・・フランス航空部隊・・

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9.石畳の街の宿

 

 白壁の街なみの中。石畳の街。賑やかな繁華街。

 葉月は基地からタクシーを拾って、これから二ヶ月を過ごす予定の宿に辿り着く。
 外国らしく、素泊まりが可能な『月極の宿』。
 いわゆる、マンスリーで契約ができる、日本では最近耳にするようになったシステムの宿。
 それも、康夫が見つけて予約と契約をしてくれた。彼と雪江が暮らすマンションの側だった。

 もちろん、基地から徒歩で行ける。
 今日はスーツケースが重たいのでタクシーを使ったのだが──。
 そんなに高級感はないが、清潔感があるごくごく庶民的な造りのホテルに、タクシーが到着。

 研修という短い期間なら、基地内の宿舎に宿泊することも可能だった。もし男性隊員が単身で海外の基地へ二ヶ月の研修に行くというのなら、きっとそうする男性が殆どだと思う。なにせ基地内だけあって経費がかからない。
 でも、康夫もそうだったが、送り出してくれた小笠原の連隊長も、『マルセイユ部隊には女性専用の宿舎がない』ということで、外に泊まる手配をしようという判断をしたのだ。
 今回のことは、女性専用がないならば、葉月だってそこは仕方がないと思う。でも女性故に経費がかさむのはやや心苦しい部分がある。実際に葉月はいつだって『男性と同じようにしてほしい』と主張する。
 しかし、今回もこうして意地を張る嬢ちゃん中佐を、小笠原連隊長が上手く諭そうと必死になった。

『いいか? おまえのその気構えは正しいと思う。しかし、身体はどうしたって女なんだ。いくら、おまえが護身術に長けていても、おまえが護身術を使わなくてはならない程のことが起きたら、それは、間違いなく問題沙汰になり、どっちが正しいかなどという裁きも始めなくてはならない。おまえだって嫌だろう? お互いが傷つくだけだ。仕事上でもタイムロスだ。女だから……というヤツには言わせておけ。男だけの宿に泊まる事を勧める方が正しい判断だなんて言う者は、そちらの方がどうかしている。そうだろう? 葉月』

 連隊長のいつものごもっともなお言葉には、納得せざる得ないことばかり。
 中将である連隊長のお墨付きがあればこそ、そこは気兼ねなく外の宿を取れるというものではあるが、やはりどことなく腑に落ちない自分もいたりする。

 『訓練』の時は、どうあっても男子達と寝食を共にせねばならぬのに、『訓練』以外では女として扱ってくれるのは何故か? と。
 葉月は、どちらかというと『正々堂々』、男性陣と同じ事をして、気に入らないと突っかかってくる者がいるなら『正々堂々』と『喧嘩』をしたいのだ。
 とっくみあいの喧嘩など、訓練校生の時に経験済みである。
 それが、『幹部将校』には許されないこと。手を出せば、問題になるのは将校の方だ。
 つまり、一訓練生の時より行動がしにくい立場であるということ。

 とりあえず傷つけ合いは、やっぱりごめんだし、康夫に迷惑をかけるわけにもいかない。さらに『大人になれよ』と言い放つ康夫と連隊長に言われたとおり外に宿を取ることにした。
 『お手当』を頼るのは好きではないが、『仕方がない』と、割り切ることにした。
 これが本当に身体でも張る任務なら遠慮なく『お手当』を受けるのだが、『気分転換』とか『自分にあったお相手探し』とかいう、なんだか『お嬢様の特別研修』みたいだから気が引けるし、葉月自身も『遠野の影』を見つけるのが目的と心では感じているので、なおさら、気が引けるのである。

 でも、そこで、葉月の耳の奥で、そんな連隊長の声が聞こえてくる。
 ──『なんでもいい。なにかやる気を起こしてくれ』。
 彼はきっと、今にも墜落しそうな葉月をなんとかしようと、必死になってこのマルセイユへと見送ってくれたのだろう。
 彼のそんな声が葉月の耳の奥で、ちいさくともこだましていた。

 そして葉月もそんなに必死になってくれる連隊長『ロイ=フランク』の言うことには、耳を傾ける。

 小笠原連隊長、ロイ=フランク中将。彼は若い。
 三十代で中将という、葉月の父親と同じ地位にスピード昇進をした切れ者。金髪青眼、絵に描いたようなアメリカンハンサム。彼も葉月と同じで『フランク家』という軍人一家の息子。父親がフロリダ本部で大将をしている、いわば彼も『二世隊員』というわけだった。しかしそんな父親や親戚の縁故もなんのその。『氷の連隊長』と呼ばれるほどに、仕事となると非情な男となる。そうして登りつめてきた彼。二十代に既に大佐という経歴を手に入れ、三十代ではとんとんと中将まで昇進。若さという斬新な思想でここまで来た彼。それが故に、その若さで一つの基地を任されているのだから。今は葉月の一番の上司。そして身近な『義兄』でもあった。
 この小笠原連隊長『ロイ』は、葉月とは親戚に近い関係。実は昔、彼は姉の婚約者だった時期があった。無論、真一が『谷村家』との間で生まれているので、この連隊長との結婚は『破棄』ということに……。それでもこの連隊長、ロイはずうっと姉を忘れていない。だから妹の葉月のこともいつまでも目にかけてくれている。因みに、葉月と同じ中隊にいる『幼馴染みのジョイ』というのは、この連隊長の『従弟』。ロイと姉の縁があるから、葉月とジョイは幼馴染みで『姉貴分と弟分』という関係。そんな『フランク家と御園家』は昔から親族的付き合いをしている。この二家族の強い繋がりが、軍隊では結構大きな派閥として存在し、その互いの信頼性も手伝って揺るがないものとなってもいる。
 だから、ロイは……。姉との結婚は果たせなかった今でも、葉月のことを本当の妹のように心配してくれるのだ。
 だけれど仕事は厳しい。そこはどんなに義兄と義妹に近い関係でも、『正しいお仕事を教えるのが義兄の義務』とばかりにビシビシと鍛えてくれる。だからこそ、葉月はその厳しいバックアップがあって、力をつけることが出来たと言っても過言ではない。
 でも、もしかしたら本当の義兄妹になったかもしれない関係。葉月はそんなロイを尊敬しているから、やり手と囁かれ誰にも認められている若い彼の期待に応えたい。彼にも認められたい。その気持ちもあって小笠原の基地で精進している。

 でも……と、葉月はホテルを見上げて一人呟いた。

「ロイ兄様、ごめんなさい。やっぱり……こんな気持ちじゃ、きっと駄目」

 だって、大尉にも逃げられた。
 連隊長に妹のように甘やかされてやってきたお嬢様。彼はそう思っているのよ、兄様……と、葉月は呟く。
 やはり、こんな出張、間違っている。
 葉月はそう思うばかりだった。

 それでも今夜は泊まるところはここしかない。
 葉月は重い足取りでスーツケースを引きずって、宿のドアを開けた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「いらっしゃい! 藤波君の紹介だね。藤波君はここらでも有名な日本人パイロットでね!」

 フロントにいたご主人はチェックのシャツを着た気さくそうな普通の男性だった。

「お世話になります」

 葉月は楚々と笑顔を見せ、挨拶を交わす。
 見た目どおり、とても気さくなご主人だった。
 そんな彼が、葉月をじっと見つめている。

「パイロットだって? いやあ……。そんな風には見えないなあ。藤波君からね、良いところのお嬢さんだから、人の出入りには気を配ってくれって言われてね。うちはね、そこのところはきちんとしているから、安心しておくれ」

 もう還暦は超えていそうな、白髪で頭髪も薄いご主人が絶えず笑いかけてくれる。
 肩肘張っていない『親父さん』と言う雰囲気で、葉月も安心を得る事が出来たし、康夫の気遣いにも感謝をした。

 葉月が親父さんに案内されたのは、四階の一室だった。
 『好きに使っておくれ』と言う親父さんは、葉月にキーを手渡して、さっと出ていってしまった。

 中はワンルームだったが入り口からすぐがリビングのような形になっていて、フローリングにムートンの敷物がありテーブルとソファーがセッティングされていた。
 そして、部屋を二等分するかのようにリビングから向こうは少しばかり段差があって、そこから薄くて白いカーテンで仕切られてある。そのカーテンを開けてみるとセミダブルのベッドが置いてあった。
 そしてここにも、ベッドの足元には小さな丸テーブルと椅子がセットされている。
 木の香りがするこの小さな部屋が今から二ヶ月間の葉月の住まいになるのだ。

(うん。なかなかいいじゃない?)

 葉月は、康夫に再び感謝をしながら、夕日が入り込んできた窓辺に立ってみる。
 窓は、外国らしい『持ち上げ式』の窓だった。
 窓をゴトッと開けてみると……行き交う人々の声、車の音、そしてちょっと先には港が見える。

(こんないいところ。二ヶ月もいること出来るかしら)

 葉月は、澤村大尉に、はなからすっぽかされたことを急に思い出して、窓辺の潮風に揺られながら溜息をついた。

(こうしていても、仕様がないし──)

 葉月は早速、荷物を最小限だけでもと、ほどき始めることにした。
 着替えの制服類、訓練着の飛行服、テキスト、そして化粧品など……。
 ソファーも、テーブルもベッドも、小さな丸テーブルも。今日一日でさらに抱え込んだ気持ちを重く感じないようにしようと、気を逸らすかのようにして、自分が使い勝手の良い位置や向きに懸命に直した。

 すべてを終えた頃にはもう遠くの海の水平線に日が沈んで星がちらつき始めていた。
 そこで、やっと、潮風にあたってじっとりとしている髪に気が付いて、今度はバスに入ることにした。

 自宅から持ってきたお気に入りのミルク色になる入浴剤を湯の中に放って、やっと一息お湯につかる。
 バスタブの中、目をつむって……好きな香りを胸の奥まで吸い込んで。肩の力を抜いて……。極上のひととき。
 でも、ここで無になって、その隙を狙ったように滑り込んでくるもの。そこで、また葉月は闇にはまりそうになる。

 もう、ずうっと……。
 こうして落ち着くと、遠野大佐の笑顔をより鮮明に思い出してしまう瞬間が多い。

『じゃじゃ馬、こっちを向いてくれ。素直になればお前も可愛いのになあ』
『帰ってきたらずっと、俺の側にいてもらうぞ』

 今日も聞こえてくる、そんな彼の言葉達。

『おまえは、月みたいな女だな。手に届きそうなところにいるのに、本当は遠くにあって輝いて見えるだけ』
『蒼く輝く月。名前通りだな』

 最後に彼が自分をそう例えていったことが今も頭から離れない。
 手に届くところにいるのに、本当は大佐にとっては遠い存在の自分だったのだろうか?
 だから、彼が帰ってきたら本当に今度こそ、妻のことを気にせずに全力で愛してみようと待っていた。
 なのに、まるでそれが神からの罰のように彼は二度と帰ってこなかった。

 その上、穴だらけの身体で帰ってきた。
 顔は何故か安らかだったのがよけいに痛々しくて……。
 葉月は再び、顔を覆ってすすり泣き始めていた。これが後悔というのだろうかと。
 湿った肩先の栗毛さえもが、塩の味を含んでいた。

 泣くのも、いつも一人。
 ずっと一人。
 そして一人にならないと泣けない自分だった。だから……。

 

 

 泣くだけ泣いた後、やっと落ち着いてバスからあがり、葉月はいつも寝る時に身につけるシルクのスリップドレスを着て、ガウンを羽織った。
 そしてここにきて、葉月の心が強く感じた物が鮮明になってくる。

(そう。私は彼がいたフランスから彼の影を見つけようとしてきただけ……。それだけのこと)

 より一層、自分の心の本心に気が付いて、決心をした。

(帰ろう。日本に……。明日、大尉と会って、彼の本当の気持ちを聞いて、彼のことを尊重しよう)

 早いうちが良い。
 それなら、経費もかさまずに済むし、お互いが気にそぐわなかったで済ませることもできる。
 康夫はがっかりするだろうが、彼の立場が悪くならないようロイを説き伏せればいい。
 自分がここまで来た訳のことを思えば、大尉に逃げられて当然。
 『研修』など、本当に名目であって、その上『お嬢ちゃんの部下になる』なんて話を持ち上げたら、頭が良さそうで上に媚びない彼のこと……。一族に守られて甘っちょろいお嬢様の秘書なんてやってられるか!! ──なんて言われるに決まっている。

 葉月はそう思いながら、ベッドルームの小さな丸テーブルにて、大切にのばしてきた髪を、唯一自分が女だと感じられる栗毛を櫛で解く。
 お肌だけは、念入りに手入れをしていた。化粧はあまりしないが……。
 いつもの夜の日課を終え、遅いランチを取ったこともあって、夕食には出掛けずに床についた。

 窓辺には、星が散らばっていた。
 波の音も微かに聞こえてくる。

(私の自宅によく似ている)

 『島』に住んでいる葉月はそんなことで落ち着いてすぐにまどろむことが出来た。

(今日、会った人。明日もし会えたらお礼を言わなくちゃ。でも。本当の私のこと知ったら……もうあんな風には話してくれないわね)

 嘘をついたことをほんの少し後悔をしていた。
 それを頭にかすめたのを最後に葉月はスッと眠りの渕に落ちていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 次の朝も快晴。

 心が決まった葉月は何処かしら今日は清々しく目覚めることが出来た。

「おはよう。おじ様」

 フロントに出て来た葉月を見て、親父さんもにっこり。

「レストランに食事が出来ているよ。今日は飛ぶならしっかりお食べ」

 フロントの横には、喫茶店を兼ねた小さいレストランがある。
 そこで、親父さんの奥さんが宿泊客の食事をまかなっていた。
 素泊まりなので、そのレストランで注文するか、外で好きに食べるかになっている。
 奥さんも田舎風の女性だったが、気さくで明るい小太りのママンだ。

「中佐。せっかくフランスに来たんだから朝はこれでね」

 ママンは親切にお手製のフレンチトーストを出してくれたあと、自家製のヨーグルトを葉月だけに出してくれた。
 初日からそんなサービス。

(なんだか。出ていきにくいわね)

 葉月はそう思いつつも人情的なところは小笠原の島民と一緒だなと噛み締めて、さわやかなモーニングを取ることが出来た。

「いってらっしゃい」

 ホテルアパートの管理人ご夫妻に見送られた葉月は、気合い充分に出掛ける。

 基地までは徒歩で十五分ほど。
 いつも使っている黒いプラダのリュックを肩に掛けて石畳の街を一人歩く。
 『ボンジュール』と言う声が町中で響き渡る。
 魚が捕れてそれを車で引いている漁師、風景は『小笠原の島』と本当に似ているが、色彩はこちらの方がビビッド。
 栗毛をなびかす潮風は、今日はなんだか心をくすぐってくれた。

(今日こそは、なにもかもが上手く出来そう……!)

 葉月も街の風情に乗せられてそんな気がしてくる。
 と、言っても『なにごともなく、日本に帰る』という気持ちの『上手く終わる』という変な期待心から来てしまっているテンションであるのが、哀しいが。

 基地に近づいてくると、制服姿の軍人たちが車で出勤する姿もちらほら目立ってきた。
 自転車にリュック姿の栗毛の隊員。
 ビジネスマンのようにアタッシュケース片手のひげの隊員。
 黒塗りの車でご出勤の将軍らしき初老の男性の姿も……。
 そんなところも基地がある小笠原と変わらなかった。

 葉月がそうして丹念にこの街の雰囲気を味わっていると、自分の横を自転車が通り過ぎたのだが、急にキッと高いブレーキ音を響かせ、葉月の目の前で停まった。
 葉月の前で停まるとは、なにごとかと、自転車にまたがっている人を見ると……。

「ボンジュール。昨日はどうも」

 満面の笑み、二本指の軽快な敬礼をしてきた男性は、昨日の眼鏡の彼!
 まさか、もう再会!? 基地に行って、どう探して御礼を言おうかと思っていたのに、もう会ってしまったという驚き! それと同時に『中佐』という身分がばれないように、すぐさま上着を脱ぎたくなったが──遅かった。無駄な抵抗と分かっているが肩章が見えないようにリュックを背負って肩を隠そうという気持ちにもなったが、彼には既に見られていたようだから観念した。

「中佐──だったんだ。もしかして、通訳って結構なお偉いさんの側近か補佐をしているってこと? 秘書室には、若くてもそういう地位を持っている人はいるからね」

 彼が呆れたように、でもあの優しい柔らかな笑顔を見せてくれている。

「ウン……そ、そうなの」

 未だに嘘をつこうとしていて自分でも呆れた。『秘書室にいるから、若くて女性でも中佐』。まさか、そんなことあるものか。秘書室で女性で中佐だったら、よっぽどだ! それほどに、秘書室とはキャリア組エリートの巣窟なのだ。もしそこに葉月のような女中佐がいたら、康夫のような部隊に研修にだってくることはない。なのに……。

「中佐と言ってくれたら、俺だって、それなりの礼儀は尽くしたのにどうして?」

 まるで『どうして騙した?』──と、詰め寄られているようで、葉月は黙り込んでしまった。
 そんなうつむく葉月を見ても彼は昨日と変わらぬ笑顔で穏やかに笑っているだけ。
 だから……葉月も、今度こそは心にある本当のことを素直に口にしていた。

「礼儀なんて、いらなかったの。あの時は……」
「ふ〜ん。なるほどね」

 彼の眼鏡をかけていない瞳がなんだか康夫そっくりの見透かしている眼差しに輝いたので、葉月はおののいた。

「そうなんだ、それは有り難かったね。じゃあ、そういう事にして。俺としても、普通のお嬢さんとサボったことにしておくよ」

 彼のこの上ないあの笑顔に、葉月は顔が赤くなるのに気が付いて、さらにうつむいてしまう。
 その上彼は、葉月が中佐と判っても、からかうような笑いをこぼしてばかりで、まったく余裕だ。
 中佐と判ったからとて、まったく昨日と変わらない彼の様子を知って、葉月は思い切って切り出した。

「あの! 昨日はご馳走様でした。本当に美味しかったわ。ここに来た良い記念になったと思っているの!」

 葉月は帰る前に再び会えたのだから、後悔なきよう素直に言っておこうと、心にある本当のことを彼に伝えようとした。
 すると彼が、あの優しい笑顔をその顔にいっぱいに広げて見せてくれる。

「本当に? だったら良かった。もっと良い所にすれば良かったのかなと、俺もあの後、後悔していたんだ」

 葉月は『ううん!』と、首を振る。

「あのような所が良かったの。海の側で落ち着けて……素敵なところだったわ! それに、マルセイユそのもののお食事が出来たし。あなただって、他にお勧めは出来ないっていっていたでしょう? フルコースの高級レストランより、地元の美味しい物が食べたかったの。だからすごく良かった!」

 葉月は、ここぞとばかりに、心にある感謝の気持ちを述べていた。
 彼に『御園の娘』と、ばれる前に──。
 御園の娘と知ったらおそらくとっても驚いて、この素直な言葉も、もしかしたら社交辞令に取られ兼ねない。

 実際に葉月はそう思われるほどの……『資産家軍人の娘』だった。
 皆が『お前は、いつもいいもん食っているだろ?』とか直ぐに思うし、言うからだ。

「オススメの木イチゴのタルトすっごくおいしかったし! あの……」

 そこで名前も知らない彼を『階級』で呼んで、お礼を言おうと思い……。葉月は彼の肩章を見て……息をのんだ。

(大尉!?)

 葉月の目線を見て、彼が寄り一層、余裕気に微笑んだ気がした。
 葉月はそこで頭の中でなにかがぐるりんと回り始めたのを感じ、混乱する!

 大尉で! あの航空書籍を読みこなして! 日本人! もしかして!?
 澤村という葉月を無視した男は、大尉で、航空メンテ員だからあの航空学書も知ってるだろうし、日本人で……。
 え? 昨日の彼は、もとい、目の前にいる彼は、『工学科員』ではなかったということ!?
 言葉にならずに、ただただ彼を指さしてしまっていた。そんな葉月を見て、彼はまた楽しそうに笑っている。

「じゃあね。またご縁があったら連れていってあげるよ。お嬢さん」

 彼は唖然としている葉月に敬礼をすると、颯爽と自転車で去っていってしまった。
 ただ真っ白に……。そこに一人、ぽつんと残された葉月。

 (うそ! まさか!! だとしたら、どうして!?)

 もし彼が、澤村大尉だったとして……?
 いつから、自分を『御園中佐』として見ていたのだろう!?
 それとも? 未だに何処かの側近のお嬢さんと思ってるのか?
 それとも? 大尉はごまんといるし、あの本を読む人も航空基地にはいっぱいいるだろうし!? 日本人だって他にもいるだろうし!?

 様々なことが入り交じり、益々葉月は混乱する!
 でも、葉月の直感はもう逃げられないほどに『澤村大尉』という答を出していた……。
 だが、はずれていて欲しいとまだ願う自分。

(ちょっと……待って? どうして、こんなことに?)

 こんなの、いつもの自分じゃない?
 これでも一個中隊の管理を任されてきた『中佐』なのに……。
 だって、こんなに知らない男性に手玉に取られたの初めて?

 葉月は一時、街の白壁に手をついて落ち着こうとした。
 大尉でもない中佐でもない──。昨日の、そんな関係性の中、彼の目の前では決して基地では見せていない自分をさらけだしていたようなあの気持ち。葉月は『知られてしまった』ような、どうしようもない気持ちにさせられる。

(これは幻とか……嘘とか……違う人だって言って!?  お願い、神様!!)

 葉月は心で叫んで、がっくりと、うなだれた。
 こんなに神様に懇願してしまうほどに、心が揺さぶられることだって、滅多にない!
 あの人は、怖い人。雪江が言っていたとおり、いいや、遠野が言っていたとおり、いいえ、やっぱり康夫がやられるだけある!

 え? もしかして? これから『あんな人』と仕事?

 それってどっちが『上』になるわけ?
 葉月は先が見えなくなり、やはり『日本に帰りたい!』と、心の中で思い切り叫んでいた。
 澤村大尉、恐るべし! だって、私をこんなにしてしまう年上の人。中佐の顔で仕事なんて、絶対無理! 葉月の心の底からの声だった……。

 

 

 そしてこちら、『してやったり』の自転車に乗っているお兄さんは──。

(面白いお嬢さんだなあ)

 あまりの可笑しさに、腹を押さえて大声で笑いたい。だが目の前はもう職場だった。
 警備口でIDカードにて身分証明をするのだが、そこでも窓口にいる警備員に『サワムラ、なんだか楽しそうだな』と言われてしまった程、まだ顔が緩んでいたらしい。

「まあね。ひょんな事があってさ」

 隼人は基地の外をもう一度覗いて、がっくり項垂れながらもやっと歩き始めた『面白いお嬢さん』を確かめて、またくすくすとした笑い声をこぼしてしまっていた。

 

 

 

Update/2007.9.8
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