-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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8.ただの男で愛したい

 永倉副連隊長室で一杯のお茶をご馳走になりつつ、その将軍自ら大佐嬢を呼んでの『相談』という話を聞いてから、彼女はご機嫌だった。
 テッドの目の前を長い栗毛を綺麗になびかせつつ、彼女は足早に本部へと帰ろうとしている。

「ついにやったわ。早く帰って知らせなくちゃ……!」

 そんなご機嫌な彼女の後を追いながらも、テッドも一緒に喜びたいところなのだが。『大佐嬢の女性としての事情』を知ってしまってから、そこまで喜べない気分なのだ。
 するとあまり良い顔をしていないテッドに気がついたのか、大佐嬢が振り返る。

「どうしたの、テッド」
「いえ、なんでも。良かったですね」

 ……無理な笑顔で同調している振りを懸命にしてみたのだが。
 今度は、ご機嫌だった大佐嬢の表情が曇ってしまった。
 テッドはしまった。と、顔をしかめた。だが遅かった──。

「……現役引退のこと。まだ黙っていてくれる?」
「いつからそんなことを。それにいつ細川中将に告げたのですか? もう上層部には報告されているみたいだし」
「ちょっとこの前……かな」
「澤村中佐は?」

 葉月が緩く微笑みながら首を振った。
 それにもテッドは驚いた。恋人の……一番彼女に近しい男性が知らないというのだ。

「だから。自分から言いたいから黙っていて」
「それは、いつまで?」
「出来れば、空母艦航行研修が終わる頃に。年明けにはラストフライトをしたいと思っているの」

 彼女のサバサバとした笑顔。
 テッドには信じられない──!

「そんな──! まだ貴女は若いし……」

 まだ飛べるじゃないか。
 そしてテッドは叫びたい──。そんな女性パイロットの彼女に憧れていたんだと。彼女が空を飛ぶときは、地上にいるテッドも熱い気持ちにさせられたのだと……!
 だけど、そう叫ぼうとして、テッドは寸前でその叫びを飲み込んだ。

 『女性として去る』。
 大佐嬢に対する数々の期待を打ち消してしまうほどに、その一言がテッドの中で勝っていく──。

 テッドはふと瞳を閉じた。
 そうか……。この人は女性としての幸せをじっくりと腰を据えて掴み取る道を選択したのだと。
 大佐嬢である彼女のことは憧れだった。だけど──その時々に垣間見せてくれる女性としての顔や愛らしさだって、テッドは少しだけでも知っている。
 そのほんのちょっとしか知らない女性の彼女が『幸せになりたい』と自ら願っての選択を決意したのだ。

 ──もう、なにも言えない。

「……ひとつだけ教えてください」
「なに?」
「──子供、駄目になったのは訓練のせいなのですか? だから、辞めてしまうのですか?」

 葉月が黙ってしまった。
 テッドを真っ直ぐに見つめてくれている。そこに自分という後輩に対して真剣に答えたいという彼女の意志が伝わってくる。
 でも、だからこそ──躊躇っているようで、その返答の内容は言い難いものなのだと悟った。
 だけど、葉月は僅かな微笑みを見せ言った。

「違うわ。私の体質なの。出来てもなかなか育たない体質なんですって。澤村の子もそうだった。産婦人科に診察に行ったときには既に流産してたわ」
「……でも、それ一度だけなのでしょう? 永倉少将の奥さんも最初は駄目だったけど、二人産めたって言っていたじゃないですか」

 すると葉月が力無く頭を振った。
 テッドの胸がドクリとうごめいた。
 とても嫌な予感──。そして、それは当たった。

「……澤村との前に、二回あったの」
「!」
「ごめんね、テッド。これ以上はごめんなさい……」

 途端に葉月の顔色が悪くなり、苦しそうにうつむいてしまったのだ。
 それだけで、テッドも悟った。
 元々、この女性は人に言えない過去を幼い頃に背負ってしまっている。
 その『ひとつの過去』である事件の話は……彼女に信頼してもらえていたのか、テッドは知ることが出来た。
 その時の衝撃は忘れない。それはまるでつい昨日のことのように覚えている。
 彼女のその『ひとつの過去』がすべての『元凶』のような気がしたのだ。

 だから、その元凶と共に生きてきた彼女が、人にはよく分からない生き方をしてきている可能性は大だ。
 ……様々なところを彷徨って、さらなる『重い過去』があってもおかしくない気がしたから、彼女が『言えないことがまだある』と言ってもなんとなく『ああ、そうなんだ』と思えてきた。

 ──『御園葉月』は、遠くから見ていても『危ない人』だった。
 強そうなのに、その下にあるものがとても危うく儚く感じていた。
 その証拠に、彼女がどこかに出張や任務に行けば、悪い知らせしか入ってこない。
 なにか悪運に取り憑かれているかのようにテッドには思えた。

 ……でも、それは違っていたと思う日がやってきた。
 それが、葉月自身がテッドにそれとなく聞かせてくれた『事件』に巻き込まれた話。
 女性には残忍卑劣な事件。左肩の傷。そして──生命の危機。
 彼女はそれを経て、今までテッドの目の前で生きていたのだ。
 どのような苦悩を持って生きていたことだろう?
 そう思えたときに、何故? 『危ない人』であったのか知った気がした……。

 あの事件の話を聞かされたとき、テッドは葉月にこう言った。──『だから、貴女は。いつもどうしようもない無茶を?』──と。そして葉月は『そうね』と答えた。──『いつ死んでも良い。いつも、そう思っていた』──と……。
 そして葉月はこうも言っていた。
 いつ死んでも良い。そう思っていたのに。なのに、いつも『墜ちては戻ってきてしまう』。つまり『生きたい』と思える自分を見つけたかったのではないかと思ったのだと。

 そう──テッドもそう思ったのだ。
 彼女は『死にたかった』のかもしれないと。
 だけど、そこを目の前にしては、戻ってくる。
 死にたいのに死ねない。生きたいのに生きていけない。
 その息が詰まりそうなラインを反復横飛びでもするかのように行ったり来たり。だから、彼女は自分から引き寄せていたのだ『生死の境界線』を。
 そこで初めて知ったのだろう。『本当は生きたいのだ』と。
 そうして彼女は、また……テッドや他の人間が当たり前のように生息している日常に帰ってきていたのだ。

 だから……変な言い方かも知れないが、それが彼女の『生き甲斐』だったのだ。
 イコール? それが『コックピット』だったとしたならば。

(そこを降りて。自分の身を……)

 なんだか、彼女の決意が見えてきた気がした。
 彼女は……『生死の苦悩』のぶつけ場でもあっただろうコックピットを降りて、粗末にしてきた命を今度はちゃんと大切にしようと思い始めたのでは!? と。
 そして! 彼女は新しい生命を自分の力でこの世に送り出したいのだと。

 なのに──。それすらも彼女には『闘い』になるのだと、テッドはそこに辿り着いて、力が抜けそうになった。
 二回、いや三回、駄目になっている過去もある。
 どれだけ過酷な運命を背負ってしまった女性であることか……。
 隼人という認められた恋人の前に二回……何故、二回で、それで相手が誰かなんて……。もう、問題でもない気がした。

「大佐。俺、無理に話してくれなんて……一度も言った覚えないけどな」
「……テッド」
「話したくなったら、また、聞きますし。ずっと言わなくてもいいんだって。貴女だってそれぐらいの気持ちを『仲間』が持っていることぐらい、もう知っているでしょう? あんなに頼もしい恋人や昔なじみの友人が既にいるのだから」

 だから『俺達のことも、同じように見て欲しい』とテッドは告げた。
 『俺達』と言ったことには後で気がついたが、つまりテッドを始めとする『後輩達』の事を指して言ったのだ。

「帰りましょう。もう、解りましたから」
「……テッド」
「俺がつまんないことを聞いてしまったけれど、しっかりしてください。大佐」
「そうね」

 顔色を悪くしてしまった葉月が、いつもの大佐嬢の声に戻り顔を上げる。
 だけど……。テッドは哀しくてまぶたを閉じたくなった。

 そうして彼女の顔が『氷の大佐嬢』へと変化していく。そして『無感情令嬢』の名の如く、表情の解らない顔に整っていく彼女の姿が……哀しい。
 貴女はそうして、生きてきたのかと。

 テッドの今の気持ち。
 彼女を愛してきた男性達には、もっと堪らなかっただろうと思う。

 みるみる変化して元に戻った葉月の顔。
 本部に戻った時には、つい先ほどまで彼女が崩れかけていた事など誰も疑うこともないだろう程に、『いつもの立派な大佐嬢の顔』に出来上がっていた。

 それは部下としては頼もしくあり。
 それは友人としてはとても哀しいものだった……。 

 

 すっかり元の様子に戻った彼女は、取り繕っているのではなく本当に元の『ご機嫌』に戻ったようにテッドには見えた。

「ただいま! 聞いて……!」

 大佐嬢はすぐさま、中佐二人の元に飛んでいった。
 勿論、そんなに喜びいっぱいと言っても良いぐらいにご機嫌な彼女を見た中佐二人は『どうした?』と口を揃えた。
 そして、葉月が向かったのは、海野中佐の前だった。

「達也、やったわよ!」
「は? なにが?」
「今、永倉少将に呼ばれて副連隊長室に行ってきたんだけど。永倉少将がなんて言ってくれたと思う?」
「なに? あの嫌味なおっさんの部屋に呼ばれたって!?……ん? 説教ではなくて、なのか?」

 そして葉月が喜びに満ちた顔で達也に微笑んだ。

「今月末にある横須賀での合同会議──小笠原の代表で出て欲しいって。少将が達也を推薦してくれて、連隊長も細川中将も同意してくれたんですって!!」
「──俺が?」
「そうよ! 小笠原基地の代表よ!! 今まで第一中隊の管理官や連隊長の秘書官が出向いていたけれど、フロリダ少将の秘書室長だった海野なら間違いないと評価してくれたのよ!」
「……俺が!」
「達也! すごいじゃないか、それ!!」
「でしょう! うちの中隊──達也が来てからこの一年でだいぶまとまったし、他の中隊と並べるぐらいに若い私たちだけでの管理体制が出来上がったから」

 茫然とする達也に、喜び勇む葉月、そして一緒にその評価されたことを喜ぶ隼人。
 三人のこの一年の結束の『結果』なのだろうと、テッドも先ほどの大佐嬢のことは忘れ、少しばかり離れた後方から微笑ましく眺めていた。

「将軍としては永倉少将が出向くらしいの。ここ地域一帯師団の監督役ってところらしいのよね。だから──近いうちにある少将との打ち合わせ、行ってくれる?」
「あ、ああ……」
「貴方のアシスタントは貴方が選んで連れて行っていいわよ。テッドでも柏木君でも……」
「か、考えておく。う、うん……」
「早速だけど。永倉少将のところに挨拶に行ってくれる?」
「わ、解った……。いえ、承知しました、大佐」

 達也もかなりの驚きだったのか、ぎくしゃくしたような様子で大佐室を出ていった。

「見た!? あの達也が……あんなに慌てるなんてっ」

 いつも喧嘩相手の同僚中佐の有様に、葉月は海野中佐が出ていった自動ドアを指さして、ころころと笑い転げていた。
 その楽しそうで嬉しそうな笑顔に、恋人の澤村中佐も一緒になって笑っていた。

(──大丈夫そうだな)

 テッドはふっと安堵の一息をついて、『外の席にいったん戻ります』と葉月に告げ大佐室を出た。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ……本当は涙が滲んでいた。
 だって、本当に嬉しかったのだ。
 一緒にやってきた仲間が、同僚が認められた。
 それも花形部隊であるフロリダ本部から、無理に小笠原基地に連れ戻してしまった達也を、一年で返り咲かせることが出来た──。
 これで彼は日本国内にある国際基地の中でも活躍していくだろう……。

 葉月は大佐席に戻って、静かにいつもの事務作業を始めた。
 達也は出ていったし、テッドは午後の中休みのお茶の時間までは呼ばない限りやってこないだろう。
 隼人と二人きりの大佐室になったが、彼も、もう既に仕事に没頭していて、いつもの冷たい眼鏡の横顔を見せていた。

 葉月も書類に向かったのだが、なんだかいつものような集中力がなかなか湧いてこないのに気がついた。
 ──気が高ぶっているのだろう?
 だけど、急に……力が抜けてきた。
 本当に急に、脱力感が襲ってくる。
 朝からの訓練も終わり、ランチを取ってお腹も満足感を得ている。会議の後の緊張が解けたからだろうか? そして大切な仲間の一人である男性を、良き方向へと送り出せた達成感からくる気力抜けなのだろうか? それとも、後輩に過去の一片を口にしたからなのか……。
 ふと椅子に落ち着いて、頭がもやもやとしてきた。
 身体も下から引っ張られるように重くなってきた。

 午後特有の睡魔?
 いや、違う……。胸の中でどろどろしているようなものが渦巻いてきた気がする。

『──よう、元気にしていたか?』

 そんな声と共に──底からぬるりと顔を出すように浮上してくる影が。
 黒く渦巻いていて、そして丸い固まりのような物?

『お前が幸せになんかなれるものか。三回だぞ、三回。いい加減、諦めろ。お前にはな、そんな幸せなんて巡ってきやしないんだ。ほら、こっちに来た方が楽だぞ? いままでもそうしてきただろう……? そんなわざわざ辛いところに立ち向かって、無理に頑張らなくてもいいじゃないか』

 その声が、遠くでケタケタと笑っている……?

『お前なんか、あの時に死ねば良かったのだ!』

「……!」

 ハッと目を開けた。
 何を見ていたのだろう? よく分からなかった。
 ……やっぱり、眠気に襲われていたのか?
 だけど身体よりも頭と胸にすごい重しがかかっているような気がした。

「──っう」

 俯いたまま、そんな声が自然と漏れていた。
 呼吸が止まりかけているかのような、なんとか息継ぎが出来たかのような感触の声。

「──葉月、どうした」
「……! は、隼人さん」

 気がつけば──。葉月の直ぐ側に隼人がひざまずいて顔を覗き込んでいた。
 いつの間に? こんな側に来たのだろうか?
 そして彼の顔はとても案じている不安そうな顔だった。

「な、なんでもないわ。ちょっと眠気がさしたみたい」
「眠気? お前が……? まさか。あまりそういう姿、みたことないぞ」
「……いろいろ、緊張したり、驚いたり、嬉しくて舞い上がってしまったから。ちょっと疲れたのよ」
「珍しいな。もしお前がそうなるなら、『ここ』じゃなくて、自宅に帰ってからだろ。それぐらいに『ここ』では俺達だって敵わない気迫でいるのに」
「そこまで意識はしていないけど」

 でも、眼鏡の頼もしい顔を見て隼人と話しているうちに、徐々に身体も軽く浮いてきたような感触になり、頭と胸の中のもやが浄化されてきたようにすっきりしてきた。
 それで葉月はやっと彼に微笑みかける。

「大丈夫よ。あ、そうだわ。テリーに通信科に行ってもらわなくちゃ」

 葉月は『元に戻った』という証拠を見せようと、席を立ち上がり、彼女に渡す書類を片手にとりながら内線電話の受話器を取ろうとした。

「──無理するな」
「!」

 その手を、彼が止めた。
 そして葉月の手のひらをぎゅっと力を込めて握りしめてくる。

 二人きりとはいえ……隼人はこういう恋人としての行為は余程でないと見せない。
 葉月にしてもそうだ。もしあるなら、二人だけに通じる短い会話とアイコンタクトだけだ。
 なのに──眼鏡の奥の彼の黒い瞳は、二人きりの時に見せる甘く心を緩めてしまっている眼差しだった。

「そうだ、たまには俺と休憩をしないか? お茶をしにいこう」
「な、なにいっているのよ。今、副連隊長室でご馳走になったばかりよ」

 ──勿論、その言葉に甘えたい気持ちが沸き上がってきていた。
 でも、やっぱり駄目だ。またそうして、崩れて甘えたくない。
 だから、葉月は力強く握りしめられているその手を、思わず振り払ってしまった。

 だけど、逃げていく葉月のその手のひらを隼人がすかさず捕まえてしまい、さらに強く握りしめてきた。

「いや、行こう。気分転換をした方がいい。少しぐらいいいじゃないか。俺も一緒に行くから、そうしよう!」

 彼の顔がとても真剣で、そして葉月を真っ直ぐに見つめてきた。
 言い出したら引かない強さを見せるとき、隼人の黒い瞳は、とても麗しく輝く──。
 その目の色だったから、葉月はその真っ直ぐな気持ちと彼の燃えるような愛情を感じてしまい、一気に身体が熱くなった。
 そう──二人で肌を合わせているときに、彼が『葉月、葉月』と言いながら見つめて、視線も心も肌も身体も全て離してくれない時のように──真っ直ぐに愛されていると感じるときの目だったからだ。

 そのまま黙っていると、いや、葉月としては『うっとりと惚けている』と隼人がふと首を傾げた。
 今度は隼人が何を考えているのか解らなくて、葉月も一緒に首を傾げて、隼人の目を覗き込んでみる。

「……わかった。葉月が今、して欲しいと思っていること。気分転換じゃ駄目なんだな」
「え?」
「こうだろ?」
「……!」

 ──抱きしめられていた。
 彼の両腕いっぱいに、彼の胸の中に、力強く……!

「葉月、俺が側にいる……。もう、そんなにたった一人きりで怖がらないでくれ」

(嘘……)

 書類が散らばっている大佐席の前。
 今まで絶対になかったことが起きている?
 どんなときだって、大佐と中佐の二人だった。
 その顔を保つこと、そしてその距離を取ること、そして崩さないことが、二人の暗黙の『条件』だったと思う。
 そしてそれは、二人が出会うまでにもお互いに積み重ねてきた仕事への姿勢だったのでは? そこが分かり合えるから、恋人としてつきあえるようになったのでは??
 たまには職場でも甘い雰囲気になったことはあっても──。
 絶対に人に見られない悟られない状況でなくてはこうはならなかったはず。

 なのに──今は誰が来てもおかしくない真昼の勤務中。
 前よりも活気づいて部下達の出入りが激しくなった大佐室で、彼が……不安定になりかけていた葉月を、なりふり構わずにその両腕で抱き留めてくれていた。

(あ、でも……。もう、どうでもいいかも)

 さっきは彼の手を払いのけたけど……。
 葉月はそのまま彼の肩先に額を乗せ、くったりと力を抜いて全てを預けてしまった。
 だって、こんなにされたら──。今の『私』は拒む術がない程、彼を愛しているし、愛されたいと思っているのだから。

「そう、葉月。それでいい。そうなってくれたら安心だ」

 その腕にすべてを預けたから?
 隼人のホッとした優しい声が耳元で聞こえた。

 心が柔らかく温まってくるのが分かる。
 力を抜いたって、こうして優しい気持ちのままここにいることが出来る安心感が広がってくる──。
 目をつむったら、今度は花色の眠気が葉月を溶かしてしまうような気がしてきた。
 そんなふうにすっかり蜜漬けにされてしまったかのようにとろけてしまった時だった。

「失礼致します。あの……大佐……」

 テッドが入ってきてしまった!
 葉月は思わずハッとしたのだが!

「──悪い。今、取り込み中」
「……し、失礼しました」

 テッドの顔を確かめる隙も与えられずに、栗毛の髪を鷲づかみにするほどの強さで彼の胸の中に引き寄せられ、隠されてしまった。
 後輩が驚いて出ていった気配だけが分かった。

 ……葉月はそっと顔を上げて、隼人を見上げた。

「いけないのよ、こういうこと」
「かまうもんか。俺にはこっちが大事なんだ」
「・・っあ」

 今度は唇を塞がれた。
 やはり抵抗が残っている。それでもまた甘すぎるぐらいに柔らかい口づけに蜜漬けにされそう……。だから再び『もう、どうでもいいかも』と落ちていきたくなったところを『うん、うん』と唸って首を振ったが……駄目だった。隼人にがっちり頭を固定されてしまい奥の奥まで愛されていた。
 もう、身体が熱くて。今にもなにもかも忘れそうになるのを葉月は必死で堪えた。
 『もう、こんなこと、ここでは駄目!』と──大佐嬢としての僅かな理性がなくならないうちにぶつけようとしたら、隼人が悟ったように離れてくれた。

「うん。顔色、良くなった。大丈夫だ」
「……そんなに?」

 頬にかかる栗毛を撫でてくれたその手の上に、葉月も自分の頬の熱を確かめるように手を重ねた。
 頬がほんのり熱いことを確かめた隼人のホッとした顔。その隼人が穏やかな眼鏡の笑顔で呟いた。

「……今まではな。やっぱり『側近』が勝っていたし、それが正当だっただろう。でもな、もう、俺はいいんだ」

 なにがもういいのだろう? と、葉月は首を傾げる。

「そういうのはもう、テッドや吉田とかの後輩に任せられるようになってきた。俺は……」

 そっと目を閉じて穏やかに呟いていた隼人の漆黒の目が、また煌めいた。

「俺は……。ただ、なによりもお前の救いになることなら、無力でも助けたいだけで」
「……隼人さん」
「へばりついているとか、いつも隣にいるとか、そういう意味じゃなくて。お前が叫んだら、すぐに飛んでいける存在でありたいし。その為なら、なんでも捨てる。『側近』なんて仕事も立場だって、関係あるか。お前が……『ただの女として誰かを愛してみたい』なら、俺も『ただの男で愛していきたい』だけだ」
「……」

 なんだか感激のあまり、言葉が出なくて、葉月はただ隼人を見つめることしか出来なかった。
 だけど、そこでふと隼人の表情が曇った。

「──そんな気がしたんだ」
「え?」

「今、お前の顔色が急激に変化して。『助けて』と言った気がしたんだ」
「?」

 ほんの僅かな時間の不快感だったのに、そんな大袈裟な──と、葉月は思った。
 それほどに重傷に見えたから? あんなにものすごく必死に柔らかく情熱的に『介抱』してくれたのかと思えてしまった。
 だけど──隼人の顔は真剣だった。

「──そんな葉月。俺の隣で眠っているときに、そういう状態になることは知っていたんだけど」
「うん……。でも時々でしょ」
「さっきのお前。それだったぞ」
「──!」
「ここでは初めて見たから、焦った」

 なんだか、葉月の体中にゾクゾクとする悪寒が走った気がする。

「葉月……?」

 また顔色が変化したのだろうか?
 隼人にまた抱きしめられていた。

 今度は必死に彼にしがみついていた。
 とても恐ろしいものに追い立てられたような気がして……!

 だけど。愛さえあれば、大丈夫よね?
 ──葉月はそっと心で呟いた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 忙しい日々を過ごしているうちに、蝉の声は聞こえなくなった。

「うん、ご苦労だったな。海野中佐」
「有り難うございました。少将の御陰です」

 今、達也は横須賀基地のカフェテリアにいた。
 目の前にいるのは、あの嫌味将軍の永倉少将とその側近だが、今日の彼はとても満足そうな笑顔を見せていた。

 永倉とお茶を挟んでの一息をついていた。
 例の『合同総合会議』が無事に終わったところなのだ。

 圧倒される数の指揮官が集まっている中、達也はほぼ最年少だった。
 知らぬ指揮官に何度も声をかけられた。それはやっぱり『御園大佐嬢の側近だね。フロリダにいた海野君だろう』という声かけが殆どだ。
 勿論、いつもの調子で明るく挨拶と社交。そして忘れてはならないのが、『俺のところに大佐嬢あり』の存在アピールをさりげなくやることだった。
 どこでどう繋がるか分からない。日本らしいが、日本人とは名刺交換も忘れない。
 会議も、初めてだから『基地単位の報告』などは、永倉に教わったとおりに……しかし永倉と相談して少しは小笠原とは、という内容も含めたコメントを添えて報告。それだけで、会議が終わった後も、達也の周りには沢山の先輩が集まって談話をすることが出来たのだ。

「若いのにしっかりした者がいると言われて、私も鼻が高い。横須賀からすれば、小笠原など国境側にあるというだけの僻地基地という位置だったが、徐々に追いつけ追い越せぐらいの存在感が出てきたな。若い君たちの力が伸びてきた証拠だ」
「恐れ入ります」

 永倉と一緒に無事に終わったという達成感を味わうことになるとは……。

(俺がガキだったときには想像が出来ない光景だな)

 なんて思ったりもした。

 二人の間には、コーヒー。いや、四人か。
 永倉の側近、そして達也の隣には『泉美』がいた。

 そう、達也が選んだアシスタントは泉美だった。
 テッドを連れて行こうと真っ先に思ったし、葉月もそれがいいと言ってくれたのだが……。
 テッド本人が『出来れば、何事にも大佐嬢についていたい』と言い出したのだ。大きな役目、悪くはないし先輩の補佐としても名誉なことで参加したい気持ちはあるとテッドもやる気があることは説明してくれたが、それでも『海野中佐なら分かってくださいますよね。一番の側近になりたいんです。それはどんなことがあっても側にいることなんですね……』。と、真剣な顔で言ったのだ。
 その時に達也は思った。この『男』──もう、立派な『側近になれる男だ』と。
 彼が言ったとおりに、達也にはその気持ち……痛いほど分かる。
 どんなに『オイシイ話』が向こうからやってきても、彼女から離れるぐらいなら、側近としていることを選ぶ。
 まさにその気持ちでやってきたつもりだ。

 その気持ちを──今は、後輩が強く持っている。
 だから、達也はテッドの気持ちを尊重したのだ。

 このときに隼人が言っていた『俺達はもう、側近ではなくなる』と言う言葉が蘇ったのだが──。
 まだよく噛み砕くことも飲み込むこともできなく、また横に流して無視をした。

 ともかく、一番候補のテッドを採用することが出来なくなったので、達也は唸った。
 テッドの次は柏木だろうが……『頼りないな』だった。
 じゃあ、テリーかと思ったが……彼女は今、一ヶ月後に控えた空母艦研修への準備で忙しそうだ。
 ……小夜ちゃんか? 悪くはないが、今は無理だった。

 こういう総合管理的な仕事をさせている中で、残ったのは泉美だ。
 そう思ったときに達也は唸った。

 勿論、彼女とはあれから一緒に会議に出ることも増えたし、総合管理班的な仕事も増やしてやらせてみていた。
 葉月はまだなにも言わないが、どうもその様子を密かに眺めている気がした。これで彼女がやれそうだったら、それこそ異動させてくれるのではないか? 達也にはそんな予感があった。
 それに葉月はこう言っていた。『今年度内に本部員枠を増やして、新人を入れたい』と──。その中に『経理班員の補充』も入っていたようだ。なんでも、今や若い隊員達の『入隊先』や『転属先』の第一希望に『小笠原四中隊』への希望を出す者が増えているとのこと。
 そこで経理班を補充するならば、泉美は心おきなく総合管理班へ異動できそうなことをほのめかしていたのだ。

 そんな泉美は、この一ヶ月でだいぶ経理班員という雰囲気ではなくなってきていた。
 そしてその隠し持っていた頭角を現し始めている。
 会議にでかければ、達也が教えることが僅か。教えても直ぐに物にする。そしてなによりも落ち着いていた。

 ただ──問題がひとつ。

『海野君こそ──。そこから出られないように私には見えるけど……』

 ああ言われてから、泉美とは言葉を交わしにくくなってしまっていたのだ。
 今までの調子が出てこなくて、二人でいると無言になることが多い。
 だけど──泉美はあまり気にしていないようで淡々としていた。
 それに、無言にはなるといっても時々は『至って普通の会話』だって出来ているのだ。
 ただ……『重い時間』が確実に多い。
 問題は、なんでも『お調子者』になれる達也が、どうしてか泉美の前では『お調子者』になりきれないところなのだ。

 そんな彼女と出張?
 しかも大事な会議の……アシスタント?

 なんだか気が重い。
 ハッキリ言うと『反りが合わない』というのだろうか?

(まて、これは仕事なのだ! そうだ、彼女なら完璧だ!!)

 ──そう言い聞かせ、彼女を選んだ。
 そんなわけで、今、達也の隣では、泉美が副連隊長の目の前でも怖じ気づくことなく、いつもの落ち着きある柔らかな微笑みを浮かべてお付き合いしてくれているのだ。

「いやー。しかし、やはりここは大佐嬢よりかは、君だったな」
「いえいえ」
「彼女でも構わないのだが。彼女は『社交性』の面ではイマイチだからね。ここはまず、君の方が他基地の隊員と触れるには当たり障りなく上手く渡ってくれそうだというのも評価した一点でね。その点では君は天性だね。周りの指揮官達の評判、良かったよ」
「いやーなんていうか。ただのお調子って言いますか〜」
「そういうのだって、大切だよ。そこの点、大佐嬢と澤村君は生真面目すぎるところがあるからね」

 永倉がおかしそうに笑ったので、達也も一緒に笑った。
 『確かに』と言えそうな評価でもある。

 暫くそうして話し、永倉と別れた。
 永倉は永倉で、本島で生活をしている子供達と会う約束をしているそうだ。
 達也と泉美は今夜、同じビジネスホテルに宿泊し、翌日の午後便で小笠原に帰る予定だ。

「俺達も帰って休もうか。泉美さん」
「そうね」

 永倉が去った後、窓際の席では二人きりになっていた。

「身体、大丈夫かな」
「平気よ。こう見えても、プライベートで本島には良く出てきているもの。女は買い物するのが好きなのよ」
「そうか。だったらいいけど」
「……気にしすぎよ。私、ちゃんと普通に生活しているから」

 なんだか泉美にすごくきつく言われた気がして。
 ほら、そこで──いつもならお調子で明るく茶化すのに。
 達也はドンと落ちていってしまうのである。

(もしかして、俺、苦手かも)

 泉美が悪いんじゃない。
 達也が、なんで? こういうことを上手く付き合えないという情けなさだ。
 あの特別仕様にヘビーなじゃじゃ馬と付き合えてきたのに。何故? 泉美は駄目なんだ? と思った。
 これでは永倉が評価してくれた『君の社交性は天性だ』というお褒めも台無しだ。

 だから……また無言になる。
 泉美も黙って残りの紅茶を飲み干していた。

「あ、そうだ。帰る前に同期生と会う約束をしているんだ」
「あら、そうなの」
「そろそろ、来てくれると思うけどなあ」

 達也が時計を見たその時だった。

「よお、お疲れ。無事に終わったみたいだな」
「八代。おっす」

 夏の始めに久しぶりにあった同期生の彼も、気の良い笑顔で『おっす』と言うと、なんの遠慮もなく永倉が座っていた向かい席に腰をかけた。
 そして八代は一番に、達也の隣にいる泉美を見たのだ。それが分かったので、達也は紹介をする。

「こちら、俺のアシスタントの笹川泉美さん」
「こんにちは、八代さん。笹川です」
「こんにちは、笹川さん。海野の『やんちゃ』に振り回されていません? あ、それとも御園にやられているかな?」
「あら、八代さんも『大佐嬢』をご存じなのですか?」
「そりゃ、もう……。海野と一緒に投げられたくちですから」
「まあ。葉月ちゃんたら、海野君だけじゃなくて?」
「あ、結構──御園嬢とはお付き合い長そうですね」

 『ええ、一応』──と、泉美が微笑んだ。
 そんな雑談を交えていた。
 こうして人が間にはいると、泉美と一緒にいる違和感はないのだが──。
 暫く話しを続けていると、八代がふっと達也を真剣に見たのだ。

「あのな、海野。この前──頼まれたことなんだけどな?」
「え……。あ、ああ」

 達也はどっきりとした。
 勿論、彼に『思わず』頼み事をしたのは忘れていない。
 ただ……あれから、彼から連絡はなかった。
 そして……達也からも連絡はしなかった。

 連絡がないのだから『判らなかったのだ』と思ったのだ。
 そして、今回も『横須賀に出てくるなら会おうぜ』という八代は、何も言わなかった。
 だから、もう『なかったこと』にしたのだ。
 ただ、そう……達也の一方的な『判断』ではあったかもしれない。

 けど──八代のその真剣な顔に、達也は固まった。
 『頼まれたことなんだけどな?』と、言ったきり……八代は黙ってしまった。
 暫く、三人の間に沈黙が流れたが、達也が戸惑っているうちに、八代がついに……泉美をチラッと見たのだ。

 その目──『退いてくれませんかね?』とでも言いたそうな目だった。

「そうだわ。私……ちょっとお手洗いに行って来ます」
「──!」

 このお姉さん。やっぱり流石なのだろうか?
 八代のその目を見て、悟ってくれたようだ。
 さっさと席を立って、本当に化粧室へと行ってしまったのだ。

「すごいじゃん。やっぱ御園嬢のところにいる女性だけあるな」
「……かもな」

 横須賀の秘書官候補生で精進中の八代が、泉美の反応の良さに感心していた。
 だけど──また、彼の表情が引き締まった。

「海野──。連絡が遅くなってすまなかったな」
「……いや。きっと判らなかったと思っていたよ」

 目の前で会うことになったから、彼が随分前の約束の事を詫びてくれていると思った。
 だから達也も気にしていないと言ったつもりだったのだが、そこで八代の表情がさらに硬くなった。

「違う。お前に頼まれたとおりにカリフォルニアの住所に行ってきた。そうしたら……なんとか手がかりがあって」
「え?」
「……調べたんだ。お前にははっきりと判ってから報告しようと思って。それに大事な代表としての総合会議の前に、心を乱してもと思って黙っていた」

 彼の話しぶりに、達也の心がギュッと鷲づかみされたように縮こまった気がしてきた!
 そして、彼が静かに言った。

「おふくろさん。随分前に、日本に帰国していた。しかも……今、この横須賀にいる」
「──!?」

 忘れかけていた約束。
 なんとなく衝動的に頼んでしまった依頼。
 それを……同期生はちゃんと時間をかけて調べてくれていた!

 本当は怖くて逃げていた達也の心を、知り尽くしているかのように……!!

 そして──『母』が実は、とても近い場所にいることを知り、達也はそのまま真っ白に固まってしまった。

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