【福袋7】 *** 華夜の時間 ***

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【福袋7】
 
華夜の時間

 この歳になって、こんな言い方は可笑しいのかも知れないとジャンヌは思う。
 だけれど『王子様』のような男性って本当にいるのだわ……と、ある時から信じるようになった。

 まさか。その人と、夫婦になるだなんて夢にも思わなかった。
 だけれど、そうなったのは『王子様』だからじゃない。ただ、愛したかっただけ。
 それも、いつのまにか。全部、彼のせい。

 

 日が短くなってきた。
 この島国でも、四季の移り変わりははっきりしていた。
 ジャンヌが今使わせてもらっている古びた仕事机は、窓際にある。昔、この医院を手伝っていた次男のものだとか。若くして亡くなったと聞いている。
 初めてジャンヌがここに訪れた時、そのデスクには小さな花が飾られていた。小瓶に野の花を挿しているといったようなささやかなもの……。気をつけていなければ、誰も気が付かないようなひっそりとしたもの。しかしそれは、ジャンヌの仕事机になってそれからも、ここのご夫人『谷村由子』が、毎日欠かさずに飾っている。……亡くなった息子を毎朝偲んでいるその姿に、ジャンヌはこの机を本当に使って良いのかと夫人に聞いてしまった程……。だが、彼女はとても穏やかな笑顔を見せてくれ。──『いいのよ。この机でお父さんを助けてくれる人が仕事をしてくれるようになって、息子もきっと喜んでいるわ』──と、言ってくれたのだ。

 それから、ジャンヌも心してこの机に向かっている。そしてジャンヌも花を絶やすことがないようにしようと心に決めた。しかし……この机だけは母親にお任せ。ジャンヌは敬意を表して飾ってみたい気持ちがあるのだが、そこは首を突っ込まずに、自分は受付のカウンターに飾ることにした。

 この机は、彼が亡くなったままにしてあったようで、彼が生前に使用していたものがわんさかと引き出しに詰め込まれていた。
 谷村院長と夫人は、『ジャンヌの好きなように整理してくれ』と言ってくれたのだが……。おそらく、自分達の手で整理することは、躊躇うものなのだろう。それならいっそ、使っても良いと任せた他人にそれなりに片づけてもらう方がまだましなのかも知れないとジャンヌは思った。それでもジャンヌは、あまり物が入っていなかった引き出しをひとつだけ空けさせてもらい、そこだけを使うように心がける。ここにはまだ『彼、真さん』が生きているとジャンヌは思うからだ。

 その物が少なかった引き出し。その引き出しは、どうやら彼の仕事とは無関係の物が放り込まれていたようで、それで物が少なかったのだと思った。奥に、何枚かの写真がしまってあるのをジャンヌは見つけた。それを目にした時の、驚きと言おうか……。そこには今ジャンヌの『家族』とも言える者達が『幸せだった』と口にしていた頃を思わせる若い姿で、そして笑顔で写っていたからだ。
 決して、会うことは出来ない栗毛の美しい女性もいた。そして隣には水色のワンピースを着てヴァイオリンを持っている少女。『御園姉妹』のある日がそこにあったり、そして、ジャンヌが愛してやまない彼の初々しい青年の笑顔もそこにあり、栗毛の彼の両隣には、雰囲気はまったく違うけれど、よく似ている黒髪の兄弟がそこにいた。弟はとても優しそうに笑う青年で、彼と同じ年で幼馴染みでもある兄の方は、この当時から無愛想な顔をする青年だったよう……。この医院とそのお隣にある『御園家』が如何に親しく交流していたかが窺える。この青年三人の仲むつまじい当時を写している写真。あとは、輪ゴムで沢山まとめている写真束もあった。そこには本当に可愛らしい栗毛の赤ちゃんの写真。そしてその赤ちゃんが幼児へと成長していく過程が分かるかのように順に束ねられ、最後は幼稚園の制服を着て、真さんに抱き上げられて笑っている写真で終わっていた……。彼が本当に自分の子供のように育てながら、この医院を手伝っていたと聞かされている。兄の帰りを待ちながら、その兄の子を、甥っ子を大事に育て……そのまま逝ってしまったと。そんなことを全て教えてくれるかのような写真が、彼の仕事机にはしまわれたままだった。

 その『なにごともなくただ幸せだった』と、この家族の誰もが胸にしまっている思い出を写している写真を、今はジャンヌが彼の代わりに、この机ごと守っている。

「ジャンヌ、もう今日は終わったのかい」
「谷村院長」

 夕暮れ。最後の予約患者を見送って今日一日のカルテを確認していると、奥にある自宅に待機していた『谷村宏一』が診察室にやってきた。

「はい。先ほど、本日最後の診察を終えました」

 彼は笑顔で『そうかい』と言うと、どこか哀しそうにジャンヌの目の前にある窓の向こうに視線を馳せている。それは滲む夕暮れを見つめ遠い目。
 なにを思っているのか。先に逝ってしまった息子の机に、今、医師が座っているからなのだろうか。
 そこはジャンヌは推し量ろうとは思わなかった。……なんだか、この父親の姿は時にあまりにも寂しすぎて。
 でも、彼はやがて笑顔になってジャンヌに言った。

「明日は、伊豆でパーティがあるのだろう。明日は土曜で半日診察だから、休みなさい」
「しかし……」
「予約はないのだろう?」

 ジャンヌは『ええ』と、ちょっと気恥ずかしい思いで答える。
 明日はそのパーティがある為に、予約を入れないようにした。それはつまり『パーティーに行きたいからこそ、調整した』ということ。それを老医師の彼に見抜かれていると思ったから、頬が少し熱くなる。

「私のことは構わないよ。君の仕事は君の、私の仕事は私の。最初からそのスタンスで行こうと話したじゃないか。受け持っている分野も違うし、受け持っている患者も違う。ジャンヌが気を遣って側に控えていてくれても、本当のところはなーんの役にも立っていないのだよ。その意味、分かるね?」

 『役に立っていない』とはっきりと言ってくれたが、そこには彼の優しさと気遣いが含まれていることがジャンヌにはよく分かっていた。
 そうでも言わなければ、院長の宏一が仕事をしている限りは、隣の診察室で彼の仕事が終わるのを、ジャンヌはいつまでも待っているだろうから。

「右京が久しぶりに人前に出ると聞いたのも、お隣のおじさんとして嬉しかったけれど。いつも控えめなジャンヌも、旦那と楽しそうに出かける……これも私としては嬉しいことだったのでね」
「私などにそんな気をかけてくださるなんて……」
「いやいや。ジャンヌが来てから、とても助かっているよ。医院の運営にも活気が出てきたし、それに……老夫妻、二人きりの生活にもね……」

 そこでまた彼がジャンヌの向こうにある夕暮れを、先ほどの寂しそうな目で見た。

 息子に先立たれ、そして家族づきあいをしている隣一家は事件で奈落の底に落とされ、それに引きずられるようにして谷村一家も崩壊していったのだろうとジャンヌは思っていた。
 一人残った長男は、若くして父親になったにもかかわらず、家を出て行方知らずの生活。危険を伴う生活をしていた為、こちら実家には長い間立ち寄りもしなかったと聞いている。そしてこの父親も幼子をあっさりと置き去りにして家を出ていった息子には『二度と帰ってくるな!』と長年、言い張っていたらしい。
 でも、それも終わった。ここの長男である純一は、離島住まいを心に決めてしまったようだが、本島に来ればこちらを訪ねてくるようになっている。
 父親とは相変わらずに『出ていけ、バカ息子』『直ぐに出ていく、バカ親父』とやり合っているが、純一は母親の由子には『苦労をかけたおふくろさん』と言った感じで、来るたびに彼女を労っている。
 まあ、そう言う親子関係らしく、ジャンヌも黙って微笑ましく眺めさせてもらっている。
 ……それでも。この老夫妻も寂しかった時間の方が長く、そしてやはりそこに息子がどうしても二人揃わないことは一生……寂しく感じるのだろうと、宏一の寂しい表情はきっとその為で、そして本人である宏一もあまり気が付いていないのだとジャンヌは思う。

「有難うございます、院長。それではお言葉に甘えて……」
「うんうん。そうしなさい」

 やっと宏一がほっとした顔で微笑む。
 ジャンヌもカルテを閉じて、微笑み返した。

「ああ、でも……。右京と葉月ちゃんの『カノン』。久しぶりに私も聴きたいね。昔は、本当に当たり前のように毎日聞こえてきたんだよ……。そう、真が好きでね……」
「そうでしたか」
「それに、瀬川が逮捕されてから、どうしてか右京は、あれほど毎日弾いていたヴァイオリンも、あまり弾かなくなってしまって……」

 どんなに明るくなっても、なにもかもがこの老人を寂しくさせてしまうようだった。
 それだけ、その頃が『素晴らしい時間』だったのだろうとジャンヌは思わせられる。

「ああ、でも。明日はその右京がヴァイオリンを弾くのだと聞いて、嬉しいのだよ」

 そうだ。その時間はなにもかもなくなった訳じゃない。
 数年前から少しずつ、この二家族に戻ってきている。

 そして明日のパーティーでも、きっと……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 明日はそのパーティーだというのに、彼の帰りが遅い。
 今日は夜の教室が入っていると聞かされているが、それでも遅い時間だった。

 ジャンヌは、明日着ていくドレスの準備をしながら、今、彼と一緒に使わせてもらっている部屋を振り返る。
 綺麗に整っているのはここに来た時から。彼は整理整頓はきちんと出来る人。彼のクローゼットには用途別に分けた洋服が綺麗に揃っているし、引き出しの中にある洋服は、整った形を揃えてたたまれている。趣味で集めていた物も、彼のサイドボードに種類別にまるで展示品のように見事に飾られている。本当に人の目に触れる何もかもを綺麗に見せる才能が彼にはあるのだと、ジャンヌはいつだって感動してしまう。

 自分の心の何もかもをしまい込んだあの日から、ジャンヌはあまり心が震えない日々を送ってきた。
 だけれど、夫となった彼と出会ってからは、心が震えてばかりだった。
 初めて彼の姿を目にした時だって……。従妹の葉月から『従兄は自分で貴公子だっていうのですよ。おかしいでしょう』と聞かされていたが、本当に『貴公子』と言うだけあるわ、と思ったほど。軍服に身を包んでいるのに、その佇まいの麗しいこと……納得だった。
 あとは、妙に軽いノリの、如何にも遊び慣れてきた男と分かっていても、どこか根底に流れている彼の『本当の情熱』に揺り動かされてばかりいた。そして、いつの間にか、『私』の方が彼から離れられなくなっていたのだとジャンヌは今でも……急激に襲ってきたあの熱風を思い出す。無風だった毎日。ただそこに突っ立ったままだった自分。空気は乾き、ジャンヌの唇も肌もかさかさとしていた感触を思い返す。だけれど、風が吹いた。そこに、その麗しい男が優雅な微笑みを携えて立っていた。
 お互いに大人なのだから……。彼がジャンヌを望んでくれた時、ジャンヌは『一度きり』という気持ちだった。あちらは遊び慣れているのだから、口では心がとろけそうなことを沢山言ってくれるけれど、それだって彼にとっては単に日常。女をその気にさせようと言うだけの、ただそれだけの素敵な言葉達。──『一夜だけなら、それに乗ってみても良いだろう』── その晩まで淡々と生きてきたジャンヌらしからぬ決断だった。後腐れなく終わるのかと思ったら、後腐れなく手放せなくなったのはジャンヌの方。それでもジャンヌは自分の手で引き寄せるのが怖くて、怖くて、いつもの顔を保ち続ける。でも……彼を突き放せなかった。 『一晩だけ』が『一時期でも良い』という気持ちになり、最後にはすっかり彼の熱い気持ちに溶け込んで、静かにでもジャンヌも熱くなっていた。
 やがて、うっすらと見えていたオアシスにたどり着いた。まさか、この自分が『結婚』するだなんて、思わなかった。

 壁にかけた白いドレス。触れるとどこかひんやりとする柔らかい生地。そこにジャンヌは熱くなった頬を寄せる。
 華やかさで虚勢を張っていた彼ではあったけれど、ジャンヌはあれほど華やかな場に似合う男性は他にはいないと思う。
 綺麗なものが好きで、そしてその手でやはり美を生み出し、音を愛し、人の心にある愛も哀もなにもかもが『この世にある素晴らしい物だ』と、生きていること全てに美を見出そうとする人。わざと華やかにしていた部分もあっただろうけれど、やはりあれは彼の天性なのだと伴侶になったジャンヌは思う。
 それに彼の根底はとてもシンプルで、ナチュラル。なにが一番大事で、それの為なら、華やかさはいらないとちゃんと分かっている人。それを分かっていながら、それでもシンプルな彼からは、芳しい薫り。やはり隠すことなんて出来ないのだと思う、彼が持っている本質、その華やかさは。
 だから……。もう一度、彼がいきいきと人々にその美を伝える輝く姿を、その場にもう一度、気兼ねなく行って欲しいと思うようになった。
 それにジャンヌは、まだ……そんな彼を見ていない。ジャンヌの前でだけの綺麗な彼は幾度と見てきたけれど。まだ、本当の華やかな彼を見たことがない。彼が『あれは俺じゃなかった』と捨ててしまったから。
 いいえ、やっぱりあれも貴方だったのよ。ジャンヌは言葉ではなく、そのパーティーに行くことで彼に言いたい……。
 そう唱えるようにして、ジャンヌは白いドレスに顔を埋める。
 ちょと泣きそうになる……。もういい歳なのに。誰にも悟られないようにひた隠しにしているけれど、ジャンヌの心は若い娘そのままに戻っていると自分でも思う時がある。
 だって……あまりにも。彼が好き。愛してしまった。彼の為なら、なんでもしたい。妻になったのだから。この家の家族も好き。みんなが私の宝物。この家の人々が、立ち止まっていた私をまた歩かせてくれた。彼等の悲しみ、喜び、苦しみ……そこからジャンヌは沢山のことを教わったのだから。

 彼の為なら、躊躇っていた社交界にだって行く。
 彼の為なら、躊躇っていた真っ白いドレスだって綺麗に着ていくわ──。

 でも……と、ジャンヌは既に香水をふったドレスの甘い香りを吸い込んで微笑む。

 彼の為だけじゃない。
 本当に、着てみたかったのよ。『白いドレス』。
 ウエディングドレスを着る勇気などはない。そしてこれからも一生着ないと誓っている。罪ある女が自分で決めたこと。
 でも……やはり、どこかで憧れていた気持ちは、やっぱり消えない。
 そうよ、私、着てみたかったの。
 それをちょっとだけ、赦して……。 

 今度は悲しみの涙が一筋だけ流れていた。
 彼がいない部屋だから流せる涙。
 でもその涙にはほんのちょっぴり、幸せも混じっていた。

 結局、彼はジャンヌが寝るまでには帰ってこなかった。
 心配しながらも、ジャンヌは彼の匂いが染みこんでいるベッドに横になると直ぐに眠気が襲ってきてしまうから、眠ってしまう。

 でも、朝日が差し込み目が覚めると、隣には栗毛の彼が穏やかな顔で眠っている。
 ジャンヌは眠っている彼に、そっと口づける。
 彼がちょっとだけ目を開け、とても嬉しそうに微笑んでくれた。そしてジャンヌの名を呟くと、またそのまま眠ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「伊豆は久しぶりだなあ」

 濃紺のフロックコートという装いの彼の運転で伊豆地方へと向かっていた。
 運転席の彼は、今は上着を脱いで白いシャツにお揃いのベスト姿で運転している。ジャンヌは自分で選んだ白いドレス。そして……いつの間にか彼が準備してくれていたフォーマルの秋コートを羽織っていた。
 ジャンヌは後部座席に、無造作に放られている彼のフロックコートをちらりと見やる。
 最近、フォーマルな装いはその紺色しか着ていない気がするジャンヌ。前はもっと水色とか白とか着ていたはず。実際に彼のクローゼットには沢山のスーツに、フォーマルスーツが揃っているのに……。なんだか選ぶということが億劫になってしまったのかと思ってしまう。
 と、そこまで思って、ジャンヌは気が付く。──『水色の……着て欲しかったのだわ』──そんな本心に。
 でも……。白いウィングシャツに、シルバーで黒い水玉模様のユーロタイをコーディネイトしている彼は、やっぱり綺麗だった。……だから、ジャンヌは何も言えなくなる。

「ジャンヌは伊豆は初めてだよな。良かったな、初めての場所で。こうしてドライブも出来た」
「ええ、そうね」
「あれ? なんか元気ないな……。もしかして、やっぱり緊張しているのか? 無理なら……」

 『やめて帰っても良いんだぞ』──。今の彼ならそんなことを言い出しそうだと察知したジャンヌは、慌てて口を開く。

「楽しみだわ。葉月さんにも会えるし。それに……昔の客船がパーティ会場だなんて、素敵」

 ジャンヌがこぼした笑顔に、ハンドルを握っている右京の横顔もほっと緩んだから安心する。

「そうそう。と、言っても、昔は海上を運行していた客船だったけれど、今は舵を降ろした状態でホテルとレストランを経営しているんだ。俺も何度か行ったことある。結婚式にも招待されたかな〜」
「外国の船?」
「そう、北欧の。歴史がある……ね。蘭子の奴、今回は張り切って遠出の伊豆を選んだんだなあ。いや? 篠原のおじさんが張りきったかもしれないなあ。いつもは首都圏の近場で済ませていたのにな」

 都内のホテルかと思ったら、今回はそんなちょっとした趣向を凝らしたよう。
 それも以前はその社交サロンに華を添えていた右京が久しぶりにやってくること、しかも従妹とヴァイオリン演奏をするという事を、東條蘭子を始めとする会員達は、とても楽しみにしているそうだから、彼女達も今回は特別な気持ちで御園家を迎えようとしてくれているのだとジャンヌは思っている。

 車は沼津市内に入った。
 ここから海岸線、土肥温泉方面、大瀬崎あたりへ向かうと右京が言う。
 初めての場所なのでジャンヌはよく分からないが、鎌倉や、いつも彼と通っている葉山の海岸線とはまた違う雰囲気。
 徐々に夕暮れてきた海岸線の美しさをみれば、その客船ホテルから見える富士山も格別だろうと、ジャンヌも少しは心が緩まってくる。

 やがて車はその客船ホテルの駐車場にたどり着く。
 本当に、入り江に大きな船が舵を降ろして君臨していた。美しいスタイルの客船が浮かんでいる。

「まあ……」
「だろう。海上を航行している訳じゃないけれど、雰囲気はあると思うぜ」

 だけれど……。そこでジャンヌの足が固まった。

「ジャンヌ……?」

 こんなに綺麗な男性の妻として、今夜は沢山の人々が私を見る。
 ええ、たぶん。この彼の人柄のお陰で、きっと誰もが自分のことを快く迎え入れてくれるとジャンヌは分かっている。
 でも……。その自分が本当は、本当は……。誰も知らなくても、自分が良く知っている。如何に汚いか。
 若い頃、このような華やかな場所に憧れていたし、それを目指してひたすら勉強をして、その為には周りのライバルを蹴落としてきた。そしてやっと掴んだ『憧れ』。それはまさに、この豪華客船へと目指してきたようなもの。このような場所に、華やかに『当たり前のように』君臨しようとしていた女の夢。
 でも、それが欲しくて欲しくて走ったゴールには……。
 ジャンヌは目を覆う。やはり、足下がふらついた。そこに『彼女』がいるような気がして……!
 気が付けば、彼がふらついたジャンヌの肩を優しく抱いて、支えてくれていた。

「ここ、一度、座ろう」

 右京に抱きかかえられて、ジャンヌはいったん、後部座席のシートに座らされる。
 そして彼はそのドアに背をもたれ、ここに来る前に運転のお供に買っていたミネラルウォーターのペットボトルを手にして一服。
 空は瞬く間に、茜色に染まっていた。
 そして右京はただその染まっていく空を見上げ、黙っている。
 入り江の小さな波の音。暮れていく空。そして心地良い風。黙っていてもそこに静かにいてくれる人。
 静かな間を作ってくれた彼のお陰で、ジャンヌも徐々に落ち着いてきた。

「落ち着いたか」
「え、ええ……。ごめんなさい」

 すると、今度の彼は、やっと落ち着いたジャンヌを強い眼差しで見据えていた。

「もう一度、聞く」
「は、はい」
「行きたくない。それとも? 行きたい。俺はお前と同じ行動をする」

 貴方はどうなのよ? と、ジャンヌは言い返したくなったが、口をつぐんだ。
 彼は『行かない』と言い張っていたのに、『行く』と決心をつけたのだから、覚悟はあるのだ。
 だったら、ジャンヌだって同じ。退くにしても進むにしても、ここで覚悟を決めねばならない。
 そして答はやっぱり、元の所に戻ってくる。

「行きます。もう、大丈夫よ」

 それを聞き届けると、右京はシャツの襟を正しながら『よし』と笑顔になる。

 右京は会場へと向かう準備を始める。フロックコートを羽織り、そしてヴァイオリンケースを手に取った。

「じゃあ。行くと決めたからには、妻のお前にもちょっとだけ、俺のスタンスというのを話しておこうか」

 パーティーに行く『スタンス?』と、ジャンヌは首を傾げた。
 しかも数年前、少佐として軍隊にいた時の顔。初めて会った時に見せていた真剣勝負の顔になっているので、ジャンヌは身構えた。
 つまりそれだけ、彼にとっては『大事なスタンス』ということらしい……。

「今日のパーティーは、うちの祖母ちゃんが創った会だからというのもあるけれど、その祖母ちゃんの精神に乗っ取って、パーティーという華やかな場に身を置いたなら、どんなことがあっても笑顔でいなくちゃいけない。何故なら、笑顔が人を幸せな気持ちにさせるからだ。寂しい顔、苦しそうな顔、そんな顔を見たくて来る奴なんか誰もいない。皆、ゴージャスな気分になりたくて、もしくは、楽しくなりたくてくるのだから、その気持ちを無にするような顔は、俺は許せない性分でね。だから気分が乗らない時はきっぱり行くことはなかった。ということは、今日『行く』と決めたからには、俺もお前も、華やかでなくてはいけない。格好じゃない。笑顔のことだ。いいな」

 最後の『いいな』と念を押したような一言は、とても強い言い方だったので、ジャンヌはおののいた。
 でも、『華夜の会』を作ったという彼の祖母はまさにそんな人だったと御園家の人々から聞かされている。華夜の会もそのようなコンセプトだったはず。
 右京のそのスタンス。それが彼の『華』だったのかと、ジャンヌは初めて知った気がした。
 そしてさらに彼が言う。

「逆に酷い言い方をすれば、嘘でも良いから笑っていろってこと──。でも、俺はそうならないよう。来たからには心から楽しみたいと今までもそうしてきたからな」

 嘘で笑うくらいなら、パーティーには行かない。
 つまり……。ここ数年、そんな気持ちの方が強かったから、このような場には行かなかったと言うことなのだろうか。
 だったら、今日は、彼も楽しみにしていたということ? と、ジャンヌは改めて彼の心に問うてみたくなる。だが、それを右京が言ってくれた。

「今日はさ……。お前が、自分で選んだドレスを着て、笑っている顔が見られると思ったから。だから楽しみにしていたんだ」

 だから、今からは……。
 お互いに背負っている過去があるけれど、忘れて、笑っても良いのじゃないか。
 彼がそう言っているように見えた。

「勿論、ジャンヌはそれでも心の何処かで忘れることなく償っていくのだと、分かっている。それでも……ここに来たからには……」
「分かったわ。私は……」

 ジャンヌはそこで彼を真っ直ぐに見て言う。

「私は、『御園右京の妻』ですから。嘘でも、貴方の妻らしくいるわ」

 右京がちょっと複雑な顔。
 そしてジャンヌは、そこでやっと笑っていた。

「その、『嘘でも』ってなんだよ。『御園の妻ですから』までは、すごい感動だったのになあ。ほんっとうにうちの奥さんは、意地悪だなあ」

 いつものジャンヌの言い方に戻ると、彼は安心したようなのに、やっぱり素直に喜ばせてくれない妻の性格にふてくされていた。
 いつもの私達夫妻に戻ったと、ジャンヌも笑顔になれる。

「じゃあ、これな。ちょっとおまじない」

 車のドアを閉めようとしていた彼が、後部座席に置いていた小さな紙包みから何かを取りだす。
 『おまじない』とはなんなのだろうとジャンヌが首を傾げていると……。
 綺麗な彼の指先が優雅にジャンヌの胸元に止まる。そこには、この前買った白いラナンキュラスを大きくまとめた生花のコサージュ。

「これ……」
「昨夜、教室に残って作ったんだ。いいだろう」
「貴方……ったら。そんなことしていたの」

 彼は『そうだよ』と、いつもの陽気な笑顔を見せる。

「しかも、お揃い。ますます、いいだろう?」

 しかも、自分のコートの襟にあるボタン穴の位置にも、ジャンヌと同じ花のブートニアを彼は飾った。

「さあ、行こうか」

 彼の手が、夜のとばりが落ち始めた空の下、白く光ったように見える。
 白いドレスに、白い花。ジャンヌは今からのほんの数時間、赦されても良いかもしれないと、夫の手を取った。
 そして忘れてはいけない。笑顔。心も華やかに……という意味を妻は知ったから。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 船内のパーティーホールに向かう階段を彼と腕を組んで、ゆっくりと降りる。
 一目で飛び込んできた華やかな世界。ジャンヌの視界に一気に広がった。
 そこは既に『花の世界』。とりどりのイブニングドレスで着飾った婦人達に、正装で決めている紳士達の楽しそうに笑いさざめく様。皆、シャンパングラスを片手に、ビュッフェスタイルの食事を既に楽しんでいた。

 そしてジャンヌが予想していた人々の反応。
 入り口の階段に現れた『華の男』を目にした人々が、女性に限らず男性も、皆がさらなる笑顔を浮かべ動きを止めたほど。
 あちこちから『まあ、右京さん』『右京君だ』と、とても期待に満ちた声が聞こえてきた。
 それだけで、如何にこの人が『あれは俺じゃなかった』と否定している時期、つまり『華やかさで虚勢を張っていた』と言っている時期でも、やはり彼の御園の信条で人々を心から楽しませてきたのだと、ジャンヌは直ぐに実感することが出来た。
 その人々が我もと、久しぶりに姿を見せた『貴公子』の側へと歩み寄ってくる気配。
 だが、そんな人々の足を止める一声が飛んできた。

「右京兄様! ジャンヌ姉様!」

 その声がする方へ視線を移すと、そこは壁際。
 壁際にある椅子に白いスーツを着ている紳士が一人。ジャンヌも先日の宝石展で会ったことがある『篠原会長』だった。
 そしてその老紳士と楽しそうに会話をしていた様子の貴婦人がひとり。
 紺色のロングドレスを優雅に着込んでいる女性、『葉月』だった。

 ジャンヌは一目見て驚いた。
 彼女がドレスを着ているのを見たのは初めてではないが、このような華やかな席……自分と同じように物怖じしてしまう性分を備えていた彼女だったけれど、この華の世界でちっとも見劣りしていなかったから、驚いた。しかも彼女こそ、いつもシンプルな装いで軍人生活をし、華のない表情で大佐を務めているのだから、今そこにいる女性はまったくの別人に見える。
 そして夫の右京ととても似ている柔らかな優雅さを、そこはかとなく漂わせている。
 そんな笑顔の彼女のもとへと、夫と二人で歩み寄った。

「こんばんは、篠原のおじさん」
「こんばんは、篠原会長」

 右京はとても親しくしていたようで、彼のことを蘭子同様に『おじさん』という。ジャンヌも夫に負けない笑顔で篠原に挨拶をした。

「やあ、遅かったじゃないか。やはり来ないのかと蘭子が心配していたよ」

 ほっとした篠原の顔。
 それに対し、ジャンヌの隣の夫はやはりとびきりの笑顔で答える。

「とんでもない。妻と楽しみにして来ましたよ。久しぶりなので、ちょっと出遅れましてね」
「うむ。奥さんも、なかなか。先日お会いした時も、素敵な女医さんの雰囲気でしたが、ドレスを着てより一層に、貴方らしい美しさに雰囲気が良く出ていますね。この右京の隣にいても見劣りしない女性はなかなかいませんよ」
「あ、有難うございます。会長」

 やはりこの世界の男性は皆、口が上手いのだと思った。
 しかも嘘に聞こえない。嘘だったとしてもお世辞だったとしても、彼等が言うと『本当に聞こえてしまう』ものなのだろう。だからジャンヌは余計に気恥ずかしくなり、頬が熱くなるままそっと俯いた。

「姉様、こんばんは。本当に素敵よ。私、ジャンヌ姉様と一緒のパーティー初めてだから、とっても楽しみにしていたの」

 今日の葉月は、やはりいつもの大佐嬢ではなかった。
 彼等がよく口にしている『リトル・レイ』。可愛らしいお嬢様の顔をしている。
 彼女も従兄の彼と一緒で、『そうと決めた』ならば、やはり自然とそのような華やかさを備えた笑顔をみせるのだろうか。それが御園が持っているレイチェルの血なのかと思ってしまった。

「葉月さん、貴女もとても素敵ね」
「でもね。やっぱりみんな言うのよ。『じゃじゃ馬にも衣装』って……」
「まあ、ひどいわね。だれ、そんなことを言うのは」

 すると葉月が、ホールの中央に集まっている輪を指さした。

「あの人と、純兄様とパパよ」

 葉月はシャンパングラスを片手に、つんとその輪から顔を背けてしまった。
 そこには真っ白い軍正装制服でかっちりと決めている彼女の夫がいた。
 彼は蘭子や他の夫人、そして男性達にも囲まれて、楽しそうに会話している。まあ、彼も彼。御園の婿だけあって、あれだけ囲まれてもちっとも物怖じしていない堂々とした様子。しかも彼の方も、そこにいるだけで人々を惹きつけてしまうようだった。彼にはそれほどの華やかさはないのだろうけれど、きっとあの柔和な優しい雰囲気が女性を安心させ、そしてその奥に隠している熱い男気がそこはかとなく漂っているのを男性の方が感じ取って彼と話してみたいと思わせるのではないだろうか……。先日の指輪を巡ってのオークションでの活躍を、後から聞かされたが、きっとその時の彼の行動が、また人々を惹きつけてしまったのではないかとジャンヌは思っている。
 この従妹夫妻は、もう既に『華夜の会』では認められた存在になっているようだった。

「まったく。彼も純さんも、伯父様も、相変わらずなのね」
「でしょう! 姉様からもなんとか言ってよ」
「隼人君も純さんも亮介さんも、貴女があんまり綺麗になったから、照れているのよ」
「そうかしら」

 彼女も分かっているだろうに、素直になれない口悪を叩く男達に囲まれているせいか、自分も素直になれないのは同じよう。
 でもそんな彼女も今日は可愛らしく見えるジャンヌは、ただただ微笑ましく見つめてしまう。
 そんな葉月と話しているうちに、やはり気心しれている義理妹だけに、徐々にジャンヌの緊張もほぐれてきた。
 やがて、蘭子がいる輪から、ちらちらとした視線がこちらに向けられているのに気が付いた。

「皆がお前達を待っているよ。行ってきなさい」

 篠原に促され、右京が頷いた。
 ジャンヌをしっかりとエスコートしながら、夫は悠々とその輪に向かっていく。
 ジャンヌも、もう……怖くなかった。
 彼と同じ笑顔を浮かべ、そして『私も今夜は華になる』。そう自分に唱えた。

「ご機嫌よう、皆様。ご無沙汰しておりました」

 夫が厳かに挨拶をしたので、ジャンヌもそっと頭を下げる。
 すると、あっと言う間に夫が囲まれてしまった。

『久しぶり。君がいない間、寂しかったよ』
『ヴァイオリンをまた聴かせてくださると聞いて、今夜はとっても楽しみにしているのよ。しかも葉月さんと……!』

 そんな夫を中心に人々に取り囲まれてしまい、流石のジャンヌも彼の腕に寄り添っているだけでは、気圧されるばかり……。
 だけれど、ジャンヌの手をそっと右京が掴んでいた。強く『大丈夫』だと言ってくれているような力。でも、そんな彼の顔を見上げると、彼はしっかりと一人一人に笑顔を向けている。
 やがて、彼が白いドレス姿のジャンヌの肩を抱き寄せ、皆に笑顔ではっきりと言った。

「妻のジャンヌです」

 夫の紹介に、ジャンヌも微笑む。

 たぶん、今までの人生で一番の『華』の瞬間を迎えたかも知れないと、ジャンヌは感じてしまっていた。
 そして自分の笑顔も。でも、それは夫が言ったように、嘘で笑うくらいならここには来ないと断言できるぐらいに、ジャンヌも心の底からの『華』を咲かせてみせた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その後直ぐに、人々が御園従兄妹の演奏を急かした。
 本当に誰もが待ち望んでいたよう……。しかも今夜は今まで顔を出すこともなかった葉月が、一緒。
  レイチェルや右京を良く知っている者達は、『華の主』が帰ってきたかのように、今夜はときめいて仕方がないようだ。

 そして、ジャンヌは夫をピアノがある舞台にに見送って、一人になった。
 やはり右京がいなくなると、それとなく皆が遠巻きになったような気がした。
 それが右京の妻ではなく、例えば……日本に来てから良く感じている『外人だから』とか、ふと予感しているのは『精神科医だから』……とかいう、ちょっととっつきにくいところがあることはジャンヌ自身も分かっていた。どうも、彼等もまだジャンヌに対しては様子見と言ったところらしい。
 まあ、丁度良いわと、やっとシャンパンの味が美味しく感じたところ。このジャンヌに声をかけてきた男性が現れる。

「姉さん、こんばんは」
「隼人君」

 白い軍正装の隼人が、そこでにこりと笑っていた。

「今夜は葉月さんがドレスで、貴方が軍服なのね」
「いや〜。俺もスーツのつもりだったんですけれどねえ。蘭子さんが、今度は婿殿が軍正装をしてこいって、半ば強制で」

 それでも隼人はこの前義兄に着せられた真っ白いスーツよりかはマシだと笑い飛ばしたのだが、ジャンヌの様子を窺って心配そうな顔になった。

「俺も最初はすっごい囲まれてしまってとっても緊張したんですよ。姉さんもでしょう。お疲れさま」

 そこは御園と縁を持って、ここに入ることが出来た『部外者だった』二人。
 お互いに、この様な席には慣れていないことを、隼人も案じてくれていたようだった。

「俺も囲まれすぎて。まだ慣れないんですよね〜」
「あら、堂々としていたわよ」
「そうかな?」

 そう言っている間にも隼人は、ジャンヌの為のシャンパングラスを取り寄せ手渡してくれた。
 なんだかんだ言っても、この子も結構、場慣れしているわよね。と、ジャンヌは思うのだ。
 たぶん、マルセイユにいた頃、それになりに身につけたのではないかとジャンヌは思う。

 そんな隼人と二人だけで、乾杯をする。
 やはりこうして親しい知り合いがいるのは強みだった。
 だが、隼人はシャンパンを半分まで飲み干すと、ピアノの側でお互いのヴァイオリンの音合わせを始めた妻を見て、溜息をこぼしていた。
 そんな隼人の、ちょっと遠い目。

「どうかしたの?」
「え、ええ……。兄さんがヴァイオリンを弾くのは、久しぶりじゃありませんか? 葉月もそう言ってとっても楽しみにしていたものだから。まあ人に囲まれるのは慣れないのだけれど、そこは俺もどうしても見たくて来たんですよ。俺、葉月がこのような席でヴァイオリンを弾いているの見るのは、数年ぶりなんで」

 隼人はそこまで言うと、ちょっと気後れした顔で緩く微笑んだ。

「彼女が右京さんと音楽会を開いて頑張っていた頃は、俺とはちょっと……疎遠だった時期なので、俺、知らないんですよ」

 そうだったと。ジャンヌは思い出す。
 丁度、そのころジャンヌは小笠原に赴任してきて、葉月からその話を聞かされていたから。

「そうだったわね……」
「でも……二人が揃ってまた弾けると言うことは、落ち着いてきた証拠と思ってもいいのかなと。そんな時間を迎えられている実感を、今夜は感じられそうで」
「そうかもしれないわ」

 ここでもジャンヌは、伴侶の痛みを見守ってきた者同士としての気持ちを噛みしめ合うことが出来て、ほっとしていた。
 濃紺の正装をしている従兄に、濃紺のドレスを着ている従妹。栗毛のよく似た二人。従兄妹だなんて言わなければ、本当に『兄妹』と間違われてしまっても仕方がないと思うほどに、よく似ている。
 二人が目線を合わせながらの音合わせは、真剣そのもの。肩に乗せる光り輝くヴァイオリン、そして二人のしなやかな腕が操るボウ。それが優雅に揺れていた。ピアノは今夜、このために雇われてきた出張ピアニストのよう。

 やがて、ぴったりと止まったステージの三人。
 固唾を呑んで待っていると、ピアノの伴奏が始まる。

 お二人の十八番だという『カノン』が始まる。
 一番手を滑り出した葉月の音は、ジャンヌが聞き慣れている右京の物とは違う、とても軽やかで透明感がある音。
 そしてその後に続く従兄は、その音を支えるかのようにボウをじっくりと弾く重みのある音。
 それでも二人の音が追いかけっこで重なると、どこからも溜息が聞こえてきた。

 ホールにふわっと広がる華やぎの音。
 その音が、とても幸せな音色にジャンヌには聞こえる。
 あそこにいる二人は……。他人が想像は出来にくい過酷なものを長い間味わってきたというのに。
 その音はとても、澄んでいて穏やか。二人は一音一音、そして一小節一小節を大事に拾って、弦にボウに乗せて、『私達』のところに届けてくれている。

「……変わっていない。兄さんの音も」

 側にいた隼人も、とても感極まったよう。
 胸を押さえ、『いつか鎌倉で聞かせてもらったまま。いや、それ以上』と、隼人の頬はその感動のせいか紅潮していた。

 壮絶な苦しみを味わった者だけが知ることの出来る『幸せの色』なのかと、ジャンヌは思った。
 言葉が出なかった。その音の美しさも、優しさに溢れているのも、そして……彼等が心に誓っているだろう華やかさにも。
 やっぱり、貴方にはそこが似合う。そこで、そのような音を人々に届けて欲しい、そして……聞いて欲しい。ささやかでいいから……。でも、ジャンヌのそんな願いはもう叶っているように感じた。ほら、会場の誰もが飲むことも食べることもお喋りもやめて、御園の二人に魅入っている。
 目の前で、栗毛の従兄妹同士がヴァイオリンを構え演奏しながら、時々目を合わせては微笑み合う。それを見ただけで、ジャンヌの胸も熱くなる。本当に──この様な日が来たのだわ、と。終わってからも長かった気がする。でも、確実にこの一家には光がこぼれている。そう思わせてもらえる幸せな音色。
 どうしてだろう。こんなに素敵な幸せな気持ちにさせてもらえる演奏なのに。どこからともなくすすり泣く声が……。きっと彼等の今までを思いやった人がいて、そしてジャンヌと同じようなことを感じてくれたのだと思えた。
 そんな時だった。ジャンヌの目の前には、白いハンカチ。隼人が差し出してくれていた。

「姉さん、これ。どうぞ」

 そっと囁く隼人の声。
 ジャンヌは『え?』と驚き、でもその意味が分かって自分の頬に触れると……涙で濡れていた。

「やだなあ。姉さんが泣いたら、俺ももらい泣きしてしまうじゃないですか」

 確かに、彼も目がちょっと潤んでいるよう。
 ジャンヌは『有難う』と、義弟のハンカチを遠慮なく借りて頬を押さえた。

 その幸せを届けてくれた『カノン』は、従兄妹ふたりの本当に息のあった締めくくりで終えた。
 勿論、割れんばかりの拍手がホールに響いた。
 直ぐに葉月に歩み寄る篠原会長、そして右京を労う蘭子の姿がそこにあった。だが、それはなにもこの会の長である二人だけじゃなく、他の人々も一斉にわあっと二人を囲んでしまった。
 すごい熱気だった。
 でも……ジャンヌには分かる。今まで長い間、遠くからこの一家を見守っていた人達もきっと安心したのだと。今はもう、ここにはいないけれど、先に天に召されたお祖母様も、今夜は幸せに笑っているような気がした。そう思うと、やはり涙が止まらない。

「ごめんなさい、隼人君……。私、外にいるわ」
「姉さん? 大丈夫ですか。俺も……」
「いいえ。ちょっと熱気が……涼んでくるだけだから、一人で大丈夫よ」

 ジャンヌは強く隼人を手で制する。彼は本当に心配そうな顔をしてくれたけれど、そこで『気をつけて』と見送ってくれた。

 外に出ると、もう星空。
 風も心地良く、ジャンヌの身体の熱を冷ましてくれそうだった。
 直ぐ側のデッキを暫く歩き、そこに置かれている椅子にとりあえず座った。

 また……ホールからヴァイオリンの音。
 ……でも? 今度の音は二重ではない?

「ジャンヌ」
「貴方」

 そこに右京が笑顔で立っていた。

「隼人が、熱気にやられたみたいだったと知らせてくれて」
「まあ。まだ演奏の途中でしょう」
「いいんだ。別にプログラムも作っていないし、葉月とはいつもぶっつけ本番。好きなものを好きなだけ弾くスタイルでやってきたんだ。それに今夜の主役はあいつだし」

 右京は直ぐに隣の席に座ってくれた。

「疲れただろう。今日は俺の為に有難う」
「いいえ。とっても幸せになれたわ。そんな素敵な曲を演奏を、有難う」
「本当にそう思ってくれたのか?」

 ジャンヌは『当たり前じゃない』と彼に笑う。

「だって、私。貴方のあんなに幸せそうな姿……いいえ、音を聞いて、泣いてしまったの。感動して熱くなって……だから……」

 そしてジャンヌは、隼人が貸してくれたハンカチを右京に見せた。
 こんなに泣いてしまったから、彼が気が付いてしまったほどにと……。
 すると、隣に座っている右京の目が、どこか切なく揺らめく。
 やがて彼のヴァイオリンを持っていた手が、ジャンヌのまだ冷めぬ頬に触れた。

「熱いじゃないか。火照っている」
「……だ、だから。言ったじゃない」

 その頬に彼の唇がそっと触れ、ジャンヌは身体が固まった。
 緊張とかではない。いつもそう。彼にこうして柔らかに触れられるとジャンヌはもう、後は彼にお任せになってしまうほどに身体が言うことを聞かなくなってしまう。
 だから、そのまま、彼の思うままに唇を塞がれ、唇を愛撫され、そして最後にはずっと奥までゆっくりと愛され……。彼の弦を繊細に操っていた指先が、巻き毛にしてきたジャンヌの細い金髪を絡めながら首筋を滑り、鎖骨をゆっくりと落ちて……。
 秋の夜風がどんなに二人を冷まそうとしても駄目だった。このように、直ぐそこに賑やかな会場があっても、彼と一緒に星空の中溶けていってしまう。
 そんな夫との幸せな夜の分かち合い。彼の唇がそっと離れたかと思うと、彼がポケットから何かを取りだし、ジャンヌに握らせた。

「これ、ここの客室の鍵。部屋、取っておいたんだ」
「あ、貴方ったら……そんな、ことを……していた、の?」

 また直ぐに唇を塞がれる。
 聞こえてくる葉月の演奏曲は『愛の挨拶』。
 その曲が聞こえなくなるまで、彼に愛され、そしてジャンヌも夢中になって──。

 

 パーティーが終わった後、二人はこの船の部屋で、夜遅くまで愛し合った。
 それはジャンヌにとっても、どこか初めてのような……。この日着たドレスのように真っ白のような……。そんなものを錯覚したような一夜。

 朝。さざ波の音が聞こえ、窓からは真っ青な空と富士山が見えた。
 自分の白い胸元には、彼が抱きつくように眠っている。ジャンヌの金髪に埋もれるようにして。
 彼の朝の幸せそうな顔が好きだった。でも、昨夜のヴァイオリンを持っていた王子様も幸せそうだったと、ジャンヌは快晴の空に微笑む。

 そんな愛しい彼の栗毛を抱きしめ、ジャンヌはもう一眠り。
 幸福なこの朝は、華の夜の余韻に満ちていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 華の時間は一瞬。
 でも、その瞬間は心の中にはいつまでも残り、いつ思い返しても心が煌めく。
 そんな瞬間を作り出すことが出来た者、出会えた者が、一番の幸せなのかもしれない。

 たとえ、今──。
 このように泥まみれでも。

「ジャンヌー。バケツを間違えただろう。ここに植える球根は赤色な」
「え? あら、本当だわ。白色の……。ごめんなさい」
「あはは! 名医の『ジャンヌ御園先生』は、白衣を脱ぐと、ちょっとおっちょこちょい。これ、結婚生活を始めて、知ったことだな」

 実はそのとおりで、それをついに夫の右京に見抜かれてしまったことにジャンヌは頬を染めた。
 今日は、来春に向けてチューリップの球根を植えていた。
 右京がアルバイト先から手に入れた球根、それを彼は色分けして列ごとに植えようと準備をしていた。
 彼の描いたスケッチを元に植えようとしていたところ、ジャンヌが色分けしてあるバケツを間違え、さらに違うところに埋めていたということになっていたようだ。

「白衣じゃないと、気が緩むのよ。良いでしょう」
「いいよ。修行段階だし、まだまだ気楽に行こうじゃないか。それに俺は、そんなジャンヌが見られるようになってよりいっそう、幸せをかんじちゃったからさ」

 また、そういう王子様のようなことを言うのだわと、ジャンヌは再度、頬を染めていた。

 あれから少しだけ日にちが経ち、二人は葉山の別荘地跡に来ていた。
 一緒の時間が出来たら、二人で畑にした跡地に出向いて花畑にすることを目標に耕している。
 右京が園芸学校に通い始めたのも、園芸用の畑を作る為の専門知識を得るのが目的だった。
 彼のブーケやアレンジメントがアルバイトの範囲を超えて評判が良いことは、ジャンヌも生花店の店長から聞かせてもらった。
 でも、彼の今の目標は『花畑』。
 ここ数年、いろいろとやったけれど、まとまって咲いたこともない。ばらばらに咲いたり、咲かなかったり。趣味の範囲に過ぎないような出来映えだった。

 それでも彼は泥まみれになって畑を耕す。
 着古したティシャツに、裾がほつれているジーンズ、そして野良作業の日だからと手入れをしなかった肌には栗色の無精髭。
 その姿を見たら、先日の『華やかな貴公子』の面影は何処にもない。
 でも眼の輝きは『俺の華やかさへのスタンス』をジャンヌに教えてくれた時と同じ、真剣な顔。
 そしてジャンヌも。同じような古着のジーンズ姿。化粧も日焼け止めだけで、時には顔にだって泥が付いている時がある。
 それでも、夫と同じ気持ちになって、夫と感じ合いたい。そして自分もここにぶつけるべきではないけれど、土を耕すことでなにか心を均しているような気持ちになる。心の中にあるものを洗いざらい自分の中で認めながら、やがて無に還るような心境。それで罪が消えるとは思ってはいないけれど。  

「そろそろ、昼飯にしようか」
「そうね」

 額の汗を拭きながら、彼が日射しの中、笑った。
 華夜の時間とはほど遠い風貌になっている王子様だけれど……今は、その顔が眩しい。

 いつかここでもきっと……。
 その時はこの人も、私も、御園の家族も、谷村の家も、そして……ここから昇っていってしまった彼女も。
 誰もが華の笑顔になっているとジャンヌは信じて、チューリップの球根を大事に植えた。

 

 

 

Update/2007.8.30
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