◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-16 純情バカ娘のケジメ。 

 

 わ、寝坊した! 昨夜の余韻に浸る暇もなく、小鳥は飛び起きる。
「どうしよう。翔兄のスープラ、どうしよう」
 朝方、眠っている彼をそのままにしておきたくて、小鳥はそのままにしてMR2でひとり龍星轟に戻ってしまった。
 英児父と話した後、ガレージにエンゼルをしまいに行く時、従業員駐車場にスープラがそのまま残っていることに気がついた。
 もどる? お兄ちゃんを起こす? 知らせる? どうしよう――。
 なにもかも都合が悪かった。何故、翔が龍星轟に帰ってきて、相棒とも言えるスープラを取りに帰ってこなかったのか。何故、小鳥だけ一人で帰ってくるようなことになったのか。英児父に問いただされたら、小鳥は言葉に詰まるだろう。翔兄もきっと落ち着いた顔をするだろうけれど、内心では困るだろう。
 彼をそっとしておきたかったのに、かえって、彼らしくない行動をさせることに……。
 そして、小鳥はここでさらなる確信を持つ。英児父は、娘が部下の男と長い時間一緒にいて『どのようなことが起きるか』、もう見通している。だから、聞きたいけれど、やっぱり聞けなかったのではないだろうか。いつ、どのようにして翔と別れ、何故、大事にしている車を翔は取りに来なかったのか。それを聞けば、決定的になることを恐れていたのかもしれない?
 少し早く起きて、お兄ちゃんを龍星轟に連れてくればいいかな。なんて考えていたら眠ってしまい、しかも寝坊。
 急いで支度をする。
 
 『少しだけでも眠っておきなさい。無理しなくて良いのよ。今日は学校もアルバイトも休みなさい』と、琴子母は言ってくれたけれど、家にいるといろいろ考えてしまう癖があり、じっとしていられない性分。
 そうか。私が忙しくしているのは、本当はすぐに考え込んでしまうタイプだから? なんて小鳥はそう思ったりもした。
 いつもの朝、いつものリビング、いつもの服装。昨夜の熱いひととき、裸になって男の人と抱き合っていたなんて……。自分のことではないみたいだった。
 寝坊をしたせいか、弟たちはもう学校へと出かけていた。
 母も父ももう何も触れてこない。
 1時限目開始にギリギリ間に合うか間に合わないか。だけれど出勤ラッシュの時間帯も過ぎる頃だから、もしかすると今の時間の方がすいすい運転できるかも。そんなことを考えながら、通学用のトートバッグを手に小鳥は自宅から龍星轟店舗へと階段を駆け下りる。
 いつもなら事務所のドアを開けて、武智専務に朝の挨拶をして……。そして『お兄ちゃん』を探す。朝早く出勤してくるお兄ちゃんがその日のスケジュールを確認している背中を見つけて……。うーん、やっぱり今日はドアを開けにくい! 英児父がどんな顔をしているのか。人の様子に敏感な武ちゃんが、英児父や小鳥を見てなにか見抜いてしまわないか。そう思うと開けられない。
 翔もどうしているのだろう? バス? タクシー? 車大好き運転命なお兄ちゃんが徒歩で来るだなんて想像できない。自転車? 持っていないはず。どうやって出勤するの?
 トートバッグから急いでスマートフォンを取り出し、メールか電話か、とにかく連絡をしてみようと小鳥は慌てた。
「武智。悪いけどよ。翔と二人にしてくれ。外を掃除している矢野じいも事務所に帰ってこないよう誤魔化してくれないか」
 そんな声がドア越しに聞こえ、小鳥ははっとしてスマートフォンを操作する指先を止めた。
「わかった。タキさん」
 ドア越しの会話に小鳥の心臓が早く動き出す。
 朝の事務所に、車を置いていったはずの翔が既にいる。きちんといつもの早い時間に出勤している。
 しかも英児父は人払いをしてまで、翔と二人きりになろうとしている。それはなぜ? 夜明け前に帰ってきた娘から、英児父は確かに『好きな男と一晩一緒にいた娘がどうなったか』も察していたと小鳥は思っている。
 そう思って……。では、英児父はどうでるのか。
「昨夜は大変だったな」
 姿は見えないが、英児父のそんなひとことから聞こえてきた。声が近いので、ドアのすぐ前にある社長デスクにいるようだった。それならそのデスクの正面に彼がいるはず。
「申し訳ありませんでした。こちらの交友関係で起きたことで、ご迷惑をおかけしました」
 律儀で生真面目な翔兄が、いつもの落ち着いたクールな横顔で頭を下げている姿が浮かんでしまう。
 英児父の大きなため息が聞こえてきた。
「おまえ、何も悪いことはしていないだろう。どうして謝るんだ」
「自分はなにもしていなくても、自分がそんな男を引き寄せていたんです。そのせいで、お嬢様の車が狙われたり、巻き込んで殴られたり……。心苦しく思っています」
「そりゃあなー。小鳥がエンゼルをぶつけられた時も肝を冷やしたし、昨夜、あのバカ娘が相変わらず後先考えずに自分から突っ込んでぶっ飛ばされた時には、俺の方がどうにかなりそうだったわ」
「本当に自分の不始末です。社長も瀬戸田の叫びを聞きましたでしょう。サークル時代、彼は本当に瞳子に対して真剣だったんです。それだけに瞳子の気持ちを大事にできなかった俺の男としての不甲斐なさが、彼には腹立たしかったのでしょう。そういうことです、俺があの男を壊したんです」
「はあ、真剣ねえ……、不甲斐ないねえ、壊したねえ」
 このようなことになったいきさつと反省を翔が真摯に述べているのに、それに対して英児父はどこか馬鹿にしたようないい加減な受け答え。
 だけれど小鳥には英児父がどうして呆れているのかわかっていた。瀬戸田という男がどうして翔を狙ったのか。それをわからない小鳥のことを父は『まだ子供だ』と言った。
 それは若い部下の翔にも同じように父がつきつける。
「まったくよう。国大卒で頭の回転が速くても、やっぱ人間関係ってもんは学歴なんて関係ねえってよくわかったわ」
「あの、どうしてですか」
「おまえも小鳥と一緒でまだ『おめでたい純な男』だな。これからはよ、『人の腹』ってもんを読める男になってくれなくちゃ困るわ」
 うわー。父ちゃん、きつう……。小鳥は目を覆った。
 本当の子供である小鳥なら言われても『ムカツクけど、父ちゃんの言うとおりだよっ』で終われるが、もう三十歳になった翔兄にとっては痛い指摘と感じるのではないだろうか。
 しかし、そこは『上司』なのかもしれない。そして『男の大先輩』だからこそ、ここできつく言わなくてはならないのかもしれない。
 父が翔にあからさまに駄目だしをしたせいか、二人の会話が途切れてしまう。父に何を言われても、いつも落ち着いている翔兄だからきつい指摘を受けても大丈夫だと思う。けれどドアの向こうが見えない小鳥は、たとえ翔兄でも歯を食いしばっているのではないかとハラハラしている。
 やっと英児父から切り出した。
「なんだ。言い返さないのか」
「本当のことですから」
「そんな澄ました顔をして、腹の中ではけっこう計算し尽くしているところ、毎度ムカツクんだよ」
 なに、なに? 父ちゃんったら朝から攻撃的! 小鳥は密かに青ざめていた。
 これってもしかしてもしかして『俺の娘に手を出した』ことをなんとなく察している父親の腹いせ? あっけらかんとしている父ちゃんは、そんなねちっこいことが嫌いなはず……。なのに?
「ランエボの男のこと、だいたい目星をつけていたのに、確証がないからと俺にははっきりするまで報告はしないと言い切った。だいたいの目星は確かに合っていた。でもよ、やっぱりあそこで『予測でもいいから報告』しておいてもらうべきだったと俺は後悔している。判っていれば、おまえにもあんな危ない対決なんかさせないで済んだかもしれないと」
「……そのことについては。自分も、あの時点でなんでも良いから報告しておけば良かったかもしれないと、思っていました」
 今回の反省と、あの時に噛み合わなかった上司と部下が招いた結果を互いに悔いているようだった。
 『父親の腹いせではなかった』と小鳥は少しホッとしながらも、まだ落ち着かない。
「そう思ったのなら、『自分のこれまでの行いが引き寄せた』だけで起きたと思うはずはない。おまえなら、どうして今回こんなことになったのか『見通し』できているはずだ。あんな十年前に会ったきりの男がよ、いきなりおまえに逆恨みなんておかしいだろ」
「そいつの腹ってやつですか」
「そうだよ。それを言え」
 きつい命令口調だった。英児父があの元ヤン特有のガンとばしをして翔を威圧する姿が小鳥には見える。
「俺の部屋に瞳子が二年ぶりに来たと同時に、瀬戸田が現れた。この二つの出来事が繋がっている気がしてなりません」
 落ち着いた彼らしい冷静な答え方。なのに昨夜の彼は何ともない顔で、でももっともっと深いところで、そんなことは予測済み。英児父が既に思い描いていたような『このトラブルの図式』を描ききっていた。
 それでも、小鳥には、優しく微笑んで深く抱きしめてくれた。もうなにも心配ないんだと、もうなにも怖がらなくていいのだと。当たり前のように彼に抱きしめられていたけれど、琴子母に抱きしめてもらう前に、もっともっと安心させてもらっていたのだと気がついてしまう。
 『お兄ちゃんだから』。甘えていたんだ。当たり前になっていたんだ。恋人になったばかりかもしれないけれど、もう翔とは十年近くここで一緒に歳月を過ごしてきた。年上の大人のお兄ちゃん、そんな甘えは日常になって……。
 私、これからもっともっと……。
 改めて、彼の隣にいる女としての気持ちを思っている中でも、男達の話は先に進んでいく。
「安心したわ。それぐらいの『裏』が予測できなくては、おまえに店の管理なんて任せられねえからな」
 『おめでたい娘』と昨夜言われた小鳥だったが、いまなら父親のあの言葉を素直に受け取れる。本当にその通りだったんだと身に染みる。
「翔、瞳子さんに連絡とれるか」
 思わぬ父の言葉に、小鳥はドア越しに静かに目を見開いた。
 もう二度と会わないと、はっきり告げて帰らせたのに?
「なぜですか。社長。彼女とはもう二度と会わないと決めています」
 思わぬ上司からの指示に、翔も飲み込めない様子。
「おまえとじゃねえよ。俺が会って話したいんだよ」
 はあ? 何を言い出すの、この父ちゃんは!?
 もうちょっとでこのドアを開けて、男二人の対面に飛び込んでいきそうになったけれど、小鳥は頬の痛みを思い出しなんとか堪えた。
 当然、翔も驚いているに違いない。
「あ、あの。社長は彼女と、なにを……?」
「可愛い女の子は、おっちゃんじゃないと話してくれんこともあるんよ。元カレに言いたくないこともあるだろうよ。まあ、そんなところ」
 また二人の間に妙な沈黙――。
 俺ぐらいの親父ではないと、若い女性が話せないこと。それを聞いてやっと小鳥も父の意図を汲み取れた。
 きっとあれだ。瀬戸田につきまとわれていたかどうか。それを知りたいのだと。そして瀬戸田という男の言い訳が、実際は翔に向かっていた訳ではない。それも確認しておきたいのだろうと。
 翔のせいではない。翔のせいで事件が起きたようにされている。それを確かめるのだと――。
「そう構えるなよ。むこうも弁護士をたててくると思うんだわ。その時にこっちも足下固めておかなくちゃならねえんだよ」
「そういうことならば。わかりました。互いに連絡先を変えているので、友人に頼んでみます」
「頼むわ」
 そこで話が終わったようだった。
「翔。おまえ、三十になったんだよな」
「はい、今年で三十一になります」
 またなにかを英児父が話そうとしていて、小鳥の足はまだドアから去ることができない。
「俺も、ちょうど三十の時に、婚約までした女と家族を巻き込んでいざこざしたことがあったよ。中途半端に別れたもんだから、そのツケが何年も後にまわってきて。出会ったばかりの琴子を傷つけたことがあった」
 また小鳥はドア越しでひとり呆然としていた。英児父の過去の恋愛と、恋人だった琴子母を巻き込んで傷つけてしまうような出来事を引き起こしていたことに。
「そ、そうでしたか。社長でもそんなことが……」
 翔も上司の若き頃の打ち明け話に驚きを隠せない声。
「まだ三十だろ。そんな完璧な人付き合いなんてできるわけねえだろ。俺のような親父になっても、上手くいかないことがあるんだからよ。自分のせいで、かもしれない。だからって翔、おまえだけが出来ねえ人間という訳でもない。『誰もが通る道』だよ。気にすんな」
 上司かもしれない、でも男が男にここぞという時に、英児父が伝えているのが小鳥にも通じてくる。
「父ちゃん……」
 その中に、娘とどうしたどうなったなどというものは、一切なかった。
 それこそ『腹の中』でなにかを持っているだろうけれど、そして翔も『社長の腹の中』を感じているかもしれないけれど、二人の男はそんな時は見て見ぬふり。それよりもまずは『片づけなくてはならないこと』に、上司と部下で連携して立ち向かう心積もりを確かめあったのかもしれない。
 娘の自分が出て行く隙もない。小鳥はそろそろドアから離れようと背を向けた。
「車、取りに来なかったんだな」
 また父の気になる一言に、やっと歩き出した小鳥の足が止まる。
 やっぱり父ちゃん、我慢できなくて探っているじゃん! 小鳥の心臓が今度こそドキドキ破裂しそうだった。
「スープラより大事なもんでもあったのかね」
 翔がどう答えるのか、また父親はどう受け取るのか。また言い合うのか。もう小鳥は通路の壁に寄りかかって、なんとか崩れそうな身体を支えている。
「そうですね。車より大事なものだってありますよ。俺にも」
 車より大事なもの――。それって私のこと? 車しか見えていなくて恋人と別れた人だったのに。いまだって車が大好きで、小鳥はそんな男性でも全然構わないと思っていた。でも、やっぱり嬉しい!
「まあ。そうだよな。俺だって、スカイラインとGT−Rより、琴子がいなくなるほうが堪らねえもんな」
 それって? 父ちゃんには琴子母。では翔には……。そこで父親が誰と並べて言っているのか、やっぱりわかっていると思った小鳥は再び胸がドキドキざわめいてやまない。
「本当に、社長は相変わらずオカミさんが一番ですね」
 翔は余裕で笑っている。
「ばっかやろう。あたりめえだろ」
 英児父も、いつものおおらかな笑い声を立てていた。
「自分もそんな男になろうと思っていますよ。コーヒー、淹れますね」
「おう、頼むわ」
 今度こそ、本当に男同士の対話が終わったようだった。
 小鳥の目に涙が滲んでいた。
 その顔を見られないよう、小鳥は事務所裏通路を出ると急ぎ足でガレージに向かいエンゼルに乗って出かけてしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 無事に大学での一日を過ごし、いつも通りに小鳥は真田珈琲本店へとアルバイトに向かう。
 
 この時、小鳥は『自分の甘さ』を既に噛みしめていた。
 頬に湿布を貼った姿で歩くことがどんなことであるか。小鳥は久しぶりの視線を向けられていた。
 喧嘩? 男に殴られたの? それとも元ヤンのお父さんが?
 男勝りの滝田さんが誰かに殴られた顔で歩いている。すれ違ったその後、小鳥の背に微かに届く囁き。
『なんで休まなかったのよ。こういう時、女の子は休むの!』
 昨夜の事情を報告した花梨にも、こんな恰好でも平気な顔で大学に来たことを怒られた。
『今朝、車を運転していて思っていたんだけれど。これでバイトに行くのは、やっぱりまずいよね……』
『あたりまえじゃん! 小鳥ちゃん、無茶だよ。真鍋専務も真田会長も怒ると思うよ』
 客商売だよ、客商売! 歩いているだけで女の子達があんな目で遠巻きに噂しているのに、お店に変な空気をまき散らされたくないでしょう。親友にも『まずい』と言われ、小鳥はひさしぶりに『後先考えずにやったことで、どれだけ迷惑をかけるか』を思い知ることになった。
 必死だった。翔が殴られるところを見たくなかった。そのために、自ら傷ついたことは後悔はしていない。
 だけれど『それをしたことで、その後どうなる』は、まったく考えていなかった。
 海沿いの国道を走っている間、運転するフロントに浮かぶのは真鍋専務の怒り顔だった。

 

 出勤をして控え室で着替える前に、小鳥は事務所にいるだろう真鍋専務に会いに行く。
「失礼いたします。滝田です」
 ドアを開けると、真田美々社長と真鍋専務がいつも通りに控えていた。
 アルバイトの小鳥が訪ねてきて、その顔を一目見たお二人の表情が固まった。
「小鳥、どうしたのその顔!」
 今日も女っぽいスーツを着こなしている美々社長がデスクから立ち上がる。
「おはようございます。お知らせしたいことがあって参りました」
 一礼をして顔を上げると。そこにはもう険しい目線だけを向けている『おじさん』がいた。
 もうなにもかも察しているような目だった。英児父からもう聞いているのか、いないのか。
「どうしたその顔は」
 まずは専務も小鳥を問いただそうとしている。
「先日お話しした私の車に衝突してきた運転手を、父と従業員とつきとめました」
 また美々社長と真鍋専務が顔を見合わせながら、息を止めた顔。
「運転手を捕まえたということなのか」
「はい。勝浦で遭遇して、父の指示でダム湖に追い込んで……それで……」
「まさか。小鳥……、お父さんと一緒にいて、その悪い男に殴られたの? どうしてそんなことになったの! 滝田社長も一緒にいたのでしょう!」
 父親が傍にいて娘が危険な目に遭うとは何事か。同じ娘を持つ母親として、美々社長がいきりたった。
 真鍋専務はますます冷たい目。だけれどその奥に怒りを潜ませているのが小鳥にはわかった。
「親父さんも手に負えないような無茶をしたんだろう。小鳥らしいじゃないか。そうなんだろう?」
 子供の頃から、真鍋兄弟や弟たちに混じって『やんちゃな遊び方』をしていた小鳥の性質をよく知っているおじさん。あの元ヤン親父が防げなかったなら、それしかないと確信している。
 小鳥も観念する。
「はい……。その、一緒にいた従業員のひとりが殴られそうになったので、それが嫌で止めに入ったら、その拳が私にあたりました」
「ほらな。火に飛び込むんだよ、この娘は。自業自得だ」
 デスクにバンと手をついて、真鍋専務が立ち上がる。
 バンと机を打つ音は、昨夜、英児父にも聞かされただけに小鳥はそれだけで何とも言えない恐怖を覚えた。
 ワイシャツにネクタイというスタイリッシュな姿で、『知り合いのおじさん』という顔の時は落ちいた雰囲気の穏やかな人。元ヤンだった英児父とは全く違う優等生として歩んできたらしいおじさん。だけれど、立ち上がったその人が睨む眼は、英児父と同じ気迫を放っていた。
「店へ出る前に、よくここに来たな。もしなんの報告もなしに、その顔で店に出ていたらクビにするところだった」
 涼おじさんが本気で怒っている声に、小鳥はさすがにゾッとした。
 危なかった。『大丈夫。痛い思いをしたし嫌な思いもしたけれど気にしない。今日も頑張って笑顔で元気に働ける』と本気で思っていた。もし、気がつかなかったら? 親友のアドバイスがなかったら? 子供の頃から憧れていたこの職場と縁を切らなくてはいけないところだった。
「自分がどうか、ではない。うちの仕事は、お客様がどうかだ。滝田自身にどんなに嫌なことがあっても、自分はそれでも頑張って元気に働ける根性があると自負できたとしても、お客様にはスタッフ自身のことなど関係ない。おまえの自己満足だ。いいか。お客様の大事なひとときに、影をちらつかせるものなど『店内』には一切持ち込むな。たとえ、おまえが、家族同然に思っている実家の従業員を助けたことが正しくてもだ!」
 全てが尤もすぎて、小鳥は項垂れるしかなかった。
 また、頬がズキズキと痛んできた。今度は浅はかだった自分を責める痛みだった。
「真田会長の言葉を覚えているか、本気でバリスタを目指すのなら、その腕を大事にしろと。バリスタにとって両腕は大事な商売道具だ。そういう身体の管理ができることもプロには大事な要素だと覚えておけ」
「はい、申し訳ありませんでした」
 そして決定的なものを告げられる。
「今回はその顔で店に出てはいけないことがわかっていたようだから、それに免じて『謹慎一ヶ月』で許してやる」
 謹慎一ヶ月――。その間はバイトに出てくるなということになる。
 毎日のやり甲斐でもあったアルバイト、そして腕を磨ける場所だった。さらに小鳥の脳裏には『シフトに穴を空ける』ということも浮かんできた。
 後先考えなしにやったことで、その後、どのようなことになるのか。翔という大事な人を守れたのかもしれない。だけれど、今ある自分の責任というものはまったく意識していなかった。
「わかりました。本当に申し訳ありませんでした」
「次シフトの連絡をするまで店にでなくていい。帰っていいぞ」
 普段はそれほど感情を荒立てない真鍋専務の憤る姿に、美々社長の方が間でオロオロしている。
「真鍋君、そんな、まだ小鳥は大学生でアルバイトじゃない。謹慎だなんて社員じゃあるまいし、事務所で手伝って欲しいことだって沢山あるわよ」
 そんな上司である美々社長にも、真鍋専務は恐れずに険しい眼を向けた。
「滝田は事務仕事で雇ったつもりはありません。たかがアルバイトでしょうが、それでも店に出れば客に接する立派なスタッフです。甘やかすつもりはありません。きっと滝田社長もそう思っていることでしょう。私にはわかりますよ。あの親父さんの真っ直ぐさを、昔から知っていますから。美々社長も、あの元ヤン社長のこと良く知っているでしょう。本当は『今日は迷惑がかかるから行くな』と言いたかったことでしょうね、父親として。でも娘の仕事は範囲外だと口出しせずに、そのまま彼が私のところに届けてくれたんだと直ぐに判りましたよ。彼女はもう成人しました。社会でのことは社会の先輩に預けるという父親の心積もり。彼から預かっている以上、なおさら甘やかすつもりはありません」
 さらに手厳しい専務の意見に、美々社長も納得したのか『わかった。専務の言うとおりよ』とその後は何も言わなくなってしまった。
「もういいぞ。滝田」
 すぐに出て行けと言っているような怖い眼差しに気圧され、小鳥は一礼だけして事務所を後にした。
 スタッフルームに戻って、やっと涙が出てくる。
 正しいけれど、軽率だった。それは難しい言葉のようで、小鳥には良くわかる。初めて自分が目指しているもの責任という重みがずっしりとのしかかってくる。
 真田珈琲本店を後にして、小鳥はMR2に乗り込んだ。急に時間が空いて、でも真っ直ぐ家に帰ることもできず――。
 昨夜、ランエボに遭遇した勝浦の海岸沿いを走るのも嫌になり、ダム湖はなおさら。そして遠く岬や、しまなみ海道まで走る気もおこらない。
 どこに行けばいいのだろう。
 いつのまにか、小鳥はそこに辿り着いていた。
 夕なずむ港町が見える彼のマンション。カモメのキーホルダーを手にして、まだ彼が帰ってきていない部屋の鍵を開けていた。

 

 

 

 

Update/2014.1.24
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