-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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7.貴方のもとに

 ──どうしてこんなところに立っているだろう?

 目の前は漆黒の闇に包まれた日本海。
 甲板の照明で照らされて見える波以外は、海と空の境目も分からない。
 とても荒れた天候。風の音が吹きすさび、そして、波のしぶきが小雨のように甲板に降ってくる程に、船体に激しく大波がぶつかっていた。
 時にはその甲板の上に、まるで砂浜の波打ち際のようにザッと足下まで海水が上がってくる。

 なぜ? 何故、今、ここにいるのだろう?
 甲板の端、落下防止の手すりの手前。
 あと五歩ほど前に行けば、その手すりに届く。
 そこに行けば、波をかぶってしまうだろう──。
 そんな場所にいる。

 葉月は自分でやって来たというのに茫然として、その荒れた波に向かっていた。
 その小雨のような塩辛い粒が幾つも降り注いで葉月の栗毛を濡らしている。見上げる顔のその頬にも幾粒も降ってきて濡らしていた。
 だけれど、その激しく恐ろしいまでの光景が、なんだかいつまでも鑑賞していたい絵画を眺めるかのように、ただずっとここに……身体が動かない。
 そして瞳は飛び散る波のしぶき、足下を濡らす海水。ぶつかってくる高波をただ見つめている。

 そして不思議と心が落ち着くのだ。
 訳などわからない。
 ここにいたい。
 ここでそうして『呑み込まれてしまっても構わない』。
 そんな気さえする。
 そしてそう思うことで、心が穏やかになっている気がする。

 そんな気持ちと荒波の感触を噛みしめながら、葉月はいつの間にかここまで来てしまった事を、やっと振り返る。
 目が覚めると、ベッドには一人だった。
 先生もテリーもいなかった。
 頬には冷たい感触の湿布。それを手で触れて殴られたことを再び思い出す。

 頬の冷たい湿布。
 殴られた感触。
 何度も経験した感触。
 だけど一番最初にこの感触を覚えたのは、確か──十歳の冬。

 心がザワザワとする。
 先生に抱きしめてもらって、テッドに励ましてもらって落ち着いた心。
 その落ち着けてもらう前に感じていた『ざわざわ』が、小さな僅かな音からとても耳障り悪い雑音のような音に変化した。
 ──頭痛が起きた。
 それも心のザワザワの音が大きくなるに連れて、ズキズキからガンガンという感触に変わっていく!

 気が狂いそうだ──!

 そうして部屋を飛び出した。
 そうしたら、ここに来ていた。
 甲板の、外の空気を吸うぐらいの気持ちだったと思う。
 なのに甲板に出てきたらひどい天候で──。目に飛び込んできたのは、砕け散る高波。
 それに吸い寄せられるように足を向けていたのだ。

 そしてその呑み込まれそうな光景に囚われているところだった。

「葉月!!」

 その切羽詰まったような男性の声に、葉月は普通に振り返った。

「教官……」

 葉月が出てきた扉に彼が立っていた。
 そして彼がその扉を突き飛ばすように開け、甲板に飛び出してくる。
 その後に、これまた教官と同じような顔をした彼の側近と、そしてテッド、そしてジャンヌ先生が慌てるように飛び出してきた。
 だけど向かってきたのは、恩師一人だけ。
 後を追ってきた人達は、彼に任せるかのようにして、扉の前で固唾を呑むようにこちらをうかがっているだけだった。

「そこでなにをしている!」
「なにって……」

 彼がとても怒った顔で近づいてきたので、葉月は手すりの方に後ずさってしまった。

「さあ、戻ってこい!」
「……」

 何故、そんなに怒っているのだろうかと思い、葉月は素直に『はい』と言って戻りたいのに、何故か拒否反応が起きて足が動かなかった。

「この天気がどういうものか海軍のはしくれなら解るだろう!? 他の者に迷惑をかけるんじゃない!」
「ただ、外の空気を吸いに来ただけで……」
「だったら、何故! 晴天の夜ならともかくこんな天候の夜に、そのような危険な場所にいるんだ!」

 そんなこと言われても、言われても……。
 解っているのに解らない。
 頭の中がひどく混乱してきた。
 それも葉月は『私が混乱している』と傍観する自分と、混乱している自分の二人が頭の中にいる奇妙な感覚に陥った。

「──解らない! でも! 波を見たら側に行きたくなって、ずっと見ていたくなって! 吸い込まれたくなって──!!」

 そこで頭を抱え、床に崩れ落ちうずくまる。
 するとジェフリーが駆け寄ってきたのが見えた。

「そうか。解らないならそれでいい。さあ、中に戻ろう」
「教官……」

 見上げると、そこには先ほどの怒っている顔ではない恩師の顔が。
 懐かしい。いつもそうして彼は私を安心させてくれていた。
 跪き、背を撫でてくれる手だって『覚えている』。
 葉月は再び、湿布を貼っている頬を撫でてみた。
 こんな痛み以上に……。
 彼の手は優しいし。
 先生の身体は柔らかく暖かい。
 後輩の声はいつも澄んでいて頼もしい。
 こんな痛みなんかより、ずっとずっと葉月の心にずっしりと優しく残っている。

 そうして固く結ばれそうだった心の絡みが、ふとほどけそうになったその時──。

『大佐──!』
『艦長、危ない!』

 扉付近で待機しているテッドとラルフが顔色を変えてそんな叫びを──。
 ジェフリーとふと気がついた時には、葉月の視界、ジェフリーの肩越しに高い波!
 『高潮』!?
 その波の飛沫が稲の穂先のように重そうに垂れ下がり真上からかぶってくるところ──!

「──葉月!」
「きょ、教官……!」

 彼にグッと抱きしめられ、そのまま床に伏せられる!
 彼の胸の下、彼の大きな手が力強く甲板の鉄床に吸い付くように固定される。
 それを見た途端に、二人の頭上に波が落ちてきた……!

 それは冷たく重い真空の世界に閉じこめられたかのような圧迫感が一瞬にしてのしかかってきた感覚──!

 葉月の願い通りに、その高波に呑み込まれる!
 息が出来なくなる──。
 だけど自分の身体を確実に抱きしめてくれている強い力が体中に駆けめぐっている。
 それでも波をかぶった、という認識をした次にはその抱きしめられている感触のまま、二人一緒に強い力で『引きずられる』ような抵抗できない強い力にまとわりつかれていた。
 かぶった波が海上へと戻っていく力に引っ張られているのだ。

 海水の中から顔は出るぐらいになったが、それでもその波が引いていく力に捕らわれ、ジェフリーに抱きしめられたまま二人一緒に甲板を、手すりギリギリまで転がっていた。

『大佐──っ』
『やめろ、テッド。危ない……!』

 そんな声が聞こえる!
 だけれど葉月の視界には、テッドの姿は見えなくて、もうそこ目の前に甲板の手すり! そのすぐ下は潮位が上がってきている海面──!
 波に呑み込まれるどころか、その海面にも引きずり込まれる──!?

「ぐっ!」
「教官!」

 だけれど、そこで止まった。
 見えていた視界、その最後のボーダーラインである甲板の手すりに血管が浮き出るほどに力を込めて握っている大きな拳がそこにあった。

 葉月の足と身体半分は、その手すりの間から滑り落ちるように甲板から落ちかけていた。
 そしてジェフリーの足もそこから抜け落ちそうに。
 だけれど! 彼が歯を食いしばりながら片手で手すりを握りしめ、そして片手で葉月を抱き留めていた。

「──教官、ご、ごめんなさい!」

 やっと目が覚めたかのように、葉月はそう叫ぶ。
 そして今度はちゃんと自分の腕を手すりへと伸ばす。
 その時、やっと駆けつける事が出来たテッドが、その伸ばした手を握りしめ引っ張り上げてくれていた。
 そしてジェフリーもラルフに身体ごと引き上げられる。

 そこでジェフリーと二人、暫くは息を切らしながら甲板にうずくまっていた。

「お、驚きましたよ! 貴女はどうして、もう、どうしていつもそうなんですか!」
「ご、ごめんなさい。テッド……。い、いつの間にか……」
「いつの間にかじゃないですよ!」

 彼が本気で怒っている。
 ……今、自分がしたことが無意識だったとは言え、葉月は本当に情けなくなり、さらに甲板の床に額をつけるようにうなだれた。
 涙なんか、情けなさ過ぎて出てきやしない。
 ただ、もう。車やコックピットでそうであったように……。そこを卒業しようと決めても、やっぱり形や状況を変えてでも途端にこうなってしまう自分の有様に悔しくて、悔しくて。唇を噛みしめ、握った拳で甲板を殴る。何度も殴る。
 そんな葉月を見て、テッドが『もう、いいですよ』とその拳を振るう腕をそっと止めてくれる。それでも殴った。

「テッド、どけ」
「か、艦長──?」
「いいから、どけ!!」

 そのジェフリーの激しい声に、葉月は顔を上げた。
 側にいたテッドが引きはがされるように、ジェフリーに肩を掴まれ強く後ろに突き飛ばされてしまっていた。

「きょ、教官?」
「立て」
「……」
「立てと言っているんだ!!」

 ものすごい形相の恩師がそこにいた。
 葉月も──。意識がはっきりした分、自分が何をしてしまったのか分かっていたので、言われたとおりに静かに立ち上がる。
 その途端! 恩師の手がグッと葉月の襟元に伸びてきて、襟首を掴まれた。そこまでは『軍人生活、良くあること』なのだが、それ以上に葉月が『あ!』と驚いたのは、彼に襟首を掴まれ持ち上げられたと思ったら、軽々と彼の片肩に担がれたこと……!
 そしてジェフリーは無言で、そのまま再度、波飛沫が散る甲板の手すりに向かっていった。

「教官!?」
「艦長……! なんのつもりですか。やめてください!」
「艦長! もうそれぐらいでいいでしょう!?」

 驚き戸惑う葉月に、それを止めてもらおうと叫ぶテッド。
 そして後を追ってくるラルフの声。
 遠くではじっとこちらを見ているジャンヌ先生が静かにこちらを見てたたずんでいる姿もある。

 だけれど、その教官の後ろで繰り広げられている慌てる補佐と側近の姿も一瞬にして消えた。
 彼等の『やめてください!』という声が耳に聞こえた時には、葉月は手すりの上でジェフリーに海面へ叩きつけられるかのように、彼の肩から振り落とされそうになっている!
 そんな彼が力一杯葉月を振り落とそうとしながら叫んだ。

「自分の命を粗末にする上官は、部下を守る資格はない! 今すぐ、この艦を降りろ!」
「!」
「そんなに死にたいなら、その願いを俺が叶えてやる! そうして俺もお前と一緒に飛び込んでやる! 俺とお前、今は師弟共同体だからなあ!! お前が死ぬなら俺も死ぬ!」

『いやーーっ!』

 本気で振り落とそうとしているのが、分かった。
 そしてジェフリーも葉月が落ちたら、飛び込む覚悟でいるのも通じた!
 ジェフリーの身体からふわっと宙に浮いた感覚。
 本当に落とされる!
 この艦も降りたくない! まだやり残していることがある! 今一緒に繋がって日々精進をしている恩師を巻き添えにしたくない! そして──『死にたくない』!
 そんなの嫌だ!!!

 手が伸びて、がっしりと葉月は手すりを握り、振り落とされた足は懸命に船体の鉄壁に突っ張るように伸ばして貼り付けていた!
 その必死にへばりつき、手すりを力強く握りしめた姿。
 それをジェフリーが恐ろしいまでの眼差しで見下ろしていた。

「──お前はコックピットなどなくても、生きていける」
「……教官」
「待っている愛しい彼を哀しませるな。お前を信じている者達を哀しませるな。裏切るな! それを身をもって知ったのではないか。だからコックピットを降りる決心をしたのだろう!? あれは嘘なのか! お前の建前だったのか!」

 その問いつめに、葉月は手すりに必死にしがみつきながらも『違う』と、本物の決心であることを分かってもらいたく必死に頭を振った。
 こうなってしまったけれど、独りでも、自分の足で立てるように生きていけるように強くなりたくて、沢山の事を考え、そして今度も……隼人がいなくても大丈夫と、そう思って後輩だけつれてこの航行に来たのだから!
 その決心は本物だ。
 もう『命がけ』はやらない。
 命がけで心を賭けない。
 ちゃんと自分と話し合う。自分を無視しない。
 そう決めた気持ちに嘘はない!

「葉月! コックピットを降りても、コックピット並の闘いはこれからもずっとあるのだぞ。お前は闘いにピリオドを打ったのではなく、新しいスタイルで闘う決心をしたのだろう!? お前を信じて待っている彼を置いてリタイアするのか!? こんなことでどうする!」
「そうでした、教官。すみません……!」

 そうだ。もう少しで『負ける』ところだった。
 本当の敵、いいや『自分』に負けるところだった!
 先生が言ってくれたじゃないか──『貴女は負けていない、勝ってきたのだ』と……!
 生きてこそ『勝ちつづける』のではないのか!?

 今度こそ、葉月は泣き叫んでいた。
 頬も髪も潮でぐっしょり濡れて既に口の中は塩辛いけれど、それとは別に暖かい涙が頬をつたって少しだけ甘く、そしてしょっぱい涙の味が口に入ってきていた。
 そんなふうになり振り構わずに泣き叫んだ葉月を見て、ジェフリーがやっといつもの安心する微笑みを見せてくれ、そして手を差し伸べてくれた。
 葉月は一瞬、その暖かい手を取る資格が自分にあるのかと戸惑ったが……。震える指先を伸ばすと、ジェフリーからがっしりと手首を握りしめ、あっと言う間の力で葉月を手すりの外から引き上げてくれた。

 そして再び甲板に立たされる。
 彼と向き合い、葉月はちゃんと恩師の目を見て顔を上げた。
 そんな葉月の顔を暫く彼もじっと眺め、少しだけ微笑んでくれる。

「……もっといい顔になった」
「申し訳ありませんでした」
「もう大丈夫だな」

 葉月はこっくりと頷く。

「だったら、風呂に入ってこい。その後、俺の部屋に来い」
「はい。艦長……」

 葉月はジェフリーの前から踵を返し、歩き出そうとした。
 そうしたら、足が震えているのか膝からがっくりと落ち、甲板に跪いてしまった。
 すかさずテッドが駆け寄ってきてくれる。

「大佐──。大丈夫ですか」
「テッド! 手を貸すな!!」
「!」

 ジェフリーに吠えられて、テッドも一歩前で立ち止まった。
 葉月はそれでも、もう微笑みを浮かべながら自分の力で立ち上がった。

「一人でいけ」
「はい」

 力無くとも、葉月は一歩、そしてまた一歩。自分の力で歩き出す。
 ぐっしょりと濡れた身体、訓練着から滴がぼたぼたと落ち、髪もぐしょ濡れで乱れ、頬に張り付いて離れなくて。そんな無様な格好で歩き出す。
 そして自分が好んで選んだ『危険な境界線』から、自分の足で遠ざかる。

 扉の前にはジャンヌがいたけど、彼女はジェフリーと同じ目をしていて葉月が通りかかってもただ見ているだけだった。
 誰にも声をかけられることなく、葉月はただ自分がここに一人で来たように、一人でそこを去った。

 そしてこれからも、こうして一人で歩いていくのだ。
 どんなに無様でも。
 それ、去年。あの義兄と別れた時に決めたこと。
 それをまた思い出させてくれた気がした。

 そしてこの足で、自分の歩く力で──『貴方の元に帰る』のだから。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 艦長と大佐嬢のちょっとした諍い。
 そして恩師としてのただの『説教』。
 遠巻きに見ていた整備員達にラルフが遠くでそう叫んで、元の持ち場に戻るようにと指示している。

 ジェフリーも全身、ぐっしょりと濡れてしまっていた。
 そこへ白衣の裾を翻すジャンヌがやってきた。

「流石ですね」
「とんでもない。先生が『乱暴はやめなさい』と止めてくるものとばかり思っていたのですよ?」

 止めてくれないから、あんな事になってしまったとジェフリーがとぼけながら言うと、ジャンヌが可笑しそうに笑い出した。

「まさか。あんなに素晴らしい『愛の鞭』。止めるだなんて勿体ない」
「やれやれ。先生には参りますな」

 そしてジャンヌは葉月が去っていった扉を振り返っていた。

「彼女、それはちゃんと分かる、そして見つけられる子ですよ。『愛の鞭』ちゃんと届いたではありませんか」
「はあ、まあ。ちょっと荒療治というか……」

 げんなりとした顔をしたのだが……。でもジェフリーはジャンヌと同じ方向を見据え、もう姿が見えなくなった教え子の背を思い浮かべながら力無く微笑む。

「あの子だけなんですよ。俺も、そう……。俺もあの子に『ここが生きるという境界線なのだ』という、とても熱くならざる得ないギリギリのラインに立たされ教えられたのは……。あの子のとてつもないあのエネルギーなんですよ」
「そうかも知れませんわね」
「その大きなエネルギーが『生』に転ぶか『死』の方に転がるのか。本当に危うい。だが……『生』に傾くようになったと思えました……。やっと」

 やっと、肩の力が抜けてきてジェフリーは心の底より微笑みを浮かべていた。
 そして、それを同じように微笑んでくれるジャンヌの姿もそこに──。
 まだ……。闘いは残っているのだろうけれど、それでも『絶望だけじゃなくなった』。そんな気にさせられたのだ。

「すみません。ビシバシと鞭を打った者が言う事じゃないのですが……。お願いできますか?」
「はい、そういたします。艦長」

 ジャンヌがにっこりと微笑む。
 そして白衣を翻し、彼女も艦内に戻っていく。
 『一人で』と突き放したが、ジェフリーはジャンヌを教え子の元へと送り出した。

「俺、まだ甘いんですね。彼女にシビアになりきれなくて──」

 そう呟いたのは一人取り残され、茫然としていたテッドだった。
 そしてその若い青年は、情けなさそうにうなだれていた。

「そうだな。だが女性だと言うことも忘れてはいけない。そして彼女が今まで受けてきた痛みも。だからとて『軍人』である以上、他の者と同様でなくてはならない。尚かつ『大佐』であるなら人一倍のシビアさはあって当然だ。故に、難しい役だ」
「はい……」

 力無く頷くテッドの肩を抱いて、ジェフリーは励ますように叩いた。
 そしてテッドが呟く。

「俺、時々……。澤村中佐は恋人なのにどうして彼女に手厳しくするのだろうと思うことが多かったです。でも、今、艦長を見て思いました。ここにあの人がいたらきっと……」
「そうか、そのような男なのか。安心した。じゃあ、彼は側近としてのそこを『卒業』したみたいだから、テッドが引き継がないとな」

 その青年がこっくりと頷く。
 ジェフリーは再度肩を叩いて、葉月と艦長室にくるようにと送り出した。

「貴方が父親で、マルソー先生が母親。私が親戚のおじさんで、テッドが弟。みたいですね」
「なんだそりゃ」

 戻ってきたラルフがそんな例えで笑う。
 だがジェフリーもずぶ濡れの身体で高らかに笑い飛ばしていた。

「当然だ。今、この艦に乗っているクルー全員、家族だからな!」

 まだ波は高いが、もう恐ろしいまでのうねりはやや収まってきたようだった。
 闇の日本海への前進はまだまだ続く。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 体中に染みついた潮をシャワーで洗い流した葉月は、着替えを終えて待っていてくれたテッドと一緒に艦長室へと向かう。
 時間はもう24時を過ぎていた。
 艦内は静まり、時折、いつもの船特有のエンジン音と甲板からの金属音が聞こえてくるだけ。
 風の音もまだしているが、先ほどよりかは静まった気がする。

「来たか」

 ジェフリーもひと浴びした後なのか、上半身はランニング姿。首には大きなバスタオルをかけていて、湿っている金髪を拭いているところだった。

「葉月、ここに座れ」
「え──?」

 ジェフリーが『座れ』と言ったのは、彼の『艦長席』。
 そこには先ほどまでノートパソコンを広げてラルフがなにやら操作をしていたのだが、今、退いたばかり。
 そこを見計らったようにして、ジェフリーが『座れ』と言ったのだ。

 葉月はよく分からないが、言われたとおりに神妙に彼の席に腰をかける。
 目の前には、ノートパソコンのディスプレイ。真っ白だけど、『メーラー』が立ち上がっているのが分かった。
 すでに新規で打ち込める形になっていて、そして……アドレスも入っている。
 いったい何処へ? それも『葉月に送信しろ』とばかりのこの状況は?
 するとやっと恩師が言う。

「それはテッドに日頃使ってもらっている『小笠原四中隊本部』への連絡用だ」
「何故? 本部への連絡なら艦長の許可の元、テッドに任せていますけど」
「申し訳ない、『葉月嬢』──。うちではその『業務用』しか使用許可が出来ない。『サワムラ個人』でなくて悪いな」
「!?」

 葉月は驚いて、ジェフリーの顔を見上げた。
 隣のラルフはちょっと意味深な含み笑い。

「あの……。彼に何を送れと?」
「なんでもいいじゃないか。なにか送ってみなさい。きっと彼から返事が来る」
「そんな……。何故? こんなこと、艦長の許可があったからとて、許されません」

 葉月は断固として、一人の隊員として断ろうと席を立ち上がった。
 だが、ジェフリーがつかつかと寄ってきて、その葉月の首根っこを掴み、無理矢理座るように押さえられた。

「いいから、送れ。何があったかを知らせても、知らせなくても良いから、送れ。今のお前の気持ちを、彼に届けろ!」
「今の、気持ち……」
「艦長でなく。教官としての命令だ。いいな、一時間以内に送れよ。俺とラルフは見回りに行って来る。帰ってくるまでだ。それまでに出来ていなかったら、もう送信許可は無効だ」
「え、でも……!」

 戸惑う葉月を傍目に、ジェフリーはランニングの上に新しい訓練着の上着を羽織る。そして本当にラルフと一緒に出ていってしまった。
 テッドと二人きりになる。
 すると彼も言い出す。

「そう言うことなら、俺も外に出ますね。一時間後に戻ってきます」
「え! ちょっと待ってよ、テッド! こういうこと許されるの? ねえ!」
「知りませんよ。貴女の気持ちで決めたらどうですか?」

 なんだか今まで以上のシラッとした冷めた目つきのテッド。
 その彼が出ていく間際に肩越しに呟いた。

「特別扱いとか、貴女が元気が出るからとか。艦長はそんな次元で言った訳じゃないと思いますよ。貴女が今、どうしたいか。それに向き合えと言っているように俺には聞こえましたよ。きっと送らないなら送らないでそれも……艦長は『葉月の決めた答え』と思っているのではないですか?」

 その後輩の一言に、葉月はハッとさせられる。
 その間にテッドもするりと出ていってしまった。

 まだ荒れている波の音がする艦長室に一人にされる。

 風の音。先ほど、風呂上がりにジャンヌが貼り直してくれた肩頬の湿布。胸の動悸、突然の頭痛。そして彷徨い、大きな波との対面。恩師とのぶつかり合い。
 それを、既に静かに落ち着いたものとして思い出している。
 もう、膨れあがるようなエネルギーは波と恩師の熱意が吸い取って吹き消してくれたのだろう。

 それを隼人に報告しろと言うのだろうか。
 それとも──。

 暫く……。その真っ白な画面に向かっていた。
 どれぐらい時間が経ったかは分からないけど。

『お元気ですか──』

 葉月はついに、キーボードに両手を置いて、そう打ち込んでいた。
 何を書こうなんて。本当は思いつかない……。
 いつも『すぐに彼に伝えたい、話したい』事が沢山あったはずなのに……。驚いたことから他愛もないことまで、ここに来てから沢山あって携帯電話でも使えたらいいのにと思っていたのに、何故? いざとなってこんなに戸惑っているのだろう? ありすぎて伝えきれないこともあるし、そして──。

 葉月はそこで画面を真っ直ぐに見据えた。
 今度は指が自然と動き出す。

『恩師である教官を始め皆と共に、充実した毎日を送っています。帰ったら貴方に話したいことが沢山あります』

 そして葉月は最後に一言だけ打ち込む。

 

『私は元気です。そして貴方の元に必ず帰ります。待っていてね』

 

 それだけ打ち、葉月は躊躇わずに送信した。
 時間はまだいっぱいあっただろうけど、葉月はジェフリーの席を離れ、そこにあるいつも座らせてもらっている椅子に腰をかけた。
 そしてまた胸元を握りしめる。
 もう、妙な暗澹とした影はなくなっていた。
 葉月は独り、静かに微笑む。

 

『私は貴方の元に帰って、貴方の目の前で微笑む』

 

 それが『今の気持ち』。
 何があっても、ちゃんと自分の足で彼の元に帰る。
 そしてちゃんと帰って、彼の目を見て彼の息を感じながら、その時伝える……。
 今、伝えなくても良い。私は帰るのだから──。
 それが今の気持ち。

 葉月はジャケットの下にあるだろう銀色のリングを握りしめる。
 そしてそんな優しい気持ちになれた自分に安堵し、少しだけまどろんでいた。

 

 

 

 その翌日の昼のことだった。
 ジェフリーの艦長室へと呼ばれて伺うと、艦長席にまたノートパソコンが開けられており、ジェフリーとラルフがこれまた『ニヤニヤ』と笑っているのだ。
 葉月は何のことかすぐに判り、その為にサッと頬が熱くなるのが分かった。

「届いているぞー。葉月」
「そ、そうですか」

 隼人から本当に返事が来たらしい。
 きっと彼も業務的ではなくてもあからさまな恋人の気持ちは綴っていないと思うのだが。

 ジェフリーに手招きされて、葉月は彼の席に座る。

「ゆっくり読みなさい。さあ、ラルフ、ランチに行こうじゃないか」
「はい、そうですね」

 また二人が息を合わせたようにして、昨晩のように葉月を一人にしようと艦長室を出ていってしまった。

 葉月は今度は二人が気遣って出て行ってくれた事に感謝しつつも、ホッとする。
 早速、パソコンの画面を眺め、マウスを手にした。

──御園大佐嬢へ──

 そのサブジェクトを見つけ、葉月はそれを開いた。

 『メール、驚きました。決して届くことがないと思っていたので嬉しかったです。
 元気で過ごしているようで安心しました。それともメールをくれたのは、もしかして……?』

 やっぱり、それだけで彼には『もしかして何かがあったから?』などと判ってしまったのかと、葉月はドッキリとした。

『でも、葉月の元気だという一言があれば、きっと大丈夫。
俺は信じているよ。きっと俺のところに笑顔で帰ってきてくれると。
笑顔で沢山の話を楽しそうに話してくれる葉月を楽しみにしています。
今、約束だったことの計画を進めています。葉月のご希望通りに、リボンをほどくまで中身は判りません。だから楽しみにしていて下さい』

 ──それでは。
 彼も、そんな簡略的な内容。
 でも、葉月よりもずっと……やっぱりずっと沢山のことを伝えてくれる。
 だけど葉月はある一行だけをずっと見つめていた。

──俺は信じているよ。きっと俺のところに笑顔で帰ってきてくれると──

 その一行をずっと見つめていた。
 昨夜、葉月が『自分の気持ち』として自分で感じたように。
 たったあれだけのメールだったのに、彼は葉月の事が見えるかのようにしてその気持ちを知ってくれている。
 そして……やっぱり! 彼は私の笑顔をいつだって待っていてくれる人。
 昨日、波に呑み込まれたいだなんて、本当に馬鹿だった。
 またあのようになっても、今度は二度と忘れたくない──!
 こうして彼が待ってくれていることを!

 その一行を前に、葉月は暫く泣いていた。
 きっと、きっと貴方のところに笑顔で帰るからね──と。

 そして隼人に伝えたい。
 貴方だけじゃない、私は沢山の人に愛されていました。
 貴方と離れて、初めて痛感しました。
 一人じゃないと──。
 それは自分から信じることから始まるのだと、知りました。

 この旅はそんな旅になったと思った。
 そして帰るまでのこれからの日々もきっと!

 艦長席から丸窓に振り返ると、一夜明けたこの日は晴天。
 青空が広がり、そして雨上がりの甲板が輝いていた。

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