◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-6 こんな時の、お父ちゃん。 

 

 「琴子から連絡があってよう。翔の家で緊急事態。赤ん坊が大変だからすぐに行ってくれと尻叩かれて、慌ててすっ飛んで来たけどよ! なんじゃ、こりゃ。説明せーや!」
 どっしりとした一歩で、英児父が翔の家に踏み込んできた。
 その大声に驚いたのか、小鳥の腕で少しだけ大人しくなっていた赤ちゃんが、またぎゃあっと泣き出した。
「わ、やべえ。わりい、わりい。おっちゃん、ちょっと慌てていた」
 やっといつものおおらかな親父さんの顔に緩んだ。
「おい、おまえら。手伝え」
 靴を脱いだ父がどっかりと上がり込み、当たり前のようにして翔という部下の家の中へずかずかと進んでいく。
 琴子母は十五分といっていたのに、十分もしない内に到着するあたり、流石『照準定めたら一直線、ロケット親父』。もう小鳥もなにも言えない。
 リビングに入ると、父が部屋を見渡した。
「瞳子さん、大きなバッグとか持っていなかったか。それも持って出ていっちまったのか」
 頭に血が上って『説明せーや』といきりたっていたものの、琴子母から全て事情を聞いているようで、英児父はしっかりと状況を把握していた。
「あ、そういえば。大きなバッグを持っていました。ベッドルームにあるので持ってきます」
 すぐにそのバッグを持ってきた翔が、英児父に差し出した。
「それだよ、それ。ママバッグていうんだよ」
 あまりにもスタイリッシュなバッグで、ママバッグには見えなかった。
 英児父はそれを翔から受け取ると、躊躇わずに中を開けてしまう。
「ほら。オムツに、ミルクの準備がしてあるだろ」
「本当だ。すみません。勝手に女性のバッグを開けてはいけないと思って気がつきませんでした」
 だが父もそのママバッグを見て、ため息をついた。
「いまどきのママバッグは洒落てんな。そりゃ、わからねえわ。仕方がねえ」
 ダイニングのテーブルにオムツと哺乳瓶が並べられる。
「粉ミルクがないな。切らしたのか。水筒の湯もなくなっている。ほんとギリギリでお前んとこ訪ねてきたんだな」
 あるのはオムツと汚れたままの哺乳瓶が二本だった。
「この様子だと、家を出てあちこち赤ん坊連れ回して、でも家に帰りたくなくてお前のとこに衝動的に来た可能性が高いな。旦那も心配して探しているんじゃないか。翔、お前、辛いかもしれないが、旦那の勤め先とか知っているか?」
「サークル仲間繋がりで嫌でも聞かされて知っていますけど。ですが、いまご主人は出張中で家で一人きりだったそうです」
 マジか。英児父はますます居たたまれない顔で頬を引きつらせた。
「じゃあ。瞳子さんの実家だ。知っているだろ」
「……ご両親もちょうど、海外に旅行に行っているそうで、来週にならないと帰ってこないそうなんです」
 また、英児父がどうしようもないとばかりに表情を崩した。
「ってことはよう。一人きりだったってことか。『旦那の実家』は……、やめておいた方がいいようだな。ああ、だいたいわかったわ。仕方ねえ。しばらく落ち着くまで一人にしといてやりな」
 それまで俺達でこの子をなんとかしよう。英児父が動き出す。
「翔。ミルクをつくるから湯を沸かせ」
「はい」
 そして英児父は小鳥が抱いている赤ちゃんを軽々抱き上げた。
「おめえ、頑張っているな。偉いぞ。待ってろ。おっちゃん達がちゃんとしてやるからな」
 男の広い胸にぎゅっと英児父が小さな赤ちゃんを抱きしめた。まだぐずぐずしているけれど、他人でも英児父のおっきな愛情が通じたのか静かになった。
 そういえば。自分たち姉弟は、母が仕事でいない時はこの父親がなんでもしてくれたことを思い出す。武ちゃんのところの武ッ子も、この父親がおんぶをして事務所であやしていたほど、子守りの達人だった。だから琴子母がすぐさま派遣してきたのも頷けた。
 ――に、しても。お母さん、よく思い切って父ちゃんを娘のカレシの部屋にこさせたな。小鳥はおののいた。おっとり大人しそうな琴子母だが、英児父より大胆なことをする時があるから侮れない。
「小鳥。お前は粉ミルク買ってこい。56号線からバイパスに上がる高架付近にちっこいドラッグストアがあるだろ」
「うん。ある」
「地元のおっちゃんがやっている小さなドラッグストアだけどよ。二十三時までやってくれているんだわ。俺もお前らがチビの時にだいぶ世話になったんだよ。そこに行って、缶じゃない携帯用のスティックの粉ミルクがあるからよ。それ買ってこい。おっちゃんに『五ヶ月ぐらいの子』と言えば、正しいもん選んでくれるわ。それから哺乳瓶の洗浄剤も頼むわ」
「わかった」
「それを届けてから、また買い物行ってくれるな」
「うん。なんでもする」
 小鳥はお遣いを言いつけられ、すぐさま出かけようとした。
「待てや。小鳥」
 MR2のキーを手にして、玄関まで行こうとしたら、英児父に呼び止められる。
「俺の車で行ってこい」
 飛んできた銀色の光を掴むと、スカイラインのキー。MR2に乗るなと言われたことに気がついた小鳥は固まった。
 英児父の顔を見ると、眉間に深くシワを刻み小鳥を睨んでいる。
「おめえ、あのエンゼル、どこで事故った」
 龍星轟からスカイラインですっ飛んできた父も、MR2が駐車しているマンション横の路肩にスカイラインを停めたのだろう。きっとその時に、無惨な姿になっているエンゼルを見たのだ。
 キッチンで湯を沸かそうとしている翔も、なにか察知したのか、不安そうに小鳥を見た。
「小鳥、なにかあったのか」
 車もあのまま隠すというわけにもいかない。修理をするにしても、父親がすることになる。だから小鳥は観念して、あったことを告げる。
「ここに来る前に、いつものダム湖の峠道を走っていたら。ランエボに煽られて……」
 男二人が無言で顔を見合わせ、共に顔色を変えた。
「そのランエボ。白のランエボX(エックス)だったか」
 まるで犯人を見たことあるような父の問いに、小鳥は驚愕する。
「そ、そうだよ。白のランエボで、エアロパーツとかの装飾装備も見たことがない車だった。龍星轟のステッカーもなかったし、エンジン音もここらで聞いたことがないかんじだった」
 父の形相が一気に変貌し、小鳥は青ざめる。父ちゃんが本気で怒る前触れ――。
「社長。例のランエボですね、きっと」
「間違いねえ。やってくれたな。しかも俺の娘に――!」
 男二人は既にあの不気味なランエボを知っているようだった。
「すごく荒っぽいヤツだったよ。許せないんだけど。父ちゃん、お兄ちゃん、あのランエボのこと知っているの?」
 神妙な面持ちで翔が小鳥を見つめる。
「最近、あの峠で白のランエボにやられた車の修理が増えているんだ。小鳥がダム湖を走っていないか心配で連絡をしていたんだけれど、遅かったか」
 翔が悔しそうに唇を噛み項垂れる。小鳥もあの後、すぐに彼からの連絡を受け取っていたらあんなことにならなかったのかもしれない。ちょっとした意地みたいなものが、あのようなことを招いたのだきっと。
 それに、知らなかった。ここのところお店が忙しそうで、そういえば修理車が多いなとは思っていた。まさか、いつも楽しんでいる場所がそんなふうに荒らされていただなんて――。
 シンと静まりかえった翔の部屋で、また赤ちゃんがふぎゃふぎゃと盛大に泣き始める。英児父がはっと我に返った。
「その話は後だ。小鳥、急いで行ってきてくれ」
「はい。行ってきます。お父さん」
「気をつけてな。慌てるなよ」
 頷いて、マンションの外に出る。
 マンション横の路肩、青いMR2の後ろに黒いスカイラインが駐車していた。
 父はこの車も娘だと思って定期的に手入れをしてくれている。小鳥も手伝ったりして、父ちゃんからあれこれ教わったり、二人で油まみれになることもある。
 お兄ちゃんから引き継いだMR2。これを初めて運転した時の嬉しさだって忘れない。
 この二年、この車で沢山のお客さん仲間と走ってきた。嫌な思いなんてほとんどなかった。
「エンゼル……」
 ライトを覆っていたカバーが割れて砕けている。そこに手を当て、小鳥は跪いた。
 どうりで、今夜のダム湖には一台もいなかったわけだ。あのランエボを敬遠して、走り仲間がダム湖を避けていたことをやっと知る。そこへ、往年のスポーツカーで飛び込んできた小鳥は、恰好のカモだったらしい。
 走りに負けて、後ろから荒っぽく抜きに行くとか幅寄せとか、背後を煽るとかならまだわかる。なのにアイツは駐車している車の正面から脅して、正面衝突承知の『チキンレース』を仕掛けてきた。あの喧嘩を一方的に売るヤツは軽蔑されるはずなのに。
「許せない。今度、会ったらとっつかまえる」
 龍星轟の娘の血が燃えていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 56号線の個人経営のドラッグストアで言われた物を買って、翔のマンションに戻った。
 帰ってきた時には、英児父がオムツを替えてくれたせいか、赤ちゃんも落ち着いていた。
「これに、こうして粉をいれて。湯を注いだら人肌な」
 綺麗に洗浄した哺乳瓶に、手慣れた手つきで英児父がミルクをつくる。
「よっしゃー。やっとメシだぞ。よーく頑張ったな。よしよし」
 歳の割には筋肉がついている逞しい腕に、英児父が軽々と赤ちゃんを乗せる。なんの躊躇もなく哺乳瓶を可愛らしい口元に当てた。
 赤ちゃんがすぐに吸いついて、ものすごい速さでごきゅごきゅとミルクを飲み始めた。
「これぐらいの大きさの子なら、もう離乳食も始めているな。けどな、最近の子はアレルギー体質の子が多いから見ず知らずの大人が安易に飯をあげられなくなってきたもんな」
 これで足りるかな。父が心配そうに赤ちゃんを覗き込んだ。
 それを若い二人は、ただ見ていることしかできなかった。
「社長。ありがとうございました。俺、なにもできなくて。社長、とても手慣れていますね」
 父が笑う。
「あったりめえだろ。小鳥、聖児、玲児。武智んとこの俊太郎と子守りしてきたからな。こんなことができるんだよ」
「それで仕事で動けないオカミさんが、社長に行くように言ってくれたんですね。本当にお騒がせして申し訳ありません」
 いつもの礼儀正しいきちんとした翔兄らしく、上司である英児父に深々と頭を下げた。
「まあ、なんつーの。お前もいきなりでびっくりしたんだろ。仕方ねえや」
「ですが。自宅まで来て頂くことになって、プライベートのことに巻き込んでお恥ずかしい限りです」
 他人行儀に部下の一線を引こうとする翔を見て、父は少しばかり不服そうに口元を曲げている。
「翔、俺はな、従業員のプライベートは、きっぱり無関係なんて思ってねえよ。勿論、仕事で一線引かなくちゃいけねえところは絶対だけれどよ。俺のところみたいに個人経営だと、従業員の家族も家族みたいなもんだからさ。一人で困った時には社長の俺を頼って欲しいと思っている。それに……お前と瞳子さんのこと、知らぬわけでもなかったし」
 それでも翔兄は、迷惑をかけてしまったと俯いていた。小鳥も胸が痛む。カレシの上司が父親だから、自分の両親は頼らない方が良かったかなと勝手にやったことをいまになって反省してみたりする。
「瞳子さん。結婚して何年だ」
 英児父の問いに、翔も気を取り直したのか、しっかりと顔をあげて父に答える。
「二年、いえ、三年になりましょうか」
「結婚して三年内に出産、母親。順調じゃねえか。瞳子さんらしいな」
 どこか含んだような言い方で、父が苦笑いをみせた。
「けど。結婚生活と子育てだけは、大人の思い通りにならねえわ。自分の思いだけで動くと破綻するんだよ」
 途端に父の声色が険しくなった。それは徐々に批判めいている。
「相手がいるから家族が出来るんだろ。一人じゃ出来ねえんだぞ。相手と摺り合わせて夫妻になるもんだしな。自分の理想に合わせてもらうもんじゃねえよ」
 そして父は翔を睨んだ。
「いいか、翔。きっぱり突き放すんだぞ。この子供のためにも、どうあっても一度は旦那のところに返せ。間違ってもかくまうんじゃねえぞ」
「当たり前じゃないですか! 未練なんかこれっぽっちもないことは社長だってご存じでしょう」
 あの翔兄がムキになって言い返した。いつもは父の言うことを静かに聞いて頷いて、反論する時も理路整然と淡々と返して、その頭の回転の良さで勘だけで動く父を唸らせてきたのに。
 それは小鳥の前だから? それとも彼女の父親の前だから? それとも……。
「だけど、俺。彼女はまったく変わっていないと思いました。見合い結婚でも望んだ結婚だったはずなのに『こんなはずじゃなかった』と言い並べた不満が、俺との最後の別れ話の時とそっくりで……。どんな男が相手でも同じだったんじゃないかと」
「そうか。てことは、瞳子さんも変わり時だな。これ乗り越えないと、彼女が痛い目に遭うだけだ。いつまでも姫様思考なら、毎日が苦しいだけだ。翔、前の女だからってここで甘やかすなよ」
「勿論です」
「安心したわ。ヨリを戻すとかは思っていなかったけれどよ。お前、よく考えてみろよ。恋人ではなくなっても、大学時代のサークル仲間という繋がりがまだあるんだろ。その昔馴染みだからという良心で、泣きついてきた女を情けで一晩でも泊めてみろ。人妻だぞ。夫側にばれたら潔白でも、いまのご時世では訴えられるぞ。そういう巻き込まれなくても良いトラブルで痛い目にあって欲しくないんだよ」
 それを聞いただけで小鳥は血の気が引いた。大人の事情はそんなふうに発展するものなのだと。これって翔兄にとってもの凄く危ないトラブルの元だったんだとゾッとした。やっぱり英児父に知っておいてもらって正解だったかもしれない。
「だから今夜は『二人きりだった』とならないよう、親父代わりの俺がお前とここに泊まる。いいな」
 上司のアドバイスと言い聞かせは、部下の青年にもきちんと理解されたようだった。
「ご心配かけます。お願いいたします」
 話し終えるころには、赤ちゃんが英児父の腕の中でジタバタしていた。
「おー、飲み終わったか。いい顔になったじゃねえか」
 赤ちゃんを目の前に抱き上げて、父は鼻と鼻をくっつけた。いま改めて、この親父さんは子煩悩なパパだったんだなあと小鳥は懐かしくなってつい微笑んでしまう。
「お前ぐらいになるともう、げっぷもできるかな。どれ」
 肩の方に抱き寄せて、まるい赤ちゃんの背中を父がぽんぽんと叩くと『げっふ』と盛大なげっぷが飛び出てきたので、小鳥はついに笑い出してしまう。
「はあ。やっぱ赤ん坊のこの柔らけえの、ぬくいの、たまんねえわ。やっぱ可愛いわ。懐かしいなあ」
 英児父がこうして、小鳥や弟達を育ててくれたことがとても良くわかる姿だった。
 お世話をしてくれたおじちゃんに心を許したのか、赤ちゃんもしっかりと英児父にしがみついていた。
「しかし困ったな。せめて朝までには戻ってきてくれないとな。お前の母ちゃん」
 本当にどこへ行ってしまったのだろう。衝動的に出て行ったなら、そろそろ冷静になっている頃なのでは――。実家でもない、友人宅でもない、二年以上音信不通だった元カレのところに来たのだから、逃げる場所はここが最後だったはず。
 まさか。早まったことを思い付いていないといいけれど。小鳥は急に不安になってきた。
「父ちゃん。私、瞳子さんを探しに行ってくる。やっぱりダメだよ。放っておいたら」
「そうだな。女一人、この港町を徒歩でうろついているのは危ないな。だけれど、お前も危ない。エンゼルが狙われたんだ、俺が行ってくる」
「そんなの、怖くないよ。見つけたら今度はとっつかまえてやるんだから!」
「うっせい、黙れ! お前みたいな子供がよう、どうこうできる相手じゃねえんだよ」
 本気の声で怒鳴られ、小鳥も震え上がる。父が絶対命令を下す時の怒声だった。
「行ってくるわ、翔。赤ん坊は、ベッドとかソファーとか高いところに寝かせるな。寝返りするから目を離した隙に落っこちるぞ。柔らかいタオルケットを敷いて寝かせてやれ」
「はい……」
 父がスカイラインのキーを手にした時だった。またチャイムが鳴る。
 瞳子さんが、帰ってきたかも!? 揃ってそう思ったのか、三人とも玄関へ向かっていく。そしてまた翔がドアを開けると。
「そこで、うろうろしていたのよ」
 開けたドアには、スーツ姿の琴子母と泣き崩れる瞳子さんだった。
「琴子、お前、仕事は」
「あんな電話をもらって平気で仕事なんてできないわよ。三代目が『戻ってくるなら少しだけ出て行っても良い』と言ってくれたから来てみたの」
 琴子母がこのマンションに着くと、瞳子さんがエントランスでうろうろしていたのだとか。
「よかった。瞳子さん。ほら、いいからはいんな」
 久しぶりに会う英児父に促され、彼女が力無く玄関に入った。
「恵太!」
 リビングに入るなり、彼女は置いていった赤ちゃんへと駆けていく。
「ごめん、ごめんね。置いて行っちゃって……」
 やっぱり、母親だと小鳥は思った。初めての子育てで疲れていただけ。あんなに泣いて後悔しているんだから……。
 そして彼女も子供を抱きしめると、顔つきが変わった。
「お騒がせいたしました。もう帰ります」
 英児父も翔もホッとした顔をした。
「私がご自宅まで送ってくるわね。そのまま会社に戻りますから」
 琴子母も疲れた顔だったが、父に微笑んだ。もうそれだけで、父もにぱっとご機嫌な笑顔になる。
「おう、すまねえな。琴子。頼むわ。あー、良かった。まあ、瞳子さんいろいろあると思うけど、そういうこともあるわ。でももう二度と子供を置いていくなよ」
 ひと説教するかと思ったけれど、あんまりにも瞳子さんがしゃんと立ち直った姿を見せたので、英児父も多くは言わないで送り出そうとしている。
「申し訳ありませんでした。もう二度といたしません」
 そして瞳子さんは、翔の顔を一度も見ようとしなかった。ダイニングテーブルにあるママバッグを見つけ、彼女も気がついたようだ。
「あの、恵太に……?」
「ああ。おっちゃんがな。悪いけど開けさせてもらったよ。この若い二人がどうこうできるもんじゃなかったみたいだからよ、呼び出されたんだわ。そんだけ、子育てのスキルてお母ちゃんお父ちゃんじゃないとダメなんだよ」
 すると瞳子さんが項垂れた。
「夫は、なにもしてくれません」
 そう返され、英児父の顔が曇る。
「子育ては協力してくれると約束してくれたのに……。仕事仕事、出張出張ばかりで」
 さらに英児父の表情が強ばり、小鳥はハラハラしてきた。その顔、父ちゃんが怒っている顔。
「仕事仕事、出張出張。そういう男が瞳子さんが望んだ高給取りで、大手社員のエリートの働き方なんだよ。仕事をめいっぱいやらせておいて、帰ってきて子育てもしろはねーだろ」
「それでは、この子は父親のぬくもりを覚えてくれません」
「やり方があるだろ。朝出かける前に、ちょっと相手してもらうだけでも全然違うんだよ。それからな、まだ五ヶ月ぽっちの赤ん坊なんて、男親はまだ慣れないしどう接して良いかわからねえ男もいっぱいいるんだよ」
 また瞳子さんが項垂れる。
「もう少し頑張ってみな。旦那も慣れてくるからよ、な」
 父の諭しに、彼女も小さく頷いた。
 でも顔を上げた瞬間、彼女のきつい目線が小鳥に向かってきた。でも一瞬。
「翔、迷惑かけたわね。もう二度と来ないから安心して」
「ああ、もう二度と来るな。迷惑だ」
 きっぱりした翔の返しに、やはり彼女が哀しそうな顔をした。
「さあ。行きましょう」
 琴子母が赤ちゃんを抱いた彼女を連れていく。玄関が閉まった音がして、小鳥ではなく男二人がホッとした息を落としていた。
「あー、おまえんとこに泊まらずに済んだわ」
「お世話になりました。本当に」
「けど、あれはどうもお前のことを諦めていないような顔だったな」
 父も気がついていた。そして小鳥も同じように感じていた。ひとまず『元ヤンの怖い社長』の言うことは聞いたふりをして、ここを抜け出ようとしただけ。心の奥ではなにを思っていたのだろう。小鳥に突き刺した女の執念のような視線がまだ痛い。
「見合い結婚では結婚で望んでいた条件の男を捕まえたが、女としては長い春を謳歌した男が忘れられねえことを思いだしちまったんかね」
 大人の親父さんの言葉は、小鳥の胸にズキリと刺さった。
 そして良くわかる。同じ男を好きになった女だから良くわかる。翔兄は背も高くて、普段は涼やかな眼差しでクールなムードを漂わせているけれど、八重歯をちらりとみせる笑顔がチャーミング。頭も良いし、落ち着いた大人の男になっている。将来性云々、結婚条件なんて考えなければ、『男』としての翔兄はすごくイイオトコだと思う。
 こんなお兄ちゃんに抱かれたことがある女性なら、きっと、素敵な想い出になっているに違いない。そう思う……。その良さを彼女は思い出して、恋しくなってしまったのだろうか。
「よっしゃ。小鳥、帰るか」
「え、帰る?」
 やっとお兄ちゃんと二人きりになれると思ったのに。
「てか、お前。なんで翔のところにいたんだ」
 問われて、小鳥と翔は改めてぎくりと固まった。
「あー、その、あ! 峠でランエボに襲われて、すぐにお兄ちゃんに電話したの。そしたら、お兄ちゃんは赤ちゃんと二人きりで困っていて……だから……」
 『ほう』と父が釈然としない目で小鳥と翔を交互に見た。だが父の気持ちはすぐに違う方に飛んでいった。
「そうだ。エンゼル、あれひでえな。胸くそわりい! 明日の夜、俺が峠に行く!」
 え、父ちゃんが峠に!? 小鳥と翔は揃って仰天した。
「たりめえだろ! 俺の娘のエンゼルをあんなにしやがって。許せねえ〜!! 翔、お前も手伝え」
「は、はい。勿論、です」
 また父ちゃんのロケットが発射した。こうなると流石のお兄ちゃんも、ロケット乗務員として連れて行かれるだけ。それが龍星轟の日常。
 一難去ってまた一難? なんだかぜーんぜんお兄ちゃんと二人きりになれない予感……。

 

 

 

 

Update/2013.9.9
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