-- A to Z;ero -- * 初夏の雨 *

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6.静かに燃ゆる

「お疲れ。陣中見舞い──」
「ああ、お疲れ様です。澤村中佐」

 ここは四中隊通信科。
 隼人が話しかけたのは、昨年の岬任務で一緒に潜入した通信科隊員の『富永大尉』──。
 あの任務で、大尉に昇進したのだ。

「彼女、どう?」
「ええ。なにもかもが初めてだから、躓きは多いけれど、一生懸命ですよ」

 隼人よりかは葉月と同世代の富永が、にこやかに答えてくれた。
 彼の手元に『陣中見舞い』と称した茶紙の袋を置いた。

「わ。俺、好きなんですよー! カフェのドーナツ!」
「お茶菓子にどうぞ」
「彼女も喜びますよ」

 今、カフェテリアまで休憩に行ってきた隼人。
 その帰りに、通信科を覗きに来たのだが──。

 彼女──吉田小夜が、アシスタント立候補をし、それを大佐嬢が許可をして数週間。
 彼女は、小池中佐が取り仕切る四中隊通信科で、研修に入っていた。
 それも葉月が直々に彼女の為にオーダーした『特別研修』だ。

 隼人も仕事柄、葉月同様に通信科にはご機嫌伺いに寄る。
 小池の後輩であり、岬任務で同じ潜入隊を務めた『富永大尉』が、彼女の研修責任者をしていた。

 通信科の事務所の窓際。
 そこにふたつだけ向き合っている席がある。
 富永先生と小夜がそこで向き合って勉強をしているらしい。

 今、その席には、小夜がテキストと向かい合っていた。

 隼人はそこに足を運ぶ。

「吉田さん」
「! 澤村中佐」

 集中していたのか、とても驚いた顔を彼女がする。
 だが隼人を見て、小夜はホッとした顔をした。

「お疲れ様です。澤村中佐」
「どう?」

 彼女を訪ねてきたのは、これが初めてではない。
 この数週間、三日に一度は様子を見に来ていた。
 訳は……なんと言っていいやら?
 葉月が許可をしてくれたとはいえ、なんとなく……彼女等を煽った言い出しっぺは俺じゃないか? と、思った事もあったし、最終判断は、小夜が側に行きたいと希望している『澤村』がする事になっているし……。
 自分に対して思ってくれていた気持ちを、些細な事と受け流してしまったことで、起きなくても良かった女性特有の感情的なバランスを乱したような気がして。
 葉月や小夜には、『くだらない』と言って冷たく見下げた態度を取ったが、それによって『葉月がしなくてもよい決断と仕事』をさせたような気がしたのだ。

 あの後、葉月は毎度の如く、見事に迅速に事を進めた。
 小池に『特別研修』を言い渡し、彼に一任させる──小池は葉月が決めた事なら、余程の事でない限り断らないから、今回も『特別』と銘が打たれた『たった一人の研修』でも、それは真剣に取り組んでくれたのだ。

 そして小夜は、二日後には経理班を一時離席にする処遇にて、通信科での研修に入ったのだ。

「ここ、いいかい?」

 隼人は、小夜の目の前──富永先生の席を指さした。

「はい、どうぞ」

 小夜がにこやかに答える。

「あと少しだね。頑張ったね」
「有り難うございます」

 そして──こうして向き合って話すのも、これが初めてじゃない。
 通信科に様子を見に行く度に、こうして彼女と向き合っていた。

 最初はとても彼女は緊張していて、隼人が何か質問をしても、恥じらうようにして声が小さく、そしてはっきりしない物言いだった。
 あれだけ葉月に堂々と意見したのに? と、思いたいが──隼人としては『まぁ、こんなものか』と、その差に驚きはしなかった。
 彼女の気持ちを無視してしまった分、傷つけた分、それが葉月へと矛先が向いたのではないかとも思えたから、今度は隼人から真っ正面、向き合う姿勢を見せる事にしたのだ。
 少しずつ、彼女と言葉を交わす。
 そして、近頃は『これが元の彼女かな?』と思えるぐらいの落ち着き振りで、隼人とはっきりと言葉を交わすようになってくれた。

「どうした?」
「……」

 そんな彼女が、以前のように、急に隼人の前で、か弱くなる。
 隼人から見ても、もう彼女は『か弱くない』──何故なら、最初は『恋が原動力』と思わされていた彼女の職務希望ではあったが、彼女はきちんと真っ直ぐに研修に取り組んでいた。

 男女共同の内勤職である『花形の本部』と違って、通信科はどちらかというと、理数系で固められた『男所帯の部署』だ。
 そこへ女の子が一人来れば、優しくしてもらえると直ぐに思うかも知れないが、逆だ。
 特に小池が葉月に信頼されて、ある意味独立した一隊として取り仕切っているだけあって、シビアな男達が揃っていた。
 浮ついた者がいれば、そこは直ぐに先輩に叩かれる……厳しい体育会系並の上下関係が、本部以上に成り立っている。
 もし、女性がそこへ入ってきたとしても同じ扱いを強いられるだろう。
 最低限、女としての扱わねばならぬ事以外は──だ。

 そんな中で、数週間──しかも『大佐嬢直々の研修依頼』。
 彼女のレベルが低かったとしても、ある程度は物になっていなければ、『出来ない通信科』と言う評価を受ける。
 彼等は四中隊にあって『そうではない独立体』だ。
 僅かな人数で、基地内でも『四中隊の通信科』と言われたら、そこだけでも任務で借りたいと言わせているぐらいの評価をあげてきた。
 そんな『プライド』がある男達の集まりだ。
 そこを対等に中隊を管理している大佐嬢に、『あら、うちの通信科で駄目だったの? “残念”ね』とは、絶対に言わせたくない──ぐらいの意気込みで、小夜に教え込んでいるはず。
 だから、テリーも物の見事に仕込まれていたのではないか? 
 彼女が通信科を卒業してきた隊員として、良い例に違いない。
 ともなると、小夜にとっても慣れない男性社会でのプレッシャーがあったはず。

 けれど、彼女は投げ出さず、少しずつでも成果を上げている。
 もし、『隼人の許可』というハードルを越えられるレベルでなくても、そこは既に隼人の中では合格。
 ふと考え直すと、『恋するだけで、ここまで出来るものだろうか?』──とも思えたぐらい。
 いや、恋だけなら、もっと他の方法でと、方向を転換する事も出来たはずだ。
 けれど、小夜はしなかった。今のところはだが?

 だから、そろそろ彼女に疲れが出てきて、隼人の前でうなだれているのかと思ったのだが……。

「今日、友人に言われました。『特別扱いで、大佐室に近づこうとしている』と──」
「! そ、そうなんだ」
「私一人の為に、研修が組まれて、通信科が動いてくれて──。経理班に一人分、穴が空いてしまったので、彼女達がそう言うんです」
「穴? 経理の穴なら、テリーが代行しているけれど?」
「それでもです。代役があっても。私がした事は正統でないと……」

 そして、小夜はまたうなだれる。

 おや? 意外な事になったと、隼人はかえって驚いた。
 それはほんのちょっと前に、小夜が胸を張って、テリーと大佐嬢に言い放っていた事だ。
 隼人もそこまで、女性達の成り行きを予想する事は出来なかったが。
 なんとも、はや? 今度もまたもやそうなるのかと、呆れた驚きだった。

「自分がした事は、必ず……自分に返ってくるんですね」
「いや……そうなのかな」

 急にそんな……立場逆転の展開が訪れるとは、隼人もなんと反応して良いか解らない。
 心の何処かで、葉月の為に『思い知ったか!』とも言いたいような? でも、ここまで逃げずに頑張ったと認めた付き合いが浅い後輩を慰めれば良いのか?
 だが、隼人は溜め息をついて、小夜に向かった。

「吉田さんに言われなくても、大佐嬢はいつだって、何処でだって、誰からにも『親の七光り』とか『特別扱い』と言われて来たんだ」
「……みたいですね」
「そこをこだわって、せっかくのチャンスを目の前にして、遠回りしようとしている彼女に俺なら言う。『親の七光り』と言われても、それが『特別扱い』だと言われても、『成果を上げれば、それは実力なのだ』とね──君も同じだ」
「澤村中佐……」

 隼人は、彼女は馬鹿ではないと思っている。
 むしろ、頭が良いので、葉月の有様にも血が上って仕方がなかったのだろう?
 けれど、そんな彼女だから、『なにがいけなかったのか』も、既に解っているような……降参をしている眼差しだった。

「大佐はそうして、自分で……」
「まぁ、そう見るも見ないも、その人の目。私の事を出来ない奴と見るならば、それで良し。信じてくれるなら、それで良しとね。彼女もそう割り切っているよ。もう長いもんな──お嬢様扱いは」
「辛くなかったのでしょうか?」
「辛かっただろうね。俺にも、なかなか『辛かった』とは言ってくれないよ」
「そうなのですか!?」
「うん。すごく気を揉んだりしていたのは、俺の方。もっと頼ってくれよ! とか、一人で隠れて泣くなよ! とかね」
「!」

 本来なら、こういったプライベートな話、つまり『葉月との恋人としてのつきあい』の様子を自分から暴露する事は、あまりなかった。
 心を許している同僚ならともかく、こんな年下の女性後輩に。
 でも、隼人はケロッと口にして、そしてとぼけた顔で笑う。
 そのオープンになった隼人に、小夜が戸惑った顔になった。

「でも……彼女が言わなくても、頼ってくれなくても。彼女が『辛い』と言うのだけは、解っていたから……」
「中佐」

 小夜が神妙な顔で、隼人を見ている。
 彼女とは、こういう話をオープンにした方が良い──隼人の判断だった。
 俺の事を慕ってくれているのは、正直、嬉しい。
 だが、彼女が一番理解していない『終わったはずなのに、まだ続けている恋人』である隼人の気持ちを伝えねばならない。
 出来れば、さりげなく……だ。

 彼女の望みは、まずは隼人と話してみたい──だったのだろう?
 ただそれだけの願いが、上手く叶わないせいで、あのように追い込まれていたならば、それを『俺は恋と仕事は別問題』と躍起になって避けるのも、逆効果のような気がしたから。
 それなら、こうして、話してあげた方が良い方向に向かうのではないかと思ったのだ。

 『ミツコ』の時は、隼人も意固地になりすぎた──と、思っている部分もある。
 だから、同じ失敗で、一人の女性を変に追い込みたくなかったから、今回は敢えて彼女の願いに従ってみる事にした。
 でも、『俺の正直な気持ち』を伝える事は、絶対に誤魔化さず曲げずに、彼女に辛さを与えても避けてはいけないと誓っている。

 すると、小夜が隼人に向かって笑った。

「私、頑張ります。出来なくてもせめて、この研修だけでも」
「うん。きっとこの一ヶ月間の事は、君の糧になるよ」
「やってみたかったんです。経理以外の事を……。なのに、どう前に進めばよいか解らなくて……。なのに同期だったテリーはどんどん先にいっちゃうし。入隊した時から彼女は既に、大佐室のアシスタントという話が持ち上がったぐらいで」
「! それって……遠野大佐の?」
「はい。けれど──その前に、大佐がお亡くなりになったので、その話は……」

 そこで小夜がまた俯いた。
 隼人は『それで?』と問いつめたいのだが、彼女はなんだか今度はどうにもならないと言った哀しそうな顔に変わり、両手で顔を覆ってしまった。

「私……大佐にもテリーにも謝らなくちゃ……」

 小夜が泣き始める。
 涙をぽろぽろと落とし始めていて、隼人は当惑……。
 でも──。

「なにがあったか解らないけれど。テリーはともかく、大佐に謝りたいなら、この研修をやり遂げる事だ」
「は、はい……」

 小夜も、自分を強くしようと無理に涙をハンカチで拭いている。

「……終わったら大佐に言います。他にやる気がある人が参加することが出来る研修などのチャンスを増やして下さいと」
「へぇ。いいね、それ」
「え? そうですか?」
「うん。俺も賛成だよ。きっと彼女も賛成する」
「そうですか」

 隼人の賛成に、彼女が笑顔になる。
 でも──と、隼人はちょっと意を決して言ってみる。

「きっと吉田さんは、正義感が強いんだね」
「よく言われます」
「正しくない事に、曲がった事が大嫌い──なんだろうね」
「そこまでではないと思いますけれど……」
「いいや。『平等』とか言い張っても『自分だけのチャンス』で終わらせるような奴は、『他の人にも』なんて言えないよ。君の言い分は本物だった訳だよ」
「あ、有り難うございます……」

 隼人の誉める笑顔に見つめられて、また彼女は俯くが今度は照れて俯いていた。

「でもね。それで正義はともかく、人に正しさを押しつけてはいけないよ」
「え?」
「間違いはいけない。当たり前だ。けれどね、どうしようもなく“間違ってしまった”事っていっぱいあると思うんだ。それを、『見かけや噂』だけなのに、なおかつ、なにが基準か解らない一般論だけで誰にでも主張するのは危険だよ。それはただ『私がどれだけ正しい人間であるか』と言う自己顕示欲に過ぎないと、俺は思うんだ」
「……は、い」

 隼人の言っている事、今の彼女には身に沁みているはずだ。
 テリーと葉月に対して、堂々とやった事が……それが『何の為』だったか、どんな自分の気持ちが走ってやってしまった事かを。
 隼人の言い分を素直に聞いているが、小夜は胸が痛むのか、ひたすら俯いてしまい、目も合わせてくれなくなった。
 でも、隼人は『もう、大丈夫だろう。これが最後』とばかりに、気を強くし続ける。

「さらに、何故? その人は間違う事となってしまったのか? と言う自己判断を、ただ一般論に頼っただけ。もし、相手の為を思うなら、正しさを押しつける事から入ってはいけない。間違ってしまった気持ちから考えてあげないと──」
「申し訳ありませんでした!」

 小夜が、思いっきり頭を下げてきたので、『もしかして、俺の方がなにが正しいって追いつめていないか?』なんて……妙に後味が悪い気がする。

「いや、俺も偉そうな事がいえる人間じゃないけどね。俺も間違いを沢山やらかして、言ったり、言われたりの失敗の連続だったからね」
「いいえ。それだからこそ、中佐はそう言えるのですよ、きっと。説得力あります! これから私、そのお言葉を胸に刻んで、頑張ります!」
「え? そ、そう? うん、有り難う。吉田さんも頑張って」
「はい! 中佐」

 隼人と向き合っている小夜はとても満足そうで?
 彼女にしつこい説法をしてしまったかと思った隼人も、ふと安心し、でもなんだか彼女が軽く明るくなったような気がして、拍子抜け。
 けれど、これだけバイタリティーがあれば、大丈夫──隼人もほっと心を和ませる輝く笑顔だな、と思えた。

「じゃぁ、頑張って。また来るよ」
「有り難うございました」

 そこで隼人は、小夜に笑顔を見せて、通信科を出る。
 ふと振り向くと、隼人が出て行くのを待っていたかのように、富永が席に着き、講義を始めたようだった。
 二人の後輩の顔が、とても真剣で……隼人は、そっと微笑んで、本部へと足を向けた。

『もう、大丈夫だろう』

 さて? 彼女が本部に戻ってきたら……今度は、どのようにしてあげよう?
 もう、隼人の中では、彼女は新しいアシスタントだ。
 すぐに経理班と離さない方向で、考えねば──など、新しい事が頭に次々を浮かんできた。

 しかし? まだテリーと彼女を一緒に扱う事には、一抹の不安があるのだが……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 隼人が本部に戻ると、いつものように大佐席では黙々と下を向いてペンを握っている大佐嬢と、なんだか余裕一杯のリラックスした姿勢で、パソコンモニターをただ眺めている達也が仕事をしていた。

「おかえり〜。また、小夜ちゃんのところか? まめだなー、兄さんは」
「別に。大佐嬢に預けられているから」

 達也のからかいに、そして、その側近二人の会話に『我関せず』の顔で書類に向かっている大佐嬢。
 葉月がまったく反応しないので、達也も面白くなかったのか、そのまま引き下がってくれる。

 隼人が席に着くと、葉月の席の電話が鳴った。

「げ。葉月がいて良かった……。誰よ? 誰よ?」

 葉月の席に直接かかってくるのは、たいていは『高官様』だから、達也は怖れているのだ。
 けれど──近頃、そうでもない。
 仕事でない『私用』でも、かかってくる事がたまにある。

 そんな達也の反応すらも、あってないような素っ気ない顔の彼女が、サラッと受話器を取った。

「お疲れ様です。四中隊大佐室、御園です」

 まったく本当に、愛想もなにもない声色だ──と、隼人は改めて、溜め息をつく。
 まぁ、それが彼女の『大佐嬢』としての素晴らしい所でもあるのだが?

「あら、こんにちは。暫くですわね」
「!」

 と、思ったら……! 急に、構えが取れた優雅な声に変わったので、隼人と達也は揃って葉月の方へと視線を向けてしまった。
 すると、側近男達の視線が一気に向けられたのに気が付いた彼女が、それを避けるかのように、椅子を反転させ窓辺へと背を向けてしまう。

「ええ、ごめんなさい……。そうですね、ずっと音合わせしておりませんわね。でも、今週もいけないと思います」

「四谷だ、四谷!」

 葉月が話し中なのに……達也が隼人に思い切り話しかけてくる。

「なんだ」

 隼人はそんな達也の手に乗せられてたるか、とばかりに興味がなくなったふりをして、シラッと席につく。

 『四谷』といえば、あれだあれ──『音楽隊』の若手チームの指揮者をしている青年だ。
 葉月が軍に帰ってきて暫くは、彼等と頻繁に会っていた気がしたが。

(そういえば。最近……行っていないような?)

 と、隼人もはたと気が付いた。

「ここのところ、『新しい課題』が増えてしまって……なかなか……。え? 次のコンサート企画ですか? 従兄に聞いてみないと。ええ、最近、忙しさにかまけてしまって、連絡しておりません……」

 やっとかけた『大佐席番号』だから、なかなか退かない様子。

 彼も大佐直通の内線に電話をしてくるぐらいだ。
 思い切ってかけてきたのだろう? きっと『最終手段』だったに違いない。
 葉月も携帯電話の番号ぐらい教えていないのだろうか? と、隼人は思い──『いや、教えていないな』と何故か確信していた。
 彼等の『葉月との約束』は、きっとすべて口約束で、葉月が音楽講堂に出向くか出向かないかぐらいの程度なのだろう。
 それかカフェテリアで葉月を捕まえる……とかだろう?

 暫く会っていない葉月に、どうしても会いたい……そんな感じだろうか?
 彼女へのそんな男性の思いを、いちいち気にしていたらきりがない。
 そう思って、隼人は知らぬふり。
 だが、目の前の達也は、それが出来ないらしく……。

「私ぃー。最近、澤村中佐のお部屋に通うのに、忙しいのぉー」
「ばか、やめろよっ」

 これみよがしの声を、張り上げるではないか!

「……」

 背を向けている葉月の声が、止まってしまった。
 暫く──大佐室に沈黙の波が。

「そうですね。今週は行ってみます」
「!」

 達也が『なにっ』と言う、やられた顔になる。
 隼人はただ、溜め息だ。

「今夜ですね? ええ、仕事がどうなるか解りませんが、行く方向で努力してみます」

 『それでは』──と、葉月の姿が正面に帰ってきて、彼女は受話器を置いた。
 達也にはなにも言わず、反応しない事で『お返し』とした様だ。
 達也も『それがどうした』とばかりに、平気な顔で、自分の仕事に戻っていった。

 もう……本当に、なにを逆効果な事をしているんだ?
 何年、大佐嬢と付き合っているんだ。お前は! と……達也をひっつかまえて、揺さぶりたい気持ちに一瞬なったのだが。

(音に触れていないんだろうな……)

 達也の言葉でハッとさせられた。
 そう言えば、葉月はほとんど、俺の部屋に来ているじゃないか? と。

『ヴァイオリン……弾けたらいいのに』

 葉月のあの時の愛らしい眼差しに、ふと、胸が熱くなった。
 けれど──また、それが怖かった。
 その眼差しに誘われたまま、笑顔になれたらと隼人も思っているのだけれど……。
 ずっとその『俺だけをみる瞳』を望んでいたはずなのに、それを手に入れられそうなのに……その瞳を見ると、『まだ』その向こうに揺れている影がいる。
 そう……『純一』だ。
 終わっている、完全に終わった関係だと、隼人もよーく分かっている。

 けれど、まだ日が浅すぎる。
 葉月が愛する者の為に、愛らしい眼差しでヴァイオリンの音を捧げる。
 それは、今は俺になったかもしれないが……でも、その眼差しで、『あの時』、彼と心を通わせていたんだ……と。
 その愛が溢れる暖かくて、それでいて甘くて、そして幸せにしてくれそうな煌めく目を、あの男の為に……。
 どうしても、そう思えてしまうのだ。

 解っている。
 葉月はもう……俺のものだ。
 少なくとも、葉月は『その努力』をしてくれた。
 身体を傷つけ、そして、心を投げ打って、『心の茨道』を彷徨って、俺の所に抜け出てきたではないか?

 けど……駄目なのだ。
 どうしても、まだ、駄目なのだ。

 今の『触れずに添い寝』をする関係も、いつまで続くか分からない。
 葉月はそれで満足そうにしているが、『ヴァイオリン』と言う彼女の『願い』が出た時に、隼人の心はヒヤリとし恐ろしさにつつまれた。

『今度は俺が“兄貴”なのか?』

 彼女にとって、『愛する者』とはなんなのだろう?
 ヴァイオリンの音を愛でてくれる男?
 それとも、過去を労ってくれる男?
 全てを背負ってくれる男?
 一緒にいてくる男?

 そう、何処かで『彼女が何者』なのか……分からなくなってしまっているから『怖い』のだ。
 理屈で言えば『変わっていない、同じ事』とか、自分に言い聞かせする事が出来ても、心はもう誤魔化せない。

 今度は『俺』が彷徨っている。
 その彷徨いに、葉月が毎晩、付き添ってくれている。
 以前の俺のように?

 急に、そう思えたものだから……。

「たまには行ってこいよ。お前、ずっと音に触れていないだろう? 行ってこい」

 最後の『行ってこい』には、かなり力が入っていた。
 急にそんな事を言い放った為か、葉月はおろか、達也まで唖然としているではないか。
 隼人もハッと我に返った。

 けれど、葉月が笑顔で言う。

「そうね。行ってくるわ」

 今度は隼人も、笑顔を見せる。
 それだけで、葉月が嬉しそうに瞳を輝かせてくれる。

 達也はしらけた顔をしていたが、そんな葉月を見た瞬間……。
 この男も、たいした男──幸せそうな顔で、葉月に笑顔を見せていた。

 

 葉月にとって『音は必要なもの』──。
 帰ってきた彼女が、隼人に告げた言葉の一つだった。

『ヴァイオリンは、日常に寄り添っていてくれたら、それで良い物だと分かったの。私をステージに立たせ、スポットライトをあててくれる道具じゃない。私の声と一緒なの……。これからは愛する人々に、日々の声を音にして届けたい。そう思った』

 彼女と食事した時に、そう言っていた。
 その時の葉月の姿が……顔も瞳の色も、声も、全てが綺麗なこと。
 それを見て隼人はまた、近寄りがたい存在になってしまったと思ったが、それでも『欲しい』とも思った。
 でも、それこそ『目の前の綺麗な女性』の姿があるのは──手放した隼人ではなく、隼人が手渡した『義兄』が、彼女をここまでに遂げさせたのだ。

 俺じゃない、俺が彼女をここまで輝かせたのではない。
 俺は彼女を手放した。
 その手放した彼女は、今、煌めきながら歩み始めた。
 だから、行けばいい。
 今度は『俺の闇』とばかり一緒にいたらいけない。
 行っておいで……。

 今はお前が向かう所に、一緒にいてあげられないけれど。
 でも、お前はいかなくちゃいけないよ。

 そう……それは『この前』、俺がそのように望んだんだ。

 彼女が一人で『音』を愛している姿を、今はそっと遠くから見守る事しか出来ない。

 隼人は心の奥で、静かに葉月に謝っていた。
 まだ、俺はお前の美しい音と真っ正面向きあえる心は持っていないよ……と。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 なのに──19時を過ぎても、葉月は忙しそうだった。

「四谷の奴、きっと待っているぞ……」

 あの達也が、そんな葉月の忙しそうな姿に、心配そうにそっと一言。
 達也としては、約束をしたのに待たせてしまう大佐嬢とか、四谷という男云々よりも、『音と触れ合う葉月』の事を思って言っているのだ。
 隼人も、『悲しい身分だな』と彼女の為に影で嘆くが、そこは『仕事』──哀しい性、犠牲にするなら『プライベート』だ。

「仕方がないでしょう。今日は空も陸も訓練が多かったのだから……安易に約束した私が悪かったのよ。後で講堂に連絡するわ」
「そっか。残念だったな……」

 達也もそこは隼人と同じく分かっているだろうから、葉月の為にちょっと残念そうに呟いただけ。

「そんな大佐嬢に申し訳ないけれど、俺は片づいたから……」
「どうぞ、海野中佐……お疲れ様」
「普通、側近が先に帰るっておかしいんだけれどね」

 達也が『お役に立てない』と、不満そうにしながら、帰り支度を始める。

「私はただ大佐という肩書きがあるだけよ。そこにいる若い士官と変わりないわ。働かないでどうするのよ」
「そりゃ、そうだけど」
「これからそうなるように、期待しているわー。達也」
「おう! 任せろ! お前に楽させてやるからな〜」
「あはは! そうなって、そうなって!」

 稼ぎがない若夫妻みたいな会話を気取った達也に、葉月は長年の付き合いある同期生らしい、気のおけない楽しそうな笑い声を立てていた。
 隼人もそれを見て、そっと笑ったりしている。

 達也が出て行った。
 その直後に、大佐席の電話が鳴った。
 きっと『彼』だ。

「ごめんなさい──やはり、終わらなくて。ええ、また……誘って下さい。他の皆様にもよろしくね」

 やはり四谷少佐からだったようで、残念そうに受話器を置いた葉月を見て、隼人は密かに溜め息をついた。

「なにか手伝おうか?」
「結構よ。たとえ貴方でも、隊長業務は渡せません」
「……だよな」

 それでも葉月は、にこりとだけ微笑んで、また書類に向かってしまう。

 隼人もまだ手元か空かず、また集中力の世界に入り込み、もう……大佐嬢が気の毒などという事すら忘れ、仕事に打ち込む。
 小一時間、経ったのだろうか?
 『終わった』と思って、隼人が集中力世界から、外の世界へと戻ってくると、そこには帰り支度を始めている大佐嬢。

「隼人さんも終わったの?」
「ああ。終わった。俺も帰ろう」
「そう。じゃあ、私はお先に」
「うん、お疲れ様。大佐嬢──」

 以前は黒いリュックが定番だった彼女。
 今は、大きめでエレガントなトートバッグを肩にかけている。
 『楽譜』を毎日、持ち歩いている様だった。
 本当に参加する時は、ヴァイオリンを持参しているが、この頃、その姿は見ていない。
 けれど──楽譜は持ってきている。
 時々しか見かけないが、短い休憩時間に、まるで雑誌でも眺めるかのように、その楽譜を眺めている時がある。
 そんな時の彼女は、とても楽しそうにハミングをしている。
 それだけ……『音は身近』になって帰ってきたのだろう。

 その大きなトートバッグを肩にかけ、大佐室を出て行った。

(今夜は来るのか? 来ないのか?)

 ふと気になった。
 たいてい『行く、行かない』の意志を伝えてから、葉月はやって来る。
 突然やって来るとか、何も言わずに来ない日は絶対になかった。
 二人きりになっていた今も何も言わずに出て行ったから、『来る気』の様な気がしているのだが?

 隼人も手早く帰り支度をして、本部を出る。
 近頃は、後輩達の方が帰りが遅い。
 テッドに柏木は毎度の事──彼等に声をかけて、帰路につく。

 外に出ると、また……小雨。
 この頃、雨が多いなと思いながら、隼人が駐輪場へと向かうと、途中で通りかかった駐車場に赤い車がまだ残っているのを発見。

(帰っていないのか?)

 ふと気になって、隼人が直ぐに思い当たったのは『音楽講堂』だ。
 この時間だと、もう、閉められていると思うのだが?
 まだ、四谷達が粘って待っていたら困ると思って、出向いた可能性もあるかもしれない。

「……」

 今まで、葉月が彼等と会う事には、なんにも気にならなかったし、今夜だって本当は行かせてあげたかった。
 本当の気持ちだ。
 だが、もっと違う気持ちが隼人の中で、隼人を揺さぶった。

 本部棟が並ぶこの棟舎の裏手に、音楽隊の棟がある。
 小さな一棟で、側にはドーム型の屋根の講堂が芝生の中にある。
 そこの明かりがついていて、ピアノの音が聞こえた!

 芝生の中にある講堂へ向かう一本道を隼人は歩く。
 音が鮮明になる。

(葉月だ!)

 判る!
 ここで、これだけの音が奏でられるのは『葉月』しかいない!

 しっとりとした小雨の中、美しく響き渡るその曲は……葉月が隼人の部屋でも良く聴いている曲。
 ジャケットを覗いて確かめたその曲は──シューベルトの『アヴェマリア』。

 その曲が、音楽隊の芝庭に響いていた。

 僅かな隙間から光が漏れている講堂の扉──。
 その扉を隼人は少しばかり開けて、中を覗いた。

『は、葉月……!』

 急にもの凄い熱風に襲われたような感覚になる!
 目に飛び込んだのは、グランドピアノの前で、懸命に鍵盤に向かっている葉月だ。

 彼女がピアノを弾いているのをみたのは、これが初めてじゃないのに!
 でも……『音』が違う気がした?
 以前、スタジオで聴いていた時でも……どこか彼女に迷いがあったのか? と思わせるような。
 今、隼人の耳に届く音は、とても鮮明で、そしてその音の強さが、まったく比べものにならないくらいに、潔く聞こえる?
 これは大きな講堂だからだろうか?

 その中で、静かに燃えているような栗毛の女性の姿──。

 そんな衝撃に襲われる。
 まるで金縛りにあったかのような……そんな衝撃だ。

 彼女じゃない。
 前の彼女と違う。
 それだけが分かる!

 その音、その姿に惹かれてしまうように……隼人はもっと扉を開けてしまっていた。
 足を一歩、踏み入れた時だった。

「さ、澤村中佐!」
「!」

 踏み入った途端、そのドアの側にいたのは『四谷少佐』だ!
 やはり、彼は待っていたのか……! と、思ったのだが。

「初めてですね。こちらに来て下さったのは」

 彼もヴァイオリンをたしなんでいると、葉月から聞かされている。
 それだけあって、右京に似たような品良い青年が、爽やかな笑顔で隼人を迎えてくれる。
 彼は隼人を見て驚いていたが、その爽やかな出迎えが意外な反応に思えた。

「いや……その」
「私が講堂の当番の時に、大佐嬢をお誘いしているんですが。今夜も、もう遅いので締めて帰ろうかと思ったら……。彼女がやって来て『どうしても弾きたい』と……」
「はぁ。そうでしたか──」

 なんだか彼女を追いかけてきた事が、ありありと彼に見透かされてしまい……。
 もう、回れ右で引き返したい思いに駆られる。
 すると、目の前の爽やかな青年が、隼人にある物を差し出していた。

「講堂の鍵です。どうぞ」
「え?」
「その代わり、明日の朝一番に、僕に返しに来て下さいね」
「いや、それは! 駄目じゃないか? こういう管理責任は、こんな私情で……」
「責任は僕がとる覚悟があって渡しているのです」

 四谷はその鍵を『ぎゅ』と隼人の拳の中に押し込めてしまった。
 そして、遠い目でずっと先にある『ステージ』へと目線を馳せる。
 そこには、グランドピアノに向かって、夢中で鍵盤に向かっている葉月が……。

「すごいでしょう? 初めて聴いた時も愕然としました」
「愕然?」
「楽譜に縛られない、心で弾いているから──。誰が言ったのだろう? 彼女の事を『無感情令嬢』だなんて、嘘だ! と……ね。それぐらい、震わせられたんです。彼女は『音』が何であるか知っている者で、なおかつ『表現』できる人ですよ」
「音が……なにか……」

 そして四谷は、隼人を見て、さらに微笑んだ。

「今日はどうしたんだろう? 胸の中の想いが溢れて仕方がなくて……ここに来てしまったようで」
「少佐……」

 隼人に直感が走った。
 彼は、葉月と『同じ感覚の持ち主だ』と──。
 『音』で、何かを感じ取る特有の感覚を持っている『音楽家』だと。
 だから、葉月の今夜の音がどのような状態かも、一目瞭然のようだ。

「僕だって馬鹿じゃない。彼女と何度かああして音合わせをして、分かっているんですよ」
「分かっている?」

 さらに彼が優美に目元を緩め、隼人に微笑みかける。

「誰かを深く愛している──時にそれぐらいの想いに浸って、彼女は正直に表現している」
「!」
「つい最近、出会った僕のはずがないでしょう? どなたの事かと彼女に尋ねるのも野暮な事」

 照れて良いのか、それとも、否定すればよいのか分からずに戸惑っていると、それすらも彼に見透かされてしまったようだ。
 彼が可笑しそうに笑う。

「彼女には時々言うんです。音じゃなくて、本人にぶつけた方が、『本来の方法だ』と。すると面白い事に、意外とあっさりとあの大佐嬢が顔を真っ赤にして照れるんですよ。ほんとう、違う意味で彼女との付き合いは楽しくなってしまって。なんせ、音合わせをして楽しいと思ったのは、彼女が初めてです。ですから、彼女がこないと、僕も音で語り合える手応えに飢えてしまいましてね」
「そうだったんですか……」
「と、海野中佐にもお伝え下さい」
「すみません……。もしかして、今日の内線で……聞こえてましたか」
「ええ」

 堂々とにこやかに答える彼に、達也がやった無礼なのに、何故か、隼人の方が恥ずかしくなってしまう。
 と、言う事は『お部屋に通っている』も、もうバレバレじゃないか!? とも、分かってしまい……。

 すると、曲の途中なのに急に音が止まった。

「四谷さん?」

 小声で話していたのに、その囁きが彼女の音を濁してしまったのか、葉月がこちらを向いていた。

「は、隼人さん……」

 葉月がとても驚いた顔で、硬直したようだ。

「では。僕はこれで──“ごゆっくり”」

 彼がにこやかに去っていく。

 ステージのグランドピアノの前で、なんだか『見られてしまった』と言うような顔をしている葉月。
 そして……思わず知らぬ彼女に触れてしまい、なのに、その熱風にあてられて戸惑っている隼人。

 静まった講堂に、小雨の音だけが響いていた。

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