◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-8 もう一度、キスをして。  

 

 大学の講義が終わり、アルバイトのために郊外から市内へと小鳥は向かう。
 暫くは、母親のフェアレディZか、英児父のスカイラインを借りて通学することになった。
 琴子母も、小鳥が乱暴な車と接触したことを知ると非常に心配をして『当分は峠にいったらダメ』ときつく言いつけられてしまった。そして英児父も『考えたくねえけど、もし龍のステッカーを目印に襲っているとしたら、帰宅が遅い琴子のゼットも危ねえ。母ちゃんは走り屋みたいなぶっとんだ運転はしないからよ。目をつけられたら小鳥よりひでえことになるかもしれない』――と、真っ青な顔になったかと思うと、明日から琴子は俺が送り迎えをすると言い出して、運転がしたい琴子母を困らせていた。
 だけど、そう聞くと小鳥も母のことが心配になる。小鳥の場合、どのおじさん達からも『小鳥の勘の鋭さは、父ちゃん譲り』と言われていて、ハンドル裁きも女性ながら『男顔負け』と言ってもらえるが、母の場合は、おっとりしていてどんなに運転慣れしているといっても『ドリフト』ができるかと言えば、そうではない。
 年齢の割にはお嬢様気風の愛らしい雰囲気もそのままの、琴子母。あの親父さんが未だに『琴子は可愛いな、可愛いな』と鼻の下をのばしっぱなしなほど。今でも英児父の可愛い奥さんで、おっとり奥様そのもの。
 そんなお母さんが、あんな乱暴なランエボに煽られて、ハンドル操作を誤って事故を起こしたら……。そう思うとぞっとする。
 父ちゃんに送り迎えしてもらうのが、一番、安心。弟たちも同意見で、子供達に心配されて、ようやっと母も英児父に送り迎えをしてもらう決意をしてくれた。
 
 バイト先は、城山が見える街中にある。  
 スタッフ専用の駐車場に銀色のフェアレディZを停車させ、スタッフルームで小鳥は制服に着替える。
 肩先まである黒髪をぎゅっと一つに束ねる。制服は白いシャツに黒い蝶ネクタイ、黒いベストにタイトスカート。そして黒いローファー。鏡で身だしなみをチェックし、小鳥は『スタッフ専用出入り口』のドアを開ける。
「おはようございます」
 扉を開けると香しい珈琲の匂い。目の前のカウンターで凛とした佇まいで珈琲を淹れるスタッフ達。
「滝田さん、これを10番テーブルまでお願いします」
「はい。了解です」
 厨房から出てきたものを銀色のトレイに乗せる。オーダー票をチェックして、厨房からできてたドルチェの注文のほか、アイリッシュコーヒーとロイヤルミルクティーが注文されていることを確認。『ドリンクもあがったよ』という声を聞き、注文の品だと確認して、すべてを乗せて小鳥はカウンターを出る。
「お待たせいたしました」
 10番テーブルのお客様は、買い物帰りのマダムお二人だった。
「滝田、カウンターに入ってくれ」
「はい。店長」
 店長に言われ、小鳥はカウンターに入る。
 小鳥はまだ客にドリンクを出すことは許されていない。ベテランがドリンクを作るアシスタントのみ。ただし、店長の監督付きで淹れることもある。
 老舗喫茶、真田珈琲、本店。
 そこが小鳥が二年間お世話になっているアルバイト先。
 
 一番の理由は『この城下町で一番のカフェだから』。それに尽きる。
 だけれど、できればこのカフェは避けたかった。何故なら、子供の時から知っている大人がこの会社にいるから……。
 スタッフルーム専用のドアが開く。
「滝田は来ているか」
 水色ストライプのぱりっとしたワイシャツに、紺色のスタイリッシュなネクタイをしている眼鏡の男性が現れる。
「はい。先ほど入ったところです。真鍋専務」
「事務所に珈琲二杯、持ってきてくれ。社長と会長からのオーダー。滝田をご指名だ」
 眼鏡の奥の険しい眼差し、にこりとも微笑まず、専務の頬はいつも硬い。
「頼んだぞ」
「かしこまりました」
 真田珈琲を支える営業マン、そして社長秘書も兼ねている『真鍋専務』は、先代の真田社長が大手珈琲メーカーから引き抜いてきたやり手ビジネスマン――と、その経歴を聞かされていた。
 この真鍋専務が子供の頃からの知り合い。
 こちらの奥様、真鍋夫人が両親の結婚式を手伝ったという縁もある。そのご縁で繋がったのも、漁村喫茶の伊賀上マスター繋がり。両親が結婚以降、特に琴子母と真鍋夫人の交流があって、小鳥はこちらの真鍋一家のことは子供の頃からよく知っていたりする。
 奥様は再婚。前の嫁ぎ先は島の果樹園。そこのご主人が若くして亡くなったため、彼女も若くして未亡人。でもその後もご主人が遺した果樹園を守ってきた。それは真鍋専務と再婚後も。伊賀上マスターがこの果樹園の柑橘を贔屓にしてるので、そこから琴子母と真鍋夫人のおつきあいが始まった。
 そんな子供の頃から小鳥を知っていて、よくしてくれたおじさんが、この街一番のカフェにいる。この『真鍋のおじさん』がいるので、本当はこのカフェでのバイトは避けたかった。ここが街一番の喫茶でなければ、ほかの店へアルバイトの面接に行っていた。
 縁故とか思われたくないし、おじさんと知っている子供という関係で遠慮されてもイヤだし、遠慮されなくても真鍋のおじさんには迷惑かもしれないと悩んだ。
『おじいちゃんは、この城下町で一番だと思っているお店はどこ』
 漁村のおじいちゃんに聞いたとき。
『真田珈琲だね』
 伊賀上のおじいちゃんがそう答えたときから、小鳥はそこで働くことを決意していた。もう、子供の時からずっと。
 そこは譲りたくなかった。子供の頃からの知り合いがいても、ここだと決めていたところに行きたかった。
 だけれどその心配は要らなかったよう。真鍋のおじさんは、小鳥だからこそ遠慮なく厳しくしてくれる。伊賀上のおじいちゃんにもよく言われる。『真鍋君の教えは間違いない。小鳥のためになるよ』――と。
 
「また試されて小言を言われるみたいだな」
 小鳥がドリップを始めた横で、常に監督してくれる店長がため息をついた。
「いいんです。一年、二年そこらでは、淹れ方を覚えても、腕前はないんですから」
「そりゃ。そうだけれどなあ」
 四十代の宇佐美店長も浮かない顔。
「滝田の腕が上がらないと、俺もなあ……」
 指導係に任命されているから、小鳥の成長が認められないと、彼の責任も問われる。なので、二階の事務所に三代目の真田美々社長と先代二代目の真田輝久会長が揃って『本店スタッフの誰かが入れるお茶』をたまに所望すると、宇佐美店長の管理者としての資質も問われる。それが店長にとっては、かなりのプレッシャー。
 特に小鳥。ここにアルバイトに面接に来た『理由』が皆によく知れ渡っている。
 ロイヤルコペンハーゲンのカップに珈琲を。同じシリーズの茶器でお茶を楽しむ準備を整え、トレイに乗せ店からスタッフルームへ。そこから事務所への通路を通り、二階に上がるケヤキの階段を上る。
「失礼いたします」
 狭い事務所のドアを開けると、小さな応接ソファーに白いスーツ姿の女性と、白髪だけれどイタリア男性の如くシンプルな服をスタイリッシュに着こなしている年輩男性が向かい合って座っている。真田の父娘だった。
 二人はすでに一つの書類を間に、額をつきあわせ真剣な顔でなにやら言い合っている。先ほど声をかけてきた眼鏡の専務は、会長の隣に座って神妙な面もちで黙って聞いていた。
「本日のオススメ、キリマンジャロです」
 話し合いの邪魔にならないよう、控えめに声をかけ、床にひざまづいて各々の前にそっとカップを置き、ミルクピッチャーやシュガーポットを揃えた。
 最後に、真鍋のおじさんの前に珈琲カップを置くと、そこで真田父娘の話し合いがぴたりと止まってしまった。
 しんとした静けさの中、お偉いさんお三方の視線が小鳥に突き刺さる。
「二杯、とオーダーしたはずだ」
 真鍋専務の眼鏡の視線が痛い。
「余計なことでしたでしょうか。申し訳ありませんでした」
 頼まれていない三杯目を専務の前に置いた。それを小鳥はそっと下げようとすると、その手を真鍋専務に掴まれる。
「いや。ありがとう。小鳥」
 おじさんとしての一言を耳にして、小鳥は少しばかりの反省をする。そんな小鳥の顔を見た白いスーツ姿の美々社長が笑った。
「知っている子供が淹れたから、ありがとう。でも、専務としては余計なことはするな。小鳥はちゃんとそれが解ったみたいよ。どうなの専務」
 華やかな金茶毛をきらめかせ、いつもきらきらしている三代目、女社長の美々が小鳥の心中をすべて読みとっていた。
「気遣いが喜ばれることもあれば、余計なお世話になることもある。上司の指示を守らないと、それが仇になることもある。ただその気遣いが上司を助けることもある。難しいさじ加減ですね」
 小鳥も同じことを感じとった。専務の『ありがとう』はおじさんとしてのありがとう。本当に上司として喜んでくれたのなら『小鳥』と呼ばず『滝田、ありがとう』と言ってくれるはずだから。
 だけど、そこでいつも硬い面もちの真田会長がひとことでまとめてくれる。
「指示ばかり守る部下も困りものだがね。やりすぎないように」
 娘の美々社長と真鍋専務がそれ以上なにも言わなくなったので、それが小鳥が注意すべきことだと理解した。
「心に留めておきます。ありがとうございました」
 そこで三人が共に珈琲カップを手に取りひとくち。小鳥も緊張の一瞬。
 でもそこで珈琲の出来については決して口にしない。評価は後ほど宇佐美店長に伝えられることになっている。
 ――失礼いたしました。と、去ろうとしたとき美々社長が話しかけてきた。
「小鳥。今日は琴子さんのゼットに乗ってきたのね」
 小鳥は目をそらしたくなる。出来れば、走りに無縁なアルバイト先の関係者には今回のことは知られたくない。
 なのに。真鍋のおじさんが鋭い。
「まさか。小鳥。ついに事故ったとか言わないだろうな」
 専務の言葉を耳にした途端に、真田会長の視線が険しく小鳥に突き刺さったので焦った。
「いえ。その、ぶつけられて。いまエンゼルは龍星轟で修理中です」
 ぶつけられた? そこにいる大人三人が不安そうに顔を見合わせた。
「相手は」
 会長の問いに、小鳥は観念して正直に答え、経緯を説明した。
 龍星轟顧客の溜まり場であるダム湖へ向かう峠で、見知らぬランサーエボリューションに煽られ、やり過ごしたのに後をつけられ、一方的な真っ正面からのチキンレースを仕掛けられて回避しようとしたら向こうからぶつかってきたと。フロントのバンパーとライト、そして後部をぶつけたことを説明すると、珈琲屋の三人が息引く驚きを見せた。
「小鳥、おまえ、よく無事だったな」
 眼鏡のおじさんがさすがに青ざめていた。
「やだ。小鳥。怪我でもしていたら大変だったじゃないの。嫌な走り屋がいたものね。お父さん、怒っていたでしょう」
 美々社長も、琴子母同様に母親のような心配顔を見せてくれた。
 そして会長も。
「ここらあたりの走り屋はだいたいは滝田君がうまくまとめてくれているものと私も思っていたが、そんな粗暴な車が現れたのか」
 ――父ちゃんが、ランエボ捕獲作戦を準備中なんて言ったらどうなるんだろう?
 ふとそう思った。こちらのお三方は、スマートに海外車を乗るお方達で、国産スポーツカーでエンジンがどうの足回りがどうのとやりあう走り屋とは全然違うドライバーさん達。『捕獲作戦のことは黙っておこう』と小鳥は口を閉じた。
 最後に真田輝久会長からひとこと釘を刺される。
「車屋の娘で滝田君が管理しているから大目に見ているが、これからバリスタを目指すなら怪我をするような行動はなるべく控えてほしい。本気なら」
 さらに会長は小鳥に向かって強く言い放った。
「車屋の娘として走ることより、漁村のシーガルを、伊賀上マスターから継ぐのが最終目標だろう」
 そう。それが小鳥の夢。
 子供の頃から親しんできた、大好きなおじいちゃんのお店を復活させることが夢。
 年老いて調子が良い日しか店を開けなくなってしまった。それまであの海岸線を走るドライバー達の憩いのカフェだったのに。
 ただ。夜になるとひっそりとカクテルを作る。お客が来ても来なくても。一杯だけでも作る。それが伊賀上のおじいちゃんがひとつだけ続けていることだった。
 子供の頃のような、あの穏やかなお店をもう一度復活させたい。それが小鳥の夢。
 だから。街一番の喫茶店に勤めることを心に決めていた。もちろん、就職もここだと決めている。
 この決意と目標はすでにこのお偉いさんは理解してくれていて、真田父娘も真鍋専務もその心積もりで育ててくれようとしている。
 何故なら。このお三方も、伊賀上マスターの店を愛してきてくれたお客様だから。
 会長が続ける。
「車屋の娘として許せない気持ちもあるだろうが、この先に大事なことが待っている。そのために今、なにをすべきか、避けるべきかよく考えるように」
 つまり。走り屋娘の騒ぐ血に任せて、将来の夢を台無しにするような軽はずみな決断はしないよう。峠で無意味な勝負に熱くならないよう釘を刺されていると小鳥も気がついた。
「会長、ご心配ありがとうございます。軽はずみな行動にならないように努めます」
 丁寧にお辞儀をすると、ほっとした顔をみせてくれる。
 真田会長のお孫さんは小鳥と同世代で、海外留学中。会長もお孫さんに対しては、優しいお祖父ちゃま。だけれどいつまでもイタリア男のようなニヒルさを漂わせているお洒落なオジサマ。小鳥のこともまた孫のようにみてくれる時がある。時々『おまえの車に乗せろ』と言い出してMR2に乗りたがる。会長を乗せて峠を走ったこともあるし、漁村のおじいちゃんのところへ連れていくこともよくある。
 真田会長は、伊賀上おじいちゃんが作るカクテルの大ファン。会長を連れていくと、カクテルを作れるのでおじいちゃんも喜んでくれる。
 両親の顔が広いおかげで、小鳥はどこへ行っても、様々な大人達が支えてくれる。心からの夢をこうしてサポートしてくれる環境があった。だからこそ、甘えてばかりいてはいけないという気持ちも強い。
 
 
 珈琲の評価が宇佐美店長から伝えられる。
 まだ雑味がある。手際よくかつ丁寧にドリップするように。――とのことだった。
 新人が淹れる珈琲だから、その評価は妥当だった。
 伝えてくれた宇佐美店長の背中で、ほくそ笑んでいる女性がいる。
「当たり前よね。困るわよ。親の顔見知りとか、会長がお気に入りのカフェマスターの孫娘みたいな感じで、完全に縁故。丁寧に育成されて甘い評価なんて出したら、真田珈琲の人選する目を疑われるわ」
 小鳥が真田珈琲の役員達と接触すると、怖い顔をする女性が一人いる。
 勤続十五年というお姉さん。日野セイコさん。
 小鳥が珈琲を言いつけられると必ず事務所で顔見知りの会話になってしまうので『縁故の贔屓』と怖い顔になり、小鳥の珈琲が厳しく評価されると正当な評価だと勝ち誇った顔をする。いわゆる真田珈琲本店のお局様だった。
 まあ。いいんです。本当のことですから。
 小鳥もそう心の中でつぶやき、気にしないようにしている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 バイトが終わり、銀色のゼットで国道を走る。
 白のランエボ事件があってから、もとい、元カノ突然訪問があってから翔のマンションに行っていない。でも彼の顔は朝でかけるときに龍星轟でひと目は見ている。挨拶だけはしている。でも、それだけ。片思いで彼と笑顔で挨拶が出来る毎日でも幸せだったあの頃と同じ。でも今は、ちょっと寂しい。
 それになんだか、近寄り難い不機嫌な空気を翔兄から感じている。
 気安く声をかけられる雰囲気ではなくて、小鳥は少し距離を置いて、彼のことをそっとしていた。だから、やっぱり寂しい。
 どうしてあんな顔ばかりしているのかな。瞳子さんのことはきっぱり跳ねつけていたけれど、あれからも彼女となにかあったのかな? それとも、ただランエボのことで忙しいだけなのかな。気になっても素直に聞けない。自分らしくない。
 大人の彼がなにを思っているのか、小鳥には推し量れない。つまんないことを言えば、子供っぽいことになるのかな。この前だって、後先考えずに飛び出して、お兄ちゃんを置き去りにした。心配してくれていたのに、小鳥はひとりで焦って慌てて、変なランエボを引き寄せてしまった――。またいつものように自覚より行動が先立って騒ぎになる。そうして大人のお兄ちゃんを煩わしたくない。
 どうした、小鳥。ストレートなお前らしくない。そう言いそうな男の声が聞こえてしまった。
 
 店が閉まっても、龍星轟事務所の灯りはついている。この日も事務所に男たちが集まっている。ピットも煌々と照明がつけられていて、英児父のスカイラインR32GTRと、清家おじさんの愛車ホンダのCR−X、そして翔兄のスープラが入っている。従業員の車も調整をしているようだった。それを見た小鳥は、龍星轟総出で白のランエボに挑むその本気を感じずにいられない。胸騒ぎも止まらなくなる。
 MR2をガレージに入れて、男たちが怖い顔をつきあわせている事務所は避けて、自宅へ上がる階段がある裏口通路のドアへと向かう。
 そのドアが触る前に開いた。
「小鳥」
 今の今まで事務所で男たちが固まっていたのに、ドアを開けて現れたのは翔だった。
「お兄ちゃん。夜遅くまで、お疲れさま」
「小鳥こそ。バイトが終わったのか」
「うん。時間外でドリップの練習を見てもらってこんな時間になっちゃったんだけど」
「そうか。頑張っているな。お疲れさま」
 やっと八重歯の笑顔を見せてくれたので、小鳥はほっとした。
 彼の手には大きなゴミ袋。事務所でシュレッダーにかけた紙屑が入っている。それを裏の倉庫に持っていくところだったようで、そのまま裏手に向かっていく。
 そっとしておきたいと思っていた小鳥だったが、大好きな八重歯の笑顔をやっと見せてくれた嬉しさが止まらず、つい彼を追いかけてしまった。
 事務所用の倉庫に収集日まで置くために、彼がそのゴミ袋を持って倉庫に入っていった。
 暗くて狭いその倉庫にいる彼に声をかける。
「お兄ちゃん。疲れていない。ずっと夜遅くて」
 暗がりの中、彼が振り向いた。
「全然。早く終わったら終わったで、俺は走りに行くだろう。それから帰れば、今の帰宅時間と変わらない。ただ走りに行けないだけ」
 それに今は走りに行くとアイツを引き寄せるかもしれないから自粛中と答えてくれた。
「小鳥もいまは控えておけよ。峠でなくとも、港から勝岡の海岸線とか飛ばしていても危ないからな」
「うん。お兄ちゃんたちが走りに行っていないのに、行かないよ」
 そう答えると、翔兄の大きな手が小鳥の黒髪を撫でた。ずっと前からそうであったように、小さな女の子に『よい子だな』と撫でる大人のお兄さんの顔だった。前はそれでも嬉しかったのに。今は、嬉しくない。
 小鳥の胸に我慢していたものが溢れ出てしまう。
「翔兄……」
 暗がりの倉庫にいる彼の胸に、小鳥から飛びついていた。
「こ、小鳥」
 龍星轟のジャケットを着込んでいる彼の胸にしがみつくと、よく知っているお兄ちゃんの匂いがして、小鳥は泣きたくなった。
 彼の肌が放つ優しい石鹸のような匂いとか、男の汗の匂い、そしてオイルの匂い。それが混ざって、彼が恋しかった小鳥をもっと泣かせた。
 まだ仕事中のお兄さん。彼の顔はここでは『お父さんの部下』。彼がいま見ているのは『上司のお嬢さん』、そんなぎこちなさ。でも、もう我慢できない。
 いつも小鳥の突撃に驚いては硬直するお兄ちゃんも、徐々にその硬さを解いて柔らかに小鳥を抱きしめてくれる。
「ごめんな。あのランエボが許せなくて、しばらく俺の頭の中そればかりだった。小鳥に我慢させていたんだな」
 すぐに察してくれた彼の胸で、小鳥は『ううん』と頭を振った。
「会いに行きたいよ。でも、わかっている。だっていま、お兄ちゃんだけじゃなくて、父ちゃんも、整備のおじちゃんも、整備チームの皆も、武ちゃんも、矢野じいも、お客さんや仲間の車を傷つけられてなんとかしようと動いているんだもん。私、待てるよ」
 小鳥の言葉を聞くと、さらに彼がきつく小鳥の頭を抱き寄せてくれる。
 そして彼が静かに呟く。
「俺がいちばん頭にきたのは、小鳥とエンゼルがやられた時だ」
 静かな声、でも息が震えていた。
 彼を見上げると、小鳥を見下ろす黒い眼が険しくなっていることに気が付いた。
「あのMR2は、俺と小鳥の愛車だ。しかも小鳥が乗っているときに――」
 もしかして。ここのところすっごく怒った顔で不機嫌だったのは、私のため? やっと彼の真意に気が付いた小鳥は震える。
「そんなに、怒ってくれていたの?」
「当たり前だろ!」
 静かな彼の、憤る声が小鳥の胸に響く。
「翔、翔兄っ」
 今度は彼の首に抱きついた。ぎゅっと抱きついて、そのまま小鳥は彼の唇にキスをする。
 突撃のキスに、彼が『うっ』と小さく呻く。しかも今夜の小鳥はなにも厭わず、女の自分から彼の唇をこじ開けていた。
 柔らかくて熱いものを小鳥は捕まえるように愛した。
 翔も負けじと小鳥の唇を覆いつくすように吸いついてくる。今度は小鳥が呻く……。
 小鳥が小さく喘ぐと、そこで翔から離れてしまう。
 頬が熱い。自分からしたくてしちゃったキス。大胆に突撃したのは自分からなのに、小鳥はドキドキしていた。でも、もう恥ずかしくなんてない――。
「だから。そういう、顔で、俺を見るなって」
 どんな顔? 声にならず、でも彼の眼だけをじっと見つめる。あの翔兄も、大人のお兄ちゃんも、頬がほてっているよう……。お兄ちゃんの目が潤んでいる。だとしたら、私もそんな目で彼を見つめているの?
 熱く見つめてくれる翔兄が言った。
「もう一度、してくれないか」
 小鳥のそういうまっすぐさが、俺を元気にする。だからもう一度……キスを。
 うん、いいよ――。
 そう言おうとしたのに。突然、倉庫の壁に押しつけられ、翔から小鳥の唇にぶつかってきた。お前からしてくれと言ったくせに、待ちきれないみたいに彼から吸いついてきた。
 背中を壁に押しつけられて、逃げ場がなくて。でも小鳥も逃げない。彼に押されたら、押し返すぐらいに抱きついて唇を吸った。
 いままでにない激しいキス。彼に負けないよう濡れる唇をむさぼる。
 スキ、好き、大好き翔兄。
 キスとキスの間に熱い息で囁く。
 体温と体温が混ざりあって、二人の体温が一緒になる。熱い体温。
 唇と唇が濡れる音をたて静かに離れる。
「くそ。本当にタイミングが悪い」
 壁に小鳥を囲ったまま、翔が拳を握って壁を叩いた。
 彼が悔しそうに唸る。
「いまから親父さんたちと三坂峠(みさかとうげ)へ流しに行くんだ」
「三坂に? ダム湖じゃないの?」
「おびき寄せるコース的には、距離がある三坂が良いということになったんだ」
 おびきよせる!? そんな作戦が開始されるんだと小鳥は驚く。
「それがなければ、このまま小鳥を連れて帰るのに」
 ここは小鳥の自宅。それでも彼が連れて帰ると言ってくれた。たぶん、いまなら――。小鳥もそう思う。だって、身体の奥から何かが溢れて、零れおちそうになっている。今まで以上にジンジンと熱くて、つきんつきん痛い。いまならきっと翔兄を受け入れられる。身体がそう知らせてくれる。
 でも。
「行って翔兄。私、ランエボのことが落ち着くまで待っている」
「はあ。なんでだ。この前から――」
 邪魔ばかり。そう呟きながらも、最後に翔は、小鳥の目元にそっとキスをしてから離れる。一息ついて気持ちを切り替えたのか、彼は倉庫を出ていった。
 小鳥はしばらくそこから動けなかった。
 本当にタイミング悪い。どうして、なかなかふたりきりになれない。ゆっくりできない。
 ようやっと女として大好きなアナタが欲しいという気持ちがわかってきたのに。
 だけれど、小鳥は思う。ピットに揃っていたスポーツカー。今の彼には龍星轟の男でいて欲しいと。

 

 

 

 

Update/2013.9.20
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