-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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2.女豹

 躊躇いもなく、彼女が身をかがめ、肌に指を滑らしながら、その薄い生地のショーツを太腿に降ろそうとしている。

「それはいい」

 アルドがそう言うと、身をかがめている葉月が『何故?』という不思議そうな顔で、見上げてきた。
 ここまで来たのだから『全部脱がせろ』と……まるで、彼女の方がそれを願っているかのような眼。
 しかもその眼が、性的な物やそこからくる恥辱などなにも映していない恐れていない眼。

「いいから、そのまま真っ直ぐに立て」

 そのアルドの命令通りに、葉月はショーツは着けたまますっくと背筋を伸ばした。

 アルドは右京をそこに置いたまま、ゆっくりと葉月へと近づいていく。
 そして初めて、彼女の額にその鼻先が触れそうな位置までアルドは辿り着いた。

 ほのかに甘い香りが鼻を掠める……。
 ふと見下ろせば、うっすらと自分が刻印した古傷が、白く浮かび上がっていた。
 その傷に触れたのは、この間の犯行時が初めてだった。
 どんな傷を貼り付けたまま女性として生きているか、それはアルドにはとても気になるところだった。
 十歳の時に死ななかった少女。その代わりに傷を負い傷物として生き始めた少女。絶望の中、荒れ狂うように生きていく運命を定められたかのように、この少女のこうした無感情さの奥では熱い気持ちが暴れていた事だろう。

 アルドは勝ち誇った笑みを浮かべながら、その古傷にナイフを滑らした。
 そうなのだ──。思い出した記憶と折り合いが付いた顔をし、どんなにそのような無感情さを『装っても』、『これは彼女でも許されない』ことだろう?
 そのままナイフの側面を、彼女のふっくらとしている白い乳房の上、その胸先にゆっくりと押し当てた。女は強く押すよりかは、やんわりと押した方が効果的だろう。その証拠に少しばかり彼女が喉の奥から艶っぽい呻き声を漏らした気がした。気がしただけで、本当に漏らしたかは分からないのだが、それでもひんやりとしただろうナイフの側面、その金属に押された乳房の胸先が、色っぽくつんと尖った……。それは彼女のそこが少なくとも感じたと言う事……。
 それを知って、アルドはニヤリと微笑みながらその腕の中、胸の中へと抱き込むようにして葉月を捕まえる。
 後ろ頭の長い栗毛を鷲づかみにして彼女の身体を回し、向かい合う形から白い背中へと抱きつくような形で前を向かせた。
 細い首に腕をかけ軽く締め上げると、儚い呻き声が弱々しくアルドの耳に届く。その声すらも妙に艶っぽく聞こえたのは気のせいか?
 締め上げたその首、アルドの頬に寄り添った彼女のこめかみ、耳元にアルドは楽しさではち切れそうな笑い声を抑え気味に漏らし、彼女に聞かせた。
 そのうなじに唇を押し当てると、これまた妙に艶やかな濡れ声をこぼし、そして色めくようなその顔に悩ましく眉間に皺を寄せた彼女……。

 脱がせなかったショーツの中にアルドは指を滑らした。

「確か、哀しいお人形さんになってしまったんだよなあ? 本当か? 確かめさせてもらうか?」

 きっとそこはあの姉のように、男を誘う甘い匂いを放ち、その艶めく栗色の茂みの中に男を引きずり込もうとする園を見せてくれるはずだ。
 だが、このお嬢ちゃんはその『男を誘う』ことが出来ない身体になっているだろうとアルドは思っていた。
 それを徹底的に確かめる為に、アルドにしてはちょっと熱を入れてお嬢ちゃんの乳房に首筋に、そしてその園の入り口で……。指先と唇、舌を使って『その気』にさせようとした。

「う……あっ」

 彼女の眉間に、もっと悩ましいさを深めた皺が寄る。
 そして力無く開いた口から、濡れる声。

「や、やめろ! 何故、従妹ばかりをそんな目にあわせるんだ!!」

 ついに始まった妹への陵辱……。
 それを目にした右京が叫び、震えながら立ち上がろうとしていた。
 アルドは葉月を抱きかかえたまま、右京へと向き直る。

「兄さんは黙って見ていろ」

 アルドは葉月のこめかみに銃口を押し当てた。
 彼の動きが固まる。そして右京は諦めたように、それならば決して見る物かとばかりに俯き、従妹がいたぶられる姿を視界から消したようだ。

 月明かりの中、その青白い肌は妙に神秘的に見えた。
 その儚く聞こえる濡れ声。
 涼やかに漂っていた彼女特有の甘い匂いが、急にふわっと辺りに立ちこめ始め、アルドを包み込もうとしていた。

 やがてアルドが思っていない事が起きた──。
 彼女がそこを熱くし、アルドの指先を濡らした感触……?

「旦那に余程、可愛がってもらっているのだな? それともお兄さんに教わったのか?」

 顎を掴みあげ、アルドは葉月の顔を見下ろした。
 しかし今度の彼女は、身体は熱くしているのにまた冷めた顔で、アルドをじいっと見つめ返していた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 月明かりの中、足音もない『黒猫』はついに二階のガラス窓へとその手が届いた。
 辿り着いても純一の仕事はまだそれだけじゃない。彼はすぐさま腰から小道具を取り出し、それを窓ガラスに貼り付けた。グラスカッターか。それですうっとコンパスのように円を描いていた。そして静かにその道具を純一が引くと、円盤型にガラスが張り付いて離れ、そこに穴が空いた。その穴に手を忍ばせ、純一はついに内側にある鍵を開けたようだ。

 隼人はその一連の作業をただ固唾を呑んで下から見守っているだけ。
 身体をぶら下げているワイヤーで片手は塞がっている。その作業は全てもう一つの片手で進められた。やはりその手際は『プロ』だと隼人は強く感じた。いつもスーツを着込んでビジネスマンのような身なりをしているから、隼人にはまだ『黒猫』という姿がピンとこなかったが、もう、納得だった。

 ついに純一はその出窓を開け、中に侵入した。
 そこから隼人を見下ろし、今度は白いロープを下ろしてきた。
 隼人はその先を受け取り、自分も軍人として覚えている結び方で腰に巻き付けた。
 純一から『OK』の合図が送られ、隼人は頷き、ついに地面から足を放した。

 ぎりっとロープが軋む音。重たい自分の身体。歯を食いしばる程の力を込めないと黒い手袋で掴んでいるロープは滑り、下へと落下しそうだった。
 ──たかだか、二階じゃないか! 岬任務の時に登った断崖はもっと苦しかった!
 隼人はあの時のことを思い出し、歯を食いしばる。だから二階は本当に目の前だった。隼人がそんなことを考えているうちに、もう目の前では純一が手を伸ばして待っている。
 隼人は躊躇わずにその手を取り、ロープを手放し、壁を蹴ってその弾みで二階窓に到着。
 侵入に成功した。

 決して言葉は交わせない中、それでも隼人と純一は視線を合わせ、にやりと笑い合う。
 そしてまた拳と拳を合わせた。
 だが、純一の表情は直ぐに引き締まる。

 侵入した寝室には家具などはなにもなかったが、綺麗に床が輝いていた。
 埃もなく、空気は月明かりの中、澄んでいるように思えた。
 きっと右京がここも綺麗にしたのだろう。
 隼人がそれを感じ取っていると、純一は既にこの部屋の出口のドア、そのドアノブに手をかけている。
 隼人も出窓の段から、そっと静かに床へと降りる。先に行く兄さんのように、足音がしないようにそうっと歩く。
 純一が静かに慎重にドアを開ける。音もさせずに開け、その大きな黒目が隙間から左右を確認していた。
 足音もなく、月夜に光るその黒目で闇の中を警戒する様は本当に『黒猫』。隼人はその頼もしい黒猫にひっついている黒子猫の気分だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「そうね、純兄様にはうんと可愛がってもらった……」

 彼女がうっとりとした顔でアルドに答えた。
 うっすらと閉じたその瞼、そこから月に向かうようにピンと伸びているまつげが茶色に煌めき、月を見つめている。

「兄様なら、身体は言う事を聞いた……。ううん、私が一番抱いて欲しかった愛おしい人──」

 まるでその月に愛を告げるかのように、彼女の顔が柔らかな微笑みを浮かべる。
 アルドの中で、また何か荒れた物が生じる。その笑顔、恋する顔を見た事がある。その『男』を一番に恋しがる女の顔を。

 アルドはその気持ちをかき消すように、さらにぐいっと乱暴に葉月の顎を掴みあげる。
 ついに指先は、そこを犯そうとしている。

「旦那が泣くだろうな」

 もう彼女も『やせ我慢』など限界だろうと、アルドは指先に力を込める。
 しかし、彼女は今度はちっとも表情を変えない。それどころか、今そこで旦那を挟んで恥辱したと言うのに、ふと微笑んでいるのだ。

「そんなこと……。貴方は知らなくても、気にしなくても、ちっとも構わない事だわ」

 アルドは眉をひそめ、指先の力さえ抜いてしまった。

「主人は……彼とは……今はこんなでも、二人きりになれば……」

 そこで思い出し笑いをするように、彼女が『ふふ』と笑みを漏らした。
『それ以上は、教えない』とばかりに。またアルドの胸が荒れる。彼女はそうして微笑みを浮かべながら、またあの冷めた顔で背中にひっついて離れないアルドを肩越しから見上げてきた。

「貴方の言うとおり、そしてきっと……望んだとおり。私はあれから『男』と過ごす事はなんとか出来ても、男と女の関係になると上手く行かなくなる……。彼等が望むとおりの身体になれず、そして女になる自分に嫌悪したわ。『感じたくなかった』──から」
「何を。お前も姉と一緒だ。『嫌』でも身体は『動物』じゃないか」
「そうよ。今、貴方の指を濡らしたように……。私は感じる。恋した男性に警戒しながら、やっぱり身体は合わせる事が出来た。でも……貴方のお望み通り、直ぐに『さよなら』。思う存分に愛し合えないから。どう? 予想通りでしょう?」

 アルドはビクリと身体を硬直させた。
 なんと、彼女『葉月』から、まるで恋人と触れあっているかのようにしてアルドの腕にくったりと身体を預けているだけでなく、そのしとやかな指先をすうっとアルドが辱めている手の甲に滑らせ、次にはアルドに甘く緩む瞳を見せたのだ。

 これでは陵辱どころか、まるで『合意の上』での男と女の睦み合いとなんら変わりがない──?
 この女が『不感症』? それどころか夫がある身でも他の男の強引な誘惑に簡単に折れてしまう『ただの淫らな女』ではないか!? これがあの震えていただけの少女?
 そんな奇妙な感覚に襲われ、アルドはついに葉月をその腕から逃してしまった。
 急に愛される事から放られたかのような驚きの顔を見せた葉月にも、アルドは妙な感覚を突きつけられる。
 だが、今度はその彼女の肩を掴みあげ、また自分に向き合わせ頬にナイフを当てた。
 それでも彼女は人形のように、お馴染みの表情に戻ってしまうだけ。決して騒がない……。

 そんな彼女の心も身体も思い通りにならないと思ったアルドにはちゃんと『切り札』がある。
 ナイフの刃先は彼女の頬から、柔肌の首筋を撫でながら降りていき、やがて彼女の胸元へとなぞって下へと向かっていくその先には……。

 胸の谷間には、白いガーゼが医療テープで固定されている。そこを目にしてもアルドの胸はどきどきとしてくる。なんといってもそこはつい最近、新しくこの魔王が刻印した『新傷』だ。今度はこの美しい彼女の身体をどれだけ濁すような物になっている事か……!

 そのナイフの刃先で、アルドは胸のガーゼをめくり、ぴりっと剥がした。
 彼女の傷を保護していたその何層もの重ねていた白い布は、ぼとっと床にアルドと彼女のつま先に間に落ちた。

 そこに見覚えある軌跡を思い出させる赤茶色の傷が姿を現す。
 ほんの数センチではあるが、あの時使った大型ナイフの幅、そしてアルドが最後に力を込めた時に、くいっと弧を描いた湾曲が下部に向かってその尾が残されている。彼女の美しいその白い裸体の、本当に女性の象徴的な男達を惑わす美しきその谷間に、くっきりと呪いをかけられたように食い込んでいるよう……。
 だが、アルドは少しばかり目を見開いた。本当なら、またお前から輝きを奪った決定的な証拠と笑ってやりたいのに──。
 どこかで見たような形と色……。
 その傷はまるで『三日月』。
 そう、赤い花をへし折った時、夜空に見た『赤い三日月』だとアルドは思った。
 何かを象徴しているようで、アルドの一番の夜を思わすものが、妹の身体に浮かび上がっている……! なのにアルドはゾッとしたのだ。なにかそこで皐月の顔が見えた気がした。
 思わず、一歩……葉月から引き下がってしまった。

「どうしたの? 『喜んでくれる』と思ったのに。夫ですら最初は直視できなかったこの傷を、貴方だけは喜んでくれると思ったのに。どうしたの?」

 その顔も、とても不本意そうだ。
 彼女は『喜んでくれると思った』と、アルドがほくそ笑むのを心待ちにしていたと言う。

 ……この女!

 アルドはやっと、分かった!

 もう、なにもかもを終えていると。
 今から姉と同じようにどんなに女体を陵辱しても、彼女はこの顔のままなんともない人形の顔を崩さない。
 声も出さない。泣かない。嘆かない。乞わない。叫ばない。哀しまない。喜ばない。なにもかもアルドがすることは『なんともない』。
 アルドが恐れたとおりの『とんでもないもの』に化けている!! ──やっとそう思えた。
 そんな時、ふと気付けば、彼女の方がアルドを見て、クスクスと笑っていたのだ。

「そんなに今の私がおかしいの? 期待はずれで申し訳ないわ」
「なんだと……?」

 彼女らしい優美な微笑みを見せられる。
 その微笑み方は、アルドには妹の彼女が笑っているのではなく、在りし日の『赤い花』が自分の目の前で陽気に笑ってくれていた顔と重なる。
 何故か……! 身体が固められた気がした。この俺があのまばゆいばかりの赤い花の全てを奪いつくしたと言うのに、まるでまだ『残っている』かのようだった。

 だがやがて。その目の前からは『赤い花』の面影は跡形もなく消え、そこには元の『蒼い月』が涼やかな顔でアルドを見つめていた。

「どう? 貴方が望んでいた『モノ』がここにいる、ここにある、現れたと思うのだけれど」
「なんだと?」
「そんなに期待はずれだった?」

 葉月があの姉にそっくりの顔で『残念だわ』と微笑んだ。
 まるで乗り移ったかのよう……。
 だがやはり、すぐにその青い彼女特有の冷めた顔に戻る。
 そして、彼女はアルドを真っ直ぐに見ると、つい先ほどひゅうっと収めてしまったあの一瞬の冷たい炎をその瞳に揺らめかせ始めている。

 その眼からアルドに対するあらゆる感情を秘めた強い眼差しが、ぐうっとこちらにやってきた。

「貴方のお望み通り、私は散々汚れてきた。身も心も。浄化できない黒く渦巻く感情に流されて流されて。その上、最後に貴方に死の淵に落とされた。これ以上に何があるって言うの? これ以上何を泣き叫べと言うの? 女の身体が辱められる事がどういうものかよーく知っている。自分の身体でも体験した。それだけじゃない。愛してもいない男性とも無感情に寝た事だってある。幸せなんて絶対に来ないと思った」

 そこにアルドが望み、描いてきた『絶望の姿』があった。
 だが、今のアルドは何故か笑えない。
 分かっていた。もう『絶望を通り過ぎている』のだ。それはアルドも越えられなかったもの? だから笑えないのか?

 そんな事を考えていると、突き放した彼女が裸のままザッとアルドに向かってきた。
 魔王に恐れることなく向かってくるその女はアルドの目の前にやってきて何をするのかと思えば、いきなり股間を掴んだのだ。
 それにはアルドも目を丸くし……側にいた右京も呆気にとられた顔。
 だが目の前の栗毛の彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべアルドを見ていた。

 アルドは硬直した。何故なら……。

「さっきからおかしいと思ってたけれど。やっと判った。貴方もそうなってしまったのね! あの時、姉を辱めたあの時に貴方も駄目になってしまったの? それほどの『覚悟』だったと言う事なの!?」
「この……っ! 離せ!!」
「私を辱める事なんて出来ない。貴方は姉に全てを持っていかれたのね! 私と同じ。貴方も『絶望の人』なんだわ!!」

 秘密である一つを彼女に暴かれ、アルドはついにナイフを振りかざした。
 しかし思わぬ素早さで彼女が頭を下げ、避けてしまった。
 その動きはまさに『軍人』だった。
 あれだけ頼りなかった足取りも、痛みが残っているだろう胸も、もう彼女には存在しないかのような動き。

 しかし目を見れば分かる。
 その目は『ひとつの使命』を全うする事に、全てを賭け、その一点に『完全集中している眼』だ。
 アルドはこの眼が出来るエリート軍人を何人も見てきた。
 その時、彼等は一瞬でも神懸かる。
 今の彼女はまるでその瞬間を操ったよう……。
 そこには青い月明かりの中、女豹が現れたかのようだった。

 空を切ったアルドのナイフ。
 かろうじて彼女の栗毛の毛先がぱらりと散った。

 また月明かりの中、しんとした静けさがこの空間に戻ってきた。

「ふふ……あははは!!」

 その静けさを壊したのは、寝転がっていた右京の笑い声。
 それでもアルドと葉月はお互いを牽制する目つきを合わせたまま、反応はしなかった。

「葉月! 面白い物を見せてくれたなあ」

 アルドの不能になった『男の代償』を知って、笑われている事を知りながら、アルドは目の前の危険な匂いを漂わせ始めた女豹を前にして感情を荒立てる事は出来ず……。
 だが目の前の彼女も、右京に同調するようにアルドにニヤリと笑いかけてきた。
 アルドのナイフを握っている手が震え始める。

「やはり。代償は大きかったのね。嬉しいわ。私だけじゃなかったことが──!!」

 それはアルドが言いたかったセリフだったはず。
 だが今『同じ苦しみを持ったあの時の証人』として二人存在する事を彼女が喜んでいる。
 その顔はもう、アルドとすり替わったかのように、魔が宿っているようだった。
 いや……アルドにだけそう見えてしまっている物なのか? とにかく、アルドにはそう見えたのだ。

「黙れ──!」

 アルドは震えた手で握りしめているナイフを振りかざした。
 途端に葉月の顔が真っ平らに冷め、ふっと間合いを取って退いていく。
 だが、アルドはその葉月の足下にめがけてナイフを投げた。

 彼女が引いたその位置ピッタリに、彼女のつま先に刺さるか刺さらないかの位置でナイフがぐっさりと床に刺さった。
 命中してもしなくても良い狙いで投げつけた。そしてその半端な狙い方になんの意図が含まれているか読めないといった顔つきの葉月が、アルドを上目遣いで警戒している。

「それを手に取れ」

 葉月はアルドを窺う視線のまま、言われたとおりには手に取らない。
 そんな彼女に見せつけるようにしてアルドは銃も右京の手の届かぬ遠くの床へと放り投げる。

「どうした。それを取って俺に向かって来い」

 まだ葉月は警戒している。

「思っていたはずだ。お前の心に渦巻くその感情……。ヴァイオリンじゃない、純一じゃない、巡り会った恋人でもない。そしてコックピットではなく、空でもない! 俺の、ここに! ありったけにぶつけたかったのだろう!?」

 そしてアルドは胸を無防備に開いて、葉月に見せた。

「叶えてやる。姉の無念もお前の浄化されない感情の『行く先』を、ここにするがいい!!」

 また、月明かりの静けさが流れ、そこにただ眼を光らせたままの葉月が、思いあぐねているようにアルドを見ていた。
 やがて、ゆっくりと彼女のしなやかな長い腕がナイフへと向かう……。

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