-- A to Z;ero -- * 初夏の雨 *

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3.懺悔の愛

 夜、訪れた嵐の雨音が、彼の部屋の窓を激しく叩く──。
 強い風の音。
 そして、近づいてくる雷の轟き──。

 玄関から、彼が寝室としても使っているリビング、そこの壁際に置かれているベッドの側に、すぐに連れてこられる。
 葉月の腰を強引にさらうようにして連れてきた隼人と向き合う。
 隼人は間を置かず、すぐに、葉月の肩の丸みに添って、大きな手を滑らしてきた。
 脱がせかけていたシャツを肩から落とそうとしている。

 時々、青い稲光が灯りを消している彼の部屋の中で輝く。
 その青光りが、シャツがはだけてしまっている葉月の白い胸元を照らす。
 その時、肩を滑り落ちようとしていた彼の手が止まり、その目線が胸元へと注がれていた。

「……見た事がない」
「最近よ──。おかしいかしら?」
「いいや……」

 左右にはだけたシャツの下から現れたのは、グレーに近い青色のランジェリー。
 色は落ち着いているが、カップを縁取るレエスと刺繍は黒色でシックに施されているもの。
 それは葉月が一目見て買ってしまった『新しいランジェリー』のひとつ。
 とても値が張ったが、今は、そういう物を月に一度、贅沢気分で購入する。
 一ヶ月頑張った自分へのご褒美のようにして手に入れる事も『葉月の新しい楽しみ』になっていた。
 ランジェリーに香水に、そして、お洋服。
 女性として、極々、当たり前な気持ち、感覚──だけど、葉月には無かった感覚。
 それを初めて、自ら楽しみ、味わっていた。

 この一目で気に入った高価なランジェリーも、その内の一つだ。
 中には、もっとハッとするような妖艶な色合いの物も試しに買っていた。
 そんな新しい雰囲気のランジェリーも出し惜しみすることなく、普段から身につけている。
 密かな『女性らしさ』を、服に下に忍ばせている感触は、葉月にとっては本当に新鮮な感触だったから……こんな風に──。

 そんな葉月が、とてもシンプルでオーソドックスな色合いのランジェリーを好んでいた事を知っている隼人は、だからこそ、とても驚いているようで、そして、違う人間を見るかのような冷めた眼差しを注いでいる。
 決して、このランジェリーの色香で、一瞬にして男の性が燃え上がったようには見えなかった。

 その縁取りをしている黒いレエスを隼人がなぞる。
 息も乱れず、ひたすら無表情なままだが、彼の指先は慣れているそのまま……レエスをくぐっていった。
 彼の指先が、葉月が構えていた胸先に、ふっと触れた瞬間──流石に、身体を震わせ、葉月はそっと静かに吐息を漏らす。
 それを見た隼人が、今度こそ、勝ち誇ったように微笑む。

「……こんなもの」
「貴方には関係ないでしょうね……?」
「そうでもない。葉月の場合は……」
「え?」

 『他は誰だったの?』と、葉月は少しばかり眉をひそめる。
 けれど、『そんな分かりきった事』──。
 隼人の過去なんて、葉月にとっては『あってないようなもの』。
 どんな女性達を愛してきたかなんて、ある程度は予想していても、はっきりと判明しなくても──そんな彼だからこそ、『こんな私を、愛してくれたのだ』と思っている。
 直ぐに葉月を束縛しなかった事も、貪欲に欲するままに手を出さず、じっくり、そしてじんわりと根気よく葉月の心と身体に歩み寄ってきた『余裕』は、既に女性と暮らす事も付き合う事にも、充分な経験をしてきた証拠だと捉えてきた。
 だから、そのまま彼の眼差しの行方を、静かに追うだけ……。
 眼差しは、胸元から離れなかったが、葉月の視線は、動き始めた隼人の手に視点を移される。

「そうだな、『いつかはこんな葉月』と思っていた。けれど、結局、最後に一番欲しいのは……この感触だ」

 グレイッシュブルーのカップの下に消えていった彼の大きな手。
 それが、いつもそうしてくれていたように、真綿を扱うような絶妙な力加減で、その手に包まれる。
 その狂おしさ──。
 思い出す……。
 この人は本当にこんな風にして、そっとふわりと『春風』のように、私の『鎧を着込む』頑なな感覚を麻痺させていったのだ──と。

 野原で気持ちよく眠っている所、目覚めるか、目覚めないでまた眠りに落ちていくか……心地よい眠りを邪魔しない、そんな微妙な境界線を行ったり来たりさせられるような、ささやかな感触で、愛撫する。
 眠っている側の小さな小花が、そよ風に揺れて、そっと頬に触れては離れていく。そんなかすかな『心地良さ』を、永遠に繰り返されるような、じれったさ、でも、やめて欲しくないじれったさ……。
 それが葉月に与えてくれた『春風のような……』心地良さ。

 その春風が、葉月の肌の上を滑らかに滑る……そして、彼の静かな吐息。
 耳元を通りすぎる時、やっとそれらしい彼の熱い息づかいを、葉月は感じる。
 その『そよ風の吐息』が、向かい合っている葉月の首筋まで降りてきた。
 彼の息づかいに熱がこもり始めても、手先の冷静さは変わらずに、とても静かに、シャツを落とされた。
 首もとを、柔らかく何度もくちづけている彼の息づかいは、熱くても静か。
 むしろ、そんなじれったいまでの愛撫に身も心も既に震わせて、耐えているのは葉月の方?

 隼人はと言うと、そんな『下着』なんかで、動揺する男性ではない。
 時には、男の性に任せるがままに、女性の思惑に流されみて、それを『楽しむ』事もあるだろうが、今の彼は『いかにして、この女を先に崩せるか……』という、確固たる構えで臨んでいる事は、葉月にも伝わっている。
 隼人はそんな葉月の艶やかさを目の当たりにしても、決して、崩れない。
 指先すら冷静だ。

 その冷静な手先、指先が静かに葉月を引き寄せようとしている。
 いつもと同じだ。
 懐かしい手の感触。
 隼人であると思わせる感触。
 大きな手がそっと葉月の腰を、彼の手元まで引き寄せ……それと同時に片手は背中のホックへと滑って行く。

 縦三連の頑丈なホックなのに、彼は片手、指先数本で、いとも簡単に解いてしまう。
 ほんのちょっとつまんで触れただけなのに……。
 あっというまに、ブラジャーのカップがゆるまり、葉月の乳房から離れていった。
 そんな器用さが、彼の『異性慣れ』を何度か確信させたりするのだ。

「お前の『肌』なんだよ……」
「隼人さん──」
「これがどれだけ……俺を……」

 葉月の身体をそっと引き寄せていた隼人の腕に力がこもった。
 こもったのと同時に、彼の手先が、玄関先でふと暴れてしまったように、荒っぽく変化していく。

 『春風』が『熱風』に変化する時。
 隼人の大きな手が、そして頼もしい唇が、欲するままに葉月を物にしようと迫ってきた。

「……待って!」
「!?」

 その彼の手、手首を葉月は掴み、顔を背けた。
 彼が躊躇したその隙に、引き寄せられていた身体を、葉月は一端、彼から離す。

「やっぱりな……。お前は、もう俺の事なんか……」
「違う……!」

 決した物の、やはり土壇場で逃げ出していくウサギ──。
 俺と愛した日々があっても、『兄貴』との想い出に比べたら足元にも及ばない『出来事』だった……。
 隼人はそうは言っていないが、葉月の脳裏に彼の声で、そんな囁きが聞こえた。

 今から、隼人がどんなに変貌するか。
 葉月以上に、隼人が怖れているに違いない。

 彼は……ずっと葉月を責めなかった。
 『俺が、お前を手放したから……最悪の事が起きた』と、言うだろう。
 しかし、皆が理解してくれるような『言い訳』が通用したとしても! なにもかもをかなぐり捨て、義兄の胸に飛び込んでしまった葉月に『罪がある』。
 他の事は何も考えなくても良い『ただ愛だけ』でくくろうとしていた世界観で全てを忘れた。
 その世界は──『その想いが、真っ白でも純粋でも』それが故に罪ある世界。
 純一だけを見て愛し愛され、そこで満足してしまった葉月の『意味があると言われた選択』は、恋人自らが促してくれた事と言われても、どんな理由をつけても『裏切り』にしかならないのだ。

 義兄を愛している、もう、軍隊には戻らない──。
 そう告げられた彼の心は……笑顔で見送ってくれたが、きっと計り知れない哀しみで張り裂けていたはずだ。

 それ程のダメージを受けても、隼人は葉月を抱きたいと、こうして手元に引き寄せてくれている。
 この半年──彼のこの引き寄せたがっている手に折れては駄目だと、何度も言い聞かせ、心にブレーキをかけてきた。
 今までなら、隼人に多少、気持ちに負担がかかる分の悪い事が起きても、彼がどんな事も笑顔で受け入れてくれていた。
 全ては──彼が、『私を第一に愛するが為に』!
 その果てに待っていたのは、葉月の心奥底に密かに忍ばされていた『密かな愛』を解き放ち、送り出す『男』になってしまった、彼──。
 それが本来の彼でなくても、彼はそこまでして、葉月の為に自分の本心を犠牲にしてくれたのだ。

 だから……『どんなに変貌しても構わない!』

 葉月は、意を決した眼差しで、隼人を見上げた。

「な、なんだよ」
「貴方の思うままに……私は、どこにも逃げないわ」
「葉月……?」

 いつもうずくまっている葉月を、暖かく抱きしめ続けてくれたのは、隼人が『手を差し伸べてくれたから』だ。
 葉月は、いつもその手を、躊躇いながら取ってきた。
 その手を取る度に、とても心強くなる反面……きっとまた彼を苦しめると思って来たから──。
 でも、葉月がその暖かくて大きな手を取るたびに、隼人がとても嬉しそうに微笑む。
 その真っ白い光の中で微笑み続けてくれた彼の姿が、葉月の目の前に広がる。

 

 紫陽花の植え込み。
 風に揺れる赤や白のサルスベリ──。

『そこから出てこいよ。そんな所で泣いていないで、閉じこもらないで』

 光の中、彼が葉月に手を差し伸べる。

『こっちに来いよ……ウサギさん』

 

 ──ガラガラガラッ! ドドンッ!!──

 

 ついに頭上に雷がやって来た!
 部屋の中を一瞬だけ、青白い閃光が走り、向き合っている二人をくっきりと浮かび上がらせる。
 窓を叩きつける雨の音がさらに、強まる。
 その雨音の中……葉月は、そっと離れた隼人の前に、一歩、踏み出した。

 そして、風雨が荒れ狂う音の中、葉月は彼の目の前で、自ら外れかけているブラジャーを取り去り、そして、スカートのホックを外して足元に落とした。

 手を差し伸べられたから、頼るのではない。
 手を差し伸べられたから、身を任せるのではない。
 手を差し伸べられたから、愛したのではない。
 手を差し伸べられたから……戻ってきたのではない。

 身につけている物を静かに取り去る葉月の姿を、隼人もただ見ているだけ──。
 葉月の姿は、ショーツ一枚だけになる。
 その姿で、そっと静かに、もう一歩、隼人に踏み寄った。
 先程、隼人が引き寄せてくれたぐらいに、今にも葉月の胸先が彼の肌に触れそうなぐらい密着しようとした所で、葉月は隼人を見上げる。
 彼と目があった。

「葉月……」
「何も考えなくていいのよ。私は、何も考えない貴方に抱かれたい。何も考えない心のままに──。どんな貴方でも良い。今度は私が知りたいわ」
「!」

 もう、手を差し伸べられなくても……私が行くの。
 『貴方』の所に──。
 裏切りの罪を刻印している私を、愛そうが憎もうが、それは今夜の貴方次第。
 貴方のどんな気持ちも、甘んじて受けたい。
 それが私の望みです。

 言葉で言えば、彼はきっと……『そこまでお前は悪くないよ』と言うに違いない。
 だから、心で『我が誓い』を葉月は密かに呟いて、隼人の瞳を覗いた。

「愛しているわ」
「は、葉月……」

 私の愛は『ふたつ』。
 ひとつは……やっと手に掴んで、存分に抱きしめたけれど、天に昇っていってしまった。
 もう、ひとつの愛は……懺悔の愛。
 初めて自ら心と心の糸を結んだのに、また自らそれを断ち切ってしまった……懺悔の愛。

 『懺悔の愛』は、彼に愛される事は、もう、許されない事……。
 だから、『愛されてはいけない形』──独りで息を潜め、影に徹し、そっと彼を愛していく──それを、貫く事ばかりをしてきたような気がした。
 でも、『違うのだ』と思った。

 どうせ、既に罪を犯した私。
 それなら、今あるそのまま、正直になっても『同じじゃないか?』
 彼が『欲しい』と言っているのに、何故? 逃げる?
 そんなの──! 前と一緒!!

 彼の頬に触れ、葉月はつま先をそっと立てて、隼人の唇を塞いだ。
 彼の首に両手を絡めて、きつく塞いだ。
 そっと彼の唇を吸うと、少しばかり、彼が怖じ気づいた気がしたけれど──そんな反応も構わずに、今度は葉月が彼を愛した。

「お前……」

 雨音、激しい風の音、時折、部屋と私の裸を浮かび上がらせる稲妻の閃光。
 唇をひたすら愛撫しているうちに、彼の眼差しが、輝いてくる。
 その彼の両手が背中をそっと下へと伝い、ついにショーツの中に静かに沈んでいった。

 それまでとても静かだった彼の指先が、青いショーツの中で、急に火がついたように暴れ出す。
 彼の骨っぽい長い指が、そっと栗毛の茂みをかき分けて、少しばかり身体を強ばらせている葉月をほぐそうとしている柔らかな仕草と、なにかをせっつくような意地悪な仕草が交差している。

「あ、ん……」

 決して離すまい──。
 そう思いながら、彼の唇をひたすら愛していたのに……呻き声を漏らし、唇を離してしまう。
 それも、腹部から胸、そして頭へと、じんわりと登ってきた狂おしい感覚にたまらなくなりそうで……その感覚に流されるかのように、隼人の両肩にしがみつき、爪を立て、彼の肩に頬を埋めて抱きついてしまった。
 耳元で、隼人の掠れた声が……。

「お前は、やっぱり悪い女なんだ──どうしようもない」

 『俺をその気にさせたのは、お前なんだから。ちゃんと、目を開けて、俺をみろよ……』──彼の瞳を離さずに見つめる葉月には、そう聞こえてくる。
 だから、ずっと隼人の指先に負けずに、彼を見つめた。
 隼人が、勝ち誇ったように微笑んだ。

「もう……他の男の所には、絶対に行かせない」
「私は、ここにいる……。ただ、そう決めて、戻ってきたのよ」
「でも、俺の為。じゃ、ないよなぁ?」

 彼の拗ねる声。
 でも、目は笑っている。
 葉月を困らせようとしている嫌味な目。
 だから、葉月はそっと微笑み返す。

「そうよ……『自分の為』よ。自分の為に、『自分が築いた世界』で生きていく、そこが苦しくても……。そう決めたのよ」
「本当に……それで……」

 『本当にそれで良かったのか?』──義兄と終わってしまって良かったのか? と、彼が言いたい先を濁したのが解る。

「貴方に、蔑まれる事も責められる事も……『私が選んだ事』よ。『俺の前から、姿を消せ』──そう言われたら、今持っている『ここ』での地位も仲間も仕事も、なにもかも。築きあげてきた全てを、捨てても良い。それで、貴方の気が済むならば──」

 葉月は、まるで戦いを挑むかのように、隼人を見つめ返した。
 そして、葉月は冷めたような澄ました表情で呟く。

「どのようにも……。貴方がしたいように、して欲しい」

 『平気な顔』──本当は、『怖い』。
 彼にとどめを刺されるかもしれない、その恐怖。
 そして、自分がどれだけの事をやってしまったのか、傷ついた彼と向き合って、初めて目の当たりにするだろう。
 その時、『泣く事』など、葉月には許されない。
 涙など、決して流さずに、涙で許してもらう事など、絶対にしたくない。

『私は貴方から、罰せられるべきなんだわ』

 『罰』かも知れないし、『赦免』かもしれない。
 どちらでも、葉月は隼人からそれを『受ける為』に戻ってきたのではないのか?
 葉月は、ふと……そんな事を、今更ながらに噛みしめていた。

 すると──狂おしそうに、葉月の肌を撫でていた彼の両手が止まる。

「?」

 直ぐにでも、彼に抱き潰されそうな予感があったのに……。
 急に静かになったような気がして、葉月が見上げると、隼人はとても複雑そうな? 困ったような? 例えがたいが、納得が出来ないような顔をしていたので、首を傾げてしまった。

「葉月」

 そう静かに呟いた隼人は、もう、落ち着いた顔に戻っていた。
 そして、やっとそれらしく、着ているシャツのボタンを外し始める。

 隼人の手がゆっくりと白いシャツのボタンを下まで外し、彼も上半身の素肌をさらし、脱ぎ去った。
 そのシャツのボタンを外していた彼の手が、シャツを持ったまま、葉月の肩を抱き、そして胸元に抱き寄せてきた。
 そして、自分の肌……いや、乳房がそっと彼の肌に触れる。
 じわっと彼の暖かい肌の温度が、伝わってきた。

「隼人さん……」

 目をつむるな──と、言われていたけれど、葉月はその懐かしい暖かみに、ふと……目を閉じてしまった。
 それは、何にも代え難かったはずなのに手放してしまった自責の念に駆られながらも、再び触れる事が出来た感動に酔ってしまいたい『めまい』に似ていたのだ。

 彼が今から、どんなになっても、責められても──。
 そして、またもや、そんな自分の本心を押し殺して、葉月をじれったそうに抱いても──。
 何もかも、受け入れられると思った……のに……。

「もう、いいよ」
「!?」
「もう、いい……」

 ふと目を開けると、神妙な顔をしている隼人が、葉月を見下ろしている。
 そして肩には、そっと……彼の大きな白いシャツを羽織らされていた。

「も……う、いいって?」

 葉月は目をぱちくりと見開いて、隼人を見つめ続けた。
 茫然としている間に、隼人は葉月の手を襟元に持っていき、そのまま胸元が閉じるように握らせた。

「充分だって事」
「な、なにが?」

 何が? と、問うた所で……葉月も隼人が何を決めたのか解っていながらも、なんだか、信じられなくて、それで問い直しただけ。
 だが、葉月がそれを再認識する前に、隼人が溜め息を落とし、触れ合っている肌から離れていった。
 そして、直ぐそこにあるベッドの縁に座りこんでしまった。
 葉月はただ、茫然と──隼人を見下ろしていた。
 彼も座ると、うなだれているように俯いているだけで、また、深い溜め息を落としただけ。
 上からそれを見ている葉月には、隼人の長めの黒い前髪が、眼差しを隠してしまい──その溜め息の雰囲気しか確かめられなかった。
 だが、雰囲気どおりだった──隼人は、気だるそうに口を開いた。

「やる気──充分だった。ずっと、さっきまで」
「……」
「むしろ、お前が今夜、来てくれると言った時から……『めちゃくちゃにしてもいい、抱き潰したい』と思っていた……」
「!」

 それは葉月も感じていた。
 なのに、何故? 急に? そんな風に直ぐにやる気を……男の性を収める事が出来る? いや、隼人なら出来る、そう言える。でも! 先程までは、彼も言っている通り、尚かつ、葉月も感じていた通り、『抱き潰される』……そう思えていたのに!
 もしかして? やっぱり、葉月の『そんな覚悟』と『姿』が気に入らなかったのか?
 それなら急に『萎えても』おかしくはない……。
 それ程、自分が『お門違い』をして、彼に飽きられたのなら……!
 それは『覚悟』をし、心底、『これが良い』と決した葉月にとっては『痛すぎる結果』だけれど……。

 それは、それで……。
 蔑まれるよりも、責められるよりも……もっと言えば、許してもらえるよりも、なんだかずっと痛かった。
 責められない、許されない……『葉月がしている事は、もう、どうでもいい』
 もう、関心がない。
 葉月の中にある『覚悟』の中には、用意されていない『隼人の姿』だった。

 思っていない衝撃に、葉月は……今にも泣きたくなる。
 でも、唇を噛みしめ、絶対に泣くまいと堪える。

 すると……隼人がやっと顔を上げ、葉月を見つめた。
 でも? その眼差しに『冷たさ』はない?
 葉月の勘違いかも知れないが、なんだかとても透き通っている、そして、丸みがある眼差しに見えるのだが?

「お前は……俺に苦しめられたいのか?」
「……え?」
「責められたいのか?」
「責めたいなら……そうして欲しい」
「ないよ。そんなもん」
「え? でも──今朝は……」

 今朝、隼人が『本心』をさらけ出して苦しんでいたから……だから、今夜、お互いに覚悟したのでは?
 葉月はそう思い、急に丸くなった隼人に唖然とした。

「うん、なんだか。あの時に出してしまったし。それに……」

 バツが悪そうな隼人が黒髪をかきながら、そしてまた葉月をそっと見つめる。
 今度はとても優しい……葉月が愛してしまっていた彼の目。

「そんなお前の覚悟している目と姿を見たら……萎えた」
「……」

 それで、もう……めちゃくちゃにする価値もない程、冷めてしまったのか?
 今度は葉月が、眼差しを逸らしたのだが……彼の笑い声が聞こえた。
 ふと、彼を見つめ直す。

「もう、終わったよ。お前の『償い』は──」
「!」
「そんなお前、『償い』の事だけを頭に描いているお前なんか、抱きたくない」
「隼人……さん?」
「それに俺も、何度も言ってきたと思うが、俺にも『罪』はある。なのに、葉月だけが、それだけ自分の全てをなげうってでも俺に償おうと必死なのに。俺はそれをただ受けるだけ? そんなの俺も我慢が出来ない。俺も俺で償いたい事はあるから……」
「……」

 言葉が出なくなった。
 隼人さんは悪くない──と、葉月も何度も言ってきた。
 だから、もう、それは言っても意味がないと思ったのだ。
 言えば、また──『俺もおかしかった。行くように突き放した罪がある』と思っている隼人を否定する事になる。
 彼は彼で『それを認めて欲しい』と言っているのだろう。
 それで、気が済むのだろう。
 葉月も同じだから、それで気が済む気持ちは良く分かる。
 だから……もう、葉月は何も言わなかった。

「ここ、座ってくれないか?」
「うん」

 隼人の横、そこを彼が撫でて葉月に促す。
 素直に葉月も側に座った。

「今夜は、もう……帰ってくれるか?」
「!」

 先程、頭上で激しく轟いていた雷がいつのまにか去っていて、さらさらとした雨の音だけが、暫く聞こえていた。

 ただ……隼人が隣で、微笑んでいた。
 けれど、葉月は何故か喜べない。
 だって、微笑んでいるけれど、隼人の目がとても哀しそうだったのだ。

「今は──抱けないと分かった」
「……そう」
「そんなに一生懸命に、『罪』にすらも自分をかけてしまっているお前をみて……。どうしても、その身体の奥に『俺がつけた爪痕』があると思うと、抱けない」
「隼人さん」
「また、お前を……愛の名の下に、傷つけてしまうんじゃないかと、怖い」
「私は……ほら、大丈夫よ。だって、今は自分から検査に……」

 なんとか、彼の重荷を解こうと、葉月は言ってみたのだが、隼人は力無く首を振っただけ。

「だめだ……。その為に、俺も俺の為に『逃げていちゃいけない』と思った。誰のせいでもない。兄貴でもない、葉月でもない。誰のせいでなく……何故、俺はこうなったのかだ」
「たった一人で?」
「そうだな。葉月はたった独りで、噛みしめてきたんだろう? だから、心配してくれているのか?」
「……私の事は、別にいいのよ。自分で決めた事」
「俺も、自分で決めた事だ。でも……」

 彼が俯く。
 そして、葉月は力無く呟いた。

「それで? 今度は貴方が自分を存分に責めるの?」
「……だとしたら?」
「たった独りで自分を責めるなんて、私が許さない」
「……俺は、お前と子供を突き放したんだぞ。お前が……独り、血を流していても、側にはいなかった。痛みを伴う血を流す日が来る事が分かっていても、『俺はもう、来ない』と兄貴にあっさりと渡したんだ。お前をさらう事だって出来ない事もなかったはず」
「! 隼人さん……?」

 今まで──『どうしてそこまで、自分を責めるのか? 裏切られたのは彼の方なのに』と、思っていた。
 けれど、隼人の深く哀しい眼差しは『それだけじゃなかった』よう?
 あの時──『流産だ』と判った時、私達は『別れた』。
 その原因は、『流産』ではなくて、葉月が義兄との愛を選んだからだ。
 どう考えても、全面的に葉月が悪い。
 けれど……隼人は『そうなんだけれど……それとは違う事』で、思い悩んでいた!?

『辛くないのか……?』

 不育症の検査を始めた葉月に、隼人はそう言った。
 葉月には何度か起きた事であっても、彼にとっては初めてで……そして、初めて『当事者』となった衝撃が、葉月が思っている以上の強い衝撃だったのかもしれない?
 隼人が葉月に対して、葉月が悪くなく自分が悪いと思って引きずっているのは、『そこ』なのだ、きっと!?
 手放した事より、『葉月に血を流す痛さを独りで味わわせ、最期まで見届けなかった“父親”』と言う事を……!

 急に葉月は目が覚めるような感覚で、身体の芯を強ばらせ、背筋を伸ばしてしまう。
 だけれど、今度、覚悟をしていたのは隼人の方らしく、彼は躊躇うことなく、話し始めた。

「俺に『葉月の為だけの愛』があったのなら……兄貴の元に行ってしまうとしても、『俺達の子供の最期』は、一緒に見届けるべきだった。俺は──そこまで出来なかった。『診察は父母でするべき』と、俺達を再会する段取りをしてくれたあの兄貴になら、そう頼めたはずなのに。次の週に、再診察すると決まっていたけれど、やはり医師の診断通り、次の日にあっというまに『流産』だったと聞いて……俺の知らない所で、俺が手放してしまった女が、俺の子供を失う痛みを……たった独りで、『血を流す痛みを味わった』。そう思うと堪らなかった。兄貴が側にいる? そんなの、痛さを感じている葉月と共感する事が出来るのは『俺だけ』のはずだ。兄貴が側にいる、いないなんか。意味はない。きっと兄貴もそう思いながら、お前を労ってくれたと思うよ──」
「……」

 なんだか、生々しい事を語り出した隣にいる彼の口を葉月は塞ぎたくなった。
 自分が自分で、その痛さを思い出し噛みしめる時は、それなりに自分に痛くないよう、でも、その痛さを忘れないように『感じ方』をコントロールは出来るのだが、たとえ、同じ痛みの保持者である恋人であっても、それを次々と語られると……やはり、生傷に触れられているような感覚になる。
 結構、ズキズキしはじめている。
 隼人があれから『純一』を口にして気持ちを語るのも、初めてだから、余計に──。
 だけど、隼人は続ける。

「俺は、結局──『俺の苦しみ』を和らげる事を一番にして、対していたお前の事はともかく、子供の事は最後に放棄したんだ。お前が『兄貴の所には行かない』と必死に泣きながら、俺に言ってくれていたのに──『俺は信じなかった』し、『勝手に』それが葉月の為だと思っていたんだ。誰もが『葉月の裏切りだ』と言っても『俺が許した』と言えば、『許される、俺達だけの正解だ』と──でも、違った!! 俺は……お前の身体を傷つけ、そして……『罪』を刻印させる方向へと導いたんだ!!」

 隼人が隼人なりに自分を責めている姿は、とても痛々しく……葉月は目を背けたくなる。
 それが自分が原因である事も、自分が巻き込んでしまった事も、それ程に愛されていたのに、どうしようもなく手放した事も。
 彼がそれでも、俺が悪いと言っている姿も……『何もかも、全て』に……!
 この痛みは今夜……ベッドの上で『純一』と言う男を挟んで噛みしめあうと言う『覚悟』だったはず。だけれども、それが『この状況』に変わっただけ。
 だから、葉月も……ここまで来て『彼から与えられる事は何でも受け入れる』と覚悟してきた程なのだから、黙って聞く。

「その上に、俺は──『お前は俺を捨てた』と、言い放ったんだ」
「でも……それは」
「ああ、『葉月が悪い』。俺を選んでくれなかった『お前が憎い』──」
「!」

 やっと──葉月が言って欲しかった、責めて欲しかった事を、隼人が言った。
 でも、彼は笑っている。

「……かもな。だ」
「隼人さん……」

 憎んでいる『かも』──『かもしれない』なんて嘘。
 憎んでいないのに、葉月がそれで気が済むのならとばかりに、言葉を濁した彼の笑顔に、葉月は泣きたくなる。
 彼はそれで、『葉月自身が重くしている罪』を軽くしようとしているのだ。
 それなら……今度は! 葉月は涙を堪えて思う!

 そんな彼を『今度、見守る』のは──私だ。
 葉月はそう思った。
 黙って、彼を見守るのだ。
 だから、葉月は隼人の隣から立った。

 今夜は傷つけあう交わりを覚悟していた。
 決して、愛を取り戻す為の交わりにはならない……と。
 そうしたら、結論は『抱けない』と言われた。
 それが、今夜、隼人が出した『答』なら、それに従うまで。
 彼は、もう……私の身体を愛してはくれないのかもしれない。
 それでも、葉月は、立ち上がる。
 彼に『愛されなくても』……今度は……と、胸に秘め……。

「……有り難う。それでも今夜は来て、良かったわ」
「……ああ、俺も。少しは気が晴れた」

 スカートを手にとって、再び、身につける。
 それを隼人は止めることなく、ただ、眺めている。
 シャツ……隼人が羽織らせてくれたシャツを、葉月は脱ごうと襟元を開いたのだが……。

「お前のシャツ、濡れているだろ。俺のシャツ、着ていっていいよ」
「……でも」
「お前のシャツは洗って干しておくから……」
「そんな事、いいわよ。持って帰って自分でするわ」
「……だから、『また、おいで』と言っているんだ」
「!」

 今は抱けない、お前が怖い、俺も一人で考えたい──そう言っていると思ったのに、『また、おいで』と言っている彼の心境が分からなくて、葉月は首を傾げた。
 だけど、そんな葉月の不思議そうに困惑している様子を、隼人はただ可笑しそうに笑っただけ。

「だから……『来るだけなら、おいで』って、我が儘だろ。俺」
「いいの……?」
「……お前ともう一度、向き合って、『何が起こるか』解らない気はする。けれど、今夜を無駄にしたくない」
「そうね」

 以前とまったく『同じ』とは行かないだろう。
 すぐに、愛し合って同棲していた環境には戻る事は出来ないだろう。
 もし、急速に戻したならば、何処かで『無理のしわ寄せ』が来るはず……。
 隼人がそれを言いたい事、怖れている事、けれど『やってみよう』と葉月に言っているのは解っている。

 葉月もそう思う。
 今夜、ここまでお互いに歩み寄れたのは『ほんの始まり、一歩』にしか過ぎないのだ。
 もしかすると、この『やり直し』でこそ、『傷つけあう』かもしれない。
 むしろ、距離を置いていた時よりも、顔をつきあわせ、言葉を交わす時間が密になる分、余計に正直な気持ちを隠す事は避けられないし、その本心が露出しやすくなるだろう。
 その中で、『絶対に過去をほじくり返さない』とか『なかったふりをする』なんて──そんな『やり直し』は不毛だとも言えるのではないだろうか?
 そう思うから……隼人は『まずは来るだけから、始めてみようか』と……そんな『余裕』を、以前同様、『ウサギ』の為に考えてくれているのだろう。

「じゃぁ、今週の週末。来ても良い?」
「泊まっていけと言わずに、『おうちにお帰り』と言うかもしれない」
「まるで、子供ね。でも、私……それでも良い」
「前のお前だったら、それがお望みだったのかもな」
「……それこそ最初はね。ううん……とても、幸せだった」
「……そうか。そう言ってもらえると、嬉しいよ」

 今の状態から、以前の幸せを口にするのは……やはり、何処か胸が痛い。
 でも、二人はその幸せを糧にしようと、微笑み合う。
 言いたい事は色々あれど、その気持ちが通じたような気がする笑顔。
 少なくとも、葉月はそう思った。

「おやすみなさい」
「ああ、気をつけて──」

 身の繕いが終わった葉月を、隼人が玄関まで見送ってくれる。

 雨が止んでいる。
 目の前の雑木林から、虫の鳴き声。
 見上げた空には、まだ活発に流れる薄雲──そして、天の川が星をちりばめている姿を垣間見せていた。

「良かったな。雨が止んで──」
「……ええ」

 嵐が去っていったのだろうか?
 本当にこれで、良かったのだろうか?
 『やり直す』──そう約束はしていないけれど、とても曖昧な状態なんだけれど。
 それでも、私達は『まだ』離れられない。

 また、始められるのか。
 それとも……?

 いつの間にか、隣で彼も一緒に空を見上げていた。
 まだ夜は更け始めたばかり──。
 雨雲のベールから、姿を蘇らせる天の川。

 隣の男性は、もうそんなに甘くはない。
 おやすみのキスだって、肩を抱き寄せてくれる事も──今は、もう……。

 でも、哀しくない。
 葉月は、そっと小さく微笑む。

 私はこうして、彼の横で『立っていられる』事が出来る。
 前は出来なかっただろう事を、今は──。

 だから、隼人と一緒に、ただ空を見上げていた。
 そして、ふと、呟いた。

「隼人さんは、私じゃなくて『自分の事』を大切にして。私の最初のお願い」
「葉月……。うん、そうか……分かった。そうさせてもらう……」

 葉月の為に、全力疾走で全てをかけてくれた彼だから。

『もし、愛されなくても、怖くない。私が愛するだけ──』
『私の愛は、ふたつだけ──もう、新しい愛はいらない』

 新しい誓い。
 そっと心の中で、葉月は唱えただけ。
 隣の彼は、知らなくても良い。

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