【お題 SIDE】 * 眠りによせて【甘辛ver.】 *

TOP | 眠りによせて【甘露夜ver.】

【お題 SIDE】揺らめく恋と10の言葉たち
 
眠りによせて【甘辛ver.】

 がしゃん!

 夜中の二時──。
 いつものように、林側の書斎で調べものに没頭をしていると、リビングからそんな音が聞こえた。
 隼人は肩越しに振り返り、少しばかり青ざめる……。何故なら、それがどのような光景かすぐに分かったからだ。

 部屋のドアを静かに開けると、灯りのついていない真っ暗なリビングに、真っ白なスリップドレス姿の彼女が立ちつくしていた。
 ……震えている肩。そして、どこか怒りを込めているかのようにも見える強張っている背中。そんな後ろ姿。
 こんな時、隼人は声をかけない。だけれど、そこで彼女を見守っている。

 彼女の足下には、あのモザイクのピルケース。
 何を思って、それを床に投げつけたのかも……。隼人にはなんとなく分かるようになっていた。

 やっとそこから隼人は歩き出す。
 そして黙って立ちつくしている葉月の前に姿を現し、床に跪く。
 散らばっている彼女の『大事な薬』を拾い集めた。
 毎朝飲んでいるピルのシートと、隼人には訳の分からない錠剤数種類。
 小さく切り分けられている錠剤のシートも、静かに指でつまんで、綺麗なピルケースに戻した。

 薔薇模様のエレガントなピルケース。
 ずっしりと重くて、それでいてその繊細な造りは、隼人から見ても、職人が丁寧に造った高級品だと分かっていた。
 そして葉月はそれを大事にしている。いや、手放さない。
 その薔薇の宝石箱のようなピルケースは、まるで彼女の宇宙のような気がしている隼人なのだ。

「どうした。眠れなかったのか?」

 薔薇模様の蓋をして、隼人はテーブルのいつもの位置にそれを何気なく置いた。
 目の前の、長い栗毛の彼女がそっぽを向いた。
 唇を噛みしめて、頑なに、今の自分を否定したそうな顔。

 隼人はその痛々しい恋人を哀しい思いで見つめながらも、そんな彼女は今『自分と戦っているんだ』と、いつしか思えるようになった。
 ちょっと前なら、抱きしめてあげるとか……。ちょっと前なら『隣にいるから、一緒に眠ろう』とか言っていたけれど、だからとて葉月が楽になったという感触は一度もなく、今はただ見守るだけ。それでもだからとて、『じゃあ一人になりたいだろうから、俺、帰るな』と言って、官舎に帰るだなんてことは絶対せずに、こんな夜は朝までここにいる。

 葉月はそんな顔のまま、ぷいっと隼人に背を向けてしまう。

「無理するなよ。楽になるなら、飲んでもいいと思うよ」

 付き合い始めた頃に、この綺麗な箱に沢山の薬を詰め込んでいた彼女を見て、『ちょっとずつでもやめて欲しい』と言ってしまったが為に……。
 薬の副作用のことを心配していたのだが、聞けば、軽めの薬ばかりで、本当は気休め程度に処方されていることを後に知った。
 でも、葉月はそれから戦っている。
 そして今夜も……。本当は頼りたかっただろうに、頼ろうとして、そんな自分が許せなくなって、大事なピルケースを床に叩きつけていたのだろう。
 別にこれが初めてじゃない。何度かあった。だから、隼人は慌てない。もう慌てない。

「飲んだって、気休めなのよ」
「ふうん」

 ただそれだけ相づちを打つと、その反応がおかしかったのか、葉月がやっといつもの顔で振り返った。
 お前が飲もうが飲むまいが、別にどっちでも良いよ。と言う、隼人の突き放した反応が意外だったのだろう? もしくは、あんまり優しくされてもそこまでさせている自分に嫌気がさすし、だからとて説教なんてしたら殻に籠もりたくもなるところだろうし、この状態の彼女には言語道断だ。……以上に、どっちも葉月だから構わないさと言いたいこと、通じたのだろうか? だからいつもの顔に戻ってくれたと、やや突き放してしまった隼人としてはそう信じたい。

「待っていろ。ヴァンショー(ホットワイン)を入れてやる」
「いいの?」
「当たり前だろ。風邪を引いたらいけないから、ガウンを羽織ってこい」

 葉月がちょっと申し訳なさそうにこっくりと頷いた。その時はもう、いつもの愛らしいウサギの顔に戻っていてほっとした。
 鍋で赤ワインを温めていると、ミコノスの部屋から葉月が出てきた気配。冷蔵庫を開けていた隼人はそんな葉月に尋ねる。

「香りづけは、レモンが良いか、オレンジが良いか。シナモンもいるか?」
「オレンジとシナモン……」
「了解」

 鍋に安い赤ワインを入れて、その中に葉月が常備しているオレンジのスライスを放り込んだ。
 眠れないようだから、アルコールはあまり飛ばないよう軽めに暖めて、ガラスのコップに注ごうと、食器棚に手を伸ばした時だった。
 キッチンの入り口に、いつのまにか葉月が立っていて、こっちを見ていた。
 先ほどは、部屋の灯りもついていなかったから気がつかなかったが、よく見ると葉月の目は真っ赤で少しばかり腫れていた。
 つまり……。薬を飲もうと追い詰められるまで、『散々泣いていた』と言うことになる?

 隼人の手が、どうしてか震えた。
 震えたが、それを葉月に悟られないようにして、なんとかガラスのコップを手にして出来上がったワインを注いだ。

「は、葉月は……『オランジュ派』なんだな……。俺はレモンを入れた『クラシック派』なんだ」
「そう。それも美味しそう」

 葉月はもう、笑っていた。
 ガウンを羽織れと言ったのに、羽織っているが前は閉じずにだらりと肩に掛けているだけで、それだけで何もかもが億劫そうだと、隼人には思えた。真っ白なスリップドレスの胸元がそのまま露わになっている、気だるそうなその姿のまま、そこに立っている。
 半分は目の毒で、半分は痛々しい姿で、隼人はどっちの感情にも押されまくって困惑していた。

 いや、それ以上に──。
 傍にいたのに、この夜中の二時なるまで、彼女があの部屋でたった一人泣いていたと言うことに、ちっとも気がつかなかった自分が情けない……。
 大きな溜息が出そうなところを、隼人は彼女の目の前だけになんとか抑え込んだ。

 出来上がったヴァンショーが二つ。
 一つは彼女のいつもの席に、もう一つは自分の手元に隼人は置いた。
 隼人の席は、食事をする際は葉月の向かい側になる。それでも、この時は彼女の隣に座った。

 ちっともガウンの前を閉じようともしないで、葉月はそのだらけた姿のまま椅子に座り、湯気が立ちこめるガラスコップを手にした。
 そして、その小さな口で一口、すする。
 その瞬間、隼人の気のせいかもしれないが、葉月の頬が少しだけ血が通ったように赤く染まった気がした……。いや、自分がそうだと思いたいのか。
 だが、一口飲み込んだ葉月の表情が、ほっと和らいだ。

「ああ、美味しい──」

 そして、いつも隼人が待ち望んでいるあの無邪気な微笑みを、やっと向けてくれた。
 この瞬間、隼人にとっても、どれだけ喜びたい瞬間であることか……。

「良かった」
「本当に、美味しい。こう……一口、飲み込んだら、凄く熱いものが胸を通っていく感じ……。ぎゅうって暖まる感じ」
「だろ! 俺も昔、マリーママンに良く作ってもらったんだ。だから、そう思って」

 やっとウサギが元気を取り戻したと思って、隼人は満足感いっぱいに喜んだのだが──。次には、葉月の表情はあっと言う間に曇り、震える唇を噛みしめ、瞳には涙をいっぱいに浮かべていた。そしてそれを瞳からこぼれないように必死に堪えているのも分かった。
 葉月の心の声が聞こえてくる。
 ここまで笑えたから、もう泣いちゃいけない。せっかくここまでしてくれたんだから、泣いちゃいけない──。
 彼女がそう思って堪えているのが分かった。

 もう、いいよ。
 そこまで、俺のために我慢しなくてもいいよ。
 なんで、そんなに沢山のことを我慢しているんだよ。
 泣けば、いいじゃないか。

 心の中で素直に出てくる言葉がそれだったけれど、隼人はそれを口に出来なかった。
 ──そんな言葉。きっと今までも誰かが彼女に言ったことがあるはずで、そして葉月はそれを聞いたことがあるはず。そして、それは誰に言われても、どうしようもないこと。葉月の中では泣いてすむ話じゃなく、泣くことでやり過ごした夜ももうとっくに。

 いつもそうだ。
 こんな時、隼人は自分の無力さを噛みしめる。
 そして思う。本当に慰めて欲しいのは、俺ではないのじゃないかと。
 他に、そうして欲しい人がいて、その人が傍にいない。
 それはやっぱり死んだ義理兄の『真』? それともどことなく距離を置いているフロリダの両親? それとも、『まだ』忘れられない『先輩』?
 隼人の中に、決して考えてはいけないことが頭の中を巡り、自分で自分を締め付けていた。

 そんな事を考えていると、隣のウサギが微かな声で呟いた。

「な、泣いてもいい?」

 やや驚いて、隼人が隣の彼女を見下ろすと、葉月はもう、その頬に一筋の涙をこぼしていた。

「勿論、泣いてもいい……って……」

 俺の横で泣いてくれるのかと、隼人はそれ以上言葉にならず、ただ泣き始めた葉月を見つめているだけ。
 そして葉月の涙が徐々に大粒になり、そして声も殺すようでも、漏らすようになってくる。
 こんな時、抱きしめてあげたいのだが、何度か逃げられそうになったことがある。つまり、葉月は抱きしめられることで癒してもらおうだなんて思っていないし、望んでいない。そんな時もあるから、なんでもかんでも抱きしめたり、慰めたりは隼人もしない。だから、余計に……歯がゆくて、無力に思って、ただ、彼女の傍にいるだけで。そして『泣いている訳』なんて、葉月は決して口にしない。

 でも、隼人がそれでもここに居続けているのは……。

「有難う。そこに居てくれるだけでいいの」

 大粒の涙をこぼしている葉月が、時折、そう言ってくれるからだ。
 だから、黙って傍にいる。無力でも、歯がゆくても。ただ彼女はそれだけで良いと言ってくれるなら、何もしないで黙ってここに居るだけだ。

 暫く、葉月は泣いていた。
 何が悲しいのかさっぱり解らないけれど……。

「時々、無性に不安になるの。なにか大きな穴があって、それが私を飲み込むような、遠くからこっちを見ているような……。その、なにか訳が分からないものに、『また』襲われるように思えて、いつも目が覚めると、ちょっと怖いものが残っているだけで、なにを見て目を覚ましたのか忘れているの。気にしなければいいのだけれど、それがどうしてもずうっと心に重くあって……」

 いつになく話してくれる葉月に驚いて、隼人は彼女を見た。
 そして葉月はそれだけ言うと、隼人が作ったドリンクをぐうっとひと飲みしてしまった。
 それはまるで、やけ酒のような仕草だった。

 その葉月が『怖い』と言っている物は、きっと幼い時に恐ろしい目に遭ったことが原因だろうと隼人は思う。
 時々、うなされているし、驚くような目覚めで飛び起きたりするし、そんな時の葉月は震えている。
 つまり、今夜はそっち系統の不安だったようだ。

「まだ、怖いか?」
「ううん」

 もう落ち着いたのか、葉月は小さく微笑んで首を振った。
 そう、頬が染まっているから、もう落ち着いているのだと、隼人も安心した。

「俺、傍にいるだけで……本当になんにも……」
「誰もいないと、一晩中、何かにぶつかっている。そうね、隼人さんがいなければ、外に出て車を飛ばしているわね、きっと」

 何処にぶつけて良いか解らないものを、さっきのように物を投げたり、そうでなければ、車を飛ばしに出かけたり……。たった一人でそうして過ごしてきたと言うのが、隼人には分かった。

「朝になったら、平気な顔で部隊に行く。そして空を飛んでしまえば、また忘れるわ」

 コップの底に少しだけの残っているヴァンショー。
 最後の一口を、葉月はいつもの微笑みで飲み干した。

 抱きしめたい。
 今、抱きしめたら駄目なのだろうか。
 なんだか触れた途端に逃げていきそうで、抱きしめた途端に離れていきそうで。
 俺のウサギは、とっても警戒心が強いから、易々と触ったりしたら、直ぐに木陰に隠れてしまうから──。
 でも……どうして? こんな彼女を抱きしめたらいけないのだろうか?

「俺、なにも出来ない」
「どうして? これ、作ってくれたじゃない。凄くホッとした」

 それだけ? それだけでお前はいいのか?
 隼人は葉月の顔を無言で眺めて、心で強くそう問いかけていた。
 本当に必要とされている男なら、抱きしめてと言ってくれないのか? そんな隼人の心にあるちょっとした疑問。
 そんなホットドリンク如き、俺じゃなくても誰だって作れるさ。俺がお前にしてあげたいのは、もっともっと……。

「どうしたの?」

 何かを不満に思っている事が、顔に出てしまっていたのか。
 葉月を無言で見つめている隼人を、今度は葉月が困ったように見つめている。

「なんでもない」
「……やっぱり、迷惑?」

 気後れしている葉月のそんな声に、隼人はついにイラッとしてしまう。

「迷惑じゃない! 俺はもっと、こう……」
「こう……なに?」

 どうしてか、いつのまにか、落ち着いた口調になっているのは、葉月の方。
 いつも職場のデスクで、冷たい横顔を見せている女中佐の顔。
 彼女がそうなったら、もう……。どんなことも、どうでも良くなって、隼人がこうしてやきもきしても、もう……彼女の中では『たった一人で終わってしまった』のだと。
 それなら、それで落ち着いたのだから良いはずなのに、隼人はなんだか苛ついて仕様がない。
 そう、自分が彼女にしてあげたいことで、安心させてやることが出来ないこと。そして、そこまで彼女に必要とされていないからだ。

「こっち、向いて」

 今度は隼人が一人でふて腐れていると、葉月のそんな柔らかい甘い声。
 少しばかり気まずく思いながら、そっと横目で葉月を見たら、いつの間にか、葉月の顔が、いや、唇がそこにあった。

「有難う。美味しかった。そして、隼人さんはとても暖かい……」

 彼女の柔らかい唇が、そっとゆっくりと、隼人の頬に押し当てられる。
 小さな柔らかいキスが、ゆっくりと、ゆっくりと……。
 そして、テーブルの上で、苛立ちを込めてグッとグラスを握りしめていた隼人の手を、葉月の柔らかい手がそっと包み込んでいた。
 小さなキスは、いつまでもそこに刻印されて、隼人の許しが出るまで離さないかのようにひっついたままだった。
 しかも、隼人の目の前には、あのガウンがはだけている白いスリップドレスの胸元。……しっかりと愛らしい乳房が見えてしまっているんだけれど?? その上、シャンプーや、いつもの入浴剤の香りが漂ってくる肌……。隼人の手先が、いつの間にか白いスリップドレスの胸元をそっと握りつぶし、挙げ句には、彼女の頬を捕まえて、その小さな口づけをしてくれた唇を吸っていた。

「ん……」

 熱くなった唇は、ほんのりと甘いオレンジとシナモンの味、そして渋い赤ワインの香り。
 そして、その無意識の誘惑に負けてしまった隼人の手が、柔らかで小さな乳房を包んで、どうしようもなく力が入ってしまった為か、葉月がそんな艶っぽい声を漏らした。
 そこで、隼人はハッとして葉月を引き離す。

「お、お前──。こういうの反則だろ!」
「反則?」

 きょとんと小首を傾げている葉月を見て、隼人はやっと自分の頬も身体もかあっと熱くなっていく。
 こ、こんなはずじゃなくて、もっともっと大事に、こう言う時はこんな色めいたことはしちゃいけないと、密かに誓っていたのに。
 ウサギがそんなに可愛らしい御礼のキスをしてくれたものだから、ついつい。『その気になってしまった』自分を隼人は呪った。

 だが彼女としては、もうそんなこと『眠れないほど哀しかったこと』など、もうどうでも良いような顔をしているのだ。
 こんな時、隼人は本当に振り回されているようで悔しくなるし、このお嬢ちゃんを小憎たらしく思うのだ。

「もう、寝ろ!」
「……怒ったの」
「怒っていない」
「怒っているじゃない」

 隼人はうううと唸り声を喉の奥から震わせ、身体を強張らせる。 
 それは、自分の中で『この彼女を大切にしたいための誓い』を破ろうとしている『男の性』との戦いであった。

「怒っているんじゃない。やりたくないことを、してしまいそうだと言っているんだ」
「やりたくないこと?」

 この小娘! 本当は意味を分かっているくせに、何をとぼけているんだと隼人はさらに唸る。
 でもこのまだ付き合い始めて、同棲を始めて日が浅い彼女は、本当に解っていないような顔で隼人を見ている。
 堪らなくなって、隼人はついに『おとぼけお嬢ちゃん』に吠えた。

「お前、明日の夜、覚悟しておけよ」
「え、覚悟?」
「明日、俺はきっとお前をうんと抱きしめてしまうという話! それも飛びつくと思う。だから、びっくりするなよ。予告したからな──!」
「……え!?」

 やっと解ったのか?
 葉月がとても驚いた声を上げて、顔を真っ赤にした。
 ということは、とぼけていた訳でもなかったのかと隼人は思ったが、あそこまで男が唇を奪って乳房に触れたのに、『あっさりと我慢できている』と思っていたのか? それとも『隼人さんはたったそれだけでも我慢できる人』と信じてくれているのか? ああ、男としてとっても複雑だ。と、隼人の頭の中はぐるぐると回っているだけだ。

「あの……私は、もう、大丈夫だけど……」
「駄目だ、駄目だ、駄目だ! 俺がそういうのは絶対、嫌なんだ! 今夜は嫌だ。ああ、抱きたい、凄くお前を抱きしめたい。でも、今しようとしたのはその『抱きしめたい』じゃなくて、もっと『違う抱きしめたい』だから嫌だ。泣いているお前をそんなことで安心させたくない!」

 泣いているから、不安そうだから、何かに怯えているから。だから、裸にして何もかも忘れさせるための肌と肌の触れあいは安易だけれど、そんなものは一時しのぎで、そして隼人にとっては『純粋』じゃない。
 彼女をもっと安心させてやるためには、もっと違うことで、安心させてあげたい。
 そんな隼人の想いと、熱くなる男の性の戦い。

「おやすみなさい。私も、もう……眠くなったから」

 気がつけば、葉月はそこで笑って隼人を見下ろしていた。
 そしてそのまま、背を向けて、必死に堪えている隼人を置いて、自分の部屋へと戻っていった。
 だけれど……。意地を張った隼人だが、やっぱり一人で部屋に戻ろうとしている葉月の背中が寂しそうに見えてしまった。

 だが、そのまま彼女の部屋のドアが、ぱたりと閉まった。

 そして隼人はやっと気がつく。

「俺って、本当に馬鹿だな。考えすぎだ」

 でも、それが葉月にとっては正解の時だってある。
 でも、今夜は……。

 隼人の今夜の抱きしめたいは、暖かく包み込んであげたいことであって。それを彼女が望んでくれていることだ。
 隼人が今夜、やりたくない抱きしめたいは、彼女の肌をなりゆきで激しい男の性で貪ってしまうことだ。

 でも、ひとつだけ『しまった』。
 葉月が望んでいないとか、他の男を望んでいるとか、そんなことを考えて彼女を抱きしめなかったこと。
 跳ねとばされてもいいじゃないか。今日は嫌と逃げられても良いじゃないか。
 それでも俺はお前を暖かく抱きしめたいんだって、抱きしめてあげれば良かったんだ。

 隼人は頬をそっとさすった。
 さっきの可愛らしいキスは……その合図だったのかもしれないのに。

『隼人さんはとても暖かい……』

 ただ傍にいて居てくれるだけで良いだなんて、葉月のささやかな願いであっても、あれは隼人には負担になって欲しくないと言う『遠慮』でもあったのだと、やっと気がついた。

 隼人はそんな己に対して、チッと舌打ちをして立ち上がる。
 迷うことなく、葉月が一人で籠もったミコノスの部屋に勢いよく入った。

 背を向けて、シーツにくるまり、ベッドで横になっている葉月。

「葉月、俺……」

 そっとベッドのふちに腰をかけ、隼人は小さな丸い肩に手を置いた。

「俺、本当はお前のこと──」

 ちっとも振り向いてくれない。
 また、気難しいウサギさんは、すうっと木陰に隠れて隼人を遠くから窺っているのだろうか。

「俺、本当はお前のこと、この、胸の中で……」

 暖めてやりたいから、抱きしめても良いだろう?
 と、言いたいのに、出てこないこの気恥ずかしさ。
 ええい。口で言うのが照れくさいなら、もう抱きしめてやる! と、思った時だった。

 すうすうと聞こえる葉月の呼吸。
 もしかして? と、隼人はそうっと背を向けている彼女を肩越しから覗くと、葉月はもう……眠っていた。
 隼人は目を見開いて、暫くしてから、がっくりと肩を落としベッドのふちでうなだれた。

(何やっているんだ? 俺──)

 先ほど『眠くなった』と言ったのは本当だったのかと、隼人は呆然とした。
 ヴァンショーの効き目は一発だったと言うことか?
 それとも、やっぱり俺が一人でああじゃないこうじゃないと大騒ぎしているだけで、彼女にとっては『ヴァンショー一杯』で事足りることだったのかと……。

「ああ、ちくしょう。本当に明日の晩、襲ってやる」

 隼人はそう言い捨てて、立ち去ろうとしたのだが……。
 今度は悪気なく、すうっと眠ってしまった葉月の背が、とても無邪気に見え、しゃくに障った。

 そうだ。今度は俺がやってやろう……と、隼人はもう一度、葉月の肩から寝顔を覗き込み……。少しだけあどけなく開いている唇を塞いだ。
 それだけじゃない。先ほど掻き乱された欲情をここで振り払うかのように、眠っている葉月の唇を何処までも愛撫した。

「ばかっ! そっちこそ反則じゃない!」

 隼人はびっくりして、唇を離し、葉月の顔を見た。
 頬を染めて、息を切らして怒っている顔──。

「眠ったのかと……」
「嘘。分かっていて、こんなことしたでしょ!」
「するか!」

 途端に否定した隼人に、流石に葉月はムッとした顔で起きあがった。
 でも、彼女は今度は胸元をきちんとシーツで隠して、そっと呟いた。

「……眠ったのが分かったら、安心してくれると思ったのに」

 がっかりした顔で俯く葉月。
 そんなウサギを見て、隼人も言ってやる。

「お前、それこそ反則だろ。嘘寝されても、俺は安心なんか出来ないぞ」
「でも……。今夜は、もう、本当に大丈夫。本当に眠気もさしてきたから。だから、そんなに心配しないで、隼人さんも眠ってよ……」

 本当にそのようだった。
 やっぱり俺の独りよがりだったかと、隼人は益々『しまった』と黒髪をかいた。
 でも、もう、隼人がウサギにしてやりたいことは決まっていた。

「隼人さん……?」
「お前が眠るまで、こうしている。お前が眠ったら、俺もここで寝る。朝まで寝る」

 ベッドの上で、シーツにくるまっているウサギを抱きしめる。
 強く抱きしめて、今度こそ、熱く唇を塞いだ。
 すうっとウサギの身体が柔らかくなり、隼人の腕の中に溶けていく。
 そして、唇も──。

 やがて本当に、葉月が隼人の腕の中ですうっと眠ってしまった。
 そんな彼女の栗毛を、隼人は頬ずりをしていつまでも抱きしめる。

 彼女が良い夢を見ますように──。
 ウサギの眠りによせる、隼人の願いはこれからもいつまでも祈り続けることになる。

 でも、次の晩。本当にウサギに強く抱きついた。
 だけれど、その時のウサギはどこまでも隼人を受け入れてくれ、熱く愛し合った。
 肌を合わせている最中、彼女が喘ぎながら『昨夜は、ごめんなさい』と謝る。隼人は『もっと可愛く謝らないと、許せないな』と何度も謝らせては、『まだまだ』と意地悪を言って、ウサギを困らせてやった。
 そんな困っているウサギが、実は一番、可愛いのだけれど。

TOP | 眠りによせて【甘露夜ver.】
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.