56.葉の匂い

 

 エレベーターに乗ろうとしても葉月がふらふらしているので隼人は

『コラコラ…』と苦笑いをして葉月の腕を引っ張り上げた。

「あ〜〜。参った。こんなはずじゃぁ…」

「随分と呑んでいたもんな。ワインは気を付けないと」

「う〜〜ごめんなさい。最後の最後まで〜〜」

四階について葉月がよろめきながらエレベーターを降りるのを支えながら隼人も降りた。

「テキストなんて〜〜明日でも良かったのにぃ」

「ま、まあね。でも、もう荷造りもしているんだろう?」

葉月が鍵を出して部屋を開ける。

隼人は少し緊張した…。いや。下心はないのだが…。

今から葉月にすることは…実はあまり隼人はやったことないことなのだ。

部屋に入ると葉月は灯りをつけて真っ先にソファーに座り込んだ。

隼人は早速リュックを開けてテキストを取り出しテーブルにおいた。

「ありがとう…。参考になるお嬢さんのメモは書き写させてもらったよ」

「そう…。さすがねぇ。貸した甲斐があったわ」

酔っていても受け答えはしっかりしているので隼人はホッとして…。

もう一つ。リュックからあるモノを取り出す。

そして…葉月が腰をかけているソファーにひざまずいて…彼女の目線にしゃがみ込んだ。

「これ…使って」

けだるそうに葉月は隼人の言葉に反応して彼の手元に視線を落とし…

それを見て、急に酔いが醒めたようにビックリ体を起こしあげた。

それは紺色の紙包みに金色のリボンが施してあって

『プレゼント』だというのがわかった。

「なんで!?」

思わずそんな風に叫んでしまった。

「なんでって…餞別だよ!」

女物に疎いから恥ずかしさをさらけてまで雪江に相談してやっと今日の夕方買いに行ったのだ。

だから。「なんで!?」と言われると急にムッとしてしまうではないか。

しかし葉月はそれをそっと手に取ってくれた。

「どうして??私なんか…なんにも…」

「いいんだよ。俺の気持ちだから…。とにかく…開けてくれる??」

葉月は照れて怒ったようにうつむいている隼人に勧められて…

そっと金色のリボンをほどいて…紺色の包みを丁寧に開けてみた。

中から細長いキチンとした箱が出てくる。その箱もそっと開けてみる。

『香水』だったのでもっとビックリした。

「グレのカボティーヌ…ね?」

「やっぱり。女性だね。知っているんだ。」

隼人のニッコリに葉月は酔いが和らいでいくのが解った。

「今使っているのもお気に入りかも知れないけど…」

「知っているの!?私が香水使っているの!」

「うん。鼻を掠める程度にね。他に思いつかなかった。ピアスは…イイの付けているみたいだし」

葉月はまたビックリした。香水は…制服の詰め襟に一噴き…。

自分の気持ちが和らぐ程度にしか付けていなかった。

それも…昔の恋人・達也が『ちょっとは女らしくなれ!!』と二十一歳の誕生日にくれたモノだった。

彼と別れても、香水を少し使うと女らしくなれたようなそして…気持ちが和らぐことを知って

別れた今も微かに続ける習慣になっていたのだ。

それを隼人が気付いていたなんて…いかに側に毎日いたかだった。

「今の香りもいいけど…大人すぎるよ…。そう思って…雪江さんに選んでもらった。」

「雪江さんに??なんて言って??」

『それは…』 隼人が口ごもったが葉月はこの香水の意味を知っていた。

カボティーヌは…着け立ちは無邪気な百合の香り…ラストノートは大人のムスクの香り。

つまり…お嬢さんのようで女性のようで…隼人がどう言ったかは知らないが…。

そんな葉月をじゃじゃ馬だったり女性だったり…そんな表現をしたのだろう。

隼人のそんな思いを込めた贈り物がとても嬉しくなった。

「ありがとう…。瓶が可愛い♪」

葉月が瓶を箱から出すと隼人もやっと嬉しそうに微笑んでくれた。

「緑色の瓶で…葉っぱも付いていて…『葉月』って感じだろ??」

「うん!着けてもいい??」

『ああ。どんな香り?』 隼人も待っているようなので葉月は早速手首にスプレーをしてみた。

「あ。いい香り♪どう??合っているかしら??」

「どれどれ??」

葉月が近づけた手首に隼人もそっと鼻を近づける。

「うん。いいと思うよ。良かった…気に入ってくれて」

隼人が手元で目をつむって微笑むので葉月は思わず見とれてしまった。

そんな隼人が目を開けて…パチリ…と視線が合ってしまった。

すると…隼人はそっと葉月の手首をつかんだ…。

「大丈夫…。きっと…日本に帰っても上手く行くよ。お嬢さんなら出来る」

「………。」

「側近のことは…期待にこたえられなくてゴメンな。でも…俺もこれからは頑張るよ。

こんな気持ちになったのはお嬢さんのじゃじゃ馬のお陰だよ」

そんなことが伝えたくて戻ってきたのかと葉月は感激をしてまた涙腺がゆるんでくる。

「私だって…。隼人さんと出会って…背負い込んでいたモノが…下ろせたから…」

「大丈夫。きっと…いいことがあるよ。また。一緒に仕事しよう?」

手首を振って隼人がそっとっほほえみかけてくる。

「………」

また、葉月は言葉に詰まってしまった。

「本当に…帰ってしまうんだね。もうすっかりここにいる人みたいだよ。本当に寂しくなるよ。」

「だったら…」

葉月は隼人がつかんでいる手首をふりほどいて顔を覆った…。

「だったら??」 隼人が思い詰めた声で栗毛の中の葉月をのぞき込む。

「どうして?一緒に仕事もしてくれる…寂しいと言ってくれるのに…」

『日本に来てくれないの??』もう少しでそう言いそうになった。

もう、掘り返してはいけないことだった。

すると隼人が葉月の隣に腰をかけてくる。そして…いつだったかそっと撫でてくれたように

葉月の長い栗毛を指に通して暫く黙っていた。

「だから…その事は…」

「ごめんなさい。もう…決めたことだったわね。」

隼人はやっぱりこの娘は自分に合わせてくれたのだとやっと気が付いた。

「葉月…」

今度こそ葉月はその声にビックリして覆っていた顔を上げて隼人を見上げた。

思い過ごしかも知れないが…隼人の瞳が黒く揺らめいて…熱っぽい感じがした。

胸がドキリ…と高鳴った。

隼人の…髪を撫でていた手が頭の後ろに廻った。その大きな手が力一杯葉月を引き寄せていった。

「!!」

葉月は次の瞬間にはビックリして目を見開いたが…迷わずにそっと目を閉じた。

酔いが手伝ってよけいに力が抜けて…

隼人の力強い腕に任せて彼の胸にしがみついていた。

口元は…ずっと隼人のリズムに合わせた。

暫く…頭が呆けていた。隼人もそうなのか??

隼人が男になったら…イメージが崩れる…兄様だから…そう思っていた。

でも…今触れている隼人の唇からは少しも『ためらい』も『恐怖』も感じない。

夜風がそっと吹き込んでくる中。隼人がくれたトワレの香りがする。

暫く葉月は隼人の口づけに全て任せきっていた。

その上…どうしたことか…天の邪鬼な兄様のくせにちっとも唇を離してくれない…。

それ以上…隼人は手荒に押し切ってこないし…何処も触ろうとしなかった。

ただ髪を愛しそうに撫でて…唇だけを愛し続けてくれる。

葉月は目をつむって…

(このまま…ずっとこのまま…) そう心で唱え続けていた。

胸が張り裂けそうだった。葉月も隼人と一緒…少しも離れようとしなかった。

『コンコン』

ドアのノックが聞こえてやっと二人は呪文が解けたようにハッと離れた。

「じゃぁ…帰る…。」

隼人が慌ててリュックを手にして玄関に向かっていった。

葉月も呆けていたので止めることなど出来やしなかった。

「あれ?隼人帰るのかい??」

ママンがコーヒーをトレイに載せてやってきたところだった。

「だいぶ酔ってるから…面倒見てあげて。ボン・ニュイ…ママン…」

隼人は顔を伏せてサッとママンを掠めて外に出た。

「なんだい??味気ない男だねぇ。相変わらず!!」

ママンは自分が若い二人を邪魔したとも知らずに葉月のもとにコーヒーを持っていく。

すると…葉月はソファーにグッタリ、力を抜いてぼんやりしていた。

「まったく…。アンタもしっかりおし!酔っていちゃあの子も手が出しにくいだろ??

私がいなくなってからゆっくりしたら良かったのに!!」

葉月はそんなママンの勝手な言い分すら耳に届かなかった。

あんな風に…少しでも愛してくれる隼人が何故…日本に来てくれないのか?

やっぱりそれが気になったが…。

今はただ…隼人がくれたトワレの香りと共に…そっと余韻を刻みつけていたかった。

 

 

 「ハァ…」

 葉月はため息をついて、中佐室の前に立っていた。

 

 頭が少し痛いがそれだけのことで…なんと言っても昨夜のことが頭から離れない。

それでも昨夜は…酔いも手伝ってあの後すぐに寝付いてしまった。

今日は早速、隼人がくれたトワレをいつもより多めに付けてきた。

さて…どんな顔で会おうか???という恥じらいと…

彼の笑顔を見たいという、ときめきが入り交じって中佐室の前で暫くぼんやりしていた。

「ボンジュール。中佐。夕べはお疲れ様」

金髪の大尉が出勤してきて葉月はハッと我に返った。

中佐室のノブに手をかけると彼のデスクの電話が鳴った。

「ボンジュール。あ、サワムラさん??」

彼の反応に葉月はドッキリ動きを止める。

「そうですか?随分飲んでいましたからね。お大事に…」

(え?飲んでいて??お大事にって??)

葉月は口を開けて金髪の彼を見入ってしまった。

「あの、サワムラさん、二日酔いだそうです。

昨夜、二次会のバーに後からやってきて…随分と呑んでいたんですよ。

でも?帰るときはジャルジェ少佐と一緒に大丈夫そうだったけどなぁ」

「そう…」

葉月はそれを聞いて何故かガックリ中佐室に入る。

(まさか、あの後? 皆のところに行って? でも…

何故? そんなになるほどお酒を呑んだの?)

夕べの口づけを気にしているのだろうか?と葉月は不安になった。

そんなに気にするなら…あんな事しなきゃ良かったのに!と…。

おまけに気まずいから今日出勤してこないのか???など。

あんな事になってから急に隼人が自分を避けているようで何とも言えない気持ちにさいなまれる。

ため息ばかりついていると…重役出勤の康夫が出てくる時間にいつの間にかなっていた。

「なに?隼人兄…休みだって??二日酔い??」

葉月から聞かされて康夫もため息をついた。

「外の補佐の彼に聞いたけど…夕べ随分飲んでいたんですって?」

「ああ…。いつもは二次会とかあんまり出てこないんだけどな。

ひょっこり顔を出してさ。来るなり大酒だよ。ジャンが連れて帰ったけど?

そんな立てないほどでもなかったし、隼人兄はあんまり酔ったりしないからなぁ??」

隼人が二日酔いになるなんて珍しい…と康夫はいぶかしんでいた。

(と言うことはやっぱり私のせい??)

葉月はムッスリ…隼人の気持ちが分からなくて口をとがらせた。

「さぁて。何があったのだろうなぁ??」

たとえ短時間でも二人きりになっていたことを知っている康夫が

ニンマリ…いつもの見透かした意地悪い微笑みを浮かべて葉月を見下ろすのだ。

「さぁ?知らないわ!」

葉月はドキリとしながらプイッとそっぽを向けて栗毛を払った。

そんな葉月の仕草一つで康夫も確信したのか『シッシッシ…』と顎をさすりながら笑うのだ。

葉月はムッとして…もう何もやることがなく夕べ片づけてしまったソファーへとゆく。

 

業務が始まって葉月はテーブルをいそいそと綺麗にし始める。

康夫がパソコンを開いて『航空会社』にアクセスしていた。

「葉月。丁度良く…。明日の夕方パリ発…あいているぜ?成田でいいんだろう?

今夜…ここのパリ行きにのって向こうで一泊したら丁度良く帰れるぜ?急だけど…どうする?」

「それで帰るわ。予約して。」

葉月は迷うことなくいきなりの帰国計画に即答をかえしながらテーブルを拭いていた。

「…本気かよ?本当だったら土曜の夜ここを立つはずだったのに…。

隼人兄だって…今日休みだし本当に行くのか??」

甥が心配で一刻も早く…葉月の気持ちが解っているから止められないが

康夫としても、いきなりは……やはり躊躇うらしい。

「もう…連隊長にも書類出したし。今日からやること何もないわ。

ただ、ぶらぶらしていてもどうしようもないし、これから挨拶回りしてくる」

「隼人兄は?」

「自転車かえしに行くから、アパートの地図書いてくれる?」

「あ、うん。解った」

淡々として先をゆく葉月に康夫はションボリうつむいてしまった。

葉月はそんな親友にニッコリ微笑んでテーブルを綺麗に片づけた。

そして…書類や書籍が積み込まれてノートパソコンの配線が散らばっている

主のいない隼人の席を眺める。

(隼人さんがいけないのよ。私…決めたからね)

帰国をすんなり決めた中に…葉月はある決心を固めていた。

それを隼人に伝えない限り…帰れはしないから。

葉月はテーブルを片づけて颯爽と…

連隊長から研修生…ジャンの班室、康夫のチームメイトへの挨拶回りに出掛けた。