-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

TOP | BACK | NEXT

4.ファミリア

 ──いってらっしゃいませ。

 玄関でジュールに見送られる。
 両親も見送りに来てくれたが、二人とも笑顔で『楽しんできなさい』と言ってくれた。
 父は……昨日打ち明けたあの話、その後、なにか掴んだのだろうか? あの後、父は約束通り落ち着いた様子でこの家に帰ってきた。帰ってきてすぐに『マイクに連絡した。驚いていた』と教えてくれながら、あの写真を返してくれた。それだけ……。
 教えてくれると約束してくれたのだから、なにも言ってこないのならまだフロリダのマイクが調査中なのだろう……と、葉月は思う。

「お嬢様、お体を冷やしませんように」
「有難う、エド」

 栗毛のエドが、白いスプリングコートを着せてくれた上に、いつも通りに膝にブランケットを掛けてくれる。
 春のよそ行きの装い──。葉月は今日、あの惨劇の日から初めて、外へと出かける。

 今日の付き添いはエドを筆頭に、ジュールの直属の部下が二人。
 エドが付き添いになったのは、彼が医師だからだ。葉月はこの日、初めてこの家の外へと出かける。……なにが起こるか解らない。付け狙われている可能性がある。それでも葉月は勿論、葉月以上に純一と真一も願いを叶えてくれるような強い意志で『でかけよう』と言ってくれたのだ。
 ──嬉しかった。葉月が愛している父子が揃って、『葉月と出かけたい。三人で行こう』と喜んで連れ出してくれるその気持ちが。
 危険は承知の上。そしてこの家を出たかった。この家はあまりにも『過去の空気』が充満しすぎている。そんな中、あのようなこと義兄に告げる前に、葉月の方が押しつぶされてしまい言えるまでに至れない気がした。出来れば、外で、少しでも気分を和らげて……。それでも彼はそれを知れば、奈落の底に落ちるように絶望することは違いないだろう……。

 そうだ、私が受け止めてあげなくちゃ。

 葉月はそう思う。
 今まで純一が、この義兄が落ちていく葉月を受け止めながら一緒に落ちてくれたように……。ううん、彼が本当は隼人と同じように、義妹がいつかは飛べると信じていながらも、一緒にどこまでも付き添ってくれたように……。今度は、私が……。

「さあ、行こう。葉月ちゃん」

 ふと気がつくと、真一が車椅子のハンドルを握ってくれていた。
 肩越しに振り返ると、彼がいつもの無邪気な微笑みを見せてくれている。
 でも、葉月は思った。その笑顔はもうただ無邪気なだけではない。それを見せて、葉月を元気づけてくれる頼りがいある笑顔に変わりつつある。……きっと
真一も察しているだろう。

 ──今日、叔母は告げるのだと。

 コートに合わせた白いハンドバッグに、あの悪夢の写真を忍ばせ、葉月は甥っ子の笑顔に頷く。

「どうした。早く行こう」
「急かすなよ。ゆっくり行けばいいじゃないか」

 黒い車。その運転席側のドアを開けている純一が、まだ庭にいる義妹と息子に声をかけてきた。
 今日は『家族水入らず』。純一が運転をするその車は三人だけになる。その後方をもう一台、エドと他の二人が護るようについてきてくれるとのことだった。

「ゆっくりね、慌てなくて良いよ。俺の肩に寄りかかってね」
「有難う。しんちゃん」

 後部座席のドアをエドが開け、そこに乗り込めるようにと真一が手添えをしてくれる。
 この頃、真一はこういった『ケア』が上手くなってきている。側に『先輩になる医者』が幾人もいるせいか、暇を見ては話を聞いたり見学をしたり。昨日も葉月がリハビリを始めたので、ジャンヌやエドから手ほどきを受けていた。
 その成果なのだろう? 昨日、庭で付き添ってもらった時よりもずうっと動きやすく導いてくれる。
 そして、なんて逞しい体つきになったことだろう? 肩幅はしっかりしてきているし、腕は長くて太くなっているし、なによりも葉月の腰を抱えたかと思ったら、ひょいと軽々と抱き上げて、後部座席に座らせてくれるのだ。

「痛かった?」
「ううん、全然。しんちゃん、上手ね」

 上手に介護が出来たことが嬉しかったのか、今度こそ彼特有の無邪気な笑顔を見せてくれた。そしてもう少年の顔で葉月の隣に乗り込んできた。

「親父、早く行こうよ!」
「なんだ? お前は。俺に急かすなと言っておいて、この野郎」
「うるさいな」

 そんな彼等らしい言い合いが始まるのだが、程々で二人はすぐに楽しそうに笑い出す。
 いつになく父子が楽しそうに息を合わせているのを見て、葉月はホッとし、そして微笑んでいた。

 目的は『告白』だ。
 けれど──それを忘れてしまいたいぐらい、葉月の心は軽やかに躍り始めていた。

 初めて──。三人で出かける。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「出かけたか」

 黒い車が二台。それをジュールは残った部下と静かに見送った。
 自分をサポートしてくれている『カルロ』が、ジュールに話しかけてきた。

「エド・チーフが一緒ですから大丈夫でしょう」
「そこは安心してる」
「付き添いに出したジルにも注意すべきところは叩き込んでおきましたから」
「そうか」

 無表情に反応するジュールを見て、カルロが少し躊躇った間を作ったが、彼は意を決したようにさらに報告してくれる。

「──今日も、『娘』がそこにいましたが」
「まだ、泳がせておけ」
「構いませんが。『父親』はどうしますか。まだ姿も気配もありませんが……。あの娘を捕まえれば」
「今はまだだ。だが、二度目は許さない。そして、その『籠』も目の前だ」

 ──『さあ、幽霊の娘よ。どう出てくれるのだ』。
 ジュールは今日も何処かで彼女がこの家を見ているならばと、強い眼力を庭の外へと向ける。
 彼女はある意味、大事な『鍵』で『獲物』だ。下手に捕まえれば、幽霊が察し娘を捨てて二度と姿を垣間見せることのないやり方で消え失せていく気がする。それは絶対にあってはならない。まだ……娘がこのように危なげに泳いでいるうちは、まだこちらの手の中だ。

 彼女は、幽霊の娘は、『あの夜』、逃げ切れたと思っていることだろう。
 そうではないのにと、ジュールは密かに勝ち誇る笑みを浮かべる。

 実は、『ボウガンの女』を捕まえなかったのは『ジュールの判断』だった。
 あの夜、婚姻前夜。ジュールの手元には既に『幽霊には娘がいる可能性があり』という報告書が出来上がり届いていた。この婚姻が終わったら葉月に報告する──。そうして時期を計るように待ちかまえていたら、婚姻前夜にあの騒ぎ。
 葉月の部屋にボウガンが打ち込まれてすぐに、当然の如くジュールの部下達が、手際の悪い……もとい、手際が慣れていない『若い女』を追いつめていた。

『チーフ! 若い女です』
「若い、女──!?」

 追っているカルロから、そんな報告が耳元の無線インカムに届いた。

『お任せ下さい。ジルがもう捕まえます』

 だが『調査書』を手にしていたジュールには『この家を狙う動機がある若い女』と『親子ほど年が離れているだろう幽霊の女房』という右京の報告や『幽霊に娘がいるかもしれない』という言葉が重なったその時、ピンと閃いたものがあった。

「待て! 捕まえるな!」
『チーフ?』
「泳がせろ。捕まえずに、行き着くところを突き止めろ」
『イエッサー!』

 ワザと捕まえなかった。
 ジュールの独断だった。
 もし、これを純一や葉月が知ったらどう思うか。そうは思えど、そこはまだ報告する気にはなれなかった。
 当然、この婚姻前夜のあの時点でボスである純一も知る由も無し、亮介も登貴子も知る由も無し、そして葉月も……。なにもかもが葉月に調査を依頼され任されたことで、ジュールだけが知ることになった為の独断だった。
 そして今も、それは報告はしていない。

 これはジュールのチーム数人で結束し動いていることだった。
 カルロはジュールのチームの中で、一番信頼している大男だ。
 ジルはここ数年でジュールが鍛え上げた身軽な男、エドとタイプが似ている若手の部員だった。
 この彼等はジュールやエドがそうしているような『事業』には携わっていない。完全たる戦闘員でジュールがなにかと用い、あちこちでその腕を生かしてくれていた。当然、ジュールの直属であるため、言い換えれば『黒猫ボス』の直属員と言うことにもなる。つまりは忠誠は確実な男達だ。
 その彼等が婚礼が無事に済んだ後も、『幽霊の尻尾』を掴もうと、地道な調査と娘の尾行を続けていた。

 その尾行なのだが──。あの夜、彼女は一人暮らしをしている若い男の家に転がり込んでいたと言うのだ。明け方に彼女はその若い男と一緒に出かけ、彼の勤め先らしき『夜の店』に入ったきり出てこず『見失った』との事だった。
 『娘』は、この病院に何度もやってきているとのこと。それも病院を去っていく彼女を尾行すると決まってその若い男のアパートに入って長い間出てこないという。そして同じ事が繰り返された。男が明け方帰ってきて、一緒に出かけ、その怪しげなバーのような店に入ると消えてしまう。その繰り返し。どこか気になるが、ジュールは今のところ、『それ以上の深追いはするな』と部下達に言い含めている。何故なら、幽霊に近づくかも知れない危険な尾行よりも、まだこちらの有利となる状況が残っているからだ。それが『彼女からこちらに近づいてきている』こと。そこを攻めてみようというのがジュールの判断だ。なにより、彼女に尾行していることに気がつかれるのもまずい、そして危険だ。
 婚礼後は流石に、こちらの警備を警戒したか、この療養家には近づこうとせず、病院の敷地内からこちらを眺めていたらしい。それならば……と、彼女の襲撃で改めて固めることになった警戒網を緩めてみた。
 そうしたら、どうだろう。眺めているだけをやめて、こちらの家に日に日に足を向け、距離を縮めてきているという報告。流石、幽霊の娘か。よく見ている。父親に仕込まれたのではないかと思いたくなる素晴らしき勘と判断力だ。
 それはともかくとして……。ジュールが気になるのは、その娘があの晩にこちらの警備を解っていながら『襲撃する』という行動に打って出た心理。そしてそれだけの危険を冒し男達に捕らえられかけたというのに、また……引き寄せられるようにこの犯行現場に近づこうとしていることだ。

(瀬川は知っているのか?)

 そこがどうしても、解らない。
 あらゆる想定はジュールにも出来る。だが、ジュールが頭に描いた想定のどれが『正解か』どれも確信を持つことが出来ない、腑に落ちないことばかりなのだ。
 ジュールの中で、『その娘と早く話してみたい』という気持ちがあった。だが、急いで捕まえては『大事な魚』を手にしている『大ボス』を捕まえることが出来ない。そう、カルロが焦っているように、『娘さえ捕まえれば、色々なことが判明する』──ジュールも何度もその気持ちになった。しかし、娘が口を割るだろうか? さらに娘を捕まえ彼女から父親の話を聞きだしたとしても、娘が手元に帰ってこないと知った幽霊が逃げ出さないうちに彼の元へと駆けつけなくてはならない『スピード戦』になる。そんな準備はまだ一家も出来ていなければ、ジュールの方もそれは危険な賭となることだろう。失敗すれば二度とチャンスはやってこない気がするのだ。

 そんな事を考えていると、隣にいるカルロの顔色が変わり、そっとジュールに耳打ちをする。

「チーフ、すぐそこに……来ています」
「なんだって。……そうか。いいか、気がついていると悟られるな」

 ジュールはなにげなく、カルロの背をつつきながら家の中へと入る。
 二人でキッチンへと向かい、カフェカーテンをかけている小窓から手のひらサイズの双眼鏡で確かめる。

「……あれか」
「そうです」

 ジュールは初めて見る『彼女』。
 カルロの話によれば、今日はまたより一層とこちらに近づいてきていると言うことだった。
 ──いったい、何が目的か。
 もし先日のようなことが『目的』なら、彼女の攻撃は数日中となるだろう。

「チーフ、今夜からこの配置でどうでしょう」

 カルロが警護を固める人員配置の図を記したメモ用紙を見せてくれる。
 ジュールはそれを眺め『それで頼む』とカルロに返した。彼がそのまま頭を下げ、庭へと戻っていく。

「確かに若いな。あれで『妻』? 冗談だろう。なんのつもりだ」

 あどけない顔をしたまだ少女のような彼女。
 それを瀬川アルドは、外では『妻』として彼女を連れて歩いていたと言うではないか。
 そこにも、なにか幽霊のこだわりが? 今は全く見えてこない。

 暫く、黒髪の彼女はこの家の側にある木立の向こうの小径を行ったり来たりしている。
 しかも大胆にも『足跡を残した場所』、つまり彼女がボウガンで襲撃した位置だ。
 その場所になにかこだわりが? それとも……またそこから葉月の部屋を狙うつもりなのか。だとしたら本当に『不手際な作戦』だ。あれだけこちらの警備の気配を上手く読みとれる感性を持ちながら、それこそジュールが最初に感じたように『幼稚な対処』にしかならない。その目的は解らないが、二度も同じような手で狙うと言うならば、それだけの『理由がある』とジュールは思いたい。

 こうして彼女を影から観察しているのだが。
 そのなかなか去っていかない、何かを探している様子が気になる──。

「……お嬢様を? まさか」

 ふとそう思った時だった。

「よ。勝手にあがったぜ」
「──右京様。いらっしゃいませ」

 また庭側にあるリビングの窓から、彼が勝手にあがってきた。
 近頃、葉月の見舞いに来る時はこんな感じだ。
 彼は既に春らしいお洒落をしている。そこに気持ちが戻ってきた分、彼の心も今は落ち着いているようだ。ただ少しだけ変化が。今まで御曹司を気取った華やかなファッションを好んでいた彼だが、ここ最近は肩の力が抜けたようなナチュラルなカジュアルを着こなすようになっている。今日もシンプルな真っ白いジャケットに下も変哲もないシンプルな生成のシャツ。そしてジーンズ。だけれどやはり彼だ。それだけなのに、とても似合っている。以前ほど目をひく格好ではないが、彼らしさをちゃんと醸し出しているし、品がよい。流石だとジュールは唸るのだ。
 彼がこうなれたのも、葉月の結婚が、彼にある程度の明るさをもたらしたのだろう。

 その右京がリビングを見渡す。

「あー。でかけてしまった後か。間に合わなかったな」
「今し方、出かけましたよ。夕方には帰ってきますから、その時に会えると思いますけれど」
「うん、そうだな。その方がゆっくり話せそうだな」

 彼が腕時計を見ながら、今度はリビングのドアを見る。
 そこから誰かが現れるのを待っているのだ。

「えっと、まだ支度をしているのかな? 見てくる」
「どうぞ。きっとお洒落をしているとおもいますよ」
「彼女が?」
「ええ。先日、エドが春物を仕入れた時に、葉月様が『先生の分も見繕って』と言い出しまして──。先生のお好みが分かりませんから、エドがカタログを渡したところ、いくつか選んだようですよ。二人で姉妹のように楽しそうに選んでいましたよ」
「へえ。知らなかった! それは楽しみだな」

 右京の笑顔がぱっと明るく広がり、その彼女を迎えに行こうと足を向けた時だった。

「あら、右京──」
「ジャンヌ」

 丁度そこに、右京が愛する女性が現れる。
 こちらも彼女らしく落ち着いた服装だが、右京と通じたように黒縁の白いアンサンブルとクラシカルなスカートを合わせ春らしい格好をしていた。そしていつも結い上げているたっぷりの金髪を綺麗に手入れをして降ろしていた。
 そこにも見たことがない花が突然しっとりと咲いたようだった。

 その彼女を一目見た右京が、彼女がやんわりと微笑むまま、その花に誘われるように歩み寄っていく。
 彼女も右京の素直な微笑みを目にして、それだけで幸せそうに頬を染めている。

「春らしいな。似合っている」
「有難う。貴方もね」

 向き合った二人がそっと見つめ合い、挨拶代わりなのだろうか? 軽い口づけを人目も気にせずに交わした。
 まあ、フランス人であるジュールには別に目をふさぐような光景ではないのだが、何故か背を向け『お邪魔かな?』なんて思ってしまうほど──こちらもお熱いばかりの日々だ。

「では、ジュール。でかけてきます」
「はい、先生。ごゆっくり……」

 彼女が女性の顔で申し訳なさそうにジュールに言った。
 その顔はもう、近寄りがたいしっかり者の女医ではなかった。
 今日は患者の葉月が外出許可も出たので、エドという医師付で家族と出かける。だから、手の空いた彼女にも今日は『休暇』を。それをジュールから右京に報せてやると、少しばっかり男女関係には距離を置きすぎている今は妙に奥手そうな彼女を、右京が上手く誘ったというわけだった。こちらも春がやってきたようで、短時間のデートは時間を見てしているようだが、今日はゆっくりじっくり過ごしてくることだろう。
 そのジャンヌがまだジュールの顔を見たまま、出かけようとしないので、ジュールは彼女を見つめながらふと首を傾げた。

「どうかしましたか?」
「あの、私だけ休暇をいただいてしまって。貴方達が……」

 そんなジャンヌの気遣いにジュールは笑い出す。

「先生はちっとも私のことを解っていませんね」
「え? どういうことかしら?」
「──気にしないで出かけてくださいということですよ。私はですね、仕事をしているのが一番、楽しいのですから」

 すると彼女が『それもそうね。貴方はそうなのだわ』とやっと納得したように笑って右京の元へと戻っていった。

 ──いってらっしゃいませ。

 落ち着いた大人の恋人同士が、肩を並べて春の庭先を出ていった。
 しっとりとしているその後ろ姿を揃えている二人が時に目線を合わせては微笑みあっていた。
 ジュールはこちらもお似合いになってきたなあと目を細めながら、見送った。

 そうそう、俺はこうしている時が一番……。
 そう思いながら、手にしていた双眼鏡でもう一度外を見た時には、もう黒髪の彼女はいなくなっていた。

 さて、どうなることやら。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 真っ白なテーブルクロスに、真っ青なナプキン。
 窓辺から差し込んでくる日射しに、銀のフォークにスプーンが煌めき、そしてワイングラスの縁もキラリとした光を放っている。
 といっても、今日は誰もワインなど飲める状態ではないので、好みのソフトドリンクが入れられていた。

 オードブルが終わり、スープを味わっているところ。そろそろランチメインディッシュが出てくる頃、丸いテーブルでそれぞれが見えるように座っている三人は、最初はぎこちなかったが葉月の勝手な会話で、少しずつ和み始めてきていた。

「知ってる? 今日、右京兄様デートなのよ」
「ほんとう!? それってジャンヌ先生だよね? しかし、あのおじちゃんがね〜。ついに大好きな女性に会っちゃうなんてね」
「本当よね」

 それで照れて、自分たちが出かけた後に迎えに来たに違いないと、葉月と真一は一緒に笑う。
 その二人の間に挟まれている純一は、ミネラルウォーターのグラスを傾けながら、そっと微笑んでいるだけ。それでも葉月にはちゃんと、彼が会話に入って楽しんでいる笑顔だと分かっていた。

 純一が連れてきてくれたのは、葉月も来たことがある右京行きつけのレストランだった。
 今度は都内ではなく、横浜の郊外にある個人宅のような小さな佇まいのレストラン。客席も少なく、本当にどこかのリビングにお邪魔しているかのような小さなホールでの食事だった。
 良く聞けば、純一も右京と一緒に良く来ていたとのこと。

「だったら、今日はこのレストランは右京と先生の為に空けとくべきだったなあ」

 ナプキンで口元を拭きながら、純一が笑った。

「いいのよ、いいのよ。右京兄様はたくさん行きつけがあって……」
「選り取りみどりなんだっ。じゃあ、今日は都内かもね」
「そうそう、私達と鉢合わないコースを一生懸命に練っていたはずよ」
「きっと、そうだな」

 三人一緒に笑い合った。
 葉月の目の前で、可愛い甥っ子と愛してきた義兄がそっくりな口の開け方で笑っている。
 ただそれだけを見て、葉月はとてつもない幸せを感じていた。
 ──こんな日が来るだなんて。

「俺、あの先生なら絶対に右京おじさんを幸せにしてくれると思うな!」
「そうだな。俺もそう思う。もうあの先生でなくては駄目だろうな」
「うわ。それっておじちゃんベタ惚れってことだよね」
「そう。あれはベタ惚れだ。ああいう右京は初めて見たかもなあと、思ったぐらいだね」
「っていうか。おじちゃんって今まで何してきたの?」
「さあなあ?」
「知っているだろ、親父。教えてよ!」
「さあなあ??」

 真一が、いつの間にか葉月にではなく、自然と父親である純一に話しかけてきた。
 そして純一も笑顔で息子の言葉に耳を傾け、その言葉にちゃんと応えている。
 なんだか、やっと……葉月の目の前で、二人がこの一年で培い距離を縮めてきたものと本来あるべきだった父子関係を見せてくれた気がして、今度は感激の涙がこぼれそうになったが堪える。

 顔つきがそっくりな父子。
 そして母親譲りの栗毛は、ここに座っている若叔母と同じ栗毛。
 この三人。確かに繋がっている家族なのだけれど……。

 ついに葉月の目尻から涙がこぼれてしまった。
 本当なら、ここに座っている『栗毛の女性』は『皐月姉』だっただろう。
 きっと、とてつもなく傷ついた心と身体を、ひとつの命を産み落とすためだけに、なんとか鞭を打つ思いで生かしてきたと思う。そうして生まれた目の前の男の子が、笑っている。姉が愛した男性、この子の父親と笑っている。
 その世界がもしあったのなら、葉月はきっとそれで満足だったと思う。

 それなのに。何故、その世界は奪われたのだろう?
 それ以上に、何故、姉は命を奪われたのだろう?
 どうして、あの『瀬川アルド』と再び接触することになったのだろう?

 純一は知っているのだろうか?
 どうして姉が殺されてしまったのかを。

 葉月は椅子の背もたれに挟んでいるハンドバッグにふと触れる。
 そこに、それを問うための写真が忍ばせてある。
 こんなに幸せな、穏やかな時間に包まれているこの場で、言わなくてはいけないのだろうか?
 やはり、今日も言えなくなるのだろうか? そんな気にさせられるほど、今、目の前で葉月の心を安らげてくれている光景は、待ち望んだものだから。それを壊したくなくなってきた。

「……葉月ちゃん?」
「どうした、葉月」

 きらきらと笑い合っていた父子が、葉月の涙に気がついてしまったようだ。
 慌てて涙を拭き取り、葉月は微笑む。

「だって。やっと兄様としんちゃんの親子の姿が見られた気がして……」

 それも本当の気持ちで。
 だけれど、涙の訳の半分は──どうしようもなく消えることのない哀しみが原因。
 しかし、葉月は笑顔でそれを隠した。

「あのね。葉月ちゃん、ずうっと前から、有難うね。葉月ちゃんだけだったよ。俺と親父は向き合える親子なんだって、教えようとしてくれたの……」
「葉月、俺達のことをずっと見守ってくれる中、なにもしようとしない俺の為に何度も心を痛めたことだろう。すまなかった。だが、感謝している」

 その言葉、意識を戻した時にも聞いたけれど、そうして父子が揃って言ってくれると、葉月も感慨深いものが込み上げてくる。
 ついに涙が溢れてしまった。そして『そんなことはない』とそっと無言で首を振る。

「でも、こうなれたから。なんでもないわ、もう。見たかったの、そんな二人を。だから今、私はすごく幸せ」

 涙を拭いて微笑むと、目の前の二人は顔を見合わせ、葉月が望んでいる輝く笑顔を見せてくれる。
 それが義妹が、叔母が、望んでいることだと二人の心は通じ合っているようで、それがまた葉月に涙を流させる。

 穏やかな時間の中、食事は進んでいった。

「このあと、何処に行くの? 葉月ちゃん」
「うん、知っているブティックとか──」
「俺、葉月ちゃんに似合う服、選んであげようか?」
「え? しんちゃんが?」
「ガキのくせに一丁前に。じゃあこうしよう。俺も選んでみよう」
「よおし。どっちが葉月ちゃんに気に入ってもらえるか勝負だ!」

 純一が『生意気な』と顔をしかめたが、やっぱり最後は三人で笑い合う。
 ……もう、駄目だと葉月は思った。今日は告げられるような雰囲気ではなかったと。

「そうだ。今度は隼人と一緒に食事に出かけようじゃないか」
「いいね、それ。今度は四人家族だね」
「また土曜日にでも、隼人が帰ってきたら一緒に出かけるか」
「うんうん。いいね!」

 今度は『四人家族』──。
 その言葉に葉月はハッとさせられた。
 今までずうっと隼人は蚊帳の外。今回もそれを分かっていて彼はこの三人家族の形を尊重して、距離を置くためにも小笠原に帰ってしまったのだ。
 そんな状態であるのを、そして隼人がそこを気遣ってくれていたことを、義兄は知っていたのだろうか? 純一から『隼人も一緒に』と言ってくれたことにも驚いたし、そんな父親の気持ちを直ぐに察したかのように甥っ子が無邪気にまとめた一言『四人家族』にもハッとさせられる。
 また、涙が出てきそうになる。私達はこれから、もっともっと『家族』になれるのだって。
 その時、隼人が声が聞こえてきた。
 彼の『早く義兄さんに言うべきだと思う』とか『頑張れ』と言ってくれた声が。何のために俺が今、小笠原にいるのか。葉月──忘れちゃいけない。まだお前にはやらなくてはならないことが残っているのだと。そんな声も聞こえてくる。きっとここにいたら、彼はそういうだろう。
 『家族』──その一言が、ここにいる誰の中にも刻まれているなら、今から起こることも乗り越えていけるはずだろう。次ぎに帰ってくる夫の心に応えるためにもと、葉月は心を強くしようとする。

 葉月はついに意を決した。
 背にあるハンドバッグを手にし、それを開け、ハンカチに包んできたあの写真を取り出す。

「二人とも有難う。今のね『家族』という一言で勇気が出たわ」

 なんの勇気がいるのだろうかとばかりに、話の方向に合わないことを言い出した葉月を二人は訝しそうに見ている。
 だが、葉月の様子を直ぐに察した真一が、表情を固め背筋を伸ばし姿勢を正した。
 とにかく不思議そうなのは、そんな義妹と息子の様子が変わったことに気がついた純一だった。

「義兄様に話が」
「なんだ……」

 彼の声も構えていた。楽しい食事の席で、幸せを噛みしめる席での話で申し訳ないが、もうこれ以上は先延ばしすることが出来ない重要なことと心得えて葉月は、手にしているハンカチの包みをテーブルの中央に置いた。
 それは真一も初めて目にするもの。彼の目の前で見せても良いものか躊躇ったが、先日、真一を一人の家族として一緒に戦って欲しいと言ったばかり。きっと真一も受け止めてくれる強さはあると信じながら、葉月は赤い花が描かれている薄いハンカチの包みを静かに開いた。

 そこに、若き義兄と姉と……そして瀬川が写っている写真が現れる。
 既に真実を知っている真一の眼の色が変わり、両親と写っている男に釘付けになってしまっていた。その眼が燃えたようにも思えた。

「それはこの前、お前と名簿を見た時に俺が見せた……」
「そうよ。姉様が笑っているから、純兄様が楽しそうに写っているからと借りていた写真……」

 まだ不思議そうな義兄。だが隣にいる甥っ子は既に唇を振るわせている。
 甥っ子には口で『純一と親しい先輩だった』と伝えてはいたが、その男が父親ならず母親ともこうして親しげに肩を並べていることは……ショックだっただろう。葉月は甥っ子がどうにもならなくなってしまう前にと気が急くように、二人の間にいる『男』を指さした。

「この男性は『瀬川アルド』。義兄様の良き先輩ね? 今はどうされているの?」

 葉月が、その男の名を知っていることにまず、純一は驚き。そしてやがて顔色を変えていった。

「何故、お前が彼を知っている。この前は名は知っていなかったではないか?」
「名は知らない。でも、知っている男だったから、調べたの」
「まさか、お前……!!」

 純一が立ち上がり、葉月を恐ろしい顔で見下ろしていた。
 葉月に向けられている顔ではない。そこにやっと襲ってきた真実の最初の波がやってきて、その恐怖におののき始めている顔。葉月は目を逸らさず真っ直ぐに義兄の顔を見つめかえす。

「……ショックだったわ。兄様が敬愛している男だったことが」
「こいつなのか」

 葉月は静かに頷き、今度は哀しみの涙をこぼす。
 葉月の頷きを見た純一の顔が白くなり、そして彼はそこで立ったまま固まってしまった。
 何処を見ているのかわからなくなる目線の先には、葉月や真一には見えない彼だけが知っている過去が見え始め、そこを彷徨っているよう……。今まで噛み合わなかったことを哀しく噛み合わせているような姿。

「悔しかったわ。姉様と兄様が裏切られていたことが……!」

 今は言葉も言えないだろう義兄の為に、葉月はそう叫んでいた。

 真っ白な日射しが三人を優しく包み込んでくれる春の午後。
 それだけが、救いのような午後──。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.