-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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9.空に海。そして敬礼

 青い海、青い空──。
 そして今日も潮風は絶え間なく、吹いている。

 こちらはもう初夏で、テラスにいても入ってくる日射しで肌が汗ばみそう。
 真っ白いワンピースも、もう既に夏物だった。

 懐かしいこのテラス。そこのテーブルには葉月が気に入っていた真っ赤な紅茶が、冷えた状態でグラスに注がれ置かれていた。
 入れてくれたのは夫。その手にはセンスのある夫は、ちょっとお洒落にミントの葉を浮かべてくれている。

「葉月、かけるのか?」
「うん。報告しなくちゃ。だって、彼も長く、長く、私を見守ってくれたのよ」
「そうだな。俺よりもずうっと──」

 夫の隼人は買い込んできた食材を、冷蔵庫に詰め込んでいた。
 テーブルには、本島で生活をしていた間に増えた荷物。そして、隼人が官舎から持ち込んできた荷物。

 また『今日』から、ここで二人で暮らす。
 今度は、本当に『夫妻』として、毎日、ずっと……。

 葉月は子機を手にして、テラスに入る。
 かけたのは国際電話。

「葉月です」

 そう言うと、向こうの電話口に出た女性がすごく驚き、直ぐに彼女の夫に代わってくれた。

「お久しぶり……」
『ああ、大変だったな。達也から聞いていた。ほんっとお前は、休む間もなく俺達を心配させてくれるんだな』
「でも、私──。やっと始められそうよ。貴方にも十年、支えてもらった」

 葉月は彼に言う。

「有難う、康夫」

 彼の声が返ってこない。
 だけれど、その息遣いが耳に熱く届いてくるのを葉月は感じていた。
 あの熱血で真っ直ぐな彼のことだから。葉月の目の前に見えるその空には、今、彼が目を真っ赤にして涙声を堪えてくれている顔が見えている。
 そしてもう一度言う。貴方に出会ったあの日を振り返り、そしてもっと心の奥底から湧き出てくる溢れる気持ちをそのまま口にする。

「有難う、康夫。私、【あの日】に戻れたのよ。全て、貴方達に出会えて、そしてその一人、一人に導かれてきたと思う」

 そして、葉月の目も熱くなる。
 青空に見えている康夫の顔が、滲んできた。

「会いたい。貴方に会って、今の私を見て欲しい」

 まだ彼は黙っている。
 だけれど、鼻をすすった音が聞こえた後、その声がやっと葉月の耳に届く。

『ああ、俺も会いたい。そしてお前にパイロットに復帰した俺を見て欲しい。驚くなよ。ホーネットに乗り換えたんだ』
「ホーネットに!」
『暫く連絡しなかったのは、復帰訓練とその機種に移行する訓練。それから、新しくホーネットのチームを作ったんだ。前のチームのメンバーも何人か俺についてきてくれてさ。それと若い奴を引き抜いて結成した新生フジナミチームだ。お前の新ビーストームとガチンコさせたいぜ。いや、やらせろ!』

 彼から一向に連絡が来なかったのは、彼がその訓練と、新しい目標に没頭していたせいだと、葉月はやっと納得した。
 そして康夫は、葉月に恥じない努力をしていたことも嬉しかった。
 きっと風の噂で葉月のこともいろいろと耳にしていただろう。──『あのじゃじゃ馬め。お前なんかに負けるもんか! 俺だっていつまでも同じ状態で満足なんかしないぞ。お前を驚かすまで、ぜえったいに何をしているか教えるものか!!』──そんな彼の『負けず嫌い』の声が聞こえてきて、葉月はそれが本当に彼らしいと思え、そして、それが長年の『友人』として嬉しく思った。

「やろう! 康夫、ガチンコ!」
『よっしゃ。決まりだな』

 その時の葉月は、いつも彼の前では気兼ねないお転婆嬢ちゃんに戻っていた。
 彼はちょっぴりお兄ちゃんで、だけれど絶対に気を抜けないライバル同期生だった。特に達也とはまた違って、同じパイロットだけにお互いのプライドは譲らず、張り合うならとことん張り合ってきた。

『だったら、あれだな。今、隼人兄とジャンが少しずつ進めているとかいう小笠原合同研修の時に、俺のチームも参加できるようになんとかしてくれよ──大佐嬢』
「えー、こんな時だけ大佐嬢〜?」
『当たり前だろ。お前、こんな時の大佐嬢だろ?』
「なんですって?」
『だから、こんな時『だけ』の……』
「もう、切るから。じゃあね!」
『ああ、じゃあな!』

 いつもの切り口上で、本当に電話を切ってやると葉月は思った。でも切ったら、切ったでまた掛け直そうと……。

『パパ、パパ。とみもぉー』

 受話器を耳から離そうとした葉月の耳元にそんな子供の声──小さな女の子の声が聞こえてきた。

『わかったよ。ほら、向こうにパパと同じ飛行機に乗るお姉ちゃんがいるんだ。は・づ・きって呼んでごらん』

 康夫の……そんな聞いたこともない優しい柔らかい声に、葉月は途端に涙が溢れ出てきた。

「康夫、康夫? その声……貴方の?」
『え、うん……まあ。雪江のメールの話、隼人兄から聞いているんだろう?』
「うん。無事に女の子が生まれたって……」

 あの任務で瀕死の重傷を負った彼。その彼が一番どん底の時に生まれただろう子供。
 葉月も隼人も、その僅かな報告だけを聞いただけに留め、こうして康夫が自らの復帰した姿を現してくれるまでは……と待っていた。
 そしてこの日、初めて。葉月は彼が本当に父親になっていたんだと実感し、その喜びも胸から溢れてきた。

「康夫。おめでとう……」
『お前もな。結婚、おめでとう。相手が隼人兄で、俺は満足だよ。二人を送り出して間違いなかった』
「なにもかも、貴方のお陰よ。ねえ、お嬢ちゃん、なんて言う名前なの?」

 すると彼がちょっと親ばかっぽい浮かれた声で教えてくれた。
 『雪江みたいにでっかい目をしていたんで、瞳』──。『瞳』ちゃん。
 葉月の脳裏に、あのはつらつとしている雪江にそっくりな小さな女の子が目に浮かんだ。

「会いたい……。貴方にも、雪江さんにも、お嬢ちゃんにも」
『葉月』
「今すぐ、会いたい……!」

 沢山の人々に支えられていたことを知らなかった葉月でも、この夫妻だけはどんなに離れていても、葉月の心にずうっと寄り添ってくれていた。
 終わったから。今から始めるから。──見て欲しい。今すぐ会って、電話だけじゃなくて、貴方と彼女の顔を見て目を見て、言いたい。『有難う』って……!
 受話器の向こうで、すすり泣く声が聞こえてきた。それは康夫の声じゃない。女性の声。雪江の声だって分かった。
 受話器を持つ康夫の側で、小さな女の子を抱き上げて一緒に彼女も聞き届けてくれている姿が目に浮かび、葉月はまた涙を流す。

 だけれど、やっぱり康夫は康夫だった。

『お前、俺に会う前に、なにかやならくちゃいけないだろう?』
「え?」
『俺だってあの大墜落から生還してパイロットに復帰したんだから』

 それはつまり、『お前も早くコックピットに戻れ』と言うこと。
 葉月はそこで初めて……言葉に詰まる。
 自分はもう、引退を決意したこと。そしてもしその決意がなかったとしても、もうパイロットには戻れない身体になったことを……。

「や、康夫……あの……ね?」

 自分がもつミラーの新ビーストームと、康夫がキャプテンを務める新チーム。そのガチンコは叶うだろう。だけれど、同じコックピットで同じ空を飛ぶことはもう……。
 それに今になって気が付き、葉月はこの一番精進し合ってきたライバルになんと言えばよいのかと、言葉が出てこなくなる。

『お前、早く復帰しろ。俺がラストフライト、付き合ってやる』
「え……?」
『達也から、それも聞いた。最初、ぶん殴ってでもコックピットに引き戻そうかと思ったけれど。お前の決意の真相、そしてこれからも甲板で大空野郎を擁護するという新しい決意。そして……二度と飛べなくなったことも……。だけれど、俺、お前がこれっきりだと思っていない』

 そして彼が言った。

『待っていたんだ。お前が俺にもう一度飛ぼうと言ってくれる日を。もう一度きりしか飛ばないなら、そのラストフライト俺も一緒に飛ぶ』

 それは葉月には願ってもいない最後だ。
 だけれど、基地も違う。所属も違う。いったいどうやって?
 葉月がそうして戸惑っているのも、受話器の向こうの彼にはお見通しのようだった。

『お前、馬鹿にするなよ。台風はお前だけじゃないんだ。見てろ、こっちから上陸してやるからな! それまでに最後の一回分、獲得しておけよ!!』

 彼はそれだけをいつもの強気で言い飛ばすと、ぷつりと電話を切ってしまった。

「や、康夫? 康夫ったら……??」

 自分がやろうとしたことを、逆にやられてしまった。
 掛け直したのだが、わざとなのか、繋がらない状態に置かれてしまった。

「も、もう……っ!」

 葉月は受話器をテーブルの上に、乱暴に置いた。
 するとキッチンで片付けをしていた隼人が、テラスを覗きに来た。

「あ! なんで俺とも話をさせないで切ってしまうんだよ!!」
「違うわよ。私じゃないもの、康夫が切ったんだもの!」
「まったく。お前達は口をきけば、そんな喧嘩腰で。少しは落ち着けないのかよ!」
「だって……」
「あれ? 繋がらないじゃないか? 話し中になっているぞっ」

 隼人まで舌打ちをしながら、受話器を放り投げてしまった。
 きっと康夫はまた暫く、ライバルから雲隠れだろう。
 でも、その宣戦布告にも似た康夫の声が、葉月の耳の奥で熱くこだましていた。 

 ──台風はお前だけじゃない。こっちから上陸してやるからな!

 どんな台風!?
 そんなこと出来るの?

 葉月は初めて、自分に台風が襲ってくるようで胸がドキドキしてきて、息を荒くしながら胸を押さえた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 かっちりとした詰め襟が、首元をぴっちりと程良く締めると、自然と背筋も伸びるもの──。
 真っ黒いカフスには、金ボタンと金色のライン。肩には黒い肩章に、二本の金ラインと星三つ。
 下から金ボタンを胸まできっちりと留める。

 初めてこの制服を着込んだのは、十八歳。本隊員となりこの小笠原諸島にやってきた時だった。
 初めて見た海は、フロリダの海よりも青く、珊瑚礁は美しく。このような美しい楽園のような離島の上空をこれから飛ぶのだと見上げたあの日。
 なのに葉月の心は、そんな楽園の素晴らしさは認識できても、感動する心も、ここで働くというときめきもなかった。
 ただ、ついにあの戦闘機に毎日乗り込み、行きたかった空へと行くことが出来る。
 ──いつだろう? 私が潰えるのは。
 ……いつだっていい、明日でも、明後日でもいい。
 そう思っていた。
 人が生息することが出来ない空へ、人は何故、行くのだろう? その過酷な空間に切り込み、空の女神から手痛い拒否で突っぱねられる中、胸を息苦しさで押し潰されながら、その時、私は何を得ていたのだろう。
 満足か、それとも恐怖か。それとも……。
 最後に得たのは心の奥底にあった『本心』だった。

 

「さあ、行くぞ。大佐」
「ええ、行くわ。御園中佐」

 

 潮風が吹くマンションの駐車場。
 初夏を迎える小笠原の空は何処までも青く、そして、この丘から見える海もどこまでも青い。

 私の『蒼い場所』。
 私を生かしてくれていた蒼い場所。

 夫で側近である『御園中佐』が、真っ赤な愛車の運転席に乗り込んだ。
 そして葉月は助手席に乗り込む。

「皆が待っている」

 夫はとても嬉しそうだった。
 彼は運転席でハンドルを握りながら、時々、葉月をちらちらと見ては、一人でにまにまとしているのだ。葉月はちょっと気になって頬を染めながら『なあに』と聞いてみる。

「だってさ、お前。やっぱりその格好、すっごく似合っている。あー、『これが俺の奥さんだ!』と思うね」
「そ、そう?」

 それは葉月としてはとても嬉しい言葉だが、隼人がそうして臆面もなく言ってくれる物だから、なんだかこっちが照れてしまい耳まで熱くなってしまった。きっと、今、頬も真っ赤になっていると自分でも分かる程……。

「で、でも……久しぶりに着ると、きついわ。太ったかのかしら?」
「かもなあ。ちょっとふっくらしたってロバートおじさんとアリソンが言っていたもんな」
「あれ、私。結構、ショックだったんだけれど……」
「そうか? アリソンは『ふっくらして幸せそうね。ずうっと綺麗になった』と言っていたじゃないか。ロバートおじさんなんかもう、くしゃくしゃに泣いていたじゃないか。すっごく嬉しそうにさあ。あれ本当に安心した顔していたぞ」
「そ、そうかしら?」

 葉月はふっくらしたと言う頬を片手で押さえて、バックミラーに映る自分を見た。
 確かにあの丘のマンションに帰ってきて再会した管理人夫妻は、葉月が無事に帰ってきたことに安堵の顔を揃えてくれ、本当にいつもはしっかり者の管理人であるロバートの方が妻のアリソンよりぐじゅぐじゅになって泣いてくれたのだ。

「まあ、つい最近まで寝たきりだったんだから。これから少しずつ戻していけばいいだろう? 俺の願いは『無茶するな』。分かったか?」
「はあい、分かりました。旦那様」
「よしよし」

 職場では、妻が上官で夫が側近だろうが、きっと自宅ではこのように立場が逆転することだろう……。
 時に、夫となった隼人が今まで以上に『分かったか?』と、葉月に強く、何処か強制命令のように念を押してくることもしばしば出てくるようになった。だけれど、そこはやはり葉月が弱いあの男の目というか……。何が自分をここまでにしてくれたかというと、やっぱりこの夫のこうした譲らない強さもあったのだと思う。ここまで寄り添ってきてくれたこの夫には、結局、最後の最後は頭が上がらないだろうと思う。それも一生──。

 昨日、本島から帰ってきたばかりで、暫くは横須賀に借り住まいで滞在をするという両親も義兄も『一週間ぐらい慣らしてからにしてはどうだ』と言ったのだが、葉月は待ちきれなくて、翌日に出勤をすると言い張った。いつもの無茶なウサギの早速の発言。だが何故か、隼人は何も言わなかった。そしてその家族に『良し』と言わせたのは、実は夫の隼人。──『俺が一緒ですから、そうさせてあげてください』なんて言ってくれて。でも、やっぱりここで『俺の願いは、無茶はするな』ときっちりと釘をさすところなんて、流石『ウサギのご主人様』と言ったところだろうか?

「無茶しません。暫くは大人しく、今までの穴を埋める為、静かにデスクワークを致します」
「そうだな。甲板は週に一度、監督に来るぐらいにしておいたら良いだろう。周りの皆も、きっと今まで以上のサポートをしてくれる。それはお前の帰りを待っていればこそのサポート。そこは彼等を信じて甘えればいいんだ。今までのように『自分がやらなくては』という大佐嬢ではないだろう? もう、分かっているだろう?」

 『自分一人でやらなくては』──。
 葉月の一人きりの戦い。
 そう、そういう軍人生活だった。

 『もうそんな大佐嬢ではないだろう?』──。
 夫のその言葉を、葉月はしっかりと、胸にとめる。

「そうよ。私、一人じゃない。そして私、一人でやっているんじゃない」
「そう。だから無茶はするな」
「しつこいわね。『はい』って言ったじゃない!」
「もう一度言う。無茶はするな」

 あまりのしつこさに、葉月は素直に和らいでいた心にトゲが刺さったような気分になって、強気な夫に口答え。
 でも、それこそ隼人が今まで以上に『きっちり』と強い姿勢を通す為か、今度は本当に葉月が背筋をひんやりとさせたぐらいの鋭い眼差しを突き刺してくる。そこはやっぱり『密かなる夫の主導権』? そして、葉月はついに……。

「はい、貴方。気をつけます」
「はい、よろしい」

 ついに旦那さんに『手綱』を、しっかり握られた気分。
 じゃじゃ馬ウサギの頭の上で、一人余裕げに微笑み、涼しげな顔で手綱を握っている眼鏡の旦那さん。
 ついに、ウサギはしつけられたのだろうか?
 少なくとも葉月は、急にそんな気分にさせられる。

 でも、きっと……。この夫は、その手綱を窮屈に握りしめてはいないだろう。
 葉月が行く時は、きっとその手綱を笑顔で放してしまうだろう。
 ──『行け! ウサギ』

 飛べ、ウサギ!

 そんな彼の声が、聞こえる。

 心は晴れやかで、基地が近づいてくるほどに、葉月の心も躍り出す。
 十八歳のあの日には、決してなかった基地へのときめきは、自分を生かしてくれていた『世界』があるだけじゃない。
 今、葉月の目には、一人、一人……出会った友人、同僚、先輩、後輩のそれぞれの顔が鮮やかに浮かんでくる。

 この制服を着込んで十年。
 私はまた【この日】から、生まれ変わる。
 今度は思い溢れる熱い心を包み込んだ金ボタンの制服。
 それを自らの強い意志で袖を通し、自ら描く希望を胸に金ボタンを留めた。

 今度こそ、私は自らの意志でここへ行く。
 【この日】──私は、固く固く閉じていた翼を、その背に広げて飛んでみようと思っている。

 胸ポケットには『雷神のワッペン』。
 恩師から受け継いだ空軍人の思いを胸に……。

 そっとその胸ポケットを手のひらで包み込み、葉月はひとり、抑えきれない熱い想いを噛みしめていた。
 すると、丘の家を出て最初の渚がある路肩に、隼人が急に車を停めてしまった。

「どうしたの?」
「うん。やりたいことがあって」

 ステアリングを握りしめたまま、隼人は静かにサイドブレーキを引いた。
 そして眼鏡をかけている顔で、そっと葉月に微笑んでくる。

「付き合ってくれるか?」

 葉月は『なにを?』と首を傾げはしたが、それでも彼が何かをやりたいならと直ぐに頷いた。

 隼人はそのまま運転席を降り、直ぐ側の砂浜へと行ってしまう。
 葉月はまだ片方だけ杖をついてはいるけれど、もう殆ど自分で歩ける。そのまま葉月も車を降りて彼の背を追った。
 隼人は葉月のことなど構わずに、砂浜を歩き、この渚の波打ち際まで行き、そこで立ち止まった。

「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」

 胸への痛みもだいぶ和らいできて、脇に腕に胸に力を入れても、もう大丈夫。
 葉月は支えを必要としていないと判断している夫に応えるように、自分の力で波打ち際まで向かう。

 春の海。だけれど小笠原の海はもうすぐ夏。
 その初夏の透き通る青い水が煌めいている渚。その波打ち際で同じ制服姿で清々しく微笑んでいる夫。
 そこに辿り着くと、やっと隼人が肩を抱いてくれた。

「今日は葉月の新しい日だ」
「そうね……」

 ただ、それだけでこの青い渚に降りてきたのかと、葉月はちょっと腑に落ちないが、それでも葉月の熱く震える秘めた想いを感じ取ってくれていたのかと妻として嬉しく思う。
 だが、やはりそれだけじゃなかったようだ。隼人はその穏やかな微笑みを絶やさない顔で、今度は彼も胸ポケットに何かを忍ばせていたのかそれを取り出した。

 彼の手のひらに、花柄のハンカチ。
 そのハンカチは少し薄汚れ、そして切れていた。
 それを隼人が手のひらの上で広げる。

「あ、それ……」
「そう。俺達を助けてくれた恩人」

 夫の手のひら、そこで潮風に揺れる花柄のハンカチ。
 そして、その上で小笠原の青空から降り注ぐ光にキラキラと光るガラスのカケラ。
 キラキラと光っているけれど、それは……『粉々になった欠片』。
 ──天使の成れの果てだった。

 葉月はちょっと哀しく眼差しを伏せてしまった。
 あの幽霊との戦いが終わった後、隼人がこの粉々になった奇跡の立て役者を見せてくれた。
 葉月はショックでその瞬間泣いてしまいたくなったが、隼人は……笑っていた。
 『これが、俺を守ってくれ、幽霊を思わぬ方向に行かせてくれたお手柄さん』。
 そして隼人はそれを大事にハンカチに包み直すと、葉月に言った。『泣いちゃいけない。お前がこの子はいるかも知れないから持っていろと言ったんだ。もし本当にいるなら、この子がこれを望んだのだと俺は思う』──。その言葉に葉月は、ついに泣いていた。何度、この子は行ってしまうのだろうか? だが、隼人はさらに言う。『やっぱり、こうして引き留めておくのは良くないことだったのかもと思わされた。物に魂を宿しちゃいけない』──。そして、やっぱりそこにはいないのだと。
 でも、葉月は意識を戻した時から、どうしてもどうしても! この子が強く強く心に住んでいた。どうしてかわからない。気が付いた時から徐々に、この子が強くそこにいたから、隼人に小笠原から連れてきてもらった。そしてこんな時だから、私は生還という奇跡を果たしたから、今度はパパに何かあった時に……。それがこんな形で現れたことにも葉月は『気のせいなんかじゃなかった』と思った。
 でも……この子は、こんな姿になってしまった。せっかく葉月が見つけた子だったのに。一緒に住んで、一緒に生まれたと思っていたのに。

「葉月。さよならをするんだ」
「どうして!?」
「この子にも行きたいところに行かせてあげるんだ」
「どうして? だって、私達の……!」
「もう、いないよ」

 隼人の眼差しは冷酷なくらい、落ち着いていた。
 そして割り切っている黒い瞳。
 だけれど、その奥は熱く潤んでいた。
 それは隼人にだって、本当は辛いことなんだと……。夫のその目を見て、葉月も思う。

 そして隼人は、そんな目を見ていた葉月の顔で『分かってくれた』と判断したのか、そのまま波打ち際に座り込み、そうっと青い水にそのハンカチを近づけた。

「さあ、行きたいところに行きな」

 彼の手の中に、青い水がすうっと入り込んできて、それに吸い込まれたガラス達は光を反射させてキラキラと煌めき始める。

「また、おいで。でも、俺達のところは駄目だと思ったら、行けるところに行くんだ」

 それは……。
 この妻が、子供を産めないかもしれない身体だから……。
 きっとそう言うことなのだろう。
 ふとすれば、葉月にとっては残酷で辛い傷つく言葉かもしれなかった。
 だけれど、今の葉月には辛くはない。

 葉月も、隼人の隣に肩を寄せて座り込む。そして隼人が水の中に入れているその手に、葉月も同じように手を添えた。
 重なり合うその手と手から、ガラスの欠片は躊躇う様子もない稚魚のように、青い水の中へと吸い込まれて行ってしまった。

 二人は揃って呟いた。

 ──『また、おいで』。

 駄目だったら、行けるところに行ってお前も飛ぶんだよ。
 隼人だけがそう言っていた。

 でも心の奥で、葉月だけでも呟く。

 ──『待っているから』!

 本当にいるなら、海に帰ったこの子はまた飛んでくる。
 そう信じていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 隼人と二人、ついに四中隊の本部前に『戻ってきた』。

「退院が決まってから、達也が猛スピードで準備をしてくれていたから、きっと直ぐに隊長業務が出来ると思うよ」
「本当? なんだか、また私の我が儘を通しちゃったみたいね」
「今更──。そういうしおらしいことを言うなら、もっと昔から言ってくれって感じだな。もう、みーんなお前の我が儘なんか慣れっこだよ。朝飯前、じゃじゃ馬台風専門職。なんでもござれだ」
「なんだか朝から意地悪ね。なんなの!?」

 葉月が怒ると、隼人はただ笑う。
 まったく。手綱を握ったからって、緩めたり引っ張ってみたり、それに渚で変に泣かせてくれたりして……。
 葉月がむっすりと拗ねても『してやったり』の顔をして楽しんでいるようだ。まったくこの『お兄さん旦那』、今に見ていなさい。また度肝を抜くほどに慌てさせてやるんだからと、意気込んでいても、隼人は『それだけ元気なら、ほんと、安心、安心』なんて笑っているのが、またより一層腹立たしい。

 あんなに優しく、甘く、労ってくれていたのに。
 あーあ、もう、元の意地悪なお兄さん補佐と、じゃじゃ馬大佐嬢の日常に戻ってしまったんだわと、葉月はちょっと惜しい気持ちになってくる。

 そんなことをそっぽを向いて、ぶつぶつと呟いていると、事務所に入ろうと前にいた隼人の背にゴンと葉月はぶつかる。

「なあに? 早く行ってよ」

 腹立たしさ紛れに、もたついている夫に思いっきり文句を言い……。だが、ふとその夫の顔を見上げると、彼は何故か事務所を眺めて呆然としてる顔。
 どうしたのかと葉月は、隼人の背から本部事務所を覗いてみると──。

「お帰りなさいませ。御園大佐、御園中佐」

 そこには敬礼をしている達也が立っていた。
 それだけじゃない。

「待ちくたびれましたよ。大佐嬢。お帰りなさい!!」

 達也の後ろには、いつもの席、大佐室の前を守ってくれているジョイが敬礼をしていた。

「御園大佐と御園中佐の、本部帰還に……」

 次にはジョイの後ろにいる山中が、いきなり『敬礼!』とあの豪快な号令を叫んだのだ。
 その時、葉月の耳に、静かだが大きく空を切る沢山の音がざあっと耳へと襲ってきた。

 そこには、その本部には『本部員全員』が既に、勤務時間前だというのに揃っていたのだ。
 皆、自分の席にいて、そこから隼人と葉月が入ってきた事務所の入り口に、帰ってきたこの中隊長大佐とその側近中佐に向かって一斉に敬礼をしてくれていた。

「お帰りなさい! 大佐嬢!」
「待っていましたよ、大佐、中佐!」

 そこにはテッドと小夜が並んだ席のまま、笑顔でそして小夜は涙を見せてくれていた。

「お帰りなさい、大佐!」
「お帰りなさい──!」

「休みすぎですよ、大佐!!」

 あちこちから聞こえてくる声。
 その中で、あのデビー=ワグナー少佐がいつもの大佐嬢同級生のノリで叫ぶと、本部中から彼のいつもの軽いノリに乗せられて笑い出す声。
 片隅では洋子がハンカチを握りしめて、泣いている姿も。そしてそこにはもう一人。

「い、泉美さん──」

 マタニティドレスの上から、肩章が付いている軍制服の上着を羽織った姿で微笑みかけてくれている。
 もうすっかり大きなお腹で、臨月と言ったところのようだった。
 葉月は達也の顔を見たけれど、彼に聞かずとも分かった。泉美がそれを強く望んだのだと、そんな顔をしている。

「大佐、朝礼をしてくださいよ」
「私達、海野中佐に言われてすっごく早く出てきて大佐の出勤を待っていたんです。だから、待ちくたびれているのですよ!」

 空軍管理班から、クリストファーとテリーの声も。
 葉月は二人の後輩に、この思わぬ光景の真相を教えられて、達也を見た。

 久しぶりに見る達也が、ちょっと照れくさそうに黒髪をかきながら呟いた。

「康夫から言われなかったか? 『台風はお前だけじゃない』ってね。俺達、これからは先に台風を上陸させて大佐嬢を慌てさせるんだ。どうだ、これで!」

 『参ったか!』と、達也がいつものふざけた顔で葉月に向かって舌を出す。
 台風……。今までは自分が台風だ、台風だって言われてきたけれど。こんなふうにして驚かせてきたのだろうか? そう思うほどに、葉月の胸はもう、思わぬ台風に見舞われてどうにもならない感情が溢れ出ていた。

 もうちょっとで、涙が出そうだったが、葉月は達也のとぼけた顔を目にしてグッと堪えた。
 横で隼人がどうするのかと葉月を冷ややかに観察しているその落ち着いている顔にもちょっと腹立たしくなってきた。
 この『側近共』に、『参った』だとか『嬉しくて泣いちゃったわ』なんて言うものか。『御園大佐嬢』は、いつだって変わらない。どんなに【あの日】に戻っても、【この日】から始まっても、やっぱり私は『貴方達が良く知っている大佐嬢』でなくてはならない!

「海野、なにふざけた顔しているの。朝礼、始めるからさっさといつも通りに集めてよ」

 葉月はツンとした横顔を見せ、何事もなかったかのように事務所に入った。
 数ヶ月ぶり。あの空母艦から帰ってきた時に達也に愛の旅へと送り出してもらって以来。業務的に言えば、空母艦に乗り込むために留守にして以来。そうなると半年ぶりになるのだろうか?
 なのに葉月はその感慨深さを味わう間もなく、いつも通りに見慣れている事務室に踏み入れた。肩越しに振り返ると、夫の隼人はちょっと笑いを堪えている。目の前の達也は勿論、変わらぬ葉月の素っ気なさに、今にも吠えそうな顔をしている。だけれど、笑いを堪えているのは隼人だけじゃなかった。

「あはは! やっぱりお嬢だね」

 ついにお腹を抱えて笑い出したジョイ。
 かしこまった格好をやめて笑い出したジョイは、やっぱり彼もいつもの無邪気な弟分の顔をしていた。
 これがまだ人がいないなら、『やっと会えたね。留守ばかり任せてしまってごめんね』と、幼馴染みのまま抱き合いたいところ。ジョイとは、いまだって、いつだって、小さな女の子と男の子のままに戻れる……そんな葉月にとっては唯一素直になれた大人のしがらみのない純粋な関係だったと思う、大事な人のひとり。

「ほらな、ぜえったいに達也がやられると思ったんだ」

 そして山中も達也を指さして笑っていた。
 このお兄さんは、いつだってどんな葉月だって、誰よりも『お嬢は大丈夫』と『お嬢を信じるよ』と、見捨てずにずっと一緒についてきてくれた同僚。
 時には彼の男気に救われ、時には葉月の影でその存在が重くならないようにひっそりと息を潜めて側にいてくれた。誰よりも葉月を大佐嬢として信じてついてきてくれた補佐だった。

 そして彼等だけじゃない。
 久しぶりに帰ってきた大佐嬢が、この総勢で出迎えた光景もなんのその、感動も見せずにいつもの冷たい横顔で『なにやってんの』と素っ気なく突き返しても、誰もがそれを笑って迎えてくれている。

「やっぱりね。俺も大佐は泣かないし笑わないと思った」
「海野中佐の負けですね」

 そこでテッドと小夜も笑っている。

「……そっか。なあんだ、つまんねーの! じゃあ、さっさと朝礼、やっちまうか」

 そして達也もけろっと諦めた顔。

 そこには、ちっとも変わっていないものがある。
 そしてこの葉月を待っていたと、それがやっぱり大佐だと言って、迎え入れてくる『私の部下、仲間達』。

 本当は、もう。先ほど堪えた以上に堪えられないものが葉月の胸を襲ってきていた。
 ここで熱くなったまま泣いて、泣き崩れてしまいたい。それだけの嬉しさが襲ってきている。
 だけれど、今度は『仲間』の方が、上手。彼等は『無駄なサプライズはこれでお終い』と笑いながら、さっさといつもの朝礼をする窓際へと移動していく。
 ジョイがいつもの小さな木箱を手にして、そして達也と山中はプリントを手にして。そして部員達はいつもの通りに整列を始める。

「ほら、意地を張ったなら、最後まで突き通せ」

 隼人に背を押される。
 もう泣きそうな顔、彼は知っているようで、意地を張った妻の顔を致し方ない顔で笑っている。
 だけれど、それでもやっぱり『大佐嬢らしい』と言う微笑み。
 その手に押され、葉月は杖をつきながら心を改め、朝礼へと向かう。

 既に、規律正しく整列した部員達。
 いつものように先頭は総合管理班。班長でもあるテッドと柏木が並び、そして小夜も並んでいる。
 その隣には空軍管理班。葉月と一緒に空班を支えてきてくれたクリストファーに定岡、すっかり落ち着いた隊員に成長した新人隊員だった木田、そしてテリーが。その後ろには、経理班。背が高い洋子に、その隣には大きなお腹を抱えながらも濡れた瞳で葉月に微笑みかけてくれる泉美が並んでいた。

「さあ、大佐嬢。どうぞ!」

 そして中佐、大佐の私達。

 その木箱をジョイに勧められる。その向こうには山中も。

「先ずは、帰還の挨拶を大佐嬢」

 葉月の側には、隊長代理を命じた達也が。
 そして──物言わずに、ただその全体を眺めている静かな夫、御園中佐がいた。

 葉月の目の前には、毎日、上っていた小さな正方形の木箱。
 女性の葉月が誰をも見渡せるようにと、山中が切れ端の板をどこからか見つけてきて、丁寧に作ってくれた物。もう、何年もこれに上がって、この一隊を守る本部をまとめてきた。

 杖をつきながら、葉月はその木箱の上に片足を乗せようとしたのだが……。
 そのままその足は元の床に戻した。

「大佐?」

 ジョイが首を傾げたのだが、葉月は首を振って上がるのをやめる。
 そして杖を取り去り、それを有無も言わせずに達也に差し出した。彼はちょっと困惑しながらも、葉月が黙って差し出す杖を受け取ってくれる。

 そして葉月はそのままの高さから、目の前に並ぶ隊員達を見渡した。

「皆様、長い間、ご迷惑をおかけしました」

 葉月はそのまま静かに頭を下げた。
 すると、目の端に夫の隼人も一緒に頭を下げてくれるのが映って、葉月は気持ちを揃えていくれている隼人のその心に泣きたくなってきた。
 だが、まだ泣いてはいけない。葉月は歯を食いしばり、再び顔をあげる。

「……もう、だいたいのところはご存じだと思います。十二月に、皆様のご好意に甘え、『澤村中佐』と一緒に休暇を頂きました。その休暇の間、私は……一人の男に襲われ重傷を負いました」

 葉月が木箱の横で話し出した内容に、誰もが息を止めたかのようにシンとしてしまっていた。

「その男は、私にとってはとても縁の深い男でした。私には十歳の時からつきまとっていた『問題』があり、その男が一番の『問題』だったのです。その男と、再び巡り会い、あのようなことになってしまいました」

 その葉月の告白に、隊員達に衝撃が走ったのが葉月には分かった。
 そして隣にいる達也も、そしてジョイも、山中も。彼等はそれは良く知っているだろうけれど、御園の家の表沙汰にしたくない事情だから、そして何よりも葉月が触れて欲しくない過去だからと黙り通してくれていたこと。それをついに葉月から口にしている。この大勢の部下の前でだ。
 だが、隼人だけはただ静かにまっすぐ、葉月と同じように隊員達に向かってくれている。その夫の姿に葉月は心を強くして前を向く。

「ですが、いろいろありましたが、なんとかなりまして、先日、その男は逮捕されました」

 さらに隊員達の驚きの顔。
 ここまではまだ達也にその妻の泉美、そしてジョイ、山中ぐらいしか知らないだろうから……。

「私に何があったのか、今までは誰にも言いたくはないことでした。そしてこれからも、私はそれを軽くは口には出来ないと思います。そして敢えて自分から言うことでもないと思っています。ですけれど、今は、もう『隠すこともない』と思っています。もし、私をもっと知りたいと尋ねてくる人がいれば、私は軽く言えないことではありますが、そんな自分を自分であると素直に、自分を認めるようにして貴方達に伝えることが出来るのではないかと思っています」

 葉月はそれを、目の前の隊員達に笑顔で伝えていた。
 中にはそれがどういうことであるのかと戸惑っている者もいたし、葉月の側近くにいた後輩達は、何かを察してくれたかのような哀しい顔をしている者もいた。
 そんな彼等に、葉月はさらに向かう。

「……確かに、私にはそんなことがありました。だけれど、私、もう【あの日】は忘れられなくても、【あの日】とは少しでも決別が出来そうな気がしています」

 きっと、事情を知らぬ者は、【あの日】がどんな日であるか知らないから、葉月が何を言いたいのか訳が分からないだろう。
 それでもいいのだ。ただ葉月は、今までは何かに囚われていたことだけを彼等に知ってもらい、そしてこれからどうするかを伝えたいだけ。

 そして、葉月はついに……。足下にある木箱に片足を乗せた。
 杖無しでは、まだ踏みしめれば胸に痛みが走るけれど、葉月は食いしばってその小さな木箱の上についに立つ。
 そこから、葉月は隊員達の顔を見渡した。

「私は、一度、死んだのだと思って。でも、生まれ変わった私もまた【ここ】にやってきました。私はもう一度、貴方達と共にここでやっていきたいと強く思っています」

 葉月はその上った木箱から、端から端まで彼等を見渡した。
 両隣にいる補佐に側近にもその顔を葉月は見せる。

「戻ってきたのは、貴方達にもう一度、会いたかったから。また一緒に生きていきたかったから」

 ──これは、貴方達へ。

 葉月は、そう呟きながら、一人静かに『敬礼』をした。
 それはここにいる私を待ってくれていた人達への、そして私が会いたかった人達への、葉月なりの『敬意』と『感謝』。

 それを見届けてくれた隊員達。
 青年達の中には既に目を潤ませてくれた者も、神妙に聞き入ってくれている者も、女性陣からはすすり泣く声も聞こえてきた。
 だけれど、遠くから一人、近くからも一人、そうして一人二人と、号令無しの敬礼を葉月に向けてくれる者があちこちから見えてくる。
 ふと気がつけば、山中の号令無しで、一人残らず葉月に敬礼をしてくれている。両隣の補佐も、側近である達也に隼人も……。

 葉月はついに微笑む。

「山中中佐、改めて、号令を!」

 窓の向こうに見える空高く、そして向こうに見える水平線の彼方に、葉月は懐かしい大佐嬢としての声で叫んでいた。

「全員、敬礼──!」

 山中の号令で、再び全隊員が腕を伸ばし、再度の敬礼を木箱の上にいる大佐嬢に向けてくる。

 そして、木箱の上の大佐嬢も。

「敬礼──!」

 ここの空と海は、私を生かしてくれていた場所。
 そして私を生かしてくれていた人々。
 そして、これからも、私はここで生きていく。

 その空にも海にも、葉月は敬礼をする。

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