6.魔女の目的

 

 その事件からどれぐらいの日が流れただろう──。

ミツコも相変わらずだが、隼人も相変わらずだった。

ただ……一つ変化が。

彼女に触れなくなった事。

夜を一緒に寝ることがなくなった事。

隼人から徐々に距離を置くようになった。

以前のように祐介と連夜出かけることも控えているが

ミツコは早く帰ってくる隼人に満足そうだった。

だが、距離を置くようになった事には、近頃少しずつ……彼女が不審に思っている様子。

隼人としては、ワザとではなくて『自然』とだった。

つまり──もう、限界なのかも知れない。

 

「先に寝ていて良いから」

夕食が終わって、暫くしたら隼人は小さな勉強部屋に籠もる日が続いた。

ここにはソファーベッドを置いていた。

隼人は今、そこで寝ている。

ミツコとの寝室は別にある。

今まではそこで一緒に寝ていたし、ここで隼人が寝ることもあったが──。

今は毎夜、この部屋に籠もる。

 

「また? どうしたの? 最近──寝室で寝ないで……」

ミツコがちょっと怪訝そうに尋ねる。

今日の夕飯は隼人が作った。

それをミツコがまだ食べている段階だった。

「色々と調べたいことがあるから──まだ、それが終わらないんだ」

「……」

彼女がまた黙り込む。

「片づけ……頼んで良いかな」

「いいけど」

あの事件以来、隼人のこうした態度にミツコもやや大人しめだった。

ニナの事は話題には一切のぼらなかった。

「それから──。週末はダンヒルの家に帰るよ。

アンジェが生まれた子供を連れてくるらしいから一家が集まるんだ。

マシューも帰ってくるし……」

「泊まるの?」

「いや? 日帰り」

そうしないと帰る前に何かと阻止されそうだから、隼人はミツコが安堵する答を選択する。

 

だが──

 

「今日のごはんだけど──」

ミツコが不満げに呟いて、立ち上がろうとした隼人を引き止めようとする。

「ハーブとスパイスがきついのよね」

「それが? いつもの俺の味だけど……」

時々、彼女は隼人にこうした『文句』をこぼす。

ミツコは隼人が料理することに喜びを見せてはくれるが

時々──キツイ『批判』をしてくれる。

最初は彼女の口に合うように努力したつもりだった。

だが……彼女が『批判』する時がどんな時か、もう既に解っていた。

『隼人の味』は『ママン直伝の味』

つまりダンヒル家の味だった。

隼人は既にマルセイユの舌になっているし、日本の舌も残っている。

けど……ここではもうマルセイユの人間だった。

隼人が訓練校を卒業して、ダンヒル家を独り立ちする前。

台所を手伝うことだけはマリーから厳しくしつけられた。

『私はね、あなたが飢えないように教育するの』

マリーは真剣だった。

だけど決して厳しくはなかった。

マリーと一緒にキッチンに立って、彼女の優しい笑顔を見て

そして『上手になったわね』と誉めてくれる。

隼人のママン。

だから料理は苦じゃなかった。

マリー直伝の料理をするとミツコは時々こういう。

常に言うなら隼人も相手の味覚を考慮して、よく考えるが……。

ミツコは時々思いついたようにこぼす。

つまり週末実家に帰るという隼人に、マリーの所へ行くなという

遠回しなミツコの『抗議』

彼女は今、マリーと対決しているのだ。

 

そして──今夜も、フランスの実家に帰ると言った途端だった。

 

「結局、こういう味は『私達』日本人には合わないと思わない?」

「──かもな。俺はもう慣れたけど」

「隼人、少しは和食を覚えたら?」

と、いうが……ミツコの和食が美味いとも言えなかった。

外国で日本料理には限界があるのだ。

それにミツコはさほど料理は上手くなかった。

だから……隼人がほとんど炊事をしている。

勿論──彼女にもさせていた。

それにミツコは隼人に置いて行かれまいと、たぶん台所仕事は必死になってやっている方だ。

だけど……到底、隼人に勝てないので時々癇癪を起こす。

「そうだね──。また、そういう本を見つけて勉強するよ」

「そろそろ……恋しいわよね。日本──」

ミツコはこの時30歳。

フランスへ来て、四年ほど。

祐介達より、一年早くこちらに転属してきた。

なんでも横須賀基地内にある工学科で女性にしては若くして『大尉』になったとかで

フランスへの転属を望んだのは彼女自身だという事だった。

外国で勉強したい『国際派』になるのが夢だったそうだ。

そして外国でお洒落に、優雅に──。

日本の彼女の実家では、そんな彼女の『優秀さ』はかなりのご自慢の様だ。

娘が外国で……しかも工学で働いている。

そりゃ自慢だろう……と、隼人も思う。

そんな彼女が何故に長年……フランスに居つづけているかというと

やっぱり隼人がいるからなのだろう?

日本基地から『帰ってこい要請』があっても、いつもの都合良い理詰めで

『まだ修行中です』と言って断り続けているらしいから──。

その彼女が『日本が恋しい』と口にする。

隼人は『また、その話か』とウンザリと顔を背けて……部屋に向かおうとした。

 

「隼人は恋しくないの? 日本──」

「別に俺はここがいやすくて、好きだから」

「今年は帰らないの? 横浜の実家……」

ミツコが何かをそっと探るように、やんわりと尋ねてくる。

「帰らないよ……」

「隼人は帰らなさすぎる。きっとお父さんも心配していると思うけど?

弟さんだって、まだ小さいじゃない? 寂しがっていると思うし。

お兄さんっていう存在を忘れちゃうんじゃないの?」

「……放っておいてくれ」

これ以上、この話はしたくなかった。

「お母さんだって……」

「母親じゃないって言っているだろう!?」

たまらずにミツコに声を荒げる。

彼女が固まった。

だが──また、隼人がミツコを押さえ込もうとしたので、彼女の眼差しが強く光る。

「なんで? 継母でも隼人にとってはお母さんの立場じゃない?」

ミツコは徐々に疑っている。

隼人が一番避けているのは『継母』

若い継母だとミツコには既に話してあった。

その若い継母を一番避けて日本に帰国しない理由は……『もしかして?』

そう思っているようだった。

「そうだ、母親だ──。うちは弟が遅くに出来たから、今は家族三人にしてあげたいんだ」

「弟さん、中学生になったんでしょう? もう、そろそろそう言うのも卒業できるんじゃないの?」

「それに俺はここでまだやりたいことがあるんだ」

「それってなによ? 隼人はまだ『中尉』じゃない?

なにか? メンテチームのキャプテンになりたいとか? 何か目標でもあるわけ?」

正直『目標』なんてない。

隼人はただこのマルセイユになるべく長くいたいだけ。

大尉になる気もない。

流れるようにここで生きてゆければそれでいいのだから──。

でも、ミツコはそろそろこのマルセイユ基地に飽き飽きしている。

それもそのはずで……ミツコはここではもう皆には相手にされずに

評判は最悪だった。

良き評判があるとしたら、それは仕事での成果だけ。

『頭が良い』という成果だけ。

生徒に対する態度も、同僚への態度も、すべてが悪評ばかり。

彼女をちやほやしてくれる人間は激減していた。

彼女は鞍替えをしたいのだ。

隼人と一緒にいたいから……今度は外国での暮らしでなくて

あまり気負いしない母国での二人の生活を望み始めている。

 

「とにかく……俺、部屋にはいるからな」

そこで話を切った。

ムスッとしたミツコに構わずに、隼人は勉強部屋に向かった。

どうせ隼人を日本に少しでも引き戻そうと思ったに違いない。

今年の年末は一緒に彼女は帰りたがっている。

『実家がうるさいのよね……。相手がいるなら紹介しろって……』

そんな事をこぼし始めていたから。

それにミツコは隼人の実家に行きたがっている。

今まで別々に帰省してきたが、二年も同棲すると、そろそろそう言うわけにも行かなくなる。

ミツコは『美沙』を確かめたいし、そして社長である『父親』にも会いたがっている。

きっと極上の笑顔を父親に振りまいて気に入ってもらい、

そして気になる美沙にはそれとない『悪戯』をするに決まっている。

今の隼人はそう思っていた。

 

 

週末はマリーに会えるかと思うと、なんだかホッとする。

『無性に会いたいな……マリー』

彼女に会いたくて、たまらなかった──。

 

その週末は……ニナの結婚式でもあった。

 

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 ミツコとの『冷戦』は続いた。

 

『早く週末にならないかな……』

いい加減に疲れ気味だった。

 

あの事件後──。

ニナの結婚式への招待を断った事で

ソフィーには無視をされ、雪江には『結婚式、行こう』の説得を受けていた。

康夫からも説得があった。

祐介は……どうした事かその話題には二度と触れずに、いつも通りに接してくれる。

これだけが救いだった。

ここ最近、雪江と康夫の懸命の説得も、疲れが出てきたのかなくなっていた。

早くニナの結婚式が無事に終わればいいと願っている。

 

ソファーベッドで毛布にくるまって、手元のスタンドの灯りを絞り

隼人は工学書を読みふけっていた。

 

『コンコン』

(またか──)

近頃、ミツコがこうして隼人と一緒に寝ようと思っているのか

夜遅くになってドアをノックしてくる。

鍵をかけている事を一度、攻められた。

それに関しては『遅くまで集中しているし、その後はゆっくり寝たい』を理由にしていた。

隼人はこのノックに応じたことは一度もない。

『コンコン』

四度ぐらい続くはず。

『コンコン』

後一回……そうすれば、彼女は諦める。

『コンコン・コンコン……コンコンコン!』

「──!」

なんだか怖いくらいにこの晩はノックが続いた。

隼人はスタンドの明かりを消して、毛布を頭まで被った。

 

「隼人! なんだか……外から物音がするの! 怖いの!

今日、近くで強盗事件があったでしょう? 犯人が捕まっていないし!」

それは本当の事だったので、隼人はミツコの出任せかも知れないとは思ったが

万が一があるのでガバッと起きあがった。

 

そして部屋のドアを開ける。

「どっちから──?」

真剣な顔で部屋を飛び出そうとすると。

「怖いわ! 隼人!!」

ランジェリーが透けるほどのネグリジェを着たミツコが抱きついてきた。

「……!」

実際、思ったのは『そういうことかよ……』だったが……。

「ちょっと、待ってろ……。外を見てくるから」

ミツコがあの愛らしい弱々しい眼差しでこくりと頷いて、とりあえず離れた。

 

隼人は玄関へ向かって、スコープから外を確かめる。

ドアも開けて左右を見渡す。

やっぱり何もない。

ベランダにも回って下を見下ろした。

やっぱり何もない。

呆れた溜息をこぼして、勉強部屋に戻ろうとリビングに戻った。

リビングにも部屋の入り口にもミツコがいなかった。

勉強部屋を覗くと……。

「私、怖いから……ここで一緒に寝る」

ソファーベッドにミツコが寝そべっていた。

妙に悩ましい恰好で。

 

「そっか……」

隼人はまたもやウンザリしながら、勉強部屋に入った。

追いだしても良いが、その気力もない。

俺がここで寝ないと言えば、寝室で寝なくてはいけない。

そして……ミツコが寝室へ戻ってくる。

隼人は無言でミツコに同室を許したが、ベッドには向かわなかった。

机に向かった。

そこで仕方がないから工学書を広げる。

「ここにいるから安心して寝ればいい」

「寝ないの? 夜遅いわよ?」

ミツコが手元のスタンドをつけた。

ぼんやりとした灯りに彼女のセミヌード姿が浮かび上がる。

「寝ないと……身体に悪いから……」

彼女がニコリと笑顔を隼人に向ける。

「……」

俺、おかしいな? と、隼人は思った。

なんだか全然彼女に感じていなかった。

男の本能も全然、働いていない。

少し前だったら、そこまでされたら彼女に多少不満があっても

若い隼人は、あっけなく折れていただろうに?

「ちょっと……腹減った」

隼人は何かと理由を付けて部屋の外に出た。

「隼人?」

彼女の絶望したような声。

今度はキッチンへと追いかけてくるだろう。

その間に部屋を取り戻そうと思った。

実際に、その様になり……ミツコはいつまでもリビングにいる隼人に疲れたのか

渋々と寝室へと戻っていった。

 

『疲れる──』

もう、彼女は抱きたくない。

初めてそう思った夜だった。

 

その次の日──。

 

『ジリリリリン!』

夕食中に電話が鳴った。

隼人が出ようとすると、ミツコに遮るように受話器を取られてしまった。

ミツコはこういう勘が結構、鋭い。

おそらく……ニナの結婚式が近いから、誰とも連絡を取らせまいと言う作戦だと

隼人は解っていた。

 

『ボンソワール?』

ミツコがフランス語で電話に出る。

『……』

彼女の顔が引きつった。

(誰だろう?)

隼人はハラハラする。

その顔であれば……隼人への連絡だと思えた。

「彼はまだ仕事から戻っていません。帰ってきたら連絡させます」

ミツコはそれだけ言うと、切ってしまった。

「誰? 俺はここにいるじゃないか!?」

隼人は即座にミツコに食ってかかった!

「知らないわ──」

ミツコはツンとして誰からかかってきたかも言ってくれなかった。

誰か解らないから、かけ直しようもない。

(ここまでやるか!?)

結局、自分が満足する行為だけ平気でやりのけて……

隼人が嫌な思いをするという観念がまったくないのだろうか?

隼人は胸がムカムカしてきた。

 

するとまた……

『ジリリリリン──!! ジリリリリン!』

電話が鳴った!

隼人が取ろうとすると、またミツコがもの凄い必死の顔で受話器を取った。

その必死な顔は、とてもじゃないが……可愛いとも綺麗とも思わず

はっきりいってもう何かに取り憑かれた鬼のようだった。

 

「はい……」

ミツコがまた出たが、隼人は隙を見て受話器を取り上げようとした。

すると──急にミツコの顔が青ざめたようだった。

向こうでなにやらまくし立てるような激しいフランス語を話す女性の声?

ミツコが頬を引きつらせつつ、スッと受話器を隼人の方へと向けた。

そして側にあるペンをミツコは思いっきり床に叩き付けたのだ。

 

「──? ボンソワール?」

『ハヤト?』

その声は……マリーママンだった。

「マリー! さっきの電話もマリーだったのかな?」

それで……と、隼人は横で見張るように睨んでいるミツコの方に向いて

すぐに顔を背けた。

『ええ、そうよ──。あまりにも失礼な応対だったので今、思いっきり文句をいってあげたの』

「あ……そうなんだ」

マリーは滅多に怒らない。

怒ったとしてもちゃんと筋が通っているのだ。

だが……あそこまでして怒ったと言う事はマリーとしてもかなり限界だったのだろうと

隼人はマリーを怒らせる程に至らせたミツコに苦笑い。

『その様な一方的に電話を切るような女性と“息子”が暮らしているなんて我慢できないから

こちらにお返ししてもらう、意地でも、強引でも、今すぐに……。

ダンヒル家総出で迎えに行く……と、言ってやったのよ。

あなたの様な人は息子が仕事から帰ってきても伝言しそうにないから

息子がいると解るまで今から30分置きに電話させていただくわってね──』

「そう……」

隼人はなんだか急に心強くなって……そしてホッとしたのか笑顔がほころんだ。

『そこに側にいるのね?』

何もかもお見通しのようだった。

「うん……」

『いいわ。私の話だけ聞いてあなたは相づちだけ打ちなさい? 良いわね』

「うん……」

『今度の週末の事なんだけど……あなた日帰りよね?』

「うん……」

『それは構わないけど、うちの初孫じゃない? 一家で写真を撮ろうと思っているの。

勿論、あなたも家族の一員だからね。一緒にね──。

アンジェにマシューはハヤトも絶対にって言っているわよ』

「そう……メルシー」

『ダンヒル家が写真を撮るのだから……勿論、軍礼服よ?

ハヤト……礼服を持ってくるのよ。解ったわね──』

「解った」

『それだけよ、ボン・ニュイ……ハヤト』

「解ったよ、ママン……。ボン・ニュイ」

マリーはそれだけ優しい声で囁くと、電話を切ってしまった。

ミツコに対するくどいお説教も、それに振り回される隼人に対しても

特になにも長引かせずに、本当に用件だけだった。

 

「なんですって? あなたのお母様!」

マリーに敗れたミツコが食いつくように隼人に詰め寄ってきた。

「週末に家族で写真を撮るから、礼装を持って来いってそれだけだよ」

「たったそれだけ!?」

ミツコがすっとんきょうな声をあげる。

「それだけの事で、あんなに必死になって? 私をあんなに蔑んだってわけ!?」

「……」

もう、隼人はこの女に何を言えばよいのか解らなくなってきた。

「それに何故? あなたはダンヒル家の人間じゃないのに?

家族写真に写るつもりなの? 絶対におかしいわよ! 変よ! あのマダムは──!!

隼人を横浜の実家に帰らせないのは、あのマダムなんだわ!!

隼人──目を覚ましてよ!!」

マリーに敗れたので、ミツコはかなりキツイ表現、暴言でマリーを落として

自分で自分を慰めている……。

隼人にはそう思えた。

彼女のそんな『自覚症状無しの心理』は解っている。

解っていて、いつかはきっと……そう信じていた。

でも──!

「うるさい!!」

今度は隼人が側にあったメモ帳を、床に叩き付けた!!

(もう! 別れてやる!!)

その言葉が、喉元まででかかったが隼人はグッと飲み込んだ。

「な、なに? 隼人はあのマダムに魔法をかけられているのよ!」

(俺に魔法をかけたのは、お前だ!)

それも言いたくて、言えなかった。

「目を覚まして! 日本に帰りましょうよ! 隼人!!」

「ねぇ? 隼人!」

「ねぇ! 隼人!!」

ミツコが横で喚き散らしていて、何故に隼人が言い返さないか……

別れるとハッキリと心に描いて、それが切り出せないかというと……

 

『今、ここで別れたら……』

 

ミツコはマリーをもの凄く恨むと思った。

そしてつい最近の事件である、ニナとフィリップがキッカケだと思うような状況に

隼人が置いているから……。

この夫妻も恨まれるかも知れない。

 

それが先に頭に浮かんだ。

 

『落ち着けよ──俺……』

 

隼人はこの日から……彼女と自分だけの間にある原因でなんとか別れてもらおうと

ハッキリと頭に思い描き始めていた。

 

美しい魔女は魔法の効力を失って、どうするのだろう?

それも考えるとゾッとするが……。

隼人は闘う決心を固めた──!

 

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