-- A to Z;ero -- * 遠い春 *

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1.大人になれない

 桜前線が日本列島を北上し始めた頃。
 いつものように小笠原は、もうとっくに初夏の気配。

 だが残念な事に、ここ数日は鬱陶しい雨が続いている。

 

「あー、イライラするわねっ」
「大佐、Bチームが分裂しました」
「……! バカね! また新キャプテンの手に、まんまと乗せられて、見てられないわ!」

 葉月は歯を軋ませ、拳を握って空を見上げた。
 今日は灰色の雲がどんよりと厚く広がっていて、その轟音しか聞こえない。

 葉月の横には毛先を短めに立たせている金髪の青年が、通信機器を眺め、分厚い雲の向こうにいる『元コリンズチーム』の機体位置と現状を報告してくれる。
 クリストファー=ダグラス中尉だ。
 今は、こうして葉月の訓練付き添いをしてくれている。

──ゴゥー!!!──

 雲の向こうで響いていたホーネットの轟音。
 それが耳をつんざくぐらいに大きな音を響かせ、こちらに近づいてきた!

「キャプテン機──ビーストーム1──です」
「……」
「標的母艦、ロック……」
「他は?」
「まだ後ろです」
「ああ、もう、もう……」
「母艦爆撃、成功です」
「くっ!」

 クリストファーが覗いているノートパソコンの画面。
 一号機に『勝利』を表す赤枠が点滅する。
 後は撃墜された事を意味する青枠で囲まれている機体が数機。
 すべてキャプテン機に落とされたものだった。

 葉月は、紺色のキャップの上に装着しているインカムヘッドホンを手荒く弾いて、その輪を首に落とした。

『総監代理──只今、爆撃完了』

 クールで淡々とした堅い声が、落としたヘッドホンから聞こえた。
 葉月は腕組み溜め息をつきながら、再びインカムを装着した。

「ミラー中佐、毎度、お見事だわ──」
「サンキュー、サー」

 彼は十二月に新しく配属されてきたデイブの後継者だ。
 それも細川の『ヘッドハンティング』でやってきた。
 葉月が調べた所、フロリダ本部ではなく、シアトルの部隊で『精密機械』というあだ名を持って活躍していた事を確認。

 まさにニックネーム通りで、文句のつけようがない。
 それに反して、葉月が半年前まで一緒に空を飛んでいた『先輩、後輩達』の無惨な姿──。

 溜め息はそれだけではなかった──。

 

 雨が降りしきる空母艦の甲板。
 総監の細川、メンテ総監の佐藤、そして──昨年の十二月から『総監代理』と任命された御園大佐嬢の三組の『指揮官達』は、この天候の為、扉を開け放した倉庫の入り口で雨をしのぎ、本日の訓練を眺めていた。

「澤村君、そろそろ着艦だ。視界が悪いから、慎重に誘導を」
『ラジャー』

 佐藤のメンテキャプテンへの指示。
 雑音の向こうから、隼人の声が葉月にも聞こえた。

 佐藤と細川は、葉月の後ろでパイプ椅子に座っていた。
 葉月には、その椅子はない──座って落ち着いている余裕などない、と言うのが本当のところ。

 佐藤の指示は徐々に短くなってきて、隼人のメンテチームをまとめる力が安定してきている事をうかがわせる。
 そして……細川は、一言も発しない。
 呆れたような溜め息すらもこぼさない。
 葉月からすると、この『雷鬼おじ様』が黙っている方が怖いのだ。

『何でも良い。好きにやれ』

 初めて甲板指揮に当たった時、細川にそう言われた。
 それでも操縦者だった時のように、一日に一度は雷が落ちる覚悟をしていたのに……。
 それもまったくない。
 今まで、一度もない。
 だからと言って、葉月は安心していないし、かえって納得していない日々。

 細川がもし一言発するなら、一度だけ。

「嬢、もういいだろう。着艦させろ……」
「はい、中将」

 一番責任者、指導者としての『判断』だけだ。

 自分がそうだったように、まず後輩から着艦させる。
 最後は、サブキャプテンに任命された『劉』とキャプテンのミラー中佐を着艦させる。

 雨の中、オレンジ色のレインパーカーを着込んで走り回っているメンテ員達。
 隼人が誘導灯を振って、上空に現れたホーネットを誘導し、着艦作業に入った。

「クリストファー。今日の訓練データーを本部に送信しておいて」
「ラジャー大佐」

 クリストファーも真剣だ。
 こちらはまだ横に梶川がついていてくれるから、任せていられる。

 雨空の中、十機のホーネットが次々と着艦し、メンバーがコックピットから降りてくる。
 なんだか皆、冴えない顔。
 それもそうだ──。
 『彼』が来てから、誰一人──ミラー中佐を撃墜出来ず、今までの『コリンズ流』が通用しなくなっているからだ。
 それは葉月も一緒だ。
 真反対のタイプであるパイロットが来た事は判っている。
 だったら、自分とは反対に考えれば良いのではないかと思ったが、これが結構……難しい。
 乗っているのと、見て指示を出すのとでは感触が全く違うし、乗っているのは自分でない事ももどかしい。
 知り尽くしているメンバーのはずなのに、皆、先輩であろうと葉月の指示を素直に聞いてくれるのに……。
 今、葉月より一歩先に行っているのは、ミラーキャプテンのように思えた。

 勿論、こちらは『精密機械』
 葉月の指示を、感情を表に出さず、的確にこなしてくれる。
 逆に言えば、彼は悪い指示が出ようが良い指示が出ようが『的確』にこなすからこそ、葉月の指示の荒さに悪さが浮き彫りにされた。
 さらに、どのメンバーとチームを組もうが絶対に『勝ち』を導いた。
 一番後輩であるマイキーと組ませても、一番先輩であるフランシス大尉と組ませてもだ。
 ただ対戦的訓練をする為、二チームのキャプテンはミラーと劉である事が多い。
 勿論、ミラーとリュウを組ませた事はあるが、これほど『反りが合わない』組み合わせがあろうか? と、言うような結果に終わった記憶が鮮烈に残っていた。

『あれとは合わない!』

 リュウからは、そんな抗議を受けるのは毎度の事で──それで余計にキャプテンとは組ませ難くなっていた。

 それにミラーも怖い。
 今の細川と一緒だ。
 無表情で、一切、文句も言わなければ、こんな若大佐嬢様のなっていない指示に不満を漏らした事など一度もない。
 何を考えているか判らない顔。
 その顔で、葉月の指示だけは良くても悪くても的確にこなす。
 本当に『マシン』のようだ。

 彼が毎度『赤枠』を獲得する事は、本当に感心で尊敬すらしている。
 だからとて、『彼をやっつけよう』と思うのは『元コリンズチームへの愛着』から来る私情になる。
 しかし、メンバー達の目標はそれになりつつある。

 これが良いのか悪いのか?

 葉月は今日も後ろにいる鬼おじ様へと、肩越しに振り返る。
 腕を組んで目なんかつむちゃって、『おじ様? 寝ているの?』とすら言いたくなり、首を傾げる葉月。
 良いか悪いか言われないのも、なかなか不安なものだ。 

 今日の訓練も終わった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『お疲れ様ー』

 訓練後の大佐室での内勤業務に集中していれば、定時時間がやってくるのも、あっという間だ。

「葉月、終わったら今夜はどうだ?」

 最近よく達也に誘われる。

「ううん、ごめんなさい。今夜はパス」
「そっか──兄さんは?」
「俺もパス、帰ってやりたい事がある」
「晩飯なに?」

 達也のにっこり笑顔の質問に、隼人がチラッと葉月を見た気がする。

「まだ決めていない。見に来たらいいだろう? 気になるなら」
「うーん、じゃぁ。帰ったらお夜食頂戴」
「タイミングがあったらな」

 官舎住まいをしている男ふたり。
 お互いの部屋を良く行き来している様子も、今では葉月も熟知している。

 あれから隼人は官舎に戻り、そして一度も丘のマンションには訪ねてくる事もなかった。
 そして葉月も……隼人の官舎には足を運んだ事もない。

 隼人がどのような日常を過ごしているか、はっきりは判らないが、葉月は結構、忙しく過ごしていた。
 ウォーカーとデイブと始めた新しい企画の仕事に、甲板指揮と言う慣れない仕事、大佐室での隊長業務。
 そしてプライベートは、ヴァイオリン。
 月に二回は鎌倉に帰って、右京と良く出かける。
 そこで新しい知り合いも、沢山、出来た。
 小笠原にいる間は『音楽隊員』と一緒に音合わせする事が、週に一度ある。

 そんな忙しい環境に変わって、マンションに籠もっていた日々はもうない。

 気持ちも忙しい。
 慣れない甲板指揮に納得できない苛立ちもあるし、次の休みにはどこへどう出かけようとか、何を着ていこうとか……。
 そんな事を考えているうちに、瞬く間に日が過ぎた。

 その間、隼人とは……。

 葉月を誘ったものの断られ、それでも男友達と約束があった様子の達也が先に退出した。
 達也とは良く一緒に食事に行く。
 ああ、そうだ──隼人と三人で食事に行く事も時々ある。

 一番良く喋る達也がいなくなって、静かになった大佐室。
 彼が出てから間もなくして、葉月も手元が空いた。

「お先に……中佐はまだするの?」
「ああ。でも、あと僅かだからお構いなく」
「そう」

 いつもの余裕の微笑み。
 それに安心して、葉月も荷物をまとめる。

「お疲れ様、お先に」
「お疲れ様、大佐嬢」

 大佐室を出た。

 二人きりで食事に行ったのは、バレンタインの日から数回。
 どちらもたまたまお互いに気が向いただけの事。
 葉月が誘った事もあるし、隼人が誘ってくれた事もある。
 だけど、それだけ。

 仕事の話もするし、鎌倉に帰った時の話もする。
 鎌倉に帰って右京と何処へ出かけて、どのような人と出会って、そしてどんな曲を弾いたか──それを語ると、隼人は静かに微笑んだまま黙って聞いている。
 あまり彼が話さないから、一人だけ喋っている事にはたと気が付き『貴方はどうなの? 最近』と聞いても『いつも通り』と、そこは素っ気ない返事が返ってくるだけ。
 そしてまた隼人は葉月の話を聞きたがる。

『お前の話をしてくれよ』

 と……だから、葉月は一人で喋る。
 それか二人で静かに食事をする。
 それもそれで別に以前と一緒だ。

 海辺の景色を眺めながら、黙って食事をしているのに──。
 どうしてだろう?
 目の前で、ビールグラスを傾けている静かな彼をみているだけで、心は穏やかだ。

 葉月と目が合うと、彼は以前よりずっと優しく目元を緩めてくれる。
 葉月もそっと微笑み返すだけ。

 食事が終われば、そのまま帰る。
 どちらも『その後』を口にした事はない。

 

 大佐室を出て、葉月は駐車場の愛車の元には向かわずに、そのまま徒歩で警備口をチェックアウト。
 警備口にはよくタクシーが停まっている。
 飲食店街へと出かける隊員狙いの車だ。
 葉月はそれに一人で乗った。

 出かける先は、皆には内緒。
 隼人にも内緒。
 今夜は『木曜日』
 木曜日の夜は、葉月一人の『お出かけ日』になっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 何故木曜日かと言えば、明日が花の金曜日で、その前日にくる客が『少ない』からだ。
 木曜日以外なら、水曜や月曜に行く事もある。
 時たま隊員達に出会っても、一人で飲んでいる大佐嬢に声をかけてくる者はいない。
 見られてはいるだろうが……?

「はい。今夜は『青い珊瑚礁』──」

 マスターが差し出してくれたのは、エメラルドのカクテル。
 まるで小笠原の海のようだ。

「ここのところ、天気が悪かったからね。カクテルだけでも、爽やか天気に……ってね」
「本当、綺麗。気分が爽やかになりそうね」

 ここ二、三日の甲板で見上げていたどんよりとした空と『気分』を思うと、本当に胸が清々しくなる美しい色に、葉月の心は和む。

 カクテルバー『ムーンライトビーチ』

 葉月はここにまた通い始めていた。

 Be My Lightと同じ飲食店通りに並んでいる店の一つ。
 この辺りは、基地からだと車か自転車かバスで……という事になり、遠くはないが歩いてはこれない距離。
 ただし交通の便は良い方。
 何故なら、ペンション地区にある飲食店街だからだ。

 最初は、『マスター』のお勧めを一杯。
 それを飲み終えたら、軽くお腹が埋まるメニューをひとつ。  これもマスターにお任せメニューだ。
 その最初の一杯が終わったら、後はドライマティーニが黙っていても出てくる。
 それを飲みながら、マスターお任せ前菜がなくなる。
 そして、最後のシメにマティーニを、もう一杯。
 時には季節のフルーツを頼んだり、サービスで頂いたり。

 控えめなマスターが、そっとしておいてくれるカウンターで一人。
 ゆっくりとした一人の時間と、美味しいお酒をじっくり味わって『終わる』

 そのパターンが定着し、マスターも心得てくれている。

「今日は、美味そうなエビが手に入ったんで……生春巻き」
「美味しそう。いただきます」

 『青い珊瑚礁』を半分飲み終えた所で、いつものひと皿が出てきた。

 カウンターには軍服姿の葉月が一人。
 他は背後のボックス席に、サーファーやダイビングに来ているらしい観光客が数名、楽しんでいる。

 マスターお手製とかいうドレッシングをふりかけた時だった。

『いらっしゃいませ』

 マスターの渋くて、静かな声。
 それがこの店でかかっているBGM、とろりとまどろみそうなブルースと重なる。

 誰が来たかは、あまり興味がない。
 興味があるないも、あまり意識がない。
 ここに来たら『ひとり』であることに集中したい。
 邪魔はされたくない。

 考えていること?
 そんな事はたくさんある。
 つい最近の事だったり、随分と昔の事だったり──『彼』の事だったり。
 時々……ちょっとだけ『あの人』の事だったり。

 その胸中と向き合っているだけ。
 自宅でひとり、テラスでそうしている事も多い。
 スタジオで一人、音と一緒に向き合うことも多くなった。

 そんな『時間』の中で、週に一度だけ『美味しいお酒』を欲してここに来るだけのこと。

 隣に誰かがいて欲しいなどとは、思ったことは一度もない。

 だから、誰が『やって来たか』なんて、最初から興味がないから──。
 目の前のエメラルドグリーンのカクテルをキュッと飲み干した。

 生春巻きをつついているうちに、次は『ドライマティーニ』が出てくるはず……。
 ところが、マスターがいつもの繊細そうな手つきで柔らかく空気の波に乗せるように差し出してきたのは……『深紅のカクテル』

「マスター?」

 ひとりもの思いにふけっていた世界から、葉月は元の場所に戻ってくる。

 だが、マスターはちょっと首を傾げて微笑んだだけ。
 しかし、葉月が座っているカウンターの真反対の隅を指した。

「あちらの隊員さんが、『大佐嬢に是非に』だそうだよ」
「え?」

 そう言われて、視線を向けると──。

「ミラー中佐!」

 そこにはプラチナブロンドの短い髪を、スッと指でかき分けながら、少しばかり照れたように……でも、訓練中と同じく、無表情に微笑も見せていない彼がいた。
 しかも、葉月がただ戸惑っているうちに、彼の方がウィスキーが入っているロックグラスを片手に、向かってきたのだ。

 それにも驚き、葉月の身体はただ硬直しているだけ。
 その内に、彼が隣の席に座ってしまった。

「Hi……大佐嬢」
「こ、こんばんは……中佐。驚いたわ? いかがされたの……?」

 いままで彼とここで出会ったことはない……。

「基地の倉庫バーは、落ち着かなくてね。ゆっくり飲みたい為に、最近やっと外の飲食店を出入りする気になって。それで一ヶ月程前にここを見つけたんだけれどね。まさか『君』がいるとはね」
「私だって、貴方が、一人で出歩いてお酒を飲む方とは知らなかったわ」

 すると、年上の彼が笑った。
 それもなんだか、葉月のその一言をちょっと馬鹿にしたように──。

「おや、『お嬢さん』が気取っているなと……」
「あら、そう」

 彼は隼人より年上だ。
 デイブの後釜だけあって、それぐらいの年代らしい。
 葉月の『調べ』では──今は独身であるが『離婚歴あり』とまで判っている。
 そんな彼が『若いお嬢さんの背伸びを見つけた』とばかりに、からかっているのだと判り……でも、さらに馬鹿にされないように子供っぽく拗ねる様はなんとか堪える。

「せっかくですから。ご馳走になります」
「どうぞ──」

 澄まし顔で、目の前に現れた背高ノッポのグラスに煌めくルビーのようなカクテルを一口、頂く──。

「美味しい」

 シャンパンに、甘酸っぱいカシスの香り──。

「キール・ロワイヤル」

 大人の彼が、見せた事ない気取った男の笑顔を見せる。

「ふーん。女の人にはいつもこれ?」
「いい女は、そんな探りはしない」

 始終、子供扱いされているようで、いや……女性としても扱われていないような気がして、葉月もさすがに今度は顔に出てしまったようだ。
 当然、また笑われる。

「男の人は、夜は女に深紅を求めるの?」
「え? 意外なことを聞くなー?」

 子供扱いをされて、少しは硬く構えると彼は予想していたよう……でも、葉月がまるで降参したように、少しばかり無邪気に尋ねると、彼が驚きの顔。
  『からかい』は、それまで。
  ついに、彼は大人の男が見せる『魅惑の微笑み』を、頬杖で浮かべている。

 『私はまだ、子供かも知れない』──だけど、葉月は知っていた。
 これは『大人の男』が、ある程度は男性になろうとしている時、そう……色香を漂わす為に垣間見せる『夜の顔』だと言う事を。

 それを知っているだけで、決してそれに対して心が躍ることはないが、知っていた。
 その顔を、いま──それほどに話したことがない『先輩』が垣間見せたのだ。
 少しはドキリとするが、心の片隅で逆に警戒心が高まるだけ。

 その警戒心すらも、いまは少しは楽しんでいるかもしれない葉月──。
 そして、お嬢ちゃんの背伸びなお返しなどには動じまいと言う『魅惑の微笑み』を浮かべる男。

 その男が、さらにニッコリ。

「甲板ではすましきった『若大佐嬢』──それぐらい燃える闘志がある『女』だと思っていた『あてつけ』」
「あてつけ?」
「本当は、『俺』を『仲良しのフライトメンバー』と一緒に『撃ち落としたい』──それを我慢している『指示』。ああ、なんてお利口さんな優等生。がっかりだ」
「!」

 ミラーの顔つきが、冷たく変化した。

「──半年。細川中将から『何も言わずに半年、つきあってほしい』と言われた」
「半年?」
「そう、12月にこっちに来たから、あともう少しだな──。中将は『半年後、残る、出ていくの答を出すのも自由。外に出ていく場合は然るべき部署に手配する』という『特約』に承知して来たんだが……」
「そんな特約が──!?」

 葉月は、その話に『ショック』を受けた!
 その特約──『どんなに不満でも半年。以前より良い条件下で半年付き合い、出て行くにしても今以上の転属が望める』──という条件が、『彼が不満でも黙っている理由』だと知った気がしたのだ。
 その彼と初めて向かい合って話している内容が、これまた、こういう話で尚更に葉月は動揺していた。

 その葉月の顔をあざ笑うかのように、彼が微笑む。

「特約があって、『とろいチームでも付き合ってやろう』と言う気持ちがあったのも、嘘じゃない。だけれど『もっと期待していた事』が一番の理由で、転属してきた」
「一番の理由──?」

 『とろいチーム』とはっきり言われた事にも、葉月は……彼の実力からそう言われても仕方がない事を判っているのに、胸が痛み──それでもなお『まだ、一番に……』という真相が告げられようとしている事に、胸の脈が早くなった。

 意地悪く微笑んでいた彼が、今度は葉月の目を真っ直ぐに見据えた。

「君が……『出来るパイロット』だと信じていた」
「私が──?」

 『精密機械』と呼ばれる先輩に、真剣な顔でそう評価されたのは意外で、葉月は固まったのだが……。
 途端に、彼が口惜しそうに歯を軋ませ、ロックグラスをきつく握りしめた。

「シアトル部隊にいた時──俺の隊長は『ジェフリー=トーマス』だった」
「そうみたいね。知っているわ……」

 その名に、葉月はさらに硬直した。
 葉月が訓練生だった時の『教官』であり、空を飛ぶことに関しての『恩師』だった。
 シアトルの湾岸部隊と呼ばれている基地内にある空部隊の中隊長をしている事は、フロリダに出張した際に聞いた話。
 今回の新キャプテン転属の手配は、全ては細川が手を下した事だが、葉月なりに調べた際に、この中佐が『トーマス教官』の配下で活躍していた事も……知っていた。
 が──『たまたまだろう』と葉月は思っていたし、それが細川の判断だから、深くは考えなかった。

 しかし、ここに来て──初めて『教官と教え子の繋がり』が出てきたので、葉月は固まったのだ。
 さて──あの若い教官と別れて、十年は経とうかとしているのに……その教官が何を言ったのか?
 それに、このミラーがこんな顔をさせる程の事を……教官は言っていたのだろう? だったら? 何を?

 また、心臓が脈打つ──!

「トーマスは、『あれほど勘の良い教え子は後先いなかった。思った通りのパイロットになってくれた』と言っていた。現に君の『活躍歴』はシアトルでも有名だ。それを耳にしてはトーマスは『教え子だ』と誇らしげだった」
「教官が……?」

 どうしてか……急に、泣きたい気持ちに駆られた。
 もう十年も会っていない教官だが、葉月にとっては学友となるアンドリュー、ケビン、ダニエルの三人に出会うまでの訓練生時代に置いて、一番、支えになってくれた恩人。
 その彼が転属すると判った時の絶望を今でも思い出す。
 その彼の『自慢』でいられた事……彼を裏切らずにすんだことに、急に……。

 だけれど、そのセンチメンタルな感傷は、目の前の男に直ぐに消し飛ばされた。

「俺は隊長を尊敬して今まで付いてきた。その彼が、『御園が相手なら行ってこい』と手放してくれた──。俺も隊長を信じて、楽しみにしていた。だが──この半年、君の指示に従ってきて一度も『来て良かった』と思ったことはない」
「!」
「答は出ている。俺は期限の半年には、辞めさせてもらう。噂高いコリンズチームは、あのキャプテンあっての物だったと確信した。次の転属先も決めている。『シアトル湾岸部隊』に戻らせてもらう。トーマスには『噂は幻だった』と報告するつもりだ」
「……いったい、私の何が……」
「……何が?」
「いいえ……なんでもないわ」

 指先が震えそうだった。
 それを堪え、なんとか……彼が突きつけてくれた『深紅のカクテル』を飲み干した。

 辛辣な『評価』
 恩師の評価を期待しやってきた恩師の部下が下した『評価』は、『恩師の期待を裏切る姿』と言う物だった。

 それは葉月も認める。
 自分でも『なっていない』と自覚している。
 だけれど──どうしてか『急に』、判っていることを解らされた気持ちにさせられる。

 どこか自分で自分を誤魔化していたのだ。
 この若さで『総監代理』など、直ぐには出来ないことだと『甘えていた』のだ。
 それを何ヶ月も放置していたのだ。
 だから、この彼が見限ろうとしているのだ。

「俺はなにも、一緒に空を飛んで勝負したいだなんて思っていない。もっと……こう、燃える手応えを期待していたが、なにもない」

「……」

 葉月は黙った。

「確かに君はまだ指揮官としては初心者だと解っているが、それ以前の問題だ。チームはただでさえ、信頼していたキャプテンを欠いて不安定な所を、俺という今までのチームとは異色のパイロットがキャプテンとしてやってきた。なのに君は、俺にもチームメイトにも『中途半端』すぎる」
「中途半端……」

 それで、ハッとさせられた気になった。

「サンキュー、中佐。はっきり言ってくれて……」
「もう一つ。こうして女独り気取る時間を堪能している『余裕』があることにも、ちょっと腹が立った。もっとストイックかと思っていた」
「!」

 何故か急に、葉月は頬が火照った。
 ものすごく、嫌なことを言われた気になったのだ。
 何故、嫌な気になったかは直ぐには分からなかった!

「ごちそうさま……。マスター、帰るわ」
「そう」

 『いつもの一通り』を済ませない葉月に、マスターが怪訝そうな顔。
 勘定を済ませる間、葉月が上着を羽織って席を降りたときも、ミラー中佐は何食わぬ顔をしていた。

 

 赤いカクテルは、やっぱり大人の味だったのかもしれない……。

 葉月は、溜息をつきながら、公道に出て空を見上げた。
 マンションに帰っても独り──。
 その内に、いつもそうしているように、タクシーが見えたので手を挙げた。

「──基地通りから官舎沿いの海岸線……」

 と、呟いたのだが……こんな気持ちで、独りのマンションに帰ることにも、胸が荒れた。

「いえ、漁村の市場漁港まで」
「はいよ」

 年輩のタクシー運転手が、ギアを手にハンドルを握った。

 満天の星、独りの夜──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「美味いよー、美味い! 兄さん、最高!」

 夜の22時を過ぎて、隼人の部屋に達也が訪ねて来た。
 基地の倉庫バーで、ジョイやデビーと一緒に呑んできたらしい。
 『お夜食、頂戴』と、ほろ酔いでやって来た達也に呆れた溜息をこぼしながら……雑誌を読みふけっていた隼人は、『茶漬け』を作ってやったのだ。

 こんなこともあろうかと、余計に焼いた鮭の身をほぐして取っておき、それを残り飯にかけただけのことだ。
 それらしく刻み海苔と、わさびを乗せただけなのに……達也は『美味い、美味い』と言ってくれる。

「兄さんってば、洋食派だと思っていたけど。こういうお里心もあったんだな〜」
「ま、まぁな……」

 隼人は口ごもる。

『鎌倉でね。おじ様がこうしてよく食べているの。簡単だけど、いけるでしょ!』
『うん、美味い、美味い! 和食はやっぱり、葉月だな』

 男友達と呑み、マンションに帰ってきたら……彼女がそうして作ってくれた物を、真似しただけだ。

 なんだか急に、溜息がこぼれる。
 こんな時に、隼人の心に、ふわっと現れる彼女の笑顔は……虚無感を誘う。
 もう、今に始まったことではないが……。

──プルルル!──

「俺?」
「ん? 俺かな?」

 ダイニングテーブルで向き合っている男二人。
 携帯電話のシンプルな着信音が鳴り、二人揃って、確かめ合う。

「あ、俺だ」

 隼人の携帯だった。
 出てみると……。

『サワムラー! 俺だ!!』
「コリンズ中佐?」

 この時間に、デイブから連絡がある事は珍しい。
 しかもデイブが口早に告げたことに、隼人は驚く──。

「葉月が? 分かりました! 僕が行きますから……有り難うございました」
「! 葉月? どしたの……?」

 顔色を変えた隼人の受け答えに、ぽやんとしていた達也の顔が引き締まる。

 

 

 達也は完全にほろ酔いだし、隼人も自宅でビールを飲んでいた。
 それでも、二人揃ってタクシーを拾い、『デイブの指定場所』にやって来た。

「おーおー! 来たか!!」

 時間は23時を回ろうとしていた。

 そこは基地とは峠を挟んだ反対側に位置する町。
 通称『漁村』──そして、その村の中心とも言える市場がある漁港だった。

 その薄暗い港に、ポツンと屋台がひとつ。
 赤いちょうちんに『なぎ』の文字。

 以前、コリンズチームが通い詰めていたという、屋台だった。

 そこの主である『若オヤジさん』が、いつものタオルはちまき、ジャージ姿で手を振っていた。

「ご無沙汰してます」
「俺は先週、ジョイと来た!」

 滅多に外には出かけない隼人と、活動的に交流をしている達也が、オヤジさんに挨拶。
 だけれど、オヤジさんは、困り果てたように頭をかいて、渋い顔。

「参ったよ──。たまに顔を見せに来てくれたと思ったら、焼酎を駆けつけに三杯って感じで飲み干して、途端にこのザマで……。どうしようかと、デイブに連絡したんだよ」

 彼の目線は、目の前の屋台のカウンターに突っ伏している『女』へ……。

「葉月!」

 客は引いた時間帯の様で、栗毛の彼女が一人で静かに寝込んでいるではないか!?

「もー。他の漁師連中をあしらうのに、俺は大変だったぜ。嬢ちゃんは、何にも言わずに独り別世界にいるみたいに怖い顔をして黙々としているんで、結局、興味が湧いた男達も引いちゃったみたいだけれどね」

 致し方なさそうな顔をしているオヤジさんも、ちょっと困惑しているようだった。

「すみません──連れて帰ります」

 隼人は、そのまま葉月の側に駆け寄った。

「おい、葉月──起きろ!」
「ううん……放っておいてよぉ」
「ああ、そうだな。放ってやるから──でも、ここはダメだ」

 隣の椅子に腰をかけ、隼人は葉月の腕を引っ張り、肩を入れ持ち上げようとした。
 すると、葉月がやっとぼんやりながらも、顔を上げる。
 そのとろりとしている目線とかち合い、隼人はドキリとした。

 デイブは『恋人としても、今は休止中』という事を判っているくせに、隼人に迎えに行くように連絡をくれた。
 それに『なぎ』のオヤジさんも……隼人の連絡先はしらなくても、懇意にしているデイブに連絡をすれば、恋人である隼人が助けに来てくれると判っていたような様子だ。
 こうして、隼人が葉月を迎えに来ても、触れても、それが当たり前のように見守ってくれている。
 でも──今の隼人が『葉月を迎えに来る』なんて事は、おおよそ、『二人の間』では『あり得ないこと』に近い。

 そんな隼人の姿を、葉月が見た。
 だから、ドキリとした。

 達也が、判っているかのように……何かを観察しているかのように、後ろで息を潜めているのも、なんだか妙だ。

「隼人さん……」

 葉月がニコリと笑った。
 さらに、隼人はドキリとさせられた。

「ああ、もうっっ!!」
「いって! なんだよ!!」

 ところが、葉月は隼人を見るなり、持ち上げている腕を振りほどいて、またカウンターに突っ伏したのだ。
 隼人もさすがにムッとした。
 確かに、恋人としては今は中途半端な関係になってしまっているが、それでも達也と同様に『大事な仕事仲間』だ。
 彼女に何かあれば、駆けつける気はある。
 逆に、隼人に何かあっても、彼女も顔色を変えて駆けつけてくれるという確信だってある。

 それぐらいの信頼関係は損なっていないはず。
 それでも、葉月が鬱陶しそうに隼人の好意をあからさまに拒否したのだ!

 と、思ったのだが──。
 ムッとしている隼人に、葉月が再び顔を上げて、ニッコリと向き合った。

「やだ……もう」

 そして、葉月は隼人を指さして笑い始めた。

「なんだよ、まったく」

 どれだけ酔っぱらっているんだと、隼人は呆れたのだが。

「私の悪い癖──」
「?」

 葉月は隼人を指さして、笑っていたかと思うと──急に、またカウンターに突っ伏して、今度は『シクシク』と泣き始めたのだ。

「嫌なことがあると……すぐに誰かの顔を思い浮かべちゃうんだから……あーあ」
「!」
「幻をみるなんてー……あーあ」

「は、葉月?」

 『すぐに思い浮かべた顔』が、隼人だと言っている葉月の『寝言』のような一言に驚き、一瞬、隼人は固まっていたのだが、ハッとして葉月を覗き込むと、もう、スヤスヤと寝入ってしまっている。

「なんだよ! 嬢ちゃんが、独り酒で荒れる程、『同居人』は放置しているのか?」

 二人が『同棲』していると知っていたオヤジさんの厳しい視線に、隼人は苦笑いで流した。

 今度、隼人は葉月を両手に抱き上げ、待っていたタクシーに何とか乗せた。
 一緒に来ていた達也が一言──。

「なーにが『悪い癖』だよ。……まったく、そう思うなら、やせ我慢しないで飛び込めっつーの」

 隼人に寄りかかっている葉月から、達也が視線を逸らし、ふてくされていた。

「いつまで、こんな関係を続けるんだよ──苛々する」

 その車窓に、彼の鋭い眼差しが映っているのを隼人は見たが……それは、隼人に真っ直ぐには向けられなかった。

 丘のマンションに久し振りに出向いたが、隼人は管理人のロバートを呼んで、葉月を送り届けるにおさめた。
 達也はそれにも不満そうだった。

「なにを荒れていたんだろうな? 葉月」

 達也の知りたくて、気になる様子。

「さぁ? 自分でなんとかしようとしているみたいだしな……」
「あっそう──」

 気にする様子もなく、あっさりしている隼人の反応にも、達也は不満そうだった。

『あーあ、幻』

 自分を指さして、悲しそうに泣いた彼女を見て──『平気』なはずなんてない。

 でも──それは彼女も同じじゃないか?
 彼女は、『俺』の事など、やっぱり『幻』にしか思っていないのだから……。
 『本物』が来てくれるだなんて──もう、信じてはくれていないのだ。

 隼人は、むっすりしていた。

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