-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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4.銃を使うな

 そんな時は本当に、電気が走ったように『ばちっ』と目覚める。
 すうっと徐々に目覚めるのではなく、本当に前触れもなく、いきなり『ばちっ』と来るのだ。

 その唐突な目覚めで、空が白み始めているのに真一は気が付いた。
 なんだか胸騒ぎがする。
 真一は毛布を手で除けて、起きあがる。

 父親がいない……。
 机が散らかっている。
 そしてベッドには脱ぎ散らかしているワイシャツにスラックス。

 それを見ただけで、真一の胸騒ぎがもっと激しいものに変わる。
 何故なら、父・純一は男性特有のがさつな豪快さを見せることもあるが、どんな時でも仕事が終わればきちっと書類は閉じ隅に束ね綺麗に片づけるし、着ていたシャツにスラックスだって脱ぎっぱなしにはしない。むしろ、今まで自宅では優しい葉月に甘ったれてきたままに脱ぎ捨てている真一に『きちんとしろ』と目くじらをたてるぐらいだ。
 その父親が、まるで慌てて何処かに出かけたかのように脱ぎっぱなしにしている。
 ベッドだって寝た痕跡がない……。

 不安になって、ベッドを降りた時。
 窓が開いていないのに、足下をすうっとした空気が撫でていった気がした。
 まるで、そこに誰かが居るようで……。
 そしてもし居るならそれが誰か真一にはすぐに思い浮かぶ人がいた。

「か、母さん?」

 そんな事はないとは思うが……。少なくともこの唐突な目覚めの時は、いつも何かが起こる前触れだった。
 そう、この前は──葉月の意識が戻った時。目が覚めると父親の携帯電話に『意識が戻った』という連絡があって……。

 その時、今度は電話の音ではなくドアからノックの音──。

『純さん? 真一君──?』

 ジャンヌの声。

「はい、起きていますよ」

 真一がそう言うと、ジャンヌがとても青ざめた顔で飛び込んできた。
 そして部屋を見渡して、真一は居ると確かめた後は、父を捜しているようで……。

「あの、親父がいないのだけれど」
「純さんもいないの?」

 『も』いない──。その言葉に、真一は固まった。

「葉月さんも隼人君もいないの!」
「え……」

 真一は驚く前に青ざめた。
 それは一つの事しか意味していない。
 そしてジャンヌが教えてくれた。

「貴方のお祖父様、胸騒ぎがして目覚めたとかで……。エドの報告で、純さんと隼人君が葉月さんと一緒に『幽霊』に会いに行ったと……!」
「やっぱり──! 行っちゃったんだ!」

 俺を置いていった!! と、役にも立たない事を百も承知で憤慨した。
 役に立たなくても、真一も行きたかった。危ない事も百も承知。ただ真一は『知りたい』、『見届けたい』だけなのだ。
 だが真一が悔しがっているのも束の間、あの冷静な顔ばかりを見せるジャンヌが、急にこの真一の目の前でか弱い泣き顔に崩れた。そしてもっと驚く事を教えてくれる。

「何故、三人が飛び出していったかというと、『右京が人質』になっているからって……!」
「おじちゃんが人質! だったら、親父達が向かった場所って──!?」

 右京が人質だとしたら、右京が居た場所に幽霊が現れたという事?
 それなら幽霊が現れたところは『葉山の別荘』。そしてそこは……。
 真一は頭を振って思い浮かんだ事を振り払おうとした。真一でこれなのに、当事者である葉月がその場に向かえたということがまた信じられない。

「先生。葉月ちゃん、大丈夫かな?」
「そうよ。彼女にとっては、最悪の場所だわ……。決定的な事にならないかとそれも」

 真一は拳を握る! 敵ではあろうがそれでもその敵の一番痛いところをつつくように誘い出すだなんて。しかもその家族を人質にして! なんて卑劣な奴なんだろう!!!

(母さんを殺した奴!)

 そしてもしかすれば、乱暴された時にお腹にいた真一だって消されていたかも知れない。
 そして真実を知った時、うんと悩まされ、突き落とされ、生まれて初めての憎悪を味わわされたあの秋の日々を真一は忘れてはいない。
 そして、そして! 眠っている時に何度もうなされていた叔母・葉月の苦悩の日々。いつも真一の前では笑顔でいてくれたけれど、時に突き落とされたように無口になり、無表情になり、まるで人形かロボットみたいな顔になって一人でひっそりと日々を送っていたあの葉月の顔だって忘れられない。
 そんな思いを何度もさせられた奴。これで『なにもかも終わった』と大人達が言っても、真一は絶対に納得しない!

 だから真一は、戦闘は出来なくても、ただそこに行って見届けたいだけだったのに──。
 しまった。もっときっちりとこの本心を父親の純一にぶつけておくべきだったと、『まだ大丈夫』と先送りにしていた自分を悔いた。

「先生、どうするの?」
「行きたいわ」
「俺も、行きたい!」

 大人達は、皆、『お前は危ないから駄目だ』と絶対に言う。
 だけれど、ジャンヌは……。

「貴方、覚悟できている?」

 初めて──『駄目』以外の言葉を言ってくれる大人が目の前に。
 真一は一瞬、驚きながらも、迷わずに頷いた。
 そしてジャンヌは真一の目を見て、何かを訴えるような顔で言った。

「葉月さんのことも心配よ。だけれどね──私、そんな彼女を見届けたいの」
「先生が……?」
「そうよ。彼女が最悪の場所に引き込まれた事は心の問題から言ってもとても心配。だけれど、そうじゃない気持ちが不思議と強いの」
「どんな気持ち?」

 真一がきょとんと首を傾げると、目の前にいる金髪の大人の女性が、急にしなやかな指先をすうっと真一の頬に当ててきた。
 それにはちょっとドッキリとした。女性としてじゃない。真一が感じたのは『母性』。ジャンヌはそんな目で真一を慈しむように見ている。

「不思議とね。彼女は乗り越えてくれるような気がするの。私、それが見たい。貴方も見るべきだわ」
「葉月ちゃんの姿を?」
「そう。あの子のその姿がきっと……御園の誰をも救う。きっと右京も救ってくれるわ。そして、私も真一君もよ」

 それってどんなことなんだろう?
 優しいジャンヌの顔に見とれながら、そう考えているうちに、彼女がやんわりと真一の手を握った。

「さあ、エドにお願いして、私達も行きましょう」

 真一はまるで母親に手を引かれるような心強さも手伝って、躊躇うことなく頷く。
 そしてジャンヌと一緒に部屋を出た。

 

 だけれど、その部屋を出て真一にふとした心配が起きる。
 お祖父ちゃんは、子供達だけで戦いに出払ってしまってどうするのだろう? と。
 ジャンヌとリビングに行くと、そこではちょっとした言い争いが、いや、お祖父ちゃんが怒っている声が聞こえてきた。

「私の言う事が聞けないのかね? エド! お前も直ぐに行きなさい!」
「ボスの命令です。私は旦那様をお守りする命を受けています。行けません。申し訳ありません」

 真っ赤になって怒っているお祖父ちゃん。
 そしてそれをいつもの冷静な部員の顔で、命令一筋を守り通そうとしているエドが向き合っていた。
 お祖父ちゃんはパジャマのままで、テーブルに手をついて拳を握りしめ、歯をぎりっと軋ませていた。

「いいか、エド。よく考えろ。もし何かあった場合、お前の医師としての腕が必要になるはずだ。お前も皆のところに行くんだ。お前がそこにいるだけで、私の心は安堵する。あの時、葉月を助けてくれたではないか? 不都合になることは私がなんとでもする!」
「旦那……様」

 亮介のその説得に、徐々にエドの部下としての表情が軟化していくように真一には見えた。
 彼も、行きたいんだ──真一は、そう感じた。

「あの、旦那様はどうされるのですか?」
「私も助けに行きたいのはやまやまだが……」

 真一は『お祖父ちゃんも行くべきだ!』と叫びたかった。
 だって、一番苦しんできた葉月ちゃんのパパじゃないか。今度こそ、そこに助けに行かなくちゃ、葉月ちゃんがっかりするよ。お祖父ちゃんは強いのだから、行かなくちゃ! そう訴えたかった。葉月から本心を聞いた事はないけれど、でも、きっと葉月はあの時、誰も助けに来てくれなかったことをとても悔しく哀しく思ったはずだ。だから今度こそ! お祖父ちゃんだってそれで悔いていたはず。お祖母ちゃんと一緒に泣いてきたはず。だからお祖父ちゃんにとっても意味があって……。
 そう強く思う真一。だけれど、それはやっぱり『子供』の真一が何も知らなさすぎることを突きつけられる結果に──。

「もう、葉月は私を必要としていないと思うよ」

 違うよ! 葉月ちゃんはお祖父ちゃんに来て欲しいんだよ! ──真一が今度こそ突きつけてやろうと、口を開きかけた時。

「きっとあの岬の任務で、葉月は許してくれたのだと思う」
「そうですね。私もそう思います」

 エドも頷いた。
 そして真一も思いだした。お祖母ちゃんに強引にマルセイユまで連れて行かれた時、お祖父ちゃんは犯人に捕まった娘を現場まで助けに、任務総監という立場を放って空母艦を飛び出したということ。それで初めてハッとした。そうか、あの時に『父娘』としてのわだかまり、溶かすことが既に出来ていたんだと。
 そして今度はジャンヌが……。

「お父様、私もそう思っております。彼女は今回は誰の助けも要していないことでしょう。彼女にとって、きっと最大の最後の戦い」
「そうだね。そして私にとっても、そうであると思っているよ。私だけじゃない。私や登貴子、そして娘の葉月と共に苦しんでくれた家族、親族、友人にとっても……ね」
「なのに、お父様はそのお嬢様を見守りに行かないのですか? お嬢様のその姿を見届けたいと思いませんの?」

 ジャンヌの言葉に、真一もうんうんと大きく頷いた。
 葉月がそこを必要としていなくても、やっぱりジャンヌや真一がそう思ったように、亮介だって見届けた方が良い。

「もし旦那様がそう思われているなら、私、お供致しますから」

 エドも亮介に来て欲しそうだ。
 それでも亮介はすぐにウンとは言わず、なにやら思いあぐねている。
 真一はじれったくなってきて、いよいよ吠えたくなったのだが。

「いいえ。私達は葉山には行きません。もっとやらねばならないことが残っておりますから」

 夜明けのリビングに、そんな凛とした女性の声。
 振り返るとそこには既にきちんと洋服に着替え、化粧も髪も整え、まるでどこかに出かけるような姿になっている『登貴子』が立っていた。

「お、お祖母ちゃん。どこかに行くの?」

 真一のその言葉に、登貴子はいつもの優しいお祖母ちゃんの笑みを浮かべてくれた。

「真一。貴方、行きたいの?」

 その問いにも真一は驚いた。
 誰も、ジャンヌ以外はそんなこと今まで問うても来なかった。
 だけれど、もしかするとそれは『その時』まで待っていてくれたのではないか。そんな気にさせられるお祖母ちゃんの、とっておきの質問を、今やっと投げかけてもらっている気がした。だから真一は祖母に向かってはっきりと言う。

「行きたい。なにもかも、辛い事でも、俺、この目でみたい。そして父さんと母さんがどんなことで苦しんできたのか、葉月ちゃんがどんなことで哀しんでいたのか、俺、知りたい。知って、俺も一緒に乗り越えたい」

 一番若い、まだ子供扱いの真一。
 それだけ言い切ると、祖父母にエドにジャンヌ──そうした大人達が何も言わない沈黙が漂った。
 でも、真一には伝わってくる。そこにいる大人達の目が、真一を慈しむように優しく滲んでいた。それは真一の今の言葉を『一人の男としての気持ち』として聞いてくれた顔だって……。
 そしてついに登貴子が言った。

「エド、真一をお願いできますか」
「はい! 奥様」
「ジャンヌ。貴方も右京を迎えに行くのね」
「ええ、黙って待っているなんて出来ません。私も、この真一君と一緒に彼等を見届けてきます」

 『有難う』と登貴子が、いつもの優しい顔で微笑んだ。
 そして亮介も、微笑みを浮かべ頷いている。
 では? 祖父母はどうするのだろうか?

「でも、祖父ちゃんと祖母ちゃんは、どうするって言うのさ?」
「そうですよ。旦那様、奥様、どうされたいのですか?」
「一緒に行かれないのですか。ここで待っているおつもりなのですか?」

 真一を始めとするエドとジャンヌの問いに、亮介と登貴子は顔を見合わせ、何を決めている顔で揃ってこちらを見た。

「警察に行くんだ」
「なにもかもをそちらに委ねようと思っているの」

 二人のその言葉に、真一は驚き固まる。
 勿論、それはエドも──。
 しかしジャンヌだけは違った。

「そうですか。それが宜しいと思ってはおりましたが……。それはあまりにも辛すぎる事もまた事実。ご決心されたと言う事なのですね」
「ああ。皐月が死んだばかりの時は、ただでさえ死んでしまったのに、これ以上この子を哀れに晒すものかと思った。警察の慎重すぎる捜査にも苛立って反感を持ったよ。その上、最悪『皐月の犯行だ』なんて冤罪にさせられたものなら、私はきっと世間を恨んでいただろう。だから、自分達の手で探したかった」
「でも、違う事に気が付いたわ。やはりそこに行かねば『終わらせられない』。私達の手だけで終わらせる事など、出来やしなかったのだと」

 真一は驚きながらも……。でも、なんとなく祖父母が言っている事が解る気もする。
 もし、もっと早く御園側が協力的に自分達を信じている上での証言をしていたなら、捜査ももっと進んで瀬川はとっくに捕まったかも知れない。──かもしれないだが。確かにもう、御園は十八年間、揃って心を閉ざしすぎた。遅すぎた結果が結局、生き残った娘の葉月に再度、災難として降りかかった、結びついたのではないか? だから祖父母は警察にゆき『世の中に裁いてもらう道』を選んだのだろう。
 そこには今までずっと踏み切れなかった皐月の哀れな悲惨な姿をさらさねばならなくなるだろう。それだけじゃない。葉月だって……。
 でも、真一には声が聞こえてくる。

『しんちゃん、私、もう怖くない』
──真一、貴方も行きなさい。

 似た声が二重に聞こえる。
 だから、真一は祖父母に言う。

「きっと葉月ちゃんも、そう思っていると思う。葉月ちゃんは瀬川をひっぱってくるよ、きっと。だから祖父ちゃんはその為に後ろを整えておくってことなんだね」

 真一がそう言うと、亮介と登貴子が嬉しそうに微笑んでくれた。
 孫が、理解してくれた嬉しさだと思う。それに横にいるジャンヌも『きっと、そうだわ』と肩を抱いてくれた。
 だが、エドは違った。

「待ってください! 警察ではどうにもならなかったこと、手の届かない範囲を『私達』が動いてきたのですよ! それに今から警察に葉山に乗り込まれては、私達のような『闇の男』だって、ただじゃすみません。この日本では許されないことを私達は……」
「エド、それをジュールに知らせてくれ。だから『銃は決して、使うな』と──。早く!」
「あの幽霊に対して、銃を使うな……と!?」

 エドの驚愕の顔。
 そこには『黒猫』として生きてきた男には聞き入れられない信じられない言葉だったようだ。

 すると亮介は、とても申し訳なさそうな顔をした。
 エドが呆然と、どうして良いのか解らない顔で、助けを求めるように……いや、考えを改めてくれないかとばかりの顔を亮介に向けたまま。

「頼む! エド……! お前達の今までの働きには感謝している。お前達がいたからここまでやってこられた事実は変わらない! だけれど、最後なんだ。こういう最後にしたいのだよ!」

 ──頼む!

 ついに、エドの足下に亮介が『土下座』をしてしまった。
 真一がさらに驚いていると、今度は祖母まで、亮介の隣に静かに正座して額を床にひっつけた。

「エド。私からも頼みます」
「そして医療的なサポートを……! その上での不都合は全て私が引き受けるから」

「お、おやめください!!」

 エドがそこは怒った顔で跪き、祖父母に頭をあげるようにと彼も頭を下げていた。

「解りました。元より私は『動くだけの男』。旦那様と奥様の願いなら、なんなりと。ずっとそうして来ました。そしてそれが私の願いです。だから後はお任せ下さい。ジュールに知らせ、私達でなんとか切り抜けてきます」

 エドの顔がきりりと黒猫部下の顔に戻った。

 その後、この一軒家は慌ただしくなる。
 亮介と登貴子は身なりを整えると、あっと言う間に出かけてしまった。
 そして真一も軽い服装に着替える。
 駆け足でリビングに戻ると、エドとジャンヌが揃って何かを準備している。

「エド。私も医者よ。協力するわ」
「有難うございます。では、簡易的ですがそれでも大がかりな治療が出来る道具を持っていきますから手伝ってください」

「俺も手伝う!」

 二人は割り込んできた真一を見て、顔を見合わせていたのだが。

「そうですね。助かります、真一様」
「じゃあ、医者の卵さん。これをそろえて」

 医者の二人は、大きなアタッシュケースやスポーツバッグにあらゆる医薬品、医療機器、医療具を取り揃え詰め込んでいた。
 真一も手伝う。薄い手袋をはめ、銀色のケースに、メスなどの器具を並べて蓋をする。それをアタッシュケースに詰め込む。
 手伝っている間、ジャンヌがエドに尋ねた。

「亮介お父様は、あのようなことを言っていたけれど。実際に私達がやっていること、誤魔化せないと思うわ」
「その為に、山崎先生にお世話になっているのではないですか」
「ど、どうするの?」
「こんなこともあろうかと、いざというときのお願いをしておきましたから、ご安心を。今、ナタリーにも連絡して、運搬に関する事も、彼女が開発した医療トレーラーを向かわせるようにも依頼しました。ちょっとした手術室ならこれでOKです」
「亮介さんは知っているの?」
「知りません。やはりなんだかんだ言っても、旦那様に負担にならないように密かにサポートするのが『黒猫』ですから」
「そう。別に、私はそれでも良いと思うわ。万が一の覚悟も出来ているから」
「そうですか。ですが先生は私と違って本当に一般人。医師免許剥奪なんて、この私がさせません」

 黒き事は俺達がやる。
 エドのそんな顔。
 彼は注射器を並べたトレイにも蓋をし、バッグに詰め込む。

「急ぎましょう。ボスは夜明けには決着がつくかもしれないと言っていましたから」

 エドの無表情さが、彼のその場に向かう緊張感を見せていた。
 真一とジャンヌも心を引き締め、頷き合い、エドが用意した車に乗り込む。

 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、警察になんて話すのだろう?

 車が走り出した中、真一は朝焼けが見えてきた空を見て思った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 がちん、がちりと、銀の刃が何度も激しくぶつかり合う!
 時にはまた暗闇の中、火花が散るほどに、二人の男の力がめいっぱいぶつかっているようだった。

 身体は黒猫の方が大きい。なのに幽霊の力強い手捌きに的確な防衛、そして攻撃。
 純一がややそれに押され始め、背後に守っている義妹と義弟のところへと迫ってくる。

「どうした、黒猫! たいしたことが無いじゃないか」

 幽霊の余裕いっぱいの笑み。必死にくい止める黒猫。
 その対照的な表情が、実力の差を思い知らせているかのよう……。

「どうせ自分達は手を汚しきれない『ぬるい』仕事ばかりしてきたんだろう!! なんだこの腕は、昔のお前はもっと冷静だったぞ!」

 その幽霊先輩の言葉に、義兄純一が動揺しているのが葉月には見て分かる。
 みてられず、葉月ははらはらしながら隼人の胸から飛び出したい気持ちに駆られる。気持ちだけでなく、時折身体が前から出るのだけれど、それを隼人が『今は駄目だ』と葉月を抱きしめては引き留める。

「兄様は、兄様は本当はあんなはずじゃなくて……!」
「解っている。義兄さんだって自分で分かっている。だけれど、義兄さんは今、自分とも戦っているんだ」

 自分とも戦っている? 隼人のその言葉に、葉月は今度はしっかりと心を落ち着けて顔をあげた。
 幽霊に押されながら、そして心を揺らされながらも、必死にその攻撃をひとつひとつ防いでいる。

「本当は、ずっと兄さんだって苦しんできたんだ。だけれど自分が落ち込むと、お前が真一が心配するからなんともない顔をしていに違いないんだ」
「純・・兄様……が」
「そんなこと、俺が言うよりお前の方が解っているだろう?」

 そうだった。と、葉月は隼人の言葉で目が覚めたように、いつもより迷いを沢山背負いながらも前へと押し返そうとしている純一の戦う姿へと目を向ける。

 そうだったわ。あれが本当のお兄ちゃまの姿だったんだわ。
 知っていたはずなのに。でも、やっぱりそんな姿が目に見えるようになったのは初めてかも知れない。
 お兄ちゃまはこんな姿でも、いつだって『私達』の影になって守ってきてくれたのだと──。

「どうした。純一! 可愛い妹がもう俺の目の前だ。またもらっていくぞ!」
「くっそ!」

 それでも、ついに純一は葉月と隼人の目の前まで押されて後退してしまっていた。
 そして幽霊の、アルドの目は既に葉月を見ている。葉月はここにきて、初めてゾッとする。
 彼がふっと葉月に勝ち誇ったように微笑みかけた時、ついに純一の大きな手からナイフがはじき飛ばされた!
 そのナイフが葉月と隼人の横に飛んできてごとっと床に落下し、突き刺さった。

「皐月が待ち望んでいるだろう。お前を何年もあっちで恋しく思っているだろうから、躊躇わずに行け!」

 アルドのナイフが迷うことなく、純一へと振りかざされる!
 その時、葉月の中で何かが真っ白に弾け、びりっとしたものが身体中に走った。

「葉月!?」

 その時、葉月は夫が腰に着けていたナイフサックに手を伸ばし……。

「こんなに脆く、情けない男だったとは! やはりお前とは遅かれ早かれ分かつ運命だったと言う事だな。純一!!」

 幽霊の光速的な攻撃に、流石の純一が次の動きに移せる事もなく一時停止のように固まっている瞬間。
 アルドのナイフがそこを切り裂く──!

 純一の胸、そこでまたガチン! という金属音が響いた。
 そこにはナイフを手にして滑り込んできた『義妹』がいる。

「お、お前──!?」
「欲しいのはこの私だけでしょう! 相手を間違っていない!?」

 葉月は純一の脇下をくぐり、低い姿勢で下からアルドのナイフをがっちりと受け止めていた。

「あーあ! そうだった! この頼りない兄貴よりお前だったなあ! 望み通りにこのままもらってやる!」
「……いっ!」

 やはり、そこは所詮、女の力。
 アルドの力強い払いに、葉月の手は弾かれ隼人の腰から咄嗟に取り出したナイフも飛ばされる。その時、手の甲が切れて葉月の目の前に血が散った。
 そこに一瞬の隙ができ、気が付けば今度は葉月の頭に向かってナイフが振り落とされてくる。
 そのほんの一瞬で出来る事……。その一瞬に動いたのは純一。彼が葉月の前に立ちはだかった──!

「お兄ちゃま──!!」

 目の前に雄々しく立ちはだかり、葉月を刃から守ろうとしている義兄。
 ずっと昔から、そうして守ってきてくれたお兄ちゃまの背中。
 その背中をアルドのナイフが切り裂こうとしている!

 葉月はその瞬間、鎌倉の海に一緒に行った時の事が頭に浮かんできた。

『忘れないでくれ』
『忘れないわ』
『一緒に、帰る。お前と真一と……帰る』
『うん、帰りましょう。純兄様』

「いやー! 純兄様──!!」

 アルドから引き離そうと葉月は純一の足にしがみついて、彼の身体を動かそうとした。
 一緒に帰るって、私としんちゃんと一緒に、私達の鎌倉に帰るって約束したのに──!!
 どんなことがあっても、自分が生き延びても、やっぱり『貴方』がいなければ、私の心の半分は死んでしまう!!

 葉月のなににも囚われない素直な叫び。
 愛していると、やっぱり今でも葉月は熱く思い叫んでいた!

 だが、そんな涙を流しながらも、気が付けば……。妙にシンとしていた。
 『お兄ちゃま?』としがみついている足から、純一を見上げると、彼は何事もなくそこに立っていた。だが、それだけじゃなかった。
 もう一人、黒い戦闘服を着た男が、純一の後ろ彼の足にしがみついている葉月の直ぐ横に立っていた。
 そうっと見上げると、彼はとても冷たい眼差しで、でも黒い瞳の奥は熱く揺らめき──。その手には先ほど純一の手から飛ばされてしまった大型のサバイバルナイフを手にしていた。さらに覗き込むと……なんと、アルドが振り下ろしたナイフと『隼人』が突き出しているナイフががっちりと合わさっている!

「貴方──!」
「は、隼人──」

 義兄と妻の前に、新たなる御園の男が勇ましく、幽霊と刃を交えていた。
 その目は涼しく落ち着いていて、彼の静かで冷静な顔がこの熱くなっていた場をひんやりと冷ましていくよう……。春の夜風に、その黒髪が額で僅かに揺れているだけの動き。それ以外は隼人は幽霊をまっすぐに見据えたまま、ナイフでナイフをどっしりと受け止め『義兄と妻』を守った姿がそこに──。

「ミツバチのメンテ員のくせに、やってくれるな」

 アルドがぎりっと歯を軋ませながら、隼人を睨みつける。
 だが、隼人はそこで余裕な笑みをみせつけていた。

「せめてスズメバチと言って欲しい。ホーネットはあんたよりでかく賢いし、あんたみたいに『単純』じゃない。馬鹿にするな」

 三人にことごとく止められるアルドの渾身の刃──。
 今度のアルドはナイフをすっと降ろし、隼人ではなく純一を睨みつけ下がろうとしている気配。
 だがそこでまた思わぬ光景が繰り出された。

「動くな」
「じゅ、純一」

 アルドが引く気配を悟った純一が、ついに黒い拳銃の銃口をアルドのこめかみに突きつけていた。
 今度は隼人も息を呑むような顔をしていた。勿論、葉月も──。

「どうしてだ。何故、皐月に酷い事を──」

 純一はそういうと何かが込み上げてくるのを堪えているかのような声でアルドに言った。

「教えてくれ、先輩。何故なんだ、何がどうなっていたんだ!」

 その声はいつもの頼もしい義兄の声ではなく、哀しみだけを背負っている哀しい義兄の心の叫び。それはまるで『在りし日の青年』に戻ったかのような声。
 葉月にはそう聞こえた。

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