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8.愛に哀

 車椅子から抱き上げられ、ベッドの上に悠然と座った『私の夫』。
 彼の妻になった彼女は、彼の首に掴まったまま、そしてその胸に頬を預けたまま、何もかもを任せ膝の上にいた。

 まだ会場が賑わう中、二人だけでそっと二階の部屋に戻ってきた。
 誰が勧めた訳でもなく──。
 誰も彼もがすっかり楽しんでいる中、葉月も親族と親族となった澤村家の人々とそれぞれ笑い絶えぬ心地の良い楽しい時間を過ごしていたのだが、彼が『少し休んだ方が良い』と気遣ってくれたので、そうすることにしたのだ。

 肌の上で波打つ白いドレスの生地は、触れるとひんやりとする感触。
 彼の大きな手がそのまま素足をするりと這っていき、するすると白いランジェリーを取り去ってしまった。

 その迷いのない、潔い、そして熱い手。

「も、もう……?」

 彼の唇が、羽で撫でるように耳たぶに触れ、熱い息がじんわりと広がる感触。
 それに彼の指先……、指先が柔らかな腿を伝って、栗色の茂みを分け入っていた。

 暗がりの部屋の中、ドレスの下は、もう……なにも身につけていない状態。

「急がないと、すぐ邪魔されるだろう」
「そ、そうだけれど……」

 そして指先も、迷いがない。
 いつもそうしてくれていたように、彼の指先はとても、とても……。

「あ、貴方……」

 彼の首に掴まったまま、どうしようもなく襲ってきた甘く熱く渦巻く指先からの熱愛に、本当ならとてもじゃないけれど『そんな気はなれない夜かもしれない』なんて思っていたのは、間違いだったと葉月は思い直した。
 ふと見上げると、そこには彼の大きな目が葉月を見つめていた。

 熱い眼差しに、とろけるような指先。
 葉月ももうどうしようもなくて……。
 隼人の首に掴まる葉月は、額を彼の首筋に狂おしくこすりつけ、引いては押し寄せてくるどうにもならない熱い悦びの波で、濡れる声を漏らしてしまう。その唇で、彼の首筋を何度も愛撫してしまった。

 彼の指先が遠慮なく葉月を翻弄するのは、あの夜とちっとも変わりなかった。
 葉月が今、傷病者である気遣いはちゃんと存在していても、その葉月の熱い園を駆けめぐっている指先は容赦なく、今まで通り。

「や、や……。は、隼人さんってば、手加減なし……ね」

 彼の膝の上、彼の首に掴まったまま、もう彼の首に噛みつきたい程まで引き上げられている狂おしい快楽。
 噛みつきたい唇は、彼の首を何度も何度も強く吸い付いて抗議するように訴える。時々彼が『痛いだろ』と小さく漏らすのだけれど、その仕返しのように、彼の身体の上で小さく開いている小股の間に潜り込んでいる大きな手が、余計に意地悪に動く……。その動きが、もう慣れている動きなのだけれど……。

「ああ……。もうっ」
「そんなに怒りたいほど、いい?」

 意地悪な質問に、葉月はそっぽを向けたのだが、彼がそこばかりは許しを乞うように頬に口づけてくる。
 なのに──手先はもっと容赦なく。
 そこは、そこは……もう泣きたいほどの『私の花が咲く場所』。そんな甘い場所を、隼人は本当に知り尽くしていた。

「貴方はもう……私のこと、何でも知っているのね」
「そりゃあ、もう。じっくり時間をかけて研究したからな」

 そして彼が勝ち誇った微笑みで、葉月の耳元で囁いた。
 『研究の成果はあっただろう?』と。今更だけれど、葉月は頬を染め俯いてしまう。

「一年ぐらい経った時だったかな。これは来たなと思えるようになったのは……」

 葉月もその『一年ぐらい』という時期をなんとなく覚えている。
 それまで『今夜も彼を待たせてしまうのかしら』と、濡れないことで緊張した夜が何度かあった。どうせ駄目なのだと思って、駄々をこねるように、彼を突き放した夜もあったし、隼人の顔が急激に『男』になって、逃げられないほどに身体中をかき回されるのではないかと怯えて、突き放した時もあった。
 ──でも、実際はそんな恐ろしいことは、隼人は一度もしなかった。彼の徐々に段階を踏んで、それでいて徐々に葉月の体に合わせて手先を巧みに強め、葉月を気持ちよくさせてくれるその『春風の柔らかさ』が、ついには葉月の身体の芯に固くなっていた蕾を膨らませ、いつしかその花はふんわりとほころび……。

 今はもう、春風の彼がやってくれば、沢山の花が咲く──。

 春が過ぎれば、私達は出会って三年を迎える。
 その間、いろいろあったよね、あったよなと二人で鼻先を合わせて笑い合った。

 そして合わさった瞳も、お互いに微笑みを滲ませていたのに。徐々に熱く、切なく揺らめき始め……。やがて二人は、言葉のいらない愛を誓い合うように、唇を合わせていた。

 おそらくふと心に浮かんだ言葉も一緒だと確信できる。
 指輪に刻んだ、たった一言、それだけの言葉を……。

 その一言がまるで合図のようにして、葉月は背中が倒れるように彼の腕に任せ、そして隼人はゆっくりとゆっくりと膝に抱きかかえていた葉月をベッドに寝かせる。
 ドレスの裾も、ふんわりとベッドの上で咲いた。
 それを隼人が上からじいっと見つめ続けている。
 葉月の胸の傷を気にしながら、そうっと覆い被さってくると、その大きな手が葉月の栗毛を両方から柔らかにかき上げ、直ぐ上で幸せそうに微笑んでくれる隼人。
 その彼の清らかな微笑みをみては、葉月も胸一杯になり、幸せだったり切なかったり狂おしかったり愛おしかったり……愛しているすべてが心をかき乱す。

「脱がしたくないな」
「私も……ずっと着ていたい」

 やっと着られた白いドレス。
 ううん。と葉月は一人密かに首を振る。
 着たかったのではなくて、白くなりたかった。

 あの日の夜、私達を取り囲んでいた白い花に染められるように……白くなりたかった。

 失いかけたあの夜の出来事。
 あの夜に二人で決めた未来を、失わずに手に入れた。

 今夜、私の胸から真っ白い花が咲く。
 それを彼に惜しげもなく、摘み取ってもらうの。

 白い花のようなドレスを惜しむ彼もネクタイをほどいたシャツ姿のまま……、そのままドレス姿の葉月を上から愛し、先ほど熱い指先で柔らかくとろけさせた銀の泉の中へと力強く飛び込んでくる。
 その中を、悠々と泳ぐように……彼が魚になって、私の体の中を泳ぎ始める。
 胸の痛みはあるけれど、今の葉月にはあってない痛み。今、葉月が感じているのは、熱く激しいながらも優しく優しく上へと泳ぐ彼が入ってくる悦びが生む、心地よさだけ。
 あまり動けない葉月を気遣いながらも、それでもあの白花の夜のように、思うままに愛してくれて──葉月は本当に、彼のところに無事に帰ってきたのだと、改めての実感に涙が溢れる。

「ああ……。貴方、はやく私の花をその手で折って」

 あまりの快楽に、葉月は思わずそんなことを呟いていた。
 隼人が首を傾げながら、困った顔をしていたけれど、それを求めるように……。隼人の手を取って、吐息で狂い乱れる唇で彼の指先を愛撫し、懇願した。
 するとそれが通じたように、隼人が覆い被さって葉月の身体を両手一杯に抱きしめてくれる。
 ああ、あの夜のように──。お前がどんなに動くことも許さない、今夜は俺の物だからと。腕の中に押し込めて、ちょっとでもはみ出そうとすることを許してくれなかったあの時のように。背を反っても、ぎゅっと抱きしめてくれたあの時のように。

 そうして隼人は妻となった女の身体を抱きしめると、ゆったりと楽しんでいた回遊を終えて、帰るべき港を目指すかのように突き進んできた。

「葉月……っ 俺……」
「い、いいの……。そのまま……」

 私を摘んでちょうだい!
 胸の痛みなんて──。
 どうでもいい!
 今宵、私は貴方に摘まれて、ずうっと傍らで咲いていたいの──。

 そうして隼人は、あの時ほどではない力加減で抱きしめてくれる中、思うままに葉月の中を泳いでくれる。
 白いドレスの裾は、葉月の足を抱える彼の手元で、淫らに波打ち、そして時には葉月の蜜に湿り肌に貼りつくけれど、葉月にはそれが咲き乱れた花びらに見えていた。
 葉月の胸に白花が咲く頃、隼人はそれを確かめ、手折るように激しく身体を抱きしめ、そして優しい分、何度も何度も葉月の中で突き上げてきた。

 ……じんわりと登りつめてくる快楽の大波。
 こんな時でも、それだけの強くはない力加減でも、私の夫は妻を咲かせる愛し方をちゃんと知ってくれている。そんな泳ぎ方で彼が迫ってくる。

「あ……ああっ」
「葉月っ……」

 寝返れない状態の葉月は、手を伸ばした先のシーツをぎゅっと握りしめ、かき回した。
 頬が一気に熱くなり、血が逆流するぐらいに燃え上がる。

 ああ、きっと今──私の白い花は、真っ赤になったんだわ。
 そんな気がした。

 気がつくと、その赤い花を手折った彼も、果てていた。
 葉月の身体の上に力尽きることが出来ない今は、腕をつっぱったまま、うなだれて息を切らしている。
 俯いている彼の顔を探すように、葉月は指先を彼の黒い前髪へと伸ばしてかき分ける。
 熱い頬、汗を滲ませている額に指先を滑らせ、かき分けた隙間から現れた『夫』の顔をみつめた。
 葉月の視線に気がついた彼が、満たされたように微笑みかけてくれる。
 そして、葉月の指先を握りしめ、またその唇に愛おしそうに口づけてくれた。

「それでもどうしてだろう。お前の指先はちょっと冷たいまま。でも……心地良い」

 指先は燃え上がっても、直ぐに冷えてしまうのはいつもの事。
 けれど、彼はそれさえも、『これも俺の妻らしいところだ』と、何度も口づけてくれた。

 白いドレスがやっと解かれ、睦みあった後なのに、やっと素肌と素肌を重ね抱きしめ合う──。

 

 夫妻になった夜が更けていく──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夜中──。

 とても苛ついた様子で帰ってきた『アイツ』。
 腰に着けていたナイフサックを外し、ガチャリとテーブルの上に叩きつけている。
 男が彼女の名を、二、三回叫んだが、暫くは素知らぬふりで眠っていた。

「ミーナ、起きろ」
「なんだよ……」
「腹が減った。なにか食う物をくれ」
「……はいよ」

 埃っぽいその部屋には、古いベッドがあり、そこに男がとりあえずと購入してきた毛布が数枚。
 彼女はそれにくるまって、暖房もないその部屋で、そのぬくもりだけで夜を過ごしている。
 男はリビングのソファーで眠っていた。
 どうしてかそのリビングがお気に入りの様子だが、彼女は初めて踏み入れた時から、とても嫌な気分になり滅多に踏み入れなかった。

 何故なら、そこの部屋の床に、いくつもの血痕があるからだ。
 それも数滴とかいう血しぶきではない。蕩々と流れた跡だ。
 男はそこをしきりに眺めては、まるで恍惚としているように微笑んでいる時もあるし、跪いて『あれは良かった』と床を撫でている時がある。
 男のその顔をみると、流石にゾッとする。

 なのに、なんでこんな男を室蘭から追いかけてきてしまったのだろう。
 縁を切ることだってできたのだし、この男からの連絡を無視することだって出来たのに──。

「飯、なにが出来る」
「炒飯ぐらいしか作れないよ」

 彼女『ミーナ』は、唯一の暖房手段である毛布から抜け出しそう答えたのだが、男は少しばかり苛ついた顔をした。
 何故。食事の内容や味覚にこだわりを持っている男じゃない。『食えりゃなんでも良い』という男だ。
 なのに、いつもミーナが簡単にこさえる夜食に不満を持つなど、珍しいことだ。
 だが、彼はチッと舌打ちをしつつも背を向けてリビングに戻っていこうとした。
 けれど、背を向けて直ぐに『思わず』と言ったような呟きが聞こえた。

『豪勢な晩餐をしている奴もいるのになあ』

 それを聞いて、ミーナは震えた。
 今夜、ミーナが知っている『晩餐をしている家』が一軒だけある。

(やっぱり。あの病院の家に行ったんだ!)

 男がそこに行って、『思うような行動』が出来ずに苛ついて帰ってきた事が分かった。
 震えたのは、男の目的を知っていたから──。
 彼は、彼は……また恐ろしい犯行をするはずだったのだと。
 だけれど、そこでほっとした。

 そしてミーナは思う。
 昨夜、危険を承知であの家に『矢』を放って正解だったと。
 きっとあそこで警護をしていた男達が、今まで以上の気合いで警護を強化していたのだと……。
 それに流石の男も阻まれて、致し方なく帰ってきて苛ついていたのだと……。

『何をしている。早くしてくれ』
「うん」

 ミーナは起きあがって部屋を出てキッチンへと向かう。
 ガスと水道は止まっている。何故なら今いる一軒家は不法侵入で使っている。
 何故か知らないが、男がミーナを呼びよせた場所がここだった。
 男の話では、長年使われていず売れもしない家屋とのことで、人も寄りつかないのだそうだ。
 この辺りは別荘地で、こんな冬に訪れる持ち主も少なく、今なら隠れるのには最高の場所だと男は言う。
 だけれど細心の注意を払って出入りをし、明かりは乏しく、そしてガスも携帯ガスコンロとガスボンベで、そして水はタンクに幾つか。男がそれはきちんと切らさずに用意している。

『ミーナ。お前、昨夜遅かったな。またダチのところか』
「そうだよ。言っただろう。東京に出てきている先輩がいるんだと──」

 嘘をついた……。その時、ミーナはボーガン片手にある病院にいた。
 このことは口が裂けても、言えないこと。

『深入りするんじゃねえぞ。軽い仲間程度にしておけ』
「わかっているよ。それにちゃんと旦那がいることもアピールしている。『今まで通り』さ。安心してよ」

 男はミーナを人前に出す時、『女房』と言う。
 そしてミーナもそれに従い、男の目の届かない個人的な付き合いの場でも『旦那がいる』と嘘をついてきた。
 だけれど違う。

 近頃、やや老けてきたその男は、『私の実父』だった。

 

 男はとりあえず腹一杯になったせいか、お気に入りのリビングで満足げに眠ってしまっていた。
 男は気性激しい部分もあるが、『本性』を隠しているうちは、外から見れば『ただの寡黙な男』にしか見えない。実際に、職は転々としつつも、働くならいつだって真面目に勤勉に、そしてある程度の信頼を得る人間関係を築くことだって『人並み』だ。
 誰も彼の『本性』に気がついていないのだ。
 こういう男が父親だと、気に入らないことがあると娘に暴力を振るうとか想像されるのかもしれないが、ミーナの場合はまったく無縁だった。
 彼に──父親に殴られたことは、一度もない。けれど、彼の正体を知ってしまっている唯一の人間かもしれない。

 おかしな不思議な感情で結びついている気がした。
 男にとってもミーナにとっても、それはやはり『親子だから』なのか?
 彼はふらりと何処かへ消えてしまうことはあるが、ミーナには必ず連絡をくれた。
 ミーナも『消えてくれたなら、これで自由だ』と何度も思ったのに、結局、この父親が傍にいなくなると無性に寒くなったり不安になったりするのだ。
 それで縁を切ることだって出来るのに、つい……いつの間にか彼を追っている。

 密かに彼が執着していることは『異常』なのだけれど、それがなければ、至って普通の父親……。ミーナにとってはだ。
 今はこんな無人の家に不法侵入をしてまで宿代わりにして、質素に暮らしているが、室蘭地域を転々とした生活をしても、彼は絶対に金銭的な不安はミーナには感じさせなかった。
 むしろ不思議なぐらいに、使う時はどっさりと彼が持ってくる。
 彼も贅沢で煌びやかな生活は板に付いていなく、いつも質素にしているのに、時にはミーナが驚く大金を手にして豪勢に使うこともあった。

 何故、『女房か』というと話は長くなってしまうが、男にとって『娘はやっかい、女房は便利』との事だった。
 だからといって、ミーナが『やっかい』という訳でなく、彼のワークスタイルの中でそうあるようなのだ。

 『ミーナ』と父は呼ぶが、本当の名は『美波』。
 彼との奇妙な親子生活は、美波が十七歳の時、四年前から始まったことだった。
 その間に、女手ひとつで育ててくれた母が死んだ。
 看取ったのは皮肉なことに、母を捨て消えてしまったという父親であるこの男。ふらりと彼がやってきてから、母がそう長くはない病気だったことを初めて知った。

 それからミーナの生活は一変したのだ。
 母との質素な生活は満足はしていず、早く札幌か東京に出たいと思っていた。
 だけれど、この男が現れて、そんなことどうでも良くなったし、金銭的な不自由は解消された。
 ただ、震える事は多くなった。見てはいけないもの、知ってはいけないものを散々見過ぎて、もう……この父親と関係がないだなんて言えないところまで来てしまったのだ。

 そう、この男がずうっと執着している『遊び、ゲーム』を知ってしまった。
 男はゲームなのに、平気で若い女性にナイフを振るった男であることも知っていた──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 あまりの暖かさに、なかなか目覚めることが出来ず──。
 虚ろに窓辺から入ってくる日射しを確かめては、何度、眠ってしまったことだろうか。
 素肌のままで、夫になった彼に抱きしめられて眠っていた。
 彼の腕は葉月の首の下を通り、そして大きな手がそっと葉月の肩の丸みを抱いている。指先には、栗毛が巻き付いていた。
 彼の肌の暖かみや、すぐ傍で一緒に眠ってくれている安心感は、生還してきてから初めての物で、もうこのままずうっとこうしていたい気分。
 耳元では、まだすうすうと眠っている彼の寝息。そのままずうっと聞いていたい。
 またまぶたがとろりとしてきて、眠ってしまう……。

 でもと、葉月はちょっとだけ肘で、旦那さんをこづいてみた。

「ん……なんだ。どうかしたか」
「もう日が高いみたいだけれど、何時? そこの時計、見てくれる?」

 彼も目覚めがそこに来ていたのか、直ぐに裸になっている身体を起こして、時計を確かめてくれたのだが……。
 彼がその置き時計を手にして、ちょっとバツが悪そうに黒髪をかいていた。

「うーん。12時が過ぎているかな」

 昼過ぎと聞いて、葉月は飛び起きたくなったが、身体に力が入らずにただ驚きの声を上げただけ。

「うーん、これは完全なる新婚さん扱いだな」
「いやーっ。これじゃあどうあっても誤魔化せないじゃないっ」
「ただ、疲れて寝ていたと言えばいいじゃないか」

 葉月は枕を抱えて顔を埋め、『そんなこと通用するものか』とふてくされた。

「仕様がないだろう」

 なのに隼人はけろっとしている所か、可笑しそうに笑っているのだ。
 その余裕のまま、素肌の彼がベッドサイドに腰を下ろした。
 昼の強い日射しの中、彼の背中が頼もしく輝いていた。

 もし、今……自分で起きあがれる気力があるなら、その背に頬をひっつけて後ろから抱きつきたい。そう思ったのに、それも思うように出来ないなんて。

「もう、いや」

 さらに枕を抱きしめ、葉月はふてくされる。
 妻が夫を見て、そんなことを考えただろうなんて知らない隼人は、ただ笑って葉月の栗毛をくしゃくしゃと撫で回し、ベッドから離れていく。
 そして隣にある自分のベッドに向かい、着替えを始めた。

「胸の痛み、大丈夫なのか」
「ちょっと痛い」
「──だろうな。朝の痛み止めを飲めなかったな。点滴の時間も過ぎている。今日は大目に見てくれたんだろうけれど、まだ完治するまでは気を付けないとな」

 下着を身につけ、隼人は素早くいつものジーンズ姿に逆戻り。
 昨夜の素敵な花婿さんは、もういなくなってしまったけれど、そうしてテキパキと次に何をすべきかと真顔で呟く隼人は頼もしく、葉月もいつのまにか微笑んでいた。

「いいよ。横になっていろ。昨夜、あれでも無茶させたかと思っているんだ」
「でも──。幸せだったわ」
「勿論、俺もだ」

 彼がこの上ない笑顔で応えてくれたので、葉月も嬉しくなって微笑んでいた。

 着替えた隼人は、今度は手早く、ベッドの周りに散らばっている昨夜の衣装を片づけ始める。
 水色のワイシャツ、黒いスラックス、真っ白いネクタイ。そして葉月の白いドレス。
 どれも宴の後のように、しわくちゃになってしまっていたけれど、隼人は丁寧にハンガーに通してクローゼットへと持っていった。
 ベッドの周りが片づくと、今度は葉月の着替えを出してくれる。

「ジャンヌ先生を呼んでくるから。今日の診察が終わるまではネグリジェのままがいいだろう? 終わって気分が良かったら洋服に着替えて、庭でも散歩しよう」

 彼は手際よく、葉月が着る物を揃え、さらにそれに袖を通すのも手伝ってくれる。
 だいぶ手慣れてきた彼の看病する手つき。そして葉月も、『そうね、貴方』と素直に頷き、任せていた。

 着替えると彼が出ていった。

「やっぱりちょっと、疲れたわ」

 夫の言葉に甘えて、葉月は何もせずに横になったまま、動く気がしなかった。

 その時はなんとも思わなかったけれど、やっぱりあちこち無理をしていたのか。
 葉月は今日は起きあがれないだろうと、痛む胸の傷を押さえていた。

 

 その後、葉月はいつもの治療を受け、また眠ってしまう午後を過ごしたようだ。
 次に目覚めると、窓の外はすっかり茜色に溶けていく夕暮れだった。
 そしてそこには、眼鏡をかけて本を読んでいる夫の姿があった。

「貴方。ずっとそこにいてくれたの」

 妻が目覚めたのを知った隼人が、ふと本から顔をあげた。

「ああ。俺もさっきまで、そこで昼寝をしていたんだぜ。よく眠っていたから気がつかなかっただろう」
「そうだったの……。気がつかなかった」
「疲れたんだよ。今日は、俺もゆっくりしているから、お前も眠ったらいい」
「うん」

 暫く、葉月はベッドの上でうとうとしていた。
 昨日まで抱えていた結婚への緊張感が一気に緩まった感じだ。それでもその解けた感じがとても緩やかで、そしてやっぱりじんわりと幸せだった。

(いつもなら、ここであの黒いのが出てきそうなのに)

『お前は幸せになんかなれない』

 ぬるりと黒い沼から浮き上がってくる、どろりとした悪魔のような男が。
 でも、今日はそんな不安は何処からも襲ってこなかった。
 婚姻前夜に、あんな脅しのような矢が打ち込まれ、流石に怯えた。またあの男に、絶頂を断ち切られるのではないかと──。
 きっとあの男は、何度でも葉月の前に『その時』に現れるに違いない。ずっとどちらかが死ぬまで……。

 そう考えていた日々の中。
 葉月の中には、自分でも信じられない気持ちが生まれていたのに気がついたのは、つい最近のこと。

 それを知ったら……貴方はどう思うのかしら?

 葉月は本を読み始めた隼人をふと見た。
 すると、彼も妻の視線に気がつき、ふと視線を眼鏡の奥から合わせてくれる。
 そして柔らかにその目元を、暖かく緩め微笑みかけてくれる。

 いけない。せめて今日だけはこんなことを考えるのはやめよう……。

 葉月もそう思い、隼人に微笑み返したのに……。

「葉月。ひとつだけお願いがあるんだ」
「な、なあに」

 あんなに優しく微笑みかけてくれていたのに、彼の顔は徐々に真剣み帯びていく……。
 そしてその笑みが消えた顔で、彼が言う。

「俺に迷惑をかけるのだろう? だったら、一人でやろうとか思う前に、ちゃんと俺に報告してくれよ」
「え……」
「勿論、反対するかも知れないし、そうは思いながらも手助けするかもしれないし。それは分からないけれど。特に危険な事は絶対に一人でやらない。いいな」
「貴方──」

 葉月は『もう、駄目だ』と降参するように唇を噛みしめた。
 今まではそうして隼人にも言わずに、たった一人きりで噛み砕いて心の中に閉じこもっていたことが多かったのは確かだ。
 それに葉月は『迷惑をかける』と言い切ったのだから……夫に、今ある気持ちを言うべきかも知れないと思った。

「今、俺を見ていた顔で分かった。何か言いたくて言えないことがあるのかと」
「降参よ、貴方」

 葉月は致し方ない笑顔を寝たまま浮かべ、そうして彼に思い切って『困っている気持ちがある』と告げた。
 隼人はそれはなにかと首を傾げている。

「あの男に、会いたいの」
「なんだって……?」

 流石に隼人の顔が怒るように固まった。
 でもと葉月は続ける。

「復讐をしたいとかそんなんじゃないの。なんとなく……」
「なんとなくだって……!?」

 それは夫になったばかりの隼人は怒るだろうと葉月も思う。
 危険な上に、彼は葉月にある胸の傷が『あの男の物』と言った時、酷く傷ついた気持ちになったようだから。

 だけれど、この胸に貼り付いた新しい傷の痛みがずきりずきりと言うのだ。
 『お前は俺から逃れられない!』と、まるでそこに呪いをかけられたかのように……!

「分かった。そうしたらいいだろう」
「貴方……!?」

 そこには既に、呆れながらも静かに受け止めてくれた隼人がいた。
 それでも顔つきは怒っていた。
 葉月としては、結構、あっさりとしてくれた承諾に目を見張るばかりで……。
 だが、隼人は次にはいつもの余裕ある顔に戻って、溜息をついていた。

「そうして言ってくれたからな。だったら俺も一緒に、そうする。俺としても、その男……気になるし」
「でも、ジュールはちっとも報告してくれないわ」
「ああ、俺がせっついても『調査中』と言われるしな。彼なら顔も何処にいたかも分かったのだから、一週間ぐらいで結果を出してくれると思っていたのに……」
「私もそう思うわ。彼ならもうとっくに調べをつけているはずなのに。報告してくれないってことは……まさか義兄様に言っていないわよねって不安なの……」
「いや。それはないと思うな。純一さんの様子はちっとも変わっていなかったし、その点では彼は自身だけの判断でそんなことはしないと思うよ」
「そ、それもそうね……」

 それでも右京とか父とかに報告した方が、お嬢ちゃんよりかは話が進むと判断されたのではないかと葉月は思ってしまうのだ。
 ジュールにはオチビ扱いをされたことはないが、それでも今回の事情から、オチビ扱いをされたかもという不安はまだ拭えない。

 すると隼人は本を閉じて、立ち上がった。

「分かった。俺もそろそろ痺れを切らしていたんだ。ジュールを連れてくる」
「そうね……お願い」

 隼人は任せとけとばかりに微笑んで、部屋を出ていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 また来てしまった。

 美波は今、病棟の屋上にいた。
 葉のない銀杏並木を歩き、この敷地内にあるちょっとばかりの木立が並ぶ一軒家へと足が思わず向いたが、もう二度と近づけないだろうと思い、足が止まる。そして向かったのはこの屋上だった。

 もうすぐ三月になろうかとしている夕暮れは、少しばかり遅い時間帯になってきていた。
 ここに来る間も、通りかかりの家々からは夕飯をこしらえる匂い。

 そう言えば、昔も『我が家』からはそんな匂いがしていた。
 二人で暮らすのが精一杯の母子家庭。あの頃はあんなに嫌で、早く自分で稼ぎたい、都会に出たいと思っていたのに──。
 今日は無性に母が恋しい。あんなにあっけなく死んでしまうなら、もっと反抗せずに素直にしていれば良かった。

 それでもあの父は、どこからともなくやってきて、やせ細っていた母に出来る限りのことをしてくれた。
 今はもう……。あの生活には戻れないのだけれど、今の生活もそんなに嫌じゃない。

 一昨夜、暗闇に乗じてあの家の敷地内に近づいたが、今日はあの家は穏やかな空気に包まれていることだろう。

 『あの女性』が無事に結婚できたのだなと思えた。

 

 あの病院内の家で『婚礼』があることを知れたのは、東京に出てきている室蘭の先輩を頼りにして『情報屋』を雇ったからだ。
 金ならなんとかなったので、ある程度札束を積んだら、もの凄い力の入れようで調べまくってくれた。
 その情報屋が必死になって調べてくれた結果が、『今あの家には、ある資産家のお嬢さんが療養していて、直にその家で婚礼をあげる予定』だった。なんでもあの病院の院長がそれは手厚く迎え入れているとの事で、警備もぬかりがないらしい。ただ──病院スタッフはまだガードが甘い部分があったらしく、そこから情報を得ることが出来たとのことだった。

 何故、ミーナがここまで必死になったかというと、父がその病院に何度か通っているのを知っていたからだ。
 情報屋の僅かな情報で、ある程度、推測することができた。
 父はあの家を狙っている?

 いつからか、父が『逃亡者』なのではないかという疑いは持っていた。
 母も何処かしらそれを知っているふうで。でも決してそのことは死ぬと分かっても口にしなかったようだ。
 その父があれやこれやと人々に嘘をついている暮らしぶりに付き合えば、嫌でもそう思う。
 そして、数年共に暮らした室蘭から急に姿を消し、ある日急に、ミーナを関東に呼び寄せた今回の事も、ここ最近なかった変化だ。

 その父がミーナを呼び寄せた時には、わりとのんびりと過ごしていたのに、ある時から頻繁に外を出始め、時には夜中に帰ってくるようになった。
 そして二月に入ってからは、あの嫌な別荘に帰ってこない日もあったりした。
 さらにあのリビングで妙な薄ら笑いを浮かべたり、ぶつぶつとなにか呪文を唱えているかのような有様は、もう美波が知っている父ではなかった──。

 それを見て、美波にも訳の分からぬ焦りが生じた。

 もしや、また──『犯行』をするのか?
 あの一家とどんな縁が父とあるのか。

 そんなこと、今だって分からない。

 でも美波が気になったのはそれだけじゃなかった。
 父は夜行動をするようになったので、逆に美波は昼間、この病院へとやってきていた。
 なるべく外来でやってきたように、そこに迷い込んだかのようにその家の敷地に近づいたのだが、庭にいる誰かや白衣を着たスタッフらしき者達に『どちらをお訪ねですか』と声をかけられてしまう始末。それほど、近づく者に警戒しているのが分かった。あまり繰り返すと同じ顔が何度も来ていることで怪しまれてしまう。だが、美波如きの若い女性が例え、数回でも近づけたのは考え物だ。父の実力は知らないが、あの男はこういったことぐらいは、『当たり前』に思っていることだろう。

 なにかで警告をしようと思っていた。
 得意のボーガンでそれらしく襲撃に見せかければ、警護を固めるだろうと思った。
 その二、三回近づいているうちに、二階の窓辺に人影を見た。

 栗毛の……寝間着を着た女性。
 遠目に見ても、綺麗な女性だった。
 彼女は白衣を着ている金髪の女性にに支えられて、立っているのがやっとのよう。
 酷く弱っているのがうかがえた。

 その彼女は庭を眺めている訳でもなく、遠くを見るように空の彼方を見つめていた。
 その寂しげな顔に、美波の胸がドキリとうごめいた。
 何故か──惹かれていた。
 彼女が綺麗だからじゃない。その、どうとも例えがたい顔は、悲しみに暮れていたから。

 その時立っていた位置が、あの夜ボーガンを打ち込む時に使った場所だった。
 情報屋に調べてもらった『婚礼日』があるだろう前夜に狙いをつけ、あの綺麗な女性がいる部屋を狙った。
 丁度良いことに、その部屋は明かりが消えて随分と経っていたので、眠ったか外に出ていると判断した。眠っていても驚きはするが、当たることはないだろうと思えた。

 父があの女性に執着しているのだと、確信が出来た。
 それは愛しているのか? それとも憎んでいるのか? それとも……。
 だけれど、あの女性は美波との方が歳が近いだろうに、何故、父と……どうやって繋がっている?

 美波も胸を動かしたあの寂しい顔は、どこか惹かれたのだから、父もなにかあったのか。

 それでも父にこれ以上の犯行はさせない。
 今まで通りで良かったのに、何故──こうして『安定』は得られないのだろうか?
 あの綺麗な女性は裕福な家庭にあるようだが、美波には幸せには見えなかった。

 『ミーナ』の様々な思いを乗せた矢が、彼女の元へと向かっていく──!!

 ガラスが割れた音を聞く前に、美波は逃走を始めていた。
 本当に賭だった。きっとあの庭師や白衣を着て化けていただろう男達の方もただ者ではないはず。捕まるかもしれない!!

 幸せには見えない女性に、あの矢は届いただろうか。
 あの女性はきっと、心の中は『ミーナ』と同じだ。

 きっと、そうだ!
 いつか彼女と会える気がした、それまで捕まる訳に行かない──!

 私と同じなら、せめて……『明日、無事に結婚しなよ!』

 不意に出ていた思わぬ言葉に、ミーナは涙を浮かべていた。
 その思わぬ思いが許してくれたのか、すぐ背後を走っていた男達がいつのまにかいなくなっていた。

 逃げ切った路地裏で、ミーナは膝をついて息を切らす。
 私には路地裏がお似合いだと、笑っていた。

 

 そして昨夜、父は苛ついて帰ってきた。
 警護が厳しくて、彼女に近づけなかったのだと──。
 そしてミーナは、もう近づけないだろうその家を、今日は病棟の屋上から眺めていた。
 夕暮れの風に、短い黒髪が頬をくすぐっていた。

 なんだか、寂しい。

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