-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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10.小鳥と翼

 仕事をしている隼人の手元、デスクの内線が鳴る。
 それを手にして受話器を耳に当てると、ジョイの声。

『宇佐美重工の佐々木様からです』
「有難う」

 隼人の耳に、内線から外線に切り替わる音。

『お世話になっております。宇佐美重工の佐々木です。昨日は有難うございました』
「お疲れさまです。いいえ、こちらこそ思いがけず楽しいお話をさせて頂きまして……」
『わたくしも、ですわ……』

 彼女のしっとりとした声。
 確かに彼女は、可憐な女性だった。
 青柳には悪いが、奈々美に会って隼人は一目で『男が好きになりそうなタイプ』と思ってしまう小柄な美人だったのだ。
 同窓生として『これじゃ負けるよ、青柳も負けるな!!!』と叫びたくなるほどの違いだったのだ。

 彼女とは洒落たカフェで二時間ほど話をした。
 真面目な話半分、あとはどうでも良い親交を深めようとする雑談だ。
 葉月が、佳奈から聞いたという『女の匂わせる浮ついた悪そうな癖』などは一切見られなかった。
 向こうも隼人が大佐嬢と結婚したばかりという話を聞いて、普通に祝いの言葉をくれただけだ。

『昨日、お申し出があった大佐嬢に見せたいというベースですね。土曜には出来そうなんです』
「早いですね!」
『ほら、中佐が週末はこちらに奥様の元に本島に来ると仰っていたでしょう。早くお渡ししたいので急ぎましたの』
「そうでしたか。そこまでお気遣い下さいまして……」
『出来ましたら、都内でお会いできませんか?』
「そうですね。でしたら……」

 彼女のゆったりとした落ち着いた声に、なんだか支配されているようだと隼人はハッとした。

「……申し訳ないのですが。せっかく気遣ってくださり、早急にこちらの要望に応えてくださったのは感謝致します。ですが、今回は、日曜の夕方でも構いませんか?」
『……ええ、それでも構いません』

 少し彼女の声が沈んだ気がする。
 つまり、隼人は『休暇中はプライベートが優先』とさりげなく言ったつもりで、それが小笠原に帰る夕方に受け取ると遠回しに返事をしたことになる。
 土曜日に都内で受け取るとなると、妻との時間を多少割くようになってしまう。
 本当に切羽詰まって急いでいる仕事なら、休みだろうがなんだろうがすっ飛んでいくだろうし、隼人が躊躇っていても妻である大佐嬢が背中を蹴ってでも隼人に行けと送り出すだろう。
 しかし、今回はどちらかというと『ただのサンプル』が出来上がったに過ぎないし、大佐嬢が試し段階の非公式上のビジネスなのだ。

 彼女と日曜の夕方、待ち合わせる話をまとめ、隼人は電話を切った。
 もしかして、どのような感覚をもつ男か試されたか? と、隼人は唸った。
 土曜に仕事で会いたいと言って、いともあっさり出てくる仕事男か、もしくは下心が見え隠れする男か、それとも仕事よりも甘くプライベートを躊躇いなく選ぶ男なのか……と。この場合、隼人は後者の『甘くプライベート』だ。
 まあ、彼女の中で『仕事を選べない男』と下にランク付けされても、一向に構わないのだが。今は何を置いても『妻が優先』の状況。

 そうして、この女性と同窓生の彼女と、フロリダにいるお嬢さん大尉をそれぞれに思い浮かべ、隼人は唸る。
 三人三様だ。当たり前だが、個性がはっきりと別れていると思った。そして一番付き合いにくそうなのが、佐々木奈々美だ。マリアが思いっきりわかりやすいなら、彼女は何を考えているか解らないだった。隼人の中では要注意マークが点滅中。

 そうして元の仕事へと手元を戻すと、今度は側に置いている携帯電話のバイブがブーブーと音を立てる。
 隼人はおもむろにとって、パネルを開けてみるとそれは『ジュール』からだった。今回、彼が日本に滞在している間だけだという携帯電話番号。それは『緊急の際に』と言うことでジュールから預かった番号。それが表示されている!
 隼人は『何かがあった!』と直ぐに思い、慌ててボタンを押した。

『隼人様、お仕事中に申し訳ありません』
「構わない。何かあったのか?」
『ええ……実は……』

 いつもの落ち着いているジュールの声、だが彼の急ぐ声。
 その彼が告げたことに隼人は驚いて席を立った。

 いつものように庭を散策していた葉月の元に、幽霊の娘が飛び込んできて、葉月をさらっていったというのだ!

「なんでそんなことになったんだ! 純一兄さんも側にいたんだろう!!」
『それが……』

 ジュールの短い報告に隼人はまた驚く。
 なんでも、それは葉月が望んで連れて行かれ、そして純一がそれを自ら手放し見送ったと言うのだ。
 隼人はこぶしを握って震えた。

「に、に、兄さんに『馬鹿野郎!!』と言ってくれ!!!」
『かしこまりました……それで……』
「ジュール! 俺も直ぐに行く、直ぐに迎えに来てくれ!!」

 隼人がそう言うだろうと思って、今、ナタリーがセスナで迎えに向かっていると言うのだ。
 ジュールの手早さには隼人は感謝をするが、義兄妹を止めてくれなかったことには、隼人も思わずジュールに文句を突きつけてしまっていた。

 今、達也は会議に出ていていない。
 それでも隼人は荷物をまとめて大佐室を出る。

「ジョイ。本島でまずいことが起きた」
「え? あっちでなにか?」
「……あとで連絡する。ナタリーが迎えに来るんだ。悪い、早退する」

 ナタリーが……という名が出て、ジョイはそれだけで『大事が起きた』と察してくれ、二つ返事で見送ってくれた。

 隼人は急いで外に出る。
 そしてまだナタリーが来る時間ではないので、ひとまず丘のマンションへと向かった。

 

 この部屋の主が帰ってくるのはまだ先だと思うけれど、それでも隼人は綺麗に掃除を済ませていた。
 いつ妻が帰ってきても良いように。すぐにここで一緒に生活が出来ることを思い浮かべながら……。

 その部屋に急いで帰ってきて、隼人が向かったのはその妻の部屋。
 結婚する前も、二人で何度も愛し合ったその部屋にあるベッドの下を覗き込み、隼人はそこからジュラルミンで出来ているケースともう一つのケースを。そしてクローゼットにしまってあるケースも。その三つを並べ、それぞれを指さし唸る。

 隼人が知らないうちからあるヴァイオリン。
 隼人も彼女がそれを手に入れた時に立ち会っていた祖母と従兄の思いが詰まったヴァイオリン。
 そして最後は……。

「よし、これにしよう」

 隼人が手にしたのは、最後に指さしたヴァイオリン。
 まだ彼女がそのヴァイオリンで演奏をしているのを目にしたことがない。
 おそらく、彼女も避けていただろうし、そして隼人も目を背けていた。
 だが、このヴァイオリンは今ならこう言える。──『義兄さんと俺の思いが込められているヴァイオリン』。
 彼女がこれを弾いた時『俺達の共犯』は、初めて許されるだろう。そう思えたのだ。

 あとは彼女の日常の持ち物の中に紛れている楽譜ファイルも手に取り、そして隼人は最後にジュエリーボードに目を向ける。
 彼女がいつも目にしていたい物を並べているガラス窓の棚に並べられている数々の置物。
 真ん中に置かれている『ガラスの天使』。

「さあ、ママのところに行くんだ」

 ガラス窓を開け、隼人は躊躇わずにその天使を、初めて手に取る。
 彼女のクローゼットから取り出した花柄のハンカチに、その天使を丁寧に包み込もうとする。
 その子の顔が見えなくなる前に、隼人は呟いた。

「お前のママは、ほんっとうにお転婆だよ。俺達、きっと苦労が耐えない。それでもいいか? 俺は良いと思う……」

 隼人は一瞬だけ微笑んだ。
 だが、直ぐに顔を引き締める。

「この闘いが終わったら、きっと、俺達はまた会える。その闘いが始まった気がするよ」

 ──見ていてくれ。

 去年は、大人である自分たちがどうしようもなかったから、この子は来ることが出来なかったのだ。
 隼人はそう思い、今度は乗り越えてみせると、その子を丁寧に包み、自分の胸ポケットにしまい込んだ。

 ヴァイオリンケースと楽譜、そして胸には天使。
 何故だろう? それらは武器ではないのだけれど、隼人にとってもそして妻にとっても最大の武器にも思え、隼人は迎えを待つ。

 暫くして、電話が鳴ったのでマンションの駐車場を見下ろすと、そこには真っ黒い繋ぎ服を着た栗毛の女性が車から降りてくるところ。

『おまたせいたしました、隼人様。お迎えに参りました』
「有難う、ナタリー」

 隼人は荷物を手にして、制服姿のまま外に出る。
 ナタリーが運転する車は小笠原の小さな民間空港へと向かう。

「いつ、葉月は外につれられていった?」
「午後の二時頃です」

 隼人は純一からもらった腕時計を眺める。
 もう、だいぶ時間が経っているではないか。

「あの兄貴め。まったく本当に、どうして……。そんなところで兄と妹の息が合わなくても!」

 もっと他のところで合わせればいいものを……。
 もうすぐ夕暮れだ。きっと隼人が本島に着く頃は夜になっている。

「ご安心下さい。今、葉月様がつれられていったアパートはボスを筆頭に包囲していますから」
「では、娘も包囲を抜けられないなら、幽霊も近寄れないということか……」
「そうなります」
「乱暴をされていないといいのだけれど」

 そこは隼人を不安に陥れるかのように、ナタリーが黙り込んでしまったのだが……。

「少なくとも娘は、お嬢様を丁寧に扱おうとしているというジュールからの報告ですが」
「それでもだ。急いでくれ!」
「かしこまりました」

 彼女はふっと微笑みながらアクセルを強く踏み、車のスピードをあげた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 予想したとおりに、千葉の民間空港へ辿り着いた時にはもう、空が暗くなっていた。
 隼人の焦れる思いをなるべく早く解消させて欲しいという願いを叶えてくれるかのように、ナタリーの移動手段は待ち時間など一切作らず、セスナが着けば直ぐに車に乗せてくれ、渋滞している道を避け、短時間で隼人を都内へと向かわせてくれる。

 その車は都内の住宅地へと辿り着いた。
 ナタリーが路肩に車を寄せ、フロントガラスを指さした。そこには白いアパート。

「あのアパートです」
「そうか。兄さんは……」
「今、連絡をいれさせましたので、もう直にエドが迎えに来ます」
「ジュールは」
「山崎病院の家で、待機中。そこを作戦本部にして彼があらゆる手配を任されています」

 黒猫の体勢は整っているようで隼人がホッとしたその時、隼人が乗っている後部座席に人の影が。
 彼が拳で軽く窓を叩いた。エドだった。

「お帰りなさいませ。隼人様」
「ご苦労様。義兄さんのところにつれていってくれ」
「ボスもお待ちです」

 『お待ちじゃないだろう、この野郎!』 と言いたいが、それは純一に言うべき事だから、隼人はエドの前ではグッと堪えた。

 

「よう、来たか」

 そしてその男は、黒い車のドアを開けて悠然と出てきた。
 口の端にくわえ煙草、隼人を見て微笑みさえ浮かべているのだ。
 隼人は拳を握ってわなわなと震える。そしてその拳は、目の前に現れた憎たらしい男へと真っ直ぐに撃ち放たれる。

「兄さんだから任せていたのに、どういうことだっ!」
「おっと、危ないだろ」

 隼人がまっすぐに打ち込んだ拳すらも、彼はひょいと身体を半身に交わす。拳は空を切るだけで不発に終わった。
 だが、隼人もこれだけ怒ってやってきたと言うことを知らしめたいだけで、本気で命中させたい訳じゃない。だからその一発でやめたが、怒りは収まっていない。

「いや。葉月の目が『行かせろ』と言っていたもんだから」
「怪我をしているんだぞ! まだろくに回復もしていないのに、いつ帰ってくるかわからないような状況に目をつむって放り込んだも同然だ!」
「その通りだ」

 それすらもしらっと正面から受け止める純一に、隼人は余計に頭に血が上る。
 まだあれこれ言い訳するなら、まだしも、『ああそうだ。そういう悪い事をしたかもな。それで?』と言う顔をしているから、腹が立つのだ。

「まあ、落ち着け。少し、面白いことになりそうだぞ」

 大事な妻を預けていた義兄が、あっさりと敵陣に送り込んだことは、隼人にはまだ納得は出来ない。だが、純一はなにやら見抜いているようで、落ち着いた様子で隼人に缶コーヒーを差し出してきた。隼人はそれをとりあえず受け取る。まだ、暖かい缶だった。

「今から、葉月が連れられた部屋が見えるところに移動する」
「その娘の部屋なのか? まさか幽霊のいる場所……」

 緊張を募らせる隼人は、そこまで思いついて血の気が失せる思い。だが純一が首を振る。

「いや、若い男の部屋のようだな。借り主である男の知り合いが出入りしているようだが、その知り合いらしき男二人、先ほど出ていった。今、部屋には娘と葉月だけだ」
「男が? な、なにもされていないだろうな」
「されていないと思う。娘と葉月がその部屋に入ってから、僅かでその男達が出てきた……」
「僅かでも危ないだろ!」
「まあ、そうなのだが……。あの娘がいるかぎり、葉月は手荒なことはされないと判断している」

 その判断、確実ではないではないかと、隼人は再び純一を殴ってやろうかと拳を握ったが……。むしろ純一の判断よりも、妻の判断を信じてみようという考え方に変わってくる。
 隼人は拳を収め、乱れた息遣いも整えようと深呼吸をする。

 車で移動すると、暗い夜空にぼんやりと浮かび上がっている白いアパート。
 葉月が連れられたという部屋を、隼人は何時間でも眺めていた。
 灯りはついているが、ドアが開き、人が出てくる気配は一向に見られない。

 同じ後部座席に座っている純一が、隼人が足下に置いたヴァイオリンに気がついた。

「それは──」
「あ、ああ……。葉月にヴァイオリンを持ってくるように頼まれていたんだ」
「そうか」
「葉月は三つヴァイオリンを持っているけれど、俺はこれを選んできた。──アマティを」

 すると流石の義兄も、少し驚いた顔で隼人を見た。
 隼人と純一はそこで同じ時期を思い返し、そして同じ事を思っているだろう。二人は暫し、無言で見つめ合っていた。
 だからとて、あの時はどんな気持ちで義妹にそのヴァイオリンを贈ったとか、小笠原に帰ってきた葉月を心から受け入れた時、どのようにして葉月から『義兄の願いが込められたヴァイオリン』を知らされたかも、お互いに話したりはしない。

 ただ、今、ここに。
 義兄の願いが込められたヴァイオリンを、義弟となった男が選んで持ってきた。
 それだけで、二人の気持ちも一つになったと隼人には思えた。

「葉月の音は、すごく変わった。初めて聞いた時のような、寂しそうな重さが薄れ、凄く情熱的で。前よりずっと……。だけれど俺はまだ、このヴァイオリンを演奏している彼女を見たことがない」

 そうして話す隼人を、純一はただ腕を組んで黙って聞いているだけだった。

「葉月は、義兄さんの願いをちゃんと理解しているようだった。そして、『俺達の共犯』も、ばれていた」
「……なにもお前さんと手を組んだ覚えはないけれどなあ」
「でも、俺達の間で、葉月は『俺達を選ぶことが答ではない』という『答』を見つけてきていた。俺が答じゃなかったことは、俺には残酷なことだったけれどね」

 さらに純一は黙っているが。だが、うっすらと車の窓に写って見える彼の憂いを含む伏せた眼差しに、彼こそ『本心のまま連れ去って行けなかった』と言う虚しさと、『そしてそれも、義妹の答ではなかった』と言う寂しさと、それを見つけて自分の手元から飛び立っていく日を見送れた嬉しさと……。そんな複雑な哀しい心境を隼人は見た気がした。そして彼のこの心境を誰よりも分かり知っているのは『共犯だった俺』だけだと隼人は思う。

「見たいと思って、聴かせて欲しいと思って、これを選んできた。義兄さんにも、一緒に見届けて欲しい」

 隼人がそう言っても、純一はやっぱり横顔を見せたまま、なにも言ってくれなかった。

 

 春めいてきたとはいえ、まだ桜も咲かない夜は、時間を追うごとにしんしんと冷えこんでくる。
 妻は、満足できるような環境にいてくれているだろうか? お腹は空いていないか、寒くはないか、そして……傷は痛まないのか。
 隼人はただじいっと、灯りがついたままの部屋を見つめていた。

「眠らないところをみると、娘は一晩中、葉月が逃げないように番をする覚悟だな。どうやら、話は進んでいないようだな」

 まだ焦ってはいない様子の純一の判断。
 それは当たっているのだろうか?

「話って……なんだろう」
「ジュールから初めて聞かされたんだが、俺に『瀬川先輩』のことをいつ話そうかと葉月が迷っていた間にも、娘の方は、葉月が気になったらしく『うち』の周りをうろうろしていたそうだ」

 純一のその話に、隼人は驚きを隠せなかった。
 では……数日前からこのような状況に突入していたと言うことになるではないか。

「ナタリーから聞かされたけれど。その娘という彼女、ボウガンを持って乗り込んできたらしいけれど、やっぱりあの晩の?」
「間違いないだろう。俺と右京が思うに、あの娘……、婚姻前夜にワザと襲撃をしたのではないかと思っている」
「何故……? まさか……」
「そうだ。おそらく、葉月の結婚を知って父親が阻止しようとしていたか、ぶち壊そうとしているのを予感したのだろう。なにせあの娘が一番近くで『幽霊』を目にしているのだから。家族なら『そんなことはやめて欲しい』と思い詰めたことだろう。あれは彼女の賭だった。『明日、危ない』──俺達に知らせてくれたのではないかと俺は思っている。お陰で、俺達の警護は今まで以上に厳重に極めた。だから、流石の幽霊も近づけなかったのだろう」

 その話を聞いて、隼人も徐々に不可解だったことが繋がっていく気がしてくる。
 ひとつ息をついて、隼人は思う。

「じゃあ、彼女は……俺達を助けてくれたのか」
「俺達じゃない。彼女にしてみれば、父親を助けたという気持ちの方が強いと思う。そして、彼女は今もなんとかしようと奮闘しているんだ」
「それで、今度は……葉月を?」
「昨日、葉月に話しかけていたそうだ。カルロは知っていたから遠ざけようとしたのだが、ジュールは放って接触をさせたんだと。だから、今日の彼女の思い詰めた犯行も、ジュールにしてみれば『計算ずく』らしいな」

 純一が深い溜息をついて、ちょっと情けない顔をしていた。

「俺が、新事実を知らない間、お前達がなんとかしてくれていたと思うと情けないばかりだ……」
「いや、義兄さんは何も悪くない。けど、驚いた。ジュールはそんなことで、幽霊の娘をこちらに引き寄せていただなんて」
「それで、ついに幽霊の娘の我慢がきかなくなり、ジュールの仕掛けた罠に飛び込んできたというところだ。その時、あの『チビじゃじゃ』のとんでもない感がびんびんと働いている顔をしていたのでね。俺もそれに乗ってしまった」

 つまりジュールが手ぐすね引いていた『籠』に、幽霊の娘はまんまと引っかかり、そして捕まった小鳥を葉月がその手に乗せていると言うところらしい。

「すこし、安心した」

 妻の身体は心配だが、大佐嬢としてのじゃじゃ馬奥さんを存分に見てきた隼人は、あの奥さんのこと……上手くやっていると思えた。
 それで純一も落ち着いていると分かり、ホッとする。

「だが、俺達の当ては外れたな。きっと葉月もがっかりしているはずだ」

 当てが外れたのは、ジュールも既に掴んでいた場所に葉月が連れ込まれたからだそうだ。
 あの娘はまずこの若い男の部屋に立ち寄ることが多いらしく、その後の尾行は幽霊に近づいてしまうだろうから、ジュールも今のところは慎重第一、『下手な接触』を怖れて徹底的に追ってはいないとのことらしい。
 だが、娘が動いたと言うことで、何かしらの情報が得られるかも知れない。──葉月は、そして純一もそこでこちらの有利となる情報が手にはいるのを待っているところとなるようだ。

「助けを求めてこないところをみると、何か情報があると思って粘っているように思える。葉月のことだ、あの『罪なき娘』に自分と父親の関係をべらべら喋っているとも思えない。娘も葉月を手放せないところだが、目的がすんなりと達成せず、さらに自分の犯行がそうさらりと見逃してもらえる訳がないと焦っていることだろう。彼女の焦りで平常心が崩れる頃と葉月の身体の限界から見ても、夜が明けたらこっちもそれなりの行動を起こさねばならない。隼人、どうするか?」

 自分の近しい人間が憎き宿敵と知って、どうしているかと心配したが、こうした判断をテキパキとしている義兄を見て、彼も落ち着いていると隼人は安堵する。
 そんな彼に任せられるとは思えど……。だが、隼人は『帰るか、どうするか』の問いへの返事は一つしかなかった。

「勿論、俺自身が妻の無事を確かめるまでは、帰らない」
「分かった。それがいい」

 また小笠原には迷惑をかけるが、ここが正念場なのだ。
 隼人は胸にいる天使をそっと握りしめる。

 妻が、そしてお前のママが無事に俺達のところに戻ってきますようにと……。

 寒さが増すように、夜も音もなく更けていく──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼は白いジャケットを脱ぐと、リビングの端で毛布にくるまっている美波の元に歩み寄り、そこから携帯電話をひとつ手に取った。
 手に取った携帯電話は葉月のもの。彼はそれを無言で葉月に差し出した。
 葉月がそれを手に取ると、彼が『静かにするように』と口元に一本指を立て、そこに座るよう手振りだけで葉月に促してくる。

 葉月がそこに座ると、彼がすぐ隣に腰をかけてきた。
 側になんとなく置かれているメモ用紙を手に取り、彼はそれを二つの束に分けて、一つは葉月の前に置いた。
 ペンを手にした彼は、早速、そのメモ用紙に何かを書き始める。

『美波は俺達に何も喋らないので気になって調べました。そして先日、貴女のことをやっと突き止め、だいたいのことを知りました。美波に聞かれても困るし、彼女の父親に聞かれても困るから、筆談で』

 葉月はその文章に驚き、翼を見上げた。
 あのふざけた彼等が言っていたように、彼はこの彼女のために奔走していたのだと、これだけで分かる。
 そして、軍人である葉月を驚かすこの用心深さ──。そう、彼等はもう彼女の父親と対峙する構えを既に整え、闘い始めているのだと思い、葉月は驚いたのだ。
 葉月もペンを握る。

『どうやって、私のことを?』
『美波は、思うところあったのか、病院のあの一軒家に入院している貴女のことをとても気にしていたから』
『彼女は私のことを、なにもかも知っているのかしら?』
『いいえ。だけれど美波は貴女のことが知りたいと……。いや、あの一軒家にいる人間がどのような人間がいるのか知りたがり、思わぬ大金を持ってきて情報屋を雇ったくらい。その情報屋が口の堅いスタッフが揃っている中でも、それほど気が引き締まっていないスタッフを狙って手に入れた情報が……その一軒家には資産家のお嬢さんが入院していて、直に結婚をすること……。それだけ。それだけの情報でも、美波はなにかしらショックを受けた顔をして、数日、落ち着かない様子で、家には落ち着かずうろうろしては帰ってきて、帰ってきては苛々して外に出ていく。その様子を繰り返していた。そして貴女の結婚式の前の晩だったんだと思う。酷く興奮し、ボウガン片手に泣いて帰ってきた……』

 葉月はあの夜のことだと直ぐに分かり、ペンを握る。
 その婚姻前夜の日にちを書くと、彼が『間違いない、その日だ』とばかりにこっくりと頷いた。

『彼女の襲撃で、その晩はちょっとした騒ぎにはなったけれど、次の日には無事に結婚することが出来……』

 葉月はそこまで書いて、ふと気がついた。
 この優しい子のやること……。今までは幽霊の娘だなんてと目を背けていたのだが、彼女がやろうとしたことがたった今、見えてきた気がしたのだ。
 ペンが止まってしまった葉月が気がついたこと、それを翼が悟ったように、その気がついたことをサッと書いてくれる。

『たぶん、きっとそう。貴女の結婚は、狙われていたんだと思う。彼女の“連れ合いの男”にね。そして美波はその男が犯行を実行しないよう、貴女達に警護をしっかりするようにと警告をしたんだと俺は思う』

 連れ合いの男という言葉を見て、葉月は彼に答を求めるように顔を見た。
 彼はさらに、メモ用紙にさらさらと長い文章を綴り始める。

『俺は同じ高校だったのだけれど、美波とは共に在学をしたことがないOB。彼女と同じ時期に在校していた直接の先輩というのは昼間の二人。俺は今は二十八……』

 二十八歳と来て、葉月は驚いて彼を見た。
 そして思わず、『私も二十八歳』と綴ってしまう。すると初めて彼が親しげな笑みを見せてくれた。
 だが、翼の筆談は長く長く続く。

 彼が先ほど綴ったように、同じ高校の卒業生ではあるけれど彼女と出会ったのは、彼が室蘭の店で働いている頃にあの『ふざけた二人の後輩』が連れてきて出会ったとの事。そして親しくなっていったのだが、美波はその頃から『私には旦那がいる』と言っていたらしい。あの二人組の男に聞けば『いつの間にか男がいて、その男には会わせてもらえない』と言う話だったそうだ。美波は『旦那がいるから、旦那がいるから』と言っては、男性達を避けてきたらしい。

『俺が東京に出てきたのも、実はそうして美波にこっぴどくふられたから……』

 ちょっと照れくさそうに綴り、彼がちらりと葉月を見て笑った。
 葉月は安らかに眠っている美波を見る。

『彼女、美人だし、なんと言っても優しいもの。分かるわ……』

 そう綴ると、彼は自分のことのように嬉しそうに笑い、さらに照れているのだ。
 分かる気がする。きっとあの二人組の彼等も美波のことが気になる存在だったのだろうなと。
 そこは安心できるが、安心できないのはその彼女についている『連れ合いの男』だ。
 きっと、翼にとっても思いを寄せる彼女にとって良くないことだと気になって仕様がないところだろう。

 さて、彼はいつからその『連れ合いの男』が父親だと判ったのだろう?
 葉月がそう尋ねると、彼の筆談が始まる。

『彼女は住所不特定というのかな? その旦那についてあちこち旅に出ては、室蘭に帰ってを繰り返していたから、なかなか会えなくなったりなんてしょっちゅう。それを繰り返している内に良い切りだと思って諦め、上京の道を選んだ。それでも未練かな、美波に何か困ったことがあったらと連絡先だけ渡していた。そうしたら、その美波が突然、この関東に出てきて、訳も言わずに時々逃げるようにここを頼るようになって』
『それは年の瀬ね? その男が関東に出てきて呼び寄せられたということね?』
『そう、おそらく。その頃から、彼女は俺の家にちょこちょこ泊まり込むようになった。それが酷く不規則で』
『いつから、彼女の連れ合いが“旦那”じゃなく“父親”だと?』
『それも、美波の心理状態がよく分からないけれど、ある日突然に教えてくれ……』

 彼の筆が止まる。彼は複雑そうな顔で美波を見つめ始める。
 だが、葉月には分かった。美波が突然に翼にだけ真実を打ち明けたのは、彼に助けを求めていると同時に、信頼を寄せているからだ。
 そして葉月には、はらわたが煮えくりかえりそうな怒りがふつふつと湧いてきた。
 美波は父親の瀬川に意のままに操られているのだと。父親が娘に『俺の女房と言え』と言いつけているその真意は分からないが、若い彼女にとってはもの凄い重さの秘密だったに違いない。だけれど、たった一人の家族だからきっと……。
 そして翼も思ったことだろう。今の葉月と同じ怒りをその時に感じたはずだ。

『──その時から、彼女の父親は危ないと思った。それ以上に、美波が妙な大金を使って情報屋を雇いたいと言い出したり、ボウガンなんかを持っていたり、妙な様子ばかり見せ始めたり。情報屋に貴女がいる一軒家の事を調べさせていたから、俺達は独自に……』
『独自?』
『美波のことで信頼できる後輩だったからあの二人を室蘭から呼び寄せた。彼等も本当によく動いてくれたよ。俺達だけで色々と調べた』
『では、彼等の独自の調査で、私が“御園”だと?』
『そう。そして貴女が治療している理由、小笠原の隊員であること、そこから辿って、十二月に起きた事件に辿り着き、美波が気にしていることから、事件の犯人は【美波の父親】ではないかと行き着いた』

 そうだったのかと、葉月は翼を見つめた。
 そして今日、二人はそれぞれの思うところはあるが、それでも何故か『美波』と言う優しい女の子を経て、やっと出会えた気持ちでお互いを見つめた。

『……と言うことは、あの二人はふざけた顔をしているけど、かなり優秀ね。彼女が金を積んだ情報屋より、情報を集めたってわけね』
『頭が良いよ。特に髪の短い方。単独行動での独自調査は、室蘭時代から出来る男だった。あんななりだけれど、フリーでやっているんだ。一緒にいたのは彼のアシスタントとでも言おうかな』

 元は『不良』と言われる類の仲間に属していたと翼は教えてくれたが、彼等は自分たちの生き方をしっかり持って今の『フリー』をしているとのことだった。
 葉月はやっぱり……と、思った。ふざけた顔は仮面だったようだ。仕事で使える顔を垣間見せたのは間違いなかったと。
 その彼が、あの一軒家にいるのは『鎌倉の資産家の一人娘。小笠原基地に勤めている御園葉月』という事まで調べたのだそうだ。
 葉月はもう一度、あの男に会いたくなってしまった。それぐらいの仕事をやってのけていたようだ。
 それで翼が葉月を一目見て『御園葉月』と言ったのは、昼間に会った彼が、美波が連れてきた女にあの新聞記事を突きつけ『あんただろう』と聞き、葉月がそうだと答えたことで『間違いない。御園葉月を美波が連れてきてしまった』と翼に報告したからなのだろう。

 これで、『室蘭チーム』の実体と実力は分かった。
 さて、ではお互いに繋がったところで、今からどうするかだった。

『彼女は、私と父親の間にあったことを知りたがっているわ』
『どんなことが、あったのだろう』

 翼の質問に、葉月のペンは動こうとして動かすことが出来なかった。

『話せないならいい。俺に話せないなら、きっと、美波には聞かせたくないこと……。なんだろう?』

 葉月は、こっくりとだけ頷く。

『だったら、昼間そうしてくれたように、なるべく美波には知らせない方向で行こうか……』

 翼の美波を思う気持ちに、葉月はさらに強く頷いた。
 そして翼は最後に、気になることをひとつ教えてくれた。

 あの髪が短いふざけた彼は『テル』と呼ばれているそうだ。彼は今独自のフリーの仕事、つまり『何でも屋』と彼は言っているらしいのだが、その彼がこの部屋以外に何処に帰っていくのか美波をつけたことが何度かあるらしい。

『それがあの男が何度も見失う程に、美波の父親へ会いに行く手段は手が込んでいるそうで……』

 葉月の胸がドクリと脈打つ。
 つまりそのテルという男は、幽霊の居場所を突き止めたのか? そんな話に流れていきそうな予感がしたのだ。

 だが、翼のペン先は『結局、テルも未だに掴めず……』との事。
 葉月の胸の脈は、知りたかったくせに何故かホッとしたように鎮まってきたのだが、やがて翼が思わぬ事を記し始める。

『だけれど、だいたい見失うのは葉山だそうだ。何か心当たりは……?』

 もう一度、ドクリと葉月の胸が脈打った。
 今度の脈打ちはかなり大きく、ゆっくり……。しかもその脈が言葉を喋るように何度か動く。その脈がこう言った。

【葉山。葉山ならあそこしかない】

 胸から熱い血が吹き出るような思いだった。

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