-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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3.黒鬼を飼う

 散らかっているデスクから、私物だけを選り分ける。
 ここの隊員、後輩達が出勤してくるまでに、出ていきたい──。

「少佐──」

 事務室のドアが開き、右京は驚いて顔を上げる。
 まず確かめたのは『掛け時計』。時間はまだ六時半ではないか……? なのにここに人がいる。

「……由美」

 そこに高田由美がいた。
 右京の顔を見た途端に、彼女が両手で顔を覆って泣き顔に崩れた。

「眠れませんでした」
「そうか。心配かけた」
「……葉月さんは?」
「なんとか」

 そう言うと、彼女がホッとしたのか泣き始める。
 そのすすり泣く声が、暫く、右京の事務室に響いた。

 眠れなくてこんなに朝早く出てきてしまったのだろうか。心配で堪らなくて、出てきてしまったのか。──彼女らしい。

 右京はそう思いながら、側にあった黒いアタッシュケースに私物をかきこんで、ばちんと手早く閉じた。それを手にして右京はデスクを離れる。ポケットを探って、車のキーを手にした。

「今ある有給休暇をありったけ使う。使い切る頃また連絡をする。後はヒロシに任せると伝えてくれ」

 ドア口で泣いている彼女に構わずに、右京はいつもの仕事の口調で由美に淡々と告げる。

「ま、待って……! 行かないで……!」
「……由美」

 泣きながら必死な顔。その彼女がドア口を出ていこうとした右京の腕にすがってきた。
 右京はそっと息を深く胸に吸い込みながら、目を閉じた。
 ああ、心配で出てきてしまった以上のものを、彼女は察知していたかと……。右京が『ここを出ていく覚悟』であることを感じている……。
 右京は片腕にすがって泣きさざめく由美に優しく触れ、そして静かに彼女が握りしめている手を除けた。だが、彼女は『いや!』と、今度は右京に抱きついてきた。

「分かっているなら、行かせてくれ」
「嫌です! 私、知っていました。こうなったら少佐はきっといなくなってしまうって……。そして決めていました。その時は絶対に引き留めるのだって……!」

 『その時が来たら』──。右京も分かっていた。彼女がこうして必死になって引き留めるだろう事を。だから……朝早く、出ていきたかったのに。捕まってしまった。
 だが、右京は心を鬼にして、やや乱暴に胸元にすがっている彼女を引き離した。

「悪いが、関係のない者に引き留められても、思いとどまろうだなんて、ちっとも……」
「右京さん……」

 お前は関係のない人間、俺の心にこれっぽっちも引っかからない者──。冷めた目つきで言い放つと、流石に彼女が傷ついた顔に。それでも良い。右京は眼差しを伏せ、彼女の前からその身を翻して、廊下に出た。
 誰がどんなに言っても、俺の心は揺るがない。この時の為に生きてきた。そしてこの時が来ないことも願っていた。それまでの日々は、自分自身で『虚勢と虚像』で固めてきたかもしれないが、それはそれで『平和で幸せ』だった。『俺』には、それでも充分だ。

 ──死んだ花の従妹の苦痛に比べたら、勿体ないぐらいだ。
 何故、あの日。いとこ姉妹をあの別荘に置き去りにしてしまったのか……。

 右京の中に『暗黒の霧』が舞い上がり始める。
 それを彼女に見られない内に、振り払うようにそこを去ろうとした。

「……行かないで。右京さん、貴方がいなくなるなんて」
「言うな……!」
「嫌……! 私、貴方を──」

 由美のその声を背で聞いて、右京は拳を握り、唇を噛みしめる。
 今、胸の奥で疼いた甘い感触に崩れそうになったその足を前へと進める。

「右京さん──!」

 最初から決まっていたのだ。
 彼女を見初めはしたが、それでも、それよりもずっと前から決めていた。
 だから彼女のことは幸せには出来ない。もし、彼女がそれでもと言ってくれた事があったとしても、右京は頑と拒んだだろうし、受け入れても彼女は今泣いているように、ずっと心を痛めて苦しませることになっていただろう。
 だから、最初から決まっていたのだ。──彼女とは一緒にはなれない。いや、『ならない』だった。
 だから彼女のことなど愛していない。右京は誰も愛していない。愛することよりもっと心を占めているものがあるのだ。

 泣き崩れた彼女を振り払って、そのまま右京は音楽隊棟の外に出る。

「行くのか、右京」
「ヒロシ」

 体格の良い大男がそこに立ちはだかっていた。
 『高田 洋』──由美の夫で、右京の長年の親友だ。
 音楽隊の中でも特に体格が良く、音楽と言うよりかは、ガタイから見ても『柔道選手』のような体育会系の男に見える。この体格、実に金管向けで、彼に吹けない楽器はない。どれも、とびきりの音を出す。まさに軍隊音向けと言えた。
 その男が、右京の前に仁王立ちで立ちはだかっている。それこそ仁王像のような顔でだ。

「ああ。分かっているなら行かせろ。分かっていたんだろう? こうなった時、俺がどうするかと」
「ああ、分かっていた」
「──安心しろ。今すぐ、どうなるわけでもない。だが、動かずにはいられない」
「分かっている。葉月ちゃんが『また』襲われたのだろう。その心中を察するよ」
「有り難う」

 仁王のような形相で立っていた割には、右京の『長年の思い』を理解してくれたので、思わず右京はホッと微笑みかけてしまった。
 だが、そうではなかったようだ。そうして右京が微笑んだ途端に、彼が拳を振りかざしていたのだ!
 その拳はもの凄い早さでやってきて、右京の片頬にそのスピードのまま、直撃した。
 当然、右京はよろめき、頬を押さえながら親友の顔を見た。

「それだけだ。行け」
「ヒロシ……」

 何もかも知り尽くしてくれている男。
 その男が右京の気持ちを何もかも知っていて、黙って見ていてくれたのだ。妻と一緒に……。
 殴られた頬を指でなぞりながら、右京はヒロシの顔を見た。
 きっと……彼ヒロシの目を縫って、由美は、こっそりと夫の元から抜け出してここに来たのだろう。そして夫の彼はそれを十二分に知っているのだ。
 殴られたのは……その妻の思いを踏みにじる男だからか。それとも彼の夫としての気持ちか、それとも……。だが、ヒロシは殴って『それだけ』と言う。

「すまない。ヒロシ」
「まったくだな」

 彼は右京が由美に思いを寄せていることも知っていた。
 そして右京もヒロシが彼女を思っていることを知っていた。
 右京は密かで。ヒロシは熱烈に。
 お互いに感じ合っていても、彼女を好きだなんて一度も確かめ合わなかった。
 そして最終的に、彼は由美の心を捕まえ、由美はヒロシを選んだ。それが結果。右京はなにもしなかった。彼の思いに協力をしたわけでもないし、自分の思いを積極的に伝えたこともない。彼女の結婚当日も、結婚後も……。ずっと、匂わせたことなどない。
 それでも何故だろう? 『匂い』は溢れていたのだろうか? 押し込めれば押し込むほど、その優しいだけの甘やかな匂いが右京の身体や仕草から、溢れていたのだろうか?
 その気持ちは、彼女にもいつのまにか知られ、親友の彼も知っていた。そしてこれまた確かめ合うことも、認めたこともない。
 そして由美の気持ちも……ずっと宙ぶらりんのままにさせてしまっていたようだ。
 これはそうさせた男への鉄拳か。

 だけれど、右京はそうした事を後悔はしていない。
 そしてヒロシもそう貫き通した右京の男の気持ちも、本当は良く理解してくれているのだ。
 そういう……『友人夫妻』。
 大事な友人夫妻。
 それすらも右京は今、捨て去ろうとしているのだが……。
 そんな右京に、今度は妻と同じようなすがる顔になったヒロシが呟く。

「約束してくれ。必ず、帰ってくると」
「あ、ああ」
「その返事の仕方。嘘だな。『全てをなげうって、追いつめるのだから、死の覚悟だっていとわない』か?」
「──それぐらいの覚悟がなくては、この十八年が終われない。今度こそ、がっちりと握って叩き潰すんだ!」
「……その気持ちも解る。だったらお前が帰ってこられるようにと……」

 彼がそこで泣き顔になる。
 そして本当に涙を流して、こう呟いてくれた。

「お前が帰ってこられるように、『祈っている』──」
「ヒロシ」
「行け。止めても行くのだろう。早く行け──。これ以上、悲劇を見せないでくれ」
「ああ」

 泣いてくれる親友が、顔を背けた。
 本当は見送りたくなどないのだと、右京にはそう伝わった。

 顔を背けたままの大男の顔を、右京もそれ以上見てしまっては……。泣いてしまいそうだ。
 唇を噛みしめ、右京は歩き出す。

 ──今、ここで右京は『本番』を迎えようとしていた。
 何もかもを捨ててでも。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 空は朝焼け。
 そして、とても冷え込んだ空気は澄んでいた。

 だが右京の心には、先ほど立ちこめた『暗黒の霧』が渦を巻いて、取り囲んでいた──。

 あの日。まだ二十二歳だったあの冬の日。
 葉山の別荘まで『妹を連れてきて欲しい』と言われ、右京は花の従妹の命令口調に腹を立てながらも、葉月を連れて出向いた。
 なんでも聞けば──『純兄の子供ができちゃったの。パパとママにも報告したくてこの別荘で待っているからって呼んだの。勿論、父親のジュン兄も来る予定。だから葉月も連れてきて!』──。当然、右京は驚愕した。一大事だ! それはもう、行かねばならない! そう思って葉月を連れて、葉山に出向いた。

 だが右京にとって、皐月という従妹は『やっかいな従妹』だった。
 こっちはその気はないのに、彼女はいつも右京を敵視していた。
 きっとあれだ。あの責任感と正義感の塊で、祖母の影響もばっちり受け継いだ気高すぎるあの花の従妹は、『我こそが御園の跡取り』と思っていたからだろう。女系一家である『レイチェル御園家』の中に置いて、右京だけが男子として生まれた。勿論、あの祖母のこと。男も女も関係ないし、長男の子供、次男の子供も関係ない。それに祖母は最初から『皐月に継がせる』と言い切っていた。なのに……皐月は右京を『危ないライバル』のようにして敵視しては、張り合ってきていた。
 だからいつも喧嘩だ。右京はどちらかというと『のんびり優雅に美と戯れていたい』のだ。そこは京介一家の血筋なのだろう。父も母もそういう事は大好きで、そしてそこで結ばれた夫妻だ。そして右京はその子供で、二人の実妹も、その素質を持ち、一家はそこに存在していた。
 それは祖母も良く知っていて、『貴方達はそれで良い』と微笑み、そして京介一家が繰り広げる美の追究や美との戯れの中に入っては、祖母も一緒に楽しんでくれていた。
 ──『右京はそれでいいのよ』。
 優しい祖母の声。彼女は音楽に興味を示した右京の部屋を防音に施し、ピアノを入れ、そしてヴァイオリンを持たせてくれた。
 祖母がいた日々は、楽しかった。そして、彼女が大好きだった。彼女といると世界が輝く。幸せだった。ただ思うままに大好きな音と触れあい、それを家族と祖母と楽しんだ。
 なのに……。伯父の娘である『皐月』はいつだって、『右京は跡取りを狙っている』と言い、必ず『絶対に渡さない』などと張り合ってくるのだ。
 彼女との喧嘩とはそう言うもので。あの晩も──。

『これで私に男の子が生まれたら、完全にこの子が跡取りね。私の勝ち』
『何言っているんだ。馬鹿らしい! 勝手に跡取りにでもなんでもすればいいだろう!』
『これから、うちだけの話し合いなの。関係のない右京は帰ってよ』
『なんだと?』
『パパとママに純兄を婿養子にしてもらうお願いもするの。勿論、純兄も来るの。だから右京兄は関係ないから帰ってよ』

 それでぷっつりと血管が切れて……。
 本当に帰った。
 小さな葉月を置いて……。

『お兄ちゃま、帰っちゃうの?』

 そんな葉月の声にも構わずに、勢いだけで帰った。
 その後、姉妹に悲劇が襲うとも知らずに──。

 いつもの口喧嘩を皐月として、あんまり腹が立ったから……。気の強いしっかり者の従妹に、小さな葉月を任せて、怒り任せに置いていった。
 『純一がくるのだから、大丈夫だろう』──そう思って安心していた部分もある。結局……彼は妙な意地で来なかった訳だが。そしてその後、右京は他の仲間と泊まりがけの遊びに出かけた。でも、なんだか胸騒ぎがして鎌倉の自宅に戻ると、亮介伯父夫妻は日本には帰ってこられなくなったと父が言う。それで『皐月と葉月は』と聞くと、『ちゃんと連絡があって、暫く二人で別荘で過ごす』と言って来たそうだ。後になって知ったが、皐月が犯人達に脅されて連絡したそうだ。さらに父に『純一は』と尋ねると、父は『なんのことだ?』と首を傾げた。
 この時、まだ誰も……皐月が妊娠していることは知らなかった。
 そこで右京の胸騒ぎは頂点に達し、葉山の別荘に向かい……。

 ──『悪魔の宴』の跡を見てしまった。

 右京が来たせいかどうかは分からない。
 とにかく右京がそこの別荘のリビングに駆け込むと、異様な匂いが入り交じり、無惨な姿の姉妹が倒れているのを発見した。
 他には誰かがいる気配はなかった。

 姉は乱れた裸体で、気を失っていて。
 妹は血だらけで……。

 一体は、雄の欲望にまみれた姿で。
 一体は、血に飢えた欲望に引き裂かれた姿で。

 右京が眼にした『悪夢の構図』で描かれた地獄絵図は、後にも先にも、これ以上のものはないと言っても良いぐらいに、ずっと目に焼き付き──。そして……右京にずっとまとわりつき、苦しめてきた。
 生き延びた従妹と同じだ。夢にうなされる。従妹と一緒で、溢れて止まない憎しみの感情に悶え、心が血を流しのたうち回ったことだって、数え切れない。
 だが小さな従妹と違ったのは、右京はなんとか心の奥に押し込める事が出来たことだ。だからとて、従妹のように何かで発散したいと何度も思った。だが、右京の『辿り着いた道』は従妹のように発散するのはなく、『溜め込むこと』、『隠すこと』だった。

 それだけでなく、悪魔は暫く時が経ってから、花の従妹の命を断った。無惨に切り裂いた。
 それにも男達はなにもすることが出来なかったのだ。

 最初の事件も。
 皐月が死んだ時も。
 そして今回の、小さな従妹の事も──。

「……お前も、切り裂いてやる!」

 駐車場へと向かう右京は、奥歯をギリギリと噛みしめ、拳を握っていた。
 どれだけ恐ろしい形相になっていることだろうか。
 ──『鬼』だ。鬼になる時が来た。来てしまった。
 そしてこの時が来ないことを祈りながらも、本当は何処かで待ちわびていたと思う。

 俺達の美しい世界に、汚らしいおぞましい不純物だらけの色を塗りたくってくれたあの悪魔。
 許すものか、俺達を地獄に突き落として笑っているだろう。
 お前には地獄に堕ちればいいだなんて、そんな行き場を生易しく与えることも許すものか。お前には何処に行く場も、逃れる場もないと血反吐を吐きまくる最高の『制裁』をしてやる。

 やっと、己の奥底でこれほどまでに膨れあがった『黒い鬼』の封印が解かれ、思い切り外に出せる。

(いや、落ち着け)

 息が上がっている。
 それを右京は深呼吸をして、『飼い慣らしてきた黒鬼』をなだめになだめた。

(今、ここで出すんじゃない)

 この『黒い鬼』は、最後の切り札だ。
 隠しておかねばならない。今まで、そうしてきたように……。

 冬の朝の空気は、澄んでいる。
 それを吸い込みながら、なんとか、駐車場に着いた時には、いつもの自分に戻れていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 駐車場に着き、白い愛車へと向かうと、そこにある日の光景を彷彿とさせるかのように、金髪の女性が立っていた。

「……ジャンヌ?」

 昨日まで休暇を取って、彼女の自宅に入り浸っていた。
 『従妹が航行から帰ってくるから、会いに行く』──。それも本当の気持ちだが、片方では口実めいていた。従妹を見守って同行してくれた彼女も帰ってくるから、待ちきれなくて右京から会いに行ったのだ。
 すると聞けば、従妹は帰って直ぐに北海道旅行に行くのだと、従妹の同僚である達也から聞かされた。それも『サプライズ』で、葉月が空港まで隼人に会いに行くまでは何も判らない仕掛けにしたのだと。それを聞いた右京も喜んで……知らない振りで会わずに見送ったのだ。
 勿論、それを聞いたジャンヌも『あら素敵。きっと彼女にも彼にもとびきりの旅になるわ』と一緒に喜んでくれたのだ。
 彼女ジャンヌがそうして祝福してくれる『訳』も、じっくりと……彼女のあの質素な自宅で聞かせてもらった。
 航行中、少し危なく思う出来事はあったが、従妹は全てを自分の力でクリアし、最後には教官から素晴らしいお墨付きの『卒業』をしてきたのだと。
 その話を聞いた右京は、涙が出る思いで、自分の仲間と共に一人で頑張った小さな従妹を誇りに思った。

『もう、なにがあっても彼女は戦えるわ』
『そうだな』
『彼女を見守るつもりだったのに、私の方がとても教えられた気がしたわ……。私のためにも行って正解だったのよ』
『そうだったんだ。それはもっと良かったな』

 右京の微笑みに、彼女も心からの笑みを見せてくれた。

 そうして『側で見守ってくれて有り難う』と彼女に礼を述べる。彼女も素晴らしく晴れやかな顔をしていた。
 それがまた嬉しく……。そして彼女もなのだろうか? 二人で微笑みの乾杯をした後、もうすっかり慣れきったかのように愛し合った。
 携帯電話の電源は切っていた。誰にも邪魔されたくなかった。
 この質素で飾り気のない部屋は、飾りたててきた右京が、本当は心の奥底で欲していたものだったのだと気が付いていた。
 従妹が『雪国』へと愛しい彼と愛の翼で飛び立っていったように。右京も……ここで愛に溺れようとした。それはきっと何も言わずとも、一緒に微笑みの中で抱きしめあった金髪の彼女だって、そう言う気持ちになってくれていると。

 そして初めてだった。
 こうして女性と肌を合わせることなど、初めてではないのに……。
 こんなに息が詰まるほどに、どこまでも、どこまでも貪欲に、いつまでも、いつまでもとりとめなく身も心も裸で愛し合ったのは……。
 こんなに泣きたくなるほど切なくて、身が焼き焦げるほど熱くて痛くて、そして甘く甘く匂い高き想いに渦巻かれたのは──生まれて初めてだ。

 心からの『恋』はしたことがある。
 ではこれは? これが……『恋愛』?
 今更ながら、そんなことを感じてしまった。

 彼女の狭いシングルベッドが気に入った。
 寄り添うしかないその狭い空間で、二人で落ちないように腕も足も絡ませ……唇も指先も絡ませ合い、囁き合い、眠り合い。

 ただ薔薇色の世界が、そこにあり、右京は彼女と一緒に昇ろうとしていた。

 だが、数日後。
 そろそろこの溺れた世界から抜けた方がよいと思い始めた頃。
 ──突き落とされるような報せが入った。

 見つけてくれたのは『ロイ』だった。
 携帯電話の電源を切っていたので、ジャンヌ自宅の電話に報せが入ったのだ。
 ……どうやら、『女医と熱愛中』は、少し前からばれていたらしい。

 従妹と同じように『愛の世界も悪くない』と傾き始めていたのだが、長年の右京の『情念』は、そう簡単にはここでは消えなかった。
 薔薇色の空気が、一気に暗黒の霧に覆われ──元に戻った。
 彼女を切り捨てるように支度をし、ロイが待っているという島内にある民間エアポートに向かおうとする。
 愛に癒された柔らかな表情を失った右京の顔を見て、ジャンヌが叫んだ。

『私も行くわ』
『来るな……! 独りで行くと決めている』
『嫌! 貴方が死ぬ気になること、私、知っているんだから!! 私を愛するなら、置いていかないでと言ったじゃない!!!』
『ジャンヌ──』

 彼女のその声。
 いつも右京を威圧してきた、何にも揺るがない、そして彼女自ら閉ざしいていた『彼女』ではなかった。
 その顔は、右京より若い女性のとても愛らしい顔そのもの。その顔で頬を真っ赤にして彼女が少女のように叫ぶ。あのジャンヌが涙を浮かべていた。
 出会ってまだそれほど時間も経っていないし、そしてそれほど多くの時間も言葉も分かち合ってきた訳でもない。なのに、彼女のその顔を見て、右京の心は揺らいでしまった。ずっと一緒に長いこと過ごしてきた人間を置いていくような気持ちに駆られた。

 だが──。ここでも同じだった。
 右京は先ほど、『関係のない人間』と吐き捨て、切り捨てた、長年の想い人であった『由美』を振り払ったように……。
 ジャンヌも小笠原に切り捨ててきた。

『分かったわ。行けばいいわ』

 あの少女のように取り乱した彼女ではなくなっていた。
 あれはほんの一瞬のこと。今はもういつもの彼女──。
 その彼女が右京を睨んでいた。

『私を、甘く見ないで』

 そんな彼女に右京はただひと言。

『楽しかったよ──ジャンヌ』

 まるで『遊び終わった一夜』が明けた朝。割り切った相手に言うように、右京は呟いていた。
 彼女が側にあったマグカップを手にして、右京に本気で投げつけてきた。
 それをなんとか避けたが、中に残っていたミルクが飛び散り、制服の袖を濡らした。
 感情を露わにする彼女に出会えたのに。こんな形とは。だが、右京は出ていった。彼女を置いて、その『愛に満ちた』、いや『僅かに愛に満ちただけの』、裸の部屋を出ていく──。

 

 それはつまり、掴かんでも良いかもしれないと思っていた『愛』を、結局は捨てたことにもなる。

 

 だが、今──目の前に、その『甘く見ないで』と言い放った彼女がいる。
 それには流石の右京も驚いた。
 定期便ではこの時間に彼女がいるのはあり得ない。さらにフェリーで来るのもあり得ない。それこそ右京が早急に来たように、同じ御曹司であるロイのように自家用機でも所有していない限り、フリータイムで本島にすっ飛んでくるのはあり得ないからだ。

「言ったでしょう。甘く見ないでと。私、燃えたらそんじょそこらの『情念』とは比べものにならないほど、しつこいのよ」
「へえ。火がついちゃったという訳か」
「貴方と同じよ。情念深いしつこい女なの。知っているのでしょう?」

 知っている──。
 彼女はそれはそれは狂いに狂って、周りをかき乱した程の情愛を発散して、堕ちた女だ。
 ……いや、違う。『そういうことになっている』のだ。調べれば分かる。『悪女』という烙印を押し、彼女を『堕とした』のは『彼女の周りにあった世間』だったことを。だが、そんなことはもう切り捨ててきた右京には関係ないこと。この話はもうここで終わりだ。

「どうやってきた」
「教えない」

 彼女の右京に挑む姿。
 由美と違って、こちらの彼女は噛みついて離れない覚悟のようだ。

「そうか。勝手にしろ。だが、俺は行く」

 運転席のドアを譲らないかのように立っている彼女を押しのけるようにして、右京はそこをどかせた。
 だが、ジャンヌも負けてはいない。
 右京の背中を囲うように後ろから両手をドアについて、開けさせまいとする。

「じゃあ、『御園さん』、取り引きしましょう」

 右京は『はあ?』と、振り向いてしまった。

「私を御園付の医師として雇って頂戴。葉月さんが回復したら、私が身の回りのケアをサポートするわ。どう?」

 彼女の顔は真剣で、そして『女医の顔』だった。
 だが、右京は取り合わずに、キーをドアに射し込んだ。

「うちには、医療分野の事業も傘下にあるのでね。医師は間に合っている」
「女医もいるの? 葉月さんと通じることが出来る女医もいるの?」
「いるだろう。探せば。その点では抜かりのない『リーダー』もいるんでね」
「じゃあ、その女医を捜して私と勝負させてよ」

 流石の右京もヒヤッとしてきた。
 なるほど、彼女を本気にさせると『恐ろしいかもしれない』と……。だが、負けるものか。

「小笠原の医療センターを放るのか?」
「辞めてきたわ」
「なに!?」
「私はただの非常勤だし、あそこには軍医の産科医が数名いるから問題ないわ。それに後釜に女医が必要なら、私が紹介するという条件付でね」
「そんなこと、誰が許可した!?」
「信じられないなら、ホプキンス中佐に聞けばいいわ」

 右京は『ちっ』と舌打ちをした。
 なにもかも『あのやり手の生意気小僧』の仕業かと。
 ジャンヌが朝一番にここにいるのも頷けてきた。彼女のことだ、夜中に動いている輸送機の貨物室でも良いから乗せろと迫ったのだろうか? いや、きっとそうだ。そして右京の心情もよくご存じの後輩小僧が『先輩はこうした方が良いよ』なんて顔で、ジャンヌに手を貸したのだと──。それにもっと思ったのは、ロイがそれを許可していただろう事も頭に浮かんだ。昨夜、何食わぬ顔をしていながら、あいつ、しれっとリッキーと計ってジャンヌに手を貸していたのだと!!

 あの二人、後でお仕置きだ──!!

 いやそうじゃない。

「とにかく、医者は間に合っている!」
「じゃあ。貴方じゃなく、お父様でも誰でも! 契約を取り付けるわ!!」
「なんだと?」

 なかなか、手強い!
 いいや、言わせておけばいい。
 そう思って、右京はもうそんな話勝手に進めればいいし、取り合うものかと、もう聞く耳持たずでキーを回してドアを開けた。

「諦めないから──!!」
「ジャ、ジャンヌ」

 運転席に乗り込もうとした背中に、彼女が抱きついて離れない。
 ここまでされて、右京の心は傾きかけたのだが──。頭を振って、振って、『長年の己が決めた使命』を全うしようと、その愛を、その強い愛を振り払おうとしたその時──。

「そのお話、良いですね。私が雇いましょう」

 運転席のドアを開けたまま、二人で揉み合っている車の後ろからそんな声。
 そこに、黒いロングコートに身を包んだ、茶色いサングラスをかけた金髪の男が、にっこりと優雅な笑みを浮かべて立っていた。

「ジュール。お前──」
「いえ。警備口で貴方様を待っておりましたのに、いつまでもいらっしゃらないので様子を見に来てみれば……」

 茶色のサングラスを、朝日の中、すらりと取り払ったジュール。その下の瞳も同じように暖かい茶色に輝いて微笑んでいた。

「ジャンヌ=マルソー先生……ですよね」
「ええ、そうですわ」
「私はこちらの右京様のお家で仕えている者です」
「仕えている?」

 ジャンヌが訝しそうに眉をひそめ、右京をちらりと見た。
 だが、そんな事『そうだ』と言えば、彼女の思うつぼだ。だからといって、ジュールと彼女の利害は一致していそうで、右京は顔をしかめた。

「はい。色々な事業を取り仕切ってはいますが、本業は『護衛』でしょうか。その為なら何でもします。特に──私は葉月お嬢様の為ならなんでも」
「……そうなの」

 ジャンヌがあの鋭い眼で、ジュールの眼をじっと見つめていた。
 彼女なりの分析をしているのだろう。そして彼女が出す答えも、右京には分かった。

「そうね。でしたら、是非、こちらからもお願いしたいわ」
「契約に当たってひとつ」
「なにかしら?」

「御園第一です。裏切りは許しません」

 そこはジュールが強面で言い切った。
 だが、それでジャンヌの眼が輝く。

「それは願ってもいない条件だわ」
「それは宜しかった。では、本契約と行きましょうか。ご同行願います」

 ジュールがにっこりとジャンヌをエスコートする。

「こら! ジュール! 許さないぞ」
「私の諸行のクレームなら、私のボスにお願い致します。右京様」

 なにをー!? と、右京は息巻いた。
 どいつもこいつも──『俺は御園の長兄だぞ!』と叫びたいが、堪えた。

 ジャンヌがジュールに連れられながら、肩越しにニコリと勝ち誇った笑みを見せてくる。

 右京は『くそ』と、手にしていたアタッシュケースを運転席に叩きつけた。

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