-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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17.巡る輪舞

 今、葉月の手元にはチョコレート。
 列車席の簡易テーブルに置かれている。
 それを外の雪景色を見ながら、頬張っているところ。

 一夜明けて、訪れた時よりさらに真っ白に染まった大地を眺める窓辺。
 そして隣の席では、ジャケットを毛布代わりに身体にかけている恋人が、まどろんでいた。

 今、札幌へと向かう特急の中。
 午前中に、あの洞爺湖を後にした。

「……眠いな。少し眠っても良いか?」
「いいわよ。私は起きているから」

 特急に乗り込んで直ぐ、隼人はあくびをして、眠りに入ってしまった。
 葉月は『当然よね』と、ちょっと呆れた溜息を静かに落としながら、窓際で頬杖……。

 昨夜、あの後も隼人はなんというか、離してくれなかったというか。
 洞爺湖に着いたその日は、葉月から『おねだり』してしまったのだが。昨日の朝のとてもゆったりとした触れあい、そして晩も隼人は力の限りという勢いで、疲れたのだろう。それでも、もうぐったりとしてしまった葉月にも構わず『丁度良い』なんて意地悪なことを囁きながら、ずっと葉月の身体に触れていたのだから。
 朝、葉月が目覚めた時だって、隼人の顔と手のひらが胸の上に乗っていたぐらいだ。眠くなって任せていた後、何をされたか覚えていやしない。眠くて当然だろうと思う。

 その頬杖をした左手、薬指がキラリと入り込んでくる日差しに煌めいたのに気がつく。
 そしてそっと一人で微笑む。

『俺達の結婚に乾杯』

 昨夜の彼の声が、まだ耳にこだましていた……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 やがて二人は北の都市、札幌に辿り着いた。
 道南より、道脇の雪山が高い。
 葉月の身長を超すのではないか? というぐらいに──。
 だけれど、中心部にいるせいか、歩道は歩きやすくはなっていた。

 洞爺湖よりもキリリと凍る空気の札幌を、隼人と一緒に、駅周辺のホテルへと向かう。
 ホテルは都市に良くあるグループのホテル。
 何処に行くにもアクセスがしやすいと言うことで、隼人が選んだようだった。

 今夜はツインのスタンダードな部屋。
 そこに落ち着くなり、隼人が携帯電話を取り出した。

「親父に、帰った日に寄ると報告しておくけど、いいかな」
「ええ……。お父様とはすっかりご無沙汰になってしまったわ。それにお詫びしたいし」
「なんの詫びだよ? そんなものいらない。ああ、そうそう、親父は『説教の一つでもしたいから、いつでも来い』と言っていたから、その説教を聞けば良いんだよ」
「そう。じゃあ、そうするわ」

 隼人がウンと満足した笑みを見せ、白いレースカーテンがひかれている窓辺へと向かった。

「あ、親父。うん、札幌に着いた──。ああ、二人で楽しんでいるよ。ばっちり」

 とても明るい声で父親に報告する隼人の言葉に、何故か葉月がちょっと照れてしまっていた。
 なんだかあのお父様に、二人きりで愛し合う旅に出ていることを、見られてしまっているようで……気恥ずかしい。
 でも──その和之と沙也加あっての、素敵な旅になったと葉月は思っている。その二人の愛が、隼人という命を世に送り出し慈しみ、そうして葉月と巡り合わせてくれたのだ。その二人が愛を育んだ土地で、自分たちも愛を誓い合えたのがとても嬉しかった。

 ──そう言えば。自分の両親はどうやって愛し合ったのだろう?

 気にしたことがなかったと、葉月はちょっぴり哀しくなる。
 でも近々、フロリダには連絡をしたい。
 私もついに、人生の伴侶を得て、前に進めそうだと。
 自分が心より愛し選んだ最高の人と、結婚するのだと──。
 両親を安心させてあげたい。

「あ、葉月。親父が何か言っているけど話してみるか?」
「え!?」

 自分の両親の事を思っている最中にいきなり、ご無沙汰の和之と話してみないかと言われ、葉月は慌ててしまった。
 まだ、心の準備が出来ていない。だが、そこで隼人が面白可笑しそうに笑って、携帯電話を再び、自分の口元に戻した。

「あはは。親父、また帰ってきたらで良いだろう。その時までのお楽しみだ。じゃあな!」

 ぷっちりと隼人から手早く電話を切ってしまったみたいだ。
 葉月は呆気にとられてしまう。

「まあったく、親父の奴。あれこれ聞いてくるんだもんな。キリがない」

 だから切ってやったと、隼人が『してやったり』とばかりに、少年のような顔で笑い出す。
 いつも『俺がしっかりしなくちゃ』とばかりに、葉月よりお兄さんの顔で側に居続けてくれた彼。そんな彼が自然と力が抜けたように、ナチュラルな笑みを見せてくれている。
 そんな彼を見て、葉月も微笑んでしまう。──彼って、こんなふうにも笑ってくれる人だったんだと、初めて知った気がした。
 好きな人を幸せにしてみるって、こういう顔を見られることなのかと……葉月はそっと目を細めた。

「……頭痛、大丈夫か? 良かったら、今から市場に行って蟹を送りたいんだ」
「ええ、大丈夫よ。あれっきりだし。それに私もお土産買いたいから」

 『では、出かけようか』と、二人は早速、札幌市内観光へと繰り出した。

 

 外に出ると小雪だった。
 隼人の立派な方向感覚で、地図を見ながら市内を歩く。
 途中で『時計台』の前にさしかかった。札幌のシンボル。それを隼人と見上げて『本当に札幌に来たんだね』と囁きあい、一緒に実感を噛みしめる。
 直に『大通公園』に抜けた。大きな通りに挟まれた中央に真っ直ぐ伸びる公園。どこまでも真っ白な雪で埋め尽くされている。その先、向こうにはちっちゃなエッフェル塔みたいなテレビ塔がそびえていた。なんだかちょっとパリを思わせる風景……。

 そこからさらに、市場を見つけてお土産を物色した。
 北海の幸が溢れている市場の一角にある蟹店で、隼人はやっと横浜へのお土産として、発送手続きを無事に完了。
 葉月も、鎌倉に鮭のセットを送ることにした。
 その市場で、丼のレストランを発見。

「うわー。海鮮丼があるぞ」
「お腹空いたわよね──」

 だけれど、二人はグッと我慢。
 この後『すすきの』に出て、隼人が前もって調べていた流行のラーメン店に行く予定なのだ。

「小樽の海鮮も格別らしいぞ。明日の昼、千歳に帰る前に食べような」
「うん。我慢するっ」

 旅はいつのまにか『ミステリー』ではなくなり、今朝、隼人からやっと今後の予定を聞かせてもらえた。
 今日は終日まで札幌市内を楽しみ、一泊した後、小樽に向かい半日観光。午後、ついにこの旅を終えて新千歳空港へ向かう予定なのだそうだ。
 それでも休暇が余っている。そう葉月が疑問として尋ねると、帰ってきて直ぐにまた元の厳しい仕事に戻るのは酷だから、小笠原の自宅でゆっくりして出勤への心積もりを整えるのだという、隼人の余裕あるスケジュールにも驚いた。それで、明日の夕方は翌日もまだ休暇なので、ゆっくりと横浜に寄ろうとことになったのだ。
 もう、旅は半分終わったことになる。本当なら、ちょっと名残惜しい切なさが込み上げてくる頃かもしれないが、でも──今の二人は『旅が終わったその後』の方がもっともっと楽しみに思えている。

 楽しい旅は、昨夜の愛の誓いでより一層楽しくなり──。
 そして二人の寄り添う距離はより一層、親密に。
 昨日の有珠山の帰りも手を離さなかったように、ずっと繋いで歩いていた。

 彼の左薬指にも、もう、ちゃんと銀色のリングが光っている。
 今朝、葉月が彼の指に通してあげたのだ。
 目が覚めてから『貴方のはどこにあるの?』と、彼がまだ眠くて唸っているのに、ジャケットのポケットを探ったり、バッグのポケットを探ったり、さらにテーブルに置いてある財布も覗かせてもらったり……。そこでやっと彼が気だるそうに起きた。──けれど、その時見つけた。財布の中にある『IDカード』を入れているケースの中に……。
 あの日のままだった。
 別れる時に指輪は二人が出会った意味を無にしない最後に残った財産のように『勇気ある前進』だけは忘れないで欲しいという彼の願いで握らされたあの日。
 流産だったと二人で知ったあの日。銀杏が舞う中、『離別』してしまった日。
 『俺もほら、こうして持っておくよ』──。カードケースの片隅に忍ばせているのを見せてくれた隼人。

 彼も……こうして肌身離さず、持っていてくれたのだと知った葉月は、また熱い涙をこぼしていた。
 気だるそうに起きた隼人が浴衣を羽織って、葉月を後ろからそっと抱きしめてくれる。
 葉月はその抱きしめてくれる腕をとって、彼の左薬指に指輪を通してはめてあげた。

 今日はその彼の手を握って寄り添って歩いている。
 小雪がちらつく北の都市は、とても静かだった。

 明日、小樽観光を終えたら二人は羽田へと向かう。
 旅の終わりはもう目の前。
 だけれど、二人はもうずっと一緒に旅をしてきたように、いつまでも寄り添って、北国の雪の中を歩き続けていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 若草色のマフラー。
 一緒に頬張った生チョコレート。
 彼への白いマフラー。

 二人で確かめ、再び握りしめた『見えない緑』への希望──。
 甘い雪。
 熱い乾杯。
 白い花の祝福──。

 北の都市の真っ白い町並み、公園。
 寒さを堪えながら向かった、ラーメン店。

 北の運河街。
 最後と二人で豪快に食した海鮮丼。
 ──そして、見つけたお土産の数々。

 そして、左薬指の銀色リング。

 たった数日だけれども、沢山の宝物が手に入った気がした数日。
 葉月はそれを、ずっと何度も振り返っては、その喜びを噛みしめていた。

 

「あ、またイーグルが行くぞ」
「本当だわ」

 

 今、二人は千歳空港にいた。
 初日、二人で何気なく入った洋食喫茶で、あの時と同じ席に座っていた。

「──年が明けたら『ラストフライト』か」
「そうね」

 またしんみりと呟く隼人は、そのイーグルが空へと飛び立っていくのを遠い目で見ていた。
 そして葉月も……。
 二人は無言で空を見上げる。
 だけれど、目が合えばふと眼差しを和らげて微笑み合う。
 ──その温かさ。そして甘さ。そして幸福感。
 テーブルの上で、手と手がまた重なった。

「今日は横浜で一泊、親父は泊まって行けと言うけれど、どうする?」
「うん、じゃあ、お世話になろうかしら──」

 夕食も是非という和之の話らしい。
 そうなると夜遅くなって、小笠原に帰る基地便には間に合わないだろう。

「定期便の予約を変更しておかなくちゃな」
「あの……。出来たら横須賀基地に寄って、兄様に会いたいんだけれど。今日は駄目よね?」

 葉月の足下にはお土産を沢山入れたペーパーバッグ。
 そこに従兄が気に入ってくれそうな洋菓子と、小樽で見つけたオルゴール。
 泉美にも。お腹の赤ちゃんに聞いてもらおうと可愛いオルゴールと、ガラス細工を小樽で購入した。
 それを渡すついでに、右京には一番に報告したいなと思っていた。

「別にいいよ。俺もお兄さんに会いたいし。じゃあ、丁度良いから、基地の空港で定期便の変更をしようか」
「ごめんね」

 隼人が優しい笑顔で『そうしよう』と言ってくれた。
 では、と──二人は一緒に携帯電話を手に、それぞれの連絡をする。

「あ、親父。俺、今、千歳。夕方にはそっちに行くから。うん、今日は泊まっていく。葉月も……」

 隼人の連絡はすぐさま通じたようで、そんな会話が葉月の直ぐ隣で聞こえる。

「……おかしいわね」

 だけれど、葉月の右京への連絡は通じなかった。
 どうやら携帯電話の電源を切っているようだ。
 珍しいな……と思ったが、『仕事、忙しいのかな』とも思った。いつもふらりとしているふうの従兄だが、あれでいてやる気になると、もの凄い集中力で実力を発揮する従兄なのだ。だから、葉月は諦める。

「あれ、右京さんは?」
「電源が入っていないみたい。忙しいのだわ、きっと」
「そうだよな。年末が目の前だし──。今日も平日だもんな」

 それほど気にせず、葉月は携帯電話をテーブルに置いた。

「どっちにしても、横須賀まで行くんだ。その時会えればいいじゃないか」
「そうね。お仕事の邪魔になったらいけないし……」

 ──そろそろ、搭乗の時間だった。
 いつのまにか、そのイーグルが見える窓辺も名残惜しい想い出の場所になったようで、葉月は席を離れても、何度か振り返ってしまった。

 ついに旅の終わりがやってきた。
 二人は羽田行きの飛行機に搭乗する。
 今度は隼人に窓際の席に座ってもらった。

「あっという間だったな」
「でも──忘れられない旅になったわ」

 微笑み合う二人の手が、また重なる。
 離れている時間の方が、短くなってきているぐらいに。
 葉月の左手、銀のリングが光っているその指を、彼がそっと大きな手で包み込む。 

 離陸前、葉月はそっと目を閉じる。

 

 さようなら、北の真っ白な大地。
 私達に沢山の夢を思い出させてくれて有り難う──。
 真っ白で、まだなにもなくて、でもこれからきっとあることを信じさせてくれて。

 緑はきっとまた息吹くわ──。

 葉月の心の奥の小さな呟き。
 また飛行機が空へと旅立つ。

 最後に二人一緒に見下ろした雪の大地。
 次に来る時にはこの大地も、そして私達にも春が来ているはず。

「また、来よう」
「うん。きっとまた……」

 

 新しい希望を乗せた飛行機は、二人を真っ白に包んでくれた『ザナドゥ』から、いつも生きてきた場所へと帰っていく。
 だけれど、私達はきっとその生きていく場所でも『ザナドゥ』を見つけるわ……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 なんだか、もう既に小笠原の南国地帯に帰ってきた気分。
 北国を後にして本島に戻ってきて感じた温度は、まったく別物だった。
 飛行機を降りた羽田でも、そう感じて、葉月はすぐさまコートの中に着込んでいたカーディガンを一枚脱いだぐらい。
 今は、少し遠回りになったが、隼人と一緒に横須賀基地に辿り着いたところ。二人一緒に『定期便窓口』がある滑走路に向かっていた。
 基地に入る時には『IDカード』で入る。警備口で、私服姿の二人はそのカードを出して入ろうとした。
 それが『御園大佐』であると知った警備員の顔。そして隣の男性。側近の『澤村中佐』──。なにか問いたい顔をしているのだが、そこは職務中、警備隊員の若い彼のグッと堪えた口元。
 無事に入場チェックが終わった後、そこを離れた二人は何故か一緒に笑ってしまった。

「二人で何処か行ってきたのだろうか? という顔だったな」
「当然よ。見てよ、私が持っている袋。まさに北海道帰りじゃない」

 前の二人だったなら、そう言うことは隊員達に悟られないように気遣ってきた物なのに。今日に限っては何故か二人は気にせず、それどころか揃って笑っていた。

 ──どうせ、そのうちに夫妻になるんだ。それも自然に見られるようになるさ。

 その隼人のひと言に、何故か葉月はドキンとした。
 幸せの『ときめき』もあるけれど、なんだか、ちょっと緊張したのだ。
 本当にこの人の『奥さん』として見られるようになるんだわ? と。まだ実感がない分、それがどういうものか上手く想像できなくて、知らない世界への緊張というのだろうか。──落ち着かなくなってしまう。

 荷物を手に、二人は滑走路へと向かっていく。
 その途中、隼人がちょっと溜息混じりな真顔で呟いた。

「フロリダにも連絡しないとな。きっと……今度はお母さん、喜んで許してくれるよ。なんたって、俺と仲直りしたんだから」
「うん、分かっている。聞いてくれなくても、それはちゃんと話すわ」
「聞いてくれるよ。葉月もまだ気負いがあるだろうけれど、『結婚』となれば聞いてくれるよ」
「うん……」

 葉月だってそう思っている。
 結婚で許してもらうとは思っていないけれど、もし、まだ母が突っ張って来てくれなくても、ちゃんと報告だけはしようと思っている。

「忙しくなるだろうな。俺、春までにはフロリダにも、お前を連れて行きたいと思っているんだ」
「え!? また休暇を取るの?」
「ああ、そうだ。大事なことじゃないか。いくら急いでいても、挨拶も無しに、お前を嫁さんには出来ないよ」

 そりゃ、そうだけれど──と、葉月は口ごもる。
 けれど、忙しいから両親に日本に来てもらう……という立場ではない、今は特に。
 それに隼人は『絶対に許してもらえる』と自信満々だ。
 葉月はちょっと溜息──。あれでいて、母は結構頑固なのだ。

(私がママに、自分の何がいけなかったか、そして何を見つけたか。ちゃんと言わないと)

 隼人と本当に心からの復縁を果たし、結婚をする──。それだけでは母は納得しないだろう。葉月は娘としてそう思っている。
 今までのパターンで行くと、隼人がなにもかもを受け入れて許してくれただけの事で、娘はなんにも理解をしていない──。きっとそう思われる。
 母とも和解するには、母が本当に怒っている意味をちゃんと捉えて、葉月がきちんと理解したことを伝えなくてはならない。

 そう言う点でいっても、今の葉月は『自信がある』。
 母が言いたかったこと、ちゃんと解った。この一年でやっと解った。

 葉月はそうして、遠い幼い日を思い返す。
 助けに来てくれなかった母を恨んだ日があった。
 そして母はその点だけは、葉月に対して『悪かった』とずっと悔いていて、自分を責めていた。
 あの事件の後も、壊れかけた葉月には様々な事が起きた。
 母が一番最初に、ちょっと精神的におかしくなってしまったのは……『義兄と結ばれた事』だった。
 自分が知らない内に、男達の間で進められてしまった話に、母親である自分が意見も言わせてもらえずにないがしろにされたこと。娘の意志も関係なく、男のものになったこと。
 母は葉月を抱いてしまった純一を責めはしなかった。彼等の『亡き娘、皐月』を思えばこその、思い詰めた末の若い暴走と結果づけて冷静に受け止めていたようだが、許せたのはここまでで、それを止めなかった『主人達』に対してはものすごく怒ったと聞かされている。
 救いは母が信頼している男性であったことだけ。母は口には出さなかったし、あからさまに公言もしなかったが、密かに『葉月も好いているようだから、いずれは純ちゃんに』とは思ってくれていたようなのだ。──これは右京から聞かされた話。
 だが、母が本当に望んでいたのはそういう『囲われた世界』で得られる『幸せ』ではなく、葉月の自らの意志で強く望む幸せを掴み取ることだったと。それを母は、隼人を見て直感していたらしいのだ。
 ──『この青年と娘ならきっと』。
 だけれど、葉月が前進しかけていたところ、純一が日本にやってきたことで『逆走』をしてしまった。それが去年の逃避行のこと。
 人として、やってはいけないことを『不幸人の甘え』から起こしてしまった葉月。
 母が言いたいのは、『どんなに不幸でも許されない事はどの人も同じ事』。そこはどんなに娘に負い目がある母親でも、断固として譲れなかったのだろう。
 ──それが解った一年間。
 だから、それを理解したことを、今なら母にちゃんと伝えられる気がする。
 電話をかけても母が出たら、ガチャリと切られてしまったこともある。そんな日は後から父の亮介が励ましてくれるような連絡をしてくれた。
 また電話をかけても、がちゃりと切られてしまうかもしれない。それなら、苦手だけれど手紙でも書こうと葉月は思っていた。

「私、ママに連絡もするし、手紙も書く」

 葉月がそう言うと、隼人が静かに受け止めてくれた柔らかい微笑みを見せてくれる。
 ──『きっと大丈夫』と言ってくれているような笑顔。

「お母さん、解ってくれるよ」

 彼の頼もしい声と笑顔に、葉月も笑顔で『うん』と頷いた。

 その時にはこの北海道旅行で見つけたこともちゃんと書き添えよう。
 ──ママ、私を産んでくれて有り難う──と、書き添えよう。

 葉月の心がどんどん前に進んでいくような、軽やかな気持。
 本島も冬本番だったが、この日の午後はうららかで、とても暖かい小春日和。
 空は青空。飛行機雲が真っ直ぐ空高く白く引かれていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「じゃあ、変更手続きしてくる」
「私、外で電話してくるわ」

 滑走路警備課の棟に辿り着く。
 この棟に滑走路を警備する隊員や、滑走路整備員、機体メンテナンス員が勤務していて、日々横須賀を行き来する輸送機やチャーター便などを管理している。そしてその一階が搭乗手続きの窓口、待合室になっている。外に出ると駐車場で、いつもここに右京が迎えに来てくれているのだ。
 その見慣れた駐車場の入り口に辿り着き、隼人は中へ向かい、葉月はまた外に出て携帯電話を手にする。

 だが、やはり右京の携帯電話は繋がらない──。

「……兄様らしくないわね?」

 そんなに忙しいのだろうか?
 音楽隊の秋の公演は落ち着いた頃のはず。
 そこで葉月は暫く考える。

『あれ、御園大佐じゃないか?』

 どこからともなくそんな声。
 こうして日常関わっている場所に戻ってくると『嫌でも人目』があると、葉月は溜息をこぼした。
 やはり、隼人がああして知らない土地に『二人きり』と言って連れ出してくれた気持ちが分かってくるほどに。本当に北国での数日は『別世界』だったのだと、葉月はちょっと寂しくなってきた。

 制服を着ていなくても、栗毛と雰囲気で見つけられてしまう場所。
 それでなくても横須賀基地では、訓練校の校長をしている京介叔父に息子の右京というハーフとクウォーターの二人は一番目立つ存在で、そして葉月はその二人に似ている。すぐに『姪で従妹』と判ってしまうのだろう。

 葉月は下に置いていた手荷物を持って、駐車場の片隅にある蘇鉄の木陰へと移動をした。
 冬でもそれなりに青々としている葉が茂っている木陰。根元は芝生になっていて、葉月はそこに立って木の幹の影にそっと身を潜めた。
 そして、再度携帯電話を手にして、『あまりやりたくない』がと、右京の職場デスクの連絡先へとダイヤルを押そうとしていた。

「すみません」

 その木の陰にいるとき、一人の男性が声をかけてきた。
 葉月が振り向くと、そこには殆どが白髪である黒髪の男性。歳は義兄ぐらいだろうか? 四十代前半と言った感じだ。
 ──見覚えはない。

「……覚えていませんか? お嬢さん」

 覚えていない。
 だけれど、なんだかいつもの葉月の勘が『喋っては駄目だ』と言っている気がする。それになんだか、胸騒ぎがしてきた。
 すぐにすぐにここを立ち去った方が良い。こういう男性とは言葉を交わさない方が良い。
 そう思って、バッグを手に取ろうとした時だった。
 目の前の男性が、柔らかに目元を緩めている笑顔で、すっと葉月にハンカチを差し出した。
 男物の……グレーストライプ柄のオーソドックスなハンカチ。

「落としましたよ。お嬢さん」

 ──思い出した!

「有珠山の……火山村で……。え? 何故、ここに?」

 あの時、気分が悪くなった時に葉月が落としたハンカチを拾ってくれた漁師風の男性!
 あまりの気分の悪さに顔ははっきり見えた覚えがない。
 それでもそのハンカチとその落ち着いた低い声で思い出した。
 そして──! それと同時またガン! と、頭を叩きつけるような衝撃!!

「痛っい・・・!」

 痛い、頭がまたあの時のようにガンガンとしてきた。
 今度はもの凄く激しい──!
 痛くてあの時のようにしゃがもうとしたら、途端に目の前の若き白髪の男性に首を掴まれた!
 その彼の息遣いが急に荒くなった!

「やはり、やはり! あの時、俺の顔を見ていたんだな!」
「うっ……!」

 どんと後ろの木肌に背中を押さえつけられた!
 そして片手で軽々と上へと引き上げられる。
 ブーツのつま先が、少しだけ浮いたのが解る……。いや、それどころじゃない! 息が、息が出来ない! 声も出ない!
 葉月は首元を掻きむしるようにして抵抗したが、この男の力は半端でなく、片手の指先で葉月の細首を持ち上げている支点は見事な位置を押さえ込んでいる。
 葉月の直感が『プロだ』と言っている。義兄と同じ、裏世界にいる匂いがする!

 でも──何故!?

「ふはは! 今、何故? と思っているだろう?」
「う、うう……っ」
「それでいいんだ。何故……のまま……」

 『何故のまま』──。男は薄ら笑いを見せると、あの時着ていた同じ紺色の綿入りジャンパーの下から、キラリと光る物を取り出した!
 それを彼は大きく振りかぶった。その光が葉月の視界をキラリと青空へと過ぎていった。

「お嬢ちゃん。思い出さない方が幸せだ。このまま逝け!」
「──!!」

 男の悦びを隠せない微笑み。
 ぎらりと光った欲望をみなぎらせている大きな薄緑の目。
 その顔でさらに青空へと高々と振り上げられた『銀色のナイフ』──!

「う!!」

 ガンと今までにない大きな衝撃を伴った頭痛が一発。
 頭の中で、微かな声が聞こえた。

『お嬢ちゃん、大人しくしてれば、お姉さんを助けてあげるよ』
『そうそう。大人しくしてれば、お姉さんは泣かないよ』

『どけ。それは俺の獲物だ』

 数人の若い男達は姉の身体に夢中だった。
 だけれど、一人だけ違った。
 彼等よりちょっと歳が上の男は、姉の身体には一切触らずに、ただひたすら家の中、別荘を家捜しするように歩き回り、時には姉に群がる男達にきつい口調で命令し『意地でも吐かせろ』と言っていた。彼が探していたのは、姉が祖母から譲り受けたばかりの『鮮血の花』──ルビーの指輪だった。
 最後に男が使った手段は、『妹』。妹に向けてナイフを何度も飛ばすゲームを始めた……。

 ──あの男! ナイフを振りかざす男!!

「い、いやーー! いや、いや、離し……っ」

 やっと声が出たが、その男が首元の手を離し、今度は葉月の口を塞いで、再度、木に押しつけた。

「俺に感謝しろ。思い出さないから生かしておいた。ずっと見ていたぞ? お前が不幸にのたうち回っているのを……」

 また彼が楽しそうな笑みを見せる。

 ──あの男だ!!

 頭痛がなくなった。
 でも葉月の身体は動かなくなり、そして……声も。

「そんなお前が、なんだ? 男と一緒に幸せそうに笑っていたじゃないか……!」

 青空に煌めいていた光が、シュッと葉月の目の前を降下していった。

 ──ドス。

 そんな鈍い音。
 いいや、胸元にそんな衝撃。

「どうせ生きていたって、お前はそれほど幸せにはなりはしないさ。俺のようにな……。死んだ方が良い。それに今までずっと望んでいたんだろう? 叶えてやるよ!」

 彼が葉月の胸元食い込んだ銀の杭に力を込め、そしてまた青空へと引き抜いた。
 真っ青な空に真っ赤な飛沫が舞う……。
 葉月の顔に、小雨のような粒が沢山落ちてきた。

「惜しいな。こんなにいい女になっていたのになあ。惜しいな……」

 目を見開いたまま、その男にされるまま。
 その男が何を思ったのか、葉月が着ているコートを縦に切り裂き、着ていたセーターもランジェリーも一緒に切り裂いて、冬の冷たい空気の中、葉月の胸元の素肌をさらした。
 彼は葉月の素肌を目にして、また満足そうな笑みをにたりと浮かべる。

「お、俺の印──。はっきりと残っているじゃないか!」

 そして彼はその厭らしい笑みのまま、葉月のいたいけな乳房を片手で握りつぶしながら、またナイフを振りかざす──!

「きゃあーー! なに、あれっ!!」
「な、何をしているんだ!! そこ!!」

 駐車場からそんな女性の悲鳴と、男性の声──。

 男の振りかざした手が止まる。
 そして彼は驚くわけでもなく小さく舌打ちをした。

「ちっ! お前にはいつもしくじりをさせられる。一発で消えるつもりだったのに!」

 だが彼は慌ててはいなかった。
 背後が騒がしくなっても、握りつぶしている乳房に、そして昔自分がこびりつかせた『傷』に、それぞれに口づける余裕さえも……。
 その笑みは、葉月にとってはこの世で一番最初に見たおぞましい顔。悪魔の顔。

「あばよ。しつこい兄貴達が悔しがる顔が楽しみだな」

 彼に振り落とされ、葉月はそのまま芝の上に倒れた。
 ……意識がまだある。
 男の足音が遠のいていくのが分かった。

「──」

 そうだった。
 死にたかった。
 あんなに怖い目に遭って、毎日が怖かった。
 もう怖い思いはしたくなくて、どうすればいいか分からなくて、死ねば楽になると子供心に思っていた。

 そうだ。もしかして……これは『願いが叶った』のかとさえ思えてくる。

 葉月は僅かに動く手をそっと自分の顔の上へとなんとか持っていく。
 青い空に白い手としたたる鮮血。
 なんとか挙げた手のひらは、左手──。
 太陽の光に反射したのは、薬指の銀色のリング。

「は、はや……と……さ……」

 いや、死にたくない!
 いや……貴方の側にいたい!
 いや──! 私は……

 そう叫ぼうとしたら、喉の奥から何かが逆流してきたのか、葉月はごふっと喉を詰まらせる。
 口から熱い何かが溢れ出ていくのが分かった。

『み、御園大佐……じゃないか!』
『なんだって……!』
『本当だ──』
『はやく救急車を! それと医療センターにも!』

『さっき、待合室で澤村中佐らしき男性もいたぞ』
『呼んできます!!』

『大佐、大佐──! しっかりしてください!!』
『大佐──!』

 そうだったわ。私、幸せになったのよね。
 彼に愛されて幸せになっていたのよね。
 絶対に無いことだと思っていたことが起きたのよね。
 そうだったわ……。

 葉月はふと微笑んだ。
 もうこれ以上の幸せは無いのかもしれなかったのだと。

──青空が霞んでいく。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「明日の16時の小笠原行き。席、空いていますか」
「お待ち下さいませ」

 待合室の窓口で、滑走路管理課の隊員に調べてもらう。

「ありますね。お二人ですか?」
「はい。これ、IDです」
「本隊員二名ですね」

 自分のと葉月のIDカードを窓口に差し出した時だった。
 なんだか外が騒々しい。
 それも、葉月がいるはずの駐車場だ。

「なにか、あったのでしょうか?」
「あら? 騒がしいですね」

 窓口にいる女性隊員と顔を見合わせた。
 するとちらりと見える駐車場で人だかりができ、そして男性隊員達が慌ただしく走り回っているのが見えた。

 ──なんだか胸騒ぎがする。
 隼人が窓口から、気が急くようにして一歩、歩み出した時だった。
 この待合室の自動ドアをくぐってきた男性隊員がきょろきょろと室内を見渡し、そして、窓口前にいる隼人を見てハッとした顔。
 それを見た隼人の心臓が、ドクリと大きく脈打った。

「澤村中佐──ですよね!?」
「そ、そうですが……」

 その隊員が、自分を奮い立たせるように叫んだ。

『御園大佐が何者かに刺されて、倒れているのです!』

 え?

 当然、そう思って真っ白になりかけたのだが、もう無意識に隼人は走り出していた。

「ここです!」

 既に出来ている人だかりを、呼びに来てくれた隊員が除けてくれる後を、隼人は必死に着いていく。
 人だかりの隙間を抜けて、やっと出てきたのは駐車場にある蘇鉄の木の下。
 そこの芝が真っ赤な血で染まっている。
 隼人が履いている靴のつま先まで、既に血が流れていた。
 そしてその血の流れている先には……。

「──!」

 栗毛の彼女が、服を引き裂かれた姿で倒れている!
 どうして……!?

「は、はづ……き……」

 隼人はそっと近寄った。
 服は引き裂かれているが、見つけた隊員が気遣ったのか軍服の上着が掛けられている。
 その下から、引き裂かれたランジェリーのレエスがちらりと風によそぎ、そしてそこから蕩々と血が流れている。

「葉月!」
「中佐──! 動かしちゃ駄目です! さらに出血しますから……!」
「今、基地内の救急隊員を呼びつけましたから!!」

 飛びつこうとしたら、彼等に羽交い締めで押さえつけられた。
 それでも隼人は彼女へと、愛しい彼女へと手を伸ばした。

「どうしてなんだ! 何があったんだ!!」
「不審者が目撃されています。今、隊員が数名、追っていますから!!」

 彼等はそれを許してくれずに、隼人を二人がかりで押さえつけている。
 そんなこと知ったこっちゃない!
 葉月、葉月……! 何故、応えてくれないんだ!

 彼女の指先がぴくっと動いた。
 それは隼人だけでなく、押さえつけている彼等も気がついたようで、三人揃って動きを止めた。

『はや・・・』
「! 葉月……!?」

 微かな声。
 それを耳にして、隼人は葉月の側へと跪く。
 彼等にも聞こえたのか、今度はすんなりと行かせてくれた。

『はや・・・とさん』
「葉月、葉月、俺だ。俺なら、ここにいる!」

 彼女の目がうっすらと開いた。
 そして、何故か彼女が微笑んでいる。

「葉月、しっかりしろ!」

 そのうごめいた指を隼人は握りしめる。
 ぬるりとしているその真っ赤に染まった手を、構うことなく頬に持っていってさすった。
 だが、それっきり──。
 葉月の声は聞こえなくなり、彼女は目も閉じ、微笑みさえも──。

「葉月……葉月!!」

 なにがどうして?
 ほんの数分に何が起きた!?

 そう一瞬に思ったが、もう……それすらも隼人の中ではどうでも良くなる。

 返せ! やっと手に入れた俺のウサギを返してくれ!! 

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