◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-11 車のように愛して。

 

 私が囮になる!
 いえ、俺に彼女の車を運転させてください。
 
 いつも後先考えずに、気持ちだけで突っ走ってしまう小鳥を止めるかの如く。翔も『俺が囮になる』と小鳥の前を遮った。
 無茶をする小鳥を止めるため? いつも気持ちだけですっ飛んでいく子供のような彼女を、大人の彼がそれとなく諫めている? 私、また子供ぽいことしたのかな? ふと勢いが止まってしまう。
「どちらも却下だ。囮は使わない。いいか、小鳥。勝手なことすんなよ。龍星轟の俺達は俺達でいろいろと考えて、車で詰め将棋しているんだからよ。乱入して台無しにしたら勘当する」
 そこまで言われ、小鳥は後ずさった。父親の凄むガン飛ばしに震え上がる。
「わかったな、小鳥。これでいいだろ、翔。この娘に余計なことは父親の俺がさせねえから、お前まで無茶なこと言い出すな」
 お騒がせ娘のやることに引きずられるだなんて、お前らしくない――。父が静かに付け加えた。
 いつもはなにごとにも落ちついているお前が、どうしてそうなる。今度は言葉にせず、眼だけで父がそう言っている。小鳥にはそう見えた。
 父は薄々勘づいている。娘とこの男が深い関係になり始め、やんちゃな娘が考えなしに飛んでいく方へと男も引っ張られてしまっているんだと警戒しているようだった。
 もしかして子供っぽい自分は、お兄ちゃんのためにならない?
「いえ、社長。お嬢さんが参戦するしないとは別に考えていることがあります。まさかここでお嬢さんが俺の考えの『邪魔』をするとは思わなかったので、つい遮りましたが……」
 え、『別の考え』? 小鳥と英児父は似た顔を揃え、一緒に驚きの目を彼に向けていた。
 しかもお兄ちゃんが『お嬢さんが邪魔なことをした』なんて言った! 彼には彼なりの深い考えが前々からあっての『俺がエンゼルに乗りたい』だったのに対し、やっぱり私ってただ突っ走るだけの子供っぽいオバカさんだと思われたのかと、小鳥はショックを隠せない。
「なんだ翔、言ってみろ」
「その前に。修理が終わったエンゼルの試運転を俺にさせもらえませんか」
「いや、その前に。社長の俺に思っていることを報告してくれないか」
 社長の俺に言わなくてはいけないことを告げず、自分の望みだけ『その前にさせろ』という口の利き方に、父が多少むかいているのが小鳥にはわかった。
 しかし、父との付き合いも長くなってきた翔もお構いなし。怒りの炎が点火されたら若僧の自分なんてあっというまに踏みつぶされる怪獣的上司だとわかっていても、翔も毅然と英児父に真向かっている。
「確証がないんです。ないことを社長に安易に告げて混乱させたくありません。まだ自分の中でも『予測』に過ぎず、いまここで言えば、龍星轟の兄さん達にも混乱を招きかねないので。もう少し時間をくださいませんか」
 そう、このお兄さんは、いつもこうして淡々と落ち着いている。そして父も、彼が淡々と頭の中で確実になにかを組み立てている時の落ち着きが見えた時、それもまた俺にはない眼で見えたものとしてすんなり受け入れる。『たまに生意気に俺に意見するが、言っていることいちいち一理ある』が父の翔に対する口癖だった。そして父はそんな彼をとても気に入っている。
「わかった。だが一人で抱え込まれても困る。どんな小さなことでも、アイツをしとめる為の考えに入れておきたい。確証があるにしろないにしろ、三日後には確証がないことでも俺に報告してくれるな」
「わかりました」
 話が終わり、英児父が大人しくなってしまった小鳥を見下ろしていた。
「おめえみたいなチビが敵う男じゃねえわ。そんなのわかっているんだろ。エンゼル、乗せてやれ」
 敵わない父と大人の考えで動いていた彼の間で、なんの役にも立てないことに項垂れた小鳥も力無く頷くだけ。
 だけど、そんな翔は小鳥を見て微笑んでくれている。
「あと少し、エンジンと足回りのチェックをしたいから、修理完了は夜まで待ってくれ」
「うん、いいよ」
「今夜、一緒にエンゼルの復帰走行しような」
 いつもの八重歯が見える素敵な笑顔で、さらっと言った。英児父の前で……、さらっと『今夜一緒にと』さりげなく。それだけ言い残して本日の業務へと去っていった。小鳥は絶句して固まっていただけ。
 父親の目の前で今夜のお誘いを言い残していったので、小鳥は恐る恐る横目で父の様子を窺ってしまう。
「ったく。爽やかに言いやがって」
 父もそれだけ吐き捨てると、社長デスクにどっかりと座り込んだ。
「学校が始まるんだろ。はよう行ってこいや」
 不機嫌そうに口元を曲げたまま、それっきり小鳥の顔も見ないし、デスクトップのパソコンに開いた画面を見つめたままなにも言わなくなった。
 娘の面倒を見てくれる兄貴? それとも……娘が幼い頃から憧れている男。その男と娘が車を通してどこへ行こうが、だいぶ前から父はなにも言わない。
 娘がその男に想いを寄せていることを知っているくせに。
 父ちゃんもなにを思っているのだろう。翔と男と女の関係になっていると知ったらどう思うのだろう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 エンゼルが帰ってきた!
 真田珈琲本店のアルバイトを終えた小鳥は、龍星轟に一直線。ガレージにフェアレディZを停めて、さらにピットへと一直線。
「おかえり、小鳥」
 龍星轟のジャケット姿の翔が待っていてくれた。
「なおってる〜。うわーん、エンゼル、おかえり!」
 壊されていたライトも綺麗に元通りになっている。そこに小鳥は頬をすり寄せた。
「ありがとう、お兄ちゃん。整備のおじちゃん達が、翔兄がいちばん頑張ってなおしていたから、礼は翔に言ってくれって……」
 彼が照れくさそうな笑みで俯いた。
「腕前は兄さん達に敵わないんだけれど、どうしても、自分で出来るところは俺の手でなおしたかったんだ」
 元は俺が気に入って乗っていた車だから。いまはカノジョの愛車だから。そう言いたそうな目で、彼も小鳥の隣に跪いてバンパーを愛おしそうに撫でている。
 小鳥はその手にドキリとしてしまう。その手がゆっくりと、優しいだけではない愛猫の毛並みに指先を柔らかに沈めていくような熱っぽさを感じてしまった。そんな手で、私も触ってくれていた。私の肌に吸いつくように撫でてくれたあの手とそっくり……。
「今夜はどうするか。峠は勝手に行かないよう禁止令が出ている。直ぐに帰ってこられる海辺を走るか」
 バンパー前にふたり揃って並んで座っている。直ぐそこにお兄ちゃんの八重歯の笑顔。
「う、うん」
「今夜は俺が運転席で、小鳥が助手席だ。いいな」
 この前みたいにここでキスしたら、今度は怒られるかな。
 やっぱりお兄ちゃんの顔がそばにあると、ドキドキする。いままで感じもしなかったお兄ちゃんの手にもドキドキする。
 好きで好きで大好きで……。
 でもいまお兄ちゃんの頭の中は、車のことだけみたい。
 だから小鳥は溢れてしまう想いを、胸の奥に押し込める。
 
「さあ、行くぞ」
 久しぶりにMR2のハンドルを握った翔は嬉しそうだった。
 空港通りからフェリーが着岸する三津浜や高浜、観光港と港をなぞるように走る海岸線。走れば走るほどなにもない海岸沿いの道になる。
 カーブが続く夜の道は交通量もなく、走りたいドライバーにはもってこいのドライブポイント。
「うん、いいな。エンジンもチューンナップしておいたんだ」
 仕事場では涼やかな眼差しで硬い横顔を見せている翔。笑みもない冷徹な目で親父さんに意見する。なのにひとたび微笑むと、チャーミングな八重歯をのぞかせ、いつもは冷たく近寄りがたい眼差しが優しく緩む。その顔で『小鳥』と呼ばれることに、もう何年ドキドキしてきただろうか。いまも、こんなに、ドキドキしている。
 英児父の目の前で毅然とした口調で自分の考えを述べ、親父さんを説得していたあの姿。なのにハンドルを握ったら、始終笑みを浮かべて少年のように軽やかにアクセルを踏む。
 街灯も少ない海沿いの暗闇を、今夜もMR2は低空飛行で鋭く飛ぶ猛禽のよう。海の波の音を、高く唸るエンジンがかき消していく。
 その隣で、龍星轟のジャケットを羽織ったデニムパンツ姿の彼が、あの涼やかな眼差しに戻って夜道を見据え真っ直ぐに走っている。
 言葉をかけたくて、小鳥は躊躇う。やっぱり自分は子供なのかなと。
「大人しいな」
「え」
「どうした。いつもなら乗っている車の話をいっぱいしたがるのに。そうでなければ……。今日なら、伊賀上マスターの家であったこと、どんな話をおじいちゃんとしたのかすぐ俺に教えてくれそうなのに。初めてのアルコール体験が、大好きなおじいちゃんのカクテル、しかもオリジナルレシピの『リトルバード』。メールで先に知っていても、小鳥が嬉しそうに楽しそうに話してくれる時を、俺も楽しみにしていたんだけれどな」
 いつもの小鳥なら、彼の隣で良く喋る。それをお兄ちゃんが静かに聞いてくれる。嫌そうな顔などしないで、優しく頷いて相づちを打って、時々大人の言葉を挟み込んでくれる。
「昨夜。メールもちゃんと見た。返信できなくてごめんな。マコがNSXをぶつけたという連絡を、俺に一番にくれたもんだから、桜三里に向かっているところだったんだ」
「わかっている。朝、マコちゃんの怪我と事故を知って、だからお兄ちゃんは返信できなかったんだって判ったから」
「それなら、なにを拗ねているんだ」
 お兄ちゃんだって、いつもなにを考えているの。『俺の考えの邪魔』って……。
 それを言うことすら子供っぽいのかと、小鳥は沈黙を保った。
 MR2のエンジンがさらに高く鳴り響いた。
「俺みたいな男だと、女の子が考えていること……わかってあげられないのかもな。なんか、ずれていて、でも小鳥がそれを笑って何ともない顔で許してくれている気がする」
 思ってもいない言葉が彼から出てきて、小鳥は唖然とした。
「ずれているって? お兄ちゃんのどこがずれているの?」
 MR2の速度が少し落ち、エンジンの唸りも鎮まる。
 車の音で小鳥は感じ取った。もどかしくてアクセルを踏む、思い違いだったのかと知ってアクセルを緩める。もしかして、彼も……若い小鳥のことがわからなくて、もどかしく思っている?
「慣れていないから。女が喜びそうなことを先回りしてやるってことが、かえって空回りしている気がする。誕生日のケーキとか、誕生日のハジメテとか。あと……指輪な……」
 ハンドルを握っている彼の目線が、ふっと小鳥の手先に落ちてきた。
「俺、もしかして勘違いしている? なにもかも」
 えー。お兄ちゃんも、そんなふうに、どうして良いかわからなくて戸惑うことってあるの? 意外すぎて小鳥は言葉が出てこなくなる。
「小鳥ぐらいの女の子が、なにを喜んでくれるかわからないんだよ。ああ、違うか。女性全般、俺は鈍感すぎる。だから、その、頑張ってみると勘違いしているとか……さあ」
「ち、違うよ! 誕生日のケーキなんてお兄ちゃんは準備しないと思っていたから逆に嬉しかったよ。誕生日のハジメテだって、私もそのつもりだったし。でも……私が台無しにしちゃったんじゃない。指輪だって……ただ、ただ……」
 前方をみてひたすら海岸線を走っている翔の目つきが変わる。鋭く遠く、なにかを探しているような寂しい目に。
「指輪は、余計なお世話だったか。大人すぎたか。それとも……」
 気にしてくれていたんだ。でも贈った立場を考えればそうかもしれない。そのプレゼントの行方を気にしないはずがない。
「嬉しかったよ。すごく! でも……恥ずかしかったの……。龍星轟のみんなが、放っておかないと思って。父ちゃんにもなんて言えばいいかわからない。弟たちにだってからかわられる。べつにいいよ、からかわられても。でもそうすると翔兄だって、何か言われたり、父ちゃんにいままでとは違う目で見られるかもしれないでしょう」
 信号もない暗い車道を走っていたMR2が急に曲がって、海辺の路肩に駐車した。
 突然、車を停めた翔はエンジンを切ると、ハンドルにもたれ困ったように前髪をかき上げため息をついた。
「小鳥。カモメのキー、見せてくれないか」
 小鳥はドッキリとした。どうしてそんなことを言い出すのかと。つまりそれって、プレゼントの行く先が今はどこなのか知っているってこと?
「じゃあ。俺から見せようか」
 カモメのキーになにをしているかバレていたことに戸惑っている小鳥に致し方ない笑みを見せた翔が、自分のポケットからキーホルダーを取りだした。
「小鳥の真似をした」
 金属のシャランとした音を鳴らす鍵がいくつかぶら下がっている。それらを見て、小鳥は息を呑む。そして自分も慌ててカモメのキーホルダーをバッグから取りだし、同じようにお兄ちゃんの手元に並べた。
 ふたりのキーホルダーに、同じ部屋の鍵、そして銀色の『同じリング』が夜明かりにきらきら揺れている。
「え! これってお揃いだったの!?」
「そう。えっと……。これがいいと選んだら、ペアだったんだよ。ペアなのに片方だけだなんて、なんかヒビがはいるみたいで嫌だろ。だから俺の分も……」
「どうして、そう言ってくれなかったの!?」
 口元を曲げ、翔が肩を落とす。
「小鳥が指につけてきたら、俺もつけて、びっくりさせようかなと……。だけれど、指じゃなくて、キーについていると知ったのは今朝なんだけどな。でも、肌身離さず、俺の部屋の鍵と一緒に持っていてくれていると判って、嬉しかった」
「ご、ごめん……。ほんとうは指につけたいよ」
「いいんだよ。小鳥が家族や龍星轟の兄さん達に知られても大丈夫という気持ちになるまでとっておいてくれたら」
「大丈夫だよ。でも……お兄ちゃんが……」
 優しく微笑んでくれていたのに、その目元が凛々しい眼差しになり、真っ直ぐに小鳥をみつめてくれる。
「小鳥が俺のものになる。俺の傍にいて欲しい。そう願っていた時から、ずっと前にもう覚悟していたことだ。俺はもっと大丈夫」
 ずっと前? 小鳥は彼を見上げ、目を丸くした。私を欲しいとか、俺のものにしたいと、だいぶ前から思っていたと言ってくれたから。
「だから俺。今夜は一緒に走ろうと、親父さんの前で平気で誘っただろう」
「うん、そうだった。あれ、私、びっくりしちゃったんだから」
 あれが『俺はもっと大丈夫』という証明だったらしい。
「いや、やっぱり俺が馬鹿だった。これ貸してくれ」
 小鳥の手からそっと、彼がカモメのキーホルダーを取り去る。そこから翔は銀色のリングを外してしまう。
 そして小鳥の手を静かに取った。
 彼の熱い指先が、小鳥の指を爪先まで優しく伸ばす。
「あの晩、俺からこうして指につけてあげればよかったのに……。俺も、カノジョに指輪を贈るのは初めてで照れくさかったんだ」
 でも、小鳥は彼の心の奥に潜む本当の気持ちを感じ取っていた。指輪を贈ったのは初めてじゃないよね……。瞳子さんに慌ててプロポーズをした時も指輪を贈ったよね。でも、受け取ってもらえなかった。彼女が他の男性との人生を選んだ日。ほんとうはお兄ちゃんにとって『指輪』はトラウマ。受け取ってもらえるかどうか、緊張していたのかもしれない。なのに、それでも小鳥の二十歳の記念にと指輪を選んできてくれた。それとも、指輪を贈りきれなかった男がそれを受け取ってもらって初めて『男になれる』という気持ちもあったのではないかと――。
「私は嬉しかったよ。MR2で海までぶっ飛ばしたいと思ったけれど、やんちゃな走りをしないで帰るってお兄ちゃんと約束したから、我慢して帰ったぐらい」
「海までぶっ飛ばしたいって……。小鳥らしいな」
 やっと彼が声を立てて笑ってくれた。
「ごめんな。遅くなって。こうするべきだった。俺から小鳥に――」
 彼が小鳥の指先を優しく伸ばす。そこへ銀のリングを近づけた。
 その指が、左手の薬指――。その指を選んでくれた彼の気持ちを知って、小鳥はもう泣きたくなる。
 すっとその指に銀色のリングがはめられた。
 サイズもぴったり。どうやって小鳥のサイズを知ったのか。他の女の子より背丈がある小鳥は、なんでも少し大きめサイズなのに……。
「ああ、よかった。サイズも合っていた」
「どうやってわかったの?」
「店にあるサイズ見本のリングを触って、小鳥の指はこれだなって」
「すごーい! でも……それも嬉しい……」
 お兄ちゃんの指先が、私の指先の感触を記憶してくれているってことだよね――。ちゃんと小鳥の身体のことを感じ取ってれている証拠。
「龍星轟で恥ずかしいなら、外していても構わないからな」
 小鳥は首を振る。
「ううん。もう外さない。せっかく、翔兄がはめてくれたんだもん。ずっとこのままがいい」
 どうして良いかわからなかったのに。見られて何か言われたらどう対応すればいいか困惑していたのに。大好きな彼から指につけてもらったら、やっぱりもう外したくない。このまま堂々としていたい。彼の手から指につけてもらえただけで、こんなに強い気持ちになれるだなんて――。
「ありがとう、お兄ちゃん。大事にするね」
 と、彼の顔を見上げようとしたら、もうすぐそこに翔の顔が近づいていた。
「お、お兄ちゃん……」
 大きな手が助手席にいる小鳥の黒髪を撫でる。
「この前は小鳥からだった。今夜は俺から……」
 男らしい薄い唇が小鳥の頬の傍で囁く。長い指が小鳥の唇を確かめるように撫でた。
 小鳥はロケットのように彼にキスをする。でも……お兄ちゃんの彼は、ゆっくり、彼女の唇の形と柔らかさを指先で感じてから、キスをする。
 今夜は優しいキス。でも小鳥は彼をうんと愛したくて、胸が急く。それでも優しく静かに唇を愛してくれる彼に揃え、そっと大人しく彼の唇を吸った。
 熱く、濃密に、そしてゆっくりと舌先が絡み合う。
 お兄ちゃんからのキスは大人……。気持ちが溢れるまま突撃しちゃう女の子のキスみたいに騒がしくない。あれはあれで、情熱的で良かったけれど。
 とろとろの蜜をゆっくりとふたりで舐めあっている。翔兄の静かで熱いキスはそういうキス。
 何かに似ていると思った。そう、あれと一緒。おじいちゃんがつくってくれた、初めてのカクテルと一緒。とろっとした冷たいお酒なのに、口に含むと身体が熱くなる……。甘い苺なのに、大人の苦みもある。
 恋みたい。ほんとうに、似ている。どこにもないのに、苺の匂いが鼻先をかすめていく。
 キスもすっかり慣れて、小鳥からも彼の黒髪を指にすかして撫でた。熱い吐息が止まらない。
「小鳥、」
「しょ、翔にぃ・・」
 車の中なのに、彼の唇はあの日のベッドでそうだったように、小鳥のあちこちにキスを落とした。そしてその指先が小鳥が着ているチェックシャツのボタンを外し始める。
 彼の部屋でもない、彼のベッドでもない。でも小鳥も戸惑わない。その指先をどこまでも許した。シャツを開くと、薄いタンクトップになる。またそれを翔が静かにめくりあげてしまう。
 素肌に彼の大きな手、熱い手。小鳥の素肌を優しく這い、ランジェリーもそっとめくってしまう。
 海辺の薄い夜明かりに、小鳥の乳房が少しだけ顔を見せる。ぜんぶ晒さないところが、彼の優しさなのか。でも彼も男の望みを滾らせ、熱い指先は小鳥の赤い胸先を容赦なく抓んだ。
 片胸だけ衣服をめくりあげられ、そこからふっくらとした乳房、そして彼の指先がそこを欲しそうにさすっている。
 ピットでMR2を猫みたいに撫でていた彼の手を、小鳥は思い出していた。あの手、あの手ときっと一緒。私の身体も、彼は車を愛すように撫でてくれている。
 大事な車とおなじように、彼は愛でてくれている。そう思うと、身体の奥からどうにも止められない熱いものがこみあげてきた。溢れでてこぼれそうな感触……。
「嫌なら……」
「嫌じゃない」
 いつもの断りが来たので、小鳥は直ぐに遮った。カノジョの許しを得ると、もう彼は優しいお兄さんではなくなる。
 熱い舌先が赤く尖った蕾に絡められる。ぴくりと小鳥は小さく震える。泣きたくなるような切ない熱さが胸先にともる、そして熱く灼ける。
「あ、あん、お、おにいちゃん……」
「わ、わかってる。ここじゃ、駄目だって……駄目だと、俺だって……」
 小鳥を抱くのはここではない。ハジメテは車の中ではない。きちんとしたところで、ちゃんとじっくりゆっくり……抱くと決めている。まるで自分に言い聞かせるように、翔は息だけの声で呟いている。
 なのに、なのに。彼の手がついに小鳥のデニムパンツのボタンを外し、手際よくジッパーも降ろしてしまった。そこにすかさず大きな手が潜り込んできて、さすがに小鳥も驚きを隠せない。
 それでも小鳥ももう……。お兄ちゃんにキスをされながら、黒髪を愛おしそうに撫でられて、彼の目が小鳥の目だけを見つめてくれるから、そのまま許してしまう。
 そこに入ったなら、男の目的もひとつ。窮屈なのに、翔の指先がショーツの中へ。黒毛をかき分けて、そこで感じたものを知っても……。彼の黒い目は小鳥から離れない。小鳥も頬を熱くしたままその目を見つめ返すだけ。
「この前と違う」
 熱く濡れた彼の指が、ねっとりと黒毛の奥で滑っている。ゆっくりと絡めているものが、この前と違う。小鳥も感じていた。私……、この前より濡れていると。
「少しだけ、」
 そう囁いた翔の指先が躊躇いもなく、小鳥の奥へと滑り込んできた。あの日のように、男が小鳥の身体の中に熱く侵入してきた。
 小鳥は目をつむった。奥で突き立てられた痛みを思いだして……。
「あ、ああっん……や、翔、翔兄……」
 い、痛くない。
「今夜の小鳥は、ここが……ドキドキしているんだな」
 俺の指に、熱く脈打っている。男の吐息が熱く小鳥に降りかかる。彼の指が今夜は前よりも滑らかに蠢いている。その度に、小鳥の中が熱く灼けつく。
「だめ、翔兄……、お願い、ああん」
 彼のシャツを握りしめ、小鳥は彼の肩先に額を押さえつける。
 うそ、痛くない。まだ痛みがあるけど、この前と全然違う。いや、おかしくなる。私、もうこのまま、着ているシャツもデニムも、ショーツも全部脱ぎ去って、素肌のまま彼に抱きつきたい。彼の肌の匂いにしがみつきたい。
 そういう渇望がとろけきった眼差しに見て取れたのか、喘ぐ小鳥が堪らないとばかりに彼も黒い目を熱く揺らしている。
「翔兄、もっとキス、して」
 望んだとおりに、小鳥の小さな唇を翔は強く吸ってくれる。
 そして乳房の紅い蕾も同じように強く口に熱く含んで愛撫してくれる。下では濡れそぼった男の指がゆっくりと愛してくれている。
 身体中、望んだ男に愛されるって――こういうこと。中も、愛されるって……。
「痛くないよ……、翔兄……、すごくいい」
 彼の首にきつく抱きついて、小鳥は喘いでいた。子供のはずなのに……、こんなに、感じている、私。だんだん身体がほどけていく、甘く熱く。
「俺の部屋に行こう。ここは駄目だ」
「うん。行く、お兄ちゃんのところに行く」
 今夜こそ、彼の女になれる。この前とは違う。身体が、いやらしいほどに彼を望んでいるのがわかる。指じゃない、彼ので貫いて欲しいって。
 絡んだ腕と腕をなかなかほどくことができない。一度熱くなった身体と身体は離れがたい。小鳥だけじゃない、彼も駄目だと言いながら、小鳥の中から指を抜いてくれない。
 お互いが深く深く抱き合うってこんなことなんだと――。彼と唇を深く愛しあいながら小鳥はその熱さに理性を奪われ、とろけていきそうだった。
「さあ、行こう」
「うん」
 やっと唇と唇が離れ、彼の指も小鳥の中から去っていく。額と額、鼻先と鼻先を擦りあわせて、囁きあう。
 はだけた胸元も彼が優しく直してくれる。最後にもう一度キスを――と、ふたりで唇を近づける……。
 ギュウンとMR2の側をかすめるように走り去っていくエンジン音。悲しい性、激しいエンジン音を耳にすると、キスもどこへやら。二人揃ってそちらへと目線が奪われてしまう。
 だが翔と小鳥は共に顔色を変えた。走り去った車がひとつ向こうの海岸線のカーブを曲がっていくところ。赤いテールランプに、大きな白いウィング……。
「お兄ちゃん、あれランエボ……だよね」
「白のランエボだ。小鳥が見たヤツなのか」
「うん。ばかでかいウィングだったから覚えている!」
 揃ってシートに身を沈める。急いでシートベルトを締めると、翔はすかさずエンジンをかけた。
「しっかり掴まっていろ!」
「わかった!」
 タイヤを鳴らし、MR2も車道へと急発進する。
「くそ。こっちの海岸線も流していたか」
 MR2のエンジンが激しく唸る。暗い海岸線、ランエボが消えたカーブを曲がった時、翔が急ブレーキを踏んだ。
 前につんのめりながら、小鳥も見た。白のランエボが方向転換をして、こちらに戻ってくる。向かってくる。
「お兄ちゃん、アイツ、エンゼルをまた狙っている」
「わかっている……」
 そして翔もそこに停車させたまま、じっと向こうの動向を窺っている。
 だけれどアイツはこちらに戻ってくる。
 小鳥は運転席にいる翔を見上げる。先程まで彼もとろけたような甘い眼差しをしていたのに。いまはもう、いつも龍星轟で見せている涼やかな目でアイツを真っ直ぐ見据えている。
 怒りも秘めているだろうに、それをそっと抑え込むようにしてじっとしている。獲物をしとめる本物の狩りは、こうして息を潜め、静かにするものだ。彼を見ているとそう思う。
「来るぞ……」
 ランエボのエンジン音が近づいてきた。もうひとつ前の海岸カーブを曲がったら、アイツの姿が見えるはず。
 そのカーブがぴかりと輝くと、白いランサーエボリューションがスピードを上げて反対車線を飛ばす姿が見えた。
 翔が再びギアを握り、アクセルを踏んだ。
 MR2に気がついて戻ってきたランサーエボリューション。わざわざ戻ってきたランエボに突っ込まれるだろうとわかっていても真っ正面向かっていく翔兄。
 白い車と青い車がもう目の前――。
「お、お兄ちゃん――!」
 やっぱり、アイツは卑怯。反対車線にいながら、こちらのMR2へとハンドルを切って突っ込んでくる。
 矢野じいが言ったとおり。アイツはキチガイ! 自分の車だってただじゃ終わらないだろうに、まるでランエボを生け贄にするかのように乱暴に突っ込んでくる。
「この野郎。二度も、二度と、エンゼルを壊されてたまるか」
 翔がハンドルを大きく切る。クラッチからアクセルへと長い足が激しく動き、ハンドルも忙しく回す。車のリア(後部)が大きく滑った。
 小鳥の額に汗が滲む。ランエボと差し違える寸前、この古くて狭い海岸線、リアが振れたら後ろの防波堤にこすれる――、またエンゼルが――。だがやはり彼は乗り慣れている男。すれすれにかすめ、エンゼルをドリフトで反転させランエボをかわしきった。
 すごい、やっぱりお兄ちゃんはすごい! 私だったら、いまのぶつけている!
 MR2にかわされたランサーエボリューションも、翔がかすめた海側の防波堤すれすれで停車した。
「いくぞ、小鳥。コイツを親父さんのところまでひっぱっていく」
 すかさず翔がアクセルを踏む。ランサーエボリューションがいなくなった反対車線へと発進させた。
 エンジン音を高く夜空に響かせるMR2。その後ろからまた激しいエンジン音。白いランサーエボリューションが猛スピードで追ってくる。
「父ちゃんに報せるよ」
「ダム湖に誘う。街中で後ろを取られたら、追突される。信号機が少ない道を選ぶと伝えてくれ」
「うん!」
 すぐにスマートフォンを取りだし、小鳥は助手席で英児父の携帯電話の番号を押す。
 ――どうした。小鳥。
「父ちゃん。アイツ、勝岡に現れた。それに、またMR2に突っ込んでこようとしたよ! いま翔兄がダム湖に誘い込んでいる!」
『わかった。俺達も嫌な予感がしてお前達の帰りを待っていたところだ。今から向かう。無茶するなよ』
 小鳥が返事をする前に、父が電話を切ってしまった。
「父ちゃん達もダム湖に来るって」
「わかった」
 とても落ち着いた冷めた声。もう先ほど、優しい眼差しで熱い息で小鳥を求めてくれたお兄ちゃんではない。
 でも、小鳥はドキドキときめいていた。やっぱりお兄ちゃんの運転はすごかった。手放したMR2なのに、今でも変わらず自分の手足のように操って……。MR2と今でも以心伝心、一心同体。それほどに乗り込んだ愛した、この車は彼の恋人だったんだ。そう思う。
 彼は車をそうして愛せる人。私も、そんなふうに愛されたいよ。通じあう恋人になりたいよ。

 

 

 

 

Update/2013.10.15
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