◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-17 やんちゃ娘と淑女。 

 

 夜の静寂。いつのまにか夜空の藍に溶け込むように眠っていた。
 
 甘い、優しい匂い。でも頬を埋める白いシーツには、男の匂い。
 昨夜のままだったシーツには血の痕が残っていた。
 ここなら一人でいられるかも。そう思って頼ってきたが正解だった。
 港が近い彼の部屋は、昨夜と同じくとても静かで、そして夕日が綺麗にベッドルームに入ってきて穏やかだった。
 もう匂いはすっかり小鳥に馴染んでいて、彼がいまここにいなくても、小鳥を優しく包んでくれるあの腕の中と変わらないと感じられた。
 ベッドのシーツに顔を埋めてひとしきり涙を流すだけ流したら、昨夜からの疲れや張りっぱなしだったテンションが切れたのか、すうっと眠ってしまったようだった。
 
「小鳥。ここにいたのか」
 
 そんな声で目が覚める。
 翔が帰ってきた。
 
「親父さんが、どこに行ったのかと心配していた」
 まだ眠い目を小鳥は何度も開いては閉じた。
 頬に冷たい手。龍星轟の男達は、冬は外仕事で身体が冷えてしまう。みんな、手が冷たくなる。
 そこで小鳥はやっと目を開ける。
「翔兄。おかえり」
 シーツに頬を埋めたまま、ベッドの下で跪いて小鳥を撫でる翔と目が合う。
「真田のアルバイト。謹慎になったんだってな」
「……なんで、知っているの」
「閉店前に、真鍋専務から親父さんのところに連絡が来たんだよ。だけど親父さんは『そうなると思っていた』と言っていた。今朝から判っていて、小鳥を送り出したみたいだった」
 涼おじさんが言っていたとおりだった。『滝田社長もわかっていて、何も言わず小鳥を送り出し、俺に預けてくれた。だから甘やかさない』と言っていたとおりだった。
 小鳥はむっくりと起きあがる。ベッドの縁に座ると、翔もその隣に静かに座り寄り添ってくれる。
「真鍋のおじさんも、そう言っていた。滝田社長は判っていて、娘に何も言わずに、真田珈琲に委ねてくれたんだって……」
「うちの社長と真鍋専務はそんなところ良く通じているな。父親同士だからかな。……そうだな。俺から『小鳥は悪くない。俺を助けてくれたんだ』と説明をしに行きたい。だけれどな、俺も客商売をしているから、真鍋専務の言いたいこと解るんだ。そう思うと、やはり小鳥には申し訳なさでいっぱいだ」
「ううん。私……。これで良かったと思っている。いままで本当に、自分が思ったことを貫くことばかり考えて、後先考えずに飛び出していたけれど。それをすることで『後にどのようなことが起きるか』なんて考えたことがなかった。そうしなさいと言われても、そうする必要もないと甘えていたの、きっと。それがどういうことか、ほんとうに良くわかったもん……。だからいいの」
 それでも翔に話している内に、また涙が溢れてきた。だけれど、ここなら泣いてもいいとも思って小鳥は我慢はしなかった。
「家に帰って泣くと……、弟たちも気にするし、お母さんも心配するから」
 隣で翔が小さなため息をついて、でも柔らかに微笑みながら小鳥の頭を撫でてくれた。
「そうして今まで『我慢強い、しっかり者の元気な娘』を頑張ってきたんだろ。いつもは部屋で泣いていたのか。それとも車を飛ばしていたのか」
 小鳥がどんな娘かよく知ってくれていて……。そして『いつもは元気な女の子だけれど、泣きたい時に泣けないんだろう』と、親にも弟にも見せたくないその弱さを翔は見抜いてくれている。
「翔兄……。ここにいさせて」
 隣にいる彼の胸に抱きついた。……もう彼はびっくりして身体を硬くすることはない。昨夜、結ばれた身体同士だから、深く静かに抱き留めてくれる。
 小鳥も悲しくて落ちていく中、優しい羽毛に包まれたよう。
 もう彼の腕は、私のもの。抱きついたら優しく吸い込むように抱きしめてくれるようになった。もう他人行儀に身体を硬くすることはない。それだけで小鳥は安心もするし、気持ちが落ち着く。
「なにかうまい物でも食べに行こうか」
「ううん。ここにいたい。どこにも行きたくない。今夜は走りたくもない」
 『そうか』と彼がまた頭を撫でてくれる。
「晩飯、買ってくる。待っていろよ」
 ベッドルームに小鳥を置いて、翔はまたスープラのキーを片手に出かけていった。
 
 帰ってきた彼が作ろうとしたのは『たらこスパゲティ』。
 その材料を買って帰ってきた。
 小さなダイニングテーブルに買ってきたものが並べられる。
「お兄ちゃん、料理したりするんだ」
「簡単なものだけな。子供の頃からの好物で、実家から独立する時に母親から教わった料理のひとつなんだよ」
「手伝う!」
 いつもの元気娘になった小鳥を見て、彼が嬉しそうに笑ってくれる。
「小鳥だって落ち込むことあるだろうけれど、やっぱり元気な小鳥がいいよ俺は――」
 材料を両手に抱えてキッチンへ行く途中、翔にぎゅっと抱きしめられていた。小鳥はびっくりしながら彼の胸から見上げると、その拍子にもう唇を重ねられていた。
「翔、に……」
 かるく重ねられただけの唇、でも大きな手が強く小鳥の頭を引き寄せる。『もっと俺とくっついて』そういいたそうな力強さ。そんな翔の舌先が小鳥の唇を静かに愛撫して、『口を開けて』と求めている……。いままでキスに慣れていない小鳥をリードするように、彼から唇をこじ開けて入ってきたのに……。
 そんな求愛に負けて、小鳥から口を小さく開けて、彼の舌先を迎えるように吸った。
 小鳥から招き入れたんだから、もう遠慮はしない。そんな彼の舌先……。
「んっ……」
 今日、彼の柔らかい唇は小鳥の口先をちゅっちゅと幾度も吸って、いつまでも離してくれない。
 なんだか、いままでと違う……。彼のキス。
 しつこいくらいの熱いキスがそのうちに耳元に移った。
「翔にいっ」
「今夜はこれで……、やめておく」
 熱いため息混じりの声が耳元をくすぐる。やっと彼が小鳥を腕から放した。小鳥の腕にある材料を手に取るとキッチンへ行ってしまう。
 小鳥もその後をついていく。
 気のせいか。なんとか落ち着こうとしているような、お兄ちゃんらしくない翔兄の横顔。頬が赤くなっているように見えた。
「昨夜の……、」
「うん……なあに」
「いつまでも小鳥の匂いが……」
「う、うん……」
 その続きをなかなか言ってくれなかったし、言わないまま翔は料理を始めてしまう。結局、その後も続きを言ってくれなかった。
 でも。小鳥はわかってしまう。『昨夜の、小鳥の匂いがいつまでも残っている。忘れられない』なのではないだろうかと。
 何故なら。小鳥も一緒だから。翔の匂い、肌の熱さに、愛してくれた手や唇。すべてが身体中に残っているから。
 彼も、お兄ちゃんだけじゃない。男の人になったんだと感じる熱いキスに変わった気がした。
 
 身体を重ねたばかり故の妙なぎこちなさはあるけれど、それ以外は、これまでいつも一緒にいたお兄ちゃんと女の子という雰囲気のまま、ふたりで楽しく料理を仕上げた。
 小さなテーブルに座って『いただきます』と元気よく頬張る。
 簡単な男の手料理だけれど、とても美味しくて小鳥も笑顔になる。
「おいしー! お兄ちゃんのおうちのたらこスパは、クリームを入れるんだね」
「うん。俺の家の味ってやつかな。龍星轟の日曜日の昼飯はオカミさんの手料理が名物だけれど、滝田家のバター味のたらこスパも俺は好きだけれどな」
「クリームも美味しいよ」
 元気よく食べる小鳥を目の前に、翔も静かに微笑んで食べている。
「良かった。小鳥が元気になって……。まあ、その、バイトに行けない間はやりたいことができなくて心許ないかもしれないけれど、ちょうど試験もあるんだろう。腰を据えて勉強でもしろって意味もあったと思うな」
「そうかも。自分のことでも勉強になったよ。私、急ぎすぎていたのかもね。早く夢を叶えたくて。自分のなにがいけないのかなんて、考えたことないし、考えたくないから動き回っていたのかも」
「小鳥が活発でなければ、小鳥ではない気もするけれど。そうだな。少し休んだらいい。のんびりしてみたらどうだ。俺の部屋、いつ来ても良いし、好きなだけ居ても良いからな」
「ほんとに……?」
「もちろん。昼間、俺が仕事で留守にしている時も、試験勉強で使ってくれてもいいからな」
「賢い統計の出し方とか、フランス語とか教えてくれるの」
「ああ。いままでは龍星轟で聞かれていたけれど、これからはここでゆっくり……」
 教えてあげられる。と言ってくれるのかと思ったら、そこで何故か翔が黙りこくってしまう。
「お兄ちゃん?」
「お兄ちゃん『違うこと』をゆっくり教えたくなりそうになったりして。試験の邪魔にならないよう、大人のお兄ちゃんの方が我慢するから安心しろよ」
 何を我慢すると言いだしたのか直ぐにわかった小鳥はつい赤くなる。
「もう、翔兄がそんなこと言うなんてヤダっ」
「もうお兄ちゃんではないからな。小鳥も気をつけろよ。昨夜、あれだけの、なあ……」
 またそういう恥ずかしいところは濁すんだと、小鳥は呆れた。
「あれだけのってなに」
「聞きたいのか」
 困る翔兄をみてやろうと思って意地悪を言ったのに、逆に『本当に恥ずかしいこと言うぞ』といわんばかりの真顔で返されてしまう。
「やっぱ、いいです」
 最後は大人のお兄ちゃんには敵わないだろうという勝ち誇った笑みをみせつけられて、なんだか悔しい。
 でも翔が笑いながら言った。
「それだけ、良かったってことです」
「良かったの……?」
 本当は小鳥もそこは気にしていた。大人の女としては程遠い小鳥のこと、経験ある大人のお兄ちゃんは満足してくれたのだろうかと――。
「昼は淑女で、夜は娼婦。楚々とした女性が夜になると女の性を晒して情熱的になるという喩えがあるだろう。小鳥の場合は『昼はやんちゃ娘、夜は淑女』――かな」
 なにそれ? 食べていた手を止め、小鳥はきょとんと彼をみつめた。
「昼間は元気いっぱいの女の子のまま。なのにベッドの上では男に従って淑やかに大人しい顔をしたりして。そんな時だけしっとり女の顔で男をそそる、無意識に罪な顔する。それで『痛い痛い』でも『好き好き』なんて抱きつかれたら、男はそりゃあ堪らないって話。ベッドの方が女らしいなんて、やってくれるよな」
「ベッドの方が、女らしい? ……なんか複雑なんですけど……」
 女として見える時の自分が思っていたほど酷くはなかった、むしろ、あの顔はそそられると言われ小鳥は頬が熱くなる。嬉しいような、恥ずかしいような、そんな褒められ方でいいのか困ってしまう。
「だから言っただろう。他の男にも気をつけろと。ま、俺も危ないんだけれどな」
「ゆっくりできないじゃん。お兄ちゃんの部屋でも、そんな意識しちゃうもん、私も」
「大丈夫。今日、泣いてやってきた女の子を性欲の餌食にするような馬鹿な男にはなりたくありません、俺も」
 性欲の餌食なんて。またすごい喩えが出てきて小鳥は絶句した。
 やっぱりお兄ちゃんは男なんだ――。改めて『翔兄も、もうお兄ちゃんのつもりはないんだ』と、さりげなく『男の性欲とは』を教えてもらったようなかんじ。
「冗談はこれまでな。本当に、いつ来ても良いから」
 そして最後、実家の龍星轟の事務所では涼やかな一重の眼差しが、優しく緩んだ。
「どこでも泣けなくて、俺の家に来てくれて、本当はすごく嬉しいんだ。これからもそうしてくれ」
「うん、そうする。ありがとう、翔兄」
 アルバイトを謹慎になって辛いけれど、でも、小鳥は大事なものを手に入れた気持ちになれた。
 食後は小鳥が珈琲を淹れて、またふたりでずっとお喋り。普段は口数少ない翔だけれど、今夜は泣いてやってきた小鳥にはお兄さんの顔でいろいろと耳を傾けてくれる。
 車のパンフレットや雑誌を見て盛り上がったり、この部屋に通うなら『今度、珈琲を淹れる道具を買いそろえるね』なんて相談をしたり。そんな話をしているうちに、小鳥は車の雑誌を束ねているソファーを片づけている時に、他の雑誌と広告チラシを見つけてしまう。
 それは部屋探しの雑誌とチラシだった。赤いペンでいくつかチェックしてあるし、雑誌にはいくつもの付箋がついている。
 お兄ちゃん? 聞こうとしたら、テーブルで小鳥が淹れた珈琲を片手にくつろいでいた翔の側にあったスマートフォンが鳴る。
「ああ、うん。そうか、わかった。社長に言っておく」
 会話は短く、翔はそれだけで電話を切ってしまった。
 黙って待っていた小鳥を見た翔が、いつもの八重歯の微笑みを見せる。
「大学のサークル仲間だよ。長嶋という男。そうだ、今度、長嶋にも小鳥を紹介しなくちゃな。あいつには、社長のお嬢さんが成人になるのを待っているなんて……話していたから」
「えー! それってお兄ちゃんの親友ってこと?」
「そうなるのかな。あっちは生粋の映画オタクだよ。だけれど気が合うんだよな。夢中になっているものは違うけれど、マニア的精神が似ているというか。あいつ部長で、サークルの同窓会をするときもリーダーなんだ」
「映画マニアの部長さん。会ってみたい!」
 そうなんだと小鳥は笑ったけれど、今朝の事務所で英児父が翔と話したことを忘れてはいない。
 きっとその長嶋さんが、翔兄に頼まれて瞳子さんに連絡ができるようにしたのだと。
 瞳子さんは英児父に呼び出され、それに応じてくれるのだろうか? 
「ところで、小鳥。スープラのキーホルダーにつけていた俺の指輪。どうしたんだ。小鳥が取っていったんだろ」
 今朝。彼を置いて部屋を出て行く時、彼のリングを小鳥は持って帰っていた。
「しばらくの間、貸して」
「どうして」
「お願い。貸して。ちゃんと返すから」
 翔は訝しそうにしていたが、小鳥には考えがあった。
 今日、それをしたかったのにできなかったから。また後日。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 三日以内に来い。
 英児父が、瀬戸田という男に突きつけた最終通告だった。
 その三日目に、龍星轟の英児父宛に、向こうの弁護士から連絡があったということだった。
 
「小鳥、暇なら洗車とワックスがけを手伝ってくれねえか」
 あれから最初の週末のことだった。いつもならアルバイトに出ているのに、謹慎中で小鳥は自宅で暇を持て余していた。
 そんな時、仕事中の英児父が二階の自宅まであがってきて、部屋で本を読んでいる小鳥に声をかけてくれる。
「いいの? 龍星轟だって客商売だよ。こんな顔を見せたら……」
 腫れは引いたが、口元にほんのりと青黒い痣が小さく残っていた。これは数日経ってから出てきたもので、腫れが引いて顔立ちが戻っても割と目立つものだった。
「いいんだよ。おまえがどうしたかなんてもう知れ渡っているだろうよ。父ちゃん、これから外回りで忙しいんだわ。頼むな」
 小鳥が『でも』を言い返す前に、英児父は部屋のドアを閉めた。
 ひさしぶりの強引な父親に唖然としたが、小鳥は重い腰を上げクローゼットを開ける。
 車に乗るようになってから父親がプレゼントしてくれた『龍星轟のジャケット』を羽織った。
 
 一階の事務所に行くと、英児父がスカイラインで出かけるところだった。
 どうやら本当に忙しいらしい。
「わりいな。小鳥。翔と一緒に、あの車の仕上げを頼むな」
 矢野じいに言われ、小鳥も素直に頷いて事務所の外に出る。
 ピットを出た外に、黒のランサーエボリューション。そこで翔が既にワックス缶を片手に立っていた。
 やっと結ばれた憧れのお兄ちゃん、私の恋人――と、うっとりしたいけれど、やっぱりまだまだ夢のよう。
 龍星轟のワッペンがあるレーサーチームのような紺色のジャケットに、お揃いの作業ズボン、背が高い彼が背筋を伸ばして立っていると遠目でも目立つ。春先の優しい風に、彼の前髪と耳元をくすぐるくせ毛が柔らかにそよぐ。ワックス缶を眺めている涼しい一重の眼差し……。それだけで男の匂いがここまで漂って来そう。あの人は変わらず遠くから見る王子様、でもあの男の人の毛先が小鳥の肌をくすぐったし、あのクールな眼差しを潤ませて、小鳥をみつめて愛してくれた。
 うー、やっぱり。それだけでドキドキしちゃって、近づけないよ。もう一緒に仕事なんてできないよ。なんて一人で悶えている小鳥に、彼が気がついた。
「小鳥? どうしたんだ」
 それでも小鳥は気持ちを切り替え、父親に言いつけられたことをやり通そうとする。
「翔兄。父ちゃんに手伝えって言われたんだけど」
「そうか。では、向こう半分をよろしく」
 仕事中の冷めた目と素っ気ない受け答え。
 仕事中の彼はそういう人をわかっていて、小鳥もピットからワックスがけの道具を揃え、彼の手伝いを始める。
 黒のランサーエボリューション。小鳥も知っている兄貴の車。
「高橋兄ちゃんのランエボも直ったね」
 黒い車のボディ左右に分かれ、互いにまずはルーフからワックスがけをする。
「ああ、よかったよ。こちらはランエボ同士でムキになって峠走行の勝負をして、瀬戸田の幅寄せを避けようとして自損だったけどな。それでも小鳥のMR2より当たりも酷かったし、部品の取り寄せもあって時間かかった」
「高橋兄ちゃんにも怪我がなくて良かったよ。でも、高橋のお父さんと一緒にすごい怒っているんだってね。同じランエボ乗りなのに、卑怯な走りをするって……。ランエボ乗りとして許せないって言っていたもんね」
「赤ランエボの高橋さん、ランエボ父ちゃんも息子が巻き込まれたことを心配していたから、社長も瀬戸田のことは報告したみたいだ」
 『そうなんだ』。それでも白のランエボXに当てられて、龍星轟に運ばれてくる車はもうない。
 龍星轟開店当初からの常連客である、赤いランサーエボリューションに乗り続けてきた『高橋のおじさん』。息子さんも免許を取ってから、黒いランサーエボリューション乗り。『ランエボ親子』と言われている。親父さんは英児父と一緒によく走り、息子は翔や小鳥と一緒に走ることが多い顔見知りだった。
「小鳥も当たられたことを耳にして、親子でまた怒っていたみたいだ」
「どうなるのかな。瀬戸田って人。お父さんとお母さんが話していたけれど、顧客さんが被害届を出す気があるかないかだって言っていたから」
「うん。被害届を出すとまたいろいろ大変だろうからな。慎重に検討しているんじゃないかな。社長を中心にして、まとめようとしているみたいだ。高橋さんには被害者代表みたいなことをお願いするとか言っていたからな」
 どうも親父さんグループで結束してしまったようだ。なんだかもう自分たちに起きた話ではないような気分にもなる。
 それは小鳥だけではなかったのか。高橋ジュニア・ランエボの黒いルーフをワックスがけしている翔の手先が止まった。
「翔兄?」
 じっと、ワックスが塗られたルーフを見つめているだけ。
「翔兄……」
 その目が哀しみで溢れていることに小鳥は気がついてしまう。
 そうだよね。本当は翔兄の知り合いから起きた事件だったよね。責任、感じているよね。どんなに父ちゃんが『おまえはなにもしていない。悪くない。気にするな。相手から悪いことを持ち込んできたんだ』と言ってくれても……。
 もし。顧客の誰かが『龍星轟に桧垣がいたせいだ』と言いだしたら、それは何も言えなくなるに違いない。
「翔兄。大丈夫だよ。お店のみんな、おじさん達もマコちゃんもノブ君も、ダム湖の仲間だって翔兄が悪いだなんて思っていないよ」
 翔が無言でルーフのワックスを塗り始める。
 どんなに言っても、自分の人間関係のせいだと責任を感じるのは『本人だけの気持ち』だと言いたいのだろう。それでも小鳥は諦めずに、翔に告げた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんがみんなのこと信じているように、お兄ちゃんもみんなのこと、信じてあげてよ。お兄ちゃんがみんなを好きな分だけ、きっとみんなも翔兄が好きだよ。ダム湖で一番の兄貴は翔兄じゃない。翔兄がいて、みんな、安心して走ってきたんだよ」
 綺麗ごと過ぎるとわかっている。英児父なら『純情バカ娘』と言うのだろう。でも、小鳥はこのお店を通じて親しくなってきた人達だけには、そういいたい。信じていきたい。大好きな人達ばかりだから。
 翔の、ワックスを塗る手がまた止まった。その手に気がついて、ボディの向こう側にいる翔を見ると、あのクールな眼差しで睨まれていた。
「ご、ごめんなさい。私がいうこと、子供っぽいね」
「いや。ここが職場で困っているだけ。ありがとうな、小鳥」
 あれ? え? 怒っていたんじゃないの? 感じた表情と言ってくれたことが真逆で、小鳥は呆然とする。
「でも。俺はそんな小鳥に何度も助けられてきたよ。だけど、それが俺だけじゃないのが、時々心配だな。お兄ちゃんとしては」
 なんだか、すごく疲れたようなため息をつかれてしまうが、クールな目元はもう優しく緩んでいた。
「頼むから。他の男にも優しくして、無意識に執着されないように」
「また〜、そんなこと言って。翔兄って心配性だよね」
「小鳥が心配ばかりさせるからだろ。親父さんが心配してきた分、これからは俺も同じように心配するんだ。これからずっと」
 まるで『これからは俺が親父さん同様の男として、ずっと小鳥の心配をする』、『親同然の男』と言っているようで、小鳥はびっくりしてしまう。
 つまり。それって……。父ちゃんの代わりになる男になるって誓ってくれているの? 
 そんな小鳥の顔を見て、今度は翔がきょとんとしていた。
「どうかしたのか」
「お兄ちゃんだって無意識だよねっ。十歳も年下だから何を言っても気がつかないだろうと思って、からかったらいけなんだよっ」
「はあ? なんのことだよ」
 『もう知らない』、『だからなんだよ』と言い合いながらワックスがけをしていると『そこ、仕事中に仲良くするな!』と留守番監督中の矢野じいに事務所から怒鳴られてしまった。
 
 高橋ジュニアの黒いランサーエボリューションがピカピカになった。
「明日。取りに来るってさ」
 事務所で、二人揃って彼に連絡をした。
 高橋ジュニアも、小鳥が巻き込まれて車をぶつけられたり、犯人の男に殴られたことを父親から聞いて知っていたらしく、電話口で心配してくれた。
 その時、彼がこんなことを小鳥に言った。
『俺なんかより、小鳥の方が被害者だろ。どうする? 親父達が警察に被害届とか民事の裁判とか、妙なこと話し合っているみたいだけど』
『ミキオ兄さんは、どうするの』
『わかんねえ。正直、腹は立つけど、後々めんどくさいことにはしたくない。なんか、すげえ思いこみの激しい男らしいじゃん? 逆恨みとかなんとか親父が心配している。保険屋が間に入って損害分を取り戻すだけでいいんじゃねえかとかさ……』
 それで小鳥はどうするかと、龍星轟側ではどう被害を受け止めているのかと気にしているらしい。
 側でその話を聞いていた翔も戸惑っていたが、そこは武ちゃんが、若い二人の落ち着かない気持ちを宥めてくれる。
「被害に遭うというのは、そういうこともあるんだよね。簡単に勢いで、正当な仕返しをしてお終いというわけにいかないんだよ。加害者の素質もよく見て決着つけないとね。怒り任せが実は一番危ないことなんだ。そこは親父さんと顧客筆頭の高橋さんがうまくまとめてくれるよ。弁護士も御曹司の南雲さんからの紹介で、長年顧問をしてくれているから大丈夫だろう」
 だが、そこで武ちゃんが気になることを呟いた。
「まあ。瞳子さん次第かな。本当のこと、話してくれるといいんだけれどねえ。タキさん、聞き出せたかな?」
 それで。小鳥は初めて知った。今日、英児父が急ぐように出かけていったのは『瞳子さん』に会いに行くためだったのだと。
 翔を見ると。彼も知っていたのか、小鳥を見てくれたが何も言わない。
 それに。『本当のことを話してくれるだろうか』とは、どんなこと? 英児父と武智専務は、瀬戸田と瞳子さんの間であったことは、どんなことだったと予想しているのだろう?
 この龍星轟に、彼女が再び関わろうとしている。

 

 

 

 

Update/2014.1.31
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