◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-21  お嫁にいかせて!

 

 クローゼットの隅っこに、懐かしいワンピース。
 サファリポケットのシャツ衿の。衿がすり切れて、裾もすり切れて、お蔵入り。
 でも大事な、大事な想い出のワンピ。彼からのハジメテのプレゼントだったから。
 
 海が見える部屋、長い姿見で今日のお洒落を小鳥はチェックする。
 大人っぽい、カシュクールの黒いワンピース。胸元にはちらりと白いレエスがのぞくインナー。
 柔らかい生地が二十三歳になった小鳥のボディラインを、大人っぽくくっきりと醸し出す。これも恋人の翔からのプレゼント。
「ジャケットは白がいいかな。それとも生成のリネンがいいかな」
 彼が東京へ出張に行くたびに、小鳥に似合う洋服をひとつ見つけてくるのが恒例になった。これはその新しい一枚。
 相変わらず、彼が選んだ服は誰からも『小鳥に似合う』と好評になる。
「それにしても。なんか、だんだんセクシーになっていくような?」
 もうハタチになったばかりの女の子ではない。それから三年、恋人の彼と濃密に愛しあう日々を送ってきて、小鳥はもう子供ではない。
 だからなのか。彼が選ぶ服もクールで大人っぽくなってきた。そして、それが彼からのプレゼントと言わずとも誰もが『似合う』と言ってくれる。
 これって彼の願望? と思ってしまうこともあるけれど、そうでもないよう。
 でも父だけが、あまりいい顔をしない。いつものデニムにシャツはどうしたんだ――と聞くことも度々。実家にいる時はなるべくその恰好をするように心がけていた。
「ん? 今日もそのほうがいいのかな。でも、大事な話をしにいくんだし……」
 ラフな娘ではなくて、今日はきちんと大人の自分で行くべきと小鳥は言い聞かせた。
 
 季節が巡り、瀬戸内はまた初夏の気配。
 
 昨年春、小鳥は無事に大学を卒業。調理師、栄養士などの資格を取得し、念願の真田珈琲にも就職することができた。
 桜が咲いて、社会人二年目。小鳥はそのまま真田本店でバリスタとして勤めている。
 だけれどまだまだひよっこ。でも、お客様に珈琲を出すことを、この春から許してもらえた。
 次はフードコーディネイターと全国バリスタ検定の資格取得を目指している。
 
「小鳥、準備できたのか」
 彼が小鳥の部屋のドアを開ける。
 開け放してある窓から、海辺の風が吹き込んでくる。
 黒いステッチで縁取られている白いワイシャツに、シックな小紋柄のブルーネクタイを締めた彼が入ってくる。
「ねえねえ、翔。ジャケットは白がいいかな、生成がいいかな」
 おでかけの身なりを整えた小鳥を見て、あの涼やかな眼差しでじっと彼女を上から下まで眺めている。
「ねえ。どっちが、いいかな」
 白と生成のジャケットを交互に胸元に当てているのに、だんだんと彼が怒った顔になっていく。
「小鳥」
 小脇に抱えていた黒いジャケットを彼がひとまず、小鳥の勉強机に置いた。
「え、駄目だったかな。このワンピ。シックで飾り気がないからジャケットに合わせやすいと思ったんだけど」
 黒いスラックスの足が重くこちらに近づいてくる。それにあの一重のクールな目元がきりりと鋭く小鳥を射ぬいて――。
 クローゼットの扉を背に小鳥があとずさると、彼の長い両腕がバンとついて怖い顔で見下ろしている。
 またお得意の、ヒナちゃんを囲いに捕まえて勝ち誇った笑みを見せている。こんな時の彼には要注意。何をされるかわからない。
「あ、あの、翔……にぃ?」
 いまでも彼が大人の顔で威圧すると思わず『おにいちゃん』と漏らしてしまう。
「なんで俺はこんな服を選んでしまったんだろう」
「え、どういうこと?」
 するとカシュクールを合わせている大事なリボンを彼がしゅるしゅる解いてしまった。
「あ、翔! なにするの! せっかく着たのに!」
「だめだ。こんなに色っぽい身体に見せてしまう服はだめだ」
 えー、なにいってんの? 自分が絶対似合うよって買ってきてくれた服じゃない! 確かにセクシーだけど、自分が大人っぽく見えてすごく素敵って気に入ったのに! と叫ぼうとする前に、彼がそのワンピースの合わせを開くとするすると肩から滑らせて脱がそうとしている。
 柔らかい生地だから、あっという間に肩が丸出しになって、カシュクールの合わせが解けて両開き、白いレエスのキャミソールとエレガントな白いショーツだけの姿になってしまう。
「黒い女の中身は、清純な小鳥ってところかな」
 白いキャミソールの下から大きな手が潜り込んできた。あっというまに乳房に辿り着いたので小鳥はやっと我に返る。
「わ、翔ったら。だめ! いまからでかけるんだよ」
 手早い彼に負けないよう、小鳥も彼を押しのけて阻止しようとした。
 でも次には彼が、白いキャミソールもランジェリーもめくりあげて露わになった乳房の先にキスをしている。
「ジャケットも白だ、白がいい」
 なんて真面目に答えながらも、熱い男の唇が赤い胸先をきゅっと吸う。『あん』、つい小さな吐息が漏れてしまう。
 女になったカノジョの濡れた声を聞いたからなのか、それだけで終わらず、翔は口の中舌先で尖った赤い実を舐めて遊んでいる。
「あん、だめだよ、翔……。い、いかなくちゃ……」
 このままじゃ、いつもそうしているように、全部脱いで彼に抱きつきたくなってしまう。ぜんぶあげるから、お兄ちゃんの好きにしていいから、いつものように強く意地悪に愛して――と、飛びついてしまう。
 翔じゃない。小鳥の肌が上気する。はあはあと儚げに息を切らして、理性が壊れそうになるのを必死で堪えているから、じんわり汗が滲んでいる。
 かすかに、お気に入り石鹸の花の香りが立ち上った。
 その香りを彼の鼻先が堪能している。
「小鳥の匂いだな」
 満足そうにして、やっと肌を愛撫する唇を離してくれた。
「わかっている。急ごう」
 最後に、軽いキスを首元と耳元と、そして唇にちゅっとしてくれる。
「似合っているよ。俺がそう思って選んだんだから。でも似合いすぎる。おまえ、顔はまだあどけない小鳥なのに、身体はなんでこんな……」
 またその先を言わない。優等生のお兄ちゃんはそういうことはたまに濁すけれど、ベッドの上では意地悪兄貴になって、他の人が想像できないだろう言葉で男になる。
「もう。わかったよ。他のものを着ていきます」
「いや、いいよ。ジャケットでちゃんと隠せよ」
 あれ、割とあっさり引き下がったなと思ったら。
「夜、俺が楽しむから」
「わ。翔がいうとすごくえっち」
「そのつもりだよ」
 変わらずのやり取りに、彼がやっと余裕の笑みを、八重歯をのぞかせて見せて部屋を出て行った。
 着崩れたカシュクールのワンピースを、再び胸元で合わせて、とかれたリボンを結ぶ。
「まったくもう〜。怒っているふりして、結局、私のことからかっているんじゃん」
 本当は怒っていない。怒ったふりをして、小鳥がわたわたとまだまだ子供みたいに慌てるところを、大人の余裕で見て楽しんでいる。これは彼の悪い癖、意地悪な癖。
 でもその中に密かに……。『他の男に気をつけろよ。俺がこうなるんだから、他の男もおまえの身体を見ているからな』と釘を刺しているのだともわかっていた。

「小鳥、行くぞ」
「はい、いま行きます」

 就職して一年が経ち落ち着いてきたので、今日は翔と前から決めていたことを伝えに行く。
 英児父に『結婚前提の同棲』を許してもらい、小鳥はいよいよ龍星轟の実家を出るつもり。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 車は一台で。今日、休日をもらっている翔のスープラで龍星轟に向かう。
 車で走ると五分とかからない近所に彼は住んでいる。
「はあ、緊張するな」
「大丈夫だよ。お母さんには言っておいたから」
 琴子母にはもう許してもらっている。
 その母に今日は挨拶にいくことを前もって知らせている。
 
 琴子母には、翔が越してから三ヶ月ほどした時に『翔兄とつきあっている。彼のマンションの合い鍵ももらった』という報告はした。
 母からも『小鳥ちゃんもお年頃。お付き合いをしてもいいけれど。何がいちばん大事かわかっているわね』と強く言われた。つまり、女として取り返しのつかない無計画なことをするなという意味だと小鳥も察した。
 もちろん小鳥は、それが妊娠するしないではなくとも身に染みていた。『後先考えずにお客様の前にでられない姿になって謹慎になったあの気持ち、忘れていません』と――。
 すると母も『週末はかならず帰ってきなさい』とだけ、でもちょっと怖い顔で言われ、それから黙認してくれるようになった。
 それでも、翔との話し合いで『基本は泊まらずに帰る。週末の食卓は実家で』を守るよう努力した。
 そんな母に『今日、翔兄と挨拶に行きます』という話だけはしておいた。
 彼と付き合い始めて三年。おそらく、英児父ももうわかっているはず。従業員の皆も父親の手前あからさまに触れては来ないけれど、影では『翔と恋仲』は会話でさりげなく交わすようになっていた。
 つまり、公認の仲。でも親父さんだけが、正式に認めてない。
『どこのお父さんも一緒よ。最後まで抵抗すると思うけれど、頑張りなさい』
 それが琴子母からの言葉だった。
 今日は琴子母も自宅にいるので、報告する時に英児父の傍にいて助けてもらう約束もしていた。
 だから大丈夫だよと、小鳥は彼を宥める。緊張する彼も信頼しているオカミさんを頼りにして、前々から覚悟していた挨拶に向かう。
 
 龍星轟に到着して、翔がいつもの場所にスープラを駐車した。
 それと当時に、龍星轟に白いスポーツカーが入ってきた。
「あれ、聖児だよな」
「ほんとだ。スミレちゃんも」
 事務所正面に、白い車も停車した。
 マツダ RX−7 聖児が選んだ愛車だった。
 高校卒業と同時に免許を取得し、英児父と聖児は『愛車探しの旅』に出かけていった。いくつかネットで探し、候補にした車を現地まで確かめに行って買うという滝田父子らしい旅だった。
 その聖児の希望と、英児父の眼鏡にもかなって、龍星轟にやってきたのが『マツダ RX−7 三代目』だった。
 その聖児も自動車大学校を卒業して、小鳥と同時に社会人に。昨春から龍星轟で従業員として働いている。
 その聖児が、龍星轟のジャケット姿でスミレと事務所に入っていくのが見えた。
「聖児も今日は休暇だから、スミレちゃんを連れてきたんだろう。また二階の自宅で夕飯でも一緒にするんじゃないか」
 スミレが龍星轟に遊びに来るのはもう当たり前で、小鳥を訪ねてきているのか、聖児を訪ねてきているのか、もうどっちでも良いというくらい、彼女が来たら両親もなんなく二階の自宅に迎え入れていた。
「そうだね」
 でもだったら、事務所に入っていくのは、小鳥にとってはなんだか違和感だった。
 聖児が大阪の自動車大学校に行ってしまったので、ふたりは遠距離恋愛だった。だけれど聖児の帰省には、二人はセブンに乗ってよく出かけていた。
 そのうちに聖児の方から『スミレ先輩とつきあっている』と龍星轟に就職する前に報告。その時は琴子母よりも英児父が『スミレちゃんは大事な大事な野口さんの娘さんだからな』とくどくど説いていた。
「さあ、気合い入れていくか」
「よし、龍の父ちゃんに負けない」
 こちらはこちらで集中しなくてはいけない大事な時。
 スープラから、スーツ姿の翔とおめかしをした小鳥が降りてきたので、ピットにいた従業員の男達が外に出てきてしまう。
「翔、ついにか。いよいよだな」
「小鳥、負けるなよ」
 兵藤のおじさんと清家のおじさんがガッツの拳を向けて、激励してくれる。
 マコちゃんにノブ君も『頑張れ、兄貴。小鳥ちゃん』と応援してくれる。
 事務所のドアを開けると、矢野じいと武智専務も、なにもかもわかった笑顔で出迎えてくれた。
 そして社長デスクの英児父のところへ。
「おう、なんだ。おまえ達まで」
 翔と小鳥の出で立ちを見た英児父が、やはり眉間にしわを寄せた。あのガンとばしの眼差しが翔に向けられる。
「聖児、ちょっと待てや。姉貴の話が先だ」
 翔と小鳥がそこへ向かう前に、聖児とスミレが既に英児父の前に並んでいた。
 この時、小鳥は妙な予感がした。
 聖児は、大人の出で立ちをしている翔と姉を見て、ちょっと焦った顔に。
 そんな彼氏を知ったスミレが申し訳なさそうに言った。
「聖児君、また今度にしよう。ほら、お姉さん。今日は大事な話があるみたいだし」
 スミレも今春卒業をして念願の保育士になり、大学系列の私立幼稚園の教員になったばかり。
 彼女にも『近いうちに、両親に結婚前提のお許しをもらいに行くんだ』という話は女子会の時にしていた。でもそれが本日とは知らせていない。
 やや動揺した様子の聖児だったが、急に毅然とする。
「いや、俺達が先に着いたんだ。引き延ばしはだめだ」
 引き延ばしはだめってなに? 小鳥の嫌な予感がますます膨らんだその時、聖児は父親に言い放つ。
「親父。俺、スミレと結婚する」
 そこにいる誰もが一瞬だけ目を丸くした。一瞬だけ。小鳥と翔も顔を見合わせ、でもちょっとだけ『くす』と微笑みあってしまう。すぐに先へ先へと行きたがる聖児らしい先走りだと――。
 だから英児父も落ち着いていたし、子供の頃から見せてきた元ヤンの凄味で息子を睨むだけ。
「おめえ、話になんねえ」
 そこどけ――と、立ち上がった英児父が聖児の肩を払おうとすると、再び聖児が父親に真向かった。
 
「子供が出来たんだ。スミレに俺の子が」
 
 はあ!? 今度こそ、事務所にいる大人達が揃って喫驚の声をあげた。
 
「まままま、まて、まて、聖児。おめえ、子供って……」
 さすがの英児父も仰天したのか、元ヤン親父の威厳もどこへやら。あとずさって、ゴミ箱にぶつかって、転びそうになるぐらいによろめいた。
 そんな父親を差し置いて吠えたのは、やっぱり矢野じい。
「こんの、聖児! おまえ、なにやっとんじゃ!! おめえ、働き始めてまだ一年だろ」
「そ、そそそ、そうだよ。聖児! スミレちゃんだって就職したばかりなんだぞ」
 武ちゃんまで慌てふためいて、あたふたする始末。
 そして、小鳥の隣で翔兄が目元を覆って項垂れ、『先にやられたー』と脱力している。
 小鳥も呆然。え、今日って、私がドキドキしてお父ちゃんを驚かせて怒らせる覚悟できたんだよね? だよね? もう当初の目的に覚悟がすっ飛んでいってしまって、どうしていいのかわからない。
「だから俺はスミレと結婚する。俺は構わねえ。ずっと、そのつもりだったから!」
 バンと大きな音が事務所に響いた。英児父がもの凄い燃えさかった眼で机に手をついて、聖児を威嚇する。
「このバカ息子。おめえに言ったよな! スミレちゃんは、野口さんの大事な大事なお嬢さんだってことを! 一人娘だぞ、おめえみたいな半人前にくれてやるなんて、俺だったら我慢できねえわ!!」
「だよな! 元ヤンのクソ親父のバカ息子だもんな! てめえのせがれも信じられねえバカ親父だもんな!」
 あんだと、このクソガキ!
 うっせい、クソ親父!
 ついに同じ背丈の父子が襟首ひっつかみあいの、とっくみあいを始める。
 うわー。似たもの親子が本気の激突を始めちゃったと、小鳥は青ざめる。
 聖児と英児父が本気で喧嘩をするようになって、『これは大変』と思うようになったのは、聖児が中学生になってから。
 男と男の手加減なしの取っ組み合いの喧嘩を、冗談抜きで本当にする。年に一度か二度あって、その時は、さすがの琴子母もげっそり気力を失ってしまうほどの『スーパードッグファイ』。
 それが、それが、始まろうとしている!?
 娘であって姉でもある小鳥がショックで身動きできない中、それでも大人の彼の方が先に動いてくれる。
「社長。待ってください。まずはスミレちゃんの気持ちも聞いて差し上げたら」
 英児父から、聖児を離そうと翔が背中をひっぱりながら叫んだ。
 だか今度は、その英児父の恐ろしい視線が翔へと向けられる。
「おまえもだ、翔! 俺の父親としての気持ちをいま聞いただろ」
 やっぱり。英児父はわかっていた。そんなの小鳥も翔もわかっていた。娘が部下の男と恋仲になって、そして娘とその男は父親にそのことを知られている。そして、娘が彼の部屋に通っていたことも、そろそろ二人が挨拶に来るだろうということも――。
 今日だって、聖児が爆弾発言をするまでは、怖い顔はしていたけれど、聞いてくれそうな雰囲気だった。もしかすると、琴子母からこっそり聞いて父ちゃんも覚悟してくれていたのかもしれない。
 でも、だめだ。もう、だめ。小鳥は顔を覆って泣きたくなってきた。いまの英児父の状態で、結婚の話なんてもうできない。
 これって、聖児のとばっちり? スミレちゃんのご両親に申し訳ない。俺だったらこんな半人前が娘をもらっていくだなんて許さない! あそこまで息子につきつけた後、娘の小鳥が『彼と一緒になることを許してください』なんてお願いして、手のひらを返したように『いいぞ』なんて言えるわけがない! と、いうことに気がついた。
「小鳥」
 涙を滲ませた小鳥の顔を、翔が覗き込む。
 彼が小鳥の手をしっかりと握って言った。
「俺も、今日しかあり得ない」
 小鳥の手をぐっとひっぱりながら、聖児と父が睨み合っている間に、黒いスーツ姿の翔が立ちはだかる。
「社長。いえ、お父さん。俺も今日しかないと思って来ました」
 小鳥の手を握ったまま、翔は英児父に向け、深々と頭を下げる。
「小鳥さんをください。お嬢さんと、結婚させてください」
 小鳥はギョッとし、飛び上がりそうになった。
 『結婚前提の同棲生活をしたい』というお許しだったはず?
「彼女には夢があります。だから、本当は彼女がもっと経験を積む時間を経てからと思っていましたが、それは俺が夫になっても、彼女が妻になっても、そばで見守ってあげられるなら、変わりはないと思っています」
 お願いします! 
 もしかして翔は、聖児に感化されちゃったとか?
 それとも最初からそのつもりだったのか?
 とにかく、ふたりの予定がかなり飛躍しちゃっていた。
「うわ、翔兄。かっけええ!」
 こんな状態にひっかきまわしてくれた聖児が大人の男の挨拶にわくわくと目を輝かせているから、小鳥はもう呆れて呆れて気が遠くなってきた。
 翔の決死の挨拶の後、事務所がシンとしてしまった。
 どうまとめればいいかわからないのだろう、誰もが。英児父に至ってはもう口を開けば『許さねえ』しか出てこないだろうし。
「おい、英児。なんとか言えや」
 見かねた矢野じいが促したが、英児父は凄んだまま翔を睨んでいるだけ。
 
「賑やかな声がしたけれど。英児さん、小鳥ちゃんと桧垣君が来たみたいね」
 
 事務所のドアが開いて、琴子母が姿を現した。
「あら。どうかしたの。また小鳥ちゃんとお父さんが喧嘩したの。仕方がないわね、もう。英児さん、あのね……」
 事務所の険悪な空気を読んだ琴子母は、この空気は父娘の毎度の喧嘩がつくったものと思ったのか、約束通りに怒っている英児父を宥めようとしている。
「う、うるせえっ。娘の話も、息子の話も、俺は聞かねえ。許さねえ!」
「息子の話ってなに?」
 琴子母が首を傾げると、英児父は堪りかねたように社長デスクの後ろにあるキーラックに飛びついた。
 そこからいつものキーを荒っぽく取り出すと、それを握って大股で事務所を出て行ってしまった。
 矢野じいがため息をついた。
「あーあ、情けねえ。車に逃げやがった」
 だがガレージから出てきたは、いつものスカイラインではなくて、真っ赤なレビンAE86。
「あれれ。レビンに乗るなんて珍しいな」
 武ちゃんも眉根を寄せて訝しんだ。
「いやね。英児さんったら。よほど慌てていたのよ。スカイラインのキーを取ったつもりで、隣にかけてあるハチロクのキーを取っちゃったのよ」
 龍星轟から真っ赤なレビンがエンジンをふかし、荒っぽく発進、走り去っていく。
「ばっかだねえ。英児の野郎ときたら」
「ほんとほんと。ガレージでキーを取り間違えたとわかったはずなのに、戻ってこられないから間違えたまま仕方なくハチロクに乗って行っちゃったんだ。あんなタキさん、ひさしぶりにみた!」
 矢野じいと武ちゃんがお腹を抱えてケラケラと大笑い。
 だけど、小鳥はもう涙をこぼしてしまう。
 なにこれ、台無し。せっかく翔とずっと前からこの日と決めて心構えを整えてきたのに。
 そうでなければ、文句や嫌味を吐いても、父ちゃんは話を聞いてくれただろうに。
「小鳥ちゃん」
 ひと足遅く来た母が、しょんぼりしている小鳥の肩を抱いてくれた。
「おかしいわね。昨夜、驚かせたらいけないとおもって『小鳥と桧垣君が話したいことあるそうよ』とだけ伝えておいたのに。それだけでも『ご挨拶』だと察してくれたみたいで『わかった』と言ってくれたのよ。それに『いよいよか〜』なんて笑っていたのに……」
 母の話に小鳥は涙を止めて顔を上げた。
「そうなの。父ちゃん、笑ってくれていたの」
「でも絶対に、父親と上司の威厳は緩めないと思ったから、私が間に入ろうと思っていたのに」
 もう嫌ね――と母がため息をつくと、『ごめんなさい』と隅でおろおろしているだけだったスミレが割って入ってきた。
「まさか今日だったなんて。小鳥先輩、ごめんなさい。お母さん、私が悪いんです」
 まだ何も知らない琴子母はきょとんとしている。今度は聖児がスミレの肩を抱き寄せ、でも、男の顔で母親に告げた。
「母ちゃん。スミレに子供が出来た。俺の子」
 もちろん、琴子母もびっくり仰天。目を丸くして静止してしまう。
「だ、だからなの? だから英児さんがあんなに慌てていたのね」
 聖児も申し訳なさそうに項垂れた。
「ごめん。姉ちゃん。でも俺、先延ばしなんて嫌だったんだ。今日だって二人で勇気を出して来たんだ」
「聖児……」
 その気持ちわかる。三年かけて、父親の目の前でほのかに伝えてきた小鳥だって、翔と一緒に気合いを入れてきたのだから。
 予想外の事実を運んできた聖児の報告は、父親の意に反する報告。余程の覚悟で来たのは、姉にもわかる。
「もう聖児! お母さんも言ったわよね。女の子の身体は大事にしなさいって!」
 やっと正気に戻った琴子母もここぞとばかりに叱りつけた。
「違うんです。お母さん。私が、私が……、聖児君とならと思って……」
 スミレも顔を覆って泣き始めてしまった。
 事務所の空気が乱れている。主も出て行ってしまい、かといって、オカミさんが収めるような事情でもない。
 そんな時。翔がまた小鳥の手を握って……。
「オカミさん。今日は聖児とスミレちゃんと話し合ってください。そちらは先を急がなくてはいけないでしょう」
 騒々しかった事務所に、すうっと涼しげな風が通りすぎたよう。どんな時も冷静でその時大事なことを判断する、クールな翔が凛と真ん中にいた。
 熱くなってざわざわ乱れていた空気がひんやりと鎮まるような。クールな空気を吹き込んだ青年が、いつもの涼やかな佇まいで母に向かっている。
「俺と小鳥はまた出直してきます。いいんです。伝えられただけで。俺も、一度で許してもらえるだなんて思っていませんでしたし、その覚悟ですから」
「そうよ。桧垣君、その通りよ。また日を改めてみましょう」
 そして母がそんな翔を見上げたかと思うと、深々と頭を下げた。
「娘を、よろしくお願いいたします」
「オカミさん……」
 そして琴子母は、涙に濡れるスミレにも丁寧に頭を下げている。
「息子をよろしくお願いいたします」
「琴子お母さん……」
 頭を上げると、琴子母はいつもの愛らしい笑顔。そして小鳥を見た。
「小鳥。女はね、死ぬほど好きで愛せる男に出会えるのが幸運なの。愛されるよりね」
 母の肌が、艶めいて見えた。何歳も若返ったように見えて、小鳥はぼう然とする。子供だった頃の、英児父が可愛い可愛いと言って追いかけ回していたあの若奥さんの顔。
 そして小鳥も笑顔で頷く。
「知っているよ。だって私、もう死ぬほど好きで堪らないの」
「知っているわよ。ずうっと前からだったでしょう」
 優しい母の手が、背が高くなった小鳥の頬をつつんでくれる。
 そうだ、愛してあげたい人がいるかぎり、何度だって父ちゃんに立ち向かうつもり。母の優しい手に包まれて、勇気が湧いてくる。
 おめでとう、小鳥。
 おめでとう、聖児。
 矢野じいと武智専務も祝福してくれる。スミレも今日は母に迎え入れてもらえただけでも、ほっとしたようで笑っていた。
「私、おばあちゃんになるのね。楽しみ。だって」
 賑やかなのは、幸せな証拠。母の口癖。
 これから、もっともっと賑やかになって、いちばん嬉しいのは淋しがりやのお父さんに決まっているのよ。どんな顔で帰ってくるか楽しみに待っていましょう。
 『さすが琴子』と、矢野じいが大笑いした。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 もう滅茶苦茶なご挨拶になってしまい、ふたりはそのまま気晴らしのドライブにでかけた。
 話し合ってもいないのに、翔のスープラは長浜に向かっていた。
 まるで小鳥の心の中がなにもかも見えているかのように。
 こんな日。おじいちゃんに会いたいだろう。彼がそう見透かしている。
 実際に、そんな気分だった。龍星轟も彼との部屋も離れて、遠く離れて、どこかでクールダウンしたい。
 そんな時に浮かぶのは、伊賀上おじいちゃんの家。いつも泊まらせてくれる二階の部屋――。
 やがて、伊賀上マスターの店『シーガル』が見えてきて、翔がそこの駐車場に入ってスープラをとめてしまった。
 でも小鳥はそれでいいと思った。ひとまず潮の香にあたりたい。
 強くなってきた日射しも夕に向けて柔らかになって、優しく瀬戸内を輝かせている。
 砂利の駐車場。おじいちゃんがお店を開けなくなったから、雑草もたくさん。でも車のドアを開けると磯の匂い。
 子供の頃から両親に連れられて、この店に良く来た。遠い記憶は朝。どうして朝、この店に来ていたのか良くわからないけれど、おじいちゃんがだっこしてくれて、そして『いちごミルク』を作ってくれた。
 小学生の時は、龍星轟の走り屋仲間の集まり場になった。週末、遠くまで走りに行く英児父やおじさん達を待って、このお店の裏にある磯辺で弟たちと遊んだ。矢野じいと釣りもした。
 ふたりで車を降りて、駐車場すぐの海辺に立った。
 石垣だけの磯辺だから、柵から下を覗くと小波が打ち寄せている。
 やっと落ち着いてくる。この潮の香が、潮騒が、元の場所に帰してくれる。いつもそんな気持ちになれる場所。
「翔、ごめんね。なんか、やっぱりうちって騒々しいでしょう」
 とにかくドタバタしている家庭だと自分でも思っている。
 それに比べて、翔の実家である桧垣家は、温泉街上の閑静な高台にあって、彼の両親は穏やかで優しげで静か。そこのひとりっ子。
 合うのかな、こんな家の娘と……。小鳥はいまでも、やはり翔は自分には高望みの人だったかと不安になる時がある。
 なのに潮風にジャケットの裾と小紋柄のネクタイをはためかせ、翔は腰をかがめてクスクスと笑っている。
「翔?」
「いや、あのさ。なんか、すごかったな。俺、滝田家の一員になったんだって、ほんとそう思えた」
「……おかしいの?」
「楽しいんだよ。俺、スミレちゃんと一緒なんだよな。静かな家庭のひとりっ子だったからさ。滝田家のあの賑やかさが羨ましいというか」
「そ、そうなの?」
「もう、ほんっと聖児にはやられるな。まさか結婚どころか親父なるって、どんだけ俺達を一気に追い越していくんだって」
 本当だった。そういえば、弟にはやられっぱなし。奥手なスミレよりは早くロストヴァージンができるだろうと思っていたら、手早い弟のせいで追い越されているし。それどころか結婚も出産も親になるのも先を越されそう……。
 でもなんだか、聖児らしい。あの弟こそ、ロケットと呼ばれる父親にそっくりなんだから。そう思ったら笑えてきた。
「もう、ほんとだね」
「だろ。あれもまた手に負えない義弟になりそうだな」
「そっかあ、弟になるのか。あ、じゃあ、スミレちゃんは本当の妹になるんだ」
「ついでに。俺と小鳥はいきなり伯父さんと伯母さんに昇格だ」
「うわ〜。やっぱりうちは、めまぐるしいね」
 ふたりで笑いあった。
 でもやっと、小鳥も清々しく海の風を胸いっぱいに吸い込んだ。生まれた時からずっと慣れ親しんできた風の匂い。それをいっぱいに。
「それに。小鳥も……」
 スープラの前にふたり、海に向かってみつめあう。そして彼が小鳥を胸に抱きしめる。
 ネクタイから彼がスーツを着た日につけているコロンの香りがした。そのネクタイに頬をうずめ、小鳥も彼に抱きついた。
「私がなに?」
 言いかけた言葉を、小鳥は聞き返す。
 彼が耳元で囁く。
「愛シテアゲル。あれは遺伝だな」
 小鳥は彼の胸元でそっと笑う。
 そうだね。死ぬほど愛せる男性と出会えるのが幸せと言うママから受け継いだ遺伝。男を愛し抜く遺伝。
「私も、愛されるより、愛シテアゲル」
 彼の腕の中、小鳥はハイヒールのつま先を立て、彼の唇にキスをする。
「もう生意気って言えないな」
 夕が近い海辺、潮風に揺らめくカモメが長いキスをするふたりの上でキーキー鳴いている。
 おじいちゃんの家に行こう。おじいちゃんにも報告しなくちゃ。

 

【 愛シテアゲル〈touch and go〉 完】

 

★『ワイルドで行こう』からシリーズで生まれた『愛シテアゲル』。娘の物語までおつきあいくださって、有り難うございました。
第一部は戦闘機訓練の〈touch and go〉のように、足が着いてはまた飛んでとなかなか落ち着かない『小鳥のハジメテ物語』でまとめました。
第二部も何を書くか決めていて予定はしているのですが、他にも手がけたいことがあるので、予定としてはまた来年……というところになってしまいます。
その為、第一部も小鳥がひとまず女性として幸せな節目を迎えたところで『一区切り』として締めくくってみました。
第二部のタイトルは、〈My Little Berry〉。ママがワイルドベリーさんだったので、二代目イチゴは可愛いイチゴさんになります。
社会人になった小鳥と、翔との結婚がどうなったかについて予定しています。
数日後の【あとがき】にて、今後のシリーズ連載についてBLOGでお知らせします。
娘の小鳥まで応援してくださって、本当に嬉しかったです^^ 
また他の作品でもお楽しみいただけるご縁があれば幸いです。

それでは、またワイルドの世界でいつかお会いいたしましょう! 茉莉恵

 

   
 
  
  愛シテアゲル 感想フォーム

 ● お名前(任意)
 

 ● 性別
 男性 女性


 ★良かった登場人物 (複数チェックOK)
 滝田 小鳥(滝田家長女)
 桧垣 翔 (龍星轟従業員)
 滝田 英児(龍星轟社長、小鳥の父)
 琴子(小鳥の母)
 聖児(滝田家長男)
 玲児(滝田家次男)
 鈴子(祖母、琴子の母)
 花梨(小鳥の親友)
 宮本(国大生の先輩)
 本多雅彦(デザイナー、母の元カレ)
 武智専務
 矢野じい
 伊賀上マスター(漁村喫茶店主)
 ジュニア社長(三好Jr)
 ジュニアジュニア社長(三好三代目)
   随時、追加予定v

 

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Update/2014.2.25
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