬直した。
「昨夜。社長と兄さん達が三坂を流している時、俺は遅くまで付き合わなくていいからと桜三里を走っていたら、アイツに出くわして――」
 桜三里!? 三坂とまったく方角が違う峠にアイツが出た。龍星轟の男達がいることをわかっていたのか、わかっていなかったかは定かではないが、英児父がここと決めた場所とはまったく異なるところに出没したらしい。
 もしかして。小鳥はハッとして、事務所を飛び出した。
 ピットに飛び込むと、慎のホンダNSXも小鳥のMR2のように前面バンパーに激突痕、そして助手席のドアがへこんでいた。つまり、今回もアイツは小鳥の時同様に『相手がミスして自損事故になるようにもっていく』のではなく、『関係ねえ。オマエはぶっ潰す』と体当たりをしてきたということ!
 『小鳥の時だけ、ワザとぶつかってきた』。おじちゃん達が感じたように、小鳥もそう思っていた。だからアイツの底知れない気持ちに恐怖を抱きながら、怒りも消えない。今回も同じ! アイツは慎の車だとわかっていて、ぶつかってきた。だとしたら……。
 そこに思い浮かんだことと、男達の何とも言えない異様な空気が一致し、小鳥は再び事務所に駆け込んだ。
「父ちゃん、もしかして……。もしかして!」
 ヤダ、そんなのヤダ。どうしてこんなことになったの?
 認めたくない小鳥の顔を見つめ、社長席に座り込んでいる英児父が無情にもそれを言ってしまう。
「ああ、そうだ。間違いない。龍星轟の男達の車と判ったらぶっ潰す覚悟でやっている。狙われている、確実に」
 ついに、ついに、確定してしまったようだ。白のランエボの狙いは『龍星轟』。だから男達が朝から何とも言えない顔を揃えていたのだろう。
「どうして、そんなこと。ライバル店? そんなお店、ここらではないよね。だって、父ちゃんや武ちゃんがちゃんと……」
 横の繋がりだって大事にしてきたはず。持ちつ持たれつ、地方の中小企業だからこそ、互いに迷惑にならないように努めてきたはず。そういう付き合いの中で、こんな恨まれるようなことなどいままでなかったはず。
 その理由がわからない……。
 誰もがそう思っているのだろう。だからこそ、これからあのランエボに対してどうすれば良いかわからなくなってしまったのだろう。
 でも。こんなこと、いつまで繰り返されるの?
 いつまでアイツを避けていなくちゃけいないの? こんなの我慢できない。
 ついに小鳥は父親に向かって言い放つ。
「私も三坂に行く。私が囮(おとり)になる!」
 わ、龍の子がロケット発射秒読み前――。おじさん達が面食らう。
 それだけではなかった。
「いや、小鳥。俺がやる」
 いつもは控えめな翔が、張り合うように小鳥の隣に並んだ。
「彼女のMR2、俺に運転させてください」
 え、どうして? どうして私のMR2を運転して囮になろうだなんて言い出すの? 私がそうしたいのに。
 英児父は小鳥と翔を交互に眺め、即答はせずなにを思っているのか。

 

 

 

 

Update/2013.10.9
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