-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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12.小さな羽音

 その日、葉月は黒い服を着ていた。
 フォーマルなのだが、結婚式ではない。だから、なにも飾り気がない。それでいい。喪服同様に着込んでいるのだから。

 今、葉月がいるのは横須賀にあるマンションの一室。
 そこのリビングのソファーで、海が見渡せる上階の景色をふうっと溜息をつきながら眺めていた。

「ただいま。葉月、買ってきたぞ〜」

 ちょっと気の抜けた声で、葉月に声を掛けたのは父親の亮介だった。
 父も白いワイシャツに黒いスラックス姿。同じような喪服の格好で共に出かける予定。

「これか? お前が言っていた『野菜ジュース』は」
「うん、これこれ。ありがとう、パパ」
「本当に、コンビニエンスストアが多いね〜。便利と言えば、便利だが。日本もだいぶ変わったなあ」

 父・亮介が、小さなレジ袋から缶の野菜ジュースを娘に差し出す。
 葉月はそれを受け取って、早速、そのソファーで海をみながら栓を開けた。

 ここは両親が日本滞在のために購入したマンション。
 葉月が退院してすぐに、両親はこちらに移った。
 そして……。残念なことに、父と母は自分達の申し出通りに、正式に軍隊を退いた。最後までロイの父親であるジェームス=フランクフロリダ本部大将が引き留めたにもかかわらず、両親の『これが人生最大の使命』との揺るがぬ覚悟に、ロイの父も涙を呑んで受理したとのことだった。
 右京に続いて、両親も……。軍隊では既に御園家の十八年前の悲劇が噂になり始めているが、右京がそして御園家最高のポジションにいた当主の亮介が退いたことで、少しはその悪き余波は避けられたようだった。
 そして両親は、フロリダの家も引き払うつもりでいるらしいが、そこはどんなに辛いことがあっても、長年暮らしていた家。辛い思い出ばかりじゃない。幸せな思い出も詰まっていることだろう。だから、まだ引き払う決意が出来ないまま。一度フロリダへと必要な物だけを取りに帰って、それ以来はこの横須賀のマンションで過ごしている。
 だいたいは、警察などに関わる毎日を過ごしている。
 両親の『最大の使命』とは、亡くなった娘のために、我が家の忌まわしい出来事を最後まで見届けることだった。

 そして父が退官した後、この半年でフロリダにも大きな変化があった。
 それはあのマリアの父親『ブラウン少将』が、なんと先輩亮介の後を引き継いで、ついに『中将』に昇格。
 亮介が残したジャッジ中佐秘書室は、そのままブラウン中将付きの秘書室として、新しい中将を支える毎日を送ることになったらしい。
 そこであのマイクが落胆するのではないかと、葉月は心配していたのだが、結構、そうでもないらしい? 父曰く『マリアの親父さんの秘書官だ。それはもう力も入るし、新たなやり甲斐なのではないかねえ〜』なんて、なんだか意味深な言葉で大笑い。葉月もハッと気が付いて、急にそんなマイクを覗きに行きたくなったぐらいだった。
 それでもマイクは──『俺はいつまでも御園の一員』──と、言ってくれているらしい。フロリダの家は、今はマイクと家政婦だったベッキーが守ってくれているようだ。

 そんなことを思いながら、『それにしてもマンションを買うのに、こんな上階フロアを買い占めるかしら?』と、葉月は顔をしかめつつ、近頃お気に入りの野菜ジュースを味わっていた。
 このフロアには、広い間取りの部屋が幾つもある号室が二戸だけ。一つは両親で……。

 そこで、この家の玄関チャイムが鳴った。
 亮介がカメラ付のインターホンに出ると『おお、支度できたか?』と随分と警戒ない声で玄関へと向かっていった。
 玄関の閉まる音、そして廊下から父の賑やかな声が聞こえてきた。誰かと一緒のようだ。

「お隣さんが来たぞ!」

 リビングの入り口に、こちらも黒いスーツと黒いネクタイを揃えた格好でいる男性が二人。

「葉月ちゃん! 何時来たの?」
「しんちゃん。今朝、一番に来たの」

 一人は立派な青年に成長した身体で、スーツを着こなしている真一。
 だけれど、葉月の顔を見れば、それまでのような無邪気な男の子の顔で笑ってくれる。

「げ。俺が嫌いな野菜ジュースっ。よく、そんなもの飲んでいるね? 葉月ちゃん、それ好きだった? いつもオレンジジュースとか、俺と一緒で甘いの大好きじゃん!」
「うーん。そうなのよね。歳かな?」
「えー? まだ若いじゃん」
「でも、二十九歳になったし。来年、ついに大台だもの」
「そんなん、葉月ちゃんには関係ないよ! 葉月ちゃんはずうっと綺麗なんだから!」

 子供の頃から変わらぬ甥っ子のそんな言葉。今までなら可愛い僕ちゃんの言葉として『ありがとう』と葉月も笑って受け止めていたのだが、同じ褒め言葉でも、こんなに立派な青年になった甥っ子から言われると、まるで『男性』に言われたみたいで、葉月はつい……頬を染めてしまった。

「そうか。チビが大台に乗るのか。それは盛大に祝ってやろうかね」

 そして葉月と真一のいつものじゃれ合いに割って入ってくる意地悪な声。
 そこには成長した青年と並んでも、とても重厚感漂う黒いスーツが板に付いている男性が一人。
 毎度の意地悪なご挨拶に、葉月は飲み干した缶をテーブルに『こんっ』と強く打ち付けるように置いて、彼を睨んだ。

「なによ、兄様こそ。四十歳を越えたのよね。二回目の成人式やったのかしら?」

 負けじと葉月も返してみたのだが、純一は怒るどころか、かーるく流すかのように『あはは』と楽しそうに笑っただけだった。

 そう──。このフロア二戸。御園当主家と義理兄家が揃ってこのフロア二戸を買い占めたのだ。
 お隣同志で連携して、毎日を暮らしている。
 真一は春についに訓練校を中退。いろいろと同級生との間でも騒ぎになったようだが、皆、快く送り出してくれたとか。それでも真一も大佐嬢の家族という名目で、横須賀基地の定期便を使って小笠原に遊びにやってくる。その時に親友だったエリックとは欠かさずに会うようだ。そして今は、父親の純一と共にここで暮らしながら、横浜の予備校に通って大学受験に備えている。
 そして父親の純一は、そんな息子との初めての生活をしながら、今までの拠点だったイタリアに出向いたり、フランスへ出かけたり、フロリダへ行ったり……。相変わらずに世界を駆けめぐるフットワークで仕事はしているようだが、必ずここに帰ってくるとか。それでも純一がここに帰ってくるのは、真一が独り立ちするまで共にいるだけなのか、瀬川との法的な決着がつくまで離れられないだけなのか。そこは誰も──両親も、義兄と親しく連絡を取っている様子の義弟の隼人も、そして義妹の葉月も、息子の真一すら──誰も、どういうつもりでいるのか知らないのだった。
 そんなところ、相変わらず、純一らしいと葉月は思う。いつだったか隼人が『兄さんも日本でこれから一緒に』と誘ったところ、『今はなにも考えていない』と言ったらしい。それっきり、またもや義兄は自分だけの胸に納めて、誰にも言わないのだから。葉月は深い溜息しか出ない。
 また旅立つなら、旅立つ。そして家族と共にいるなら共にいる。はっきりしてくれたらいいのに……。
 そんな葉月の本心の中には、やっぱり義兄と直ぐに会えるような環境になりたいというのがあるのだと。未だにつくづく痛感してしまうのだ。
 また……イタリアが拠点だと、海外暮らしに戻ったら。もう、たまにしか会えなくなることだろう。
 でも……と、葉月は目を伏せる。もしかすると、自分はやっぱりそろそろこの義兄から卒業するべきなのかもしれないと。
 また何年も会えない仲になって、たまに家族として会って『お元気』と言うだけの。そんな取り交わしだけが残されて……。
 葉月のそんな本心を知って、隼人が純一を日本に留めようとしているのかとも思ってしまう。実際は、隼人も別れがたい存在になっているとは思うのだが。

(はー。はっきりしてよね)

 相変わらずの義兄の訳の分からない態度に、葉月は胸がムカムカしてきて口元にハンカチを当てた。
 すると今度は、奥の部屋からも……。

「すみません、お母さん。取れていたボタンぐらい、俺、自分でつけられたんですけれど」
「いいのよ、隼人君。これで大丈夫ね」

 今度は隼人と母・登貴子だった。

 隼人も喪の服を……。しかしこちらは、軍制服の黒い詰め襟制服だった。
 隼人がスーツカバーに用意していたのだが、こちらに着いて開けてみると、袖口の黒いボタンが取れかかっていた。それを登貴子が見つけて、母の小部屋でつけ直していたのだ。それを終えて出てきたようだ。

 こうして皆が『黒い喪服』を着ているのは、訳がある。
 今日は九月に入ったところ。
 そう、瀬川が姉・皐月の墓前に出向く準備が整い、今日、それを家族で見届けに行く日だった。

 葉月は今日は『軍人』としてではなく『妹』として行きたいから、制服ではなく、フォーマルスーツを選んだ。

「そうだ。葉月、これ、飲んだか?」

 軍喪服にきりっと着替え終わった夫が、葉月にあるものを差し出してきた。
 それはあの野菜ジュース。この残暑のせいなのか? 葉月は先月からその暑さをしのぐように急に野菜ジュースを好むようになったのだ。
 一人で買い物に行った時に何本も缶で買い占め、冷蔵庫にずらっと並んでいるのを見た隼人も最初は不思議がっていたが、健康には良いだろうと言うように。今となっては葉月が一日に、二、三本飲み干すのは当たり前になっている。だから今朝の分も、ちゃんと冷蔵庫から持ってきてくれたようだ。

 でも、残念。時既に遅し。
 葉月は朝の一本を飲み終えたところ。
 テーブルに置いた空の缶を手にして、振りながら隼人に見せた。

「持ってきてくれたの? でも、パパに買ってきてもらっちゃった」
「あー、遅かったか。すみません、お父さん。この上階から下までコンビニに行くのは大変でしょう? 俺がもっと早く彼女に渡していれば……」

 隼人のいつものきめ細かい気遣いに、父の亮介は改めて驚いた顔を見せ、でも直ぐにいつもの陽気さで笑い飛ばした。

「いいんだよ、いいんだよ。それにもう慣れっこだし。私だって一日に何度も通っているからね!」

 だが、夫の隼人は両親の前でも手厳しい。

「まったくお前も。それぐらいなら、ちゃんと自分で買いに行けよ。お父さんに行かせたりして……」
「だって……。パパが行ってくれるって言うから……」
「あー。二人ともいいんだよ、いいんだよ。パパがやりたかったんだから! あ、そうそう。スポーツ新聞を買いに行くついでだったんだよ〜。元々、行くつもりだったからね。だから〜」

 父が途端に、二人の間を取り繕う。
 夫婦喧嘩にならないようにと慌てているようだ。
 葉月と隼人は、ちょっと目を見合わせて、そんな父の気遣いに微笑みあってしまった。

「さあ、出かけるか」

 義兄の純一が腕時計をみて、皆の顔を見た。
 純一の運転、そして隼人の運転で二台に別れて行く。
 父の亮介も、緩めていたネクタイをきゅっと締め……そして、婿や娘、孫が出ていこうとするリビングのドアに共に出ようとして、そこから部屋へと振り返った。

 そこには一人。いつもの格好の母が立っている。

「気をつけて行ってらっしゃい」

 母の表情のない固い顔。
 父が寂しそうな目で妻を見る。

「本当に、いかないのか? それでいいのだね? 登貴子」
「ええ、亮介さん。私にとってはあの男が死んだ娘に頭を下げようが下げまいが同じことなの。むしろ、頭を下げるだなんて今更。腹立たしいにもほどがあるわ」

 そう言いきった母の、憎しみに燃える目。
 葉月は隼人と純一と顔を見合わせ、そして父と同じように哀しく目を伏せる。

 母は瀬川が墓前に行くという話を聞いても、『ついにこの時が来た』とは思わなかったようだ。
 今言ったように、そんなこと今更で、あってもなくても同じこと。登貴子の中ではなんら変わりのないどうでも良いことなのだそうだ。
 だが、母は葉月に言った。

『葉月ちゃんの好きにしなさい。ママも好きにしたいことがこれなの。どっちも間違っていないことだと思うわ。貴女の、葉月の納得が出来ることをしなさい。貴女が選んだこと。ママとは違っても、ママは応援するからね』

 そんな母とは共に行けないけれど、葉月が望んだのは『これ』だった。
 そして母の気持ちも重々分かっている。葉月だってこの道を選ばねば、母と同じ気持ちだった。今だってそう。母が言うように、今更に頭を下げられても、葉月の中では『一生、許さない』のだから。

『いい? 一番傷つき苦しんだのは、葉月なのよ。好きなようにしなさい。行ってらっしゃい』

 そう言ってくれた母。
 そしてそれは母だけじゃなかった。
 鎌倉の右京も同じく──『俺は行かない』と、言い切っていた。
 右京にとって、葉月に届いた手紙で知るのではなく、幼馴染みの純一から知るのでもなく、幽霊という男が世間に自分のしたことを口にした時、真実を明かした時、それが右京が欲している瞬間。
 ──皆、それぞれ。その思っている瞬間がある。

 そして、葉月はこれを選んだ。そして母は行かないことを選んだ。それぞれの瞬間を迎えるための分かれ道。
 だから葉月は今から、鎌倉の外人墓地に向かう。

 そうして隼人に肩を抱かれながら、肩越しに母へともう一度、振り返った時だった。
 父がただそこに立ちつくすようにして、母と見つめ合っている。
 まるで二人だけにしか分からない無言の会話をしているようだった。
 そしてそれが、老年を迎える姿の両親ではなく……。なにか若き頃のままの熱い想いを交わし合っているかのように、二人がとても若く見え、葉月は目をこすりたくなった。そう、葉月が幼い頃の、ハンサムなパパと清楚で愛らしいママの姿がそこにぼうっと浮かんだぐらい。それぐらいの高まる気持ちを交わし合っているかのような目線、視線、眼差し。

「パパ?」

 葉月が亮介に声を掛けると、彼はハッとしたように我に返った。
 そして娘の葉月に、ちょっと申し訳なさそうな目を向けたかと思うと、亮介はそのまま登貴子の元へと歩み寄っていく。
 父が、婿や孫、そして娘の葉月の方へ向きながら、母・登貴子をその大きな胸に抱きしめた。

「お前達だけで行きなさい。私は、登貴子と一緒に。共にいるよ」

 亮介のその言葉に、葉月達以上に、抱きしめられた登貴子が驚いて亮介を見上げた。

「駄目よ。貴方は行った方がいいわ!」
「いいや、登貴子。お前と共にでないと、やはり意味などないよ。ただ、葉月が心配だっただけで──」

 その両親の夫妻としての姿を見せられた気がした葉月。だから……。

「パパ、ママ。私、大丈夫よ」

 葉月は両親に、凛とした声で伝える。
 もう、自分だけで行ける。そしてこれが自分が望んだことなのだから──。

「お父さん、お母さん。俺も彼女と共にいますから」
「そうだ。伯父貴、登貴子おばさん……。俺もいる」
「俺もね!」

 葉月の家族。隼人に純一、そして真一も、自分達だけで見届けられると両親に強く言いきった。

「では、頼んだよ」
「行ってらっしゃい。葉月」

 ──『貴女の思うままに、見届けてきなさい』。

 母の声に、背を押されるようにして葉月は前を向いて歩き出す。

 

 江ノ島の見えるあの外人墓地へ、夫と義兄と甥っ子と向かう。
 葉月の手には、真っ赤な花。
 それは退官後、急に植物を育てるようになった右京が咲かせた花。
 昨夜、葉月と隼人に渡して欲しいと、このマンションに届けに来たそうだ。
 義兄の純一は息子と共に、真っ赤なチューリップの花束を手にして──。

 真っ赤な花を家族で手にして、姉に会いに行く──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 この小高い丘にある教会。
 そして、そのもっと上へと行く階段の向こうにある墓地。

 青い空と鎌倉の海が見渡せる墓地。
 そこに来ると、いつも強めの潮風が吹いている。

 亮介が留守番をすることになったので、結局、純一の車一台でやってきた。
 葉月達が墓地にたどり着くと、そこにはもう、警察の車両が停まっていた。それだけじゃない。白い四輪駆動車も停まっている。

 葉月達も停めた車から降りると、それに合わせるようにして四輪駆動車から一人の男性と女性が揃って降りてきた。
 美波と翼だった。二人は御園一族が揃っている姿に向かって、姿勢正しく立ったかと思うと深々とお辞儀をしてくれた。
 葉月も、お辞儀を返したいところなのだが、久しぶりに会った美波の姿を目にして驚いた。──彼女のお腹が大きかったのだ。お辞儀をするのも忘れて、葉月は美波へと駆け寄った。

「まあ、美波さん。いつのまに……!」
「そ、それが……えっと……」

 初めて彼女と向き合ったあの『優しい誘拐をされた夜』のように、まだ少女のようなあどけなさを残した彼女のまま照れる美波がそこにいた。
 彼女は困ったように、隣に寄り添っている翼をチラリと見た。その翼も困ったような顔を揃えて、葉月に教えてくれる。

「そんなことになって。今、五ヶ月なんです。七月に俺達、入籍だけ……」
「まあ! おめでとう!」

 葉月が心よりそう微笑むと、二人が面食らった顔をした。
 それが葉月には意外で……。そしてすぐに気が付いた。二人は葉月の目の前では、『敵の家族』。苦しんだだろう被害者一家、そして当人の葉月を差し置いて『おめでた』があったことを手紙で知らせるなんてとんでもないことと気後れしているのだと。
 それも当然の気遣いであろうと、葉月ははっと気が付く。そしてそれが妙に寂しかった。
 葉月はどこか美波と自分を重ねた瞬間があっただけに。たとえ瀬川の血を引く娘であっても、彼女とは別格の縁があったと思っていたのだ。
 だがそれは葉月の傲りだったかも知れない。葉月が『貴女は関係ない』とどんなに言っても、瀬川の娘でありたい美波には、やはり父と共に罪を背負っているのに変わりはない心積もりなのだろう。
 寂しいけれど。でも、葉月はその娘のここまでの気遣いに、心を幾分か軽くすることが出来る。そう、美波が山崎の家に訪ねに来た時だって、彼女は『私も償う』と言い切ってくれたのだ。あの時は、何処か受け入れがたかったが……。後になってその美波の勇気ある言葉は、葉月の心の一部をゆっくりと溶かしてくれたのは間違いがないこと。

 だから、葉月は目の前で気後れしている身重の美波の両手を真顔でしっかりと握った。

「いい? 美波さん。貴女は絶対に幸せにならなくちゃ駄目よ。勿論、このお腹の子も。私と貴女の父親の『因縁』は、貴女達も引き継いでは駄目」
「葉月さん──?」
「分かったわね。遠慮なんてされると、まるで私が貴女達から幸せを奪っているみたいじゃない。困るわ」
「そ、そんなつもりは……」
「だったら、結婚式もして綺麗な花嫁姿になって、亡くなったお母様に報告するのよ。赤ちゃんも、幸せにしてね。それが、私と貴女の父親で最後『因縁』がそこで終わるんだから」

 そこまで言い切ると、美波は葉月の名を呟きながら、その透き通った薄緑色の目一杯に涙を溜めていた。

「翼さんも、そのつもりで。分かったわね」
「葉月さん、有難うございます。きっとその因縁を断ち切れるように致しますから……」

 翼も涙ぐんでいた。
 彼がどれだけ美波を愛していたか……。そんなの会った夜に一目瞭然だったが、それでも彼も彼女に寄り添って支え、償いに苦しんできたことだろう。
 家族故に……。苦しまなくても良い罪なき娘と……『孫』が、その因縁に巻き込まれるなんて、葉月にはまっぴら御免だ。それでなくても、心の何処かで美波のことをとても気に入っている自分がいたから。

 そんな葉月を見てくれていたのか、振り向くと、夫の隼人も、義兄の純一も甥っ子の真一も──。それこそ『葉月だ』と言ってくれそうな穏やかな微笑みで見守ってくれていた。

 

「お久しぶりですね。葉月さん」

 

 そして葉月の目の前に、夏の半袖ワイシャツとグレーのスラックスを穿いている横須賀の担当刑事が現れた。

「お久しぶりです。今井刑事さん」

 いつも柔和に接してくれるその担当刑事と久しぶりの挨拶を交わすと、彼が肩越しに警察車両に振り返る。
 そこには既に、縄で胴体をくくられ手錠をはめているあの男が、警官に付き添われて立っていた。

 葉月の身体が固まる。
 あの葉山の別荘で、彼が首を切って以来の再会だった。
 遠目に見ても、表情がまったく変わっているのが分かる。そしてなによりも、白髪交じりだった頭が真っ白になっていた。
 それでもあの遠くからでも感じる威圧感はなんなのだろう? あれがやはり軍隊でもエリートと謳われた男が持つ本来のオーラだったのか。それは素の人に戻っても消えることがなかったと言うことは、それだけ、彼にそのオーラをもつ素質があったと言うことなのだろうか? だとしたら、なんて勿体ない。きっと……そのエネルギーがねじ曲がってあんなことになってしまったのではないか? こういった選ばれた者は、己の持つ力を上手く使えなかった場合は、このような曲がった悲劇を起こしてしまうものなのか。彼は己という強力な力に自分自身で呑まれてしまったのではないか? ──そんな気がした瞬間。

 未だに、葉月は圧倒されて立ちつくしていると、その遠いところに立っている瀬川が軽く会釈をしたではないか?
 それにも葉月は固まり……。でも、次には毅然と背筋を伸ばし、決してその会釈にも屈しない決意で頭は下げなかった。
 ただ、その男を見つめ。そして向こうの男も、葉月だけを見ている強い目。──やっぱり私達は強い縁で結ばれている。きっとどちらかが死ぬまで、この因縁は断ち切れることがないだろう。ただ今は、この『縁』の『最悪最高潮であった時代』は終わりを告げようとしている。そして決して切れないこの因縁は、これからも修復されることはない平行線になるだろうが、それでも穏やかな下り坂を下りようとしていると思える。そして最後に辿り着くのは、何も得ることがないままに終わるだろう虚しい死別。それだけ……。それが、瀬川アルドと御園葉月の終わりなき関係。

 そして今日、ひとつの時代の終わりを、私と瀬川は共に迎えるだろう。

 今井刑事の話を聞いて、葉月達は先に姉の墓前へと向かう。
 その瀬川を避けるように、近づかないように教会へ向かう坂へと隼人と並んで歩んでいる時だった。

「済まなかった! 関係のない君を巻き込んで、済まなかったと思っている。言葉など、どんな言葉も君には通じないだろう──。だから……!」

 また、葉月の身体が硬直する。「君──」。手紙の声がそのまま、生で葉月の耳に強烈に届いた。
 そして目の端に、瀬川が警官に縄で繋がれた姿で、地面に土下座をし額をこすりつけている姿が見えた。
 だけれど、葉月は目の端に留めただけで、決して……その姿を受け止めようとしなかった。それが葉月の彼に対する気持ちだ。一生、決して許さない。どうしても許せない。許すだなんて……そんな甘いこと。そんな聖女のようになろうだなんて葉月は思わない。そしてきっと、そこまで罪を認めた彼も、万が一、葉月が聖女のように許しても、決して受け入れられないだろう。
 だから──私達の関係は、死ぬまでこれでいいのだ。

 葉月の目から涙がこぼれ落ちる。
 やがてそれは止めどもなく熱く、頬を濡らす。

 やっと懺悔をしてくれて、心が軽くなった感動からではない。
 そんな感動、あるものか。心が軽くなるなんてことあるものか。
 葉月が泣いているのは、そんな縁を一生持つことになった虚しさと哀しさしか生み出されない『運命』がここにあること。
 これがどれだけ途方もなく哀しいことか。

「それでいい」
「貴方──」

 隣に寄り添っている隼人が、そう言って、白いハンカチで葉月の涙を拭ってくれる。
 そしてそれは葉月だけじゃない。純一も真一も、決して瀬川の姿を目に留めようともしなかった。
 純一も葉月同様に、やるせない哀しみを堪えている顔を。そして真一は、涙に濡れていた。

 そのまま姉の墓前に行く。
 自分達が手を合わせる前に、あの男を突き出したい。それを今井刑事に言うと、彼はその葉月の願いを叶えてくれる。
 姉の墓前に辿り着き、少し離れたところで隼人達と並んだ。
 やがて間をおいて、今井刑事と警官達と、手錠をしている瀬川が階段を上ってくる。
 潮風が吹く青い空と海が彩るこの墓地の石畳の小径。そこをゆっくりと縄に繋がれてやってくる男は、まるで処刑台に向かってくるような足取りに見えてしまう。姉の前へ、彼が息の根を止めてしまった赤い女神の前へ、ゆっくりとゆっくりと懺悔の道を歩いてくる姿。
 葉月は今度はしっかりとそれを正面から見届ける。
 そしてついに瀬川は姉の墓前へと辿り着いた。花もないその姿。彼は身一つで姉に何を捧げるのだろうか。

 誰もが静かにその男だけをみつめていた。
 彼はじいっと姉の墓前を長い間みつめているだけ。
 葉月には分かった。今、彼は姉に懺悔をしているのだと。その言葉を聞かせて欲しいとは思わない。そしてきっと瀬川も、自分が声にして言えばそれはそこに生き残っている葉月や純一、そして置き去りにされた忘れ形見の真一に対して『なにもかもが言い訳』になることを知っているのだろう。そんなことは通じる葉月。幽霊の心が分かる葉月。そんなことがよく分かる瀬川アルド。なのに、彼はどうして? 本当に勿体ない男……。
 彼の無言の懺悔に涙はなかった。だが、彼は葉月も目にしたことがある『震え』を起こしていた。

「うわあああっ!!!」

 瀬川アルドが、姉の墓前に泣き崩れる。
 土下座をしたように、地面にすべての力を吸い取られたように、くしゃりと潰れたような格好で泣き崩れる。
 その声が何処までも、いつまでも響いた。

 遠く階段には、身重の美波と翼も、そんな父親の姿から目を逸らさずにしっかりと見届けている。
 今井刑事のやるせなさそうな顔も、そこにあるどうにもならなかった男の懺悔がどれだけに虚しいものであるかを、誰にも重くのしかかることを物語っているようだった。

 ひとしきりして今井が『葉月さん、如何ですか?』と聞いてきたので、葉月は『もう、いい』と答えた。
 そして瀬川も潰れたまま動かなくなったし、暫くはそこを離れ難そうにしていた。まだまだ姉に何かを言いたそうだった。

「さあ。お前が本当に償うのはここじゃない。行くぞ」

 今井に言われて、やっと瀬川が立ち上がる。
 そして彼はまた葉月に会釈をし、今度は潮風の懺悔の道を、急に歳を取った年寄りのような背中で静かに去っていった。
 遠くの美波達も葉月にお辞儀をしてくれる。葉月はそれには丁寧に、夫と義兄と甥っ子と共に頭をさげた。

「さようなら。幸せに──」

 私達の因縁を断ち切ってください。
 葉月は幽霊の娘に、そしてお腹にいる天使に心よりそう願った。

「ひとつ。終わったな」

 潮風の中、赤いチューリップの花束を抱えた純一が、遠い目で江ノ島を見つめる。
 葉月も右京の赤い花を抱え、義兄と共にその潮風の中、青い景色を眺める。

 気のせいか。急にそこには、神々しい光で煌めいてきたように思えた。 
 どんなに虚しくても、一生忘れられないことでも。
 やはり、その瞬間はやってきただろうか?

「姉様。右京兄様が姉様の為に育てて咲かせたのよ。──アマリリス。真っ赤なアマリリス」

 百合のような形のアマリリス。真っ赤な花。
 それを右京はあの葉山の別荘地跡を庭園に造り直して育て始めていた。
 急に園芸家になったかのように、右京は今は土まみれになって葉山に通うことを生き甲斐にしている。勿論、ヴァイオリンも取り戻していた。

『皐月の上に、花をいっぱいにしてやるんだ』

 そう言っていた右京が咲かせた真っ赤な花を葉月は墓前に手向ける。
 夫の隼人も、初めてのお参り。今日は口にはしないけれど、結婚の報告、そして貴女の義弟になりましたということをひっそりと胸で呟いている気がする。
 そして純一は、花を手向けると長い間手を合わせ、ずうっと何かを語っている様子。息子の真一もそれに同調するようにして、父親と肩を並べて、手を合わせている。

「綺麗な墓地だ」
「そうね」

 先ほどまで、凄く渦巻いた黒い雲が取り巻いていた気がしたが。
 夫も同じように思ってくれたのだろうか?
 ここから見渡す鎌倉の海、そして空は、あの日、葉月が海岸で翼を広げた日のように美しかった。

 潮風の中、隼人と手を繋いで遠くまで続く青を眺める。

 その時、葉月はふと思っていた。
 姉の墓前に、ひとつの時代の終わりを見届けた日になんてことだろう?

 あの男の娘の中に天使が宿っていて……。
 そして、私の中にも……。

 葉月は気が付いていた。ほんの数日前に身体に異変が起きていることを。
 このお腹の中で、小さな羽音がすることに気が付いていた。

 だけれど、まだ、隣の夫には告げていない。

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