8.王様の決意

 

 ニナの結婚式が滞りなく終わって暫くしたある日──。

 

 「え!? それ、本気ですか!?」

 ある午後、隼人が本部にいる祐介の所へと足を運んだ時、

妙に真剣な顔つきの彼に外へと連れ出された。

この前、ニナと一緒にランチをした裏庭のポプラ並木の所まで──。

 

そして、祐介が思わぬ事を言いだしたのだ。

「ああ、本気だぜ──。『佐官試験』を受けるんだ」

それはつまり『少佐になりたい』と言う事である。

「そ、そうですか……」

隼人はどうして? とは、何故だか聞けなかった。

いや? 聞かなくともだいたい解った。

少佐に昇進すれば、転属の可能性が高くなる。

余程、重要なポジションにいない限りは、より重要なポジションへと

今の教官らしい仕事をしている祐介には可能性が高くなる。

元々、彼の経歴は……航空部隊で陸教官をしているような経歴ではない。

日本国内トップの横須賀訓練校を卒業して、フロリダ特別校の編入、卒業もしている。

横須賀やフロリダにいてもおかしくないし、彼ならもっと大きな仕事が出来るはずだから。

今までが控えめすぎるぐらいだったのだ。

そして──『このままでは、勿体ない人材』でもあったのに……

彼自身が転属を拒んで、佐官試験は受けようとはしていなかったから。

そこの感覚はなんだか『留まりたい派』の隼人に似ていた。

フランスへ来てしまったのは『何かの間違い』と時々彼がこぼす。

『まさかな──こういう仕事を言い渡されるとは、思っていなかったな』

何かの折りに呟いていたのを隼人は覚えている。

なんでも、転属願いを出した途端に……このフランスでの『陸教育官』を言い渡されたらしいのだ。

先輩は多くは語ってはくれなかったが、隼人の方もだいたい察しはついている。

フランスへの転属が決まってから、『妻』との隔たりが出来たのだと。

彼は、隼人の目の前に現れた時から『悲観的』だったように思っている。

既に──『絶望感』と『孤独感』を滲ませていたが、それもいつもの『明るさ』で

上手く隠しているようだった。

彼の妻が、初めて遊びに来たときに、祐介の気持ちに『同情』した。

奥さんは、遊ぶだけ遊んで、寂しがっている夫をあっさりおいて

にこやかに日本に帰っていってしまったのだ。

『夫婦とはなに?』

その問いかけを、この夫妻を見ると隼人は考えずにいられない。

離れていても『絆』が強い事?

それなら奥さんは、夫の安アパートで文句は言わないだろうし?

夫の仕事を考慮して、フランスへ来るなり『パリに行きたい』とも言わないだろう?

さらに奥さんはブランド品をいっぱい手にして、とっても嬉しそうに日本へ帰っていった。

『あなた、一人で大丈夫?』

そんな顔も見なければ、言葉も聞かなかった。

いや……隼人がそんな事を聞けるはずもなく、聞いていたとしたら先輩は

もうちょっと立ち直っていたかも知れないし……。

だけど、奥さんが帰国した後の彼の落ち込み様を思い返すと

とてもじゃないが、そんな一言はなかった物と隼人は思っている。

きっと奥さんは、ちょっと女性として鈍感なのだ。

あれだけ美人だから、『自信』があるのだろうか?

『あなたは私以外の人は、絶対に目に入らない』とか?

それから──

『あなたは強いから、私がいなくても大丈夫』

そう信じきっているのだろうか?

なにも『不安』はないのだろうか?

『夢のような王様』を信じきっている女性なのだろうか?

『結婚』したら、それっきり?

王様はお妃様を一生守って、そして──誓った愛は破らない。

結婚さえしてしまえば、お妃様は『すべて安泰』? 『めでたし、めでたし』?

童話に出てくるような『夢の王様』……そんな事、あるはず無いのに?

隼人はいつも先輩の奥さんの心理を考えると、とても焦れったくなり……腹立たしくなる。

 

そうでなければ、夫婦とは供にあるべきものでないのだろうか?

きっと祐介はそれを信じていたのに、『転属』をきっかけに

フランスへとついてきてくれなかった事に、裏切られた気持ちでいたに違いない。

『昇進』を望むが、転属は望まない。

そんな上手い話があるはずない。

祐介はひたすら『日本』への『帰国辞令』をこの三年待っていただろう。

そしてこの三年──彼は帰国を待ちわびるどころか、さらに心は荒んでいったに違いない。

 

佐官試験を受け、彼が少佐になったら『絶対』に、上が放っておかない。

『遠野が動き出す』

先輩が本気で動き始めたら、きっと今頃は『中佐』ぐらいなっている──。

そんな話を皆がしているのを、小耳に挟むこともある。

だから──上はきっと彼の『獲得戦』にあちこちが動き出すだろう。

先輩は……自分からもう一度動くことを決めたのだ。

隼人はそう思ったから……止められなかった。

 

「先輩なら、きっと合格しますね。そして──ここにはもういられない」

隼人は眼差しを伏せた。

大好きな先輩だが、見送らねばならない。

それが彼のためだから──。

 

すると──祐介が木の幹に背を持たれながら、フッと溜息を一つ。

「ソフィーとは別れた」

「え?」

「ニナの結婚式の後、すぐに別れたんだ。彼女とは短い付き合いだったけど……。

彼女がフランスで付き合った女性の中で、一番……俺を心配してくれたな」

「……」

祐介が、なんだか満足そうに空を見上げた。

F−15の編成隊が、調度、上空を通り過ぎていく──。

突き抜けるような轟音を、やり過ごして祐介がさらに続ける。

「そんな彼女だったから、別れも早かった。ギブアンドテイクで始めたけどな。

そうでありながら……彼女はとても優しかったよ。それが逆に辛かったなぁ──」

隼人は思い返していた。

(そういえば──ニナの結婚式でも、二人はそんなにくっついていなかったなぁ?)

あの頃から、ちょっとずつ距離が出来ていたのだと隼人は察した。

「それから……。ニナの花嫁姿を見て……お前、『もう一度、思い出せ』って言ったよな」

祐介が煌めく眼差しで、隼人を真っ直ぐに見据えてきた。

隼人は──先輩のこの眼差しが苦手だった。

とても気迫があって、飲み込まれそうで……怖い眼差しで固まってしまうのだ。

「え、ええ……言いましたよ? まぁ……その、からかい半分もありましたけど」

「もう一度、賭ける事にした」

「!!」

彼の瞳が、豹のように輝いた。

本気の眼差しだった。

「どこに転属が決まっても、今度こそ、女房を引っ張って連れて行く」

「──先輩!」

彼が前を向き始めた!

そして、本来、向かい合うべき者に向かう『勇気』を取り戻した!

「俺達って、結構『純愛結婚』だったんだぜ?」

途端に彼がいつものおちゃらけた笑顔に戻った。

「へぇ? 先輩がね?」

隼人もシラっと横目で疑うと、祐介が『なんだと?』と睨み返してきた。

「お互い若くして結婚したからな──。俺、まだ22歳だった」

「……」

昔、彼から聞いた話だと、横須賀の訓練校にいた十代の頃からの付き合いで

フロリダに編入している間も遠距離恋愛……。

ひたすら待っていてくれた奥さんに感激して、帰国後、そして軍人として入隊後

すぐに結婚したと聞かされていた。

「あの時はひたすら待っていてくれた女房に感激したのに……。

今は待っている女房に感激しないのはなんでなんだろうなぁ?」

祐介が隼人に答を求めるように……空を虚しそうに見上げながら囁いた。

「……結婚したからでしょ」

隼人は結婚とは何か解らない独身者だから……ちょっと自信なく答えてみる。

「……かな? 結婚したなら一緒にいたいもんな」

「結婚していても、遠く離れて頑張る夫妻もいますけどね。

でも、その場合は……」

隼人はあらゆるケースがあり、離れていても信頼し合うことだって出来ることを

理論的に話そうとすると……

「解っている」

祐介にキッパリ、言葉を切られた。

「今度、女房が意地でも日本に残りたいと出てきたら、今度は俺も決定的に考える」

祐介のその顔──。

頭に隅に『離婚』を思い浮かべているかのよう?

隼人はちょっとヒヤリとしたが……今だって『別居中』みたいなものだ。

二人にはまだ、子供もいないし、夫の意志を受け止められないなら

奥さんも遠くでお勤めをする主人を縛り付けておく権利はないはずだ。

別れたくないと言い出した場合でも、もう少し……夫の事を考えられるようになれば

祐介も満足するかも知れないし──。

隼人は……もう、何も言えなかった。

 

「……暫くは、その準備に追われると思う。夜遊びもやめる」

「そうですか──」

「お前も決めた事があるなら頑張れよ。あ、遠慮なく相談してくれても良いし──。

それに、まずくなったら、俺の所に転がり込んできてもいいぜ?

お前、料理が上手いんだってな? 俺の給仕に来てくれよ」

彼がいつもの顔で、ニンマリと調子よく微笑んだ。

「メルシー……先輩」

隼人は思った。

ニナの結婚式の後──かなり酔ってダンヒル家に先輩が送ってくれたと

マリーママンから聞かされた。

その間……

『俺……何か口走っていないだろうなぁ?』と、焦ったが

祐介は『別に何も言っていなかったぞ』と真顔で返してきただけだった。

だけど、その後の彼の応対がちょっと変わったような気もしていた。

『決めたことがあるなら頑張れよ』

──だなんて?

まるでミツコと別れると決めた事を、知っているかのよう?

『まずくなったら俺の所に転がり込んでも良い』

とか……益々、隼人は『絶対、俺……口走った』と確信した。

でも……先輩が聞かなかった振りをしてくれているから

その好意はそのまま受け取っておくことにしたのだ。

 

また……空に戦闘機の編成隊が横切っていく。

 

隼人は祐介と無言で、それを見上げた。

 

彼が飛び立つ日は……近いかも知れないと──。

 

×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×

 

 そして……それから瞬く間に日が過ぎていった。

隼人はというと、ニナの結婚式のあたりから、ミツコとはかなりの『冷戦状態』

ニナの結婚式の翌日に話は戻る。

日帰りで『帰る』と告げていたのに、ダンヒル家で一泊した事に

ミツコは帰るなり、かなりの剣幕で隼人を責め立ててきた。

 

『うるさい! 俺が家族と一緒にいるのがそんなに理解できないのか!?』

『ダンヒルは、隼人の家族じゃないでしょう!?』

『俺に取っては、家族なんだよ! 解ってくれないなら、ここを出ていく!!』

隼人の『出ていく』に、ミツコはスッと怯んだ。

『なんで、俺の事を理解してくれないんだ! いい加減にしてくれ!!』

そう叫んでから、さすがのミツコも大人しくなったが

納得はしていないようだった。

この時の事は、これでおさまったのだが──。

だが、ミツコも隼人の様子に、さすがに焦ってきたのか必死の様子が

近頃は見られるようになってきたのだ。

 

例えばだが……いかにして隼人を男の本能を揺さぶって、自分に気を寄せるか。

隼人と付き合うようになって、ミツコは容姿に関わるお手入れは

以前以上になってはいたが、それも『女性らしさ』の愛らしい範囲だった。

ここの所はそれに拍車がかかってきている。

急に豪勢な下着を付けて、そのまま隼人をいきなり誘う。

隼人は無視をした──。

「私が見えないの!?」

「見えているけど、見慣れてしまってどうもね……」

そんな下着を付けても、もう……隼人の心はどうにも動かないことを

毅然とした態度で示した。

それに本当に……もう、駄目だったのだ。

彼女に色気もなにも感じなくなってしまっていた。

爪を綺麗に磨いて、ネイルを丁寧に塗る姿も、ここ最近は頻繁だった。

「どう? 綺麗?」

「それじゃ、炊事は無理だな。やる気が無いんだろう? 俺に全部、押しつけか?」

しらけた目で見つめると、ミツコがムッとした顔で隼人を睨む。

そこでネイルを落とせば可愛げがあるのだが……ミツコは俄然、意地になって塗り始める。

「あなたの女として、綺麗にしておきたいだけよ? なんでそれが解らないの?」

と……そんな具合だった。

(誰も俺のことを、羨ましいとは思っていないと思うけどな──)

そう思いつつも、心苦しい部分がないと言ったら、嘘になる。

一度は、愛した女をこんな風にして蔑まなくてはいけない心苦しさは

多少はあった──。

そして──彼女の『我が儘』や『節操なさ』をここまで許して増長させたのは

やっぱり『隼人自身』だった。

ミツコと別れる事に関して……『悪者』になっても良いぐらいの覚悟は出来ていた。

(ミツコは俺とでは駄目なんだ)

隼人は何処かで、『間違った付き合い』をしてしまった自分を責めていた。

もっと前から、こうして彼女を叱っていれば……彼女はもっと違う女性に成長していたかもしれない。

だからといって……言う事を易々聞くような女性ではなく

『プライドの高さ』は天下一品だったから……。

こうなっても仕方がなかったのかも……と、隼人はそういう事を行ったり来たり考えていた。

 

だが、彼女と決定的に別れられそうな『キッカケ』が見つからない。

隼人も焦っていた。

きっぱり『別れよう』と……『普通の女』なら簡単に言えるのに。

この執念深そうな魔女には、通じないだろうと思っていた。

誰かが隼人を誘って私から奪おうとする!

そういう事件が起きないような『安泰の時期』に、自分と彼女との間にある事で

別れようと思っているのに……。

ミツコは相変わらず、『あの人と話していた』とか『あの人に笑いかけていた』などの

嫉妬深い『追求』は、ニナの結婚式が過ぎると焦りもあるのか

細かいことまで観察していて、隼人もウンザリしていた。

誰も関わっていない時期なんて、あるのだろうか?

そう思えてきた。

その間に、もう一度『ダンヒル家』へと……今度こそ、初孫と記念撮影に出かける事になった。

 

その時、出かける前から『大喧嘩』になった──。

 

「この前、撮影をするために正装を持って出かけたのはなんだったのよ!!」

ミツコのその言葉はごもっともではあるが、隼人も絶対に『ニナの結婚式の為だった』とは

口が裂けても暴露はしないつもりだ。

「だから──この前も説明しただろう? パパが急な用事で出かけて

昼間、いなくなってしまったんだよ!」

「だから! 隼人が写る必要性が何処にあるの!? おかしいって言っているじゃないの!

隼人は俺のこと理解しろって言ったけど! 隼人は私の言うこと、理解してくれない!!」

「俺が写りたいんだよ! 向こうもそれを望んでいるんだからな!

なんでお前にそんな事を『否定』されなくちゃいけないんだよ!」

「本来あるべき隼人の事を心配して言っているんじゃないの!?」

「俺が行きたいって言うのをどうしても解ってくれないんだな?

それもいいだろう? だけど、俺は行くぞ! 納得行かないなら、お前も一緒に来い!」

「いけるわけないじゃないの! 私は向こう様には嫌われているんだから!」

「……なんで嫌われたんだろうな?」

隼人はスッと目を細めて、ミツコを見下ろした。

すると彼女がちょっと怯んで、目を背ける。

「本来の隼人に戻って……横浜に帰られると嫌だからでしょ?

それを説得する私を恨んでいるのよ!」

「……だから、俺は今は横浜に帰る気はないって何度も言っているだろう?

日本に帰りたいなら、お前だけ帰れよ──」

「どうして!?」

近頃、徐々にミツコの『一緒に帰ろう』という気持ちが強くなっているのか

隼人のハッキリとした意志を告げると、ミツコはとても絶望した顔になった。

「……前も話したよな? 去年のクリスマスだったかな?

帰る、帰らないで俺ともめただろう?」

「隼人は私とは帰らないって言ったわよね!」

「ああ、お前はうちの親父に会いたがった。俺は会いたくなかったんだ」

「会社を継がせられる、軍人を辞めさせられるって言っていたわよね!?

私は、隼人は軍人だから継がないかも知れないとは思っていたけど?

でも、お父様の気持ちも解るわよ? あなたは長男じゃないの?

継母に家の財産すべて奪われていいわけ? 昔からね、長男が継ぐという決まりがあるのも

そういう家督相続争いをある程度、押さえる為なのよ!」

「──!!」

隼人はミツコの立派な『世間論』にカチンと来た!

「俺の継母は、そんな卑しい考えは持ってない!! 彼女の事も良く知らないくせに

まるで彼女が財産狙いでうちに来て、弟を産んだみたいに言うな──!!」

かなり本気で怒った!

ミツコもさすがに驚いた様だったが、みるみる間に険しい形相に変わってゆく。

彼女が反撃しない間に、隼人は先手を打って続ける。

「それに、俺が家を継いだら……お前も工場の手伝いは絶対させられるぞ。

同じ工学を修得しているんだからな! うちは業界では名が知れているかもしれないけど

本当はほんのちょっとの人数しかいない町工場上がりの会社なんだよ!

解っていっているんだろうな? と、その時も話したじゃないか?」

そのクリスマスの言い合いの時も、彼女に『家業手伝い』の話をすると

彼女は急に怖じ気づいていたのを思い出す。

「でも、継母のお姉さんは手伝っていないんでしょう?」

「彼女は元秘書だから、そういう知識はないから当たり前だろ?

それに子育てがあったんだから、親父が会社の手伝いはやめさせたんだよ」

「そんなの不平等じゃない? 同じ奥さんで、工学を取得しているだけで私だけ働くの?」

「死んだおふくろは手伝っていたらしいぞ! 身体が弱くても、知識はなくても、

親父が止めても! おふくろは自ら手伝っていたって──。

俺を産んで随分弱ったらしいから、その後は子育て重視だったらしいけどな……」

「……」

ミツコがクリスマスの時と同様に、黙り込んでしまった。

(やっぱり、社長夫人が狙いかよ!)

隼人はそう思ってムカムカしてきた。

そしてミツコは、また突っかかってくる。

「だったら! 家なんて継がないで、軍人でいれば良いと思うけど?

いつまでこのフランスにいるつもりなのよ!?」

「一生だ!」

「──!?」

はっきり言い切った隼人の返事に、ミツコが珍しく……勢いを止めて茫然としていた。

「じゃぁ──出かける!」

隼人はその隙に、ダンヒル家へと向かうために、アパートを出た。

あのまま『別れ話』に突入しても良かったのだが……。

ダンヒル家に行くことで始まった喧嘩だったので、逆恨みを避けるために堪えた。

 

正装のケースを持って、隼人は自転車にまたがった。

そして……ふと、自分の部屋を見上げた。

ミツコが窓辺で、隼人を見下ろしている。

なんだか……その顔は見たこともないような哀しそうな顔で……。

ちょっと胸が痛んだ。

だけど──心を鬼にして隼人は自転車を漕ぎ出す。

 

そう──『俺は変わらない。一生、ここにいる気持ちも変えない』

彼女が『愛想をつかす』のなら……それが一番気が楽だった。

 

彼女から諦めてくれたならば……。

 

俺は、魔女の夢は叶えられない男だと、早く気が付いて欲しい──。

 

隼人はそんな事を念じるようにして、一生懸命自転車をこいだ。

 

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それから数日後──。

隼人と大喧嘩をした後、ミツコが急に大人しくなった。

そのかわり、彼女からも口をきいてくれなくなり、家の中はかなりの険悪ムード。

だが──ある日。

「隼人!」

帰宅したミツコが、もの凄い剣幕でリビングに駆け込んできた。

「なんだよ?」

久し振りの会話だったが……やっぱり彼女の抵抗は長続きしなかったと、隼人は思った。

何故なら、口をきかないことで、隼人を追いつめている『つもり』であるのは

ミツコだけだと解っていたのだ。

だけど『無視・無口』も隼人には効果がないと知って、爆発したのだと思ったのだ。

だが──

「遠野君が『佐官試験』を受けるって本当なの!?」

「ああ……だいぶ前から、先輩はそう言っていたけどな」

「いいの!? それで!!」

「は?」

ミツコが何に焦っているのか、隼人は解らなくて眉をひそめる。

「だって! あなたが頼っている先輩が少佐になったら転属しちゃうのよ!?」

「!」

ミツコの血相に、隼人は『ピン』と来た。

(ははぁん……先輩が先に少佐になったら決まりが悪いって事か……)

隼人はヤレヤレの溜息をついた。

ミツコの方が年上で、先にフランスへ転属。

あんな『ろくでなし』の男より、自分の方が格が上の『大尉』だとミツコは思っているのだ。

それが彼が先に少佐になったら、今までの自分のプライドがずたぼろになるのだろう?

そんな時だけ『隼人の大事な先輩が側にいなくなるから、引き止めろ』という煽りをする

彼女に、隼人は益々げんなりだった。

「それが? 先輩が上に行くことは俺は応援するよ。

それに……先輩なら、本気になったら一発合格、来年は少佐でフロリダぐらい行くかもな」

「!」

隼人の穏やかな余裕に、ミツコが驚いたように固まった。

「フランスの女に飽きたって訳? 次はアメリカ女って訳?」

「さぁな? まぁ……フロリダで二年頑張ったら、中佐になるかもな──先輩は。

皆、そう言って応援しているよ」

「ーーー!!」

ミツコがまた悔しそうに震えていた。

そうして必死に阻止しようとしていると言う事は?

『ろくでなし』と言いつつも『出来る男』とミツコは認めているのだろう。

 

元々、隼人とミツコがくっついたのも『祐介』が原因だった。

ニナと似た理由で相談という事で彼女と接するようになったのも

彼女が遠野祐介という年下の大尉男に、日本から来た大尉という『座』を奪われると思い

それで祐介をおとしめようと攻撃しても、あのやり手の祐介に余裕いっぱいやり返される。

その悔しさ──。

そして来た途端にマドモアゼル達に騒がれているのに

自分だけ女性として相手にされない屈辱。

『ねぇ? 澤村君……あの人、私の事“臭い女”っていうのよ? どうして?』

祐介と仲が良いという理由で、ミツコがしんなり泣きついて来た事から

『相談』は始まった。

最初は軽く聞き流していた。

だけど……彼女の泣きさざめく姿は、とてもか弱くて、徐々に放っておけない気持ちにさせられた。

強気の裏で本当は弱い女性だと知っているのは自分だけと思った所から

彼女に『情』が湧いた。

『お前も変な女に気に入られたな』

祐介は天敵だから、あからさまに『気を付けろ』と忠告をしてくれたのだが

隼人はそれを破って同棲を始めたのだ。

本当に……その当時のミツコはとても魅惑的だったのだ。

あの時の隼人にとっては!

今となっては……もう。

『なんで……気が付かなかったのか?』

いや……隼人自身が、彼女を上手に扱えなかった結果がこれなのだろう?

ミツコと付き合い始めるとき──。

『これから悔しかった事とかは、俺が全部、聞いてあげるから。

だから……これ以上必要のない、人との言い争いはやめようよ?

俺だけがミツコの事を解っていれば、それでいいだろう?』

その隼人の言葉に感激して……ミツコは隼人が住まうこのアパートに越してきたのだ。

 

そんな二年前を思い返す。

ミツコは結局……隼人が許すと言う事で我が道を突き進むだけだった。

何度も言うが、隼人は『いつかは解ってくれる』を信じていたのだが

その気持ちは『崩壊』したのである。

 

「私も、受けるわ! 佐官試験!!」

「え!」

隼人はビックリした!

ミツコが少佐になったら、そっちも転属になるじゃないかと?

「て、転属になるんじゃないか?」

「ええ! フロリダでも日本でも行くわよ!」

「へぇ?」

だったら、俺ともお別れだなと隼人は思ったが、なんだか信じられない。

「隼人! 転属願いを出してよ! 日本でも実家でなければ隼人は良いわけでしょう?

それから、フロリダだったら実家も遠いしいいじゃない?」

「なんだって? 俺はフランスが良いって言っているの!」

「なんでよ! 私を一人にするわけ!?」

「フランスで俺といられないなら……仕様がないな?」

隼人は本を開いて、あっさり答えた。

「だったら! フランスに留まる事を希望するわ! 絶対に押し通すから!!

見ていなさいよ! 少佐になったら、今まで私を足蹴にした奴ら、全員、仕返ししてやるわ!」

ミツコが拳を握って奮い立った。

「……」

隼人はもう溜息も出ないし、止めるつもりもない。

シラっと張り切りだした彼女を横目で見つめているだけ……。

 

(そう上手く少佐になれるものかな……?)

なんとなくそんな勢いでは……受からないような気がしたのだ。

いくら頭の良い彼女でも──。

隼人のただの直感だから……受かるかも知れないが?

隼人の勘は強くそう思っていた。

それに受かったら受かったで、彼女は転属するかも知れない。

その時に、はっきりとケリがつくだろうとも隼人は思えたのだ。

 

その後──ミツコが祐介と張り合うように『佐官試験願書』を提出。

また基地中の噂になったが、隼人は皆の問いには『ノーコメント』

そして……祐介は、彼女が同時に試験を受けると知っても『無反応』

いや……眼中にないと行った所で、彼は無心に試験勉強をしているとの事だった。

 

12月の佐官試験──。

 

それが近づこうとしていた。

しばらくの間、ミツコが必死になって試験勉強をしていたので

『世の中』はとても平和だった。

隼人もとても気が楽だったが、別れるキッカケを掴めず、見届けるだけ──。

 

年が明けて、結果が出た!

 

隼人の予想通り……

遠野祐介は『合格』

そしてにわか仕込みで受けたミツコは『不合格』だったのだ──。

 

また……隼人の周りが騒々しくなろうとしていた。

 

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