-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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8.スペードクィーン

 思った通りだった。
 もし、彼が未だに軍と繋がって仕事をしているなら『正義の男』だろうと。
 つまりは、純一と共に軍人だったときも彼はそういう男だったからだ。

 信じて疑わなかった。
 だが、『幽霊が先輩だった』と判った時、何かが繋がった奇妙な感覚に襲われた。
 記憶の底に眠る『些細な場面』が、いくつか浮かんできたのだ。
 十八年も眠っていた小さな記憶。その時は腑に落ちなかったけれど、さほど気にせずに流した場面。だが、純一の奥底でそれは疑問符をつけたままきちんと残されていたのだ。

 ──ある日のサッチ。

『ねえ、純兄はアルのことどう思っているの』

 あれほど『あの先輩は素晴らしい見習いたい先輩』と、純一よりも皐月が騒いでいたのに──。
 彼女がなんだか暗い顔で聞いてきた時に感じていた違和感とか。

『あの人は怖い人。純兄、気をつけた方が良いわよ。信じすぎるのは、もしかすると危ないことなのかも知れないわ』

 徐々に彼女は尊敬している瀬川から、距離を置くようになった。
 何故、皐月がそう変化したのか。些細な記憶として蘇っても判らない。
 だけれど、腑に落ちない疑問符がついたままの記憶として、こうして残り、そして今、蘇った。

 純一は思う。『あの時、既に皐月は何かを見抜いていた?』
 彼女がアルを犯人と分かっていて、家族にも純一にも口を閉ざしていたのはそこにあるというのだろうか?
 この時、初めて『皐月は何かを隠していた』と思った。

 そして──ある日のアル先輩。

『いいか。俺達軍人は上の者から与えられた使命を全うするのが役目で責任だ』

 彼の信念には、純一も通ずる物がありどんなことも頷けたものだ。だからこそ、尊敬していたというのに。
 それとも? 彼は何かで変化してしまったのか? 皐月を襲うと決めた時に豹変する何かが? それとも純一がそう評価し尊敬していたように『何事も冷静』の上で、正常な彼が姉妹を傷つけたのか?

 あの二人の間に何があったかは、純一にはどうしても判らない。
 そういう記憶の欠片が、少しずつ少しずつ蘇る。その中の一部分なのだろう。まだ、後から湧いて出てくる感触が残っている。
 今はそんな時間をじっくりと焦る気持ちを抱えながら堪えている。

『お前、──綺麗事──という言葉をどう思う?』

 まただ。急に小さな記憶が鮮やかに浮上してくる。
 彼に質問された言葉。

『綺麗事? どう思うだなんて。特になんとも思いませんよ。それを言いたい人が言えばいいだけだと思うぐらいで』
『お前らしいな。では、綺麗事は必要だと思うか?』
『それだけが良いとは思いませんし、それだけで世の中が成り立っていないことだとも思っています。そしてそれも時には必要なこともある……と』
『それでいい』

 彼の満足した微笑み。
 一般的な『綺麗事』がどういうものか、純一は知っているつもりだった。そしてそれを持ちすぎては、社会ではやっていけなことも。時に『ビジネス』とは──と、よく言われるように非情で割り切りが必要な物なのだ。

 そして今、蘇ったこの記憶の締めくくり、アルド先輩の言葉はこうだった。

『その綺麗事で、なんでも世の中が上手く動くと思いこんでいる馬鹿もいるよな』

 先輩の独り言だと思っていた。
 だから純一は『そう思います』とも『そうは思わない』とも答えなかった。
 だが、純一の中では『綺麗事が全てと思う者は馬鹿』とまでは言わないが、それは一理あると思っている。そんなごくごく一般的な考え方のつもりだった。

 しかし今思えば? 『熱血純粋馬鹿』がいたじゃないかと思うのだ。
 それが『サッチ』──御園皐月だ。
 あの独り言は、皐月のことを指していた? 今、そう思えてくる記憶。

 そうして繋がったのは、あの二人はいつの間にか純一の知らないところで『決定的な決裂』をしていたのでは? と、いう見解。
 何か、決定的な何かがなければ……。
 割り切り冷めているエリート筆頭株の先輩と、生意気な新米女教官との間に起こるよくある『価値観の違い』ぐらいで争いや憎しみ合うなにかが勃発したとは思えない。きっと、何かそれらを『正当な行動』として結論付けた上で、瀬川アルド先輩が犯行に及んだ踏み切った瞬間と出来事があったはずだ。それでなくても、あの冷静な先輩なら『新米嬢ちゃんの生意気な戯れ言』として、割り切れたはず……。なにが彼を突き動かし、皐月は彼の頑丈な『理性』の留め金を外してしまったのか……。

「皐月、何故……俺に打ち明けてくれなかったんだ」

 それが悔やまれる。
 なによりも、こんな近くにいた信じていた先輩が、愛した女性を傷つけたことに十八年も気がつかなかったのだ。
 それがまた純一の後悔に拍車をかけ、より一層大きな黒い雲となり、心どころか純一の動きも、目に見える物もすべて覆って感覚を奪っていきそうだ……!

「義兄様、純兄様……!」

 一人でいる部屋のドア。そこを義妹が何度も叩いている。
 ……一人にしてくれと言ったのに。
 だが、純一は思い改める。自分だけじゃない。襲われた義妹も、この話にはかなりのショックを受けたことだろう。
 純一はうなだれ腰をかけていたベッドを立ち上がり、ドアを開けた。

「義兄様……」
「葉月」

 義妹は泣きそうな顔をしていた。
 純一は車椅子に跪き、そっと葉月を抱きしめる。

「大丈夫だ。俺は……」
「私も、私もよ」

 そして義妹は分かってくれているように、純一を抱き返してくれる。

「入ってもいい?」
「ああ、いいぞ」

 真一はまた何処かへと出かけてしまっていた。
 一人きりの部屋に、葉月を招き入れる。

「あのね……」
「なんだ」
「う、ううん……なんでもない」

 何かを聞いたそうな顔。聞いてきたなら今度こそ、葉月の質問には全て答える覚悟は出来ている。
 だが、義妹は口を閉ざし、自分で車椅子を動かし窓辺に寄っていった。そしていつものように庭を眺めている。

 悪い。自分から話せそうもない。
 話したいのではなく、何処から何がどう始まっていたのか今、探しているんだ。
 何処からお前に伝えれば良いのか、解らないのだ。

 純一の心は、窓辺にいる車椅子の義妹にそう囁いている。
 そしてそれが聞こえたかのように、義妹がこちらに振り返った。

「大丈夫よね。義兄様」
「ああ……平気だ」

 平気な物か。
 俺だけじゃない、お前だって。
 純一はそう思うが、それでも義妹が自分を元気づけようとただ微笑みを浮かべているのを知っていた。
 今は、微笑み返すことが出来ない。それでも笑ってくてる義妹は、静かだが一生懸命にしてくれている。
 純一も窓辺に歩み寄り、一緒に庭を眺める。

 ただ黙って妹と眺める庭。
 ふと見下ろせば、義妹だって微笑みは消え、不安そうな顔をしている。

 そして、その表情の奥底に秘めている義妹の本心も、純一は知る由もなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 『今夜は帰らない。明日、昼頃帰ってくる』
 そんなメモ用紙がリビングのテーブルに無造作に置かれていた。

 あの父親、間が抜けているのか、それとも自信があるのか?
 不法侵入をしていた所有者も解らないこの別荘。その所有者がいつやってくるかも判らないのに、こんなふうに不法侵入をしていることが判ってしまう証拠を堂々と置いている。

「まあ、いつものことだけれどね」

 美波は溜息をつきながら、再度、この別荘を出た。

「アルの奴。また、なにかするつもりなのか?」

 質素な生活は慣れているが、流石に電気もガスも水道も止められている不法侵入で過ごしていた別荘は居心地は良くなかった。
 だから、出来るだけここには帰りたくなかった。あの父親が、この別荘に来た途端に、様子が変わった気がした。時に見せるリビングでの異様な姿──。
 でも、と美波は思う。あの父親のことだからミーナに見られることも百も承知のはずだ。それを判っていて実の娘に見せたあの姿は何だったというのだろう? なにを言いたかったのだろう? 今の美波には判らない。

 夕暮れから夜空へと変わっていく道。美波は別荘を出た時、後を振り返った。
 本当なら、誰もが憧れるだろう佇まいの別荘だ。きちんと使われているなら、美波もずっとそこでくつろぐ日々を手放したくなくて、まだまだ滞在をしたかったはずだ。だが、その別荘には一欠片もその思いは浮かばなかった。
 リビングに異様な空気を残していたあの家は、きっと誰も住めない物になっているはずだ。

 そして美波は確信するのだ。
 父は、若い女性を襲っただけでなく、いつしかこの別荘でも悪行をしたのだと。
 ……ショックかどうか? 判らない。そこはまだ、あの父親と過ごして日が浅い証拠なのだろうか? それとも、あの父親はそういう人間なのだと最初から嗅ぎ分けていたから驚かないだけなのか。それも美波自身も判らない。

 彼が読んでいた新聞。三面記事と地方のページを毎日チェックしていた。
 美波は新聞など読まない。だけれど父がその時期の新聞をいつまでも取って置いているので、彼が留守の間に美波も眺めてみると一つの記事が目に付いた。

『横須賀基地内で通り魔? 女性隊員が刺される』

 そこだった。
 数日、その記事は掲載され『女性隊員は一命を取り留めたものの、目撃者の証言も空しく、有力な手がかりはなし』とある。
 徐々にその事件の記事は小さくなり、今はもう掲載されていない。
 その記事が割と大きな記事で掲載されている日から小さな記事になり消えるその日まで、父親のアルが、その新聞だけ手元に残していたのは偶然か。ただ美波だけがその記事に目がついただけで、父親にとってはただそこに置いているだけなのか。
 その新聞記事には当初は『通り魔』と書かれていたが、日を追うごとに『隊員を狙った犯行か。隊員の職務関係からか』とも書かれ始めていた。そこに記事の結論が至ってから、その記事が掲載されなくなったのだ。
 おそらく──『軍隊』という特殊で機密的な場所で、狙われたのは隊員で、そして基地内だったから、そこで表世界では騒ぐことは許されない『裏事情』が生じ、記事掲載を差し止められたのでは? 美波はそこまで想像してしまった。

 考え過ぎか? 最初はそう思っていた。
 だが、あの父が病院なんかに足を運んでいるのを知った時。あの女性がいる一軒家を狙っていると知った時。そしてそれが気になり美波の独断で情報屋を雇ってあの女性のことを知った時に繋がった線。
 あそこにいる女性は怪我をしている。と、いうことは? 彼女があの『女性隊員』なのだろうか?
 信じたくはないが『父親が若い女性にナイフを振るった』と、美波が『疑い始めた』のはその時だった。確信へと深めていったのは、あの不気味な別荘で父が淡々と過ごし、そして異様な執着心を見せていた頃から。
 さらに情報屋は最初は『資産家の娘』と報せてくれたが、後に収集してきた情報で判ったのは『その資産家は軍人一家で、娘も隊員だった』という報告。しかし彼女が婚礼を済ませた頃から『お喋りな病院関係者』の口が堅くなったと言う。たぶん、あれだろう。美波が忠告の襲撃をしたから、院長がなにかを悟り、関係者に改めての注意をしたのだろう。おそらく、『お喋りな病院関係者』はその時青くなったに違いない。

 美波は別荘地を後に、少し歩かねばならない駅へと向かい、電車に乗り込んだ。
 揺られる電車の中で、美波は目を閉じ、今日やっと近づくことが出来た『あの女性』を思い返していた。

 美波が初めて見た時より、ずっと明るい顔をしていた。
 しかし力無くとも不器用に車椅子を動かすもどかしい姿。それが痛々しい。

 彼女は父が襲った新聞の女性なのだろうか?
 きっとそうだろう。治療を行っている女性隊員。それだけで充分な可能性。そして間違いない一致であり、そして父が自ら足を運んでいたことから、新聞の女性は彼女に違いないと美波は確信していた。
 彼女が悪者であったのなら、父の行為は正当化出来ただろうに。残念なことに、美波の中ではあの彼女が悪者には見えなかった。
 それとも? 軍人というのはプライベートの顔と軍人職務を全うする時の顔は異なる物で、実は彼女は軍人としての残酷な顔を持っている女性なのだろうか? 彼女はナイフで裁かれるだけのことをしていたのか? 父は誰かに依頼されやっただけなのか?
 そうでなければ、不気味な笑みを堪えきれずに見せてしまっているような父にとっては『ただのゲーム』なのかもしれない。だとすれば、大がかりで残酷なゲーム……。

 今日はあの家の目の前に一歩、踏み込んでしまったから、かなり警戒されると思って、あちこちをうろうろしてから葉山に来たのだが……。
 『ミーナ、これは不法侵入だ。いいか、出入りは絶対に人に見られるな』──父に厳しく言い含められ、美波はそうしていた。この家に向かう時は絶対に真っ直ぐには向かわない。あちこち寄り道をして、ぐねぐねふらふらと言った感じで薄暗くなってから入っていた。

 電車は春の夕闇に包まれる線路を走る。またもや東京に逆戻りだ。
 でもホッとした。
 あの別荘で父親と二人きりでいると眠れなかったり、息が詰まりそうになるから。
 あの父親、いつまであの別荘にいる気なのだろうか。

 

 東京に辿り着き、美波は真っ直ぐに『彼のアパート』へと向かう。
 もらっている合い鍵で入ると、部屋は真っ暗で誰もいなかった。
 この部屋の主も……。きっと仕事に出かけたのだろう。
 彼の名は『翼』──。と言っても、夜の世界で働く彼の『源氏名』のようなもので、本名は『芳雄』。室蘭時代の高校の先輩だ。
 『ヨシオ』だなんて嫌だと思ったらしく、彼がその世界に入って自分で付けた名だった。美波は『ヨシ』と呼んでいたが、東京に来てからは彼の要望で『ツバサ』と呼ばされている。

 その彼の部屋で美波は、適当に食事をし、適当に風呂に入り、適当に眠る。
 留守中に好き勝手をすることも、彼から許されている。
 だから好き勝手に過ごし、今夜の眠りが襲ってきたので、彼のベッドで眠った。
 だが、何時になったか分からないが、部屋の電気がぱあっと点いたのに気がつき、美波は目を覚ましてしまった。

 ベッドルームの電気スイッチを手にしている男性がそこに一人。
 真っ白なジャケットに黒いティシャツ。腕には太いブレスレットをしている。髪の毛は黒いはずなのに、今は緑かかったアッシュグレイに染めた頭。ちょっと野性的な匂いを持っている『翼』。その雰囲気は商売柄か。
 そして彼は結構若い層を狙ったショットバーのバーテンダーをやっている。だから、帰りはこうした朝方が基本だ。

 いつものことなのに、自分の寝床にうずくまっている美波を見つけると、彼はいつだって驚く顔をする。
 そしてそれはちっとも変わらなくて、今夜もその顔でむっくりと起きあがる美波をただ見ているだけなのだ。
 やっと彼が、物を言う。

「なんだ、美波か」
「今夜はあの人、留守なんだ。嫌だよ、あの別荘に一人で眠るなんて」
「そうか。親父さん留守なのか」

 彼はホッとしたような顔をして、いつものように黙って、美波を放って置いてくれる。
 彼はジャケットを脱ぐと、『風呂に入る』と消えてしまった。
 二部屋とキッチンの狭いアパートだ。小さな部屋でも最近出来たばかりの物件を見つけ、彼は越したばかりだった。
 だが、部屋は相変わらず散らかっていた。

 彼は風呂から出てくると、いつものように下着一枚でベッドに転がり、シーツにくるまる。そして、あっと言う間に寝息を立てる。
 美波もあくびをひとつ。もう一眠りと彼の隣に当たり前のように横になった。いつからだろう。こうして肌が触れ合うような格好でも、全然気にせずに共に眠るようになったのは。なのに彼とは肉体関係に至ったことがない。
 こうして美波もショーツと白いティシャツ一枚で寝ているというのに。ちっとも男女関係に発展しない。だからこうして居着いてしまったのだろうか?
 彼は昔から美波にとっては『兄貴』のような存在。困ったことはまず、この頼りがいがある彼に相談してきたし、今も存分に甘えている。

「美波。親父と早めに縁を切った方が良いぞ」

 眠ったと思った彼が、背を向けたまま呟いた。
 この翼にだけ本当のことを話している。
 美波が言うところの旦那は父親であって、そして父親にそうするように言われていることを。
 だから彼は『アル』のことを父親と呼ぶのだが、瀬川父娘がやっていることに口を挟んだことなど一度もなかった。
 なのに今日はどうして? 美波はその疑問を背を向けて眠ろうとしている翼に向けてみる。

「どうして?」
「それから、あの情報屋が『ここで手を退かせて欲しい』と言いに来た」
「何故?」
「さあ、なにも言わなかったが困った顔をしていた。お前の父親が怖いのか、もしくは、あちらの家が恐ろしいのかどちらかだろう。つまり『首を突っ込んではいけないところに足を踏み入れていた』ということなんじゃないか」

 美波は黙り込む。
 あの情報屋、金を積んだら『なんだってやりますよ』と言う顔をしていたくせに。調べている先で何かを見たのだろうか?
 それは美波の父親か、もしくは軍隊に関わることなのか。あの新聞記事のように表には出てこないように封印されながらも、水面下では大事が起きようとしているのだろうか?

「言えるのは一つ。お前の父親は血の匂いがする。当たり前のような血の匂い。危険な仕事ばかりしてきたはずだ。巻き込まれるぞ。それからでは遅い。俺はそれだけが心配なんだ。いくら俺を頼ってくれても、俺はそんな人間から見たら、ただの若僧。頼りになんかならなくなる前に、途中からお前の側にいる父親なんか忘れてしまえと言っているんだ」

 ここまで彼が介入をしてきたのも、初めてだった。
 背を向けているが、話している言葉は切羽詰まっているようだ。
 美波はシーツをはね除け、起きあがる。

「なんでそんなことを言うんだよ!」

 自分でも、こんなことを言いたい訳じゃないのに、そう言っていた。
 すると翼がゆっくりと起きあがり、美波と向かい合う。目は真剣で怒っているようにも見えた。

「美波、寂しいのは分かる。おふくろさんが急死したショックも分かる。そして父親が帰ってきた嬉しさも分かる。だけれど、あの父親だけはやめておけ」
「……分かっているよ。あの父親、ちょっとおかしいような気もするよ。だけれど! 私はまだ、何にも知らない! 知るぐらいいいじゃないか!!」

 翼が頬を引きつらせ、でも次には哀しそうに諦めた眼差しを伏せた。

「……ああ、そうかもな。好きにしろ」
「するよ。放っておいてよ」

 だけれど翼の哀しい眼差しは、諦めの色から少しばかり熱帯びた目に揺れ始める。
 彼の大きな手が美波の両腕を掴み、そしてグッと美波を揺らした。

「だけれど、忘れないでくれ。お前は一人じゃなく、俺もいる。いつだってここに来ていいんだからな」

 何も言えなくなった。
 目の前の先輩が、こうして優しいのは自分のことを好いてくれているからなのだろうか?
 どこかできっとそうだと思いながらも、美波はそれを無視するように顔を背ける。
 そんな気持ち、今は要らない。不要だ。欲しくない。そんな男女関係なんか、興味ない。
 美波の目だけの訴えが通じたのか、翼は致し方ない顔で、美波を解放してくれた。
 そして彼はやっといつものように、シーツにくるまり今度こそ、寝付いたようだ。

 それから美波はまったく眠れなかった。
 どちらのせいで眠れないのか分からなかった。
 父親が悪い父親だから?
 それとも、翼の真っ直ぐな瞳のせい?
 胸がぐちゃぐちゃにかき乱されている。

 美波は翼が眠っているうち、日が昇って直ぐに出かける。
 いつも宛てもなく外を歩き回っているのだが……。
 あんなに寄りつきたくない別荘なのに、この日の朝は一番の列車に乗り込んで葉山に向かっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 居たくもないのに、この日は一日別荘で父親アルの帰りを待っていた。
 彼はメモで知らせたとおりに、昼過ぎに帰ってきた。

「ミーナ、珍しいなお前が昼間からここにいるのは」
「そういう日もあるよ」

 あんたこそ何処をほっつき歩いているんだよと、言いたいのに……。
 いつも聞けなくなるのだ。
 だけれどアルドはそうして黙っている娘をそのままにして、いつものように勝手気ままな行動をする。
 彼はコンビニで買ってきた弁当を、新聞を読みながら食べ始める。それが終わると缶コーヒーを手にしてなにやらぼけっとした顔でただ座っている。やがて何を思ったのか、トランプを並べて遊び始める。
 その時、なんの遊びをしているのかさっぱり分からないのだが。見る限り一人でポーカーをしているようで、様々な組み合わせをしているようだ。対戦相手は時には一人、時には三人、四人と様々だ。誰を勝たせるかというゲームではなく、どのカードを動かせばどんな結果が出るかを楽しんでいるよう……いや、顔はかなり真剣だ。そしてすごい集中力を発揮しているようで、飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばすのは、そんな一人ゲームが一息ついてから。

「お前も見るか」
「いいの?」

 実は美波。父親がやっていることの中でこれを見せてもらうのを楽しみにしてた。
 時にはアルからカードを渡され、どこに置けばいいかを聞かれることもある。その置き位置を考える時のドキドキする感覚。それが堪らなく美波を虜にしたのだ。そして良い位置を選ぶとアルドが『よし』と言う。
 だが、美波は後になって思った。──『やはり、私にはこの父親と同じ血が流れている』と。アルドはこういった『ひとりゲーム』を楽しんでいるように、美波もこうしたゲームを好む性質なんだと。
 そして父はカードではなく、本物の人間をカードにして遊んでいるのではないか? そう思えてきたのだ。

 そして今日も、美波は父が繰り広げるゲームのテーブルについてしまう。

 父は黙々とカードを切り始める。
 ところがいつまでも切っている。美波が首を傾げていると、美波の手元に一枚のカードが父の手から滑り込んできた。

「ミーナ、俺の目は節穴じゃないぞ」

 父の怒っているような声。
 手元に届いたカードはハートのジャック。

「松居翼、本名は松居芳雄。ショットバーの店員をしているな」
「いっただろう。ただの室蘭の先輩だって」
「そうだ。そしてお前はそこでたまに寝泊まりをしている」
「そういうことも、あったかな」

 美波は誤魔化そうとした。だが父は怒るどころか、妙に寛大そうな笑みを浮かべ淡々としている。
 またカードが一枚滑り込んでくる。
 めくると今度はスペードのキング。

「お前の父親は瀬川アルド。昔、お前が生まれた事を知りながら、知らぬふりをした男。突然、帰ってきて娘に『女房』と世間に言わせる不可解な父親」
「そう、だね。なんでなんだろう……」

 そうしてまたカードがやってくる。
 今度は二枚。クローバーのジャックとスペードのクィーン。

「クローバーのジャックとスペードのクィーンは、時々愛し合う。だけれどその愛は成就しなかった。何故なら……」

 美波の手元に滑り込んでくるカード。
 今度は『ハートのキング』

「何故なら、強力なハートのキングに奪われたからだ」
「な、なんの話なんだよ」

 するとアルドはにやりと笑いながら、美波の手元にあるスペードのクィーンを指と指の間に挟み、瞬く間に取り去ってしまった。
 しかしもう一枚、カードがなくなっているのに気がついた。それはスペードのキング……。つまり『アルド』を意味したカードだ。
 ふと父を見ると、アルドはその黒い同じマークのキングとクィーンを並べていた。

「俺は、このカードが欲しい。そして手に入れたら破り捨てたい」
「だ、だから……」

 何故か背筋がゾッとした。

「やっぱりハートのクィーンは味気なかったなあ。スペードのクィーンはいつまでも楽しませてくれる」

 すると彼はクククと笑い出す。
 まただ、また! 急にいつものアルじゃないような人間になる。

「ミーナ、会いに行っただろう? なかなかの女だっただろう?」

 美波の心臓がドキリと動く。
 何故なら、父親が指に挟んで美波に見せたカードが『スペードのクィーン』だったからだ。
 つまり父はスペードの女王を欲し、それを傷つけたい思いがある。そして美波が会いに行った女王とは……。一人しか思い浮かばなかった。

 やはり、父はあの栗毛の女性を狙っている!
 確信した時、だが父は何もかもを見透かしているようで、怒りもしなければ楽しそうに笑い、またカード並べを楽しむゲームへと戻っていく。
 美波は少しだけ後ずさる。
 この父親はまだまだゲームの途中。まだまだお楽しみの最中なのだと……。

(今度はどんな手で、あの人を狙うって言うのさ!?)

 しかもそれを娘に見届けさせるように、わざと誘っているように見えた。
 犯行を隠さない父。彼は娘に何が言いたいのか? それともただの楽しみか?
 まったく、分からない。

 なんだか気がおかしくなりそうだ!

 美波は頭を抱えながら別荘を飛び出していた。
 そして向かったのはやはり『翼』のところ。

 ……結局、帰るところなどは此処と彼処しかないのだ。
 二つに一つ。美波に与えられた世界はそれだけのような気がしてきた。
 そんな思いが膨れあがった時、美波の寂しい思いはふとした方向へと転換した。

 東京に辿り着き、美波が向かったのはあの病院だった。
 もう止められなかった。あの女性と話さなくてはならない。
 いつもの駅。そこにあるコインロッカーに立ち寄る。そこから大きなバッグを取り出す。
 美波はそれを肩にかけ、郊外の山崎総合病院へと向かった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 流石に今日は、庭木鑑賞も心から楽しめなかった。
 昨日のあの報告から、葉月は黙々と考えている。

 瀬川は『正義の男』。
 軍の重要な任務に手を貸し、功績となるようにサポートする。軍から信頼されている男だった。
 軍人を辞めた後、フリーになったようだが、父が言ったように軍から仕事をもらうようになったのは『ここ五年ほど』の事。それまでは、警備会社や護衛の仕事などを転々としていたようだ。どれもが信頼が厚くなければ依頼されないものばかり。

(本当に、本当にそんな正当な仕事ばかりしてきたというの?)

 軍が知らないだけで、もしかすると裏仕事にだって手を染めていたのでは?
 いや、違うと葉月は首を振る。中将である父が落胆していたように、実は軍隊も裏世界とは表裏一体。敵対しているからこそ、裏世界の情報は世間よりも掴みやすいポジションにある。軍が雇うとして『裏と繋がっているか』という身辺調査は契約前に徹底的に行うはず。しかしそれでも上手く隠す者もいるだろう。だとしたら軍を欺くことが出来る術を持っているやり手と言うことになる。つまり軍より一枚上手。もし瀬川がその類の男ならば、どうしようもない。それが父の言う『万が一』で、父は外部契約と言う手は使いたくなかったのだろう。
 それでも言えるのは、軍の評価は『信頼できる男』。例え、裏仕事に手を染めていても、それを隠し通した者が勝ちなのだ。瀬川という男は、そういう男。評価された以外のものは、有り得ない物と世間は判断する。

 生きている世界の、小さな盲点をくぐり抜けてきた『男』なのだ。きっと……。なんて手強いのだろうか。

 だからとて。泣き寝入りを続けるのか?
 正義の男がそんな犯行をするはずがない。そう思い込んでいる御園はおかしい。世間から、そう指されるのだろうか?
 父が言っていた。彼が軍内で評価を上げている以上、軍の中でもある地位を得ている御園が彼を攻めれば、『評価を妬む陰謀』だと言われる可能性があると。それも狙い? それも幽霊の作戦? そうして御園が身動きできなくするために? 五年前から父の目になるべく入らないような活躍をこつこつと続け、欺きながら軍と手を組んだのか? だとしたら、なんて用意周到な男だろうか? 物の見事に御園が動く前に、御園の動きを止めてしまっている。しかも数年前から、彼は先手を打ち準備をしてきたことになるだろう。

(私の記憶が戻った場合の、保険だったのかしら)

 葉月は目の前にある緑色の葉を握りしめ、ぶちっと乱暴にちぎっていた。
 きっとその時の顔は、あの男の顔を思い浮かべている憎々しい顔……。

「そんな顔、しないでよ」

 またそんな声がして、葉月が振り返ると、またあの黒髪の女の子が立っていた。
 今日の彼女はなんだかとても切羽詰まった顔をして、そして息を切らして急いでここにやってきたと言った様子だった。

「貴女、また……どうしたの?」

 すると彼女は大きな鞄を肩にかけた格好で、なんと、そこにある垣根を片手で身体を支える格好で飛び越えてきたのだ。
 見ただけでその運動神経の良さが窺える身の軽さだった。だが、葉月は息を止めてしまうほど、驚いた。

「や、やめなさい! ここに入ってきてはだ……め……」

 だけれど彼女は左右を見ながら、真っ直ぐに葉月の車椅子まで向かってきた。
 その時には既に左右から、ジュールの部員達が彼女を挟むように向かってきていた。
 彼女の目と神経は既に垣根を越えた瞬間から、左右を警戒していたと分かった葉月は、その勘の良さにも驚き固まった。
 一瞬だった。黒髪の彼女は葉月の車椅子の後ろを取ると、持っていたバッグから何かを取り出している。その隙に、左からジルとその後輩が、右からカルロと数名の部員がざあっと車椅子を至近距離で取り囲むように向かってきている。
 だが、彼女の方が僅差でその場を制した!

「動くな! 動くとこのお嬢さんの頭をぶち抜く!!」

 黒髪の彼女が葉月に向けたのは……ボウガン。
 それを知って、葉月の頭が一瞬真っ白になる!

 ボウガン。ボウガンと言って頭に浮かぶのは一つしかない。
 婚礼前夜の襲撃で使われた武器だった事と、ジュールの見解で『今、狙われるとしたら幽霊』しかない事、だがジュールが追った女性が若い女性で、それがもしかするとジュールの調べで分かった『室蘭の娘』だったのではないかと言うこと。

 つまり、それが全て当てはまっているというならば……!
 今、葉月の側にいるこの女の子は……。

(瀬川の娘!?)

 その時、葉月は思い出す。
 昨日会った時、彼女の顔を何処かで見たことがあると思ったことだ。
 整形する前の若い頃の瀬川の面影があることだ! そして眼の色、瞳の色も彼女はグレーで緑っぽい色で、彼のように日本人離れをした美人だということだ。

 この娘、いったい葉月をどうしようと言うのか?
 だが、葉月には昨日の彼女が忘れられずにいた。 

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