・茉莉恵の短編・ ◆花束は誰がために◆

|BACK|

花束は誰がために

 どうしてなのか、全く理解に苦しみました。
 だって──彼は『新婚』だったんだもの。

 

 彼はすぐ隣の部署にいる同世代の男性。
 隣の部署と言っても同じフロアにいるので、毎日、顔を合わせるし、すれ違いもする。
 そうすれば、自然と『同僚的』なおしゃべりもするし、挨拶もする。
 その程度──。

 だけど、そのフロアにいる社員が集まる休憩室で、時には他の男性社員と席を共にする事もある。
 そんな時に、オフィス室では交わす事はない雑談はする。
 そんな中で、彼がもうすぐ結婚をする事を知り、そして彼は先日、挙式を済ませたばかりだった。

 まだ二十代の後半を迎えたばかりの私達は、プライベートで出かけると言う事はなくても、同世代と言う事で割と親しい取り交わしはしている。
 私の他にも何人か歳が近い女性もいた。

 そんな中、思わぬ事を知ったのは、その彼が結婚して数ヶ月後だった。

「私、あの人が好きでたまらない」

 隣にいた彼女が、耳にある二連のピアスをいじりながら溜め息をついた。
 いったい誰の事なのかと思ったら……彼女の視線は隣の部署に。
 背が高くて、良く言えば今が旬の俳優のような、そんな流行に乗っ取っている年上男性がそこにいた。
 彼女が『好き』な人は、新婚の彼でなく、その先輩に当たる男性。
 はぁ──確かに、彼は目立つ。
 私の好みではないけれど、文句なしに格好良いし、センスも良い。

 ただ、彼は『結婚しているじゃない?』と、私は眉をひそめた。
 時には、既婚男性であっても『素敵だな』と思う事はあるだろう?
 彼女の言っている『好き』が『憧れ』からくるものなら『そうね』とも同意が出来る時もあるだろうが、潤んだ眼差しで『たまらない』と言われた日には、なんと答えて良いか解らなくなる。

 だから、私は黙る事しか出来なかった。
 だけれど、彼女はただ言葉にして口から出してしまいたかっただけ……とばかりに、私の反応などは求めていなかったようだから、黙っている私にも何も言わなかった。

 それからだろうか?
 急に、ピアスの彼女と新婚の彼が親しくなった気がする?
 時には廊下の階段で、時には示し合わせたように勤務中で誰もいない休憩室で。
 ふと見れば、彼女がその憧れの年上先輩とではなくて、その同世代の新婚の彼と怪しい関係に見間違えられてもおかしくないぐらいの状態が目につくようになった。

 そうすれば、おのずと『噂』もたつ。
 めざといおばさん社員達の恰好の餌だ。
 そして、これもうんざりするぐらい……いや、面白いぐらいに、おば様達は親しくしている私や他の女の子達に聞くのだ。
 『あの子達、おかしくない?』──と。
 うん、おかしい……確かにおかしいけれど『真相』はまったく違うものだった。

 ピアスの彼女はある時、またもや私の前で、反応は求めてはいないだろうに呟いた。

「私……彼と朝まで一緒にいたの」

 彼とは『年上のイケメン』の事。
 私は今度は違う意味で、黙るしかなかった。
 つまり、言葉が出ない程、驚いたのだ。
 まさか? 妄想と現実の区別がつかない程に思い入れてしまったのか!?
 いや……それが現実の方が、まずいかもしれない?
 どっちにしても由々しき事態を目の当たりにした気分だったが、彼女が夢見心地な目で告げたのは『朝まで』と言う一般的な想像とはちょっと違ったものだったようだ。

「でもね。朝まで二人で彷徨うみたいにドライブしてね。キスだけしたの」
「……朝まで、ドライブ……」
「そう。彼ね……朝まで迷っていたみたいなの。私とどうしたいか……」
「……朝まで迷う……」
「そうしたら、朝になって……やっと『君の事、好きだよ』って」
「……好き……」

 私はただ、馬鹿みたいに気になる部分だけをオウム返しで声にしているだけ。
 けれど、その気になった言葉を繋げてみる。
 『朝まで迷ってドライブ。好きだから』
 なんだか私は、腑に落ちない。
 それとは対照的に彼女は、すっかりヒロインになってしまっているよう……。

 私はそのまま席を立つ。
 ところがいつもは『聞いてくれる人であればそれでよい』と思っているはずの彼女が、『ねぇ……どうしよう』と、私を引き留めたのだ。
 珍しく反応を求められる。
 だが……私はただ笑顔を浮かべ『分からない』としか応えられなかった。

 『どうしよう』?
 それはこっちのセリフ。
 それを聞かれて私の方が『どうしよう』な気分。

 そのままオフィスに戻る。
 その間に思った──『あの先輩は堕ちた』と。
 格好良くて、奥さんを大事にしている話も有名で、そしていつも小さい娘の事を楽しそうに話していた……そういう男性のポジションにいたのに。
 ああ、彼も『ありきたりな男の仲間入りか……』と、私はそう思ってしまったのである。

 そうしたら、扉を入ったその時、イケメン先輩とすれ違った。
 そして彼が私に声をかける。

「よう、お疲れ様」
「お疲れ様です」
「今度、うちの奴らとそっちの女の子で呑み行こうよ」
「……」

 暫く返答に躊躇っている私に、彼が……ちょっと申し訳なさそうな顔になった。
 私が彼女と親しい事を知っているだろうし、そして『必ず、今日は聞いているはず』と判ったのだろう?
 その反応を見る為の『カマカケ』?
 だが、私の僅かな反応を彼は読みとったようだ。

 飲み会に誘う、大勢で行く……そうすれば、それはちょっとした『名目』になるのだから。

「えっと……気が向いたらよろしく」
「はい、お誘い……有り難うございます」

 私が笑顔で返すと、彼はサッと去っていった。

 デスクについて、私は暫くはペンを握りしめたまま、考え込んでしまった。
 彼女を止めなくてはいけない──とか、そんな事ではない。
 何故? 『奥さんはどうなるの?』と、聞かなかったのか……と。
 そしてそんな先輩と知って、声をかけられた時にあからさまな嫌悪を現さなかったのだろうか? と。
 笑顔はそれを認めた笑顔ではなかった。
 ただの社交辞令の笑顔だった。
 いつもの笑顔だ。
 そんな男性……に、いつもの笑顔で応えられた自分が不思議だった。

 その次に思い浮かんだのは、彼女と新婚の彼の『密会』の光景。

 ああ……そうか。
 彼女は、後輩である彼に『繋ぎ役』でも頼んだのだろう……。
 その思わぬ『繋ぎ』と『彼女のアタック』にイケメン先輩が乗ってしまったのだ──。
 そう理解する事が出来た。
 新婚の彼が取り次ぎをした事にも、昔だったら『片棒担ぎ』で腹を立てていたかもしれない。
 けれど、今の私には……自分でも驚いたが彼の『片棒担ぎ』を非難する気が湧かなかった。
 認めたわけではないけれど、なんとなく──『世の中ってそんなものなのかな』と思っている自分がいた。
 自分で自分が不思議な感覚だけがあって、それがいったい何なのか、この時の私には分からなくて、ただ首を傾げてしまっていた。

 それから、私はペンを握り直し、仕事に自分を向けた。
 そして、その飲み会の話はどうなったかは知らない。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それから暫くは彼女の『夢の惚気話』を私はただ聞かされていた。
 つまり『イケメン先輩と続いている』って事を。
 いつもと一緒で、彼女は誰かに聞いて欲しいだけで、反応は求めない。
 恋する自分を、ヒロインである自分を、誰かに知って欲しいだけなのだ。 

 それで先日の私がどうしてか流してしまった『奥さんはどうなる?』の疑問なのだが、これも私が考える間もなく、彼女がつきあい始めたイケメン先輩と奥さんとの事も聞いてもいないのに話してくれる。
 それがどういう話であるかなんて──良く聞く話だから、省略する。

 そんないつもの話を黙って聞いている時、新婚の彼が横を通りすがった。

「有り難うな」
「ううん? 彼女、気に入った?」
「ああ。今から連絡する所」

 そう言って、新婚の彼はにやけた顔で、携帯電話を片手に休憩室外の通路へと足早に向かっていった。

 その会話をいったんは聞き逃した私は、はたと我に返る。
 そして彼女に詰め寄った。

「彼女って? 奥さんに電話するんじゃないの?」

 すると彼女は悪びれる事なく、からりと言う。

「私の友達を紹介してって言うから、紹介したの」
「え? で? 気に入った!?」
「うん。友達も彼を気に入ったみたい……」

 彼女がにっこりと言う。
 私の頭の中はぐるぐると何かが回り、ある結果に辿り着いて呆然とした。

「──彼、新婚じゃない!?」

 黙って聞いてる私は、この時は声を張り上げた。
 だけど、目の前の彼女はきょとんとしていた。
 『それが?』とばかりに……。

 イケメンの先輩が目の前の女性と、どうこうなった時は、なんだか腑に落ちなくても『あ、そう』と思えたのに。
 どうしてか新婚の彼が同じような事を始めたと知って、私は『あ、そう』という同じ気持ちになれなかった。
 それもどうしてか分からない……と、ふと感じて、私の脳裏には『もうすぐ結婚するんだ』と素直に照れながら笑っていた彼の笑顔が浮かんでいた。

 イケメン先輩が、どんな気持ちで結婚したかなんて、それは私がいない時の話。
 けれど、新婚の彼の場合は、彼が幸せに染まっていく姿を目の前で、毎日見ていた。
 その違いなのかも知れないが?
 それでも──私の思い違いだったのだろうか?
 本当は幸せに染まっていなかったのだろうか?
 でも、私は密かに首を振る!
 ううん! あの顔に偽りはなかった! と──。

 なんだかショックだった。

 目の前の彼女が『それが?』と言う態度にも問題は感じるのだけれど。
 もう、そんなのどうでも良くなっていた……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それから、彼が携帯電話片手に、外に出て行く姿が気になって仕様がない。
 その衝撃的な事実を知ってから、かれこれ一ヶ月は、あっという間に経っていたと思う。
 それでも私が『やめなさいよ!』と叫んだ所で、どうなるというのだろう?
 本当は言いたいが、やめなさいよで、やめるなら……とっくにこういう男女関係は世の中から消滅しているはずなのだ。
 そんな虚無感が、私の中でずっと漂っている。

 ある日、勤務時間が終わって、いつものように車で夕方の国道を自宅へと向かっている時だった。
 いつも捕まってしまう大きな交差点での信号待ち。
 その交差点の角の一つに『生花店』がある。
 そこに見た事がある車が停まっていて、ふと、私の視線はそちらに向いた。

 彼だ……新婚の彼がいる!

 そして、私の視線はそこに釘付けになる。
 彼は……ピンク色の薔薇の大きな花束を買っていた。
 綺麗で大きなリボンを付けてもらい、なんだかそれを誇らしげに抱えて、車に乗り込んでしまった。

 暫く──私の中で、また衝撃が走る。
 そして、うなだれながらも心の中で祈る。
 『奥さんへの贈り物でありますように』と。

 だが、その祈りが叶わなかった事を次の日に知る。

 いつも私がいる休憩室は食事やお茶をする為の休憩室なのだが、そこへ向かう途中にもう一つの休憩室がある。
 薄い透明のアクリル板で仕切っているその部屋の中は狭く、そしていつも白い煙が充満している──そう、喫煙室。
 そこを通りすがった時、そこの扉が開いた。

「森崎、ちょっといいか?」

 くわえ煙草で声をかけてくれたのは、そのイケメン先輩と新婚の彼と同じ部署にいる同世代仲間の一人。

「加納君、なに?」
「あ、中……だめか」

 扉を開けた途端に漂ってくる煙に、私が躊躇しているのが分かったようで、彼が悪いとばかりに黒髪をかいた。

「ううん、平気」
「そっか」

 ブラウスの洗濯したての良い香りと、オフィス向けにさりげなくつけているトワレの香りがなくなってしまうのではないか? と言う、ちょっとした女心からの躊躇だったのだが、少しばかり立て込んだ話をするのは絶好の場所。
 おばさん社員は近づかないし、女性社員もたまには入っている姿を見るが、それも喫煙するというよりかは、その中にいる男性や上司と楽しい会話を交わす時には入っている程度のもの──そういう場所だから、何かを話すには休憩室より向いているとも言えた。

 私はその煙の中に入って、そして彼の向かいに椅子に座る。
 彼が気遣ってくれたのか、吸いかけの煙草を消してくれた。
 彼は消した途端に溜め息混じりで、話し始める。

「もう知っていると思うけれどな? 最近の奴らはどうかしていると思わないか?」
「奴らって?」

 私は分かっていて、とぼけた。
 確かにただ黙って、お節介も介入もしないというある意味『無責任な姿勢』での『聞き役』をしているが、それでも人と話した事は、そうは簡単に話題にはしたくなかった。

 そう答える私の事も、加納君は予想済みのよう。
 暫くはちょっとつまらなさそうな顔をされたが、分かっているのか、彼から口火を切った。

「昨日、あいつ、花屋に行くんだと浮かれていてさ──誰への花束だったと思うか?」
「渡瀬君の事?」

 私がそう反応すると、加納君は『ほら、知っているじゃないか?』と言う渋い顔になった。
 だが、これで『何を話そうか』と言う事も、通じてしまった。

「あいつ、結婚したばかりなのに。奥さん以外の女と、付き合っているんだぜ」
「そうみたいね」
「そっちの武藤がそそのかしたんだろう」
「……経過は知らないけれど」

 彼はこう言いたいのだろう。
 イケメン先輩とどうにかなりたいから、側で親しくしている新婚の彼に繋ぎを頼んだ。
 そしてそこで、新婚の彼がどういう心境だったのかは分からないが、結果としては、彼女が友達を紹介すると言う事が『交換条件』……いや、同じような男女関係を求めている者同士が、たまたまギブアンドテイクが出来る為に成り立った条件だったのかもしれないが。
 とにかく──彼女が紹介したが為に、新婚の彼が浮気をする事になったのだ。

 だが、私はここで少しばかり反論していた。
 『そそのかした』とは何事だと。
 彼女をかばったのではない。
 『友達を紹介しろと、そそのかしたのはそっちじゃないか?』とか、『そのそそのかしに乗った男が、1、2……!!』と言う気持ちの方が勝っていた。

 だがその『そそのかし』という言葉は、加納君のちょっとした表現であるだけで、彼が悪いのではないから、ここで私は怒る事は出来なかった。

 そんな風に憮然としている私を見て、加納君はまた『しまった』と言う顔になっていた。
 それに気が付いて、私ははたと我に返る。
 そこで、加納君が話し方を変える。

「先輩が彼女とそうなったのは雰囲気で感じるけれど。渡瀬のやばい所は、それを俺達に『自慢』している事」
「……彼、奥さんと何かあったの?」

 『自慢している』と言う姿が目に浮かんだ。
 携帯電話を片手に出て行く彼、花束を誇らしげに抱えていた彼。
 それを見ていればオフィスでの様子も容易に想像が出来たし、それを想像する事が出来た自分にも私は腹立たしくなる。
 まだ何処かで……結婚する前の男性が『もうすぐ結婚する』と幸せそうに微笑んでいた笑顔が偽りでなかったと信じたかった。
 だから、どうせなら『結婚してから、相手と何かがあったのだ』と思いたかった。
 これも時々、聞く話だ。恋人では上手くいっていたのに、結婚してひとつ屋根の下で暮らし始めたら上手くいかなくなるなんて……。
 それなら、彼が今やっている事は間違っているが、そういう道へと走ってしまう事もあるだろうと。

 なのに──目の前の彼の同僚は、違う事を言い出した。

「ないよ。何もない。むしろ、幸せにやっているよ」
「はぁ!? それなのに……他の女性を?」
「だから、おかしい! と言っているじゃないか」
「そ、そうね……」

 加納君はかなりご立腹のようだ。
 他人事なのに……。
 私達ではどうにも出来ないのに。
 でも、私も何処かで怒っているじゃない?
 目の前の男性とは共感者になるのだろうか?

「……それで、渡瀬にどうしてなのか聞いてみた」
「そ、それで?」

 私が気になっている事を、彼は聞いている。
 私は思わず身を乗り出してしまっていた。

「奥さんとは五年付き合った。慣れみたいなものだけど、奥さんは奥さんなんだってさ」
「……そう」

 たったそれだけを聞いて、私の中で波打っていたものが、あっけなく……収まってしまった。
 ああ、これも……良くある話なのかも知れない。
 恋人だった時は『女性』
 結婚すると『妻』となり、やがては自分達の子供の母になる。
 そして──『家族』と言う念が勝ってくる。
 女の方が、いつまでも女でいたくても、一部の男性はあっさりとそういう思いを抱くのだと。
 残念な話で、女性で未婚の私は、そこは絶対に否定したい。
 どの女性だってそうだろう。
 けれど虚しい程に、そういう男性が存在するのだ。

 どうしてそれに辿り着かなかったのだろう?

 そして私は自分の想いに気が付く。
 彼に……彼に、そんな望みを託していたのかも知れないと。
 あんなに幸せそうに『結婚する』と言っていたのだから、ずっとその気持ちのままで……。
 ううん、彼がいずれ私の目の前で変貌していっても受け入れられたのかも知れないけれど『結婚したばかり』というのが、ショックだったのかも知れない。
 結婚し、様々に変わっていく夫婦は千差万別いる中で、そういう『家族』という姿だけになっていく夫妻もいるだろうけれど……。
 せめて、せめて……『新婚』である時は、幸せで純粋な夫妻であれば……ちょっとでも幸せな時間を経験する事も、心の中に想い出とする事もできるじゃない?
 それを──新婚の彼は、いとも簡単に、期待している私の目の前で破ってくれたのだ。

 それだったのだ、きっと。

 そうして落ち着いているように見えるだろうが、本当は脱力している私を見て、加納君は続ける。

「ほら……今、夜のドラマであったじゃないか? 結婚している男が、急に恋した女に薔薇の花束を必死になって届けるシーンが」
「あったっけ?」
「森崎は、見ていないのか。俺も見ていないけれど、そういう話すらも渡瀬はするんでね。きっとあれだ、ドラマのようになりたかったんだよ」
「そうなの」

 もう、新婚の彼がどういう経緯で、今の道に走ったかなど……彼がドラマのような自分になりたくなった気持ちを知っても、どうでも良かった。

「しかも情けない事に、独身の彼女が『デートのお金は二人で貯めようね』って言ってくれたとか言うんだぜ? つまり渡瀬一人の負担にはしないって事に喜んでいるんだ」
「……」

 私は絶句するだけ。
 その関係って何が一番の目的なんだろう? と、目が点になるだけだった。
 彼も堕ちた。新婚早々……先輩のような『一時でも良い夫』のイメージを植え付けることなく、最悪の状態で堕ちたと思った。
 しかも、周りの同僚にぺらぺらと喋るとは(しかも職場で!)何事か? と。
 本当に、どうでも良くなってくる。

「そう、もうどうでもいいんだけれど」

 私は『話は終わった』とばかりに、椅子から立ち上がった。
 加納君はまだ話したかったのか『森崎?』と、見上げたけれど。
 まだ話したいって、何を?
 目の前のシングルの彼は、何を怒っているのだろう?
 私と同じように男が浮気する事に?
 男が? どうせなら、先輩と新婚の彼が共有しちゃったように男同士、『男ってそういう所あるよな』と──男性特有の連帯感で味方になればいいじゃない?
 そうして女の私と一緒に『何を怒りたいの?』
 彼が結婚していて、その上、独身の女性ともお付き合いをしている『ひがみ』って所なの?
 その『ひがみ』を、共感してくれそうな私と一緒になって文句を言いたかったって訳なの?

 なんだか──何もかもが私は腹立たしくなってくる。
 周りの人々にも、そして腹を立てながらも間違っている事を止めようともしないで傍観しているだけの『ずるい自分』にも。
 ずるい私が、怒れるはずもないのに……やっぱり怒っている。

 もう、この話からは降りたい。
 今日から、彼女の話も聞きたくない。

 そう噛みしめていた時だった。
 加納君が思わぬ事を私に言い出した。

「森崎──何かあったのか?」
「え?」
「前に何かあったのか? いや、その……すごく怒っているから」
「……!」

 加納君は、とても言いづらそうに小さな声でそう言っていた。
 そして、自分ではかなり素っ気ない素振りをしてきたつもりなのに……目の前の彼には『怒っている』と見えてしまっている!?
 私はふと宙に視線を泳がせた。

 あった。
 そう数年前、この会社に来る前に──。
 私も付き合っていた恋人に浮気をされた。
 そしてそのことで別れを切り出したら、恋人は頭を下げながら、私にこう言った。

『お前はどうしてもいて欲しい女で、あっちの女は遊びだっただけだ! お前とあいつは違うんだ!』

 違うならそれで許されると思うのだろうか?
 私がそう詰め寄ると、恋人はさらにこう言った。

『お前とはもういて当たり前で慣れているけれど、あいつは新鮮だっただけなんだ。何時までもいて欲しいのは……』

 『新鮮』?
 そこで私はぶち切れたのだ。
 これからずっといて欲しい恋人が、これから先『新鮮』を欲せられたなら、こうして外に求められるのか!? と。
 だから、きっぱり別れた。
 彼が『二度としない』と言っても……その時の私には許せる余裕などなかったから。

「えっと・……ごめん。俺、そんなつもりで、森崎と話したかった訳じゃなくて」
「いいのよ」

 これで加納君は私の過去を悟った事だろう。
 私が浮気をする男がする事にすらも冷めている訳も、なのに、それでも怒っている訳も。
 だけど……彼がまた、思わぬ事を言い出した。

「俺も……そうなんだよな」
「?」
「俺も……昔、ちょっとだけ二人の女性の間で揺れた事があった。あ、でも! 揺れただけで、『事実』になるまでにはいかなかったんだけれど!」
「……気持ちだけでも、女は浮気と見るわよ」
「そう。だから……彼女が離れていった。判ったらしい? 俺が揺れている事。それも許してもらえなかった……」
「……」

 急に目の前の彼が悲観に暮れる。
 それに私は捕らわれてしまっていた。
 そして、彼が俯きながら小さく呟く──『後悔している』──と。

 そして、私は立ち上がっていたのだが、力が抜けたようにストンと椅子に座り直した。

「そうだったの……」
「うん。きっと森崎の彼と同じ事を考えていたと思うな、俺も……」

 暫く──沈黙が続いた。
 少なくとも私は何故か呆然としていたと思う。
 それでも加納君をなんだかマジマジと見てしまっていた。

「な、なんだよ」
「なんだよって……」

 何と言っていいか解らなくなっている。
 ただ……『後悔している』と言った彼の姿が、一瞬、別れた恋人と重なった気がしていた。

 あの時は許せなかったのだけれど。
 別れた彼は、あれから何度も電話で連絡をしてくれていた。
 そして、留守電にはいくつもの懺悔の言葉が残されていた。
 それでも私は取り合わなかった……。
 どうしても許せなかったから。
 その内に、彼から本当に連絡がなくなった。
 せいせいとはしなかったけれど、私の中では悔しさだけが残っていた。
 彼が『後悔』をする事で苦しんでいる姿など、一度も、思い浮かべる事は出来なかった。
 そうしてそのまま、数年が経ち、今に至る。
 今となっては、もう、あの時のような燃え上がるような悔しさは蘇らなくても、やっぱり『嫌な出来事』のまま──。

 彼も、目の前の加納君のように、今も後悔で苦悩しているのだろうか?
 初めてそう思えた。
 そして……私は気が付いた。
 彼の事など、愛していなかったのだと。
 『恋人』という役をさせていただけだったのではないか? と……。
 もし、彼の事を愛していたならば……悔しくても、少しは彼の懺悔する姿を思う事と彼が苦しんでいる事を理解する事が出来たかも知れないのに。
 たとえ、別れても、彼も苦しんだのだ……という事が、少しは心に残っていたはずなのに。

 そういう脱力感。
 なんとか椅子に座っているような感じだった。

「だから──見ていられなかったんだ。渡瀬の事」
「そ、そうだったの」

 そして私は心の中で、加納君に謝っていた。
 『シングル男のひがみ』だなんて思って、ごめんなさい……と。

「森崎は……解ってくれそうだと思っていたんだけれど。彼女の事も止めなかったみたいだったから……どう思っているのかと思って」
「どうって……。だから、どうでも良かったの。ずるいでしょ」
「でも、確かに──どうにもならないかもな」

 加納君が呆れたように笑っていた。
 そこで私もふっと微笑んでしまっていた。

「そうそう。森崎ってさ……すっげー怖がられているぜ。先輩にも」
「え!? どうして?」

 そんな事を言われたのは初めてで、私はドッキリとしてしまった。

「なんかこう……男には期待しないって言う目、ありありと出ているぜ? 普段から。それと『俺達が何をするか思っているか知っているみたいだ!』って……さ。はっきり言って馬鹿だよな」
「え、ええ? 私……そんな風には……」

 と、否定したかったが。
 自分には解らない姿を人は見てしまっているのかも知れない……と、こうして加納君と話して思う事が出来た。
 そして、心の奥にしまっているはずの『気持ち』は、実は日頃、じわりじわりと滲み出ていたかも知れないなと。

「だから、彼女は森崎が何を思うか知りたくて、森崎にばかり話をしているのじゃないか? そして、森崎が言い放つ事も知りたいけれど、怖いんだよ」
「そ、そうなのかな!?」

 そして加納君の目が、そこで輝いた。
 なんだか私にはとても厳しい目に見えておののいた。

「だから……森崎が駄目だと言えば、あるいは」
「……」

 私が止めなくてはいけなかった事なの!? 自分で選んだ事じゃない? いい大人なのに!? と、言いたかったが……。
 私はその彼の言葉に降参していた。
 そう、彼女がどう思うかなんて気にせずに、駄目な事は駄目と言えば良かったのかも知れない……と。

「ま、『あるいは』と言う事。結局、お前が言っても突っ走りたい気持ちが勝れば、ああなっていただろうし?」
「……そうね」

 でも、今度は私が後悔をしていた。
 本当に……そうすれば、彼女も、新婚の彼のよこしまな欲望も阻止する事が出来たのかも知れないから。

「それが、加納君が私に言いたかった事?」
「いや、ここまで言うつもりはなかったけれど。うーん、ごめん。腹立たしいから、森崎に聞いてもらいたかったのかも知れない」

 と……彼が急に面目なさそうに笑っていた。
 けれど私は彼に言う。

「有り難う……。私も気が付いた」
「い、いや……俺、そんなつもりじゃ」

 でも、私は彼に感謝の微笑みを向けていた。
 そして椅子から立ち上がって、喫煙室を出て行こうとした時だった。
 彼が煙草をくわえて、ライターで再び火を点ける音がした後……。

「そのさ……騙されたと思って、俺と呑みに行かないか?」
「え?」
「そのさ……騙されたと思って……。いつまで男をそうして見ているつもり?」

 私は振り返って、目を見張っていた。
 けれど、彼は『騙されたと思って』を繰り返しているのだった。

「うん、そうね」
「マジ? やった!」
「!」

 彼の顔が急に輝いた。
 私は──『もしかして?』とふと思ったのだが。
 ああ、もうこれ以上勘ぐるのはやめようと思った。

 騙されたと思って……後先考えずに行ってしまうのも、あるいは勇気なのかも知れない。

「でも、もう……彼等の話はしたくないわ」
「あったりまえだ! そんなつまんない話なんかで、酒を不味くはしたくないからな! 俺も」

 そんな風に言い切る加納君を見て、私は微笑んでいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 勤務時間が終わり、私は加納君との待ち合わせ場所にいた。
 会社から離れている、それでも地元ではごく名は知れている店の前で……。

 けれど、彼は待ち合わせ時間に来ない。
 私が時計を見て、溜め息をついていると、やっと彼がやって来た。
 が……! その加納君を見て、私は仰天した。

「はい、これ。いいだろう?」
「ちょっと……!」

 加納君がそういって私に『薔薇の花束』を、突きだしていた。
 あれほど、『彼等』と関わる話題はしたくない……と、言ったはずなのに、私は憮然としてしまっていた。

 けれど、面白がっていた加納君の顔が急に柔らかい微笑みで、私を見ている。

「なにもこういうロマンまで否定しなくてもいいじゃない? 嬉しいだろ? 本当は嬉しいだろ?」
「……」

 最後の方は、また、からかっているような言い方だったけれど……私はまた気が付いてしまう。
 そう……私も女だもの。
 こういう期待に敗れたような顔をして、全てを否定していたけれど……本当のごく自然な女心は何時になっても捨てられないものなのかもしれないと。
 彼の笑顔がこう言っている。
 『委ねちゃえよ、思うままに』──と、私にはそう見えた。

 だから、私は花束を手に取り、彼に微笑む。

「うん、嬉しい。有り難う……」

 そして今度は彼が……真顔で言った。

「──もう、彼女には償えないけれど。せめて、彼女のようになってしまっている女性に、今度は……」
「え?」

 けれど、加納君はそこで私から視線を逸らしてしまった。
 そして彼が本当は何を言いたかったのか、解って……そして、私も言う。

「──もう、彼を許すのは遅すぎたのだけれど。そんな男性に、今度は大丈夫と言ってあげたい」
「森崎──」

 私達は微笑み合って、店へと肩を並べた。
 私は誇らしげに花束を抱えて……。

 

 その後、ピアスの彼女は『ふられた! 会社を辞めてやる!!』と、私に泣きついてきた。
 それでも一週間もすれば、けろりとしていて、彼女はイケメン先輩とすれ違うたびにツンと無視を決め込んで、まだ同じ会社にいる。
 そして──新婚の彼も、携帯電話を片手に落ち着きなく外へと出て行く姿も見なくなり、真面目にデスクに座りこんでいる姿が戻っていた。

 そして──私は、その後どうなったでしょうか?
 ああ、そう……『怖い目をしなくなった』と、彼が言ってくれています。  

 

 お読みになって下さって有り難うございます。
 宜しかったら、ご感想を頂けたら嬉しく思います。



執筆 2005.9

 

|BACK|
Copyright (c) 2000-2011 marie (moriya) All rights reserved.