-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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6.気づかぬ卒業

「ちょっと付き合ってもらえるかな」

 経理班に来た達也は、泉美の席の横に来て唐突にそう言っていた。
 泉美は面食らって固まっていた。泉美だけじゃない。経理班の女性皆が勤務中にそんなことを言いにやってきた海野中佐のことを達也のことではないように見ていたのだ。

 ここにきて、その雰囲気に気がついた達也も固まってしまった。
 この班、全体の空気が固まってしまい、達也は自分で作って置いて逃走したくなったぐらいだ。
 だが、泉美がやっと反応した。

「お話しすることはなにもありませんけど」
「俺はあるのだけど」
「──先ほどのお話なら、もう御園大佐も承諾して下さったでしょう。それ以上どうしてもというなら、御園大佐と相談いたしますから」

 泉美は怒ったような声で余計に頑なな様子になってしまい、そのままキーボードを打ち始めた。
 その頑固そうな横顔。意外だった──。『普通、普通』と目立たない彼女の事を、まるで存在していないように見ていただけに、彼女がこんなふうに自分を露わに表現するなんて──と。
 だが、だからこそと達也は思った。『彼女にも個性があるのに、普通普通と見定めて、おざなりに扱っていた罰なのだ』──と。そんな自分が情けなくて悔しくて、達也はそこで黒髪をくしゃくしゃとかきまくってしまった。
 そして周りの女の子達が、そのやりとりを物珍しそうに眺めているのもかまわずに、達也は再度、泉美に向かう。

「その大佐嬢に『一切を任されたから』。俺の責任になるんだよね〜」

 泉美が驚いたように達也を見上げた。
 すんなり承諾してくれた葉月が実は『説得してこい』と達也を送ったからだろう。
 彼女の心に少しばかり隙ができたようなので、達也はそこを逃さず、彼女の席の横に身をかがめた。そして彼女の顔を覗き込んだ。
 結構、大きな二重の目。なのに華やかさを抑えているメイクは彼女らしいナチュラルな彩りで、こうして近づいてみて初めて分かる色合い。それに──コンタクトをしていた。
 そうして長身の達也から身をかがめて目線を合わせてきたので……泉美がさっと顔を遠のけた。そしてカッと頬が染まったのが分かった。
 そこの隙につけこむわけではないが『必死』である今の達也には絶好の『隙』だった。

「一方的すぎないか? 俺の話も聞いて欲しいな。それぐらい聞いてくれてから『辞める』と言うなら、俺も諦めるけど」
「……う、海野君」
「今は諦める気、まったくしないね。俺、しつこいよ。小僧時代の俺を知っている泉美さんなら分かるだろ? 俺の諦めの悪さ」

 それは『小僧時代からの恋をずっと続けている』と言うこと。──つまり『御園大佐嬢への恋を諦めない男』という有名な話のこと。
 すると泉美ではなく、彼女のデスクと角会わせにいる班長の洋子が吹き出した。

「泉美ー。行った方が早く話が終わると思うなあ、私は。海野君の一途なしつこさは手に負えないわよ」
「そう。こうして一時間置きに邪魔しに来ちゃおうかな。俺」

 洋子が笑い出したのに合わせて、達也も笑い飛ばす。
 そしてやっと彼女の表情が柔らかく緩んだ。

「……ごめんなさい。本当にこれが手が離せなくて。今日の終礼後でも良いですか? 中佐……」
「え? も、もちろん! 待っているよ」

 泉美がやっと笑みを見せてくれた。が、彼女はやっぱり凄いのだろうか? 気になることがなくなったせいか、そうと決まったら『それは後で存分に』とばかりに、怖いぐらいの硬い顔で仕事に戻ってしまった。
 達也の方が気圧されて、そこを去ったぐらいだ。

(やっぱり俺、情けねえー)

 大佐嬢には投げ飛ばされるし、馴染みあるお姉さんの事は実は何も知らないで扱っていたりで……散々だ。
 そして大佐室に戻ると、今度は、隼人が達也の顔を見るなり『にや』と笑ったではないか!?
 葉月は既にいつもの仕事の顔でデスクに向かっているが、テッドと小夜が揃ってさっとキッチンに隠れたので『喋ったな、この野郎』と思った。

「俺も知らなかった。今、じゃじゃ馬にそう言うことは早く言えと俺も言ったところ」
「あっそう」

 隼人が知らなかったとか、今知ったとか──。そんなことはもうどうでも良くなっていた。
 葉月はもう何も言わないし、何も聞かない。
 自分の手を離れて、すべては達也に任せたという姿勢なのだろう。
 それでも彼女はきっと。達也の下で泉美に何かあっても、自分が責任を取る覚悟をしていることだろう。
 それこそ、今に始まったことではなく。きっと……泉美の身体のことを知ったときから、葉月は覚悟を決めていたのだろう。

 何かが起これば、すべて隊長である自分の責任となる。
 そして、どんなに非がなくても、何かがあれば『責めどころ』は自分になるのだと言うことも。

 それが分かった。
 だから達也も決めた──。
 御園大佐嬢と同じ覚悟をだ。

 絶対に泉美を、今の囲いから引きずり出してやると……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今日も無事に業務時間内の仕事を終えた。
 定時がやってきて、本部内での終礼も終える──。のだが、大佐室関係者は皆、残業だ。
 達也も大佐室のデスクで本日の会議のまとめに入っていたが、落ち着きなく腕時計を確認してしまう。
 終礼が終わり、残業をしない者はそろそろ退出するころだ。
 泉美も……きっと、その中の一人だ。

「ああ、しまった。あれ、やっておかなくちゃいけなかった。工学科に行って来るよ、大佐」
「いってらっしゃい、中佐」

 いつものごとく、葉月も忙しそうにしている。書類に向かったまま、隼人の姿など見もせずに送り出す。そして隼人も告げるだけ告げて出ていった。

 達也がもう一度、腕時計を見たときだった。

「あ、いけない。コリンズ中佐と約束をしていたんだわ」

 今度は葉月が急にばたばたと持っていくものをまとめ、達也に『留守番、よろしく』と言って出ていった……。
 大佐室に一人になった。

「失礼いたします」
「!」

 帰り支度を整えた泉美が遠慮がちに入ってきた。
 長袖の上着を小脇に抱え、大きな革のショルダーバッグを持っていた。

「澤村君と葉月ちゃん、出ていったみたいね? 気を遣ってくれたのかしら?」

 達也しかいない大佐室を泉美が見渡した。
 いつもこの時間も集中的にデスクに向かっている二人が揃って出ていったことは、そういう事も考えられる? と、どっきりとした。
 そういえば? 定時が過ぎれば大佐室の残務の様子伺いにくるテッドも柏木も小夜もテリーも、誰一人入ってこないぞ? と、やっと気がついた。達也は『なんだかなー、気を遣いわれるのもやりにくいじゃないか』と、密かにふてくされた。それに泉美には見抜かれちゃっているじゃないかと……。

「カフェに行こうかと思ったけれど、ここの方がいいかな。静かだから」
「……仕事の話でしょ。ここで手短でいいわ」
「手短じゃないよ。俺はとことん、話したいね」

 やはりまだ『辞退』と我を張る彼女と、そしてまだ諦めていない中佐のすれ違う言葉。
 しんと、沈黙した空気になる。
 泉美に黙られると、なんだかいつもの軽い調子が出来なくなる。そんな重みを彼女の無言は放つのだ。

「コーヒー、入れるよ。座っていてくれ」

 その重みから逃げるように。そして彼女を逃さないように達也は泉美をソファーに促してキッチンに向かった。
 ちゃんとメーカーで煎れて綺麗な花のカップに注ぎ、彼女に持っていく。
 泉美の前に置いて、達也は向かいに座った。

「秘書官のコーヒーが頂けるなんて、カフェでおごってもらうより貴重かも」
「おいしいかな?」
「もちろんよ。さすが、海野君ね」
「それは良かった」

 泉美が嬉しそうに笑ってくれて、達也もほっとする。
 彼女の構えが少しだけ和らいだ気がした。
 だが、彼女が静かにカップを置くと、次にはやっぱり硬い顔になっていた。

「……海野君はなんと言って私を説得するつもりなの?」
「一緒にやろうよ。かな」

 迷いもなく率直に答えた。
 彼女には迷いや取り繕いはない方がよい。信じてもらうなら率直が一番だと達也は思っている。
 それに、彼女に対しているからでなくても、それが『俺だ』とも思っているからだ。
 だから、達也がまっすぐに来たのが意外だったのか、彼女から仕掛けてきたくせに目を見張って固まっていた。だが泉美は、すぐに小さく笑った。だけどそれは達也の言葉に喜びを感じた笑みでもなく、可笑しくて笑った顔でもなく、呆れたような顔だった。

「そういう『前向きなチームワーク』は嫌いじゃないわ。でも、それは簡単に出来ないことよ。結局、迷惑をかけたり足を引っ張ったり……。足並みや調和を乱した者への評価は、厳しいわ」
「そんなこと、当たり前のことだ」
「え?」
「人間なんて、俺も含めて誰だって、結構あっさり悪者になっていたり、見てしまったりするもんなんだよ。だけど、誰だって悪気を持ってしているのではなく『それが人間』。泉美さん、そういう人間の残酷な面々、俺より見てきたと思うんだよね。だからさ、とっくに諦めついているだろ?」
「……諦め?」
「そうだよ。誰も文句を言わない世界になる日なんてないってね。どんなにこっちの事情があっても残酷なぐらいに評価する『世間』はあり続けるって……諦めついているだろ? それともついていない?」
「……」

 また黙った泉美ではあるが、今度は達也の目を見て考えているようだ。
 こんなに真剣に集中して達也の目をみてくれる彼女は初めてだった。そう……仕事をしている彼女の怖いくらい真剣な顔と同じだった。
 そんなとき、この『目立たない彼女』が急に誇り高き自信を秘めた女性に見えるから不思議だった。

「……諦めついていない方になるわ、往生際悪くあがいている方よ。だけど、その反面で、そんなものだとも理解しているつもり……。そして、認めてもらおうと必死だったりしてね……」
「それも当然の気持ちだと俺も思うな。俺もそうだもん。だったら同じじゃん。どっちにしたって言われるときは言われるんだよ」

 泉美が『そうだけど』と小さく呟き、やや弱まったような気がした。
 達也は今だと、勢いをゆるめずに向かい続ける。

「泉美さんの評価は、『俺たち』が一緒に上げていく物だと思っているよ」
「……俺たち?」
「ああ、そうだよ。特に葉月と澤村の兄さんとはそうしてやってきたつもりだし。テッドに小夜ちゃんも、泉美さんにチームに来て欲しいと言っていた」
「あの子達が?」
「泉美さんは、迷惑をかけたくないとか言うけれど。『俺たち』なんか、迷惑かけ合って一緒にいるんだぜ。泉美さんだって経理でそうだろ? 後輩達の出来ないところや失敗を『迷惑』と思ってフォローしているのか? 違うだろ? 一緒にやるべき事だから、そんなこと考えずにそれこそ自分の為にもなると思ってやっているんだろう? それと一緒だ」
「……そうだけど」

 泉美がうつむいてしまった。
 直球すぎたかと、達也は一息ついた。

「ちょっと熱すぎたかな」

 妙に青臭い事を真剣に言ったような気がして、達也はちょっと照れ笑いをこぼした。
 だが、泉美はうつむいたまま。なんだかとても重い表情になってしまい、笑う余裕もない雰囲気に。

「泉美さん……。俺、なにか気に障ること言ったかな。どこか無神経だったら……」

 彼女の顔を覗き込むように呟くと彼女が今にも泣きそうな顔をしていたので、達也は何か傷つけてしまったかとひやりと焦った。

「でも、人間はそんなものかもしれないけれど、俺たちのことは信じて欲しい!」

 『俺が一番言いたいことはそれだけ!』と、最後に達也は言い切った。
 だが、泉美は静かに頭を左右に振った。

「……海野君。違うの」
「え?」
「分かっているわ。本当なら除隊されるべきところを葉月ちゃんには『手放せない戦力だ』とずっと守ってもらったから、そのお返しは仕事でと頑張ってきた。だから大佐室業務になる仕事をしても、彼女はきっと……私を存分に活かしてくれるのも分かっているし、全力で守ってくれるのも分かっているつもりよ。その葉月ちゃんの周りに集まっている皆も彼女同様の精神で、迷惑をかけても笑って力になってくれることだって分かっている」
「信じてくれるなら──だったら、なぜ?」

 さらに彼女の顔を覗き込むと、今度は──泉美の目から涙が一筋、こぼれたじゃないか?
 そして泉美が小さく言った。

「……怖いの」
「え?」
「迷惑をかける以上に、怖いの。今以上、頑張ったら……身体が駄目になるんじゃないかとか」
「……!」

 なにも言えなくなった──。
 そう言われたら、達也には何も言えない。
 その『恐怖』は彼女にしか分からないだろうから……。

 白い夏シャツの胸を握りしめて、うつむいたままの泉美。
 午前の発作の際、達也が引きちぎってしまったシャツのボタンは、彼女が帰ってきたときにはちゃんと付け直されていて、いまでもぴっちりと首元までボタンはしめられている。
 その下に忍ばせている彼女の『命綱』。
 そこにそんな物をひっそりと忍ばせて、彼女は発作はミスなのだとばかりに、それとも闘ってここに居続けているのだ。
 それは何故? そこまでしてこの軍隊の事務官として居続けているのは何故なのだ? そして、それをこれからもその位置でずっと続けていくのだろうか? ひとりで?

 そう思うと、達也の拳に力が入った。
 スラックスの生地をぎギュッと握りしめ、震えてきた。

「……じゃあ、泉美さん。このままでいたほうが安心だってことなんだ」
「そうね。それが良いと思うわ」

 葉月が言ったように確かに『本人のやる気の問題』だ。
 彼女が身体を第一に案じてセーブをした生き方を選ぶなら、達也だって何も言えない。
 ……言えないはずなのだが!

「違うだろ!!」
「──!?」

 急に吠えた達也に、流石に泉美も身体を強張らせ固まったようだ。
 だけど、達也はかまわずに続ける!

「確かに、俺には泉美さんの『怖さ』は頭でしか想像が出来ないよ! だけど本当は、その今の現状に満足はしていないだろう? だから俺に黙ってまで、今回のチーム員指名にも応じてくれたんだろう!? もう経理班にいるだけで『ノーミスの女王』と呼ばれることに泉美さんには満足していないんだ!」
「……!」

 本心を暴かれたのだろうか? 泉美がさらに固まってしまった。
 達也はここだとばかりにたたみかける。

「泉美さんにとって、ノーミスの女王という安泰な座を守る事よりも、ミスをしてでも今よりもっと『困難な仕事、やり甲斐がある仕事に挑んでみたい』──そんな世界を望んでいるんだろう!? だから……」
「もう、やめて!!」
「い、いずみさん……」

 彼女が……彼女じゃないように取り乱した。
 耳をふさいで頭を激しく左右に振って、達也のマシンガンのように繰り出してくる説得の言葉を必死にはね除けようとしている。
 達也は一瞬、躊躇したが、確信した!
 泉美はそうして拒否はしているが、本当は達也が言うように『前に行きたいのだ』と──!
 だけど、迷惑をかけることも含めて、『身体への恐怖』がブレーキをかけている。
 もちろん──達也だって、そんな彼女を部下として抱えていくことにしても、そして彼女自身の一番の安全のためにも、そのブレーキは必要だと思う。
 だけれど……ずっとその繰り返しで、泉美は後退していくだけだ!

 連れ出してやらねば、今……ここで!
 身体も大事だが、彼女の望んでいる事も大事だ!
 だから達也はもう一度、拳を握って力を込める。

「信じてくれ。俺たちと、一緒にやろう。俺たちは泉美さんのことを守る。葉月がそうしてきたように、俺だって守るから、思うままにやってみたらいいじゃないか! このままでいたくないと、本当は泉美さんが一番に思っているんだろう!!」
「・・あ、ああ……っ」

 ついに泉美が泣き崩れてしまった。
 達也は立ち上がり、向かいにいる泉美の側にひざまずいた。
 そしてうなだれている彼女の背をそっと撫でてみる。

「それで駄目だったら、俺も泉美さんも諦めつくだろう? やるだけやってみてくれよ。俺のお願いだ。後は泉美さん次第だけど」
「……」
「だけど、第一条件。絶対に無理はしないでほしい。『迷惑をかけても』だ──」
「海野君……」

 やっと泉美が黒髪の隙間から、涙に濡れた瞳を見せてくれた。
 その目で達也をじっと見つめてくる。
 まるで何かを試されているようで、達也もそこは『信じてくれ』という念を込めるよう逸らさずに泉美の瞳を見つめ返した。

「……羨ましかったの」
「え? なにが?」

 涙の滴を目尻につけたまま、彼女がそっとまぶたを閉じる。やっと収まった涙の最後の一粒が、そこから落ちていった。
 そのしっとりとした落ち着いた表情に戻った泉美が、ふと話し始める。

「テリーが戻ってきて大佐室に出入りしたり、後輩の小夜が急に力を発揮してついに総合管理班へと異動したり。テッドに柏木君も初々しい青年だったのに、もの凄く成長して風格が出てきたりして。後からやってきた後輩達が急に伸びていくのに、今まで感じもしなかった焦りを感じたの。同期生ぐらいの人が上に行くのはなんとも思わなかったのに……」
「あ、それで……?」

 泉美がこっくりと恥ずかしそうに頷いた。

「最初はそんなこと、一欠片も思わなかったのに……。ある時から、なんだかあの子達を羨ましく思っている自分に気がついたわ。それはやっぱり私はどこかで『ミスをしない女』という肩書きに対して『できるのだ』という傲慢さを持っている。だから羨ましいのはそんな傲慢さからくる、それだけのことなのだと何度も言い聞かせて、あの子達のように激務には耐えられないのだからここでいいのだとも言い聞かせて」
「だから、俺が選んだとき……今度はやってみようと少しは思って葉月に黙っているように頼んだんだ」

 また泉美がこっくりと頷いた。

「と──言うことは。『やってみたい』と言うことだよな!」

 彼女の本心が見えてきて、達也は笑顔で泉美に問いただしてみた。
 そして、暫くはまだ迷っている様子の泉美だったが……。

「うん……」

 ついに頷いてくれて、達也は『やった』と思わず立ち上がって、ガッツポーズをしてしまったぐらいだ。

「やった! 勿体ないと思うほどだったんだ、良かった!」
「……本当にいいの?」
「あったりまえだろ! 俺が目をつけて選んだ隊員なんだぜ!」

 なんて、張り切っている自分に気がついた達也はハッと我に返って、ソファーに座り直した。

「……葉月も喜ぶよ」
「出来るところまでと言っておいてね。あまり期待しないでほしいと」
「分かっている。身体が第一だ。出来るところから、やってみようよ。といっても泉美さん、ベテランだからな」
「やだ。お局様と言いたいのでしょう」
「ち、ちがうよ!」

 彼女がやっと笑顔を見せる。
 達也もほっとした。
 そうして落ち着いた泉美が、達也が煎れたコーヒーをやっとゆっくりと味わい始める。

「美味しいコーヒーの入れ方も、教えてね」
「もちろん」
「実は秘書官……夢だったの」
「! そ、そうだったんだ」
「もう一度、頑張ってみようかな」

 彼女の本当の想いが見えてきて達也は驚いたが、これで『間違いなく確定』だ!

「その手のことなら、俺が一番協力出来る上司になれると思うな」
「……だから、お茶をして、海野君と話してみたかったのよ」
「そうなんだ」
「そうよ」

 フロリダの将軍秘書官の経歴を持つ達也と話してみたかったと──。
 だけれど、涙が乾いたはずの泉美の黒い瞳がより一層に濡れたように煌めき、達也をまっすぐに見つめているのだ。
 達也には──。その眼差しは、仕事への敬意ではないように見えてしまい……。

「えっと、葉月に報告しなくちゃな」

 ついにその目から、達也は逃げてしまった。
 ソファーから立ち上がり、訳もなく自分の席に戻る。そこから泉美に振り返ってみたりして、距離を取ってしまっていた。
 だけど、彼女はまだ達也を見ている。

「海野君は、本当に葉月ちゃん一筋ね」
「え……?」
「澤村君があんなにがっちりと葉月ちゃんを捕まえていても、それだけ一筋になれる力って、やっぱり葉月ちゃんだからなのかしらね? 彼女なら文句言えない」
「泉美さん……?」
「でも、海野君こそ──。そこから出られないように私には見えるけど……」
「は?」
「今日は有り難う。みっともなく興奮したり、みっともない心情を口にしちゃったけれど。迷いもなくなったから、すっきりしたわ。これから、よろしくね」

 急に──凛とした『お姉さん』に戻った泉美が、手荷物をまとめて立ち上がった。

「お疲れさま、海野中佐」
「……気をつけて。お疲れさま」

 達也が戸惑っているうちに、泉美は笑顔で出ていってしまった。
 彼女が出ていって、達也は暫く首を傾げていた。

 なんで? 彼女にそこまで言われなくちゃいけないのだ? と……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 泉美がやる気になった──。

「おはようございます! 海野中佐」
「おう、おはよう」

 今日も誰よりも元気な小夜が、明るい挨拶をしてくれる。

「今日はこぼさないでくださいね」
「分かっているよ」

 こぼれても安全そうな場所に、今朝は置いていってくれる。
 そういえば──このコーヒーをこぼしてから、昨日はいろいろあったと達也はふと思う。
 それが災難の始まりだったような気もするし、収穫でもあった気もした。

 あの後、帰ってきた葉月に報告をすると、葉月は『そう』と言っただけだった。
 そして達也は思い切って大佐嬢の彼女に言ってみた。

 『ここは思い切って、彼女も総合管理班に異動させてはどうか』と──。

 すると葉月は暫し黙り込んで『考えておく』と言ったのだ。
 このじゃじゃ馬のこと。そうなると一人でザッと考えて、腹が決まったらどんどん行動に移すはずだ。

(それにしても、あっさりしてやがるな)

 葉月の『そう』というたった一言。
 自分だって長年、彼女のやる気を待っていたくせに。達也にはその葉月の気持ちが分かるからこそ、同じように喜んでくれるかと思ったら、『淡泊な大佐嬢の顔』を見せられたのでがっかりした。
 だが、そういう淡泊で何を考えているのか分からない『大佐嬢』の事も、いつもの事だ。

「海野中佐」
「はい」

 葉月の大佐嬢でいるときの、どっしりとしている低い声。
 その時の声には、達也でも思わずかしこまった返事をしてしまうこともある。
 今、そんな感触に引き込まれた声だった。
 そんな葉月が大佐席で今日の仕事の支度をしながらこちらをちらりと見た。

「今日、午後ある中隊長会に小夜さんを貸してちょうだい」
「え……!」
「そろそろいいでしょ」

 六人の大佐中隊長と、連隊長や副連隊長が集まる定例会だ。月に二回ほどある。
 高官中の高官が集まる会議に、管理官としてはまだ新人の小夜を連れて行くというのだ。
 達也はまだ目の前にいる小夜を、ふと見た。
 彼女らしく賑やかなぐらいに驚くかと思ったら、『大佐、是非、お願いいたします』と言いだし、とても落ち着いていたのだ。

「彼女は行く気は固まっているみたいだけど?」
「──しかし。いや、そりゃ……吉田もだいぶ慣れてきたけど」
「今日のところは、彼女の事は私に任せてくれない? 見てみたいし」
「私も大佐に見て欲しいです!」

 葉月は小夜を手元に引き寄せようと譲りそうもないし、小夜は小夜で張り切っている。
 そりゃ、大佐嬢に任せれば安心でもあるが、しかしまだ預けるまでには達也の教育は終わっちゃいない。
 しかし、葉月がこう言い出した。

「泉美さんを連れて行ったら? もちろん、小夜さんの事もちゃんと貴方の元に返すし、これからも続けてお願いするつもりよ」

 達也の目の前で、小夜がにっこりと小首を傾げる。
 それで分かった! 『こいつら、共謀しているな!?』と──。
 葉月のその判断とやり方はともかく、小夜があれだけ落ち着いて受け止めたのは、実はこの女二人が『そうしましょう』と既に話し合って方針を固めていたのだと分かったのだ。

 しかし──それは助かると言えば助かる。
 昨日の今日だが、小夜と泉美をどう一緒に使うかと言うことはまだ決めていない。
 だけれども、せっかくやる気を起こしてくれた泉美の決意が鈍らないうちに、もう次の日から現場に出してしまおうという葉月の素早い判断は──流石だと、達也は唸った。
 またこの女に先を越されたよ──達也は少しばかりの悔しさが込み上げてきたが。

「分かりました。では、お願いいたします」
「そう。泉美さんの事、頼んだわよ」
「ああ」

 いつもの軽い調子が出てこなかった。
 おかしいな。なんだか気分が急に重くなった。

 このごろ──大佐嬢の考えていることが遠く感じるようになってきた気がする。

 達也はそう思った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「なーんか、イライラするな」

 気分が重くなったので、ちょっと外に出てみた。
 いつもなら廊下の喫煙場なのだが、今日は四中隊棟の屋上に来た。

 海が広がる景色は絶景の屋上だ。
 時たま、輸送機が頭の上を通り過ぎていく。
 夏も終わりの九月になったとて、小笠原はまだ真夏だ。
 炎天下の中でもかまわずに、達也は日差しの中へと出て、手すりの前まで進んでいく。

 白い夏シャツの胸ポケットにある紙箱の煙草を取り出して、口にくわえる。
 銀色のジッポーライターで火をつけて、手すりにもたれかかって空に向かって一息、最初の煙をはいた。

 忙しいはずなのだが、ふとした気持ちでこうして外にやってくるのも悪くはない。
 良い気分転換だ。
 一服のみの時間で充分。それで結構、気分が切り替わる。
 この外の空気を吸っただけで、建物の中でああじゃないこうじゃないと行ったり来たりして縮こまりそうな神経が解放される気もするのだ。

「あーあ。そう言えば、この頃、グラウンドを走ってねえ」

 いつもは山中と一緒に陸訓練を受け持ちあって、外で思い切り身体を動かしている時間もあるのだ。
 だけれど、今は会議が立て込んでいるので、山中に任せている。
 今の大佐嬢に任されている『内勤中核強化』もなかなかやり甲斐がある。が、やはり身体を動かすのが好きでなった『軍人』。どちらかというと体育会系に近い血を持っている達也としては、身体を動かしていないとストレスが溜まりそうになる性分だ。

 ……ストレス。
 この苛つきは、外に出ていないからか?
 達也は『違うだろ』という答を心で呟いていた。

 葉月が……。いや正確には『大佐嬢である葉月』が、どうもこの頃、遠くに感じる。
 前は側にいれば、彼女と同時進行で物事を判断して、達也も彼女の考えを汲んで同調した補佐に努めてきた。なのに──いつからか分からないが、近頃は、彼女が遠くで物事を考えて、達也の知らないところでさっさと進めてしまう……なんだか、置いて行かれる感覚に陥った。
 それは今回の泉美の件で、はっきりと分からされた気がした。

 隼人もそうだ。
 彼はなんだか、葉月と達也の側から離れていくような位置にいる。
 隼人が『甲板を降りたい』と言い出したときから、そう感じた。

「達也、そこだったのか」
「兄さん」

 驚いた。彼のことを考えていたら本人がやってきたからだ。

「泉美さんが待っているからさ。葉月に、呼んでこいと言われたんだ」
「うん、今、行く」

 達也は携帯の灰皿をスラックスのポケットから取り出して、煙草を消す。

「泉美さんの前では吸うなよ」
「分かっているよ」

 彼女の身体を考えての隼人の考慮。
 そこも先に言われてしまい、いまの心理状態の達也には苛つくだけの一言。

「なにを怒っているんだ」
「べつに」

 それも兄さんには見抜かれていて、それにも腹が立ってきそうだ。
 だが、なんとか堪えた……。
 しかしそんな達也の密かなる内心も見抜かれてしまったのか、隼人がため息を漏らしたのが聞こえた。

「葉月のことは、放っておけ。いちいちあいつがやることを気にしていたら、振り回されるだけだ」
「そんなの、分かっている」
「あいつ。『帰ってきてから』迷いがなくなっている。以前のように『本当はこんなところにいるのではなくて、ヴァイオリンを弾いているはずなのだ』とか言う迷いをな。これと選んだから、前とは違う勢いを持っているんだ」
「それも、分かっている!」
「……そうかな。達也はまだ気がついていない気がする」
「なんだって……!?」

 恋人の隼人だけじゃない。
 隼人よりもずっとずっと昔から葉月という女を見てきた達也だって、彼女がこの一年にどれだけ変化して、どんな気持ちで軍隊に戻ってきたかも、恋人の隼人と『同様』に見てきて理解してきたと胸を張って言える!
 なのに──その恋人に、『気がついていないことがある』だなんて言われるなんて、達也にとっては許せないことだ!

「兄さん、言っておくけどなあ。ここ職場では『同じ側近』だぞ! 大佐嬢のことは俺が一番分かっていると言ってもいいぐらいにな!」
「……達也」

 何故か……隼人に哀れむような目を向けられて、達也はドキリとした。

「……気がつかないのか? 俺達、もう、とっくに『大佐嬢』から切り離されているぞ」
「……!」
「達也が気がつかないはずがない。どこかで感じているが、認めたくないだけなのか?」

 なんだか胸の鼓動が早くなってくる。
 この苛つきの奥の奥に隠されているまだ見ぬ見たくない物を……! 隼人が言おうとしていると感じた!
 そして隼人が言った……!

「もう葉月は俺達のことを、側近とは見ちゃいない」
「ち、違う……」
「俺達は、とっくに『大佐嬢から独立』を言い渡されているんだ。だから、俺は行く。今以上に彼女を大きな力で補佐するために」
「……違う。俺達は、御園の側近だ!」
「そうだ。側近と言う立場を卒業した御園の補佐になるんだ。少なくとも俺はな……」

 達也は呆然とした。
 しかし隼人はそれだけ言うと『早く来いよ』と背を向けてしまった。
 だが、彼が歩き出す前にふと肩越しに振り返って呟いた。

「……葉月だけじゃなかった。俺達も『葉月と大佐嬢』という存在に依存して走っていたと思わないか?」

 その言葉が一番──達也の胸を貫いた。
 彼女という象徴がなければ、俺達は頑張れないのか? 隼人がそう言ったように達也には聞こえた。

 葉月には既に切り離され、一人の中佐として『独立』させられていた?
 だから、彼女は後輩達を周りにつけ始め、彼等と物事を判断し、俺達から離れていこうとしているのか?
 そして隼人も。彼が遠くに離れていくような感じになったもの、彼は既に大佐嬢の意を汲んで、『独立』という道を選択したからなのか。

 それならば……?

『だったら? 今の俺は……』

 今の自分はいったいなんなのか。
 達也は途方に暮れた。

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