◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-14 姫様、いらっしゃい。

 

 無言のまま翔が小鳥を連れ帰ったのは、港町近くのマンション自宅だった。
 リビングに入ると、渋いブラウンの小さなソファーに座らされる。
「湿布を貼ってやるから、そこで休んでいろよ」
 言われたとおりにちょこんと座って、小鳥は何も言わずに待っていた。
 
 とても静かだった。
 
 この部屋にはまだ数回しか来ていないのに、それでもホッとした。
 初めて来た時から、この部屋は翔兄らしい趣味で整っていた。なのに、今日もあのベッドルームから優しい甘い匂いがする。
 その匂いが、初めての時から不思議に感じていた。部屋はどこもかしこも独身男性らしい趣味で揃えられているのに、なんであそこだけ甘い匂いがするのだろう。そしてその匂いはとてもホッとする。でも、今思えばとてつもない違和感がある。
 ―― オマエが瞳子先輩を不幸にしたんだ。
 急に、瀬戸田という男の怒り狂った声が蘇る。口の中のしょっぱい血の味も相まって、心もズキズキ痛み始める。
 この部屋は、あの大人の女性が長く通ってきた場所。この前も、平気で翔兄のベッドルームに入って泣き崩れていた。そして小鳥は、こんな時になってやっと思いつく。そうか、あの部屋で二人は長く愛しあってきたんだと。そしてあの甘い香りは、彼女の置きみやげってわけ?
 きっとこれからも。大好きなお兄ちゃんに一生彼女という女性は刻まれたままで、時々こうやって顔を出して翔と小鳥の間を堂々と通っていくのだろうか。八年も、八年も……。小鳥の片想いの年月と同じぐらい長く、二人は愛しあってきたのだから……。
 長く恋人同士だったのに別れてしまって、なのに彼女はあまり良い結婚ができなかったようだ。翔兄と結婚すれば、いまからでも幸せになれるの? 翔兄だって、八年も愛したんだもん。まだ少しはやり直せる気持ちだってあるかもしれない。この部屋に彼女の匂いが残っているように?
「小鳥……。どうしたんだ」
 小さな薬箱を持ってきた翔兄が、小鳥を見下ろしている。
 彼がそっとソファーに跪いた。そして頬が赤くなっている小鳥に触れ、覗き込んでいる。その指先が濡れた。そう小鳥は今になって涙を蕩々と流していた。
 小鳥はそっと顔を背けた。
「小鳥……。ありがとうな。でもな、俺のためにああいう無茶はもう二度としないでくれ」
 そのまま小鳥は唇を噛みしめ、黙り込んでしまう。
「ほら。顔を上げろよ。湿布、貼ってやるから」
「いいよ。自分で貼るよっ」
 彼の手をはね除けてしまう。急に、聞き分けのない小さな女の子のようになった小鳥を見て、翔は戸惑っていた。
 だけど、すぐに。彼は致し方ないため息をつきながら、大人の毅然とした眼で小鳥を見つめ返している。
「瞳子のことだろ。ほんとうに、俺の人間関係に小鳥や店のみんなを巻き込んでしまって面目なく思っている」
 彼がやっと小鳥の隣に腰をかけた。しかも、ぴったりと寄り添ってきて、小鳥を男の胸へと抱き寄せてくれる。
「瀬戸田という男は、俺と瞳子が入っていた映画サークルに一時いた男だよ。あんなに怒るほど、そう……瞳子を好きだったんだよ、アイツは」
 小鳥が知らない、子供の頃の、お兄ちゃん達の昔話が始まった。
「まだ若かったからアイツもストレートに瞳子にアプローチしていたんだよ。でも瞳子はそういう真っ直ぐな熱心さを嫌がったんだ。あの年頃の女の子は、大人の男のスマートさに憧れるだろう。その欠けらもないと、若かった瀬戸田の真っ直ぐさを恐れていたんだ。既に俺とも付き合っていたから余計に。ほんとうの瀬戸田は成績優秀な後輩で、大阪の大きな商社に就職も決まってけっこう活躍していると卒業後も噂で聞いていた。それこそ、瞳子が望んでいた一流企業のエリートコースの男になって。だからかもしれない。アイツ、自信をつけて瞳子に会いに行ったんだろ。そこで今の状態の瞳子を見てしまったんだな、きっと……」
 そこで翔はため息をついた。不器用な男が招いた、行きすぎた恋心だと。だけど小鳥にも思うところがある。
「あの男の人が瞳子さんに会いに行った気持ち、わかるような気がする。片想いって痛くて苦しいもん。好きで好きで堪らなかったなら、ふられたってきっと忘れないよ。一度諦めることが出来て、長く忘れている時期があっても、抑えられないほどうんと好きだったなら、その気持ちはずうっと心の奥底に刻まれたままだと思う。彼は久しぶりに瞳子さんを見て、思い出しちゃったんだよ。それで悔しくなっちゃったんだよ」
 どうして? 翔兄を傷つけた男の味方になっているんだろう? 小鳥は自分で自分を殴りたくなった。
 でも……。お兄ちゃんはそんな小鳥を慈しむように見つめているだけ。
 大人だから? なにもかもわかった眼で、小さな女の子がいうことをわかりきったようにただ聞き流しているだけ?
「お、お兄ちゃんだって。瞳子さんが幸せじゃないと知って、ほんとうはどうなの?」
「どうって?」
 彼の眼が急に冷たく変貌した。
「だって、瞳子さんはまだお兄ちゃんのことが好きみたいだし。瀬戸田って後輩の人だって、瞳子さんが今の結婚を間違ったのはお兄ちゃんのせいだから、なんとかしろって怒っていたわけでしょう」
「だから?」
 淡々とした静かな返答だったが、徐々に尖った声になっているのが伝わってきた。それでも小鳥は続けた。
「だから、いまなら、お兄ちゃんだって……」
「いい加減にしろよ。小鳥」
 ビクッとした。静かな声が怒っている。
 ランエボの男と対決した時に見せていた、冷たく燃える目が小鳥にも向けられていた。
「今夜、エンゼルの中で俺とオマエ、あんなにひとつになっていたあれはなんだったんだ。じゃあ、小鳥のすぐ隣にいたこの俺は偽りだったというのか」
「ち、違うけど。でも、でも、」
 そして小鳥はついに、子供っぽく泣き出してしまう。そして思わず口走っていた。
「だって……。この部屋に、まだ彼女の匂いが残っているじゃない。お兄ちゃんは気がついていないの? 慣れちゃってもう当たり前になっているの?」
 図星だったのか、翔の目線がすぐ、ベッドルームへと向いた。明らかに、あの部屋だけにある甘い匂い。
「まさか。あの匂いを気にして怒っているのか?」
「匂いはさっきここに来て急に気になっただけ!」
 なのに、翔兄がおかしそうに笑っている。
「じゃあ……。いろいろなことに、瞳子が関わってばかりいるから、まだ俺が瞳子の男に見えてしまって落ち込んでいるのか」
 ついに、お兄ちゃんがクスクスと笑い出した! こっちは真剣に真剣に、お兄ちゃんの『大人の過去』に追いつけなくてもどかしく思っているのに!
「ふーん。さすが、あの匂いに気がついてくれたのか」
 まだ笑っている。
「ずっとずっとお兄ちゃんは持ったままなんだよ。前の彼女の匂いに慣れすぎて、お兄ちゃんには当たり前になっていたんでしょう。素敵な匂いだけど、やっぱり嫌!」
 とうとう翔が『あはははは』と声高らかに笑い転げた。もう小鳥は頭に来て頭に来て、もうこんな部屋出て行ってやると立ち上がろうとしたら。
「小鳥にも素敵な匂いなんだ。そりゃ、そうだろう」
 そして翔はそこでやっと……。小鳥を引き止めるように腕を掴んで放さなくなる。
「あれ。鈴子お祖母ちゃんからもらった香りだからな」
 え、お祖母ちゃんから!? 小鳥は絶句し、翔を見た。
「龍星轟のママさん達はほんとうに、優しくて柔らかい女性達。俺が疲れた顔でもしていたんじゃないかな。鈴子さんが『お好みじゃないかもしれないけど、翔ちゃん、どうぞ』って……だいぶ前に分けてくれたアロマオイルだよ」
 確かに、祖母は手芸や料理の他にも、アロマとかそういうことにも凝ってしまうほう。お祖母ちゃんの部屋に遊びに行くと、いい匂いがするのは当たり前になっていた。
「お祖母ちゃんったら……。翔兄にまでそんなことしていたの」
「そう。匂いが好みというより、お祖母ちゃんのその時の優しさっていうのかな。それを思い出せる匂いだよ。疲れた時はほんとうに使わせてもらっていた。だからきっと、小鳥も知っている匂いだろうからリラックスできるだろうと思って、小鳥がこの部屋に来るようになった日からあの香りを使っている」
 そ、そうだったんだ。小鳥は唖然とする。そりゃあ、とっても安心する匂いだったわけだと納得した。そして……。ホッとしてきた。
「やだ、もう……私。やっぱり子供っぽいね。変に勘ぐって……」
「いや。俺も小鳥に甘えていたかな。多くを言わなくても、いつも俺のことわかってくれているもんだから、改めて説明しようだなんてちっとも考えていなかった」
 それまで小鳥を大きく包み込んでくれていたお兄ちゃんが、がっくりと項垂れる。小鳥を胸から離し、ソファーの背にもたれ額を抱えていた。
「……甘えてなんかいないよ。でも、やっぱり私、お兄ちゃん達の長い付き合いの関係についていけないよ」
「それはお互い様だろう。俺だって、小鳥の高校時代、大学の若い者同士のつきあいの輪は、小鳥のもの、俺が入っていけるものではないと思っているよ」
 小鳥も付き合いが多い。きっとそれは翔以上だと思う。だけれど、翔は相談も心配もしてはくれるけれど、そんな小鳥の世界に首を突っ込んだり大人ぶった意見を押し付けたりしたことはない。
 だから。だから。小鳥も彼の昔のことには首を突っ込んではいけない……。そう思って……。過去は過去、いま彼と一緒にいるのは自分なんだから、いまの二人を大事にすればいいだけで……。そう思っていたから。
「そこのカーテン。小鳥ならどう思う?」
 小鳥の苛みなどお構いなしに、唐突に翔がそんなことを言いだした。
 いったい何を考えているのだろう? オトナの彼の意図がわからない。でも小鳥はソファーの正面にあるカーテンを見つめる。
 ソファーと合わせたシックなブラウン一色のカーテン。
「ソファーと合っているよね」
「俺が初めて選んだカーテンだ」
「ふーん」
 それが? と、話の腰を折って話題を変える戦法なのかと、なにを考えているのか解らない翔を確かめた。でも彼は余裕の微笑みで、小鳥の目をしっかりと見つめ返す。
「それまでは、すっごい花柄のカーテンで、レースカーテンもフリフリの白い乙女なカーテンだった」
 ん? なんか変な話になってきたと小鳥はつい顔をしかめた。つまりそのカーテンって瞳子さんがこの部屋のために選んでいたという話になる。
「前のソファーも真っ白なもので、キルティングのカバーがかけてあった。でもいま座っているこのソファーは、俺が二年前に買い換えたんだ」
 翔は次々と部屋中のインテリアを指さし、あれはいつ買った。これはこう思って選んだ。と説明を始めた。いまふたりをほんのり包んでいる間接照明がいちばんのお気に入り。これはけっこう店を回って選んだと……。
 最後、翔兄が指さしたのは、あのベッドルーム。
「ベッドもそう。あれは今年に入って買ったんだ」
 また翔兄が小鳥をまっすぐに見つめる。もの凄い真顔……。
「もうすぐ、小鳥がこの部屋に来るだろうから……。大きなベットに買い換えた」
 驚き、小鳥はやっと翔を見上げる。
「学生の時に買ったシンプルで狭いパイプベッドのままだったんだ。俺も小鳥も背丈があるだろう。それはちょっと窮屈かなと思って。そろそろ寝心地の良いものも欲しかったから、この機会に選んだんだ」
「そうだったの……」
 そして小鳥も翔がなにを言いたいのか、ようやっとわかった。
 彼はその人の名を言わなかったけれど、小鳥には通じた。
 通じたとおりのことを、翔が話し始める。
「俺、それまで車以外のものには無頓着で。母親が買ってきてくれたとか、彼女に任せきりだったとか。気にしないから適当に選んでくれたらいいなんて……。そういうのが駄目だったとも思った。俺のまわりの、俺のこと、車だけが必要なんじゃない。他にも同じように必要なものがある。心底、車が好きだからって、他に必要なものがどんなに面倒くさくても目を逸らしたらいけないと痛感したんだ。自分で整えられる大人にならなくてはいけなかったんだと。人を迎えられる部屋を自分で整える、そういう気持ちで、車だけじゃない生活も意識していこうと――」
 それまでは、彼女が選んでいたものでこの部屋は溢れていた。だけれど彼女と別れ、翔は二年かけて、この部屋を自分のものに染め変え、そして最後、小鳥と過ごせるように整えてきてくれたのだと。
 そして知る――。彼女の匂いなんて、もうどこにもない。それどころか翔は自分の色に染めきって、しかも、龍星轟にある小鳥に慣れた匂いも準備してくれていた。
「だから安心してあのベッドで小鳥を……。そうしたら、大きなベッドにしたのに、落としちゃうんだもんな。俺ときたら」
 落としちゃった? 
「え、あれは私が落ちちゃったんだよ」
「痛がる小鳥が逃げ腰なのを、俺が無理追いして落としたんだろ」
「え。私が痛がって隅まで逃げちゃって落ちちゃったんでしょ」
 ふたりで顔を見合わせた。
「小鳥は気にしていたけれど、アレは俺が」
「気にしているけど、私だよ、私が勝手に……」
 そこで目が合い、二人揃ってついに笑ってしまう。
「知らなかった。お兄ちゃんも気にしていただなんて」
「気にするよ。お兄ちゃんであるはずの俺が、女の子を落としてしまうだなんて。だから小鳥ももう気にするなよ」
 本当に、知らなかった。幼い自分が怖くて腰がひけて勝手に落ちたと思っていたのに。
 小鳥はそっと翔を見上げる。お兄ちゃんはお兄ちゃんで、大人の俺が……と常に気にしているのかも? ううん、違う。小鳥は思い直した。本当は小鳥から落ちた。でも彼は女の子の小鳥が気にしないよう『俺が悪かった。小鳥は悪くない。だからもう気にしない』と、小鳥の中で嫌な思い出にならないよう自分が悪者になろうとしている。そういう大人の気遣いに違いないと――。
「お兄ちゃん、大好き。ほんとうに好き。大好き」
 気持ちが軽くなって、嬉しくて、小鳥から彼の胸に抱きついた。
 頬がまだヒリヒリするけれど、もう平気。嫌な気持ちが心に渦巻いていたけれど、もうどこかにいっちゃった。いま小鳥の心に広がっていくのは、この人のことだけ。
「俺も、オマエのこと、すごく……」
 そこまで口にしてくれて、でもやっぱり彼はそこで黙ってしまう。
 でもそんな言葉じゃなくても、小鳥はもうわかっていた。照れた彼の顔が、とても優しく微笑んでくれているから。
 そんなお兄ちゃんが急に真顔になって、赤くなっているだろう頬をそっと撫でてくれる。
「もう二度と、こんなことするなよ」
 腫れた頬に熱い唇が触れた。
 小鳥も静かに頷く。労ってくれる唇が頬から耳に触れる。熱い息がもう……、優しいお兄ちゃんの息づかいではなかった。
 頬と耳を伝ってきた濡れた唇が、ゆっくりと小鳥の唇に重ねられる。
 優しい弾力がある男の唇を、小鳥から愛した。許しを得たかのように、彼の舌先が小鳥の中に入ってくる。
 熱い舌先が、口の中でしみた。
 それでも翔は我を忘れたように奥まで愛してくれる。
 小鳥でさえ血の味を感じている。きっと彼も感じている。それでも彼はもう『大丈夫か』とか『嫌ならやめる』なんて……それまで必ずあった断りも挟んでこなくなった。
 きっと今夜はもう止まらない。
 海岸線で肌を愛されたことも。峠でふたりでステアリングを握って走っているみたいだったシンクロも。そして血の味がするキス――。
「小鳥の今夜のこの味、俺は、ずっと忘れない」
 俺のために滲んだこの血を――。
 小鳥ももう怖くない。
 なんであんなに怖がっていたのだろう? 彼のために、殴られてもかまわないと厭わず飛び込んでいけたのに。
 彼に愛されているって、最初からわかっていたはずなのに。
 大きな手が赤く腫れた頬を優しくなで、くちびるも熱くゆっくりと愛してくれている。
 気持ちだけじゃない。肌が触れるってことも大事。
 頭だけでも、気持ちだけでも、理解できることじゃない。
 小鳥の本能が言う。肌に刻みつけることでしかわからない感覚があるって――。
 彼の肌の匂い、もう知っている。髪の匂いだって。さらさらした肌の優しさも、汗を滲ませていると急に男ぽい熱い肌に変わった時とかすごく好き……。
 いま彼の首もとから、そんな男になった時の匂いがする。
「しょ、翔兄……。もうなんにも怖くないよ、私。好きなの、愛して……。私もうんと愛したい……」
 まだ愛し方なんて知らない。『愛している』なんて簡単に言えない。でも。彼に愛されたい気持ちも、彼を愛し返したい気持ちも溢れている。
 息が苦しくなってふいにつぶやくと、やっと彼が小鳥から離れ立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる」
 力が抜けて座ったままの小鳥を、翔はいつにない険しさで見下ろしてる。怖いくらいの眼差しに、小鳥は彼なりの覚悟を見た気がして静かにうなずいた。
 そっと彼が奥へと消えていく。やがてシャワーの音。
 もう緊張はない。でも胸はドキドキしている。
 小鳥は立ち上がって、彼のベッドルームの入り口でその部屋を見渡した。
 大きなベッドに無地のシンプルなシーツにベッドカバー。男らしい雰囲気なのに、優しくて甘い匂い。そう、よく馴染んでいる香りに、小鳥はほっと胸を撫で下ろし微笑むことができていた。
 そっと瞼を閉じ、小鳥は心の中で一枚一枚脱いで素肌になろうとしていた。
 その気持ちはもう子供ではなかった。
 あの人の肌に触れたい。触れて欲しい。
 そう心から熱く切望する『女性』だった。
「待ってる。小鳥も行ってこいよ」
 バスタオルを腰にまいただけの彼が濡れ髪で出てきたので、そこはさすがに小鳥はドキリとしてしまう。
 彼も既に『男』だった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 今夜、自分の身体を綺麗にしてくれた湯は甘い味がした。
 だからきっと、彼もそれをかんじてくれるはず。
 優しく包まれる香りに守られ、小鳥は淡い明かりだけになったベッドルームへ。
「翔兄」
 寝そべって待っていてくれた彼の側に小鳥は歩み寄る。
 彼の浅黒い素肌も、しっとり汗を滲ませて柔らかに艶めいている。
 起きあがった彼が静かに小鳥の手を引いた。慣れていない女の子を見るように、彼が小鳥の顔色を窺っている。
 いざとなってまた、彼女は怖がらないだろうか。そんな案ずる優しい目に見えた小鳥は、そこで『大丈夫』と伝える代わりに、自分からバスタオルをほどいた。
 仄かな明かりに、自分の白い肌が浮かび上がる。それを目の前に差し出された彼も驚きもせず……。でも、そのまま小鳥の素肌に抱きついてきた。
 彼が変貌する。小鳥の肌、そこがどこだからなんて関係なく、彼はそこらじゅう隈無くキスを繰り返してくれる。
「小鳥、ことり」
 そのキスがついに乳房の赤い頂きに触れた。まだ柔らかに開いたままの薄紅の花にキスが落とされる。優しく舌先が触れたかと思うと奥に強く含まれ、急激な痛み……、でも小鳥の胸はいっきに熱くなった。
「翔、にぃ……」
 彼の黒髪の頭を抱きしめる。自分の肌に乳房に彼が埋もれていく――。
「小鳥、こっちだ。おいで」
 なんて優しく言ってくれたようでも、小鳥の手首を強く掴んだ翔は、強引にベッドへと小鳥を押し倒していた。
 彼の体が温めてくれていたシーツに沈む女の裸体。まるで自分ではないような大人の女の身体。その真上に男が覆い被さる。
 港が近い彼の部屋。静かな冬の夜――。そこで少しだけ、ふたりで見つめ合う。
 小鳥の瞳の奥を確かめた翔に、すかさず唇を塞がれる。
 女の肌に飛びついてきた彼を、小鳥からも両手一杯に抱き返し、彼の唇を懸命に愛した。
 それまで、大切に扱ってくれていたんだと思った。今夜、翔の身体は女を捕まえるかのように重く、手先は男の渇望を露わにし、そして口先も舌先も意地悪で獰猛。
 でも乱暴とか、もっと優しくしてだなんんて、少しも思わない。むしろ、このまま激しく遠くに連れ去って欲しい気持ちに駆られた。
 すぐに頬も熱くなった。身体中が燃えるという感覚も気持ちも初めて感じている。
「はあ、あっ……ん、翔、しょうにぃ・・翔……」
 噛みつかれているみたいなキス、そして愛撫。唇から頬、瞳に耳元に首元。情熱的な沢山のキスが降りそそぐ。大きな手が小鳥の黒髪をなんども撫でてくれる。
 やがてその熱烈なキスは、首元から胸元、乳房へと降りていくと、湿り気を帯びた熱い吐息をまとわせ、濡れた舌先でじっとりと小鳥の肌を舐めていく。これは男の楽しみ方。男が欲しいものは、こうして手に入れる。それが男の愛し方。男だけの味わい方。あの王子様みたいだったお兄ちゃんが、獣に変化したようにも思えた。そんな厭らしいことを、清潔そうな顔の下に忍ばせて密かに願っている。そして、そんな獣が小さな雛を手に入れて、その雛がどんなふうに泣くのか意地悪に弄んで楽しむ――。そんな気もした。なのに……。なにこれ。ぜんぜん嫌じゃない。ものすごい心が弾けるほど胸がいっぱいになる。いっぱいになった胸が灼けついて、今度は焼き尽くされそうな気にもなる。やはり自分も女という獣みたいなものなんだ、きっと。雛だって、厭らしく感じるんだから。小鳥ももう恥じる前に、男に身体を濡らさせていく甘やかさに溺れている。男の唾液をなすりつけられて、彼のものにされていく。男に抱かれて快楽に朽ちて墜ちていく――。たまらなく気持ちがいい。
 小鳥の身体中の味を確認し終えたのか、最後に翔は白い足を持ち上げ、あの夜と同じように、白くて柔らかいところを何度も彼が欲しがっている。あの翔兄が我を忘れて、額に汗を滲ませて何度もキスをして吸っている。そんなに我慢できない顔で愛されていると知って、小鳥の胸はなにもかもが溢れてしまいそうで泣きたくなる。
 彼の肌がいつも以上に汗ばんで、普段は微かに鼻をかすめていく程度だったあの匂いが、いまは強烈にそこらじゅうに満ちている。
 この匂いを持っている男は今までは一人だけだった。その人が小鳥に『大人の男、女を愛している男の匂いはこういうもんだ』と、幼い時からその匂いだけで教えてくれていた。
 また同時に。この匂いに包まれて、襲われて? 甘く優しい魅惑的な香りを放つ女性も知っている。男に愛されたら、女はあんなに素敵になるんだって――。それも知っている。もの心つくころから、それは両親の周りにたちこめていた。
 いつか自分も、そんな匂いの男性に出会えるのかな。私はその匂いを見つけられるのかな。感じられるのかな、そんな男の人、他にいるのかな。父ちゃんだけが特別なのカナ? ずっとそう思ってたけれど『見つけた』。
 やっぱりこの人だった――。
 そして自分は、ちゃんと魅惑的な香りで彼を満足させられるの? まだ子供……。ハジメテで彼をどう喜ばせたらいいかもわからない、大人になりきれない女の子なだけで。
 なのに。小鳥の白い足にキスを落としながら、男として目指している秘密の園を目の前にして、翔が言った。寝そべって頬を熱くして喘いでいるだけの小鳥を、熱く見つめて言った。
「苺が好きな子は、ほんとうにイチゴみたいな匂いがするな」
 喩えだとわかっている。でも。そんな甘い匂いがすると言ってくれる。小鳥が憧れている『愛されると身体から放たれる大人の女の匂い』。その匂いを大人の男が存分に愛してくれる。
 いまが、その瞬間。
 甘いイチゴの匂いがすると言いながら、翔の手先はこの前は諦めた黒毛をかき分けて、その匂いがするという蜜を探している。
 苺が好きな女の子が湛えている甘い蜜を見つけ、彼が勝ち誇ったようにふと静かな笑みを見せた。
「もう大丈夫そうだ」
 彼の声もくぐもるほど、息づかいが荒くなってかすれていた。
 この前と同じ。彼が意を決した準備をすると、またお互いの汗ばんだ身体を上と下にぴったりと重ねてきた。
 優しい息づかいになった彼が覆い被さりながら、小鳥の黒髪をかき上げ、その顔を覗き込む。小鳥の瞳をみつめて、ついにその時という緊張をしているのがわかった。
 だから。小鳥から彼の背に抱きついて、彼にキスをした。『小鳥』。彼の唇から小さく漏れてきた吐息。小鳥は目をつむって、ただひたすら彼の背中に抱きついて、彼の唇を深く長く愛し続ける。彼も同じようにキスを返してくれる。
 ぴったりと重ねられた熱い肌、貪るようなキス。ほどけない腕――。
 開かれた足と足の間になにかが迫っていることなどもう……。我を忘れて彼とキスをして抱き合う。
 唇も熱いけれど、とうとうそれよりも熱い塊が、小鳥の身体を下から裂いていく。その痛みが駆け上がってきた。
 ――やっぱり。痛い。
「お、お兄ちゃん……」
「ま、まだ、だ」
 また、身体の奥に熱い痛みが。
 あっ。痛い。その言葉を小鳥は唇をひき結んで、深く飲み込む。その代わりに、彼の背に爪を立てていた。
「はあ、あ……、あ……翔にい……」
 じわじわとその痛みがお腹の下で熱くとどまっている。でもおかしい? 痛くて熱いのに。甘い疼きが微かにある。
「あん、翔、翔……にい」
 あと少しだ。彼の息だけの声が耳元に聞こえた。
 私も彼も、汗びっしょり。でもその肌と肌をぴたりと重ねてひとつになっている。
 はあはあと荒い息しかつけない。痛いのか熱いのか、でも彼と一体になっている高揚感が綯い交ぜになって、なにもかもが蕩ろけてしまいそう。はじめてそう感じた。
 気持ちいいって、官能的な快楽じゃないんだね。それだけじゃないんだね。痛くても、こんなに彼が私の身体を壊すほどに欲しがってくれて愛してくれる。そういう身も心も満ち足りて、肌を熱く重ねることの……。
 彼も我を忘れているみたい。耳元でずうっと小鳥小鳥といいながら愛してくれている。
 彼の手と小鳥の手が、シーツの上で堅く結ばれている。小鳥じゃない。翔の方がすごい力で握っていて離そうとしない。
 痛くて痛くて熱いそこを男の力でめいっぱい壊さないよう、翔の男の力はそこに集中してくれているようにも思えた。
 繋がれるところはなにもかも、繋いだ。男と女だけのヒミツも、唇も、腕も、手も指先も、足までも絡めて。
 小鳥が知っている彼ではなかった。荒い息づかいも、息んだ声も。でも時々見つめ合う目だけが、よく知っている『翔兄』――。
 彼の額の黒髪が、小鳥の鼻先をくすぐった。はあはあと荒くて熱い翔の息が、ひときわ激しく小鳥の肌に落ちる。彼の汗の滴が小鳥の胸元にこすりつけられると、急に大きな身体がぐったりと落ちてきた。
 静かになる……。
 力尽きた彼が小鳥の身体の上に乗ったまま動かなくなった。
「翔兄?」
 返事がない。
「お兄ちゃん……?」
 やっと片手をついて、小鳥の肌から顔を上げた。
 彼の手に、赤いものがついていた。それを見た翔が固まっている。
 小鳥の鼻先にも、血の匂いが届く。
 彼の目線が、まだ重なっている二人の足と足の間へと降りていく。小鳥も身体を起こし確かめると。白い太股が血で汚れていた。
 ……とうとう。私、ついに女になったんだ。
 そう思った。
 そして翔も初めて見る女性の証を見つめたまま何も言わない。
「ほんとうに……血、出るんだね」
 ふと小鳥が呟いて、やっと翔が微笑みを見せてくれた。
「痛かっただろ」
 大きな手が、血の匂いのする手が小鳥の頬に触れた。その手に小鳥もそっと触れる。自分をかばって腫れた頬と一緒に、男として受け入れたハジメテの身体を労るようにゆっくり撫でてくれる。それでも血の匂いがする。そんな血が付いた彼の指先に小鳥はキスをした。
「嬉しい……。やっと、やっと、お兄ちゃんの隣にこれた気がする」
 出会った時、まだランドセルを背負っていた小鳥。背が高いお兄ちゃんをもっと低いところから見上げていた。その時から彼の優しい笑顔は変わらない。
 なのに。年月が経つほど、彼に追いついて成長しているはずなのに大人に近づいているのに、先へ先へ行ってしまう彼をうんと遠くに感じてばかりいた。
 『小鳥と一緒にいたい』と、女として傍に置いてくれるようになっても。小鳥は『どうして。まだ大人になりきれない子供みたいな私を好きになってくれたの?』と実感が湧かなかった。けれど、今夜はもう……。
 お兄ちゃんから愛してもらうんじゃない。私が、自分が、大人の女の気持ちで『愛してあげたい』と思えるようになって初めて『大人の女』なのかとも思った。
 これでやっと、いつまでも可愛いだけの『上司のお嬢さん』ではなくなったと思えた。
 それでも。本当に子供だったのに。彼はいったいいつから、小鳥のことを裸にして愛したい女になったのだろう?

 

 

 

 

Update/2014.1.6
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