◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-19 一緒に暮らそう。 

 

 わかった。行くよ。
 戸惑いはあったが、小鳥は彼にそう返事する。
「道後にあるカフェなんだ。駐車場もあるから車で行ける」
「道後のどのあたりなの、教えて」
 私はMR2で、お兄ちゃんはスープラで。そんないつもの感覚だった。
「小鳥もスープラだ。行こう」
 強く言われる。なんだかいつもの翔ではない感じで、小鳥は当惑する。
 元カノのところに、『子供に手を出した』と言われた新しい恋人を連れて行くから? 彼もとても気構えている。
 翔のスープラはガレージ前の従業員駐車場にあって、彼の車から英児父がいる事務所はよく見えてしまう。
「行こう。瞳子も、もう今夜しか出てこられないそうだから」
 なのに翔は父親の目を気にすることなく、小鳥を連れていこうとしている。
 ――子供が、男と女のケジメの邪魔すんなよ。
 意地悪く言われたけれど、いざ彼が連れて行ってくれるというと、英児父の言葉が一理ありすぎると思ってしまう。
「翔兄、やっぱり……私、」
 運転席のドアを開けた彼が解っているかのように、英児父をやっと気にした。
「俺が連れて行きたいんだ」
「その気持ちで充分だよ」
 元カノに、いまの恋人はこの子だとはっきりと解らせるために連れていくのだと思っていた。
「違う。小鳥は、俺と瞳子と瀬戸田という、ずっと大人であるはずの年長者の俺達の関係に巻き込まれた『被害者』だ。どうして車を当てられたのか、そして殴られることになったのか。殴られたことで、客商売であるアルバイトを謹慎することになってしまった。全て、大人であるはずの俺達が巻き込んだからだ。知る権利がある。親父さんにもそういって、連れていくと伝えている」
 まったく違うことを彼が考えていた。そして英児父にもきちんと伝えて、お嬢さんを連れて行くことも許してもらっている。
 男と女なんて……。もしかすると他愛もないひとつの関係性に過ぎず、もっと大事なのは『それ以前の、大人としての関係性』。それがなっていなかったから、小鳥が巻き込まれた。どうしてこんなことになったのか。そして小鳥はそれに巻き込まれて、アルバイトを謹慎することになった。
「瞳子もおなじことを言っている。小鳥が会う気がないなら仕方がないけれど、小鳥が来てくれるなら、なにもかも話す覚悟もしているし、謝りたいと……」
「そ、そうなんだ」
 彼が連れて行きたいと言い、彼女は覚悟している。元恋人同士の間で、小鳥に来て欲しいと言う。それならと、小鳥は助手席のドアを開けてしまう。
 シートベルトをすると、運転席に翔が乗り込んだ。
「これで最後だ」
 シートベルトを締める彼が、自分に何度も言い聞かせているように見えた。
 男らしい指先がキーを回しエンジンがかかる。長いデニムパンツの足がアクセルを勢いよく踏み込むと、スープラが唸った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 この街に観光に来るならば、この温泉街が目的になるのだろう。
 明治の情緒が薫る道後温泉本館の前を通り、スープラはカフェへ向かう。
 その道沿いを助手席で眺めていて小鳥は気がついた。
「もしかして。翔兄の実家の近く……?」
「ああ。うん。たまたまな。瞳子も実家が近いから、いつも……」
 そこで彼が話している途中なのに言葉を止めた。小鳥も察した。ああもしかして、恋人だった時に良く通っていたカフェなのかなと。
 結婚前の彼女は実家暮らしだったらしいから、彼と待ち合わせをするのにちょうど良いところだったのかもしれない。そこへ今の彼女を連れて行くことになる、だから、彼が躊躇って黙ったのだと――。
 だが翔はため息をつくと、ちゃんと小鳥に告げた。
「仕事帰りによく待ち合わせていたんだ。道後らしい落ち着いた和カフェで、俺の仕事が遅くなっても、そこなら瞳子は歩いて帰ることが出来るから」
「和カフェなんだ。知らなかった、こんなところに」
 元恋人との待ち合わせ場所だったことよりも、小鳥はつい仕事絡みになる『カフェ』に反応してしまった。
 それを見た翔がちょっと呆れた顔をしたような……? 少ししてから彼がおかしそうに口元を緩めていた。
「なんだよ、そっちかよ」
「あ、うん……。だって。お兄ちゃんと瞳子さんが恋人同士だった時のことなんて、何も言いようがないじゃない。その時、私、子供だったんだし」
 いまでも子供かも――と、心で付け加えてしまう。
「子供だった、もう大人だったも関係ないな。その時わからなかったことが、別れてから沢山わかった。もしくは、小鳥と一緒にいるようになってわかったことも沢山ある」
 それって。良いことなの、嫌だったことなの。ふとそう思ったが小鳥は口にしたくなかった。
「長い春、質の悪い長い春。そうだったんだなと――」
「自分の恋をそんなふうに責めるの。なんか寂しいよ」
 自分より前に愛された女性がいること、意味もなく心が痛むのはそこは『女心』。だけれど、大好きな彼が過去の自分を責めるような姿はもう見たくない。彼女と別れた時の、あの荒れた姿、哀しそうな姿はもう……。そんな彼を見てしまったから、小鳥はもっともっと彼の傍にいたいと思うようになった。その時、もう可愛らしい恋が何かに変貌したと思っている。
「小鳥のそんなところ。俺はいつのまにか虜になっていたんだろうな」
「と、虜!?」
 運転席でハンドルを握る彼が、にっこりとあの八重歯の笑顔を見せてくれた。もうそれだけで……いまだって卒倒しそうにドキドキする!
「そう。きっと俺がめちゃくちゃになって社長にぶん殴られたあの岬の夜からだな。俺……あの頃から少しずつ、小鳥といる心地よさを覚えていった。そうだな。小鳥のことも、ゆっくりゆっくり俺が自覚していった。きっとそれと同じように、瞳子とのことも感覚が弱くて……ゆっくりゆっくりと誤魔化してきた。俺の自覚のなさが、質の悪いものにしていったんだ」
「翔兄……。でも……」
 やっぱりそんな責めるお兄ちゃんなんてみたくないよ。だけど小鳥もちょっとずつ解ってきた。このお兄さんは英児父のようにドンといっきに感覚を得る男ではないのだと。慎重で堅実だからこそ、じっくりゆっくり噛みしめるように味を確かめて取り込んでいくタイプの人なんだと。だけど、それを取り込んだら『一途』。この人もぶれない。そんな男の人だと近頃は感じている。感覚のスピードは違うけれど、根本的な価値観が彼とはとてもよく似ていたのかもしれないと。
「瞳子のこと、すごく傷つけていたと思うよ。小鳥はあの時の俺を見守ってくれていたから、俺としてもこのケジメは見届けて欲しいというか……」
 だから『一緒に来て欲しい』と言ったのかと、小鳥もようやっと納得した。
「うん。わかった。黙ってみてられるよ。いつものように思わず首を突っ込むとかしないから」
「あはは。別に、小鳥が俺と瞳子の話し合いを滅茶苦茶にするだなんて思っていない。でも……瀬戸田とのことは、俺と瞳子は龍星轟にも小鳥にも申し訳ないことをしたと思っているんだ」
 瞳子がそれをいちばん気に病んでいる。彼女にも詫びるチャンスをくれないか。最後に翔はそう言った。
「着いた。あのカフェだ」
 和カフェで、あまりにも町並みに溶け込んでいて今まで小鳥も気がつかなかった小さなカフェだった。
 温泉街の周辺町、そこが翔と瞳子さんが育った周辺。実家が近いことも二人を仲良くさせたのかなと思うぐらいに、二人の実家が近かった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 カフェに入ると、観光客や地元の女性客でわりと混んでいた。
 いちばん奥の窓際のテーブルにその人がいた。
 奥なのに翔がきょろきょろせず迷わずに突き止めたところを見ると、そこが恋人時代の指定席だったようだ。
 そこに物憂げに宵闇に浮かび上がる温泉街を見つめる女性がいた。
 今日、日中は父に呼び出されて赤ちゃんと街中まで出向いて、また夜に元カレと約束して出てきてくれた。でも今度はひとり。赤ちゃんがいない。実家に預けてきたようだった。
 その人を見て、小鳥はちょっと哀しくなる。この前、翔の部屋で感情的になっていたあの気迫が見られない彼女は、とてもくたびれて見えた。
 あの人は独身の時、翔の恋人だった時は、とても清楚で優美で素敵な大人の女性だった。小鳥が到底なれない、とてもすぐには追いつけない。女性として積み重ねてきた色気だってあった。
 なのに……。今日の彼女は見ていられなかった。それなりの服装なのに、独身の時の華やかさはもうない。服じゃない。彼女の生気なんだと女として目の当たりにしてしまう。
「瞳子」
 彼が声をかけると、ハッと連れ戻されたように彼女が顔を上げた。
「翔……」
 そして彼女が翔の後ろに控えている小鳥にも気がついた。
「小鳥さん、来てくれたの」
 この前、鬼気迫る眼差しで自分を睨んだ女性はもういなかった。小鳥が高校生の時に初めてみて、魅力的すぎてショックを受けたほどのあの女性の顔で迎えてくれる。
「本当だわ。お父様が教えてくださったとおり。……ここ、殴られたって……」
 小鳥の唇の端に残っている痣をみつけ、彼女が泣き崩れてしまう。小鳥の方が困惑した。
「あ、あの……。父にどのように聞かされたのかわかりませんけれど。あの……私、こういうのは良くあったことで」
 子供の頃から男子と取っ組み合いの喧嘩で、あちこち痣を作って帰るのは当たり前だった。高校生の時だっていろいろ首を突っ込んで擦り傷もよくあったこと。大人になってそれがちょっとグレードアップしたぐらいのことで……。
「だからって。大人の男に思いっきり……。しかもあの男が殴ろうとしていたのは、男の翔だったわけでしょう。その力をめいっぱい貴女が代わりに受けてしまったのよ。それまでの男子との小競り合いとは違うでしょう。本当の恐ろしい暴力なのよ」
 そして彼女が顔を覆いながら泣き始める。静かに遠くを見つめていたが、心の内はとても思い詰めていてはち切れそうになりながら、待っていてくれたんだと小鳥には伝わってきた。
「座ろうか」
 彼女が取り乱す前に、翔がそっと彼女を席へと促した。
 彼女も落ち着きを取り戻し、元の席に座った。その正面に、翔と小鳥は並んで座る。
 すぐにオーダーを取りに来た。翔も小鳥もブレンドを頼む。
 スタッフが去っても、思った通り。まともに向かい合った彼と彼女は黙っていて、目も合わせようとしなかった。
 翔は不安定そうな彼女を気遣って、どこから話を切り出したら良いのか解りかねているようで。彼女は言わなくてはいけないことをなかなか言えずにいるようだった。
 だからって小鳥もその間を取り持つなんて、若すぎる故に子供っぽいことを言い出したくなくて何も出来ずにいた。
 そのうちにオーダーした珈琲が来てしまう。
「あ。砥部焼きなんだ。素敵。場所とお店とすごく合っている」
 地元のせとものを茶器に使っていた。道後という観光地だから地物を上手く使っていて、しかも和食器だから和カフェにもレトロな町並みにもとても良く合っている。
 その隣で翔が笑った。
「やっぱり小鳥はそっちが気になってしまうんだな」
 そう言いながら、窓際に揃えられているシュガーポットを取ってくれる。長い指先で小鳥の前に静かに置いてくれた。
 小鳥がシュガーを二つ入れると、翔はひとつ入れる。翔の前にあるフレッシュクリーム、彼はそれを自分が使うより先に小鳥の前に置いてくれる。小鳥もフレッシュクリームをたぷっり入れたら、すぐに彼の前に返す。そしてやっと翔は自分のカップに少しのフレッシュを注ぐ。
 いつもの何気ないやりとりだったのに。それを見ていた瞳子さんが、肩の力が抜けたように微笑んでいた。
「わかっていたのにね。翔のそういうところ」
 小鳥と翔は揃って何のことかとカップ片手に彼女を見ていた。
「翔の、そんな優しさとか、ちゃんと細やかに気遣ってくれているところ。わかっていたのにね」
 忘れていたことを思い出したかのように、彼女が目を細めていた。
「小鳥さん。お砂糖もふたつ、フレッシュもたっぷり入れたわね。彼女が沢山入れるから、まずは彼女から。残りはそんなに必要ない自分が使う。そういう『自分が先』じゃなくて、周りをよく見て誰がいちばんそれを必要としているか見ているの」
 元恋人の普段身に付いている気遣いを懐かしんでいる。
「有り難みがなくなっていたの。有り難みどころか、もっともっと、翔ならもっともっと素敵なことを与えてくれると高望みばかりして」
 一口すするどころか、翔は手に取ったばかりのカップをソーサーに置いてしまう。
「それは俺も同じだ。なにもしてあげられなかった」
 小鳥の隣でお兄ちゃんが項垂れている。そして彼女は微笑んで首を振っている。
 見ていると、彼女がもう幾分か割り切れているように見えた。
「あの、瀬戸田君のことなんだけれど……」
「ああ。聞いた。社長から」
 そこでまた二人が黙る。英児父にだいたい話した彼女と、英児父からだいたい聞いた彼だから、改めて多くを話し合おうとしていなかった。それは小鳥も同じで、もう知っているから改めて問いただそうとも思わない。
「ねえ。瀬戸田君、どうなるの」
「まだ判らない。顧客が被害届を出したら警察沙汰、裁判沙汰になると思う。そうでなければ、弁護士を挟んで示談かな。改めて保険屋を挟んで損害の精算になると思う」
「滝田社長が、なるべく私の不利にならないようにすると言ってくれたんだけど」
 父親が彼女とそんな話し合いをしているのは、翔も小鳥もこの場で初めて聞いたこと。
「そうか。大事になると、瞳子のことも表沙汰になるのか。ご主人に……」
 翔が口ごもる。その先を言うと彼女が不安がるだろうから。そして小鳥もここにきて、初めてハッとした。そうか。瞳子さんが翔兄を助けるような証言をすると、瀬戸田と不義理一歩手前まで足を突っ込んでいたことをご主人にばれてしまうのかと。
 父親が『おまえは子供だから』と言って、翔と彼女だけの話し合いにしようとしたのも、こういうことだったのかもしれない。
「でも、もういいの。なんだか疲れちゃった」
 そこで彼女がまた涙を蕩々と流し始めた。
「彼に自慢してもらいたい素敵な恋人になりたくて。自慢できる彼になってほしくて。それが叶わなかったらそこから逃げて、それを叶えてくれそうな男性に愛もないのに身を投げたのよ。身を投げたのに、それに見合う完璧な結婚生活にならない。夫と気持ちが通じない。私がやってきたのは、この年齢にはこうなっていなくちゃ……というハードルを跳んできたことだけ。だんだん躓くようになって、うまく飛べないのは、また夫のせい。ひとりで怒って文句を言って、また……自分に都合の良い男の人に……私は……!」
「じゃあ。ご主人に知られてもいいと……?」
 心配そうに翔が尋ねる。
「相手がこれだけのことをしたんだもの。私だけ知らない顔なんてできないじゃない」
「だが、どう考えても瀬戸田が短絡的すぎるのが原因だ。たとえ、瞳子が引き金でも……」
「関わらなければ。そちらのお客さんの車が何台もぶつけられて、なんの関係のない小鳥さんが真っ正面から翔と間違えられてぶつけられて、二年も会っていなかった翔が狙われることも、翔を助けようとして小鳥さんが殴られることもなかった」
 あの乱暴な男は、私が呼んだのよ。
 彼女が言いきった。翔の言うとおり、あの瀬戸田という男が人妻に振られただけで終わっていればなにも起こらなかったとも言えるし、瞳子さんの言うように、人妻の自分がまったく相手にしなければ、あの男が逆恨みの炎を燃やすこともなかった。
「短絡的なのは、瀬戸田君じゃないの。私だったの」
 疲れ果てたため息を大きく吐くと、彼女はさらに教えてくれる。
「彼を拒絶してからしばらく連絡がなくて安心していたんだけど。翔の部屋に二年ぶりに訪ねる前の晩に、瀬戸田君からメールがあったの。『いい加減な瞳子さんは、きっと痛い目に遭う』と。だからって出てこいとも会ってくれともなくてそれっきり。でも怖かった。また公園に来ているかもしれない、家を知られているかもしれない。でも夫も実家も留守で、怖くなって次の朝早くに外に出たの。なるべく人が多い市駅のデパートで時間を潰していたんだけれど、夜になってこれから閉店の時間になったらどうしたらいいんだろうって――。それで、つい、翔のところに……」
「そうだったのか。あの晩だ。小鳥がMR2をぶつけられたのは」
「聞いたわ。痛い目に遭うって……。瀬戸田君も、その夜はダム湖にいるだろう翔を探して、最初から体当たりする決意だったのね。だけど、昔の翔の車には女の子が乗っていた……」
「だから、気がついた瀬戸田は一発だけ当てて去っていったのか」
 なにもかもが結びついていく。小鳥が知らない『お兄ちゃんとお姉さんの学生時代』の世界。小鳥はそこにいつのまにか紛れ込んでいたらしい。
 そんな彼女が小鳥を見た。そして深々と頭を下げてくれる。
「ご迷惑をおかけいたしました。ほんとうに、ごめんなさい」
 別に。彼女に謝って欲しいことなどなにもなかったのに……。
「私が謝って欲しいのは、瞳子さんよりも瀬戸田という男の人です。許せないんです。私たちが好きな車を使って、私たちの愛車を次々と潰そうと思い付いたその心根がいちばん許せない。その前に、男と女のいざこざがあってなんてことは、関係ないんです。それがあって、むしゃくしゃして、じゃあどうして『車を痛めつければ、いちばん悔しい思いをする』なんてことが思い付くのか出来るのか。それが許せないんです」
 自分より大人の二人が顔を見合わせた。
 そしてその隣で翔がやや呆れた面持ちで首を振っている。
「小鳥らしいな、ほんとうにもう」
 だけどどうしてか、翔と瞳子さんがそこで目を合わせて笑いあっている。
「翔が言ったとおり。根っから車屋さんの娘さんね」
「それに合わせて、最近は珈琲や喫茶に夢中だ」
 やっとカップを手にして彼が珈琲を飲んだ。
「滝田社長、お父さんから聞いたわよ。いま、真田珈琲の本店でアルバイトをしていらっしゃるんですってね。将来は、長浜の親しいおじい様のお店を継ぐんだとか」
「そんなことまで話したんですか。あの父は……」
 翔のために、本当の経緯を聞きにいったはずの父が、指定した場所で娘の話をしちゃっている。
「そのお顔になった為に、謹慎になったんですってね。珈琲を持ってきてくださったのが、真田の専務さんだったかしら。お父さんとお二人で挨拶を交わしていらして、その時に、お父さんが『バカ娘は元気だから心配しなくていいよ』と専務さんに……。専務さんホッとした顔していらしたわよ」
 おじさんが本当は気にしてくれていたことを小鳥も知ってしまう。そして英児父が本店に行ったのはそれもあったのかもしれない。
「その時に、なにもなければ今日もあのお店で働いているはずの貴女が、どうして今はいないのかお父さんからお聞きしたの」
 そして、この彼女にどんなことが起きたのかわかってもらうためにも、本店に連れて行ったのかもしれない……。父がすることを娘としてそう感じてしまう。
「それで……、あの男を突き放してなんとか逃れたと思ってのうのうとしていた自分を恥じました。あの男が接触してこなくなったから諦めてくれたんだとほっとしているその間、龍星轟のお客さんに迷惑がかかっていて、貴女の車がぶつけられて……。自分の気持ちを楽にするために安易に彼に気を許してしまったことが、こんなことを起こしていると滝田社長から聞いて、頭が真っ白になった……」
 そして彼女はその時、英児父と何を話したのかを教えてくれる。
 英児父は『瀬戸田という男と最近会ったりしていなかったか』とまず切り出しそうだが……。
「正直言って、彼に少しでもなびいてしまったことを知られたくないと思ったのよ。そんな軽い女だなんて、特にあの社長さんには知られたくなかった。だけど社長さんは『いきなり翔が恨まれたのが腑に落ちない、何年も会ってもいなかったのにいきなり』、自分は部下にはなんの落ち度もないと思っていると――」
 上司である自分はそうは思わない、どうしてこのようなことが急に翔に降りかかったのか知りたいと、英児父は瞳子さんに強く尋ねたとのことだった。
「ただの男と女のいざこざに、どうして上司であるあの社長さんが首を突っ込んでくるのか嫌に思った。でも瀬戸田君がそちらのお店に迷惑をかけていることを教えてくれて……。そちらのお客さんに被害が出て、娘の車がぶつけられて……。そんな犯罪まがいのことに走っていたことを知った時は血の気が引いた」
 彼女がそこで心苦しそうに眼差しを伏せた。
「そんな彼を追いつめていたんだと、私のせいだと、やっと自覚したの。実際に瀬戸田君にも酷いことを言ったから」
 また彼女が目尻にこぼれた涙を拭った。
「だから。主人とうまくいっていない心の風穴を埋めるように、瀬戸田君の誘いに応えてしまったことも。拒絶するために翔の名を言ってしまったのも、正直に話したの。社長さん『やっぱりね』と……呆れられると思ったけれど、そうではなくて、自分の部下のせいではなかったと知ってホッとした顔していた」
 そんな英児父の姿が娘の小鳥には、ふっと目に浮かんでしまう。部下を大事に思って、翔の心の負担を少なくしようとしてくれたその姿が。
 それは翔も同じだったのか、上司の思いに触れ、その有り難さに静かにでも熱く震えているように見えた。
「私だけね。自分のことだけで、あてずっぽうに駆け回って押しつけがましいことをしているのは。そう思った。ほんとう……恥ずかしかった」
 そして彼女が改めて背筋を伸ばし、小鳥と翔に向かう。
「本当に、申し訳ありませんでした。私のことはもうなにも気にしないで。主人とどうなろうとも、自分のことは自分でなんとかします」
「それでも……。別れるなんて簡単に考えるなよ」
 翔のひと言に、彼女の目元が潤んだ。
「も、もちろんよ。子供もいるからね。それにあの人も、子供が可愛いんだなと思えるような姿、ちらほら見せてくれるようになったしね」
「そうか、良かったじゃないか」
 翔もホッと表情を緩め、いつもの八重歯の微笑みを見せた。
 その時の――。瞳子さんの切なそうな眼差しを小鳥は見てしまう。きっと女にしか判らない、女の切なさと、強がり。
 でも。それが瞳子さんが、この日、翔に見せて終わりにしようとしている姿なんだと小鳥には見えたから、だから、やっぱり間に入れない。
「あ、でも。最後にひとつだけ。翔に文句を言っておこうかな」
「な、なんだよ」
「部屋のこと。あんなに変貌しているとは思わなかった。部屋のインテリアなんてまったく気遣わなくて、車ばかりだったのに。アロマオイルのいい匂いまでして、なにあれ」
 そんな時、瞳子さんが小鳥をあからさまに見た。でもその目にはもう女の情念のようなものはない。優しく彼女が、でも哀しそうに見えている。
「小鳥さんの趣味でもなさそうね。全然違うのね。私の時とは――」
 翔が合間に飲んでいた珈琲カップをテーブルに置く。
「小鳥がじゃない。俺が……なんだよ。おまえと別れて、おまえがあの部屋に来なくなって、おまえが選んだものばかりが残って。俺って、どこを見ていたんだろうなと寒くなったんだよ」
 彼女がおかしそうに笑った。
「そりゃそうでしょう。女が去ったのに、女みたいな部屋に取り残されたんだもの」
「それと同時に。俺はここにはいなかったのかもしれないと思った。まるで瞳子の部屋。逆に瞳子にも俺はいなかったから、あの時の部屋は瞳子の住まいみたいになってしまったんだと」
 八年も付き合ったのに、空気みたいになって、傍にその人がいるのに、結局自分たちがそれぞれが好む生活を隣でしていただけ。そう翔が付け加えた。
「ほんとね。なにもかも平行線だったね。翔は車が好きで外に出て行くばかりだったし、私は素敵な日常を自分専用の空間に蓄積していくだけで。ただ同じところにいて、ただ男と女がすることをしてきただけ」
 また、彼女が小鳥を見た。
「目が生きているもの、翔の目がね。これでも八年も付き合ったから違いが判るのよ」
「目が生きている?」
 小鳥にはわからない。ずっと前から彼の目は同じで変わったなんて思ったことがない。女として未熟ってこと?
「龍星轟という世界にいると目が生きるの。たぶん小鳥さんには当たり前の、毎日よく知っている目なのよ」
 生きている彼を毎日見てきたから当たり前。違いなどわかるはずもなかったらしい――。
 最後に瞳子さんが、珈琲カップに視線を落としながら、泣きそうな声で言った。
「でも。わかる。あの社長さんと、そのお嬢さんだもの。翔でなくても、私だって……。惹かれるもの。でも私の方が素晴らしいとあの時は……」
 それきり。彼女は涙を堪えるように黙り込んでしまった。
 窓の外は宵闇にほんのりと浮かび上がる道後本館、湯浴みに行く半纏と浴衣姿の観光客が通り過ぎるのが見え始めた。
 翔ももうなにも言わなかった。そして彼女も。
 八年の春に区切りをつけた男と女が語りたいものは、もうなにもないようで。
 これが『ピリオド』の瞬間なのか。
 自分のことではないけれど、やっぱり小鳥は泣きたくなった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「じゃあね。翔、元気でね」
「瞳子も。子供と頑張れよ」
 道後の和カフェをでた入り口で、元恋人同士が別れた。
 観光客が行き交う温泉街、ほのかな宿の灯りが落ちる夜道を彼女が歩いていく。
 さよなら。これが、本当のさよなら。
 でも二人は『さよなら』なんて言わなかった。またすぐに会うみたいな、いつもの『じゃあね』で別れた。一度は愛しあった男と女が、もしかすると別れるその時でも決して言いたくないひとことなのかもしれないと小鳥は思った。
 胸が痛いよ。来た時は、ガッカリするほどくたびれて色褪せた女性になってしまったと思ったのに。小鳥が見送るその人は、あの大人の素敵な佇まいをみせて、凛と歩いている。
「大丈夫そうだな」
 翔ももう、晴れやかな微笑みでその人を見送っている。
 なのに。隣にいる小鳥の手を、彼がそっと握ってきた。やがてその手に力がこもる。
 そうだよね。傍観者のように見ていた小鳥だって切なく思っているのだから。当人である彼にだって、胸に迫る何かがあるはず。
 だけど、独りじゃないと彼が確かめている気がした。だから、小鳥も握りかえした。
「帰るか」
「うん」
 手をつないで、スープラをとめている駐車場へ向かう。
 白いトヨタ車の前まで来て、助手席側へと小鳥が向かおうとすると、離そうとした手を翔が強く握りしめ引き止めた。
「小鳥」
 温泉街の夜明かり、彼の向こうには、のぼりはじめたばかりの月があった。
 その月の下、妙に真顔になった彼が見つめてくれている。手をつないだまま、小鳥は首を傾げた。
「翔兄?」
「これで今度こそ本当に終わりだ」
「う、うん。そうだね」
 見届けたよ。ちゃんと。お兄ちゃんと瞳子さんのケジメ。今度こそ道を分かち、それぞれの道へ進み、その姿を確かめ互いにもう振り返らず見送った決意を。
「これから、小鳥とずっとふたりだ」
「そうだね」
 小鳥も感じている。この人はそうと決めてくれたら、車を愛するように脇目もふらず、小鳥だけを見てくれると。今度は小鳥も強く感じている。
 そんなわかりきったことを確かめてくる彼の目がとっても思い詰めていて、小鳥が不安になってくる。まだ、なにかあるの。大人の気持ちってそんなに一筋縄ではいかないものなの? 複雑なの?
「俺と一緒に暮らさないか」
 は? 小鳥は絶句し、目を大きく見開いた。
 一緒に暮らす? 大人の想いは複雑どころか、ものすごくすっ飛んだ予想外なところへ小鳥を連れていこうとしている!?

 

 

 

 

Update/2014.2.20
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