◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-13 龍の子は、小鳥じゃない。 

 

 顧客の車を煽って自損を誘い、小鳥の愛車であるMR2に正面衝突、龍星轟従業員、慎(マコト)のNSXにも体当たり。そこまでの奇行を重ねてきた白いランサーエボリューションXが、黒い龍と言われている英児父のスカイラインに遭遇すると恐れおののいて逃げていこうとしている。
「今度は俺が絶対に逃がさない」
 それは全て『知り合いだった翔が原因』だったと判り、彼の目が冷たくも燃えている。
 小鳥は黙って、彼の隣にいる。気持ちだけ寄り添い、彼と一緒にここにいる。
 足早に逃げていこうとしたランサーエボリューションの背後を捕らえた。
 もうすぐ頂上、ダム湖の駐車場。カーブはあとひとつ。
 MR2のエンジン音がひときわ高く唸ると、ついに翔が反対車線に出る。さらにスピードをあげ、ぐんぐんと白いランエボに追いつき横に並ぼうとしている。
「こちらエンゼル。対向車線は大丈夫?」
 小鳥は静かに補佐を務める。
『大丈夫だよ、小鳥。通過した車はいまのところナシ。タキさんもいま到着した。ここでみんなで待っている。何かあっても俺達もいるよ』
 いつもの明るい武ちゃんの声が聞こえ、幾分かほっとした。
 ついにエンゼルとランサーエボリューションが直線上りコースで横並びになる。
 最後のカーブはエンゼルがアウトコース。インコースのランエボがスピードを落とす様子もなく、内回りのカーブを抜こうとしている。
 翔がアクセルを強く踏む。……小鳥の足も何故か同じように踏み込んでいる、助手席で。
 そう、ここ。ここで踏んで……、そう、並んだら……! 自分がハンドルを握っていたらこうする! 小鳥が思う運転を、翔もシンクロするようにやってくれている。
 私たち、やっぱりひとつなんだ。
 この二年、ほんとうに沢山の夜を車を通して過ごしてきた。
 彼の愛車が、いまは私の愛車。そしていま、そんな彼とその車に乗って。夜空の下、こんな嫌なこともあるけれど、でも、ふたりで向こうに行こうって……。行こうって……。そんな気持ちもきっと一緒なんだと小鳥は思う。
 小鳥の胸が熱くなるように、MR2のエンジンも最高潮に熱され、ここいちばんの唸り声をあげる。
 内回りを一足先に抜けていこうとするランエボの先端、大回りのカーブをぶっちぎるMR2が捕らえる。
 ――並んだ! けっこうなスピード。だけれどハンドルを握っている翔の目線も、ハンドルを回す手と腕もぶれていない。アクセルを踏む長い足にも躊躇いがない。このカーブは、この角度の目線、この数値のスピード、この回転率。精密に計算をはじき出すロボットのような顔と姿。
 ここ一瞬で冴えわたる翔の運転。また小鳥はドキドキしていた。これが翔兄の素敵な姿。父ちゃんが動物みたいな勘でだけでビシバシとかっとばしていくのも、どこかにあっという間にさらわれるようでドキドキしてたまらなくなる。でも翔は父とは正反対。状況に合わせた理知的で緻密な判断で寸分違いなく打ち出された操縦をする。そこにはすごいという感動がある。
 小鳥のハートも、エンゼルのエンジンもヒートアップさせても、翔は冷ややかに静か。その目線が捕らえたとおりに、ついにエンゼルがランサーエボリューションをカーブの終点で抜いた!
 もう頂上が目の前。白のランエボを振り切ったMR2はすぐさま車線変更、ランサーエボリューションの目の前へと滑り込み前走位置を勝ち取った。
 有利なカーブ接戦にも負け、前を抜かれ先導まで獲られたランエボが怒り狂ったようにMR2の背後に食らいついてくる。
 そこで翔が強く小鳥に言った。
「小鳥。イチかバチか危ない賭けをする。でも……俺を信じてくれるか」
 それが何か判らない。でも迷いなんてない!
「信じるよ。私、今夜も翔兄の隣にいる!」
「最後だ。荒っぽいことをする。掴まっていろ」
 頷き、小鳥はウィンドウ上にあるバーに掴まる。真後ろにランエボがひっついてくる。だが翔はさらにスピードを上げた。もうこの峠道では限界の……。だが、ぐんぐんとランエボを引き離し始める。それでも車二台分ぐらいの車間距離しか引き離せない。向こうもアクセルを踏みこんで必死に追ってきている。
 頂上が見えてきた。
「あそこでキメる」
 翔の目線が峠のてっぺん、ダム湖駐車場入り口へと固定された。
 ――ダム湖駐車場に追い込む。 彼がそう言っていたことを思い出した小鳥は、翔がそこでなにをするかもう感じ取っていた。
 てっぺんが来た。小鳥の腕も足もうずうずして動きそう。そうそこでブレーキ踏んで、ハンドルを回して――! MR2のリアがまた滑る。夜の峠道、ど真ん中の車線、そこでMR2がくるっと回って停車した。
 身体を右へ左へと大きく揺れた小鳥の身体もぴたりと止まる。顔を上げると、息を切らしている翔が車を停車させた状態で、でも、また次の発進に備えてギアを握り直している。
 峠道のど真ん中。どちらの車線も塞ぐように、エンゼルが横になって道路を遮断している。どちらの道も通さない。ランエボを逃さないための体制を、ランエボを先に振り切った翔が先手を打って整えていた。
 先手の体制を整えたのも一瞬、すぐにランエボのライトがもう目の前。このまま突進されると、翔の運転席に激突する。
 そして小鳥はさらに気がついた。道を塞ぐためだけじゃない。お兄ちゃんは、彼がそう願っているから、彼の望み通りに自分を差し出しているんだって……。
 それはとても危険な賭け。小鳥は、やめて――と叫びそうになったが、すぐに噛み殺した。
 これだったのだ。荒っぽいことをする。危ない賭けをする。でも俺を信じて、俺の隣にいても大丈夫かと。危ない自分の考えのその隣で、小鳥のことも危険にさらしてしまう。
『小鳥! ドアを開けて降りろ!』
 耳に付けている無線から、武ちゃんの声。でも小鳥は声で返答はせずそっと首を振り、耳からインカムを取り去る。
 私、ここにいる。彼の隣にいる。武ちゃん、父ちゃん、ごめんね。
「来い、これが望みだったんだろ。俺もエンゼルも、ぶっつぶせるもんならやってみろ」
 決して荒ぶるような声を張り上げない。でも低く震える声には、彼の秘めに秘めた怒りが込められている。
 小鳥はまた彼の手にそっと触れる。ぎゅっと握った。もう集中している彼は、さっきみたいに優しく重ね返してはくれなくても……。
「来い、来いよ――」
 望みどおりに白のランサーエボリューションも迷いなく停車しているMR2へと突進してくる。
 でも小鳥は翔の眼を見て察していた。お兄ちゃんは、最後の最後、あのランエボが衝突なんかしないで回避してくれることを信じているんだって……。だから小鳥もそれを信じる。私たちは潰されない。ランエボは、お兄ちゃんの昔の知り合いは、きっときっと。
 近づいてくる豪快なエンジン音。向こうの運転手の顔も見えた。すごい形相でこちらをまっすぐに見据えている。執念深い目、小鳥はさすがにゾッとする。それが翔に向けられている――。その恐ろしい念はランエボのエンジンに乗せてこちらへと突進してくる。
 ほんとうに、ほんとうに、衝突するの? されるの? そんなことしてどうなるの? 
 彼がなにかで怒り狂っていることはわかった。だからって、だからって、憎い相手が好きな車を使って、その車を狙って、本人まで狙って。ここまでのことができるなら、どうして翔兄自身に飛びかかってこないの?
「俺が賭に負けたなら――。オマエだってお終いだ」
 ランエボのフロントがMR2へと接触……する……! 小鳥の視界に、あの夜が蘇る。エンゼルに真っ正面からぶつかってこようとしたランエボ。さっき、海辺で翔がいる運転席に突っ込んでこようとハンドルを切ったランエボ。だけどもう彼はハンドルは切らない。翔が差し出すままそのままに、今度は白い車がまっすぐに突っ込んで……くる!
 ふっ、と。白いバンパーが弧を描いてすり抜けたのが一瞬見えた。
 瞬間、MR2が急発進をする! 小鳥の後ろ頭がシートに強く押し付けられるほどの。
 タイヤをキュルキュルと鳴らすエンゼルがまた激しいエンジン音を響かせ、力強く前進している。
 エンゼルの真横に真っ白いランサーエボリューションが並んでいる。二台がぴったりと並んで、ついにダム湖駐車場になだれこんでいた。
 つまり……? 一瞬の出来事。あの白のランエボはすんでのところで、結局、エンゼルを避けたのだ。
 そしていま、二台はぴたりと並んでダム湖の駐車場をまっすぐ突き進んでいる。今度、小鳥の目の前に飛び込んだのは、ダム湖落下止めのコンクリート。この前、小鳥がエンゼルの後部をぶつけたあのコンクリート。
 そこへ翔のMR2とランエボXが競い合うように突進している。
 まるで周りが見えていないかのような二台の異様な張り合いに、小鳥は気がつく。
 いつのまにか、お兄ちゃんとランエボが、『正面衝突のチキンレース』をしているんだって――。
 ブレーキを早く踏んだ方が負け。ぶつかっても負け。
 もうコンクリートが目の前! 小鳥ならここでブレーキを踏む!
 どうするの、翔兄! 運転席でいつもの落ち着いた横顔を見せている翔が、こんな時なのに小鳥をちらりと見た。
「小鳥」
 そう言いながら、彼がブレーキを踏んだ。
 急なブレーキにまた小鳥の身体が大きく揺れる。だけれど、やっぱり翔兄! これまた計算され尽くしたようにして、コンクリート目の前でピタリと停まった!
 隣のランエボは――!? そう思った瞬間、ガシャリと鈍い音が耳に飛び込んだ。
「あっ――」
 勝利の計算は……、翔が勝っていた。
 白いランサーエボリューションが前方ボンネットを僅かに曲げている。翔より遅くブレーキを踏んで勝とうとした結果、計算違いで負けたのはランエボの方。
「瀬戸田……!」
 ひと息ついている小鳥とは別に、翔はもう次の行動にうつっていた。手早くシートベルトを外すと、心配そうな顔で運転席を下りていってしまった。
 ――瀬戸田、大丈夫か。
 あんなヤツなのに。少し前がへこんだだけなのに。それでも急いでランエボの運転席へと駆けていく。
 少し呆れながら小鳥も急いで助手席から降りた。
 駐車場の真ん中には、黒いスカイラインと赤いCR−Xが並んでいる。そこから英児父と武ちゃんがこちらに向かってくる姿も見えた。
 小鳥、大丈夫か! 父の声が届き、小鳥は大丈夫と手を振った。その姿にホッとした顔、そして娘へと英児父が駆けてくる姿に小鳥もなんだか急に泣きたい気持ちになってくる。
「――んのやろうっ!」
「やめろ、瀬戸田! 放せっ」
 安堵も束の間、翔がランエボの運転席から飛び出してきたネクタイの男に胸ぐらを掴まれ、白い車体に押し付けられている。
「翔兄――」
 小鳥も駆けつけるが、翔より背丈があるワイシャツ姿の男が高々と拳を振り上げている。
 やめて! その男の背に飛びつこうとしたが、硬い拳が翔の顔面へと振り落とされる。
 イヤ! 目をつむったが、ガンとルーフに激しくぶつかっただけの音。目を開けると、翔は顔を背け僅かに難を逃れている。その代わりにこちらも形相が変わった。
 今度は翔がランエボの男の胸ぐらを掴みあげていた。
「なぜ俺じゃなくて、俺が乗っていない車を狙ったんだ!」
 男の顔が息苦しそうに歪む。翔もそれだけ手加減をしてないということ。
 男も手加減なし、翔の首元に掴みかかったまま、おなじように締め上げている。そしてその問いに決して答などしない。
 だが翔が言ったひとことで男の顔が変貌する。
「瞳子か。いつ帰ってきた。瞳子に会ったのか」
 瞳子さん? 突然出てきたその名に、小鳥は呆然とする。
 翔兄の学生時代の知り合い、サークル関係、そして瞳子さん。これだけ揃ったら小鳥でも気がつく。ランエボの男は、横恋慕をしていたのだと。
 瞳子の名が出るとその男の様子が激変した。お互いに首元を締め付けて、一歩も譲らない男同士。歪む男が翔にやっと叫ぶ。
「オマエのせいで、オマエのせいで! 瞳子先輩が不幸になったんだ!」
 翔も怯まなず即座に言い返す。
「瀬戸田にはまったく関係がないことだろっ。それに瞳子は自分から望んで結婚したんだ」
 みるみる間に男の顔が真っ赤になった。怒る人間が赤くなるってほんとうなんだと、その男の怒りがいかほどか目の当たりにした小鳥も絶句して動けない。
 そしてそんな怒れる人間の底力もハンパじゃない。対等にみえた男同士の力に差が生まれる。
「ぐっ……、せ、瀬戸田……」
 今度は翔の顔が激しく歪む。息苦しそうで、ランエボの男が本気で首を絞めにかかっている! 
「違うだろ。望まない結婚を望んだんだろが! オマエがいつまでも車にばかりうつつを抜かしているから、仕方なく他の男と結婚したんだろうが!」
 体格がよい瀬戸田という男が狂ったように翔を締め上げ、その襟元を激しく揺する。
 それでも翔は息絶え絶えに言い返す。
「だ、だから……。あ、愛想を……尽かされたんだ……よ。ト、トウコは……、自分が、望む条件の……男と・・結婚したんだっ」
 男の目がカッと雷神のように見開く。
「違うだろ、違うだろ!! 転属になって久しぶりにこっちに帰ってきたら、瞳子先輩はいつも赤ん坊を抱いて、ちかくの公園で泣いてばかりいる。あれのどこが望んだ結婚なんだ!! オマエがしっかりしていないかったから、ああなったんだろうが!!」
 ほんとうにガンガンと翔の頭がルーフに打ち付けられている。力で劣勢になった翔の真上にまた拳が振りかざされ、小鳥は叫ぶ。
「やめて!」
 男同士の決着。だから邪魔をしちゃいけない。父親が言ったとおりに大人の顔をして我慢をしていたが、もうダメ。小鳥は飛び出し、翔より背が高いワイシャツ男の身体へと飛びかかり、振りかざされた腕を止めようとする。
 殴らないで。お兄ちゃんを殴らないで――! 
 男と翔の間に飛び込んだ小鳥は、その一心で男の腕を、腕を止めようと……。男の拳が目の前にあった。厳つい拳骨が小鳥の両目に向かって飛び込んでくる!
 その時なんて、ほんとうに一瞬。小鳥の頬は真横に跳ねとばされ、身体は白いランエボの車体に叩きつけられた。
 小鳥――! 翔の声。
「うっ、うっ」
 翔兄……。翔兄……。
 そう呟いているつもりだったのに、声がでなくなっている。そして僅かに動いた口の中、変な味がする。口の中が切れている――。殴られて、切れたのだと知った。
「小鳥、小鳥、ど、どうして――」
 すぐに彼の大きな手が、小鳥の顔を包み込んでくれている。
 熱い彼の手を感じ、目が霞みそうなほどの痛みのなか、小鳥はやっと目を開ける。
 青ざめた翔兄の顔、小鳥の顔をすごく慌てた顔で殴られた頬を確かめようとしている、その真上――、小鳥はまた悪魔の形相に気がついてしまう。
「お、おにいちゃん、うしろ……っ」
 小鳥を案じて男同士の諍いに背を向け隙だらけになった翔の肩を、瀬戸田が鷲づかみにし再び襲いかかってくる。ど真ん中に女という邪魔が転がり込んでその女に危害を加えてしまおうがなんだろうが、標的『桧垣 翔』しか見えていないロボットのように拳骨を振り上げている。
 肩越しに振り返った翔がそれに気がついた。振り落とされる拳骨、もう間に合わない。
 そんな翔がしたことは、その大きな胸の中に小鳥を隠すように抱きしめ、瀬戸田に無抵抗に背中を向けたこと――。
「や、だっ。お兄ちゃん、危ないっ」
 それでも小鳥の身体を包み込んで、ランエボの車体に押し付けて小鳥をその囲いから出そうとしない。
 そのうちに『うっ』という彼の呻き声が小鳥の耳の側で何度か響いた。
 拳だけじゃない。翔の身体が何度か小鳥の身体に強く押し付けられた。背が高いお兄ちゃんの胸の中にいて何が起きているかわからない。でも、小鳥は気がついた。蹴られている。お兄ちゃんが無抵抗になって背中を蹴られているんだ――と。
「やだ、翔兄、どいて! 離して、わたし、大丈夫だからっ」
 小鳥をぎゅっと抱きしめて離してくれない翔の呻き声から微かに聞こえた言葉……。
「バカ、なにやってるんだ、このやんちゃ娘……。だから、だから、心配で、これからは、俺が、小鳥をちゃんと、う……うっ」
 ランエボの男が『おまえのせいだ。おまえの女も酷い目に遭ってとうぜんだ。トウコさんを泣かせたバツだ』と狂ったように叫んでいて、大好きなお兄ちゃんを蹴って蹴って傷つけている。
 でも狂った男の怒声なんて、もう聞こえないほど……。小鳥は自分を守ってくれる翔をそのまま抱き返した。
 次に小鳥の中に沸いてきたのは、とてつもない怒り! 
 コイツ、やっぱキチガイ。ひどいよ。もの凄く腹が立つ。なんなのよ、あんたが何台もの車に迷惑をかけた理由って、つまり色恋沙汰だったわけ? それってお兄ちゃんをおびきよせるためにやっていたわけ? それだけのことで、幾人もの関係のないドライバーを巻き込んだわけ? 好きでもないランエボを使ってそれだけのことをやったわけ? 許せない!!
 そんなヤツにお兄ちゃんがいいように傷つけられるだなんて、私が許さない!
 翔を突き飛ばして、彼が自分のために無抵抗になる体制を変えようとした、その時。小鳥の目の前から、瀬戸田という悪魔がふっと消え去った。瞬く間に……。
 え……、なにがおきたの?
 やっと翔を突き放し広がった視界にみえたものに、小鳥は唖然とする。
 そこにはさらに恐ろしい形相の男が瀬戸田を掴み上げ、誰もなにもいえないうちに、ガツンとぶっ飛ばしている姿が――。
「と、父ちゃん――」
 翔と小鳥の目の前に、龍星轟のジャケットを羽織った大きな背中が立ちはだかっていた。
「こんのあほんだら! いいかげんにせーやっ」
 ワイシャツの男が英児父の鉄拳にぶっとばされ、アスファルトに崩れ落ちる。頬を押さえ、殴りかかってきた相手をすぐに睨み返した。
「……殴ったな。訴えてもいいんだぞ!」
 そっちだって殴ったじゃない! 私と、翔兄を――! 飛び出そうとしたら、また翔に抱き返され押さえられた。小さな小鳥がなにをするかもうわかりきって止めたとわかって、ひとまず小鳥も荒れた気持ちを収める。
「おう。殴ったわ。俺は言い訳なんかしねえ。殴ったことに関して訴えるというなら、訴えてもいいぞ。弁護士でも警官でも親父でもおふくろさんでも、なんでもつれてこいや。正々堂々とやりあおうじゃねえか」
 うちの父ちゃん、元ヤンだったわりには、けっこうまともなこと言うな。ふとそう思った小鳥はちょっと納得できない。こんな男、弁護士だなんだとかいわないで、このまま警察に突き出しちゃえばいいじゃん! そういう腹立たしさがまた盛り上がる。もう父ちゃん、そんな生易しい回りくどいことしないでさーーっ、と、また翔の腕から飛び出そうとしたその時。小鳥は父の肩越しに見えた顔にゾッとさせられる。
 うちの父ちゃんのその顔。幼い頃から幾度か見てきたことがある、ほんとうにほんとうに『ヤバイ時の顔』。その男が『手を下す』と判断したら、どの男もその男の口から噴き出した業火に焼かれて叩きのめされるという。龍に変化した時の顔――。
 アスファルトに腰を落とした瀬戸田が、さすがに縮み上がっているのが見て取れた。元ヤンの龍とよばれる男がマジギレしたら、たったひと吠えでその恐怖を味わう。それを物語っている姿だった。
「そっちの素性もわかったし、こっちは顧客が迷惑かけられたんで被害届を出す。それについてなにか意見があるなら、三日の間に店に来い。来なかった場合は顧客と被害届を警察に出す。俺の用事はそれだけだ」
 ほんとうにそれだけしか言わず、それ以上のいままでの怒りを爆発させることはなかった。
 でも小鳥はそんな父親の背中に、無言でも密かに淡く揺れ動いている青い炎を見た気がした。
 くだらねえ。若いてめえらの、惚れた腫れただけのことで、どんだけの無関係の車を巻き込んで迷惑をかけやがったんだ――。小鳥と同じ怒りを携え、でも、ここでひと思いに感情任せに解決しようとしない。その気持ちはあれど、きちんと収める方法が先にある。まずはそれを踏まえてからだ――。そう言っているように聞こえた。
 英児父はたったそれだけを告げると、翔と小鳥へと振り返る。そして小鳥と目が合う。あんなにヤバイほど怖い顔をしていたのに、親父さんが泣きそうな顔で小鳥を見ている。
「おまえ、ほんとうにどうしようもねえ娘だわ」
 そういうと、翔の胸の中に抱きしめられているのに、大きな手を差し伸べて殴られた頬をつつんでくれる。
「あほか。琴子になんて言えばいいんだ。マジで。おまえ、俺の、龍の子かもしんねえから『龍子』て名前にすれば良かったなんて野郎共に何度も言われたけどよ、そんな逞しい願いを込めた名前にしなくてよかったわ。おまえは、かよわい小鳥ぐらいでちょうどいい」
 それでもどうしてこんなことをしでかすかな。小鳥の顔を撫でて撫でて、龍の父ちゃんが泣きそうな声。
「帰るか、父ちゃんと」
 その問いに、小鳥は戸惑った。
 翔もちょっと困った顔をしている。
 そう小鳥はいま、彼と一緒にいたい。そして彼も……?
「翔兄に聞きたいことがあるから、まだ帰れない」
 そう言うと、英児父が怒るか驚くかと思ったけれど、なにもかもわかりきった顔で頷いてくれたから、小鳥のほうが驚いた。
「翔、頼むわ」
「はい」
 目の前からも離れていく。少し離れたところから見守っている龍星轟の仲間とスカイラインのところへと去っていく。
 『警察に被害届』。その言葉でやっと我に返ったのか、地面に瀬戸田という男が泣き崩れた。
 叶わなかった恋、まだ消えない恋心。残った思慕を揺り動かされ、思わぬ姿に化けてしまった恋心。瀬戸田という男がしたことは許せないが、片想いが長かった小鳥はどうしてか一緒に泣きたくなった。
 それがどうして、瞳子さんを自分が幸せにしたいんだという気持ちにならなかったのか、それが哀しかった。
「行こう。小鳥」
 そして翔も。いまはそんな男とどうこうやりあうよりも、小鳥を抱きしめてくれた。
 抱きしめられた彼の胸の向こうに、スカイラインに乗ろうとしている英児父の姿が見えた。
 運転席のドアを開け、長い足をかけてシートに座ろうとしているその時、こちらをちらりと確かめたのが見えた。
 小鳥を置いていきたくない、そんな顔? でも武ちゃんになにか話しかけられると、ばたりとドアを閉めてしまう。
 黒のスカイライン、赤いCR−X、そしてノブの青いインプレッサが揃ってダム湖の駐車場を静かに出て行った。
「瀬戸田。俺も店で待っている」
 翔がそう話しかけても、彼はもううずくまったままなにも言い返してこない。
 ボンネットが僅かに曲がった白いランサーエボリューションと彼を置いて、小鳥と翔もMR2に乗り込んでダム湖を後にした。
 
 帰り道。ふたりは無言だった。
 小鳥も聞きたいことはいっぱいあって、それを聞かなければ帰ることなんてできない。
 そして翔も、黙っているけれど、なにかを話したそうにはしている。
 でもふたりは無言のままだった。

 

 

 

 

Update/2013.12.3
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