◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-20 私が、愛シテアゲル。 

 

「今年は引っ越そうと決めていたんだ。もうあの部屋を引き払う」
 思い出す。彼の部屋に不動産のチラシに雑誌があって、付箋がいっぱい貼ってあったことを。あれは新居を探していたということらしい。
 それでも小鳥は驚きを隠せない。
「ま、待って。あの、お、お兄ちゃんが心機一転、お引っ越しするのは良いと思うけど。でも私と暮らす――だなんて」
「わかっている。すぐにそうするのは小鳥も躊躇いがあるだろう。まだ学生だ。成人したばかりだ。親父さんだって小鳥が家から出て行くだなんて考えてもいないだろう」
 じゃあ、どうして……? 小鳥は無言で彼の目に聞いた。
「小鳥の部屋も取ろうと思っている。最初は通いでいい。でも、俺は親父さんに伝える覚悟は決めている」
 そのまま翔が迷わず言い放つ。
「娘さんと一緒になる覚悟をしている。だから一緒に暮らしたいと」
 わ、わ、わ。待って、待って、待って! 小鳥の頭の中が熱く沸いてきた。
「そ、そ、それって、つまりその……」
「結婚前提に決まっているだろ」
「に、に、兄ちゃん! 私、この前、お兄ちゃんのカノジョになったばかりだよ!」
「身体と確認が最後に来ただけで、俺的にはとっくに彼女だったけどな」
 わー! もう小鳥は叫びたくなった。
 だって、この前まで『お兄ちゃんに告白する。でも……出来ないよ!』とのたうち回っていたのに。やっと想いが通じて、あんまり年の差があるから『子供な私をどうしていつから好きになったの』と戸惑っていたのに。エッチがなかなかうまくできなくて、やっとやっと彼とひとつになったばかりなのに!? いきなり『一緒に暮らそう。一緒になろう』!?
 まさかの、プロポーズ!? もっともっと大人になってしっとりロマンチックにその日が来るかもと漠然と夢見ているだけだったのに!?
「言っておくけどな。俺って適齢期ってヤツなんだよ。もともと女にそれほど興味もないから、これから先も小鳥以外の女なんて考えられないだろうし、俺はいつでもOK。ただ小鳥がまだ学生で若いし、小鳥には目標と夢があるから、そんなすぐにとは思っていない」
「お、お兄ちゃん。私が子供だからって、だから、からかったりしたらいけなんだよっ」
 嬉しいというより、大パニック。向こうは小鳥を大人の恋人として見てくれているのに、こんな時に自分で自分を子供にしてしまっている。
 彼が呆れた顔でため息をつくと、なんだががっかりしたようにスープラのボンネットに腰を落としてしまう。
「……だよな。やっぱり、小鳥はまだ若いんだな。結婚なんて考えたこともないか」
 そう、考えたことなんてあるはずもない。夢見ることがあっても、つい最近まで小鳥の夢見るは結婚よりも、大好きな彼の『カノジョ』になることだったから。
「いいよ。小鳥。だけれど、大学を卒業したら俺と一緒に暮らしてくれないか」
「そ、そんなに今、決めなくちゃいけないこと?」
 先をどんどん勝手に決められていくような錯覚に陥った。もちろん、大人の彼が結婚を考えるのは当たり前だと思ったし、夢見ていたことがいっぺんにやってきたみたいで嬉しい、でも!
「俺と小鳥。やっぱり年の差あるな」
 翔には自然に考えていたことで、でも小鳥には思い付かないことと言いたいらしい。
 きっと。きっと。お兄ちゃんのことだから、家探しをしている時から、もう小鳥のことを考えながら決めていたのかもしれない。
 突然じゃない。お兄ちゃんはお兄ちゃんなりに、三十歳の男が考えることを考えて準備をしてきただけの……。
 なのに。噛み合わなかった。同世代の女に言えば、喜んでくれるだろう申し出も、十歳年下のまだ学生である彼女には喜ぶ前に戸惑いの種になるだけの……。
 早まったと肩を落としてボンネットに座っている彼の真ん前に向かい、小鳥は翔を見下ろした。
「お兄ちゃん。ごめんね。嬉しいよ」
 だけれど小鳥の返事は『すぐには答えられない』だった。
「いいんだよ、小鳥。でも、じゃあ、予約な」
 この前はカラダの予約。今度は将来の予約? 
 彼女が今の自分のようになるまでは、まだ十年かかる。その間、本当にふたり一緒にいることが出来るのか。翔の目にそんな不安を見てしまったような気がした。
 小鳥はネルシャツのポケットに持っていたものを取り出す。
「翔兄、これ……」
 それをボンネットで力無くうつむいている彼に、手のひらに乗せて見せた。彼もびっくりして小鳥を見上げてる。
「これは……」
「うん。お兄ちゃんのリングだよ。これならいつも身につけていられるでしょう」
 彼の首に革ひものチョーカー。リングだけじゃない。リングの隣に『カモメのチョーカートップ』。小鳥はそれを探していた。だからすぐに彼に返せなかった。
「父ちゃんがこうしているんだよね。龍の婚約指輪。整備士で車に傷を付けないようにするために、指につけられないから、お母さんがいつも身につけられるようにってチョーカーにしたんだって」
「社長がいつも首にしているあれ。そうだったのか」
「そうだよ。他に方法がないか私、探したんだけれど……。やっぱりこれしか思い付かなかった」
 両親がしているように、結局、自分もそうしたかったのかもしれない。
 小鳥はチョーカーの留め具を外すと、目の前で戸惑っている翔の首にそれを付けようとする。
「翔兄。まだまだお兄ちゃんに追いつけない、十年も後を歩いている私だけど……」
 彼の首の後ろで、小鳥はパチンと留める。
 男っぽい鎖骨のところで、初めて銀色のリングとカモメが揺れた。
「翔兄。約束なんかしなくても。これから毎日、ずっと十年。それからももっともっと。私、翔兄を愛シテアゲル」
 一緒に暮らすとか、結婚とか、いまはまだわからない。だけれど、今から彼に精一杯できることは、彼をめいっぱい愛していくこと。それを続けていくこと――。
 それを誓うように、小鳥から彼の唇にチュッと小さなくちづけをした。
 ボンネットに座っている翔は上から女の子にキスをされて、呆然とした顔。そっとキスした跡に触れて、ため息を落としている。
「小鳥、あのな」
 ふと気がつくと、またあの怒ったような顔で下から睨まれていた。
 え、どうして? やっぱりまた子供っぽかった? 大人は確実性のあるライフプランを目安にパートナーと生きていこうとしているのに、小鳥はただただ不確かな気持を口にするだけだから?
「この前から。小鳥……。俺、思っていたんだけれどな」
 ボンネットに腰をかけていた彼がすっくと立ち上がる。あの涼やかな眼差しが、今度は真上から小鳥に注がれる。この前と同じ、ちょっと怖い目。
「う、うん。えっと、その、やっぱり子供っぽい? 私」
 『違う』。小さくそう呟いた彼が、小鳥を勇ましく抱き上げた。
 背の高い、逞しい筋肉を携えている長い腕に腰を抱かれ、小鳥のつま先は軽々とアスファルトから浮いている。
「きゃ、え、なに」
 そのまま、今度は小鳥がスープラのボンネットに座らされた。
 しかも小鳥を囲うように、彼の長い両腕がボンネットにドンと強くついた。
「え、翔兄……? なに怒っているの? この前から私がなにかいうと、なんか怖い顔するよね」
 その翔の怖い顔がゆっくりと小鳥の鼻先に近づけられる。
「生意気なんだよ」
 やっぱり。怒っている! 簡単に綺麗事ばかり子供っぽい発想しか口から出てこないから怒っている!?
 ボンネットの上、逃げられないよう両腕に囲われて、怖い顔がじりじりと小鳥に迫ってくる。小鳥も逃げられないけれど、両手を後ろについて背を反ってしまう。
 最後。小鳥の身体がボンネットに倒れそうになったその時――。倒れないよう翔が背を抱きとめてくれる。
「生意気なんだよ。愛シテアゲルなんて、十年早い」
 ごめんなさい。うん、生意気だったね。そう謝ろうとしたら、そのお喋りな口を止められるように、強く塞がれ吸われていた。
「しょ、う……?」
 と呟くのがやっと。彼の唇が激しく、何度も息継ぎをしては、いつまでも小鳥の口元を愛してくれる。珈琲の匂いが残る舌先が、唇も中も熱く奥まで愛撫してくれる。
 息苦しくて、でも、とろけそうで気が遠くなりそう。どうしたんだろう。いままでは胸がドキドキだったのに、もう違う。いまはキスをされると身体の奥がつきんつきん痛くなって、熱いものが滲みだす感覚に変わってしまった……。
 その甘い疼きにとかされ、小鳥はただ、彼の肩越しに見えた月をぼんやりとみつめるだけに……。
「ずっと小鳥のその真っ直ぐさに支えてもらってばかりだった。だから、もう小鳥に負けない。まずは俺から、おまえを愛シテアゲル――」
 負けない? いつからそんな勝つとか負けるに? それに、俺が十年、愛シテアゲル??
 自分から溢れた気持ちを、彼がもっともっと熱くして投げ返してきた。
「翔兄……翔、」
 小鳥も抱きしめてくれる彼に、腕を伸ばして抱きついた。
 月夜の道後、レトロな街の片隅、暗い駐車場。白いボンネットの上で抱き合って、いつまでも唇を愛しあう。
 彼の大きな手が、小鳥の肌を探している。
 ふたり揃って舌先と舌先を愛しながら、小鳥から言う。
「翔兄、つれていって」
 襲ってきた甘い疼きを、彼に突き破って欲しい。そんな衝動に駆られている。
「俺も。小鳥の肌の匂いが欲しい」
「私も。翔兄の熱い肌に触りたい」
 それでもなかなか唇が離れない。惜しむように濡れた唇と唇を離し、ふたりはスープラに乗り込んだ。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 港町の彼の部屋。もうすぐこことはお別れ。
 今夜も彼のベッドルームは優しく甘い香り。
 小鳥のための匂い――。
 
 この前とは全然違う。カラダがじゃなくて、彼が!
 
 この前は優しかったのに、ゆっくり愛してくれたのに。今日の翔兄は、意地悪な男のように小鳥に無茶を要求してくる。
 可愛い可愛い小さなヒナちゃんを労るなんて、もうない。男が『オマエの身体が欲しい』と欲望を滾らせたら、こうなるんだと小鳥ははあはあと吐息をつきながら翻弄されている。
 ――そう。手をついて、もっと俺の方にむけて。
 シーツに両手をついて、小鳥は獣みたいな恰好を望まれている。
 こんなセックスがあるって知っているけど、わかっているけど、まだ恥ずかしい。だけど大人の彼にはそんなものは慣れたもので、どんなに小鳥がちょっと待ってまだ恥ずかしいよと言っても、容赦なくまるい尻に手をかけて割り開こうとしている。
 ダメだよ、ダメ。やだ、何を見ているの翔兄? 
 なにもかも見える。可愛いのも見えているよ。
 絶対に触られたくないところに、彼の指先がキスをするような柔らかさで撫でている。
「やだ、いや。翔兄……。へ、平気なの?」
「もちろん。ぜんぶ触りたい」
「い、いや。あ、いや」
 そこにある秘密のひとつひとつを、彼に暴かれていく。そんなところを触る人は特殊な人だと思っていたのに、違うの? そんなものなの?
 でも。この人になら。なにもかも触られてもいい、奪われていってもいい。この人だけが私の秘密の場所に触れられる。特別な人。そんな気持ちになっていく――。
 そんなことは決してと思っていたことでさえ、彼と小鳥だけの秘密になっていく。彼のものになっていくという高鳴りが襲ってくる。それがまた甘い疼きに変わって、彼に強く奪って欲しいという女の欲望になっていく。
 この人、男になると意地悪。清潔そうな王子様の顔をしていて、男になると意地悪。いつも小鳥が元気いっぱいなんでも飛び越えていくから、これぐらいで泣くのがおかしいとクスクス笑っている。
 でも。恥ずかしいはずなのに、すべてを彼に奪われて征服され、彼のものになっていくような……。羞恥心と高揚感が綯い交ぜになって、それがまた小鳥の胸を焦がしている。
 意地悪なお兄さんは、あどけないヒナの背を制しても、力任せに女を貫いたりしない。意地悪だから、熱く硬くなった塊を押し当ててもしばらくはじっくり様子を窺って、逆に小鳥に欲しいと言わせようとしている。経験のないヒナに『もどかしい、欲しい』という気持ちを覚えさせているようで、『意地悪』と泣いてばかりいると、やっと優しくゆっくり入って、小鳥がどんな反応をするのか上から眺めている。
「あ、ああんっ」
 シーツに頬を埋めたまま震える。
 どうしよう、私の、翔兄と一緒になっているそこが彼の塊を包み込んだままびくびくとうごめいてしまう。
 大人のハジメテの体位になすすべもなく、男の責めにいいなりになって、いつものやんちゃ娘も大人しく従うだけ。
 そんな従順になってしまった小鳥の唇を、今度は翔の指先が侵そうとしている。後ろを制したままの彼の指が肩越しから小鳥の頬を撫でたかと思うと、喘いでいるヒナの唇を割開いて舌先に触れる。
「小鳥、俺の……」
 その指が何度も何度も小鳥の舌先を望んだ。力無く舐めたら、身体の奥に填め込まれている彼の塊がどくりと動いた気がした。
 彼が感じている――?
「もっと」
 はあはあ息を吐きながら、小鳥は彼が望むままその指を、今度は絡めるように舐めた。同じように身体の中にいる彼がドクンドクンと怒張している?
「もっとだ、小鳥」
 舐めるだけで事足りないようで、最後には唇から滴り落ちるほど狂ったように彼の指を舐めては吸ってを繰り返した。
 後ろからひとつに繋がれたまま、熱い男の皮膚がぴったりと背中に貼り付いて、長い腕が後ろから無垢な雛を羽交い締めにしている。
 なのに要求は容赦なく、経験のないヒナちゃんを卑猥な行為に引きずり込もうとしている。
 それでも、小鳥は彼の要求に応えた。たぶん、彼はこれよりもっともっと卑猥なことを望んでいると感じていた。これはその練習?
 いつかその濡れた唇で俺のをそんなふうに愛して欲しいという……実は大人の彼にとっては、こんなの子供騙しみたいな他愛もない行為?
 下腹も胸先も舌先も、頭の中も、すべてが甘い痺れに覆われて、もう小鳥の意志は白い靄の中に消えていくような……。
「うっ、できるよ。わたし……できる……、してもいいよ」
 『してもいいよ』と降参したように呟いた途端、口元の責めを解かれた。
 熱く濡れそぼった指先が、荒く息を吐く濡れた女の唇をなぞった。
「慣れていないくせに。思ったより頑張るんだな、この口は」
 その唇で彼を愛したい……。そんな気持ちでいっぱいになっている。
「またの楽しみにしておくよ。気持ちよさそうだってわかったから」
「あっ……」
 小鳥の生意気な唇を強く吸って責めながら、また彼が後ろからつきあげてくる。今度は激しい。男の欲望を塊にして押し込んでくる。
「もうダメだよ……翔にい……」
「俺もダメだ、もう優しくなんかなれない」
「あ、……はあ……ああ……ん」
 あられもない喘ぎ声しか出てこない。
「も、もう、ひどいよ、翔にい……私、まだ……」
 まだ二度目なのに。なのにどうしてこんな淫らにされちゃうの? 淫らな女にしてくれちゃうの? ひどいよ……。
 そう息だけの声で吐きながら、でも、シーツの上で何回も彼と愛しあってきたように奔放に乱れていた。
 感じるまま淫らになってしまえばいい。
 おりこうさんな意識はぼんやりと霞んで、あくどい女のようにして、小鳥も翔の肌に愛撫を繰り返した。
「翔、いっぱい愛シテアゲルからね」
「カラダも生意気だ。俺をこんなに……して……」
 セックスなんて二の次だったのに。彼が致し方なさそうに呟いた。
 もう戻れない。車だけの生活には戻れない。
 熱くほてった女の身体を傍に眠るのは、愛車に乗っているように心地よい。
 だから、早く一緒に眠れるように、俺のところにおいで――と。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 春うらら。桜も散って、もう葉桜。瀬戸内はそろそろ初夏の気配。
 今日の晩ご飯は、鳥五目炊き込みご飯と、サワラの塩焼きと、たらの芽の天ぷら。
 エプロンをしている小鳥はキッチンで夕食の支度をしている。
 
 あれから、龍星轟に瀬戸田の代理人として弁護士が来た。
 英児父と被害者筆頭のランエボの高橋お父さんと、龍星轟の弁護士を交えて話し合いがもたれた。
 当然、あちらの弁護士は瀬戸田を擁護するため『示談』を申し入れてきた。
 だが英児父が譲らなかった。『本来なら、当て逃げの罪を問われるんですよ』と。しかもうっかり過失ではなく、狙いを定め計画していた悪質な行為。その動機も身勝手で、人のせいばかりにする自己的なものだと。
 このまま示談で払えるものだけ払って、はいサヨナラでは納得できない。どうせ、また人のせいにして怒りまくって人を傷つけるに決まっている。謝罪のためのツラも見せねーで、なにをいいやがるんだ――と、さすがの元ヤンの凄味にあちらの弁護士が震え上がっていた。
 それが効いたのか。彼直筆の謝罪文を後日、代理人の弁護士が持ってきた。
 英児父も高橋のお父さんも呆れていた。
 もうあの男はこちらに顔を見せるつもりはないだろうと。
 だけれどあちらの弁護士にも、こちらの痛いところをつかれた。元はと言えば、そちらの従業員と関係していた女性が不誠実だったからではないですか、公にするなら証言していただいてもいいんですよ、とか。立ち直ろうとしている瞳子さんの結婚生活を脅かすような提案をしてくる。峠で同じように危険な運転をされたんですよね、そちらも道路交通法違反ではありませんかと。瀬戸田という暴走車から身を守るためといえば、正当防衛が認められるとは思うが、そこはひっそりと走っている走り屋には辛いところだった。
 最後、言い分を述べあった後。互いの弁護士の調整により、『示談』となった。保険屋が改めて監査に入り、そして瀬戸田という男はぶつけた被害者ひとりひとりに慰謝料を払うことになった。
 小鳥もとうぜん受けることになった。思ったよりその金額が高めだったが、弁護士双方で妥当とした値らしい。
 卑怯な男は最後まで卑怯。小鳥は怒りを抑えていた。
 瀬戸田という男は、一度も龍星轟に姿を見せなかった。
 でも、翔が当たり前のように、空港から飛んでいくジェット機を見上げながら呟いていた。
『あの瀬戸田という男は、そういう男だ。来るとは思わなかった』と。
 それでいいのかと小鳥は納得できなかったが、武智専務が小鳥を宥めるように言った。
『卑怯な男ほど謝ったりしないよ。逃げて知らぬふりをする。だからあいつは卑怯認定。またあのツラを見たら、俺も今度は手加減しない』
 秀才眼鏡のおじさんだけれど、このおじさんも元ヤン。密かに隠している荒い気性がふいに表に出てしまうほど、武ちゃんも怒っていた。
 そんなどうしようもない大人がいっぱいいる。小鳥は初めてそれを知る。
 だけどそれから幾分か日が経った頃、翔が知り合い伝で『瀬戸田、会社を辞めたらしい』と聞いてきた。
 その時はふたりで驚いた。それは反省して辞めたのか、または、こんな屈辱的な土地にはもういたくないと思って自ら去っていったのか。それももうわからない。
 翔の親友である長嶋さんからも連絡があったらしく『あいつ会社でも相当嫌われていたみたいだぞ』と――。そんな噂を聞きつけたとのこと。
 もうあの男はこの街には戻ってこないだろう。親友がそう言っていたと翔が教えてくれた。
 
 もう忌まわしいことは忘れよう。
 いつまでも卑怯な男にひきずられることはない。
 もう終わったんだ。いいな。
 
 英児父の終息宣言にて、龍星轟はもとの日常を取り戻していた。
 
「ただいま」
 日が長くなった晩春、彼が帰ってきた。
「おかえり、翔」
「今夜はこっちに来てくれていたんだ」
「うん。今日、スーパーで木の芽が売っていたんだ。翔兄と一緒に食べたいなと思って」
 その季節にしかでない旬のものを見ると、『彼と食べたいな』とつい思ってしまう。そうして彼と季節をひとつずつ刻んで、一緒にあれをあの時食べたねとずっと思い出していきたいから。
 もう出来上がっている天ぷらを見て、彼が感激の微笑みを、あの八重歯の微笑みをみせてくれる。
「うまそうだな。そうだ、俺も買ってきたんだ」
 彼の手にもスーパーの袋。手渡されて覗くと『苺』が入っている。
「わ、高くて諦めたのに。買ってくれたの、翔兄!」
 ありがとうと嬉しくて抱きついてしまった。でも彼も笑って強く抱きしめてくれる。
「苺が大好きだもんな。たくさん食べて、もっともっといい匂いの身体になりますように」
「なんか動機が不純ぽくない?」
 彼がそこに気がついた小鳥に勝ち誇った笑みを見せている。小鳥はドキリとした。
「今日も生意気だな」
 でた。生意気。でも彼が若い小鳥にこれを言うと時はもう男の顔になっている。
 じりじりと迫ってくる彼にたじろいで後ずさっているうちに、小さなダイニングテーブルにぶつかった。
 近頃感じている。翔はいつも小鳥を逃げないようどこかに追いつめて囲う。自分だけの、自分の腕の中だけで大人しくなる小鳥を確かめると、満足げな微笑をうっすらと浮かべる。
 そんな時の翔は、王子様のようなお兄さんではなく、完全に征服欲をたっぷり滾らせている男。やんちゃ娘とつきあう男なら、これぐらいは必要と思っているに違いない。
 小鳥はいつも壁とかテーブルとかベッドのシーツの上、翔の腕に囲われると男になった彼に徹底的に制圧されていた。
「大人しいな」
 ほら、勝ち誇った顔。でも小鳥もどうしようもない。彼が強い征服欲を漲らせて近づいてくるとドキドキしてときめいてしまってる。こんな責めがときめくんだと、女になって初めて気がつく。
 元ヤン親父の娘は、やんちゃで手に終えないお騒がせ娘。そこらへんの男友達も舌を巻く。そんな女と生きていくなら、やっぱり男は勇ましく強くなくちゃ。そんな男に制して欲しい願望があったんだと――。
 翔はそれを見事に実現してくれていた。そして小鳥はいつも、そんな彼に制圧されて、ふわりと墜ちていってしまう。
 いまもそんな彼の腕に囲われて――。
「赤い小鳥はどうして、赤い……だった」
 子供の頃に唄ったことがある。赤い実を食べたからでしょう――。そう答えようとした時にはもう、小鳥の唇に苺が一粒、押し付けられていた。
「赤い実を食べた、だったよな。小鳥はどうして甘い匂いがするんだろうな」
 そういいながら、苺の先で唇を意味ありげに彼がくすぐる。
「ほら。小鳥。好きだろう」
 今夜も苺の匂いがするカラダを、俺の身体に寄り添わせて。
「ほら。食べろよ」
「……なんか、翔がするとえっち」
「そのつもりだよ。ほら、」
 なにを考えているのかわかっていて。小鳥はそっとその苺の先に舌を這わせてからぱくりと頬張った。
「一度でいいから、小鳥を苺漬けにしてみたいな」
「ベッドが真っ赤になっちゃうよ」
 お兄ちゃんの顔をした王子様が、いまはたっぷりと色っぽい匂いを放つ男になってきた。
 翔は小鳥と愛しあうことを『抜群』という。そんなに興味がなかったのに俺はどうしてしまったんだろう――と、よく呟く。
 夜に彼と肌と肌を合わせることは、もう自然なこと。
「この苺、甘いよ。翔」
 苺の香りが残る唇で、彼の唇を小鳥から奪った。
 もう彼は、戸惑ったように硬くはならない。いまの彼はもう、小鳥が触れたそこに熱く溶けてくれる。
「本当だ。いい苺だったな」
 お返しに彼が小鳥の奥まで吸って愛してくれる。小鳥は苺が大好き。いつも苺の匂いがすると――。
 初夏が近づいてきて、彼の服も薄着になる。男っぽい彼の鎖骨に銀のリングとカモメのチョーカーが揺れている。
 キスをする向こうの窓辺には海。そして少し向こうに空港が見える。
 龍星轟の近くに、彼が引っ越した。今度も海が見える部屋。
 新居はリビングと他に二部屋。ベッドルームと、もう一つの部屋は『小鳥のために』と勉強部屋として与えてくれた。
 いまはそこに簡単な机を置いて、クローゼットには少しずつ大好きな服が増えてきて、龍星轟の自宅に置いている愛用品が徐々にこちらに移ってきている。
 なるべく帰るようにしているけれど、たまに不規則に泊まっていくようになった。
 それまでにない生活をするようになった娘を見て、英児父が言った。
『お前、正々堂々と生きているって言えるか』
 後ろめたい生き方をしていないか。安易に男に流されていないか。いま、おまえがやるべきことがなにかわかっているか。
 部下と娘の恋仲を見抜いていて、父はわざと小鳥に投げかけてくる。そしてそれは信頼している部下であろうがなかろうが、娘が男を知ってどうなるか案ずる父親の気持ちなのだろう。
 だから小鳥も迷わず答えた。
『後ろめたいコトなんてひとつもしていないよ。胸を張って父ちゃんに言えることしかしていないよ』
 いつか、きっと、父ちゃんにも報告します。
 彼を愛しています――と、報告します。
 卒業するまで、だから、待っていて。
 
 翔と決めていた。大学を卒業したら、結婚前提の同棲を許してもらおうと、決めていた。

 

 

 

 

Update/2014.2.22
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