-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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1.杞憂と願う

 ああ、心なしか。青空の色合いが濃くなってきた気がする。
 夏の爽やかな水色でなくて、触るとひんやりとしそうな濃い青だ。
 そして──空が高くなった気がする。
 風も、つきさすような鬱陶しい暑さを鎮めたように、肌に優しくなり……。
 そう言えば、聞こえてくる蝉の声も……晩夏の唄声に変わってきた。

 と、彼はなにげなく……。仕事部屋の窓辺から見える景色を、ぼんやりと眺めていた。

「俺は──。『ひぐらし』が好きだな〜。あれが鳴き出すと、ヴァイオリンを弾くのが申し訳ない程でねえ」

 誰に話しかけたわけでもない。いわゆる、独り言だ。
 『俺も歳か』と思ってしまい、思ってしまうこと自体に頬を引きつらせた。『俺様』には、ちょっと許せない感覚だった気がする。
 だが、返答が返ってくる。
 女性の声だった。

「毎年、この季節になると言いますね。もう、何回、聞かされたかしら?」
「!?」

 右京は驚いて、事務室への向きに椅子を回転させた。

「げ。高田」
「なんですか? ちゃんとノックもしましたし、少佐も『どうぞ』と言ったではありませんか?」
「まじ?」

 音楽隊長室のこぢんまりとしている事務所。
 窓際にある隊長席で、窓辺の景色を楽しんでいた右京の目の前に、いつのまにか長年の後輩で部下で補佐役をしてきてくれた『高田由美』がいた。
 昔、彼女に淡い思いを抱いたことはあるが、熱烈にアタックしていた同期生がいたので──身を退いた、と、言えばいいのか。諦められたと言えばいいのか? それとも……。
 とにかく、それ以降でも、彼女とは清き同僚関係を築きあげ、長い付き合いである。以上に──何事に置いても、夫共々、信頼が出来る友人だった。

 その彼女がいつのまにか、隊長席の前にいて、訝しそうな顔で珈琲を一杯……置いてくれたのだ。

「お、サンキュ」
「それに、内線で『一杯くれ』と申しつけてきたではありませんか」
「そうだった」

 ……思い出し、右京は溜め息をつきながら、コーヒーカップを手に取った。

「らしくありませんわね。如何されたのですか……?」
「……」

 ものすごい心配顔。
 彼女は時々、こういう顔をしてくれる。
 そうする時、どこか右京の胸の奥で──忘れたはずの甘い疼きが起こる。だからとて、それがどうした? 甘い疼きが起こること自体『長年の慣れ』だ。その理由だって否定もせずに、自分で把握している。『一度、恋した女』に僅かにときめく男心ぐらい、残っていたって当然。
 ただ……『把握』しているから、『コントロール』が出来るというもの。
 彼女は親友の女房だ。それ以上のなにものでもない。
 だが、そんな長年の関係故に──。彼女は右京のことをよく知っている。
 よく知っているから。彼女は……今の夫を選んだのだと言っても良いだろう。

 心の奥底にしまいこんだ『青春の残像』。
 もしかすると俺達はそこで『繋がっている』。
 彼女の心配顔は、他の女性では絶対に出来ない顔だ。
 決して、言ってはいけない言葉──『俺も』、『私も』。──『本当は恋していた』。
 右京の一人思いこみの可能性があるが、何処かで確信していた。
 しかし、決して──それを見せ合わないこと。一生、死ぬまで。それが右京の『美学』だ。

 その彼女の顔で……右京は彼女を『他の女性』とは一線を画し、『二人だけの信頼関係』を築き上げてきたと言っても良いだろう。
 だから、彼女が心配する時は、余程と言っても良い。
 だが、そんな彼女でも……。一線を画していても、『その他大勢』の位置に押しのけざる得ない事も多々ある。

「お! もう、そんな季節か!」
「え?」

 右京のそんな心を揺れさせた彼女の唇を指さした。

「今年の新色が出たんだな。今年はローズ系もありなのか」
「あ、気が付いて下さいましたね。流石、少佐」
「うん。お前は暖色系の秋色が似合うかと思っていたが、そういうローズ色でもOKだな」
「有り難うございます。少佐にそう言われて、やっと選んだことに自信が持てます」
「口紅で、季節を知る。うん、女性にはずっと『華』でいて欲しいものだ」
「うちの主人もそう言ってくれたら、いいのに。言ってくれるのは少佐ぐらいですわよ。結婚したら、特に……」
「……」

 右京は一時、黙る。
 その瞬間に、由美がハッとした顔に。
 言ってはいけないことを言ったと思ったのだろうか?
 だが、彼女も同じだ。そこは絶対に上手く誤魔化す。
 だけれど、右京は彼女が誤魔化す前に、ふっと彼女を真剣に見つめた……。

「──『由美』。結婚すると、男はそんなものだ」
「……少佐」
「だけど男は見ている。女房が花でありつづけていることを。しかしそこで、言わなくても良くなる。相手も分かってくれていると思う。特に──男はな。男がそうあることが出来る状態であるのは、男が、いや、旦那が女房に安心している証拠だ。良い結婚をした証拠じゃないか」

 そう言いきると……。
 目の前の『可愛い後輩』が、急にムッとした顔になった。

「そんなこと。『右京さん』に言われなくても、結婚している私が、一番よく分かっています! 失礼します」
「ああ、そうか」

 二人でつっけんどんな言葉を投げ返し合う。
 右京は密かに、小さな溜め息を落とした。
 すると、向こうも出て行こうとしていたドアの前で、立ち止まっていた。

「でも。やっぱり女は気が付いたら、言って欲しいんです」
「分かっているよ。それも……」
「あの、いつも少佐にそう言ってもらえるの。楽しみにしているんです、私」

 彼女の切なそうな顔に、右京は何故かカッとなりそうになる。
 『それ以上を言うな』、そして『そんな顔をするんじゃない』と、彼女を怒鳴り飛ばしたくなる。
 だが、右京はグッと唇を一瞬だけ噛みしめ、顔をあげる。
 そして話がずれてしまったが、コーヒーを持ってきて欲しいと頼んで呼びつけた『本当の目的』を思い出し、それを告げる。

「そうだ。昼過ぎに、葉月が来るんだった。忘れていた」
「え? 葉月さんが? まあ、こちらの事務室に」
「ああ。後輩をつれて、用事があるらしくてな。それでその後輩のことで、俺に頼みがあるとかさ」
「そうですか。久しぶりだわ、楽しみ……。あ、それなら私、美味しいお菓子の買い出しに行ってきます」
「頼むよ。そうだ、葉月は近頃『モンティーヌ』のシュークリームがお気に入りみたいだな」
「あら! 私も大好き。では、買いに行ってきますわね」
「ああ、頼むよ」

 もしかすると……。彼女なら……。
 右京の僅かな表情の変化に、気が付いてたかも知れない。
 そして、そんな右京の誤魔化すような切り返しに、ワザと明るく乗ってくれたかも知れない……。

 胸の奥で甘く疼くどころか。
 妙に苦しくなる。
 愛しているとか恋しているとか、そんな以前の苦しさだ。

「車で行くのか」
「ええ」
「……気をつけてな」
「……はい」

 事故に遭うのじゃないか?
 急にいなくならないでくれ。
 時々、そんな気持ちになる。
 彼女の沈んだ返答にも、いつもの『二人だけの隠した確信』を感じてしまう。

 でも、彼女は去っていく。

 それでいい──。
 ありふれた幸せが、一番幸せなんだ。
 そのままでいてくれ。
 俺には『やりたいこと』が『残っている』──。
 女を愛している暇はないんだ。

 そして、右京も見送る。

 

 ずっと、昔──。
 ヴァージンロードを歩いた美しい花嫁姿の、彼女を見送ったように……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 十二歳も歳が離れた従妹が、後輩を連れて現れたのは、右京がランチを取って事務室に帰ってきて直ぐだった。

「お食事の時間だと思って。私達も外で一緒に済ませてきたところなの」
「この度は、お世話になります……」

 従妹が連れてきた『後輩』は、ラングラー少佐だった。
 だが──同じ年頃の二人が一緒に現れて、右京がまず思ったのが……。

「なんだ、そのちぐはぐな服装の違いはっ」

 葉月は、シックでシャープな黒いスーツで決めているのに対し、テッド=ラングラーはいつも通りの軍服だったのだ。
 すると葉月が、顔をしかめた。

「そこなのよっ。お兄ちゃま!」
「は?」

 なんだか腹立たしそうな葉月に対し、部下で後輩でもあるテッドが急に、居場所がなくなったように、小さくなった気がする。

「実は。今回、こうして本島に出てきたのも、澤村がお世話になっている民間企業のある方と会う事になって……」
「澤村がお世話になっている? 彗星の事か」
「うん。訳あって、そこの女性社員の方とね。……でもね。澤村が言っている事がイマイチ良く把握出来ないのだけど。なんとなくね。会っておこうかしら? という気持ちになったものだから。一応、非公式っていうのかしら? 軍服で会うべき事なのかどうか迷ったものだから」
「ああ、なるほどな」

 従妹の恋人……いや、側近である澤村隼人が、今、力を注いでいる仕事に関わっている企業の者と大佐嬢が会う。
 本来なら、隼人がなにもかもやるべき所で、『大佐嬢に会って欲しい』という要望が出ているところが、右京にも腑に落ちないが? とにかく、澤村が大佐嬢である従妹に『繋いだ』のには、それなりの予感や判断があってのことだと、右京には思える。そして、従妹も側近の彼と同じ何かを感じたから、『何故、私が?』と思いつつも、出てきたのだろう。それも分かった。
 そこでこの本島と言う軍の外で、民間企業人と落ち合うにしては『軍服』では目立ちすぎるという感覚が起きたのだろう。
 澤村がそうであるように、表だってしている業務なら軍服でも差し障りないのだろうが? 従妹は『これは非公式』と思って私服でくる判断を……。

 では? 近頃、従妹の側でメキメキと補佐としての力をつけ始めた栗毛の青年は、何故? 非公式服装でやってきた上官の付き添いに軍服なのだろう?
 ──と、右京がテッドを指さして聞こうとした所……。

「テッド。スーツを持っていなかったの。ラフな私服とこの軍服だけ」

 従妹が、恨めしそうにテッドを見上げた。

「あー。なるほどな」

 右京もすぐに分かった。
 とりわけ、軍人の若者には多いかも知れない。
 軍服という特殊な制服が、我々の『フォーマル』だ。
 制服、正装、喪服。この三種の軍服を持っていれば、何処でも通用する。
 特に入隊して数年の若者ならば、まだ、それだけの場所に行く機会も少なかろう。
 正装はともかく、喪服など何度も袖を通すものでもない……だろうし、職場と公式の場でその三種の制服で済むならば、後はそれぞれの私服しかあるまい。

 ところがだ。
 軍服という服装が特殊なだけに、今回、従妹がそうしてきたように『目立ちすぎる』という難点もある。
 従妹が大佐嬢となり一年半。そろそろその地位も確立され定着してきたことだろう。もう従妹はここ一年で『大佐』としても、かなり一人歩きが出来るようになっていた。
 それ故に、彼女の判断だけで、あちこちに顔を出すことにもなるだろう。
 そんな時──補佐の彼等が『スーツを持っていない』では済まない。

「分かった。お兄ちゃんが手配しよう。いつまでにいるんだ?」

 細かい状況を語らなくても、すぐに状況を判断し、やって欲しいことをサッと察してくれた従兄の素早い反応に、従妹の葉月は、尊敬の眼差しをキラキラと向けてきた。
 小さな従妹にこうして尊敬される瞬間が、どうしても幼い頃から、右京も駄目になってしまう習慣がある。
 顔がにやけそうになってしまう。
 小さい愛らしい従妹には、そんなふうに素直にさせられそうになる魔力がある。
 それは女性としてでない、家族特有の『兄心、妹心』の良くある心の掛け合いにしか過ぎないが。
 お兄ちゃんは、出来ないことはないぞ。と、いつまでも妹にはパーフェクトな人物でありたかったりするものなのだ。
 そんな従妹の『わざわざやってきたお願い』。それも『服飾』に関してなら、『俺様の得意分野』でもある。
 ここは、張り切ってお願いを聞いてやろうじゃないか? ところがだった……。

「明日の午後」
「! 明日だと!?」
「午後の二時に都内で落ち合う約束なの。急に決めた本島行きで、テッドに同行をお願いした訳だけど、もしかしてと確かめたら持っていないことが判ったの……!」
「だからって、お前なぁ……! スーツはなぁ……!」
「分かっているわよ! だからお兄ちゃまに頼みに来たんじゃないの? ただでさえ、私達、離島で暮らして、しかも仕事ばかりしているんだもの。なかなか出てこられないんだから、仕方がないじゃない! この為に、わざわざ前日の今日、来たのよ? そうでなければ、明日の朝一便で来ているもの!」
「うーん──」

 例え、オーダーでない既製品のスーツでも、最低、スラックスの裾直しなど……『お直し』が必要になるものだ。
 普通、ショップでは少しの『お直し』でも、出来上がりは『一週間後』と言う。
 例外として三日とか明日とかの場合もある。それは店員との交渉にもよる。

「お兄ちゃまなら、なんとか説得出来ない?」
「……分かった。連絡しておく。その代わり、その店で絶対に決めてくれ」
「分かったわ。テッドもそれで良いわよね?」
「お願いします。私、ブランドとかはこだわりはないのですが。この大佐嬢の補佐官としても、必要性を感じたので、これを機に揃える決意は出来ています」

 葉月になにを言われたのやら?
 付き添いの青年は、妙に従順だった。
 自腹だろう? 彼の若さで見合うランクのブランドのショップを従妹に紹介し、ショップにも連絡を入れておく。

「明日の十一時頃だったら、なんとかなるそうだ。都内で宿泊だろ? 午前中に取りに行けばいい」
「ええ。今夜はビジネスホテルで。たまには同じ年頃の男の子にエスコートしてもらおうと思って。今夜はテッドが良く行くお店に連れて行ってもらうの」
「ほう?」

 随分と変わったものだ。と、右京は後輩の青年に、それは警戒ないお付き合いにチャレンジしている『気むずかしいはずの小さな従妹』を意外な目で見てしまった。
 だけど、従妹は楽しそうで、そして青年もまんざらでもなさそうだった。

「澤村と海野が、良く送り出してくれたな?」
「いいのよ!」

 何故かそこで、従妹が憎々しそうに顔をしかめた。

「彼だって、出張先で女性の部下と楽しく食事をしてきたんだから」
「ほほう?」

 そんな感情を顔に出すようになったかと、右京はこれまた目を見張る。
 だけど、『お兄ちゃん』は知っている。
 自分が気のある男性には、上手く表現が出来ない性分であっても、彼女を取り巻いてきた『兄貴達』には至ってこうした女性らしさを見せてきたのだから。
 従妹の葉月は、元々、こういう可愛い女性なのだ。
 ……なんたって。あの情熱的なお祖母様と、真っ直ぐで一途だった花の従妹と同じ血筋じゃないか。
 右京の本筋の妹二人にしても然り。
 長女の瑠花は大人しい風貌だが、秘めている思いの強さは天下一品、一途さは亡くなった従妹にそっくりだ。
 次女の薫は言うまでもない。こちらも本来末っ子で、きっつい物言いがお嬢様特有の我が儘に見えるが、表裏なく率直に正直に生きているだけ。
 御園の女は皆、何処か人一倍『激しい』一面を持っている。
 この末っ子従妹も例外ではあるまい? それに彼女は『女性』になったばかり。これからだろう……と、右京は末っ子従妹が、どのような『激しい女性像』を見せてくれるのか、楽しみに待っているのだ。
 だが、従妹の変化は『女性として』だけではなかったようだ。

「それにね。最近、テッドや他の後輩とも皆で楽しくお付き合いしているのよ。女の子とも楽しくやっているの。ね? テッド」
「ええ、御陰様で。大佐嬢が元気だと、皆も元気で、活気づいていますよね」

 どうやら……小さな従妹の周りには『輪』が生まれているようだ。
 そして若い者は若い者らしくまとまってきている様子。
 右京にはそう思え、微笑ましい笑顔になっていた。

「それは良かったな。そうだ、高田が今、お茶を入れているから、都内に出る前に、ちょっと休んでいけよ」
「うん! 由美さん、お元気そうね。益々、お綺麗になって。旦那様がお優しいから幸せなんでしょうね」
「……そうだな」
「お兄ちゃま?」

 この従妹には、気を抜けない所なのに……。
 つい、右京は眼差しを陰らせていたようだ。
 家族故に……。そして従妹の勘は『俺譲りで、似ている』所があるのを知っているだけに、右京は『しまった』とも思った。

 小さな従妹には、絶対に匂わせなかった『青春の残像』。
 子供だった従妹には、ただそれだけでも分かりにくかっただろが? 今は……もう、彼女も立派な大人だ。
 しかも益々感度には磨きをかけているだろう『大佐嬢』であり……なによりも、『愛に目覚めた女性』になりつつある。

「葉月」
「なに?」
「ピアス、変えたんだな」
「え……」

 いつもの手ではないが、右京はまた咄嗟にそう言って、女性のある変化に気付くことで話を逸らす。
 そして従妹も、他の女性達がそうであるように、ふと驚きながら耳たぶを押さえつつも、なんだか気恥ずかしそうに、でも嬉しそうに頬を染めたのだ。

「澤村か?」
「う、うん。28歳の記念にと。くれたの……」
「お前に『青い物』じゃなくて、ダイヤか。いいじゃないか。カットが良いな、それ。女性らしい柔らかさが滲み出てくるようなさり気ない、でも存在感ある煌めきが出ているな」
「そう? 流石、お兄ちゃまらしい感想ね。ダイヤが、というより……。私としては、だんだん耳に馴染んで、鏡を見ても違和感なくなって来ているのが嬉しいの。気に入っているの」

 ダイヤが気に入ったのではなく、その耳たぶにつけた『愛』を慈しんでいるのが伝わってくる。小さな従妹が、急に艶やかな女性の顔になる。

「──そうか。『お兄ちゃんから』のブルーパールは卒業か」
「……大事に、しまったわ。でも、ずっと宝物よ」

 今まで葉月の耳たぶに『永遠』のように、つけられていた『ブルーパールのピアス』。
 義兄の純一が、彼女に数々贈っただろう宝飾品の中で、従妹が唯一、好んで身につけていたものだった。
 それすらも……。もう、従妹は手放したようだ。

 新しい愛を注ぎ始めている男性に、幸せな色で包まれているのが、一目見て分かる。
 それも、誰も与え得なかった気持ちも、自ら解放し始めた情熱も。従妹が全てそれらに囲まれ始めている様子が目に見えていた。

「幸せなんだな」
「……うん」

 隣には、職場仲間の青年がいるというのに……。
 従妹ははばかることなく、右京が知っている『小さな妹の顔』で、照れていた。
 そして、青年も分かりきったように、笑っているだけだ。

「失礼致します。お茶をお持ち致しました」
「由美さん……!」
「葉月さん、モンティーヌのお菓子が好きだっていうから、私も食べたいし買ってきたのよ」
「本当に? こっちにこないと食べられないから、嬉しい!」
「ラングラー少佐は、甘いもの大丈夫かしら?」
「大丈夫です。甘党の大佐に鍛えられています」
「まぁ。良く教育されているご様子」

 彼女と若い従妹と青年が、楽しい笑い声をたてて和む様子に、右京もホッとして応接ソファーに腰をかける。

 従妹はひとしきり、後輩の青年とお茶を楽しんだ後、都内へと向かう為に、この横須賀基地を後にした。

「葉月さん、なんだか変わりましたね」
「ああ……」
「良かったですね。少佐──」
「ああ……」
「……嬉しくないのですか? 『右京さん』が一番、心配なさっていたのに」
「そうだな……」

 彼女は知っている人間の一人だ。
 『御園のお家事情』を……。
 だからこそ。遠ざけて遠ざかったと言っても良い。
 そして、彼女も長年──親友の旦那と一緒に、見守ってきてくれたことも、右京はよく知っているし、感謝している。

 それでも……だ。

 右京はうなだれ、眉間をつまんで、苦々しく呟く。

「悪い。暫く──独りにしてくれ」
「……かしこまりました」

 そして、彼女は……『時々』こんなふうになる右京を見てしまう一人でもあり、そこもよく知っていて引き際も良い。
 だけど、そんな時の彼女の顔は哀しそうだ。
 それの共感するような哀しそうな顔に救われる日もあるし、時には……申し訳ないが忌々しくなる時もある。
 今日は……見たくない感じたくない、最悪の気分の方になったらしい。

 ドアが閉まる音──。
 賑やかだった仕事部屋が静かになり、また晩夏の蝉の唄声が帰ってきた。

 ……従妹が幸せだって?
 ああ、そうさ。可愛い従妹は、幸せの道を見つけて歩み始めた。
 勿論、心から祝福している。心から、喜んでいる。

 だが……それが『怖い』。
 何故か? あんなに幸せになりかけているのに、再び突き落とされたら……!?

 従妹は知らない。いや、忘れている……!

「いや──。大丈夫だ。これ以上、何も起こらない!」

 今日も竹林がある鎌倉の自宅に帰る頃には、ひぐらしの優しく哀しい泣き声が、俺を包んでくれることだろう……。
 夕暮れが待ち遠しい。
 そして、夜のとばりが降りて暗がりに包まれるのを心待ちにしていた。

 そうすれば、心を落ち着けることが出来る。
 ずっと、そうしてきた──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 やっと一人きりでも、心が落ち着いてきた頃だった。
 携帯電話が鳴る。
 出てみると都内に出た葉月からで『素敵なスーツを無事に選び終えた』との報告。
 『お兄ちゃま、有り難う』──そんな愛らしい葉月の、昔から変わらぬ声に、右京はそっと微笑んでいた。

 そうだ。今、こんなに和んできている。
 小さな従妹が自分で、乗り越えて手に入れたのだ。
 もし……何かあっても、彼女は戦える。
 そして、俺も澤村もついている。純一だって、海野だって。
 そして彼女の新しい『仲間』だって。

 小さな従妹の幸せそうな声に、逆に右京は心を強くしてみる。

 そうだ。『俺達』は、こういう和むことに慣れていないだけだ。
 そうだ。従妹が勇気を出して受け入れたように、兄貴の俺もそうすればいいのだ。

(……駄目だ。もう今日の俺は駄目だ)

 時々、こうなる。
 誰も知らない。

 右京は席を立って、散らしていた書類を片っ端から片づけ始める。
 つまり『帰る』のだ。つまり『早退』だ。つまり……! 『さぼる』のだ!
 時々、こんなスイッチが入ってしまう……。

 こんな状態で仕事が出来るはずがない。
 誰にも迷惑がかからない内に……『つまり』、逃走するって訳だ。
 ひとしきり庭に出て済む日もある。
 だけど、今日はそれでは気が済まない事が分かる。

 白い車で『何処かに行ってしまいたい』。
 誰も知らない所にだ。
 独りになりたい……!

 由美も許してくれる。
 いつもそうして右京のバランスが崩れそうになった時、彼女はそれが『崩れている』と判っているかどうかは定かではないが、とにかく目をつむってくれてきたのだから……。
 見逃してくれる……。

「少佐……あの」
「!」

 書類を束ねていたら……目の前のドアは開いていて、その由美が、右京を見ていた。

「……」
「……ノック、したのですが」

 彼女の、息が詰まりそうな……また心配顔。
 ノック? 聞こえなかった。
 こういう姿を見られるのは初めてではないが……ただ、見られてしまったのは随分と昔、若い頃のことだ。
 今日は久しぶりだった。……だからか? 右京は愕然としてしまい、書類を束ねていた手を離してしまった。
 さらりと机の上に散らばる紙達。そしてがっくりと右京は椅子に崩れ落ちた。

「また、『いつかのような事』……ですか?」
「……いや。ただの今の気まぐれだ」
「お客様だったのですが。お引き取り下さった方が良さそうですね」
「……ああ。そうしてくれ」

 しかしそれは誰だったかは知っておかねばならない。
 だから『誰だ』と聞いてみる。

「……それが小笠原の、葉月さんを診て下さっているとかいう、産婦人科の女医さんで」
「!」

 右京の心に、急に『カンフル注射』が施されたような感触が起きた。

「会う。通してくれ」
「え? でも……少佐、今は」
「……いつか、来ると待ちかまえていたもんでね」
「そうなの? 葉月さん……何か?」
「いいから、通してくれ」
「分かりました。今、直ぐに……」

(来たか……)

 右京の呼吸も、心拍数も、そして心電も──正常値に戻った。
 自分で分かる。みるみる間に正常化したことを……。

「失礼致します」

 右京の事務所に……一人の女性が現れた。
 金髪で眼鏡をかけた、冷たい目をした中年の女性だ。
 グレーの地味なスーツで、表情がない所など……。

(医者らしいな)

 そうありきたりな感想と印象。
 確か、名前は『ジャンヌ=マルソー』だったか?
 フランス人だが、フロリダの軍医療センターから、ロイに引き抜かれて小笠原にやってきたばかり。

「ご挨拶遅れましたが、従妹がだいぶお世話になっているようで。従妹から先生のお話は良く聞かせてもらっています」
「こちらこそ……。大佐嬢から、素敵なお兄様のお話は、良く聞かせもらっています」

 そこで、やっと彼女が女性らしい微笑みを見せてくれる。

「お話に聞いた通り。大佐嬢によく似ておりますね」
「そうですか? いえ、良く言われますがね」

 ところが、そこで妙に沈黙が漂った。

 実は右京──。
 『この女が来たら、追い返してやろう』と前々から決めていた。
 いつか必ず、この女は従兄である右京の所に『辿り着いてくる』と予感していたのだが、半年してやっと来たようだ。
 半年──いや、やっとでなく『意外と早かった』と言っても良いだろう。

 だから『こちらへどうぞ、お入り下さい』と丁寧に接客する気など、これっぽっちもないのだ。
 ただ、一度会って、あまりこちらが歓迎していないことを、意思表示しておきたかっただけ……。
 するとただ黙っている右京に向かって、彼女が急に……やんわりと余裕の微笑みを見せた。

「……歓迎されていないようですわね」
「お解りなら、このままお帰り頂きたい」
「学会がこちらでありましたので。本島に出てきたのですけれど……近いうちに、一度は……」
「若い従妹が、貴女のことを『お姉様みたい』と慕っていることは知っていますし、そこは感謝しております。今後も、そうして頂けると助かります。ですが……」

 その先の事を、はっきり言っておこうと思った。
 だが──彼女が微笑むまま、右京が言いたいことを……!

「これ以上『一家の事情』に首は突っ込まないで欲しい。従妹のことは家族であるお兄様達が見守っていくから、ただ、従妹を診ていてくれたら良い……。ですね?」
「──!」
「察した所、お兄様はなにもかもご存じのようですから、私も隠さずに言わせて頂きますが……」

 今度は、右京がその先を言ってやる。

「今は産婦人科医だが、医者になって数年は心療内科医だった。ですよね? 昔取った杵柄ですか?」
「……正直に言えば、そうです」

 そこで右京はあからさまに、顔をしかめていた。
 そして、手元にあったメモに、走るようにある物を記す。
 それを手にして、ドアに立たせたまま迎え入れない女医の元に向かった。

「私の携帯の電話番号です。従妹に妙な変化があった時、緊急を要する時だけ、お知らせ下さい」
「……」
「今はただの産婦人科医。ロイが何を言ったか知りませんが、正直、迷惑。そのままでいて下さいな」

 彼女の鼻先に、小さなメモ紙を突き出す右京。
 そして、それを眼鏡の奥から、冷めた眼差しで見つめる女医。

「分かりました。お邪魔致しましたわ」
「いいえ。わざわざ、有り難うございました。ご心配して下さったお気遣いは、感謝致します」
「いいえ。医者として当然の……」

 だが、そこまで言って……彼女は中途半端に黙り込み、そして一人でふっと微笑んだのだ。
 なんだか右京には不気味に見えた。

「失礼致しました」

 女医がそのまま退いていった。
 ドアを出て行く……。
 案外、あっさりと退いたので……少しばかり、拍子抜けだった。
 ずっと『来たらこうしてやろう』と身構えていただけに……。

 ホッとして席に戻った。
 先程までの、『崩れかけた俺』は……もう今の事で律されて何処かにいなくなったようだ。

(確か、妹の瑠花と同い年だったな)

 女医のせいだろうか?
 女という文字はつけど、何処も女の匂いを感じさせなかった。
 やはり、医者なのだろう。

──ルルル──

 携帯電話が鳴る。
 また葉月だろうか? お直しで何か問題でも? と、手に取ると。

『!?』

 登録されていない番号が……!
 もしや……!?

 出なければいいじゃないか……。
 だが、右京には予感があった。
 あの女医が『従妹を診ている』と知った時から……予感が。

 そんな……恐ろしい思いが、電話を取らせた。

「はい……」
『早速ですが。緊急を要します。これで、お解りいただけましたか?』
「……」

 右京は『解った』と頷いてしまっていた。

 右京の予感──。
 それは『彼女は恐ろしい女』。右京にとっては……だった。

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