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5.婚姻前夜

 夕食を終えた頃、登貴子が溜息をつきながら葉月の元からリビングに帰ってきた。
 その時、リビングの食卓は男所帯で、純一と真一の父子が並び、向いには亮介と隼人が並び、そろって終えたところだ。

「どうしたのかしら? 葉月、食欲がないのよ」

 心配そうな登貴子が、さらに深い溜息を落とした。
 すると亮介も心配そうな顔になる。

「それはどうしたものか。この頃、やっと普通に食べられるようになったと聞いて安心していたのに……」
「俺もおやつの時間は一緒だったけれど、葉月ちゃん、楽しそうだったよ」

 真一も心配そうな顔になり、隣にいる純一を見ていた。
 その純一の視線がふっと隼人に向かう……。そしてそれは彼だけでなく、いつの間にか亮介も登貴子も隼人を見ていたのだ。
 その目は『お婿さんは何か知っているのではないか?』と言わんばかりの、すがるような視線。

「いえ。俺も、何も思い当たりませんけれど」
「澤村。様子を見てきたらどうだ?」
「ああ、そうだね」

 純一に勧められて、隼人は席を立ち上がる。

「食事。そのまま置いてきたの。もし食べられそうだったら、食べさせてあげてくれる?」
「分かりました。そうしますね、お母さん」

 隼人が出向くとなって、登貴子も幾分かホッとした顔になる。
 リビングを出ようとドアを開けた時だった。

「隼人様、お待ちを」

 キッチンから出てきたジュールに呼び止められて、隼人は振り返った。
 彼がティーカップを手にしている。

「よろしかったら、食欲のないお嬢様に気分転換のお茶を」
「え、ああ、そうだね」

 おかしいなと思った。それなら隼人が持っていかずとも、気が利く彼が自身で葉月の手元に運んできてくれそうな物なのに。
 だが、隼人は首を傾げながらも、彼女がジュールのお茶をとても気に入っていることを知っていたので、それもいいだろうとキッチンへと誘われるまま出向いた。
 リビングとは出入り口は続きになっているが、壁一枚で仕切られている広いキッチン。
 そこに入って、大きな調理台で既にお茶を注ぎ入れているジュールの側に寄った。

「どうしたのかな。昼は結構、食べていた気がしたけれど」
「実はですね、隼人様」

 ティーカップに注ぎ終えたジュールが、花柄のティーポットを手元に置いた。
 その彼が、妙にかしこまったような真顔で隼人をじっと見たのだ。

「夕方。いつも通りに山崎院長がマルソー先生と回診を致しましたでしょう」
「うん……。俺は外にいたけれど」
「マルソー先生から聞きました。お嬢様の胸の傷。パイロットとして致命傷であることを、お嬢様に直接お話ししたそうです」

 胸の傷がパイロットとして致命傷!?
 隼人は大きな声を出しそうになったが、ジュールの視線が他の家族がいるリビングを心配するようにちらりと動いたので、隼人もそこでなんとか堪えた。

「いえ……。私も心配はしていたのですが。目先に考えねばならぬことが沢山あって、そこまでまだ考慮できなくて」
「何故? 山崎先生は俺達に相談もなしに? 本人に直接?」
「いいえ。私はそこはあってもなくても同じ事だと思いますよ。ここで避けたところで、お嬢様にはいずれ告げなくてはならない時は来ます。……実は、山崎院長は躊躇っていたようなのですが、マルソー先生が直接告知を推したとかで。結局、二人の話し合いで直接言うことにしたらしいです」

 そしてそこまで話したジュールが、小さく呟いた。
 ──『私も、マルソー先生の意向に賛成です』と。
 それを聞いた隼人は、『何故、本人に言う前に家族に相談してくれなかったのか』と頭に血が上りそうになったのだが……。だが、ジュールのその『賛成』と言う言葉を聞いて、スッと頭が冷えた気がした。

 そんなジャンヌの大胆な切り込み方は、隼人にはヒヤッとさせられるものがある。
 だけれど、彼女のそうした大胆な切り込みは、隼人がやりたくて出来ない事ばかりだった。
 ある程度、隼人も葉月に対して無理押しはしてきたと思う。それは『辛いことかもしれないけれど、言えば、彼女なら分かってくれる』と信じていたからだ。その通りに、隼人の言葉で彼女が痛がったり迷ったり戸惑ったりしても、葉月はちゃんとそれを呑み込んで、自分の為と心に同化させてきてくれた。

『彼女は出来る子よ』

 何故か、ジャンヌのそんな声が聞こえてくる気がした。
 そうだ。辛いことと避けていてもいずれは知れること。
 ジャンヌの大胆な選択は、家族に非難されることは重々承知の上。しかしそれ以上に、葉月を信じている上での彼女の為の選択に違いない。

「有り難う、ジュール。それで食欲がなくて、落ち込んでいるという訳か」
「登貴子様に嘆かないなら、きっとまた周りには心配はかけまいと堪えているのでしょう。それでもこればかりは、心の内では収まらなかったのでしょうね。隼人様なら、きっと……」
「ともかく、様子を見てくるよ」

 ジュールが隼人を呼び寄せる為に入れてくれた紅茶。それを今度は葉月の為にと手に取り持っていくことにする。

 リビングでは真一はソファーに座って、テレビ番組を見始めていた。
 純一は、息子の向かい側に座って手帳を広げ眺めていたが……。彼も義妹の元気のない様子が気になるのだろうか? やや上の空で眺めている気がする。
 登貴子と亮介は、向かい合って『どうしたのか』と、しきりに娘を心配している。

 それを目の端に通り過ぎ、隼人は外に出た。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ノックをして部屋にはいると、葉月はいつものように起きあがって窓辺を見つめていた。
 片頬しか見えないその横顔。長い栗毛に覆われながらも、まつげだけが垣間見れる横顔。
 その横顔が憂うものであるのが一目で判った。

「食欲、ないんだって?」
「ええ」
「これ。ジュールが入れてくれた」

 彼女のテーブルには、ちっとも減っていない夕食のトレイがそのままに。その横に持ってきたティーカップを置いた。
 葉月がやっと視線を動かし、ティーカップを見つめていた。
 そして案外、すんなりとそれを手にとって口にしたのだ。
 隼人はそれを見て、幾分か安堵した。

「まあ。そんな日もあるよな。食べられないなら除けておこうか。寝る前に小腹が空くようなら何かこしらえてもらったらいい」
「そうね」

 本当に食べる気はないようだ。
 けれど葉月はジュールがこしらえたミルクティーをほうっとした息をつきながら、丁寧に味わっている。

「なにかあったのか」

 隼人のその問いに、途端に葉月がやるせない笑顔を浮かべたまま、ティーカップをソーサーに戻してしまった。
 そのまま暫く黙っている。隼人も黙って見ていたのだが、こうして眺めていると、彼女は変わらないなと思ってしまった。
 そうして独りで考えて闘っている。誰にも何も言わない分、彼女が心の中だけではどうしようもない手の着けようのない暴れてしまう気持ちが、どれだけ彼女自身の身体や精神を痛めつけてきたことか。
 今度の『致命傷』もそうだ。誰に叫ぶ訳でもなく。母親にも叫ばず、夫ととなる男にも叫ばず。彼女は一人で淡々としていた。
 事件に対しても現実に受け止めようと独りで淡々と静かな眼でじっと受け止めている姿は、痛々しいながらも、どんなにもどかしくても隼人も側で静かに見守ってきた。

 ──でも、もう限界だった。
 黙って見ているだなんて、もう、出来ない。

「聞いた。胸の傷が致命傷だと」

 隼人が先に言うと、彼女がびくっと固まったのが分かった。
 だけれど、なんとも答えてはくれない。ただ、ひとつだけ。彼女の感情を表した物が──。膝の上の毛布をぎゅっと両手で握りしめていたのだ。そして葉月は、長い栗毛の中に顔を俯かせ隠してしまい、そのまま隼人から顔を背けてしまった。

「一人にして」

 小さく聞こえてきたその声。
 何故か隼人はムッとしてしまった。
 だが、言われたとおりにそのまま立ち上がり部屋を出ることにした。
 もう限界だから、隼人の自己コントロールも限界だ。だから、思うままの言葉を吐いてしまう。

「逆戻りだな。俺はいてもいなくても一緒か」

 こんなこと、言うつもりはないはずなのに。
 部屋の扉を閉める時、葉月はまたひっそりとしたまま、またいつものように窓辺を見ている。
 その姿。静かな眼の時とは全く違う気持ちで夜空を見ているのだと、隼人には分かる。
 今度こそ、絶望と哀しみと憎しみに囚われていることだろう。

 彼女の中で、静かな湖へと変貌させた努力さえも無にされたのだ。大き石が、いいや隕石が空から急激に落ちてきて、彼女がやっと波を収め美しい湖に均した水面に落下したのだ。湖は大きな飛沫を上げ、大きな波が起き、もしかすると水底までえぐられるように水は何処かへ飛び散り蒸発してしまう勢いなのかも知れない。
 ……しかし、それは彼女が殺されかけた時に既にあってもおかしくない現象だったのではないか。だが彼女はそれを、この十八年で見つめてきた物全てに、そして近頃、顕著に芽生えさせてた様々な愛への感謝と、生きていくことの尊さを無にしないようにと、そこを救いにして心を落ち着けていると隼人も理解していたつもりだ。
 けれど。もう……キャパシティオーバーだろう。
 彼女のいたいけな傷ついた心が、健気に現実を受け止めていた精一杯の小さな湖から、水がこぼれ落ちていく。水が枯れてしまう……!

 その姿が見ていられず、そしていても立ってもいられず、隼人ももう彼女を見守っているだけだなんて平静な大人の格好なんて出来やしなかった。
 だからまた、思うままに葉月に言い放つ。

「そんなに嘆くのは、コックピットに未練がありすぎるからだ。引退は確かに決したことでも、パイロットとしてどうしてもコックピットに乗ってピリオドが打ちたいなら、そうなるように『現実』を覆してみろよ! それが俺達が知っている『大佐嬢』だ! お前、それで俺達をどれだけ振り回してきたと思っているんだよ!」

 葉月の身体がびくっと動いたが、隼人へと振り向いてはくれなかった。
 また彼女が心を閉ざし始めているような気がして、そうして彼女の扉を叩き続けてきた隼人としては、苛ついてくる。

「時間はかかったけれど、ヴァイオリンは取り戻したんだ! コックピットも最後の翼も、自分の手で掴めると、これぐらいで簡単に諦めて手放さないと、俺は信じてるからな!!」

「出ていって! 一人にして!!」

 葉月の悲痛な声。
 顔も見せてくれず、横顔だけで叫ぶその姿。
 隼人が『逆戻り』と言ったように、葉月はまた……隼人を中には入れてくれずに、何処かへ行ってしまいそうだった。

「勝手にしろ!!」

 ドアを乱暴に叩きつけるように閉めた。
 視界から、心を閉ざした彼女の姿が瞬時に消える。

「……なにしているんだ。俺」

 今までとは、感じ方が変わってきた気がする。
 何故だろう。夫妻になると思うと、余計に腹立たしかった。
 彼女が片割れになるからだろうか? 今まで以上に腹立たしい。それはやはり『結局最後は、彼女自身がするべき事なのだ』と思うと、側にいることしかできない片割れであることが、恋人である時以上にもどかしい。そんな自分に対しても腹立たしかった。

 階段までの廊下を歩きながら、隼人は『落ち着け、俺』と深呼吸をしながら息を整える。
 階段を降りようとすると、その中腹に壁に背をもたれ腕を組んでいる純一が立っていた。

「早速、夫婦喧嘩か」
「純兄さん……」
「ジュールから聞いた。胸の傷がパイロットとして致命傷だとか……」
「ああ、そうらしいな。葉月は逆戻りだ。昔のように、ヴァイオリンを奪われたのと同じように、今度はコックピットを奪われたんだ。立ち直りようもないだろう。放っておけばいい!」
「随分だな」

 純一のちょっと呆れた溜息。
 それにも隼人は腹立たしくなる。それもそうだ。この義兄さんは義妹には案外『大甘』なところがある。隼人のように彼女の両肩を掴んで、泣き叫んでいても前へと向かせて、嫌だと言っても痛いと言っても前へと『突き飛ばす』──なんてことはこの人はしないのだから。
 だから彼は、また隼人が『突き飛ばした』と思ったのだろう。

「──でも、俺は信じる。葉月なら絶対に、『最後の翼』だけは自分の手で獲得し、思い描いていたパイロットへのピリオドを打てるとね。そしてまた彼女が自分で見出した新しい道へと歩んでいける」

 隼人がそういうと純一が眉をひそめた。

「最後の翼? ピリオド? 何の話だ」

 隼人はハッとした。そうだ。葉月が現役引退をする話は、まだごく少数の人間しか知らなかった事だったと。

「決めていたんだ。現役を引退し、指揮官としての職務に専念すると。この事件がなければ、彼女は年明けにラストフライトをして、もうコックピットを降りていたはずなんだ。ただ、一回、あと一回。空を飛んでいて良かったと思えるラストフライトを望んでいた」
「……そうだったのか! それなのに、あの男にそれすらも奪われたと?」

 純一が途端に拳を握りしめ、そして憎々しい形相に変化し、隼人はぞっとした。

「わざとなのか? あの男は最初も葉月がヴァイオリンを弾くと知って、肩を狙って弄んだんだ。では、今回は……。だからか!? だから胸を狙ってパイロット生命を奪ったというのか!?」

 まるで独り言のように、震えながら怒る純一の呟きに隼人も気がついた。

「だから、心臓の横? もしかして、急所ではなかったのは『それが目的』!?」
「なんだ。急所を外されていた事、澤村も気がついていたのか?」
「葉月から傷が心臓の真横で急所からずれていたらしいと聞かされて、なんだか違和感を感じてはいたけれど。義兄さんも気がついていたと?」
「院長から気になると聞かされて……。ずっと何故なのか考えてはいたのだが……これで判ったと思わないか!?」

 二人一緒に顔を見合わせ、暫くお互いに『違うと言って欲しい』と求め合いつつも、合わさる視線はゴーストの『殺す以上の目的』に凍り付いていた。

「くそ!」
「純兄さん……?」

 純一が拳を振りながら階段を勢いよく上がっていく。
 そして彼は真っ直ぐに葉月の部屋へと向かっているではないか?

「葉月、葉月──絶対に負けちゃいけない。ここで嘆いたら、彼奴の思うつぼだ。絶対に、ラストフライトを実現させるんだ!」

 そんな独り言を呟きながら、彼は猛然と義妹の元へ向かおうとしていた。

「俺が、俺が絶対に実現させてやる!」

 その勢いでは、部屋に入るなり打ちひしがれている義妹をひっつかんで、身体を揺さぶりながら『やるぞ、葉月!!』と怒鳴りつけそうだ。
 『大甘兄貴』と思っていた隼人としては、予想外だ。
 だが、よくよく考えてみれば、葉月に今持てるだけの精一杯の形でヴァイオリンを取り戻してくれた一番の功労者は義兄の彼だと隼人は思っている。葉月が全ての現実を捨てて義兄の胸に飛び込んでしまったあの時。彼はヴァイオリンを持たせ、尚かつ、昔のようには戻れないのだという現実も見せてくれたから、葉月がそれをきちんと現実の上で見極めてヴァイオリンを手にして小笠原に帰ってきたのだと隼人は思っていた。
 あれから葉月は『音楽家』というこだわりではなく『音楽愛好家』とした形で、今まで以上に『音』を愛し輝いていた。彼女は昔、手元にあった『音への愛』も取り戻したのだ。
 だとしたら? 今度はコックピットを彼は取り戻してやろうと思っているのか。今度のやり方は隼人と同じく『無理矢理前を向かせる』という雰囲気だ。
 しかし、その勢いは、流石の隼人も『ちょっと待て!』だった。確かに隼人もそうはしたいし、つい先ほども『諦めるな』と突き放したばかり。だが、それでも今は彼女には考える時間は必要だと思う。そこへ義兄が『やるんだ、やるんだ』と騒ぎ立てては……。

(ああ、これは義兄さんもかなり来ているな)

 いつもの憎たらしいほどにすっと静かに落ち着いている大人の彼ではなくなっていた。
 彼は今、頭に血が上っているのだと、隼人もやっと分かって彼を追いかける。
 義兄さんがこんなに熱く怒るだなんて、やはり義妹のことになると、特別なのか……。
 もし、彼がそれをやったのは『貴方が今でも信じている先輩だ』と知ったのなら、どれだけ爆発するかと思うと隼人はゾッとしてきた。

 純一が階段を上りきり、廊下を大股で歩き始めた時だった。
 葉月の部屋から、床になにか重たい物が落ちたような鈍い音が聞こえてきた。どすんという鈍い音……。
 純一の勢いがそこで一端止まり、二人で顔を見合わせる。もう一度、揃って葉月の部屋に入るドアを見た。
 そのドアが、何故かかちゃりと音を立てて開いたのだ。それにも隼人と純一は顔を見合わせた。

「……待って、貴方」

 開いたドアには、まだ自分一人では歩くことが出来ない葉月が……。ドアにすがるように膝で立ってそこにいたのだ。
 先ほどの重い物が落ちたような音は……葉月が自分からベッドを降りようとして、上手く動けない足が言うこと聞いてくれず、そのまま落下した音だと判った。

「ごめんなさい。行かないで……貴方」

 そこに隼人がいるのを知った葉月が、涙を溜めた瞳をすがるように緩めて見つめていた。
 それどころか、葉月は開いたドアの壁に掴まって立ち上がろうとするのだが、膝がすとんと落ち、そのまま床に倒れ込んでしまった。
 純一と共に駆け寄ったが、葉月はそのまま腹這いで部屋を出てきた。

「私、諦めない。負けない。もう十歳のまま大きくなった私じゃない!」

 這いつくばって、葉月は隼人の足下へと向かってくる。

「奪われるなら、奪い返してみせるわ! 私、私、絶対にもう一度、操縦桿を握って空に行く。貴方に、貴方の手で最後は飛ばしてもらうの! それが私の勝利よ!!」

 葉月の手が隼人の足首を掴んだ。
 そこまで自力でやってきた葉月に、隼人はただ茫然としてしまうだけで……。でもすぐに、我に返って彼女に手を差し伸べる。葉月は隼人の膝のジーンズの生地を握りしめ、立ち上がろうとしていた。

 それで充分だ。
 葉月、お前は出来るよ。きっと出来るよ──と、彼女の手を引っ張り上げて立たせた。
 それでも隼人の手添えで立ち上がった葉月は、ぐらりとよろめいて隼人の腕の中、胸の中へと倒れ込んでしまった。隼人もそれを両手一杯で受け止める。
 息を切らして隼人の肩先に落ち着いた葉月が耳元で囁く。

「……でも、貴方がいないと駄目なの。私、頑張るから……見ていて。傍にいて」
「葉月……。ああ、いるよ」
「悔しいけれど、もう負けない。どんなことも、悔しくても……!」

 何度、彼女は奪われてきたのだろう。
 彼女なりに立ち直って前を向こうと、そしてその力で幸せになろうとした瞬間に水を差され、そして彼女の愛すべき物を奪っていくゴースト。その男への憎しみは今まで以上に燃え上がったことだろう。
 隼人の肩に染みこんでくる熱い涙、堪えきれない嗚咽。
 今度、彼女が『ラストフライト』を実現するまでには、どれだけの困難が待ち受け、時間がかかることだろうか……。

「絶対に、もう一度、ホーネットで空に行くわ」

 ゴーストの怨念に負けまいと、力を込める彼女を、隼人は強く抱きしめる。
 おぼつかない足下が、何度も力を失って膝を落としそうになっても、葉月は隼人に掴まって立とうとしている。
 そして隼人も何度も落ちそうになった葉月を受け止めて、腕の中に立たせていた。

 ふと気がつくと、また……純一がいなくなっている。
 本当に、猫のように足音もなく彼は消えている。

 義妹が這いつくばいながらも自ら立ち上がる姿に、彼は『俺の力は必要ない』と思ったのだろうか。
 ……どうしてか、隼人の中にも切ない気持ちが流れ込んできていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 真っ白なドレスがその部屋の壁にかけられた。
 葉月がカタログから選んだとてもシンプルなものだ。
 ウェディングドレス程ではない、軽い装飾だけのイブニングドレス。
 それでも、葉月は白を選んだようだ。

「綺麗ね。でも、お式の時はもっと豪勢にしましょうね」

 そのドレスが来ただけで、この部屋がぱあっと明るくなった。
 登貴子も、とても嬉しそうで、心が軽やかと言った感じのようだ。

「隼人君はスーツですって?」
「はい。形だけですから」
「本番は、真っ白い軍服正装ね。それなら今回は思い切って燕尾服を着てしまっても良かったのに」
「お、大袈裟ですよ」

 この家のリビングで、ちょっとした晩餐会をするだけなのに、そんなモーニングなんか着たら大袈裟だと隼人は思ってしまう。
 黒猫の兄貴達が着ているような黒いスーツで充分。それをエドに用意してもらった。

 いよいよ明日となった。
 葉月が意識を取り戻して、すぐに結婚をしようと決意を新たに固めてから一ヶ月半。それでもとても長かったような気がする。
 その間もいろいろあった──。葉月が姉の死を知り、そしてゴーストの正体がやや判明、それが純一の軍人時代の先輩だったこと。そしてその義兄が信じて疑わない先輩に刺された胸の傷が、パイロット生命を断つ致命傷であった事など。
 しかもそれらはまだ、問題としては箱を開けただけに過ぎなかった。
 そんな中、『俺達』は結婚をする。
 葉月が言ったように、こんな『どん底』だからこそ、二人で誓い合う。
 現実に目を背けない。二人で背負い合って前へ行く──。葉月自身が隼人に教えてくれたその気持ちは、嘘ではなかった。パイロットという苦難に満ちてはいただろうが今となっては彼女の誇りであるものに、最後の別れをつげようと有終の美をラストフライトでと心に決めていた彼女の決意を、ゴーストは彼女の胸に傷を残すどころか、その決意さえも粉々に砕いてしまっていたのだ。流石に落ち込んだ葉月ではあったが、思い出してくれたのだろう。結婚への決意の気持ちを──。だから、葉月はその誓いのまま、後ろへ逆戻りするように暗闇には落ちていかなかった。這いつくばってでも、隼人の元へと這い上がってきてくれたのだ。

 そんな彼女は静かな湖の眼ではなく、今は日毎にきらきらと真白き日射しの中で煌めく花のようだった。
 目元の優しさも、口元の優美さも、なにもかもが──本当に直に花になる女性そのものだった。
 娘がそれなら、母親もとても幸せそうだった。
 なにせ今まで長い事、自ら暗闇に属して自分を痛めつけてばかりいた娘が、自らの手を差し伸べて光に触れたのだから……。
 まだ、喜んでばかりはいられないことも沢山あるが、兎にも角にも、今、この一軒家の中にいる人間達は明日の晩餐を迎えることで頭が一杯なのだ。

「そうだわ。ジュールとお料理の最終確認に行くのよ」
「いってらっしゃい。ママ」
「隼人君、葉月をよろしくね」
「はい。いってらっしゃいお母さん」

 明日の晩餐は、この一軒家のリビングでささやかに行われるのだが、料理は出張シェフを頼んだとの事だった。
 その料理の打ち合わせは、登貴子が担当と言ったところで、先日からそのことでママは張り切っていたところだった。

 その登貴子が羽織っていたカーディガン片手に、部屋を出ていこうとした。
 だが、扉を一度開いたのにもかかわらず、登貴子はまた閉じて部屋の中に戻ってきた。
 隼人は葉月と共に顔を見合わせた。

「葉月」
「なに?」
「隼人君」
「はい」

 とても厳かな顔で見つめられ、自然と背筋が伸びる。
 その顔のまま、登貴子が隼人を見つめているので、とても緊張してきた。

「二人とも、色々あったけれど、ここまで信じあってきたのね。結婚、おめでとう。ママは祝福しているわ」

 登貴子のその言葉に、葉月も隼人もただしんみりと聞き届け、黙っているしかできなかった。
 本当にその通りで、色々あったけれど何度も千切れそうになった心を繋ぎ止め、繋ぎ止め、そうしてここまで来たと……その言葉ひとつで様々な事を思い返してしまう。

「少し早いけれど、ママは今日から、なにもかも隼人君に任せようと思っているの」
「任せるって……お母さん?」
「なにもかもよ。もう『ママが付きっきりの看病』も今日まで。後は二人で頑張りなさい」

 戸惑う隼人に、登貴子が深々と頭を下げていた。

「隼人君。娘を宜しくお願い致します」

 これでもかというぐらいに、長々とずうっと頭を下げているのだ。
 やめてくださいと言いたいところだが、隼人はそれをそのまま見つめていた。
 そこに頭をずうっと下げてでも、娘を託したいと願っている母親の気持ちの重さを見ている気がしたのだ。それをやめてくれだなんて、止められない。
 そのまま受け止めるだけだ。それが如何に重みのある気持ちであるか。頭をさげてくれた分、隼人はその重みを受け取らねばならない。

「彼女と一緒に、立ち向かっていきます」
「有り難う。隼人君」

 やっと頭を上げてくれた登貴子の安堵の微笑みは、葉月に似てとてもやんわりと優美なもの。それがやはり真白き日射しに煌めいていた。
 母娘は似た花、そっくりな花と、隼人も微笑んだ。

「ママ、有り難う。私、頑張るわ。頑張って、生きていく」
「そうね、頑張りなさい。でも、ママも遠くから応援していること、忘れないでね」

 葉月も同じ笑顔で、こっくりと頷きはしていたが、どこか泣きそうな目をしていた。
 登貴子が部屋を出ていった。
 まるで母として懸命に娘を世話をしていた部屋から、自ら退場したように……そう思えた。

「始めるのね、私達」
「ああ、そうだな」
「右京兄様も、ちゃんと帰ってくると聞いているけど……。大丈夫かしら?」
「あの従兄さんが、可愛い従妹の婚姻を放るなんてことしないだろう。大丈夫さ」

 婚姻前日。
 その日は既に穏やかな日射しに包まれていた。
 巻き起こっていた暴風に荒波はとりあえず遠のいていった。
 また直ぐに暴風域に巻き込まれるだろうが……。

「そっかあ。いよいよ俺だけのお世話か。と、言うことは、風呂もなにもかもって事だな!」
「早速、何を思いついているの? えっち」
「だから、俺は真面目にお世話をしようと……」
「嘘、目が笑っている!」

 今は、ただ笑っていよう。
 そう思って隼人がふざけた冗談に、葉月も素直に笑ってくれていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 葉月が療養している部屋に、ベッドがひとつ増えた。
 この日、エドが手配し、この部屋を新婚さんの寝室にするべく隼人の夫としての寝床を整えてくれたのだ。
 隼人も今までの別部屋から、この部屋に荷物を移動。本当に徐々に『新婚さん』の雰囲気。

 そして、この家中が華やいでいる婚姻前夜だった。

 その夜、冗談ではなく、本当に葉月の入浴を手伝うようになった。
 登貴子が時折顔を覗かせるが、夕方から本当にノータッチになってしまったのだ。
 介護仕様の風呂場がこの家の二階にある。そこまで連れて行って、今、彼女が自分で服を脱いでいるところ。
 その間に、隼人は部屋に戻ってバスタオルや彼女が用意している着替えを取りに来た。
 部屋には、ジャンヌがいた。入浴後も傷の手当てがいるので様子見がてら、部屋を覗きにやってきたようだ。

「婚姻前夜の花嫁の身体を花婿が自ら清めるだなんて、素敵じゃない」
「また、そうして俺をからかって。先生は」

 金色の眼鏡の縁をキラリと煌めき、意味深なジャンヌの顔。
 この先生、葉月の前ではやんわりとしたお姉さん顔なのだが、どうしてか隼人の前だとちょっと年下の男の子をからかって楽しんでいるような顔になる。
 これは隼人に限ったことではなく、ジュールにもエドにもまったく余裕の態度で、逆に彼等がびっくりすることを平気で言い除けて彼等を驚かせては、笑っているのだ。だけれど、純一にだけはこれまた『静かな大人』の顔で、すんなりしているし、からかいもしないのだ。
 それを見た純一が一言。
 『なかなか食えない先生だ』──だった。
 ジュールに至っては『負けるものか』と言う姿勢で、ジャンヌの冗談や大胆発言に振り回されないようにしているのが判るが、エドに至っては既に引け腰。ジャンヌに話しかけられると逃げたそうにしている。
 そして隼人はどうかというと、このように完全に『年下の男の子扱い』だ。

 そのジャンヌがさらににっこり隼人に微笑みかけ、耳打ちをしてきた。
 その一言が『夜の生活、OK出たから』だった。
 隼人はそれを聞いて、すぐさま頬が熱くなってしまい、ジャンヌを怒るように見た。

「先生!」
「あら、明日の為に教えてあげたのに。だったら貴方達、医者の許可も無しにどうするつもりだったの? いつかは医者の許可を聞かないと心配で出来ないでしょう。それとも明日の夜は医者の許可を気にしないで、強行突破、無理矢理『やる』つもりだったの?」

 で、出来ないとか『やる』とかって……。あからさまに言うなあと隼人は閉口。
 だけれどジャンヌは楽しそうだった。

「葉月さんに言わせるつもり? 今夜から元通りに愛せるから抱いてとかって。男の貴方がリードしてあげなくちゃ。彼女には貴方からOKが出たとでもそれとなく教えてあげて。院長も貴方達の結婚を意識して、考えてくださっていたのよ」
「まあ、そうですね。はい、有り難うございます」

 少しばかりふてくされてしまうのは、あからさまにからかわられてしまった照れからなのだが。まだ頬が熱くなってしまう気持ちの半分は、そうして新婚さんとして皆があれこれと気遣ってくれる照れもあった。

「では、入浴が終わったら呼んでね。傷の手当てをするから」
「はい、先生」

 ベッドサイドの棚の上に、銀のトレイに乗せた茶色い薬瓶や脱脂綿にピンセット。それを置いてジャンヌが出ていった。
 隼人もタオルと着替えをひとまとめにして浴室へ急ぐ。

「なにしているの、おそーい。風邪ひいちゃう」

 葉月が素肌の上に、ネグリジェを羽織った姿で縮こまっていた。いつもそうであったように、長い栗毛は無造作に結い上げていた。
 隼人は悪い悪いと謝りながら、まだ足下がおぼつかない葉月の脇の下に肩を入れて、お越しあげる。
 つま先をふらつかせながらも、葉月はしっかりと隼人に掴まって立ち上がった。

「大丈夫か」
「うん」
「俺に寄りかかっても良いぞ」
「……うん。でも、大丈夫」

 自分で頑張って歩こうとしていた。
 一ヶ月半、寝たきりの生活はこうも人の足腰を弱らせてしまうのかと、隼人も少しばかり哀しくなる。
 それでも、葉月は健気に『頑張る』と、近頃はなににつけても前向きだった。

 入浴は本当に『真面目』に終わった。
 葉月は『本当に真面目だった』と笑うので、隼人は仏頂面で『俺は真面目だ』と抗議したが──。
 実際は心の中はそうでもない。彼女の柔らかい肌を艶やかな泡で包み込んで滑らせていく指先が、どれだけ男心に震えていたことか。そのもどかしい指先がどれだけ熱っぽい欲情に誘惑されそうになったことか。ただでさえ、あのジャンヌが妙なことを吹き込んでくれるものだから……。どれだけ心が熱く走りそうになったことか。
 それでも葉月の柔らかな肌にくっきりと残っている傷を脱脂綿やナイロンの膜で防水しながらの入浴で思いっきり抱きしめる気持ちにもなれない。そういう気持ちが交互に入り乱れる入浴。

 でもそのうち、そんな『男心の妙な気構え』も慣れて無くなってしまうだろう。
 部屋に戻り、内線でジャンヌを呼ぶ。
 部屋にやってきた彼女は女医の顔で、葉月の肌に施した防水処置を剥がし、丁寧に傷を消毒する。

「だいぶ、塞がったわね。傷口も乾いてきたわ」
「はい。まだつっぱるけれど。それはきっと一年はありますよね」
「そうね……。そのうちに違和感は残っても、肌と同じ色になるわ」
「はい」

 気になるだろう『傷跡』の話なのに……。葉月はジャンヌの言葉をすんなりと聞いて、なんなく会話をしていた。
 傷跡は残っても、それでも『私は生きていくのだ』という彼女の新しい気構えが見えていた。

 明日、俺の花嫁になる彼女は、今夜は傷があっても白い花。
 あの洞爺湖での夜は、白い花に囲まれていたが、今夜は彼女自身が白い花だ。

「おやすみなさい。明日が楽しみね」
「おやすみなさい、先生」

 ジャンヌが静かに部屋を出ていった。
 もう、この部屋には誰もこないだろう──。
 今夜からこの部屋は『若夫妻』の部屋になるのだ。

 葉月が横になりたいというので、隼人も手を添えて横になるのを手伝った。
 横になると葉月は静かに天井を見ていた。

「明日ね」
「ああ──」
「もう、明かりを消してくれる?」

 風呂に入るのはまだ、彼女には体力をつかうのか。葉月はぐったりと疲れた様子で、隼人にそう頼む。
 明かりを消して、暗くなった部屋の中、隼人はそれでもいつもの椅子に座った。

「風呂も、葉月には今は一仕事だな」
「でも身体を動かす練習だと思って……」
「無理するな。お前が頑張ろうという気持ちは解っているけれど」
「大丈夫よ」

 まだ毛布も掛けないで、横になっている葉月が暗闇の中でも目を煌めかせて隼人に微笑んでいるのが分かる。
 その微笑む顔、その頬に手を滑らせ……隼人はそうっと葉月の顔に近づく。
 葉月がちょっとばかり構えた顔をしたが、彼女もすぐに目を閉じてくれた。
 軽く触れる唇。やがて深く重なり合い、愛し合う。
 お互いの唇を押し当てたまま、囁き合う。

「もう、真面目はやめたの?」
「別の意味で真面目だけれど」

 葉月は笑ってふざけていたが、隼人が本当に真顔で答えたので、ちょっと戸惑った顔になる。
 そんな彼女の戸惑う顔にお構いなしに、隼人は彼女が着たばかりのネグリジェのボタンに手をかけた。
 葉月はちょっと不思議そうに隼人を確かめるように何度も顔を見る。

「……さ、触るだけ?」
「触るだけで済めば……」
「駄目。私が駄目になっちゃうから……」
「俺もきっとそうだよ」

 既に開かれたネグリジェの胸の合わせに、隼人は手を滑り込ませ、白い花の肌に囚われていた。
 柔らかい乳房を、僅かな指先の力で柔らかく握る。そうするとやっぱり彼女が痛そうに顔をゆがめてしまう。だけれど、それは傷からくる痛みで、隼人が乳房に触れている行為自体には、既にどうしようもなくなりそうな切なそうな眼差しへと熱っぽく揺らめいていた。
 それを見て、隼人は指先であの蕾をふいとつまむのだが……。

「い、いや……っ。それだけなんて、絶対駄目。ずるいわ。私、動けないのだもの」
「大丈夫。そんなに乱暴にしないし、激しくしない。優しくするから……」
「いや。前みたいにうんと強く愛して欲しいもの。でも動けないから……お願い、やめてっ」

 傷の痛みがあるだろうに、葉月は懇願するように隼人の首に抱きついてきた。
 やめてと言われても? そんなに抱きつかれてしまっては、もうスイッチが入ったも同然だった。
 先ほどの入浴で、意識しないようにして肌に触れていたが、それでも隼人が愛すべき彼女の柔肌の感触はちっとも消えやしないのだから。
 葉月に抱きつかれたまま、抱き返し、そのまま元のベッドの上に彼女を寝かせた。

「本気なの? 私達、フライングよ」
「かまうものか」
「先生に怒られちゃう」
「ドクターのOK、出ているし」

 隼人はもう葉月の身体の上にまたがって、彼女のネグリジェを手早く肩から降ろし、足へと滑らせることに集中……。
 だが、その何気ない隼人の呟きに、葉月が驚いた顔をしている。

「そうなの?」
「ああ、そうだよ。ご丁寧に俺達の『初夜』まで気遣ってくれて」

 葉月が頬を染めて黙りこくってしまった。人様が自分たちの肌の触れ合いの事を考えていた事が、気恥ずかしくなったのだろう。
 彼女が驚いている間に、隼人は葉月の片足をあげて、そのつま先からネグリジェを抜き取ってしまう。
 最後に残ったショーツに手をかけた時には、葉月はもう観念したように、力を抜いてベッドに横になった。
 葉月はちょっと不満そうな顔をしている。その彼女の顔を眺めながら、隼人はショーツも静かに足先へと滑らせる。葉月の足は力無く、隼人が担ぎ上げるままにくったりとしている。何をされても、抵抗はできない人形のようだった。その足からショーツを抜き取って、隼人はベッドの下に落とした。

 彼女の肌と重なり合いたくて、隼人も衣服を解いて素肌になる。
 以前のようにお構いなしに彼女の上に乗っかることは今は出来ないけれど、葉月の身体の横にひじをついてそうっと隣に添い寝をする。
 傍にくると、葉月がやっと嬉しそうに微笑んでくれる。
 傷も痛いだろうが、両手を隼人の首に背に伸ばし、少しばかり寝返りながら、隼人の素肌に寄り添ってきた。
 隼人の肌に、柔らかな彼女の乳房に、暖かで滑らかな肌が触れる。その至極の感触を、隼人も直ぐに抱きしめた。

「葉月。待っていた」
「私もよ。これだけで充分──貴方を感じられる」

 お互いの身体の曲線を確かめるように指先でなぞり合う。
 肩の丸みも、背骨の線も、腰の曲線も、そして乳房の丸みも……。顎の滑らかな線も、頬の柔らかみも……。髪のしなやかさも、全て。
 それを確かめ合っている間も、二人は見つめ合っては何度も口づけていた。
 そして隼人もいよいよの気持ちに焦がれ、彼女の力無き足へと指先を滑らせ、愛すべき園へと向かおうとした時だった。

 素肌と素肌を合わせ、気持ちを高め合っていた二人のこの部屋に『ガシャン』という大きな音が響いた!!
 夜灯りの中、冬の星空を写していた窓ガラスが激しい音を立てて、割れる音!
 ガラスの破片が飛び散り、幾分か二人が抱き合っているベッドに飛び散ってくる──。
 それを咄嗟に察知した隼人は葉月に覆い被さり、頭を抱きかかえベッドに伏せた。

『向こうだ!』
『逃がすな!』

 庭から騒がしい男達の声。

 破片は二人の足下で飛び散るのを留まっていた。
 二人揃ってゆっくりと起きあがる……。すると部屋の真ん中にボーガンの矢らしきものが転がり落ちていた。

「あの男だわ……。やっぱり、私のところにまた来たんだわ」
「まさか」
「だから言ったじゃない。いくら探しても見つからない。でも、あの男は私達の周りをうろついているのよ。そうよ、幽霊なのよ!」

 まさかとは隼人も口では言ったものの。
 心では『あの男しかいない』と言っていた。
 葉月が震えている。両手で顔を覆って震えている。
 隼人はそのまま、力強く自分の花嫁を抱きしめた。

 それにしても何故? 婚姻前夜に……?
 彼は、葉月が花嫁になる日を知っているのだろうか?

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