・・フランス航空部隊・・

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12.恋した人の後輩

 

 本当ドーナツを買ってきた隼人が、中佐室に戻ってきた。
 既に泣きやんでいた葉月は、手元の資料を覗き込んでいる時だった。

「おかえりなさい、大尉。みっともない所をお見せしてしまって……」

 葉月は申し訳なく思い、そっと俯いた。
 聞こえてきたのは、彼の溜息。

「まったく。どうしようもない先輩だな。ここを出ていった時から、ちっとも変わっていなかったということか」

 本当に遠野のことを知り尽くしていると思わせる口振りに、葉月の胸はざわざわと波立ってくる……。『ここを出ていった時から』だなんて、出ていく前の先輩を俺は本当に良く知っているよと、葉月には聞こえたのだ。
 彼から遠野を感じる事、これを願ってきたというのに、いざとなると硬直してしまった。

 そんな葉月の元に、茶紙に油が浸みている袋をテーブルに置いて、隼人はソファーに戻ってくる。

「昔からなんだよ。最後にいっつも俺の所に付き合った女を送りつけるんだ」
「わかるわ、それ」
「だろ?」

なんだかその光景が目に浮かんでしまって、葉月は思わず笑ってしまった。
葉月の機嫌が落ち着いて、隼人もほっとした様子で話を続けてくれる。

「そうだったんだよなあ〜。仕事上でトラブルがあったらいけないから『おまえ慰めろ』と、いっつもな!」
「まあ、ひどいわね。私の所に来たときも、いつも取り巻き連れて食事をしていたわ」
「だろう? まったくこっちにいた時も同じだよ。事務課の女の子を誘ってはたぶらかして……。それでもなんでかな? 別れても、別れても『祐介と付き合ってみたい』というマドモアゼルが絶えないこと。黒髪のエキゾチックな顔が良いとか言ってさ! ここは航空部隊でパイロットよりも工学科員とか整備員が良いからね。先輩みたいな逞しい陸系の男は、なんだかもてたみたいだね。それとも先輩特有の雰囲気がそうさせていたのか……」

 そこまで夢中になって話していた隼人が、急に口をつぐんだ。そしてまた葉月の様子を心配そうに窺っている。きっと葉月をまた泣かすような思い出話をしてしまったと思ったのだろう?
 しかし葉月は懐かしく思えるだけで、もう笑顔で聞くことが出来る。涙は先ほど充分に流した。意識の中に眠っていた抑え込んでいた悲しみが、溢れ出るように……。だからもう大丈夫。
 そんな葉月を確かめた隼人は、勢いで先輩をこき下ろすような姿勢は収め、途端に静かな口調で再び話し始めた。

「あのな……先輩って。お気軽なお遊び感覚の女しか相手にしなくて。でも一度だけ、俺でも慰めきれなかった真面目な女の子がいたんだ。先輩は、その子の真剣な思いを判っていて相手にしなかったんだ。彼女は、先輩に告白をして、振られた。その時、先輩がこう言ったらしい。『君、みたいな女の子には俺みたいな軽い男じゃダメだ。もっといい男がいる』だってさ。そうしたら彼女も、先輩が大切にして手を出さなかったんだと気が付いてね。きっぱり、諦めつけて、ここの隊員と結婚して今は幸せに暮らしている。先輩は、そういう男で……。何処か憎めなくて、本当に男らしい人だった。そんな先輩が、君のような女性にとうとう手を出したとしたら……」

(手を出したとしたら?)

 それは事実なので、葉月はどう隼人に思われているのかと緊張する。遠野との関係、それが成立したのは彼の言葉にあるように『お軽い女の部類』と思われたのだろうか、と……。

「お嬢さんは、何処か警戒心が強そうだね。そのお嬢さんを落としたわけだ。先輩、必死だっただろ? 目に浮かぶよ。本気だったんだろうな。今までは別れた女はごまんといたけど、今度は俺が捨てられるかも〜って。案外、自分のこととなると不器用な人だったからね」

 『当たっている』と、葉月はやっぱりこの人は遠野の後輩だと強く感じた瞬間──。
 葉月の耳の奥に、懐かしい遠野の声がかすかに聞こえてくる。

 

『葉月。どうして愛していると言ってくれない? 俺のことはなんだと思っているんだ。女房のこと抜きで、素直に言ってみろ? どうなんだ!?』

 遠野には度々、このように問いつめられた。

『おまえは独身だからな。いつだって独身の男を見つけることが出来るから、妻子持ちの俺なんか直ぐに捨てるんだ。おまえの方が遊びなんだよ』

 葉月の気持ちが見えないと、いつもふてくされ口悪を叩いていた亡き人。

 その度に、なんて寂しそうな顔をするのだろう……と、そうして葉月は彼を受け入れてきた。
 いつも必死な彼に詰め寄られてやっと一言──『愛している。傍にいて』──と、心の奥で制御している気持ちを口にしていた。

 

 願っていた通りに、彼の後輩から生前の話を聞いて彼を久々に近くに感じた気がしてきた。
 でも……それは、より悲しいことと、今、気が付いた。
 一応、隼人には軽くはない女と見てもらえて安心はしたが、まるで生傷に塩をもみ込むような気持ちになる。
 今度は先ほどのように涙は浮かんでこない。いつもの自分に戻ってしまったのだと葉月は思った。

 いつも、思う。
 一人の時なら、泣ける時は泣けるのに。
 時々、感情と意識がばらけていると思うことがある。先程のように。

 それは、遠野が亡くなった時もそうだった。
 最初の知らせを聞いた時は涙が出ず、ひたすら遺体搬送の手続きに追われていた。
 その時、第四中隊の本部員は『あんなに信頼していた上司の死にも揺るがない無感情女』と、ささやいていた。
 しかし、そんな隊員達の批判的な言葉を止めたのは、葉月が遠野の遺体を確認した時──。
 康夫のフライトチームが護衛をしながら運搬してきた遺体を見て、彼の顔を見て、葉月は泣き崩れた。大声で泣いていたらしい……。

 葉月は、その時のことも、その後の事も、あまり覚えていなかった。
 遠野と一緒に遠征に行っていたフロリダの父が葬儀に駆けつけて来たの時、『おまえという娘は……。可哀相に。昔にあったことを思えば私は何にも言えなかったよ』と呟いていたとか。
 茫然失意の状態に追い込まれた葉月は、父の手添えで葬儀場に出掛けたと聞かされた。

 そんな葉月の意識が戻ったのは、彼の棺を見送る時。
 『あなたに全てを伝えていない』と泣き叫んだ時だ。
 あの時にやっと、彼を見送る時になってやっと……現実逃避をしていた葉月は、痛いばかりの現実を目の前にして帰ってきたのだ。

 父が言う『昔にあったこと』。実は葉月には、少女の時に受けた傷があり、それが未だに癒えていないところがある。
 それをきっかけに、軍人になったようなもの……。
 それがきっかけで感情表現が下手になってしまった娘に、父は頭を痛めているところがある。もちろん母も。
 その元凶も、ごく少数の親しい人間しか知らないこと。もちろん、康夫と雪江は長い付き合いなので知っているのだが。
 今まではただの『感情表現下手』で済ませてきたことが、遠野の死によって、どの感情とも上手くつきあえない自分が、かなり根深く残っていることを思い知らされたのだ。
 生前の遠野は、葉月の『感情表現下手』をなんとか治そうと必死だったのも知っていた。
 最初は『どうにもならないのに、しつこい人』と鬱陶しがっていた。
 しかし徐々に心を許すことによって、葉月にも感情表現の幅が生まれた。
 本部員たちは『御園中佐は変わった。柔らかくなった。話しかけやすくなった』と、葉月を変えた遠野の指導振りも評価されていたのだ。
 ただ一人、幼なじみのジョイは──『今頃気付いたのかよ。お嬢は元々そういう子なんだよ〜だ』と、言っていた。
 だが遠野の死により落ち込む女中佐はまた、元の『無感情令嬢』に戻ってしまい再び皆が持て余したりしていた。

『仕事が出来ても、部下にも慕われなくてはな』

 遠野が残した教えを、実行できずにいた。
 彼がいない事がこんなに大きいなんてと噛み締める日々……。

「実は、康夫から聞いた……」

 一人しんみりしている中、急に隼人の声が耳に飛び込んできて、葉月は我に返った。
 それと同時に『何を聞いたの?』と、ひやっとさせられる。

(まさか。あのこと!?)

 葉月は、ごく少数の人間しか知らない『元凶』のことを、康夫が喋ったのではないかと怖れを抱いた。
 しかし隼人が話し始めたのは、違うことだった。

「葬儀の時に取り乱したんだって。あの後、康夫はフランスに戻ってきてもなんだか元気がなかったな。もちろん可愛がってくれた遠野先輩の突然の死もショックだったと思うんだけど。『葉月が心配だ』と何度も口にしていた。俺は君のことを知らないし、いつもじゃじゃ馬なお嬢さんだと聞かされていたから、その時は気にも止めなかった。先輩に簡単に引っかかるのが悪いって思っていたんだ……。でもな、昨日の君が御園のお嬢さんと判った後に気が付いた。君は『令嬢の肩書き』を嫌っていて、令嬢故に警戒心を強くしているだけなんだと。だから、本当の自分が出しにくくて、流石の先輩も手こずっただろうね。それに──こんなに可愛い側近が毎日側にいたら、あの先輩のこと。気が気じゃなかっただろうな。毎日どうやってモノにしてやろうかと考えてたのも想像できるよ。先輩にとっては最後の本気だったと……。そして君は残されてしまい……」

 そこで隼人が、懐かしそうに伏せていた眼差しを開けた。
 あの、きらっとした瞳で葉月を見据える。葉月もドキリとする程の……眼。何も言えなくなるその顔で彼が言った。

「そして、俺の所に来た」

 一番見透かされたくないところを見抜かれて葉月は息を止めて固まってしまった。
 でも。……その通りだ。と、葉月はそっと項垂れる。
 そんな葉月を見て、隼人が小さく笑い声をこぼした。

「案外、正直なんだね」

 またまた、葉月は硬直。
 昨日から、彼にはなんにも隠すことが出来ないでいる。

「別にいいよ。先輩の異性関係には慣れているし。それとも不倫だったことを気にしているとか? あいにく。先輩の不倫歴は散々目にしてきたんでね。今更、驚きはしないよ。それに……俺、先輩の奥さんってあんまし好きじゃなかったんだ」

 葉月にとっては、どうにも顔を向けられない女性の話が出てきて、尚更に身体が固まっていく。
 それにも隼人は素早く気が付いてくれた。

「あ……いや。不倫しても悪くないと容認する訳じゃないんだけど……。先輩の奥さんも何度かフランスに会いに来てはいたんだよね。だけど、いつもブランドのスーツで固めていて、バッグもパリで買いたい連れて行ってとかさ? 先輩に会いに来たんじゃなくて『パリとお買い物』が目的なのかって感じだったね。先輩のアパートには泊まらず、この街で一番のホテルに泊まりたい! ……とかねえ。俺が世話したからあの時のこと、良く知っているんだ。ないがしろ状態にされてるのに、先輩は本当に優しい男で自分のことは不器用だから……見ているこっちが、もどかしいぐらいだった」

 葉月も『そうだったわ。まさにそれだった』と、隼人と同じように思い出す。
 彼を……遠野を何度か妻の所に返そうとした。
 向き合って仲直りできないのなら仕方がない。
 でも、遠野はそれをせずに葉月の所にやってくる。
 『貴方は正面を向かずに逃げている』とは、彼と一緒にいたかった葉月には言えなかった……あの時は。

 隼人が言っている先輩の姿と、葉月が知っている遠野の姿は一緒であった。
 目の前のこの男性は葉月と同じ様に、もういない一人の男に接してきて、同じ想い出を抱えている人なのだと実感することが出来た。
 でも、葉月が望んでいた気持ちは一つも感じることが出来ない。
 遠野の影を追ってきたのに、彼が生きていたんだと感じたいのに、感じるのはやっぱり『生きていたのに、もういないのだ』だった。
 それが判ると、また深い悲しみが襲ってくる。そして目的は果たしてしまったような気になってきた。
 もう、澤村大尉から求める物がなくなったのだ。

「有り難う。大尉に会いに来ただけでも良かったわ。お話を聞いている内に、もう……本当にいないのだと、身に染みて判ったから」

 葉月はやるせない笑顔を浮かべる。でも涙はもう、出てはこなかった。
 すると今度は、隼人の方がやるせなさそうな心配顔を浮かべていた。

「本当に先輩のこと……」
「うん……。もう、いいの。自分でも解っているの。いつまでも、こんなふうに、こだわっていちゃいけないと……」

 葉月が浮かべた笑顔を見て、隼人は溜息を。

「そう。分かった。お嬢さんがどんな気持ちでここまで来たか分かったよ。昨日は俺の思い込み。俺だってそんなに厳しくするつもりはないよ。 いいじゃないか。気分転換ついで来ちゃった、でも……。人間、そんなことも大切だよ。ただ甘えて来てるだろうと思っていたのでね……」

 隼人の寛容な言葉。
 だが葉月は、甘えてきたの部分に『厳しいじゃない……』と苦笑い。

「その通りだと、私は思っていて、ちょっと気兼ねはしているのですけれどね」

 でも、隼人がそこで静かで柔らかい笑みを浮かべた顔で、そっと首を振った。

「もう、いいじゃないか。俺としても先輩が残した最後の押しつけだと思ったよ。全うしないと化けて出てこられても困るしね」

 またあの意地悪な笑み。死んでしまった先輩に、しんみりのひとつもなく、茶化すなんて……と、葉月は呆れてしまった。
 でも遠野は死んでしまったかも知れないが、隼人がそうして言うから『誰かの心の中で生き続けているのだ』と、初めてそんな悟りが生まれたように感じた。

 隼人の、まだ遠野が生きているかのような言い方。
 そう、心の中で彼はあちこちに生きている。そして葉月だけじゃない。遠いフランスに残してきた後輩の彼の心の中にも。きっとここにいる二人だけじゃなく、他にも!
 そう思えた葉月は、やっと喜びの笑顔を浮かべることが出来た。

「まあ。大尉ったら。大佐が怒るわ」

 葉月は、遠野が亡くなってから初めて……彼の名を笑顔で口にしていた。

「怒らせるぐらいしてやらないとね。まったく。将軍のお嬢さんにまで手を出してしまうだなんて、懲りない先輩だ。今頃、二度とお嬢さんに触れることが出来なくて、天国でジタバタしているさ。ザマーミロだ」
「ヤダ。大尉ったら。本当に化けて出てくるわよ!」

 葉月は本当に可笑しくなっていつの間にか笑い出していた。
 そんな嬢様に、隼人がぽつりと一言。

「なんだ。笑えるじゃん」

 そう言われ、葉月もはっとする。本当だ。笑っていると。
 驚いたから笑い声を止めてしまった……。

「まあ、今回は、しがないツアーコンダクターの所に来た──そんなつもりでいいよ。仕事はいつも通りにじゃじゃ馬で結構。また美味しい店に連れていってあげるよ。先輩を本気にさせたお嬢さんだ。俺も心してかからないとね」

 隼人の穏やかな笑顔は、ここに来てしまった葉月の何もかもを丸ごと受け止めてくれているように思えてしまうほど……『優しい』。
 葉月は、また潜在意識を揺さぶられるようにときめいてしまった自分に密かにおののき……。

 でも──と、葉月は思う。
 なによりも、葉月は澤村隼人という男に会いに来て良かったと、初めて思うことが出来ていた。
 それはマルセイユにやってきて良かったという気持ち。

『来て良かった。やっぱり、大佐が想い出に残していた後輩ね』

 葉月は少しだけ前に進めそうな自分を感じることが出来て、心が晴れやかになってきた。

 

 

 

Update/2007.9.30
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