◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

TOP BACK NEXT

 1-9 果樹園の魔女さん 

 

 指輪、せっかくもらったのに。
 
 指輪だってハジメテ。
 本当だったら、喜んで指につけるんだろうな。小鳥だってそのつもりだったのに。
 いざそうしようと思った時――。
『小鳥。それどうしたんだ』
 父ちゃんの鋭くなった目線が浮かぶ。
『姉ちゃん、それ指輪!?』
『似合わねえー。指輪がモッタイねえ』
 可愛げがある弟と、可愛げのない弟の二人が面白おかしく騒ぎ立てるからかい。
『小鳥、それ指輪だよな。あー、もしかしてもしかして』
 めざとい武ちゃん専務の意味ありげな目線とか。
『どうしたんじゃ、これ。小鳥、おめえ、男ができたのか!』
 一番やっかいなのは、お爺ちゃんになってますます遠慮ない物言いで騒ぐ、矢野じい。
 だめだ、だめだ。いちいち説明するのも、いちいち言い訳するのも、いちいちいちいち騒がれるのもイヤ!
 しかも、皆にからかわられる小鳥を、送り主である翔兄も目撃するだろうし。あの静かなお兄ちゃんのことだから、騒ぎ立てられるのもきっと好きじゃないはず。
 そんなふうに迷っているうちに指輪の指定席が決まった。
「はあ。こんなんでいいのかな」
 二十歳になったら渡そうと思った。翔兄がそういって誕生日前に小鳥の手ににぎらせてくれた『合い鍵』、カモメのキーホルダーに指輪をつけた。
 小鳥にとって、二十歳の誕生日にくれたプレゼントは、この『合い鍵』だと思っていた。小鳥にプレゼントをするなら『カモメがいい。小鳥じゃなくてカモメ』。『シーガルのオーナーになるのが夢なんだろ。だからカモメ』そう思って、翔兄が時間をかけて探してくれた貝細工のカモメ。そのカモメがぶらさげている銀色の鍵の横に、銀色のリングが光る。
「これなら、いつも持っていられるもんね」
 そういえば、翔からも『指輪どうした』とも聞いてこない。プレゼントを身につけてくれていなくて、がっかりしたりしていないか。でも……。この前の倉庫での様子だと『カノジョがプレゼントをどうしているか』よりも『カノジョの車をぶっ潰した野郎、許さねえ』――という状態のようだった。
 あんなに怒ってくれていただなんて。
 エンゼルは、俺と小鳥の愛車だ。
 嬉しかった。小鳥を傷つけた男に怒りを抱き、そして、同じ車に乗った者同士、大切に思ってくれて。
 唇がすりきれたような……、あのヒリヒリするキスの感覚がまだ残っている。
 ちょっとずつ、ちょっとずつ。自分が彼にとって女であるのだと実感がわいてくる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 朝、遠く海が見えるリビングへ行くと、英児父が小鳥を見るなり言った。
「小鳥。おまえが淹れたコーヒーが飲みてえ」
「うん。いいよ」
 琴子母が朝食を準備してる隣で、小鳥はドリップの準備をして湯を沸かす。
「淹れるなら、お母さんにもちょうだい。小鳥ちゃんの珈琲、おいしいもの」
 朝は忙しいので、たまにしか淹れない。まだ腕にも自信がない。だけれど、両親は小鳥がバイト先で覚えてきた腕で淹れる珈琲をとても気に入ってくれていた。
「いいなあ。朝から娘が本格的なコーヒーを淹れてくれるだなんて」
 喫茶業界で勤めたいことも、大好きなおじいちゃんのお店を継ぎたいことも、子供の頃からの夢。両親はそんな小鳥の気持ちをずっと前から知っているので、こうして応援してくれる。
 ドリップを終え、英児父に珈琲を届ける。
「サンキュ、小鳥。やっぱ香りが違うわ」
 嬉しそうに飲んでくれると、小鳥も嬉しい。
 だけれど小鳥は気になっていたことを、機嫌がよさそうな父に尋ねてみる。
「父ちゃん。昨夜、三坂はどうだったの」
 濃い珈琲を望んだのも、眠気が強いからなのだろう。
「ぜんぜん。俺ら以外は誰も走っていなかったわ。普通の通行車だけだったよ」
 小鳥はほっとしてしまう。
 父も翔も、従業員の皆も、あの乱暴な車に出会わなくてよかったと――。
 もういいよ。あんな車のことは忘れようよ。私、もう、なんともないよ。そう言いたくなる。あんな粗暴なランエボに、誰にも接触してほしくない。そんな気持ちが広がっていく。
 ねえ、父ちゃん。無茶しないで……と伝えようとしたのだが。
「ああ、小鳥。そろそろ伊賀上のおっちゃんに、いつもの届けておいてくれよ」
「うん、わかった。私もそろそろだなって思っていたんだ。今日はバイトがないから届けに行くよ」
 そのとき、父が心配そうに珈琲片手に小鳥を見上げた。
「まさかとは思うけどよ。海際で野郎に出くわしたら、なにもせず俺でもいい、翔でもいい、店にいる武智でも。とにかく連絡しろ」
 どこにいるか、どこから出てくるのか、皆目見当がつかない。
 伊賀上のおじいちゃんがいる漁村までは、海岸線の一本道。一車線。田舎道のようで中心街と地方をつなぐ主要道路なので、峠と違って交通量が多い。
「あそこで暴れられたら、巻き添え車がいっぱいでちゃうよ。さすがにアイツもそこまでバカじゃないと思うんだけど」
「ああ。父ちゃんもそう思うけどな。用心しておけよ」
 ため息をつきながら珈琲カップを気だるそうにテーブルに置いた父の目元が疲れていた。
 これ以上、心配はさせたくない。
「お母さんのゼットは絶対に傷つけない。だって、父ちゃんが婚約指輪より先に、お母さんにあげた婚約のプレゼントだったんでしょ」
 琴子母が常々『私のゼットは婚約指輪なの』と聞かせてくれたから。エンゼルのように傷つけないよう、今度こそ守ってやると強く思う。小鳥も大好きな人から引き継いだ車を壊されて悲しかったから。両親の結納の証であるフェアレディZは絶対に傷つけないと心に誓う。
「っていうか、小鳥オマエ、なんで俺のスカイラインに乗らないんだよ」
「だから。前から言っているじゃん。重いの、父ちゃんのR32。なに、あのハンドル!」
「なんなら。オマエが乗る間だけ軽く調整してもいいんだぞ。オマエの手に合わせたハンドルにつけかえてやるし」
 でも小鳥は首を振った。
 普段は絶対に乗せない親父の愛車なのに、子供にたまに貸すことになり『どっちに乗りたいか』と尋ねて、毎回毎回、母の愛車を選ぶのが気にくわないらし。  だって。そのスカイランの方が、おっかない車を引き寄せそうなんだもん。
 父ちゃんの黒いスカイラインは、装甲車。重厚なオーラを漂わせ、龍星轟社長の威厳を放っている。それに攻撃してくる走り屋がいるとしたら、かなりのチャレンジャー。強気で向かってくる奴しかいない。
 だから。そういう車をひっかけやすいって。乗っている本人は自覚していないよう?
 たぶん。出会ったら力技でなぎ倒すか、ぶっちぎっているんだろうなと、娘の小鳥は父の豪快さを思い浮かべる。
 父ちゃんを本気にさせたら怖いけど、あのランエボと真っ向対決したら……。惨劇を招きそうで小鳥は震えた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 港に停泊しているカーフェリー。作業員の手合図で駐車場への誘導が始まる。
 カーフェリーは好きな場所に駐車ができない。船が航行するバランスを考え、左右の重量がなるべく同じになるように誘導員の指示に従って停めることになる。
 小鳥が乗ってきた銀色のフェアレディZは船底駐車場の端、軽自動車の後ろを指示される。
 と言っても。車を降りても、ほかに駐車場に乗り込んできた車は、宅急便車と郵便のバイクのみ。一時間に一便の割合で運行されているのでこの島に行くフェリーはいつもこんなかんじ。自転車の高校生もいるし、おばさんもいる。島民にとっては、海のバスのようなもの。
 ひさしぶりなので甲板に出て潮風に当たりながら、もう目の前に見える緑の島を眺める。
 少し前までは島のてっぺんまで橙の水玉模様でいっぱいだったが、そろそろ収穫シーズンも終盤なのか、ところどろこになっている。
 フェリーが着岸し、小鳥はフェアレディZで島に上陸。車の通行量も少ない海岸線の道路。お天気も良く、青い空に白い雲。そして穏やかに輝く蒼い海。この島に来るとよりいっそう瀬戸内らしい情景に包まれる。同じ市内に属するのに、島の海も空も、色合いも匂いも。城山がある街中とはまったく異なる。
 子供の頃から馴染みのある道を走る。小鳥が車に乗るまでは、父や母が運転をしてその果樹園へ連れてきてくれた。いまはもう、自分の運転でその果樹園を訪ねる。そして、小鳥に任せてもらえるようになった『大人のお遣い』だった。
 青いレモンがたくさん実っている果樹園に到着。
 『二宮果樹園』。瀬戸内産のレモンをつくる農園としてその名を知られている果樹園。ここを『真鍋専務』の奥様、『真鍋珠里さん』が経営管理している。
 両親は結婚披露宴を漁村喫茶で行った。その時、伊賀上マスターが真鍋夫人(当時、二宮夫人)にお手伝いをお願いしたことから、夫人と母が顔見知りになった。
 伊賀上マスターが年齢と共にこの島まで買い付けにこられなくなった頃から、両親がマスターの代わりにこの果樹園へ買い付けにくるようになった。
 こちらの真鍋一家の子供達と滝田家の三姉弟は年頃も近かったこともあって、島にくれば一緒にわいわいと遊んだ『幼馴染み』。
 車を降りた小鳥は、よく知っている『二宮果樹園』へと歩き始める。緑の樹々がざわざわとさざめく小径へ入って、人の気配を探る。少し歩いて見つかるときもあれば、まったく見つからないときもある。そんな時は。
「こんにちはーーー! 小鳥です!」
 青い空に向かって大声を張り上げる。
 しばし風の音、そして波の音、樹々の囁き。
『おう。こっちやで』
 男の人の声が少し近くから。
『いらっしゃいー。ここよー』
 伊予柑の畑がある奥から女性の声。
『母ちゃん。俺が近いから、俺が行くわ』
『私も後で行くわー。キッチンにつれていってあげてー』
 そんな二人の大声が、空の下、樹の上だけで交わされる。
 どうやら彼の方が小鳥により近いらしい。小鳥も声が聞こえた方へと歩き始める。
 やがてゴム長靴で歩く音が近づいてきた。
「大洋兄ちゃん、こっち」
 小鳥の声へとそのゴム長靴の足音がさらに近づく。
「しばらくやったな、小鳥」
 凛々しい眉に、ぱっちり大きな黒目。そんな美麗な顔で爽快に微笑むけれど、ゴム長靴に農作業着という男性がレモンの樹の影から現れた。
 短髪の頭に黒のニット帽、そしてグレー作業着の胸元には『二宮果樹園』というオレンジ色の刺繍がある。
 真鍋家の長男、『真鍋大洋(たいよう)』。小鳥より一歳年上の幼馴染み。市内にある国大農業学部の三回生。
 卒業後はこの畑を継ぐために、母親のもと二宮果樹園で働く予定だと聞いている。まだ学生だけれど、普段もこうして母親の手伝いをよくしている。
 小鳥と同じ。これも彼が幼少の頃から抱いてきた夢。彼の場合はもうすぐそれが叶い、そしてそれを夢ではなく跡取りとして実現して行かなくてはならない。
 島の幼馴染み。地元で地元のために勤しむ両親に育てられてきた子供同士、彼とは昔からとても気が合う。
「そろそろや思うてたわ。伊賀上のじいちゃんとこのお遣い」
「うん。今朝、父ちゃんにそろそろ行ってくれと頼まれてきたんだ」
「俺と母ちゃんも気にしてたところよ」
 こっち来いや。と、農作業姿の彼が畑の外へと歩き始める。
 畑を出ると二宮の家がある。この家は、大洋の母親『珠里さん』が真鍋専務と再婚する前に嫁いでいた家。ご主人を若くして亡くされ、その後も二宮のお嫁さんとして八年も女手だけで果樹園を守ってきた。やがて、この島の中学校でクラスメイトだったという真鍋専務と仕事で再会し再婚。そうして彼『大洋』が生まれた。
 彼の母親は、再婚後『二宮姓』でなくなってもこの畑を引き継ぎ経営を維持してきた。自宅もこの島にあり、父親の真鍋専務がフェリーで通勤をしている島民一家だった。
「レモンもだいぶなくなったね」
 果樹園を少し歩いて、小鳥は季節を感じた。春を前にして、僅かに残したレモンの収穫が終わってしまう。
「そやな。今年もぎょうさん収穫できてよかったわ」
「お疲れ様。二宮のレモンが一番だよ」
 心からそう思っているので毎回挨拶のように小鳥は言う。そうすると、大洋が本当に太陽のように嬉しそうに微笑んでくれる。
 惜しいな。かなりのイケメン。いや美男子? きっと美人のお母さんに似たからだと小鳥は思う。島の外、大きな会社のオフィスでスーツ姿で働いていたらきっと女性たちが放っておかない。実際に、大学でもかなり女性に声をかけられるとか。だけれど真面目で向かうところ真っ直ぐ『俺がやりたいのは畑!』。それしか見えていないような生き方をする大洋兄貴の本質を知ると、遊びたい盛りの女子大生はすぐに避けてくれるようになるのだとか。
 真っ直ぐなところは、父親の真鍋専務に似たのかなと小鳥は思っている。それに最近、背丈が伸びて、男っぽい骨張った輪郭になってきた大洋兄貴は、顔は母親似なのにやっぱり男だからなのか、横顔が真鍋専務に似てきたなと感じることが多くなった。
「紅茶こさえるから。そこ座っていろ」
 二宮宅、庭の奥に菓子作り専用に立てられた『二宮スイーツキッチン』。この果樹園の素敵なところは、丹誠込めて作られる畑の柑橘が、このキッチンで素晴らしいスイーツに生まれ変わること。
 ここから企画されて、島から街の真田珈琲で売り出されヒット商品になったものが多い。そのスイーツも、ここの二宮家のカネコおばあちゃんをはじめとしたお嫁さん達がごくごく日常的にこしらえてきたというもの。
 ここだけ、イギリスのアフタヌーンティの農園に紛れ込んだかのような錯覚を起こすほど。ゆったりと甘酸っぱい匂いに包まれ、小鳥はここも大好きだった。
 ここに遊びに来ると、漁村のおじいちゃんのところに負けないおいしいお茶と、ここでしか食べられない極上のスイーツをご馳走してくれる。いつだって。
 そして今日も。農作業着の背が高い美男が、てきぱきとお茶を淹れる姿。
 この畑とキッチンは俺が育ったすべて。彼はいつもそう言う。小鳥が漁村のおじいちゃんが大好きなら、大洋は二宮のひいおばあちゃんとおばあちゃんが大好き。そういう育ちや気持ちがそっくりで、本当に小さい頃から気が合っていた兄貴。
「大洋兄のお茶、ひさしぶり」
「柚子ティーに、ハチミツレモン。どれにする」
「ううん。シンプルにそのままがいいな」
 カップに熱いお茶が注がれ、少し甘い芳しさがキッチンに広がる。
「いらっしゃい。小鳥ちゃん」
 お茶ができたところで、農作業姿の『珠里おばさん』が帰ってきた。
「お邪魔しています。珠里おばさん」
「おひさしぶりね。ゆっくりしていってね」
 ほっかむりの農帽を取り払うと、ショートカットの綺麗な黒髪が艶やかに現れる。そして小鳥にやんわりと微笑む。幼馴染みの母親。
 島の幼馴染みのお母さんを見て、小鳥はいつも思う。『珠里おばさん、ほんとうに何歳なの?』と。
 琴子母と同い年だと聞かされていても、年齢を知っているからこそ会うたびに思ってしまう。
 綺麗な黒髪も、そんなにくたびれていない肌も艶やか、なによりも眼差しがしとやかで、微笑んだ時に僅かに緩む唇が、それだけで芳しく開く紅い花のように悩ましい。ほんのりと漂う色香がとても女っぽい人。ほんとうに、自分の母親と同世代? まさにこれぞ『美人』だと小鳥も思っている。
 珠里おばさんは時々、夫の勤め先である真田珈琲本店を訪ねてくることがある。だいたいが果樹園から企画されたスイーツを売り出す打ち合わせでやってくるのだが、農作業着から女性らしく変貌した珠里おばさんは、とても目を引く。いつも怖い顔をしている狼会長の真田氏がなし崩しに笑顔だけになってしまうという、とんでもない現象が本店に起きる。真田本店のスタッフ達もそれはよく知っていて、専務夫人のことを密かに『島の魔女』と呼んでいたりする。
 島では幼馴染みのお母さんで、両親とも親しい果樹園のおばさんとして親しみやすいけれど、いざ女として出で立つ珠里さんを見てしまうと母だの妻だの吹っ飛んでしまうほど『美しい魔女』という気の含みを漂わせる。見た目、三十代後半と言ってもいいぐらい。息子の大洋と一緒に歩いていると『お姉様ですか』と言われることもよくあるとか。
「今日はバイトはお休みなのね。どう、うちの人、厳しくしていない」
「いいえ。一人のスタッフとして厳正に接してくれています」
「そう。あの人、厳しいほど期待しているってことだから。わかってあげてね」
 小鳥は首を振る。厳しいのは当たり前のことだと。
「でも小鳥ちゃんも、真っ直ぐね。うちの涼さん、小鳥ちゃんが来てくれること、ずっと楽しみに待っていたのよ。父親みたいな顔で。うち娘がいないし、大洋は畑のほうに来ちゃったし。それでも若い子を育てていきたいでしょう。知り合いの子が地元で頑張るって言ってくれるのが嬉しいのよ」
 それも何度も聞かせてくれた奥さんからの言葉だった。知り合いだからこそ、わだかまりができないか、こちらの珠里おばさんも案じているのだろう。小鳥の顔を見るたびに、近頃は『あの人、厳しいけれど』と言い出すようになった。それだけ滝田家といままで通りのお付き合いを壊したくないと大切に思ってくれているのだと小鳥もわかっていた。
「おばさんもお腹すいちゃった。一緒にお茶にしましょう」
 農作業着だけれど、そんな麗しい匂いを漂わせる幼馴染みのお母さんが、大きな業務用のオーブンから本日のスイーツを取り出す。
 キッチンの片隅には丸いアンティークなテーブル。そこに息子の大洋が優雅にティーカップを並べてくれ、美しすぎる果樹園の魔女さんが、大きなホールパイを置いた。
「わあ。今日はパイだ。なんだろう」
「今日はベイクドレモンパイ」
 魔女さんの仕草は、とても美しい。ホールのパイを切り分ける、それだけでも美しい。小鳥は幼い頃から、この綺麗なおばさんのそんな女らしさに、いつもうっとり釘付けになる。
「どうぞ、召し上がれ」
 目の前に、シンプルなパイが置かれる。
「おいしそう! いただきます!」
 元気に素直にとびつく小鳥を見て、よく知ってくれている兄貴もおばさんも楽しそうに笑ってくれる。
「いつもはレモンクリームのレアタルトパイだけれど、今日はレモンのマーマレードを使ったベイクドパイにしてみたの」
「おいしいー。酸っぱいのがいい。レモンが沢山採れる季節限定のスイーツってことだね」
 ほんとうに珠里おばさんがつくったスイーツは最高。小鳥はいつも、何度もそう言って頬張る。これが目当てでやってくる営業さんも多いというのも頷ける。
 元気な小鳥の目の前で、よく似た母と息子が、静かに優雅にティーカップを手にしてまずお茶をひとくち。お育ちというのか。どんなに汚れた農作業着姿でも、母子の仕草は優雅に揃っている。もともとお嬢様育ちだという珠里おばさんと教師が父親だったという真鍋専務は、どこか知的で落ち着きある夫妻。そんな両親に育てられた大洋もまた、そういう品性がみて取れる男になっている。
「オマエ、相変わらずよく食うなあ」
 丁寧に食べている大洋だが、それでも小鳥より先におかわり。もう一切れ皿に載せている。
「大洋兄こそ、よく食べる! 男のくせに、ほんと甘党なんだから」
「俺、このキッチンの菓子で育ったようなもんだからな」
 なんだかんだいって、プロ並みにお菓子を焼く母親と喫茶業界に携わっている父親との間に生まれた子。これでもかという甘党振りを見せつけてくれる。
「小鳥、今日の内に長浜に届けに行くんか」
「もちろん。明日はまたバイトだもん。じいちゃんにも会いたい」
「ほんまご苦労さんだな。俺らがチビっこい時は、伊賀上のじいちゃんも自分でワーゲンバスを運転して島まで来てくれよったのに」
「もう長浜から中心街に出てきて、それからフェリーという道のりがしんどいんだって」
 小鳥が大学生になった頃から、伊賀上のおじいちゃんががくんと弱くなった。それからは滝田家が二宮果樹園の柑橘を漁村へ届けるようになった。
「うちのカネコばあちゃんも、ひとまず元気だけど畑から離れると、呆けがでるんだよな。だからちょっとだけ担当の樹をもたせて畑仕事やっとるわ。なあ、母ちゃん」
「そうね。動いている方が良いみたい。もうね習慣になっているのよ。畑を歩くことが。でも足腰弱っているから、おばあちゃんが歩いている時は目が離せないわね。大洋がそばにいると言うことを聞くみたいだから、お願いしているの」
 元気でいて欲しい。でも老いていく大好きな家族。血が繋がっていなくても、家族。真鍋家にとってそれが二宮のカネコおばあちゃんに紀江おばあちゃん。滝田家にとっては、漁村の伊賀上マスターがそうだった。
「そうなんだ。伊賀上のおじいちゃんも最近は物忘れが激しいみたいなんだよね。だからお店を開けられなくなっちゃったわけだし」
「そやけど。カクテルは毎日作らせているだけでも全然違うと思うからよ、やりたいだけやらせてやれよ」
「わかった。でも寂しいね。おじいちゃんとおばあちゃんが元気じゃないと」
 困ったな。困るね。嫌だな、大好きなじいちゃんばあちゃんが年取っちまうのは。うん、ヤダ。気が合う二人の会話はいつもこう。
 そんな気の合う会話をしている子供達を眺めていた珠里おばさんが笑う。普段、あまり思いきり笑う女性ではないのに。
「うふふ。貴方達って、ほんとうに、小さな頃から変わらないわねー」
 でも。それが『嬉しい』とおばさんは言う。
 いつものお茶をちゃっかり頂いた後、珠里おばさんが籐の篭に、レモンや紅マドンナ、伊予柑などの柑橘を盛ってくれる。
「それでは頂きます」
「こちらこそ、有り難うございます。小鳥ちゃん、伊賀上マスターにもよろしく伝えてね」
「はい。珠里おばさん。伝えておきます」
 まだ漁村へと向かわねばならない小鳥は先を急ぐ。
 篭を持って、果樹園の小坂の下へと駐車している車へと歩いていると、大洋が追いかけてきた。
「これ。昼飯の残り。途中で腹減ったら食えや」
 茶色の紙袋を差し出され、小鳥は受け取る。開けてみると、生ハムのサンドウィッチ。
「真鍋さんちの生ハムサンド大好き。サンキュ、大洋兄ちゃん」
 喜ぶ小鳥を、大洋がらしくない顔で見下ろしている。しとやかなお母さん、生真面目で厳格なお父さん、そんな両親から生まれたにしては、大洋は陽気でおおらかでひょうきんなところがある。弟の蒼志(そうし)の方が落ち着きがあったりする。そんな大洋が浮かぬ顔。
「どうしたの。大洋兄」
「あのな、オマエ……。璃々花(りりか)からなんか連絡もろてないか」
「え。璃々花姉さんから? ううん。私もしばらくは音沙汰ないよ。だって海外で修行中だし」
「そっか。なら、ええわ」
 璃々花お姉さん。真田珈琲の一人娘。つまり真田珈琲将来の四代目。会長のお孫さんで、美々社長の娘。小鳥より二歳年上で、大洋にとっても一歳とはいえ年上の女性。
 彼女も幼い頃から、この島で遊んだ一人。でも、皆より年上の落ち着いたお姉さん。こちらも家業の影響で、ただいまヨーロッパでカフェの勉強中。なかなか日本に帰国しない。
「連絡があったら教えるよ。大洋兄のことも伝えておくね」
「別に。俺のことはええから。ただ、元気なんかなと――」
 いつも陽気な兄貴が、気恥ずかしそうにして、潮風の瀬戸内へと遠く目線を逸らしてしまう。
 彼も。好きなんだ。諦められないんだ。小鳥はそんな彼の気持ちを知っていて、でも、触らないようそっと見守っている。これもまた、私にそっくり。子供の時からの恋を大事に大事に心の箱にしまっている。そんなところも一緒。
 じゃあ。行ってくるねと小坂を一緒に降りた。
「あれ。なにオマエ。今日は琴子おばさんのゼットに乗ってきたのかよ」
 ああ。この幼馴染みにも説明しなくちゃいけなくなったと、小鳥はげんなりとする。
「真鍋専務から聞いていないの」
「父ちゃん、昨夜はフェリーに間に合わなくなって、道後の家」
 『道後の家』とは、真鍋家の別宅。市内で働く父親と市内の国大に通う長男が、島に帰ることができなかった時に本土で滞在する家のことだった。
「大洋兄も気をつけて。実はね、最近、ダム湖の峠で――」
 それまでに起きたことを伝えると、こちらの兄貴も顔色を変えた。しかも眉間にしわを刻み、怒りに震えている。
「なんじゃい、それ! それでエンゼルをぶっ壊されたんか」
「そうなんだよ。大洋兄ちゃんはスポーツカー乗りじゃないけれど、当分、ダム湖に来ない方がいいよ」
 こちらの兄貴は、ミニクーパー乗り。母親と共同で乗っている。なのにそのミニクーパーでたまにダム湖にやってきてしまう。走りを楽しむと言うより、顔見知りに会いに行くのを楽しんでいる。
「それでオマエ、これから長浜に行くんだ。なんか心配だな」
「大丈夫だよ。海岸沿い一車線の一本道だよ」
「そやけど。心配やな。オマエ、昔から、変なトラブルを引き寄せるやろ。今回も見事に引き当てよって。流石やな」
 なんでも知っている幼馴染みに言われると、的確すぎてぐさりと来る。
 でも本当のこと。なんで、あんなランエボと遭遇しちゃったんだろう?

 

 

 

 

Update/2013.10.2
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2013 marie morii All rights reserved.