-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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12.男の密会

『早速で申し訳ありません。会えませんか?』

 本当に早速、隼人の携帯電話に彼からの連絡が入る。
 彼が言いだしたことに、隼人はやや戸惑い……、だが『会おう』と返事をした。
 しかし、彼の希望が『彼女達には内緒で』と言うことだった。

 

 明け方、山崎の病院に着くと待ち構えていた山崎院長とジャンヌに、葉月を任せた。
 傷の診察、いつもの手当。そして葉月の疲労を考慮した治療から、葉月はすぐに眠ってしまったのだ。
 純一は『亮介と登貴子に説教をされる』と言っていたが、そんなことはなかったようだ。それよりも亮介と顔を突き合わせ、ジュールと共になにかを懸命に相談している。登貴子は当然、帰ってきた娘の側に付き添っている。母娘もお互いを気遣う様子を見せただけで、喧嘩にもならなかったし、登貴子の説教もなかった。

『先にジルを向かわせていますが、今から私も行って参ります』

 純一が帰ってきたのを見届け、ついにジュールが葉山へと向かう。
 御園家のリビングに緊張が走る。
 日が昇る頃、ジュールから連絡があったようだが、今は『距離を置いた張り込み段階、変化はなし』との事だった。
 今日は金曜日だ。本当なら、この日の夕方、妻が待つこの家に週末帰省をする予定だった。だが今から小笠原に帰って、また本島に帰ってきてなんてことをやっても仕事をする時間も限られてしまう。皆が出勤するころに連絡をすると、達也にも『せめて俺に一言告げてから消えろッ』とこっぴどく叱られ、隊長代理である彼から『もういいよ、今日は欠勤な。葉月が無事で良かった。月曜日に戻ってきてくれよ』と言う彼の言葉と共に、欠勤の許可をもらえた。

 昨夜、無茶な活躍をした奥さんは、午前中はぐっすりお休みだ。
 こちらの家に残していた洋服に着替え、黒猫達がじりじりと緊張感を募らせているリビングを時々覗き、そうしてジュールに借りたマシンで出来る分だけの仕事に取りかかろうとしたら、『松居翼』からの連絡があったと言う訳だった。

 彼の希望通りに、隼人は午後、都内の彼が指定した場所で会う約束をする。

「義兄さん、午後、出かけるよ」
「何処へ。今はなるべく動かないで欲しいがな」
「あの彼に。翼という彼が彼女達に内緒で会いたいと言うんだ」

 出かける報告を純一に告げ、会う相手も知らせる。
 すると純一は少しばかり唸っていた。

「わかった。俺も付き合おう」
「え、どうしてだよ」
「お前の警護兼、保護者」
「保護者ってなんだよっ」

 彼はツンとして取り合ってくれなかったが……。だがそうしてふざけた物言いで本心を誤魔化された気もした。
 そうして隼人は思う。翼という彼はきっと美波には聞かれたくない『事実』を自分が先に知りたいと思って電話をしてきたのだろう。美波と葉月が向き合っても、葉月が頑と口をつぐむので堂々巡り。そして翼も葉月が黙っているのは美波には聞かせたくない事実を背負っているからだと察しているのだろう。そしてそんな事実を背負っている女性からも直接聞くのは酷と思い、それならワンクッション置いた『旦那と彼』で話してみたいと提案してきたのだ。
 隼人もだいぶ事情には精通してきたが、それでも直に触れてきた純一が聞けば、隼人が知らない話も出てくるかも知れない。そして純一もきっと、娘の美波から翼が聞いているかも知れない『瀬川』の話を聞きたいと思っているのだろう。
 確かに護衛も必要だ。それが義兄自らの護衛なら尚、心強い。ふざけた物言いであしらわれた気もしたが、隼人は少しの間だけふてくれるだけで済ませた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 午後になり、出かける時間前にジュールが葉山から一端の帰宅をした。

「人の気配は一向にありませんでした。一応、近寄ってみたのですが、中に人が居たようには外からは確認できませんでした」

 その報告に純一が溜息をこぼす。

「──やはり、遅かったか」
「そうですね。娘が接触を試みた時点で、姿を消す算段だったかと……。私も、やられました」

 あのジュールががっくりとうなだれている。
 彼の考えは、葉月と同じで『娘を懐に入れ、娘の動きに合わせていれば、幽霊に近づける』──だったのだろう。だが、ジュールが仕掛けた『小鳥を籠に、作戦』は、既に幽霊に読まれていたもので、娘の行動はおそらく父親の彼に操られた物だったのだと。……心ならずも認めたようだ。

「あの娘が、都内の若い男の家に必ず寄ることを判っていたのに。申し訳ありません」
「いや。それでも多少なりの情報は揃った。チビが頑張ったからな」
「結局、お嬢様を危険な目に合わせたことに」
「忘れろ。今から『長期戦』になるから、覚悟しておけ。今後も、頼むぞ。お前は要だからな」

 純一の言葉にも、ジュールは心が軽くならない様子で、いつにない悔やむ顔をいつまでもしているのだ。
 ──つまり。隼人から見ても、あのジュールをやりこめるぐらいの先読みをする男、それが『幽霊』。軍と関わっていたという話を純一から聞かされた時に『それではこちらが丸見え同然だった』と思った隼人は、御園を先読み出来るのは軍と繋がっていたからだと思えたが、今回の事でも判るがやはり幽霊という男ではなく『瀬川』という男の実力具合を見せつけられた気もしたのだ。

 あの黒猫達が、敗北に満ちた顔で沈んでいる様子は隼人も見ていられない。
 だが、と……。一番精神的に苦悩しているだろうボスの純一が、凛とした姿で部下達を元気づけて回っていた。
 事情を良く知らない、ただ従っている若い者もいるようだが、古参らしいカルロにジル、ジュールにエドと言った主要人達は、そんなボスの姿を目にしてなんとか立ち直ろうとしているのが窺えた。

 ジュールが帰って、一軒家を守る体勢が整ったので、純一が車を出す準備をする。
 運転はエド、そして後部座席に純一と隼人がいつものように肩を並べて乗り込む。
 その時、やっと……純一が、深い深い疲れ切った溜息を落とす。そして急に目の元が暗くなり、何処に隠していたのかと思わせる隈が浮き出る。途端に憔悴しきっている歳を取った顔になる義兄。
 そんな彼を見ても、隼人は何も言葉はかけない。きっとそれが義兄が一番望んでいることだろうから。

「義兄さん。良かったら、葉月と一緒に食事にでもでかけてみないか?」

 隼人が言えることは……。何故だろう? そんなことは言うつもりなんてなかったのに、そう言っていた。
 彼を救えるのは、義妹の葉月だけだと。俺の妻だと、隼人は認めていることになる。そして言えた自分にも驚いたが、でももう後悔の念もなかった。
 すると純一はやっとそれらしく微笑んでくれた。

「そうだった。真一と葉月と約束していたんだ。隼人が帰ったら、四人で食事に出かけようと……」
「え、俺も?」
「ああ、俺達、家族だろう……? 真一がそう言ったんだ。俺もそうしたい」

 隼人が留守の間……。あの踏み込んではいけないと心得ていた『昔ながらの三人家族』が、そこにいない隼人を想い『今度は四人家族で』と言う話をしていたと言うのを聞かされとても驚く。それと同時に、なんともいえないじんわりとした感激に包まれる。
 そして隣の義兄は『俺もそうしたい』と言ってくれたのだ。

「有難う、義兄さん。では、葉月の容態と相談して小笠原に帰る前に行こうか」
「ああ、そうしよう。楽しみだな」
「俺もだ」

 あの純一が本当に楽しそうに笑ってくれたことが、隼人には意外で……。でも、嬉しくなることになっている。
 彼は、義妹の愛を知り、そして今度は正面から彼女とその彼女の心を抱きしめることが出来たのだろう。
 だから今は素直に、義妹を愛しているだろう……。そして、彼女を心の支えにして生きていくのだろう。

 どうしてか、隼人の胸に熱い切なさが流れ込んでくる。
 もしかすれば、それは自分だったかも知れない紙一重の、立場。
 去年、隼人自身が身をもって知った気持ちを、今は純一が抱えている。
 だからこそ解るのだ。彼女を愛している深さも、熱さも、切なさも。同じ女性を愛した男だから……。

「そう言えば、葉月がたまには和食が食べたいと言っていたな」

 純一はその話になった途端に、いつもの義兄の顔に戻る。
 彼は気がついているだろうか? 『葉月が、葉月は』と、義妹とどうするかと言う話ばかりしているのを。
 旦那としては気になるところだが、まあ、今は許してやろうと、隼人は密かに笑っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼が指定した場所に赴くと、そこはいかがわしい男性向けのチラシが貼られたり、スプレーの落書きがあったり、いろいろなゴミが風に舞う、ちょっと荒んでいるようなスポット。

「うーん、如何にもだなあ」

 一緒に車を降り、唖然としてる隼人の隣にいる純一は、顎をさするだけで落ち着いていた。

「ここら辺りにある『イージー』と言うショットバー」
「あれだな」

 メモ用紙に控えた住所を読み上げると、数々の小さな看板を見上げた純一があっと言う間に見つけた。
 しかも、もう少し先で、隼人が眼鏡をかけても『良く見つけたなー』と感嘆する程の見つけ方だったのだ。
 こう言うところ、訓練されているというのかと隼人は唸る。
 しかも純一はスイスイと歩き、あっと言う間に看板があるビルとその入り口を見つける。
 店はビルの中の一店舗だったが、薄暗い地下が、彼が指定した店のようだ。

「どうやら若者が集まるところのようだな」

 内装を見渡した純一がそう言う。その通りに看板のロゴや、地下へ続く階段に施されている内装を見ても、『クラブ』とかいう若者が集まるような雰囲気だった。
 黒とシルバーが基調になっている店の重い扉の前に来て、純一が先に黒い手袋をはめている手で開ける。

 中はより一層、暗く、営業していないこの時間帯は真っ白なアクリル張りのダンスフロアが寂しく店内でぼんやりと浮かび上がっているだけ。
 店は小綺麗だが、雰囲気は重かった。

「いらっしゃいませ」

 そこで声をかけてくれたのは、『翼』だった。
 彼はグレーストライプの綿シャツをざっくりと着込み、そして着古したようなユーズドタイプの濃い色のデニムパンツに太いバックルのアンティークなベルトをしている。そうだな、達也が好みそうと隼人が思うような流行だがそれに流されていないさりげない彼のお洒落は、なんだか脱帽な気持ち。今日は隼人もシンプルな私服で出向いてきたが、エドが選んでくれた服でもなんだか彼とは着こなしが違う気がするのだ。あれは彼独特の色香か雰囲気なのか……。
 彼は真っ白なカウンターで、グラスを磨いていた。そして、何故かカウンターの長椅子に二人の若い男性がいる。

「昨夜のことでお疲れのところ、早速、連絡してしまって申し訳ありません」
「いいえ、こちらも思うところがあったので」

 隼人の偏見になるかもしれないが、彼はそういう格好をしている割には、きちんと礼儀正しい。
 グラスを磨いている手つきを見ても、それだけで決めた仕事はきっちりこなすという信念を見た気が隼人にはしたのだ。
 だが、カウンターにいる彼の目の前にいる二人の男は、まるでこちらを警戒するように険しい目つきを揃えている……。

「御園さんだけをお呼びしたつもりでしたが。失礼ですが、そちらは?」

 そして翼も警戒する目つきで、恐れることなくこの重厚な雰囲気を放つ純一をちらりと見たのだ。
 隼人としては、まあ怪しい人ではないと笑って言いたいところなのだが、ふと見るとその言葉も通用しないぐらいの目つきを純一もしているではないか。相手は若者でも、一歩も譲る気がないらしい。それも翼よりも、彼の目の前にいる知らぬ若者と睨み合っているのだ。

「彼は、私の義兄です。妻の兄です」
「そうは見えませんが」
「そうですね。兄と言っても、彼女にとっても義兄です。ですが妻が生まれた時から側にいた人なので、もう兄妹同然なんですけれどね」

 翼はそれで納得してはくれたが、ちょっと重い溜息を隼人に聞かせた。
 どうやら、隼人のことは信頼してくれているようだが、妙な雰囲気の護衛のような男が『兄』と言うのは通用していないようだった。
 だが、翼はテーブル席へと案内してくれる。

「車でなければ、俺の一杯を試してみませんか? 何でもお作りしますよ」

 どうやら、翼はバーテンダーのようだ。
 隼人はあまり詳しくないので何にしようかと考えあぐねていると……。

「それならドライマティーニをもらおうか」

 純一がきっぱりと言い放つ。
 年長の男が堂々と言い放つ様は、まるで若者を試しているかのようだ。しかも翼は、隼人を客として迎えたのに、ひっついてきた義兄の方がふんぞり返っているのが面白くないようで、隼人としてはどうして良いのか苦笑いしか出てこない。なんていうか、純一らしくなく『大人げない』というか……。
 するとやはりカウンターにいる彼等も面白くないようで、ますますこちらを険しく睨んでいるのだ。

 凄く険悪な雰囲気。
 隼人はどちらかというと、『義兄さん、何やっているんだ』と隣で悠然と座っている彼を蹴っ飛ばしたくなったぐらい。
 しかしそれも黒猫ボスのなにやら彼等を試している一環に見えなくもなく、どちらとも判断のつかない隼人も黙っているだけだ。

 隼人も同じように『ドライマティーニ』をもらうことに。
 カクテルの王様だが、隼人にはふと思うところがある。そう、奥さんがお酒を嗜む時の、最初の一杯と締めの一杯だ。小笠原のプライベートの夜に飲んでいたカクテル。良く知られているカクテルだからなのか、それともあの行きつけの店、馴染みのマスターのカクテルを飲み干した上で気に入った物なのか、本当に好きなのか。隼人は知らない。だけれどそうして小笠原の夜に見られる紺碧の海の側にある店で、その景色を背景に栗毛の彼女が軍服でひっそりとグラスを傾けていた綺麗な夜を、懐かしく思い返していた。

「葉月が良く飲んでいたな……」

 ふと隼人がそういうと、隣の純一もふと笑い声を漏らした。

「と、言うか、チビはあれに入っているオリーブをかじるのが目的と言おうか?」
「そ、そうなんだ?」
「梅酒に入っている梅の実を最後にかじるのが好きなのと、同じ感覚なんだろう?」

 またもや純一がそんなことを言い出すので、隼人は何故かドキドキしてしまった。
 そういう奥さんのよく解らないところ、義兄さんは良く知っている。本当にこればっかりは悔しいが敵わない気がした。

 やがて翼が白いカウンターで、ミキシンググラスとステアバーで優雅にカクテルを作っている姿。

「なかなか見応えがあるな」

 純一は遠くから彼のその姿を目にし、満足そうに微笑んでいる。
 隼人も同じ男として、何かを極めているようなその姿はなかなか『格好良いなあ』と見とれたほどだ。
 彼が銀色の丸トレイにオーソドックスなグラスを乗せてやってくる。オリーブを浮かべたマティーニを二杯、二人の前に並べる。

「いつからこの仕事を」
「高校を出て直ぐに。最初は地元の室蘭で、それから上京を」
「歳は」
「妹さんが俺と同じ歳だと驚いていましたが」

 純一は『ふむ』と答えただけで、差し出されたグラスを早速手にして一口味わい始める。
 だが隼人は、妻と同い年と聞いて『若いな』とも思うし、だけれどその落ち着きや男の匂いが漂っているのは年相応かと思ったり……。不思議な雰囲気の青年だなと思った。

「美味いな」
「有難うございます」

 彼は純一をきちんと客として接していた。
 隼人も口にはするが純一が感じるような『違い』がよく解らない。
 やっぱり隼人にとってはマティーニは皆、マティーニなのだ。
 気取った義兄さんは、グラスをテーブルに置くと、組んでいた足をきちんとただし、翼を見つめた。
 そして隼人が予想もしないことを言い出したのだ。

「君は、瀬川美波を愛しているのか」

 真顔で問う年長の男に、若い青年が一瞬戸惑う顔。
 隼人はこれまた隣の義兄さんを張り倒したくなったのだが、だが、改めて見つめ合う二人を見ると既にその二人の間では『真っ向勝負』のような見つめ合いと雰囲気が出来上がっている。
 隼人が固唾を呑んでいるように、向こうでこちらを窺っている二人の青年も険しい警戒を忘れ固唾を呑んでいる。
 純一のその唐突な問い、戸惑う翼の顔がきりっと引き締まった。

「愛しています。一方的に。だけれど、どうにかしてあげたい。だから何か関係があるだろう御園夫人のご主人を呼んだのですが」
「そうか」
「こうしてお会いしてみると、こちらの新婚のご主人もよく事情は解っているだろうけれど、義兄さんの方が深く関わっているようですね」
「やっと解ってくれたか」

 純一はふと笑うと、また翼のマティーニを手にした。
 一口軽く口に含む純一。その一口の沈黙の間、誰もが純一の次の言葉を待っている。
 そしてグラスを置いた純一が、意を決したように翼を見る。

「俺は昔、横須賀の軍人だった。その時、瀬川アルドと一緒に仕事をしていた」

 純一は静かに言ったのだが、翼と、その向こうにいる青年達はとても驚いた顔になり固まってしまった。だが、純一は続ける。

「良い先輩で、俺にとっては恩師のような先輩だった。俺が軍を退官し『今の仕事』に就いた後、先輩も軍隊を辞めたと聞いた。それ以来、彼には会っていない」
「それで? 御園と美波の父親の関係は?」
「被害者と加害者。一言で言えばそういうものだ」
「……彼女の父親が、加害者だと」
「そう。俺が結婚するはずだった女性を陵辱し、その後、殺害した疑いがある。証拠はなにもない。そしてあの葉月はその女性の妹なのだが、彼女もその時に姉と共にいて、殺されかけた。彼女は十歳だった。姉はあっけなく亡くなったが、生き残ったあの妹のその後の人生は壮絶な物だった。傷つけられたあの妹が、生きるか死ぬかの線を自ら彷徨う十数年。だが、何故、犯人は捕まらなかったか? あの義妹が『その事件の時だけの記憶をなくした』からだ。犯人の顔を彼女は最悪の恐怖の顔として忘れてしまったのだ。だが、それが彼女が大人になって突然、蘇った。そして彼女はこの隣の彼と、愛を確かめる旅へと北海道へと出向いた。彼女にとって苦痛の人生を送ってきた中で、やっと花開き巡ってきた幸せな出来事だ……。だが、哀しい運命か。妹はそこで『思い出しかけた』。十数年会わなかった被害者と加害者がそこで再び巡り会う。その時、向こうの男も驚いたのだろう? 旅をする妹の隙を狙い、この男と離れたほんの一瞬に、記憶ごと葬る犯行に及んだ」

 純一の話がそこで止まったが……。だが、隼人は目をつむる。何故なら、そこで立ちつくしている翼が、放心状態になっていたからだ。
 向こうの青年達も、身動きせず、瞬きも息も出来ない驚愕に襲われているのだと隼人には見えて仕方がない。
 誰も何も言えないから純一が続ける。

「……妹は、やっとの思いで生き返り、やっと隣の巡り会った男と結ばれたばかりだ。これは妹の勝ちだと俺は思っている」
「──その男が、美波の父親だと言う証拠は、その葉月さんの記憶のみなんですね?」
「そうだ。状況証拠も物証もなにもない」
「では、彼が犯人だと追い詰めることは出来ない。彼が次の犯行をするまで誰も彼を責められない」
「勿論。だが、俺は思っている。俺も妹が思いだした男が先輩だったと知ったのはつい最近で、動揺している最中だ。それでも妹はその男だと言う。さらに──義妹は確信している。葉月は……」

 その時、隼人も思っていなかった事を純一が口走った。

「葉月はあの男とは切っても切れない関係で深く結ばれている。また、あの男は『私を迎えに来る』と。『待っている』──と義妹は考えているだろう」

 葉月という義妹と深く繋がっている義兄の言葉。
 そして妻がそれらしい事を口にしていたことを知っていた隼人ではあるが、そこから目を背けようとしていた言葉。
 隼人は純一の横で、暫し、放心状態になる。

 幽霊は妻を迎えに来て、そして妻はそれを待っている。

「あの二人の間にあるものは、状況証拠を固めるとか物証を探すとか、そういう問題の関係ではないのだとね。必ず、もう一度二人は向かい合う日が来る。葉月が嫌でも、きっと『先輩』がそれを望んでいることだろう。『今までのように』、最高の地獄を見せようと虎視眈々とこちらを見ている」

 そして純一は最後に静かに言う。

「義妹がどうしたいかはまだ聞いていないが、俺は彼女が選ぶ道を見守ろうと思っている」

 そしてやっと翼が、力無い声で言う。

「では、美波の父親が決定的に『犯人』になることは難しいと言うことですか」

 彼のその言葉には、『愛する彼女が犯罪者の娘と決定づけられる時が来なければ』──。そう思っているのが隼人にも伝わってくる。美波自身が父親を信じたいように、彼も出来ればそうであって欲しいところなのだろう。

 だが翼のその言葉に、純一が初めて……誰もがゾッとするような目の輝きを若い彼等に向けた。
 あれだけ威勢の良い目つきをしていた彼等が、今度ばかりは凍り付いていた。それは隼人もだ。
 それが黒猫の、暗闇から表世界を鋭く見てきた黒猫の目かと思わせる眼を──。
 その眼をした純一が翼に吠えるように言い放った。

「犯人でないと信じる道を取るか。娘が巻き込まれ取り返しのつかない事が起こりうると危機感を持つか。選ぶのは、美波という娘を守ろうとする男の、分岐点と言っておこうか」

 純一のその言葉に、翼がハッとした顔になり……。やがて力無く肩を落とし、唇を噛みしめ俯いてしまった。
 隼人もその青年の顔を見て、胸が痛む思い。きっと彼は彼女の父親がなんでもないただの男であることを祈っていたのだろう。

「話はそれだけだ。隼人、帰るぞ」
「……ああ、そうだな」

 隼人の出る幕はなかったが、隼人はこれで良かったと思う。
 そして隼人が翼という青年に言うことは、もう、なにもない。何故なら、純一が全て言ってくれたからだ。

 翼のあの口惜しそうな顔を見る限り、きっと彼も予感していたのだろう。
 そうでなければ、彼女の父親を知りたいと言う気持ちは起こらないだろう。『疑惑』があればこそ。そして何よりも彼以上に『娘の美波』がその疑惑に囚われているのだから、側にいる彼が何とかしたいと思ったのも当たり前の事だろう。

 そして純一も……。本来なら御園家の内事情として口にはしないところをこうして隼人の代わりのように口にしたのも、隼人よりも義兄の自分が責任をという覚悟でついてきてくれたのが、隼人には伝わってきた。そして、この若い青年に『全力で好きな女を守れよ』と促すために、話したくないことを告げたのだと。
 後はこの若い青年達が、どのようにしても、それはもう純一の想定範囲に入っているのだろう。

 だから純一は後腐れなくこの店を出ていこうとしていた。

「待ってください」

 翼の声に、隼人は純一と振り返る。
 彼が気持ちを決めたように駆けてくる。

「お願いします。俺はまだ真実はどれだか判断はつけられない。だけれど美波の為に確かめたい。貴方達と一緒に動かせてください」

 純一は翼の顔をじいっと見ている。
 そして何故か、こちらをただ窺っていた青年達もいつのまにか並んで立ち、純一に頭を下げていた。

「本当に、俺達で構わないのか? 君達の言い分の様に『御園は間違っているかも知れない』と言う可能性もあるのだぞ」
「はい。ただ今はまだどちらとも俺は判断しません。それでも俺は貴方達にお願いしたい」

 そして翼は最後に念を押すように言う。

「美波が、葉月さんを欲したように……。俺も貴方達を欲した」

 彼の目と純一の眼が絡み合う。

 瀬川という男が犯人で間違いないと決めている『御園一族』
 俺は犯人にはならないと足場を固めている正義の男『瀬川アルド』
 そして、どちらが真実か美波という娘の為に見極めたいという『室蘭の青年達』

 彼等は中立的な立場になるが、それでもこちらへと身を寄せたいという。
 さて、純一の答は……。彼等を手元に寄せると言うことは『幽霊の娘』を手元に置くことに等しくなるのだ。
 作戦や、見通しはあるのか? 隼人は純一を見る。

「いいだろう」
「有難うございます」
「また連絡する」

 純一はそれだけ言うと、すっと店を出ていった。
 隼人も共に店を後にする。

 日の光が射し込んでくる地上への階段。

「俺って、なんで来たんだろ。これじゃ、ただのおまけ旦那の連絡係りじゃないか」
「いいじゃないか。美味いマティーニが飲めたんだから。それにあの後ろの二人もなかなかいい顔つきだった。これはもしかするとこちらにいい力になってくれるかもしれないぞ」

 純一は『これはめっけもん』とばかりに、妙に意気揚々だ。

「うむ。あのマティーニもめっけもんだったな。これはジュールに教えてやらねばならない」
「たく。なんの話だよ。俺は何だったのかという話だよ」
「お飾りのお婿さんかね」
「なんだって?」
「まあ、今後もこの調子で頼む」

 なーにが『お飾りで頼む』だ!
 隼人は思わずムッとし、純一の背中を蹴り倒したくなったが何とか堪える。
 この小憎たらしい義兄め。……と、憎々しく思いながら隼人は思う。結構、自分のペースで動いているじゃないかと思ったのだ。あんなに疲れた顔を見せる時もあるのに。

 それとも、これは彼の強がりなのか?
 彼は懸命に心の波と闘いながら、こうして自分を保っているのか。
 と、隼人がそんな義兄さんの真っ直ぐな背中を見つめ、彼の苦悩を思いやっていると……。

「お、そうだ。帰り道だから、葉月が気に入ってくれた生チョコレートを買って帰ろう」

 まただ! この義兄さん、隼人が思いがけず本島に帰ってきてからずっとこの調子だ。
 そうして隼人はやっと気がついた。
 この義兄さんは葉月の愛を真っ直ぐに受け止め、自分の気持ちに素直になってしまったのだと。
 隼人は葉月と結婚をして夫妻になったが、こちらの義兄妹は、結婚はせずともある形に出来上がり、今まで二人で複雑に取り仕切ってきた壁がなくなってしまったのではないかと。

 これでは、『裏旦那』じゃないか?
 と、さえ隼人は思ってしまったのだ。

 『義兄さん、ひとつ、葉月の夫として聞いても良いか? 彼女を愛しているか』と、先ほどの純一のように真っ直ぐに聞いてみたいところだが、これまた隼人には彼が言うことが解りすぎているほど、解っている。──『俺は葉月を愛している』。今度の彼は臆面もなく言うだろう。

「よし。俺は、俺は……ええっと俺も何かを! いや……なんで、葉月が一番好きなチョコレートを義兄さんが買うんだよ!」
「何を怒っているんだ? 一緒に買って帰ればそれでいいだろう」
「もう、義兄さんとは二度と出かけない!」
「はいはい。なんだかなあ。なんで俺はいつもこうして怒られたり、拗ねられるんだろうなあ。葉月と真一もそうだ」

 『隼人、お前もか』と純一は溜息をこぼすのだが、隼人はふんとそっぽを向ける。
 だが、それはそれで皆、純一に甘えているのだろう。
 そして、隼人も。いつのまにか……になっていくのだろう。
 彼にはそんな心地よさがあるのだから──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 葉月に葉月にと言っていた純一だが、買ってきた包みは『チビに渡してくれ』とあっさりと隼人に託し、自室に戻ってしまった。その包みを隼人は葉月に渡す。

「何処に行っていたの? 二人揃って」

  葉月は隼人が出かけた少し後に目を覚ましたとかで、そのままベッドで待っていた。
 夕暮れ間近のその窓辺で、葉月が少し拗ねた顔をしている。
 目が覚めたら二人揃っていないことを、ジュールを呼びつけ何故かとだいぶ問いつめていたそうだ。

「うーん、奥さんが寝てばかりで退屈だから、義兄さんとチョコレート探しのドライブとでも言おうかー」
「なあにそれ? 本当はどこに行っていたの?」
「……気分転換。義兄さんもしんどいだろうから、なーんにも考えずに出かけようってことになって」

 嘘だが、今日のところはそうしておく。
 するとやっと葉月はホッとした顔で、納得してくれたようだ。

「良かったわ。私がいない間に、危ないところに行かないでね」
「それ、俺のセリフ。俺の奥さんは人にそう言うことを言う資格ないと思うな」

 葉月は今度は素直に申し訳ない顔を隼人にも見せた。
 だが、葉月が心配に思ったのは、自分が休んでいる間に大事な二人が揃って先に『葉山の別荘に行ってしまったのではないか』と言うことを心配しているのが隼人には分かっていた。

「……もう、もう、誰も傷ついて欲しくないの。結婚したことで隼人さんにも危険な目に合わせているかも知れない。そして義兄様もまた一人で背負って行ってしまわないかって。二人だけじゃないわ。パパもママも右京兄様も、ジュールもエドも、カルロもジルも黒猫の皆も。誰一人犠牲になって欲しくないの」

 余程不安だったのか、葉月は栗毛を振り乱すほどに首を振る。
 隼人も『大丈夫だ』と、そんな妻の手をしっかりと握りしめる。そして葉月もいつものように、夫の手の暖かみで心を落ち着かせてくれた。

「あの別荘のことだけれど、ジュールの話では『誰もいない』らしい」
「そう……」

 葉月は、今まで良く見せてきた『無感情そうな顔』で短くそう答えただけだった。
 隼人もそれ以上は言わない。いや、言えなかった……。妻が一番の傷を刻みつけられたその場所のことなど、一言だって話したくない、そして妻も話したくないだろうから。

「……美波さんからは?」
「今日は彼女も気持ちを休めているのだろう」

 彼女は──。と、隼人は心で呟き、互いの愛する女性を案ずる男達の密会の事は口にしない。

「そうね。それなら私も、気持ちを休めて……。また、彼女に会うわ」
「そうだな」

 これから妻と彼女が関わっていく中で、何か新しい道が見つけられるのだろうか?
 だが、これは彼女達もそして隼人も純一も青年達も、同じ気持ちで向き合い始めた気がしたのだ。
 俺達が見据えているのはただ一点、『瀬川アルド』と言う男のことを──。

「そうだ。俺からも葉月にお土産があったんだ」

 隼人は気を取り直し、ベッドの側から立ち上がる。
 クローゼットにしまった制服の上着の胸ポケットから花柄のハンカチの包みと、そして一緒にしまっていたヴァイオリンケースを手にして葉月も元に戻る。

「頼まれていたもの。持ってきた」

 するとそれを見た葉月の顔が、ぱあっと明るい笑顔になった。
 その顔を見て、隼人もとても心が和む。あらゆる事を忘れさせてくれる妻の笑顔。

 そして葉月はヴァイオリンよりも先に、隼人が手の中に柔らかく包んでいる花のハンカチに手を伸ばしたのだ。

「ここにいるの?」
「ああ、いるよ」
「お疲れさま。小笠原から来てくれたのね」

 葉月は隼人の手に乗せたまま、そうっとその花柄の薄手のハンカチを開いた。
 その顔、その声、その仕草。隼人から見ても、葉月にとっては、本当にその天使は『生きている』も同然のようなのだ。
 だけれど、不思議に思った。小笠原の丘のマンションで、この子がいることを知った後も、葉月がたまにこの子に目も向けて眺めていても、今ほど気にしたり拘ったりしている姿は見たことがない。だが、今はなんだかこの天使と深く繋がっている様子を見せるのはいつからなのだろうか?

 そしてハンカチの花の中から、小さな天使が澄まし顔で姿を現した。

「来てくれて、有難う。また、一緒にいようね」

 隼人は不思議で仕様がない。本当に葉月はそうしていると、ちょっとしたママの顔なのだから……。
 隼人だけじゃなく、葉月も……。この子がいなくなった思い出はとても痛い物で苦しい物だと思っていたのだが、今は何にも囚われずに、ただ隼人との間に紛れもなく誕生した結晶なのだと大事にしてくれている。
 本当はいつまでも流れていった水子を気にするのは良くないのではないかと思うのだが……だけれど、今は少しだけ解るような気もしないでもない。

「こうして、俺の制服のポケットの中にいて、ママの無事を一緒に待っていたんだ」
「そうなの?」
「そう。なんだか俺、心強かったな……」

 心では思っていても、口でパパとかママとかはまだ交わしたくなかった。
 だけれど、この天使をあの部屋から連れ出した時から、そして隼人の胸のポケットに忍ばせ一緒にいた一晩から、何故か葉月がそうして実在するように思う気持ちがなんとなく隼人にも自然に思えてきていたのだ。

 すると葉月が少し切なそうな顔を、夕暮れる窓辺に向け呟いた。

「なんだか、この子が見ている気がしてならないの」
「うん、そうだといいな」

 隼人も一緒に窓を眺めた。
 この病院でこのママと決定的な別れを迎えたことがある。
 なのに今はこの病院の窓辺で、七色のような夕焼けを一緒に見ているよ──。
 それをお前は覗いてくれているのか?
 隼人の胸にそんな呟きが無意識に流れていた。

「この子ね、凄い力を持っているみたい」
「どうして?」
「解らない、そんな気がしてならないの」

 すると葉月は、隼人の手の中にいる天使にふんわりとゆっくりキスをしていた。
 その姿が夕暮れの中、とても綺麗に見え、隼人は見とれてしまっていた。
 だが葉月はキスだけすると、持ってきて欲しいと頼んだくせに、そのまま隼人の手の中に乗せたまま、ハンカチに包み直してしまった。
 そして葉月は微笑みながら、そのハンカチの包みを隼人が着ているシャツの胸ポケットにしまい込んだ。

「今度はパパを守ってくれるわ、きっと」
「え?」
「パパといたいって」
「そ、そうか。いいのか? お前の手元じゃなくて」

 だが、妻は確信したように言う。

「一緒にいたいって……」

 やや呆然の隼人だが、それでも昨夜もそうだったように、そうして胸の中にいると思うと不思議とそこがほんわりとしてくる気がする。
 二人で七色の夕暮れの中、そっと微笑み合う。

 本当は、この子をガラスじゃなくて、血が通う暖かい生身の身体でこの手に迎え入れたい。
 そして妻と一緒に、あの小笠原の珊瑚礁の海を見渡し、青空を見上げて笑いたい。
 隼人は今のままならない状況を、もどかしく思った。

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