*苺記念*【明日もSunny!】

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4.明日も天気♪

 

「帰ってきたか。早く来てくれ」

 隼人の車が帰ってきたのが見えたのだろう。玄関を開けると、右京が待ちかまえていた。

「まだ陣痛の間隔が長いらしくて。でももう痛がっているんだ」

 いつも明るい右京も流石に緊張した面持ち。
 どんなに葉月が生まれた瞬間に立ち会ったことがあると言っても、今度はその従妹が必死のお産をする。それだけで、隼人以上に硬くなっているようだった。

「純一に連絡しておいた」
「そうですか。小笠原入りする日程より早かったですね。すぐにセスナが飛ばせるかどうか。間に合うかな」
「うん、そうだな。しかしジャンヌが夜までかかるかもしれないといっていたから、大丈夫だろう」

 帰宅して隼人がすぐに向かったのは、今も書斎として使っている林側の部屋。そこを分娩室にしようとジャンヌと決め、出産予定日間近になったので、あれこれと準備が整っていた。
 ベッドではなく、床に和式の布団を敷いて、そこで息みやすいように整えた。そしてジャンヌも必要な医療機材に薬品も準備してくれていた。

「隼人君、お帰りなさい」

 そこには既に白衣を着て、医療用の手袋をしているジャンヌが葉月に付き添ってくれていた。
 そして布団の上には、葉月が横になって大きなお腹を出しているところ。
 ジャンヌがそこに出産の為の機材を巻き付けていた。
 部屋にはこの日まで良く聞いていた、お腹の子の心音が機材から響いていた。そしてそれとは別の機械が急にピーピーと鳴り、隼人はドキッとする。

「来るわよ。大丈夫。我慢しないで大きな声を出しなさい」

 いつもの無表情な女医の顔になったジャンヌが、それでも柔らかな声で葉月に囁いていた。
 その途端だった。葉月の顔が歪む。歯を食いしばり『うーん、うーーーん!』と堪えきれない声を漏らす。
 傍らでジャンヌが『大丈夫、大丈夫』と葉月の背を優しくさすっていた。

「隼人君、こっちにきてあげて。さすってやるだけでもだいぶ違うのよ」

 やっぱり隼人も身体が固まっていた。あの葉月が我慢できないほどの痛さって……。

「隼人君」

 今度のジャンヌの声は、冷たかった。女医として冷静に周囲を見て事を運ぼうとしている冷たい目。
 逆にその目を見て、隼人も我に返る。

「大丈夫か」

 すぐに葉月が横になっている布団の側に座り込み、背をさすってあげた。

「ありがとう……」

 あんなに顔を歪めていたのに、隼人が身体に触れるといつものように笑ってくれ、ほっとした。

「そんな顔、しないで……」
「ごめん。お前が安心できるようにと思っていたのに。俺、いますっごい緊張している」

 そんなの、当たり前よ。
 彼女の方が柔らかく笑った。それを見て、やっと隼人も笑みをこぼす。

「陣痛と陣痛の間隔が短くなるまで、まだ間があるから。二人で一緒にいてゆっくりしていて。私、お母様達が来る準備を右京としているから」

 二人きりにしようとしてくれたのか、白衣姿のジャンヌもいつになく優しい笑みを見せ、部屋を出て行った。

 隼人も制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンを緩める。
 暫くは、どうして良いかわからずに、ただ布団で横になっている葉月を見つめていたのだが。

「俺も一緒に横になっても良いか」
「うん。いいわよ」

 寝転がり、葉月の背に寄り添って彼女を抱きしめる。

「こんな時に、こんなに抱きしめてもらえるの嬉しい」
「だな。自宅出産で良かったかも。家族ばかりだから人目を気にしなくても良いし」

 機材に囲まれていたが、部屋にはモゴモゴと響くお腹の子の心音。
 背中から葉月を抱きしめ、隼人はお腹も抱きしめた。

「もうちょっとだ。待っているからな」
「そうよ。パパが呼んでいるわよ。ゆっくり頑張ろうね」

 この日までそうしてきたように、二人は一緒にお腹の子に話しかけた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ところが昼前になって陣痛の間隔が思った以上に早く、短くなってきた。

「ああーーーっ、ううーーーんっ」
「葉月さん、呼吸を整えて!」

 葉月が声を張り上げる回数が増えてきた。もうジャンヌもつきっきりで、家族を出迎える準備をするどころではなくなったようだ。
 もう側に寄り添って横になっている状態でなくなった隼人も、側にいて手を握り『頑張れ』と声をかけていた。
 それと同時に腕時計を見る。

「まだ着かないのか」

 朝連絡して、すぐに民間空港に向かってセスナを飛ばすにしても、すぐに飛べるわけでもなく――。
 あと数日もすれば小笠原入りする予定だったのに、危惧していた『集合前』に産気づいてしまった。

「間隔が三分――。……一応、葉月さんは経膣は初めてではないから、早いかも知れない」
「あああーー、うーーん!」

 陣痛に耐える葉月の声が響き渡り、部屋の空気が加熱してきたのが隼人にもわかってきた。

 痛みが引いた葉月の側にいて、隼人は常に手を握っていた。
 痛みが去り落ち着いた顔になっても、今の葉月はもうはあはあと息を弾ませ、額には汗を滲ませ、髪も乱れていた。

「冷たい水、飲むか?」

 冷えたコップにストローを差し、隼人は差し出す。汗を滲ませている葉月は、それだけで美味しそうに飲んでくれた。

「ありがとう。ママとパパ、しんちゃんと義兄様はまだ?」
「まだだ。でも携帯が繋がらないから空の上にいると思う。もうすぐ……」

 そう言っている横で、隼人の側にある陣痛を感知する機材がピーピーと鳴る。葉月もわかっているのか、その音を耳にすると、また痛みが襲ってくる気構えの顔つきにある。

「うっううーーんんっ」
「呼吸、整えろ」

 決まった呼吸で痛みを緩和させる葉月を見て、痛がるのは女ばかりで男が見ているだけなのがもどかしいまま、その分しっかりと彼女の手を握り、額の汗を拭いて優しく撫でる。

「もう待てないわ。子宮口がかなり開いているの。お腹の子もだいぶ降りてきているから、その準備にはいるわよ」

 ついに。ジャンヌが最後の段階へと動き出す。
 子供を取り上げる隼人に白衣と医療用手袋を身につけるように言うと、『右京も手伝って』と、リビングで家族を迎える準備をしていた彼も呼んだ。葉月に膝を立てるようにと言い、その両膝を割った。

「行くわよ。いい、隼人君。頭が出てきたら私の隣りに来てね。その時になったら言うから。右京は隼人君の代わりに、葉月さんがいきみやすいように両手を押さえてあげて」

 男二人『わかった』と頷き、こちらもなんだか凄い緊迫感。

「うー、うーん! 姉様、いまどれぐらい? お腹の子、いまどうなっているの?」
「まだよ。今からが一番力がいるのよ。すぐじゃないから、そのうちにお父様とお母様が来るから頑張って。もう好きなようにいきんでいいから」

 また陣痛を感知する機械がピーピー鳴る。

「はい。思いっきり踏ん張って!」
「うーーーん、うーーーーん!!」

 苦しそうに首を振る葉月を見て、隼人も右京も我がことのように歯を食いしばってしまう。
 そんな葉月を見ていられなくて、思わず飛びついたのは夫の隼人ではなく、従兄の右京。

「葉月、頑張れ。もうすぐ、もうすぐ、いままで頑張ってきたお前が、お前の身体から、生き抜いてきた身体から、新しく生きていく子が生まれるんだぞ! それを兄ちゃんに見せてくれ!!」

 右京の叫びに、いきみ終わった葉月が微笑んだ。

「兄様……、そうしたら兄様も、また気ままに楽しい兄様に戻ってくれる?」

 汗まみれになり、葉月の額には栗毛がぺったりと張り付いて、もう疲れ果てている姿がある。なのに、従兄にそう微笑んで、葉月は右京の手を握った。

「ああ。また俺らしく、気ままに綺麗なものばかり追いかけて生きていく。今から出会う子にも教えるって約束だろ」

 従兄妹が互いにきつく手を握りあう姿がある。

 隼人は確信した。
 今から生まれてくる男の子は、俺の子は、間違いなく『御園を明るくする子』だと。
 沈んでいた一家にきっと笑い声と穏やかな幸せと、輝きをもたらしてくれる。御園の誰もが待っていたものを、誰でもなくこの子がそこにいるだけで、きっと!

「また来たわよ。葉月さん、頑張って!」

 あのジャンヌも表情はそのまま冷ややかだが、額には汗を浮かべていた。『流石に自宅出産は初めて』と言っていたが、彼女なりに『これも経験、そして絶対に無事に取り上げるわ』と産科医としての使命と意欲を漲らせていた。
 そして従兄夫妻が言うように……。従兄の右京が置き去りにした従妹に詫び続けてきたように。そしてジャンヌも犯してしまった過ちを悔いて跪いていた日々から立ち上がるために。その命を待っている。

「んーーっんんーーーっ」

 そして、最後。最後は母親になる彼女のために、生まれてくる。
 いつも空に消えてしまいそうだった彼女から、彼女が生き抜いてきた証拠となるものが、彼女から生まれる!
 お前は死ななかった。その度に生きることを選んできた。その彼女が、幽霊に呪われ殺されそうになって虐げられ、まだ苦しむことがあっても、それでも生き抜いて死のうとしていた女がひとつの命を送り出す。それって、それって……

「頑張れ、葉月! 俺達の息子は、きっと誰よりも俺達を支えてくれる! お前が生きてこられたから、こいつが生まれてくるんだぞ」
「んーーっ、わ、わかったわ、パパ」

 二人の手と手が強く結ばれる。

「はあ、はあ。もう、もう、そこまで来ている気がするっ」
「まだよ。いま一番、辛い位置にいるけど、ここで急いではダメ。ゆっくりゆっくり赤ちゃんの為のペースでママも辛いけどゆっくり慌てないで」

 ジャンヌはそう言うが、彼女の顔はそんな悠長な顔つきではなかった。葉月の足と足の間に常に目を光らせ手を放さない。
 本当にその狭き道からいよいよ出てこようとしている気配を、隼人は父親として感じ取った。
 ジャンヌに言われていないのに、隼人の身体が勝手に動く。ジャンヌの側に行くと、彼女はなにも言わず、妻の足の間を見ろとばかりに視線を促した。
 それを見て、隼人の胸の鼓動が早くなる! もう頭が見えていたからだ。
 俺の息子、その子の小さな頭が……!

「おいで」

 つい呟き、隼人は取り上げる体勢へと自然になっていた。

「パパとママはまだ?」

 息を切らす葉月の顔が、残念そうに歪んだ。

「俺とジャンヌが見届ける。最初からその約束だったよな。今は集中するんだ」

 隼人が横にいなくなった分、右京が葉月を励ました。

「いい、隼人君。私の合図で取り上げてね」
「わかりました、姉さん」

 こちらも目線を合わせ、頷きあった。
 さあ、クライマックス。葉月がまた力一杯いきんで、そして大きな声を張り上げる。
 右京が葉月を耳元で励まし、両手を握って、葉月は最後の力を振り絞り、そしてジャンヌは気を抜かない目を注ぎ、隼人も息子が一生懸命こちらにやってこようとしているのを目を凝らして見ている。

 熱気溢れる臨時分娩部屋に、急に誰かの携帯電話が鳴った。
 右京の携帯電話だったようで、すぐさま彼が耳に当てた。

「純! やっと着いたか!」

 その声に、葉月が束の間、喜び一杯の顔を見せた。勿論、隼人とも目があって微笑み合う。

「早く来いっ。もうすぐそこ、産まれそうなんだ!」

 そう言っている内に、また葉月の陣痛。『うーーーあー』と叫ぶ声が電話口で聞こえたのだろうか。
 右京が葉月の耳に、受話器を当てた。

「聞こえるか、葉月。兄貴が頑張れって言っている」
「……純、義兄様……兄様……」

『頑張れ、葉月。今すぐ行く』

「伯父様になるんだから、ちゃんと抱いてよ」

『わかった』

『頑張って葉月ちゃん。すぐ行くから!』

「しんちゃん、お兄ちゃんになるのよ。早く来て」

『今から行くからな、葉月。頑張りなさい』
『ママよ! もうすぐ着くから待っていなさい!!』

「パパ、大丈夫。私は大丈夫。ママ、早く来て――。ママ、産湯はママがするって約束でしょ……」

 隼人には葉月の声しか聞こえないが、家族の誰がなにを言うか、聞こえているようにわかったような気がしていた。

「さあ、最後よ。葉月さん、あと数回で産まれるわよ!」

 必死の顔でいきむ葉月を隼人はみつめる。
 あの冷めた顔ばかりしていた彼女が、一生懸命になっている顔を――。

 それを見て思う。
 そう『それが俺のため』。母親の記憶がない俺のため。俺の息子を産んでくれた女性を見て、俺は母親を知っていくだろう。
 それを目に焼き付ける。身体が弱いのに決して諦めなかった俺の母さんは、こうして俺を産んでくれたんだって。母の言葉も声も知らない。でも、こうしてくれたと生々しく感じることが出来ただけで、隼人はもう、それで充分だと――この歳になって、やっと実感できた気がしたのだ。
 こうして、彼女と愛し合えたから、結婚できたから……『家族を持とう』と二人で決めたから。

「葉月さん、頑張って。あと少し!」

 もう本当に本当に、目の前にやってきていた。

「隼人君、手を貸して」
「はい!」

 ジャンヌがそうしてるように、隼人も手を伸ばした。暖かい――。ちょっと触れた感触は、とても柔らかでまだ弱々しい。それを今から、俺が、パパが受け止めてやるからな、安心して出てこい! と、隼人は心で強く呼びかけた。

「出てきたわよ、葉月さん。あともう一回!」

 本当に最後。葉月が長く息んだが、出てこなかった。
 しかし、それで良かったのか? 玄関のチャイムが鳴って、すぐさまバタバタとした足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。

「葉月、ママよ!」

 その部屋にすぐさま飛び込んできたのは、流石、やはり母親の登貴子だった。

「お母さん、もうあと一、二回で産まれそうなんです。すぐに産湯をお願いします。お風呂場にある程度の準備はしておきましたから」
「わかったわ、ジャンヌ」

 来たばかりなのに、登貴子はすぐさま動き出してしまう。

「葉月、大丈夫かーーっ」
「葉月ちゃん、俺も来たよっ。頑張ってーー!」

 亮介と真一は、既にテンションあがりっぱなしで到着したようで、入って来るなりもうオロオロ。

「もう、産まれるって。待っていてパパ、しんちゃん」

 葉月が微笑みかけたのでホッとした『おじじ』と『お兄ちゃん』だが、『もう産まれる』と聞いた途端、またオロオロ。
 だがそんな二人の背後に、やはりこんな時も、いつもの澄ました顔をした男が一人。

「間に合ったか。間に合わなかったら、一生、お前に文句を言われるところだったな」
「純兄様……」

 いつもの口を叩いた純一だったが、こちらは見事なまでに静かな面持ち。でもそのまますぐに右京の隣りに跪き、躊躇うことなく義妹の手を握った。

「産まれたら、真一以来の御園の子。きっとこれから、お前の子が俺達を変えてくれる」

 ……義兄もおなじことを考えていた。
 隼人の胸に、同じ思いを持つ御園の男がいることが嬉しくもあり。でも、同じ女を愛すればこそか。という複雑な思いも浮かんでいた。

「俺はこんどこそ、良い伯父さんになるぞ」

 しかしそこにはもう、義兄としての笑顔しかなかった。
 良い父親にはなれなかった。だから、今度は良い伯父さん。きっと義兄も、息子を存分に助けてくれるだろう。隼人はそう思えていた。

 ついにジャンヌが『これを最後にしましょう』と、葉月に最後の力をと促した。その通りに葉月がまた力一杯いきむ!
 その瞬間だった――。隼人の手の上に、するんと、まるでそこに乗るのがわかっていたかのように、可愛らしい丸いものが飛び込んできた。

『パパ』

 そう言われたような気がするほどに、まだ目が開いていないのに、その子と目があった気がした!

「出てきたわ……!」

 ジャンヌの一言……一瞬、誰もが息を止めたようにしていたのだが。

「ぎゃーーっふぎゃーふぎゃー」

 可愛らしい、でも逞しい声が隼人の手の中から響き渡った。

「おめでとう! 元気な男の子ね」

 あのジャンヌ姉がこの上ない笑みを浮かべ、すぐさま隼人の手の中の子を覗いた。

「あら。まだお湯に入れないとわからないけど、栗毛ぽいわね」
「ほ、ほんとうだ」

 まだへその緒と繋がっている息子が、自分の手の中でギャーギャーと元気良く泣いている。それを見下ろしても、隼人も一目で『黒髪じゃない』とわかった。
 その上、その子がぱっと目を開けた。まだ見えないだろうけど、やっぱり隼人と目が合った。気のせい? でもその目も

「ママと一緒だ」

 茶色い目をしていた。
 ぱちぱちとした目が、やっぱり隼人を見ている。
 その目が、既にママと同じに見えた。

「良く来たな、海人。待っていたぞ」

 考えていた名で呼んでいた。もう『お腹のちびっ子』じゃない。今日から『海人』。俺と葉月の海人。

 白い布にジャンヌが包み込んでくれ、隼人は改めて丸っこい息子を腕に抱いた。
 小さくて柔らかくて、とても暖かい。こんな小さくて軽いのに、ずっしり。
 その海人を抱いて、隼人は早速――、力尽きたママのところへ。

「お疲れ様、ママ。見てくれ、お前の目に似ている」
「海人……、頑張ったね」

 パパの腕から、ママの腕の中へ。
 葉月がそっと腕の中へと、やっと出会えた我が子と抱いた。

「カイ君、有り難う。頑張って、ここまで来てくれて有り難う……」

 息子を抱いて、葉月が微笑む。
 このうえない優美なその顔を、隼人は初めて見た気がしたのだ。
 いつも辛そうにしていた妻が、葉月が、やっと見せてくれた彼女だけの優しい顔を――。
 そしてそれはやはり綺麗だと隼人は思った。

 せっかくの誕生。なのに外は雨が降り始めていたことに、隼人はやっと気が付いた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 大仕事を終えた葉月ママは一休み。
 その間、なんとか間に合った御園家一行は、登貴子の産湯で綺麗になった『海人』を取り囲んでワイワイ賑やかになる一方。

「わー! 俺と同じ栗毛じゃない。これって本当に兄弟みたいに見てもらえるよね」

 お祖母ちゃんが赤ちゃんを産湯に入れている時から、従兄でお兄ちゃんになった真一は『はやくー、はやくー、俺も早く抱っこしたい』と大騒ぎ。

「ちっこーい、あったかーい、かわいいー」

 抱いて離さない真一の周りを、これまたお祖父ちゃんの亮介と右京が『どれどれ』、『こっちも抱かせろ』とウロウロしている。

「これはまた、暫く騒々しいことになりそうだな」

 そんな賑わいを見て、またこの義兄さんは素っ気ないんだなあとか思った隼人は、密かに溜め息。
 と思ったのだが。良く眺めていると、そんな義兄の顔が徐々にゆっくりに柔らかになって、最後には満面の笑みになったのを隼人は見た。

「真一、お前、抱きすぎだぞ」

 ついに遠巻きに見ていたその場から、『カイ君取り巻き団』の中へと行ってしまった。
 しかもお祖父ちゃんと血縁のおじさんの間を縫って、息子からさっと海人を奪ってしまったではないか。

「……懐かしいな。真一の時と一緒だ」

 騒いでいた男達が黙り込んでしまった。そしてなによりも、真一がそんな父親を見て泣きそうな顔になっていた。

「俺も一緒だった?」
「ああ、一緒だった。生まれた時からこんな輝く栗毛で、小さな目が皐月と同じ茶色で、それが俺の子だって言うのが不思議で不思議で、でも俺の子なんだって、何度も何度も目を見て。その度にお前も俺を見てくれた」

 今でも忘れていない。あの日、辛そうだったお前の母親もその時だけは幸せそうに笑っていた。

 そんな純一の言葉に、隼人は父親として同じ気持ちで赤ん坊に触れて見つめ合って、父親として実感していたことが全く同じで驚かされる。
 でもそんな純一も感極まったのか、眼差しを伏せ黒目が濡れているように見えた。
 右京も黙り込み、登貴子義母はもう泣いていた。

「あはは。涙のお迎えとは海人がなにごとかと思うだろう。どれどれ、ジイジが遊んであげよう」

 今度はお祖父ちゃんが抱き上げる。

「ああ、本当だ。真一の時と一緒だ。いや、皐月と葉月の時もそうだった。右京も瑠花も薫も……そうだったな」

 お祖父ちゃんも結局、しみじみ。

 だけれど、そんな大人達の思いなど今はまだちっともわからない海人が、お祖父ちゃんの腕の中でちゅっぱちゅぱとした音を立てた。

「お、この子。指しゃぶりしてるぞ」
「まあ、お腹の中で上手に練習してきたのね」

 可愛い! 登貴子の笑顔で、やっと男達も笑顔になって、また取り囲んでワイワイ。

「そろそろ私が見ますので。誕生後の検査をさせてくださいね」

 白衣のジャンヌが申し訳なさそうに割って入ってきたが、その腕に家族が任せてくれた。

「ジャンヌ、有り難うね。貴女がいたから安心して娘を任せられたわ。無事に出産させてくれて有り難う」
「有り難う、ジャンヌ。やっと末娘の子を抱けて、安心したよ」

 これからもよろしく。

 御園の両親にそう労われ、ジャンヌは流石に照れくさそうだった。でもこれで彼女も益々御園の一員。良きお姉さんで、子供達には良きおばさんになってくれそうだった。

「隼人君も休んだら。あとで葉月さんと貴方のところに、海人君をつれていくわ」

 ジャンヌにそう勧められる。
 家族が喜びに包まれた顔を見届け、隼人も満足。ミコノス八畳部屋の寝室で休んでいる妻の元へと静かに姿を消した。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 疲れていたのは自分も同じなのだろうか。
 沢山の力や痛みはなくとも、力を振り絞る妻を心配しながら見守るのも、この手を頼るように生まれてきた我が子を待つあの緊張感。男も脱力――。

 すっかり眠っていた葉月の隣りに、隼人もいつものように横になっていた。
 ふと目覚めると、柔らかい囁き声と雨の音……。

「カイちゃん、カイちゃん」

 目を開けると寝ている隼人の隣で、起きあがっている葉月が海人を抱いておっぱいをあげているところだった。しかも暗がりの中で。すっかり夜になっていたようだ。

「うわ、俺……。けっこう寝ていた?」
「うん。でも今、日が暮れたばかり。みんな、夕食の支度をしてくれているみたい」
「暗くなっていて、夜中かと思った」
「貴方もお疲れ様。私の願いを叶えてくれて有り難う」

 ネグリジェの胸元を広げ、ふっくらと膨らんでいる乳房に海人が吸い付いているのをみて、隼人も起きあがる。

「もう、出るんだ。飲めるんだ」

 葉月が微笑む。その優しい母の肌に小さな息子がぴったりひっついて、おっぱいを吸っていた。

「まだ母乳はすぐにはでないんですって。でも初乳て赤ちゃんにとっても良い栄養が含まれているから、出なくても吸わせてって姉様が」

 あの葉月のこんな柔らかく幸せそうな顔、みたことがない。隼人はそう思った。結婚を決めた時だって、結婚式をした時だって。なんだか今が一番、優美に見える。それにとっても小さな赤ちゃんが、すっかり安心した顔でママのおっぱいにくっついている姿と言ったら……。

 そんな妻と息子を見て、隼人にもやっと実感が湧く。
 そんな二人を、隼人は自分の腕の中いっぱいに抱きしめた。

「隼人さん?」
「俺さ……。お前と出会った時、まさかこんな家庭を持つとか父親になるとか、夫になるとか。全然、想像していなかった」
「そんなの、私だって一緒よ。一年後、二年後、自分がどうなっているとか、どうなりたいとか、まったく思い描けなかったもの。私には夢も明るさもなくてなにも見えていなかった」

 希望のない生き方を自ら選んでいた女性と、そして、日本の実家に居られなくなって手が届かないような遠い海外に単身飛び出してきてしまった青年。そんな二人が今はこうして……。

 感極まってきた隼人は、葉月と息子を自分の腕の中でさらに強く抱きしめた。

「有り難うな、葉月。俺に、帰る場所と家族を作ってくれて。そして俺に子供を持たせてくれて……海人と出会うようにしてくれて……」

 葉月が驚いた顔で、隼人の腕の中、夫の顔を見上げた。

「なに言っているの。それは私の方、だって、私は隼人さんに出会ったから、もっと強く前を向いて……」
「もう、そんなこといいよ」

 夫と同じ言葉を妻が重ねることをわかっていたから、隼人はもういいと葉月の唇を塞いだ。

『貴方、隼人さん……有り難う』

 それでも口づけの隙間から、それだけは言わせてとばかりに、葉月が囁いた。

 口づけの間も、外は雨の音。
 そして小さな海人の愛らしい息づかい。
 葉月の腕から隼人の腕に抱き直すと、また海人が指をちゅっちゅとしゃぶり始めた。

「おいおい、ママのおっぱいから離れてもまだ物足りないらしい。食いしん坊はママ譲りだな」
「なによー」

 でも、葉月はそれが嬉しいようで、息子の顔を見つめてはずっと幸せそうに笑っている。
 雨の音の中、隼人もそれをいつまでも見ていたいと思っていた。

「晴れたらテラスで小笠原の海と空を背景に記念撮影をしたかったんだけれどな。天気予報では明日も雨だってさ」
「そうなの、残念。でもどうせなら綺麗な写真を残したほうがいいわよ。晴れた日に改めて撮りましょうよ」
「そうだな」
「でも。生まれた日に雨の音を聞けたなんて、貴方も綺麗な音を好む子になれるかもしれないわね」

 ママがにっこり、息子の小さな栗毛の頭を撫でた。隼人はママの言葉にちょっとびっくり。
 あの葉月が『雨の日だって素敵』と前向きの言葉を言えていたことが。
 でも、そうだな。きっと……彼女はこうして息子にいつのまにか救われて、昔に失ったものを取り戻していくのかも知れないと思った。

 二人は雨の音の中、互いの胸に小さな新しい家族を包み込んで、いつまでも笑い合っていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「晴れた!」

 天気予報、降水確率80パーセント。あの予報はいったい!?

 一晩中、風を伴った激しい雨が降っていたのに、隼人が目覚めると雲一つない天気に激変!
 雨によって上空の濁った空気も浄化され靄が取り払われ、テラスから見渡す海の色も空の色もクリアな青。こんな日は一年の内でも何日もない。

「よっし、記念撮影をしようぜ」

 早速、右京が揃っていたファミリーを取り仕切る。

「俺がセットしよう」

 三脚のカメラスタンドとカメラを純一が持ち出し、テラスの前にセットする。

「俺、葉月ちゃんと海人の隣り、いいでしょ!」

 真一も場所取りに必死になっていて、葉月の隣の椅子に既に座っていた。

 真ん中は、隼人と葉月の御園若夫妻。そしてママの上にはちいさな海人。隣はちょっと歳が離れた従兄、同じ栗毛のお兄ちゃんの真一。
 真一は海人を見て、もうニコニコ。でも父親の純一が慎重にカメラをセットしているのをじれったそうに眺めつつも、ちょっと不思議そうに呟いた。

「今日の降水確率、結構高かったよなあ。今日一日、雨の小笠原でどうやって暇を潰そうかと思っていたのに……」

 すると真一が海人を見て、ぽつりと言った。

「おまえって、もしかして、超晴れ男なんじゃないか」

 その言葉、実は隼人も思っていたし……でも葉月も、そして家族の誰もがそう思っていたのか、皆が一斉に海人を見つめた。

 すると、正面でカメラを整えている純一が笑い出した。彼はスタンドの上にセットしたカメラのファインダーを覗きながら言った。

「それ、いいじゃないか。晴れ男の誕生、御園は安泰だ」

 その瞬間、記念撮影のために肩を寄せ合って並んでいた御園ファミリーの上に、眩しい陽射しが差し込んできた。

「最高の明るさだ。よし、いくぞ」

 純一の合図でシャッターが押される。

「義兄様、はやく!」
「わ、義兄さん、こっちじゃないだろ」
「純、お前は真一の隣り!」
「右京もちゃんと前を見てよ」
「お父さん、海人ばかりみていないのっ」
「こら、純! 私の前に立つな。お前の方が背が高いんだからなっ」
「親父ったら、早く俺の隣りに座れよ!」

 カシャ。

 最初の一枚、いったいどんな写真になったのだろう。

 

 

 

「まったく何度見ても、俺が生まれた記念の写真っておかしいよなっ」

 数年後、成長した海人君にそう言われることになるとも、知らず。

「いい天気だったよなーママ」
「うん、そうだったわ。前の晩、あんなに激しい雨だったのに」
「ふーん、それで俺がそう呼ばれるようになったんだね」

 超、晴れ男って。

 お前達が生まれてから、御園のファミリーは明日も天気が来るって気持ちを思いだしたんだ。
 いつか彼等が大人になったら。ママの心の傷を知ったら。それでもその時はそう笑って伝えたいと思っている。

 

■ 明日もSunny! 完 ■

 

 

Update/2010.5.2
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