35.告白

 

 隼人に手を引っ張られて葉月は石畳みの歩道を連れて行かれた。

 

「私ね。肩に傷があって……それでヴァイオリンを……」

彼の背中に素直に告げていた。

「解っている。もう。言わなくていいよ。」

隼人が腕を引っ張りながらも、振り向かずにそう言ってきたので、葉月はビックリした。

「誰に聞いたの!?」

「誰にも聞いていない。でも。ゴメン。

この前。雨宿りさせてもらった日。見てしまったんだ。

昼寝していただろう??覗いたときに偶然」

それも腕を引っ張られながら隼人は振り向かずに告げてきた。

「やっぱり。」

葉月がそっとため息をついた。

「やっぱり??」

今度は隼人が振り向いて立ち止まった。

「そうじゃないかと思っていたの。うっかり寝てしまったのがいけなかったんだけど。

隼人さんが私に何かするとかじゃなくて、充分。偶然でも見てしまった可能性はあるって」

葉月がまたうつむいた。その言葉を聞いて隼人はまたハッとした。

この頃の葉月の態度の意味を今知ったように思えてきたのだ。

雨の日の休日。黙って帰った隼人に慌てて電話をしてきたのも

本当は『傷』を見られたんじゃないかという探りを入れに来た事。

ミシェールの家に『一緒に行こう?』と、誘っても

妙にはぐらかしてハッキリした態度はとらずに自分で行くと言い出したこと。

彼女が遠くに感じ始めたのも、葉月自身が隼人には深入りされたくないと

さりげなく距離を置いていたんだと。

「それで…」

隼人は立ち止まって葉月に向き合った。

見下ろすと、葉月は今度は目を避けずにしっかり隼人を

ガラス玉の瞳で見据えてくる。

「私の傷。びっくりした?」

明るく笑い返してくるのがよけいに戸惑って隼人はなんと表現して良いのか困ってしまった。

でも…。

「ビックリしたよ。でも。今は戦闘機に乗っている。ヴァイオリンだって…。

なんにも変わらないし。黙っていたら誰だって

お嬢さんの身体にそんな傷があるなんて、わかりやしないよ。」

黒髪を照れるように隼人はかいて葉月のまっすぐな視線から

自分の視線を石畳みに落としてしまう。

「この傷は…。」

今度は葉月もうつむいた。

しかし、葉月がヴァイオリンケースを抱えて、言葉を出そうとすると

また隼人に腕を掴まれて、前へと歩き出す。

「とにかく。食べに行こうぜ。本当に美味しいんだ。俺も久しぶり♪」

隼人がそう言って、さり気なくはぐらかしてくれることに葉月は益々胸が痛んだ。

二人は休日で賑やかな街の中をいつの間にか手を繋いで歩いていた。

 

 

 隼人が連れていってくれた白いカフェ。

そこで隼人が頼んでくれたのは“カフェオレのアイスクリーム”だった。

ライトな感じの若者向けのカフェらしく。

デリバリーが出来る窓が厨房のはしについていて

駅の広場で昼下がりを楽しむ家族連れが子供のためにソフトクリームを買ったり…。

店の外のオープンカフェの席では恋人達が甘い語らいを楽しんで

アイスカフェやカプチーノを飲んでいた。

葉月は涼しい店内の白い席に隼人にエスコートされて

頼んでくれたカフェオレアイスと向き合っていた。

透明でキチンと冷やされていただろうグラスに薫り高いコーヒーの匂いがするアイス。

カフェオレ色のアイスクリームの上にちょこんと緑のミントの葉が乗っていた。

「いただきます…。」

いつもの明るい声でなくて隼人はちょっとガッカリする。

彼女が明るく『美味しい!』と喜んでくれるから連れてくるかいがあるのだから。

それでも…。

「学生の時によく食べたの?」

しおらしい笑顔がいつもとは違うが、一口食べて彼女は笑顔を見せてくれる。

「うん。広場でね。」

「彼女と?」

「また。そんな余裕はなかったよ。なれるのに精一杯。

その息抜きにここで。マリーにお小遣いもらって友達とよく来た。」

「そう…。」

少しずつスプーンでアイスをすくって食べる葉月。

彼女の足下に置いてあるジュラルミンのヴァイオリンケースが

隼人は気になって、仕様がない。

目の前の彼女はいつものじゃじゃ馬嬢ではなかった。

キチンとした紺色のワンピーススーツ。

髪もキチンとブローをして前髪もスッと分けて綺麗に流していて

本当に『御令嬢』で、こんな若向きのカフェには不似合いだった。

もっと、クラシックが流れている重厚なカフェが似合いそうだった。

「マリーがさっき言っていた。ヴァイオリニストになるはずだったって」

黙っていてれば、彼女は遠のくだけだと隼人は思ったので

思いきって辛いところを正直に問いただした。

本当なら。聞くなんて自分らしくないのだが。

今日はこれが目的だった。

彼女に内緒でコソコソとパパに聞くよりかは、本人に聞いた方がよい。

そう思ったから…。

すると葉月はもう覚悟を決めているのかひどく反応はせずに、

やるせなさそうにフッと微笑んでスプーンを置いた。

「そうなの。もう。ずっと昔の話。」

「子供の頃?」

「そう。子供の時。信じて疑わなかったわ。

みんなが『葉月は音楽家になる』と言っていたし。

私も幼心にそう思っていたから…。」

隼人は想像通りの返事が葉月から帰ってきて、“やっぱり”とため息をついた。

「あの日までは…。」

『あの日』と来て、隼人はドキリとした。

いよいよ核心に迫る話が始まると、思わず姿勢を正してしまった。

葉月がそれでもしばらく黙り込んで、溶け始めたアイスを銀のスプーンでかき回す。

時々。ため息をついてアイスを頬張る。

重い空気が漂ったが、隼人は彼女が心を決めるまでジッと待つ。

「私の甥っ子なんだけど…。」

葉月がいきなり甥の話を始めたので拍子抜けしたが…

「彼が姉様のお腹に出来たとき。その時…」

葉月の口調がいやに歯切れ悪くなってきた。

「姉は横須賀基地の陸教官をしていて…身ごもったことで

父と母をフロリダから呼んで報告をしようとしたの。

私は鎌倉の叔父様の家にいて、その時姉が葉山にあった別荘に来いって。

私は12歳年上の横須賀基地で音楽隊にいる従兄に連れられて

葉山の別荘に。従兄はその時帰ってしまって…

その後…女だけの別荘に男が押し入って…」

そこまで話して葉月が持つ銀のスプーンがカチカチとグラスに振れ始めた。

隼人もそれだけ聞いて身動きがとれなくなった。

つまり。男に押し入られて傷つけられたのだと…。

「とうぜん、大人の姉は性的暴力を受けて…

お腹にいる甥っ子をかばって言いなりに…。

私は武芸達者だった姉の腕を封じ込めるための人質に…。

それで。………。」

葉月の銀のスプーンがカラリとテーブルに落ちた。

じゃじゃ馬の彼女が両手で顔を覆って震えていたのだ。

「もう!いい!」

隼人は葉月から顔を背けた。

なんて事を聞こうとしていたんだと、始めて後悔した。

これでは康夫も雪江も絶対に口を割らない。

ましてや、御園とは昔なじみのパパとママンも。

押し入った男達に虐げられて彼女はその時奴らに肩を引き裂かれたのだと…。

「その時。十歳だったの。男達が何を姉様にしているかって解らなくて

それでも怖くて…。最後に男達は私がヴァイオリンを弾くことを知って!」

「もう!言わなくていい!」

隼人は彼女の肩を掴んで止めようとした。だが葉月は続ける。

「姉は、真一だけは生んで。“誇り”を守ってその後自殺を。

男達は姉の若い生徒だったの。彼等もその後自殺を。

私はヴァイオリンを弾けるように回復してもずっとずっと彼等を憎んできた。

私は軍人になることでどんな男よりも強い“人間”になることを目指すことで

この憎しみから逃げることが出来なかった。

ヴァイオリンはもう優しい気持ちでは弾けない。

私は“戦う”事でしか自分が救われない。

だから、軍人になったの。戦闘機に乗ることで。いつ死んだっていいと思って…。」

『男嫌い』

そう言った彼女の言葉の真意が初めて解った。

十歳の少女が見た悪夢。それでは彼女は男を心底から信じやしないと。

だから、彼女は憎しみを押さえ込むように『無感情』にならざるを得なくて

それで男にも冷たいのだと。

つい最近別れた彼は葉月が憎しみから救われないこと、

一人の男がただ深く愛してやるだけでは傷が癒えないことを悟って

憎しみを振り払うように前に進む彼女を『走らせる』為に解き放ったのだと。

遠野祐介がこれを知ったらおそらく彼女を二度と戦地にはゆかせようとしなかっただろう。

彼女なら、死を恐れずに前にゆく。

そして、遠野は彼女を深く愛していて『女の幸せ』を、彼女に捧げようとしたのだと。

隼人はどんなに男達が深く愛しても彼女が振り向かないわけをやっと知ったように思えた。

つい最近別れた彼が『葉月は軍人でいたそうだ』といって

離れていったこと。それがその彼なりの葉月への『愛情』だったのかも知れない。

彼は、葉月の思うままに彼女を解き放した。

自分の想いより、葉月の生き方を優先したのだ。

隼人はそれで今まで不思議に思ってきたこと。不可解だったことがやっと理解できて

初めて『御園葉月』と向き合った気持ちになった。

でもそれは何とも衝撃的で苦い『対面』でもあった。

「帰ろうか…。」

隼人がそう言うと葉月はこくんと頷いた。

「アイスもう食べない?」

溶け掛けたアイスクリームが彼女に相手にされないまま

無くなってゆく空しい、はかないモノに見えてしまった。

すると、葉月はやっと震える手を落ち着かせて…

「食べるわ。せっかく隼人さんが連れてきてくれたんだから」

と、銀色のスプーンを再び持ってキチンと最後まで食べ尽くした。

「美味しかった。」

彼女がいつも通りにやっと笑ってくれたが

隼人から見るとそれは無理な笑顔にしか見えなかった。

「これで、解ってくれた?私が男は嫌いで、男の人を幸せには出来ないんだって」

葉月が今まで遠回しに話してきたすべてがやっと深い意味で理解が出来た。

両親が『嵐』の中にいて、今でも長女の死を引きずっていること。

それが何時かは『穏やかな時間』に変わって欲しいという残された一人娘の願い。

「えっと。その真一君って…。」

残されて孫はどう育てているのだろうと隼人は心配になって

掘り返したくないがそう聞いてしまった。

「知るはずもないわ。ママは体が弱っていてやっとの事で生んで死んだって言ってあるの。

甥っ子には一番知られたくないわ。ママが苦しんでいたときお腹の中にいたなんて!

ママがいなくて寂しい思いはしていたけれど、パパが優しく育ててくれたから。

そのパパもあっけなく死んでしまった。」

葉月がまた苦々しい表情を刻んでうつむいたので

隼人は“しまった”と、二度とこの話には触れない方が良いと心に強く感じた。

『葉月。真一にはお前しかいないんだからな』

康夫が酔っぱらいながら彼女に釘を刺したあの言葉もそういう事だったのか!と

隼人は今まで葉月と接してきたいろいろな場面会話を思い起こして

初めてしっくりとした『葉月』を感じていた。

雨の日の休日。

隼人が部屋に入るか入らないかで揉めたとき。

『あんな格好で叫んで。若い女の子がここにいますって教えた様なモノ』

そう叱ったとき彼女がひどく怯えたように反応して落ち込んだこと。

これも、彼女には『トラウマ』に触る言葉だった。

『俺だって一応男なんだけど』

そうからかった時も彼女は一瞬躊躇したこと。

そして。『私だって、いざとなったら投げ飛ばす』

これも。彼女は男を威嚇する為に『私は男よりずっと強いのよ』と言う表れ。

そうして彼女は男から身を守り、威嚇して決して心を開かないのだ。

『冷たい令嬢』にしたのは、『男達』だったのだ。

隼人はアイスクリームを綺麗に食べた葉月を促して

一緒に晴れやかな街に再び出る。

葉月が片手にぶら下げているヴァイオリンケースがとても重そうに見えるほど。

彼女の失った大切な物に見えてきた。

葉月はそれでもヴァイオリンは手放さないだろう。

彼女の『哀しい夢のかけら』だから。