【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![13]

 大佐の肩章が付いているベージュグレーの軍制服の上着。それを、同じような色のジャンパースカートの上に羽織っている彼女。でも既に金色のボタンは、ぽっこりと出ているお腹のせいで閉められないよう……。何処から見ても『妊婦さん』だった。吾郎はついついそのお腹に目がいってしまう。

(まさかなあー。お嬢さんが、妊娠しているだなんて思いもしなかった!)

 でも、見れば見るほど、彼女、幸せそう!! ──葉月はそんな顔をしているのだ。
 それが今、小さな生命を抱えている女性の表情というのだろうか。つねに唇にほのかな微笑みを携えているように見え、それにも吾郎は見とれてしまうのだ。
 その彼女と、ひとつの長机を挟んで向かい合った。
 目の前に座っている彼女は、暫くは吾郎とは言葉を交わさず、手元にあった書類を静かにめくり眺めていた。

「澤村から聞いてはいたけれど、すごい数の研修をこなしてきたわね」

 彼女が見ているのは、吾郎のマルセイユでの経歴だった。
 俯いてその資料を眺めている彼女は、さらに、やんわりとした微笑みを浮かべている。
 吾郎はもうそんな葉月に見とれるばかり。……なんて綺麗になったんだろう? 二年前に見送ってもらった時は、まだどこか少女のような部分を思わせる『やんちゃ姫』といった感じだった。でも、もう、吾郎の目の前にいる女性は『優雅な大人の女性』。こうして向かい合っているだけで、すごくいい匂いが漂ってくるので、気を抜くと吾郎の鼻の穴は二つとも全開状態になるほど、いつのまにかひくひく動かしているのだ。
 あー、セシルが地中海レモネードのような爽やかで甘酸っぱい匂いなら、このお嬢さんは芳醇なマスカット? すごく甘い匂いがする〜と吾郎はぼんやりしてしまっていた。

「吾郎君?」
「いえ、あ、はいっ。ほら……俺みたいな取り柄のない男は、数をこなすしかないかなって。頭使うの苦手だから、俺ってそんなことしか思いつかなくて……」

 葉月がまた、優美なその眼差しを緩めて『ふふ』と笑うだけでも、吾郎は机の上にふにゃりと骨抜きになってへたり込みそうになる。
 あー、女の人が愛されて綺麗になるとか、恋をして綺麗になるとか、結婚して幸せになって綺麗になるとか、小さな命を我が身に宿し母親になって綺麗になるとか……そういう全てのことを象徴するような女性が目の前にいる〜。
 こんな女性とこれから仕事していくんだー……なんて。あれだけ寂しい思いを堪えてマルセイユから帰国してきたのに『やっぱ、帰ってきて良かったよ。俺』と……マルセイユの別れた親しき人々を思うとやや薄情な気にもなるが、そう思わせるほど、葉月は綺麗な大人の女性になっていた。

 のに、彼女の書類を見ている顔つきが急に変わった。

「吾郎君は、俺にはこれしかなかったと言うけれど。私はそれで大正解だったと思うわ」

 片手に持っていシャープペンシルを、彼女が動かし始める。
 大佐嬢の顔に豹変した葉月──。吾郎の顔を見ず、その気迫ある目つきで資料を見つめ、なにやらさらさらと書き始めている。
 何を書いているかは吾郎には判らない。だが、彼女は吾郎にその横顔を見せたまま、しかも書き込みをしながら口も動かし始めた。

「その人に合った『向上する方法』というのがあると思うのよ。吾郎君は見事にそれをやっていたというわけね。……人によっては『自分はこういう方法で、スタイルで上に行きたい』とそんな理想で頑張ってみても、それはあくまで理想の方法。そのスタンスでやってきたいところだけれど、実はそれが既に自分を誤魔化している背伸び、自分には向いていない方法だと気が付かないで終わってしまうこともあると思うのよね。途中で気が付けばいいけれど……。自分に合った歩き方を見つけるって難しいのよ。その点、吾郎君は自分を騙すことなく正直だから『自分を良く知っていた』。だから、この方法で……予想以上の実力を備えたメンテ員に成長したのだと思うわ」

 ……と、でも書類に書いているのか? と、思いたくなるほど、葉月はそれだけ喋りながら、なにかを書いては眺めていた。
 それにしても、自分と同い年の彼女がそれだけのことを語るだなんて、やっぱりすごいと思った。彼女のその話にも吾郎は圧倒された。だからこそ、それだけ言い切る彼女に『吾郎のとった選択と行動は、まさにビンゴ大正解。よく自分をみつめた』と認めてもらえ、真っ直ぐに馬鹿をやってきたことを誇りに思うことが出来た。
 そんな彼女はやっと、口も手元も止め、吾郎をちらりと横目で見た。
 その目に……吾郎は固まった。

(し、師匠と同じ目つき!)

 ぞくっとし、鳥肌が立ったのが分かった。
 やはり彼女は『大佐』となのだと、吾郎は初めて肌で感じさせられた。吾郎だけじゃない。きっと彼女もこの二年で大佐としてステップアップしてきたのだと思った。

「見事ね。素直だから、やり始めたら突き抜けるような気がしていたのよね。たぶんレジュ中佐も、同じものを貴方に感じてくれたんだと思うわ」

 レジュ中佐。吾郎は師匠がそう呼ばれて、少し寂しくなった。
 マルセイユ基地の者なら、師匠が『レジュ中佐』だと分かっていても、彼だけ特別という意味を込めて『チーム・クロード』とか『クロードキャプテン』と呼ぶからだ。やはりここは小笠原なんだなと思った。
 だが葉月はそんなことは知らないから、先へと進めていく。師匠と同じ顔、同じ目で。

「それに、しっかり『マルセイユ型メンテ員』に育て上げられたわね。これはレジュ中佐にやられたってかんじよ」
「どういうことかな?」

 葉月はぽっこりと出ているお腹の上で腕を組んで、溜息。
 妊婦さんなのに、大佐嬢の雰囲気が壊れることない彼女は、再会したばかりなのに、もうこんな仕事の話ばかり。しかも吾郎も引き込まれちゃっている。全部、彼女のせい。だって、彼女の話、先が気になる話題ばかり振ってくる。『マルセイユ型メンテ員』とはなんぞや? と、吾郎が首を傾げていると、ちょっと不機嫌な顔になってしまった。それだけ、クロードがとってくれた吾郎育成の方針に『やられた』と言うことらしい。いったい、葉月はクロードにどんなふうにやられたと言うのだろうか?

「当初の予定の半年、甲板要員になったばかりの形で帰国してきたら、私なりにも『こんなメンテ員になって欲しい』という考えがあったけれど。レジュ中佐にはその考えを上回る教育をして頂いたという事。しかも澤村タイプのメンテ員に育て上げられたわねー」

 帰るなり、忘れていた……いや『自分なりに俺の個性で、その亡霊は乗り越えた』と思っていたのに、まさか『亡霊の奥様』からもそんなことを突きつけられるだなんて吾郎はショック! クロードの前でふざけていた時のように『うわーん、ひどい!』と泣き真似をしたくなったが堪えた。
 そんな吾郎の心情は知る由もない葉月は、まだまだあの大佐嬢の顔で次へと進める。

「だって、小笠原にはあまりいないでしょう。『教育』と『現場』の行き来ができるメンテ員って。あの源中佐だって現場のみよ。何故だと思う?」

 ──小笠原には隼人、もしくは帰国してきた吾郎のようなタイプのメンテ員はいない。
 そう言われて吾郎は一時考えたが、あることがふっと見えてきて、葉月に叫んだ。

「そうだ! 小笠原は『教育隊』の規模が小さい。何故なら、横須賀と浜松の訓練校があり、大抵のことは横須賀で出来るから!」
「そうよ。小笠原には最低限の『教育隊』で事足りるというわけ。それで六中隊がそれを担っているのよ。なにか強化したければ、本島へ行かされるものね。だけれど、マルセイユは違うでしょう。横須賀と一緒で、教育隊と現場は同じ基地内にあって密接している。だからレジュ中佐のような熟練のメンテ員が教育隊に現場技術者として教官をする。澤村もあちらでは、そうだったでしょう」

 『ということは、よ……』。先ほどまで吾郎の心を和ませてくれていた優美な微笑みとはまったく異なる、大佐嬢の不敵な微笑み。
 それこそ、吾郎がマルセイユに行く前に、まだ少女のような面影を残していても、大佐嬢となったばかりの彼女が既に見せていたなんともいえない悪戯めいた自信ある笑みなのだ。
 彼女はその笑みを浮かべたまま、また吾郎資料にシャープペンシルをくるくると動かしている。いったい何を書いているか覗きたい衝動に駆られた。

「ということは、よ。小笠原でもマルチに動けるメンテ員にしてくれたってことね」
「マルチ?」
「ええ、サワムラメンテチームでただ整備員をするだけではない、岸本という男には小笠原でも研修教官をしてもらえるってこと」
「え、じゃあ……そのような仕事も?」
「当然でしょう。帰ってくる前に『研修教官』まで経験してきて、これを無駄にしたらレジュ中佐に『使いこなしていないなら返してくれ』と言われるわ」

 そこで吾郎はハッとした……。
 まさか、師匠? こんなことも見越して、最後はあれだけ引き留めてくれていたのかと──。

「貴方はもう、ただの整備士じゃないのよ。小笠原だけじゃない。これなら横須賀も、浜松航空部隊も、そう……フロリダだって、どこでもやっていけるわ。レジュ中佐に感謝しないと」

 吾郎はまさかと思ったことを、葉月が明確にするように言葉にした。
 大佐嬢が明確にした途端、吾郎はクロードのところに駆けていって『有難うございます』と大声で叫びたい気持ちになった。

 そんな感謝の気持ちが溢れるばかりの感動に包まれている吾郎。だが、目の前の大佐嬢がにっこりとした笑みを浮かべながら、さらっと吾郎に爆弾を投下してきた。

「では、そういう訳で。連隊長には既に相談しているけれど、吾郎君は『少尉』に昇格する予定なので、頑張ってね」
「はい!? な、な、なんで! ですか……?」
「成果を出したんだから当然よ。二年間、頑張ってきた『凱旋褒美』と思って、快く受けてくれると嬉しいわ。『少尉』というのは私の判断ではなく、連隊長の判断です。これからも貴方なりに向上して頂きたいという上からの期待度だと思ってください。頑張ってくださいね」

 今度は大佐嬢の、凛とした笑み。彼女はやっと正面を向いて、吾郎に微笑んでいた。
 吾郎、ついに、平隊員を卒業!? しかもいきなり少尉!?

「あ、有難うございます! た、大佐!!」
「いいえ。全て貴方の成果で、私はそれが形になるように手配しているだけですから」

 本当に彼女が上司に見えてきた。
 なんて手際? 吾郎が帰ってきた途端に、あたらなるスタートラインを用意してくれ、彼女もクロードのように『さあ、この先へ、いってらっしゃい』と背中を押してくれているような、そんな『お母さん』のような懐を感じてしまったのだ。

「ところで、吾郎君」
「はい」

 また彼女の目線が資料に戻ってしまう。
 今度は何も書かずに、ただ眺めているだけ。そして吾郎に何か問おうとしているのに、彼女がそこで黙ってしまった。訝しく思いながら吾郎も待っていると、彼女がやっと口を開いた。

「マルセイユには、未練はないの?」
「え……」

 彼女は微笑んでいるが、資料を見たまま、吾郎の目は見ていなかった。
 そして吾郎もその問いに、どきりと固まった。どきりとしたことは……、吾郎もそれだけで己の本心を自覚する。

「あるの?」

 答は『ある』だった。

「いいえ。万が一『あった』としても、当分は小笠原で、今度はマルセイユにないものを経験したいと思います。クロードキャプテンにも言われました。本当の意味で、甲板要員としての使命が始まるのだと。それは俺にとっては小笠原なんだそうです」
「そう……」

 彼女の少しばかり、納得していないような声。
 まるで吾郎の『本心』を見抜いているかのよう?

「では、このまま何があっても小笠原で頑張れる?」

 どうしてそんなことを聞くのだろう?
 吾郎は今度は返答はせずに、眉をひそめ葉月を見つめた。
 するとやっと彼女が顔をあげた。

「謝らないといけないわね……」
「謝る? なにを?」

 葉月が申し訳なさなそうに、ちいさく膨らんでいるお腹をさすった。

「呼び戻したものの、ラストフライトは当分お預けになってしまったから……。妊娠が分かった時にはもう、吾郎君は帰国することが決まっていたから……」

 あ、そういうこと。と吾郎は思った。
 ラストフライトが延期になったと分かれば、吾郎はまだマルセイユにいられたし、吾郎は居たかったのではないか? と葉月は思っているのだろう。
 確かに。そうすれば、馴染んだ仲間とまだ甲板を走っていただろうし。師匠と一緒にいろいろな研修をこなしていただろうし。康夫と馬鹿笑いをしながら楽しい日々を過ごしていただろう。……いや、一番の未練はやっぱり『セシル』。何年もマルセイユで待っていたら、彼女が戻ってきた時に直ぐに会えた……いや! 吾郎はそこで首を振る!

「とにかく! 俺自身が小笠原に戻りたいと願ったんだよ。あのままマルセイユにいても変わらない。クロードキャプテンもそう思って、だから俺を……」
「みたいね。とにかくよろしく頼むと、念入りなお願いが何回もあったもの。吾郎の二年間の努力を決して無駄にしないで欲しい。最大限に使いこなしてくれと。私が送り出したはずなのに、マルセイユからお返ししましたよと言うよりかは、まるであちらが子供を送り出したみたいな感じだったわよ」
「……キャプテンが? そんなことを?」

 葉月が『そうよ』と、微笑んだ。
 どうやら、師匠と直々に会話をしていたようだ。それにしても普段は冷たいふうのあの師匠が? そんなお願いをこの若い大佐嬢にしてくれていただなんて?

「まるで、お父様と息子さんみたいな関係なのね。レジュ中佐のあの様子だと、余程、手放したくなかったかと……。だとしたら、貴方も……離れがたかったのではないの?」

 その通りだが、吾郎は『未練がある』と葉月には思われたくないので黙った。
 でも、彼女は固まっている吾郎の顔を見ただけで、『そうなのね』と言わんばかりに可笑しそうに『くすり』と笑った。だから吾郎はまたもや誤魔化す為に、口を開く。

「未練なんか、ないよ……! 俺は小笠原に帰らなくちゃならなくて、ならなくて……」
「帰らなくてはならなかった……。私との約束の為に?」

 答は『ウィ』。でも葉月は違った。

「レジュ中佐からも打診があったわ。最初で最後の約束を果たすラストフライト。その時だけ返すわけにはいかないかと……。私はそう問われ、レジュ中佐には『岸本の意志を尊重したい』とお願いしたけれど……」
「本当に?……」
「でも、最後に貴方が帰国を望んだ。だから返すとレジュ中佐も……。でも、レジュ中佐がどうも……貴方がマルセイユにいなくてはいけないかもしれないとかいう訳の分からない、あの方らしくない不透明な部分を匂わしていたものだから……」

 そこで吾郎はピンと来た。
 師匠……。別れた恋人のことを気にしてくれていたのかも知れないと。
 そして、葉月に約束を果たしたらマルセイユに返してくれとでも交渉していたのではないか?

「あの……。キャプテンはそれで、約束を果たしたら帰ってこいとか? それとも約束が先延ばしになったなら、戻ってきても良いとか?」

 『待っている。いつでも帰ってこい』──。吾郎の頭にそんな師匠の声が蘇った。
 吾郎にそう言ってくれたのは一度きり。でも、実は水面下で大佐嬢とそんな交渉を激しく交わしていた?
 でも葉月は、あの師匠と同じ無表情な大佐嬢の顔で静かに言った。

「いいえ。返して欲しいなどとは……中佐は……言わなかった、わ」

 彼女にしては歯切れが悪い。
 吾郎の勘が『師匠は彼女に返してくれ』と言ったんだと確信した。

「小笠原で納得するまで頑張れと……言われて……」

 そして彼女に、『俺がそう言ったことは吾郎には言わないで欲しい』とでも言っていそうだと……葉月の様子を見て吾郎は思った。さらに葉月も、クロードの男気を大切にしたいから吾郎にはそうは言えないが、でも吾郎にはそれとなく師匠が愛弟子を案じていることを伝えたくて、そんなふうに仄めかしてくれているのだと思った。

 それで彼女、『未練はないのか』と吾郎に問いただしたのかとやっと納得した。
 だから、吾郎も今ある気持ちをはっきりと言うことにした。

「たぶん……マルセイユという場所は、甲板要員としての俺の『ホーム』になってしまったんだと思う。そしてお嬢さんとの約束を果たしたいから戻ってきたのも事実。これが実を結ばないと、あのままマルセイユに残っても心残りでしようがなかったと思うよ」

 そう、あのままセシルといても、彼女も納得できなくて、いずれは彼女自身が吾郎の恋人であることを責め、一緒にいてもやっぱり別れる日が来たのだと思う。

「始まりが小笠原だから、次にステップする為のケジメがいる。それも俺自身が納得する為に戻ってきたと思ってください」
「そう、有難う。吾郎君──」

 葉月がほっとした顔をした。
 彼女も彼女なりに、なかなか約束が果たせない状況になったこと、心苦しく思っていたんだなと吾郎は感じた。

「だから、お嬢さんも気にしないで。今は、元気な赤ちゃんを産むことに専念を。あ、そうそう。俺、小さい子大好きなんだ〜。瞳ちゃん、可愛かった〜」
「えー! 康夫のところのお嬢ちゃんのこと?」
「そうそう! 俺が出ていく時は『とみ、も、ごろーといっしょにいく〜』って泣いて泣いて放してくれなかったんだ! 本当に、俺がマルセイユに行った時には生まれたばかりの赤ちゃんだったけれど、すくすくと育っていくの見ていたから。なんだか姪っ子がいた気分〜。小さい子っていい匂いがするんだよなー」
「まあ、随分と可愛がってきたのね!」
「そうなんだよ〜、もう〜俺も涙ちょちょぎれ。本当に瞳ちゃん、可愛かったんだ。お嬢さんの赤ちゃんも抱っこしたいな〜。だから、俺、これからは小笠原で頑張るから、お嬢さんも……」

 せっかく掴んだ幸せだから。大事にしてよ。
 そう口に出そうになって、吾郎はつぐんでしまった。
 だって、それを言うと、彼女がそれまで辛い目に遭ってきたから……というのを仄めかすような気がして……。そういうこと、彼女の苦しみがどれだけのものだったか想像しきれない吾郎が当たり前のように口にすることは、心苦しかった。簡単に『辛い目にあったから、幸せに』なんて、言いたくなかった……。こんな時、どんな言葉なら彼女にこの心底の気持ちが伝わるか、吾郎にはわからなかった。でも、彼女は笑っている。

「吾郎君、有難う。いつも優しいのね……」

 吾郎が何を言いたいのか察してくれたよう……。
 だから素直に言ってみた。

「せっかく掴んだ幸せだから。大事に──。お嬢さんも俺に、藤波夫妻のような暖かい家庭を見せてくれないかな。あれが随分と俺にとっては癒しだったもんだから」
「そうね。康夫と雪江さんの夫妻は、私も憧れだったわ」
「だよね! 俺も結婚するなら、ああなりたい!」

 本当ね、と葉月と笑い合った。
 でも彼女がまた、申し訳ないような顔に……。

「……ないの、吾郎君はそんな気持ち……今は……ないの?」

 その問いに……吾郎は葉月は『セシル』との事を知っていると直感した。だが……。

「ないよ。当分なさそう。これからも女っ気なし。機械屋としてやりたいことで頭がいっぱいだから、今は興味ないよ」

 だからマルセイユには帰らなくても良いんだ。
 葉月にそう伝わればと思った。
 ここまで彼女が気にしているとは思わなかった。
 遠くなるラストフライト。吾郎の思わぬ成長が、マルセイユの愛着もあったこと。葉月は既に吾郎の世界は小笠原にはないのでは……と、心配してくれているようだった。

「……分かりました。では、岸本少尉。これからもお願い致しますね」
「はい、大佐」

 葉月が資料をやっと閉じた。
 でも、最後にやっぱり彼女は吾郎に念を押した。

「自分を大切にしてください。約束を果たす方法はいくらでもあるわ。私は……それよりも、吾郎君なりの幸せを願いたいから、貴方が望んだなら、どんなお手伝いでもするわ。だから……」

 恋人のことを心に残しているなら、今からだって追いかけてもいいのだと、彼女は言いたいようだった。
 でも吾郎は満面の笑みを浮かべる。

「俺にこれだけのチャンスを与えてくれたのは大佐ではないですか。どうぞ、存分にお役に立てください」

 そうだ、とりあえずの未練は断ち切らねばならない。
 始まりは小笠原。そしてケジメの小笠原。
 吾郎の次なるステップの為に──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 マルセイユでどんなことをやってきたか。そして葉月が良く知っている知人が今はどう過ごしているか……セシルのこと以外は……。そんな帰国話に花が咲いた。
 葉月は楽しそうに聞いてくれ、時には軽やかな笑い声を立て、吾郎のおちゃらけたトークをお茶を片手に楽しんでくれた。

「もう〜やだあ、吾郎君がこんなに面白い人だなんて思わなかったわ。笑いすぎて、お腹いたい」
「うわあ。赤ちゃんもママが笑いすぎて、お腹の中で転がってるかもねー!」
「もう、吾郎君たら〜! 転がるって……」

 でも、彼女がそう言った途端、ハッとしたようにお腹に手をあてた。

「動いた……わ」
「うっそ。もう動くんだ」

 葉月は嬉しそうに『うん』と頷いた。
 吾郎が帰ってくるちょっと前から動き出したとのことだった。

「やっぱ、転がったんだ。ママの嬉しそうな声が、きっと一番、嬉しいんだよーー」
「そうかしら? だって吾郎君たらすごく笑わせるんだもの。この子も可笑しかったのかしら」

 彼女、本当に幸せそうだった。
 そうしたらまた、ドアからノックの音。『失礼致します』と背の高い男性が入ってきた。
 ──『隼人』だ。もしかして、赤ちゃん、『パパ』が来ることが判って動いたんじゃないか? と思ったほど!
  吾郎は隼人と直ぐに目が合って立ち上がった。

「岸本! おかえり!」
「中佐、只今、戻りました。いろいろと有難うございました」

 彼も吾郎を見るなりこの上ない笑顔を見せてくれる。
 そして直ぐに吾郎のところに歩み寄って、『まっていたよ』と帰国を労うように肩を叩いてくれた。

「うわー! すごい男らしくなって見違えたなー!」

 隼人は吾郎の胸板を軽く叩いて、もの凄く驚いている。

「めっちゃ鍛えたんですよー。なーんか途中から趣味と化していました」
「いやー、すごい、すごい! これなら甲板でへばることないだろう。縁の下だけじゃない、本当の力持ちな甲板野郎ってところだな」

 吾郎も『いやははーー!』と、照れ笑い。
 なんたって、この人の上へ行こう行こうと思ってやってきたわけだから──。やっぱりそうして労ってもらったり評価されると素直に嬉しくて頬が緩みっぱなしだ。

「ごめんな、顔を見せるのが遅くなって。最近、工学科に行き来しているものだから」
「いえ……。相変わらず、忙しそうですね。そんな中、来てくださって……」
「なにが来てくださってだよ。俺、会えるの楽しみにしていたんだ。なのに、ミーティングが長引くんだもんな〜」

 そんな隼人は早速、葉月の隣に椅子を持ってきて、吾郎の目の前に座った。
 おー、今度は『新婚夫妻』を眺められちゃったりして!
 ここでは大佐嬢と側近というスタンスなんだろうけれど、さりげなく目を合わせた二人は、さりげなく微笑み合ったりして。あのクールな澤村中佐がちょっと嬉しそうに彼女のお腹を確かめる目線も見物だけれど、特に葉月がこの上ない優美な微笑みを浮かべる様は、なかなか見物だった。

「今、彼女と話していたら、赤ちゃん動いたそうなんですよ。ね、お嬢さん」
「え、……うん……」

 吾郎から話を振ったのだが、葉月は隼人がいる人前だと気恥ずかしいらしい。先ほどのような気楽な返答ではなくなり、真っ赤になって俯いてしまった。まあ、あのじゃじゃ馬大佐嬢がこんなにもっ。吾郎の方が『きゃー』という感じ。しかも隼人までちょっと赤くなってわざと新妻さんから目を逸らしちゃったりして。マルセイユでも噂されていた通りになかなかの『天の邪鬼さん』らしい。
 そんな照れるだけの二人に、吾郎も笑顔で言ってみる。

「ご結婚、おめでとうございます。それからお子さまも、楽しみですね」
「有難う、吾郎君」
「有難う、岸本」

 二人がやっと夫妻揃ってと言った感じの微笑みを見せてくれた。
 吾郎もにっこりだ。
 だが葉月は、先ほど沢山書き込んでいた吾郎の資料をおずおずと隼人に手渡した。

「えっと……これ。中佐にお任せするので、今後のことを後は専門のお二人で話し合ってね」

 隼人がどれと開こうとした途端、葉月が席を立ち上がってしまう。

「貴方のお茶を持ってくるから……」
「え? いいよ。お前、座っていろよ。お茶なんかいらないから」

 お腹を抱えて『よいしょ』と言いたそうに立ち上がった葉月が、わざわざお茶を取りに行こうとしているので、隼人が引き留めた。

「いいの、いいの。ちょっと腰が痛くなったから、歩かせて」
「そうか? うん、じゃあ……」

 でも旦那さんの方は、すごく心配そうな顔。
 吾郎は既に、ニタニタしたくて仕様がなくって。その顔を見られまいと新婚夫妻、プレママ、プレパパの二人から顔を俯かせて視線を外した。

「吾郎君もおかわり、どう」
「うっ……。じゃあ、いただきます」

 吾郎は笑いたいのを堪えながら答えたのだが、葉月は嬉しそうに歩き出した。
 それがまた、急ぎ足だったので、吾郎はぎょっとした。それ転んだら危ないっしょっ! と言いたいが、実際に葉月があんな歩き方であるのを吾郎は知っている。いつだって先へ急げ急げといった感じの、それこそ一分一秒を大切にしている大佐の足取りというのだろうか。
 勿論。目の前の隼人もぎょっとしていた。あの落ち着きある澤村中佐があんな顔をするだなんて? そっちにも吾郎はぎょっとしたぐらい。その隼人が慌てて彼女の背に手を伸ばすように叫んだ。

「こら! おまえ……っ!」

 隼人は急ぐ葉月の背にそう叫んだが、まるでそれを判っているかのように葉月はドアをバタリと閉めて出て行ってしまった。
 呼び止める為に伸ばした手先だけが、残されている旦那さん……。それを唖然としてみていた吾郎と、情けないまま残された隼人と目が合った。
 彼は咳払い、ひとつ。姿勢を正した。

「お、お嬢さん、相変わらずなんですね〜」
「そ、そうなんだよ。まったく、毎日ハラハラさせられる。妊婦になって大人しくなるかと思ったら大間違いだったよ」
「でも、奥さん。とっても綺麗になりましたね〜。ボク、見とれちゃってー」
「え、そうかな。お嬢ちゃんのまま、変わらないと思うけれど」

 ほーら出た。天の邪鬼。と吾郎は苦笑い。なんともきっぱりした返答に冷たい声。ジャン先輩も言っていたけれど『澄ました奴、すっげー素直じゃない時がある』と言っていたのはこのことかと、吾郎は納得。
 だけれど、目の前の中佐もだいぶ顔つきが変わったなあ……と、吾郎は思った。前は彼も爽やかな青年だったけれど、少し渋さが増したような気がした。それに少し痩せたかな? 苦労して痩せたという顔じゃなくて、愛する彼女と沢山の困難に彼も向き合って来たのだというこなれた表情。それに顔つきがシャープになったと言うのだろうか。前よりもずっと大人の男の匂いが漂っていた。さらに身のこなしにもキレがあって、迷いのない颯爽とした動作に仕草……。すっかり中佐としての地位も御園葉月という女性の夫としても、そのポジションを確立させたという堂々としたものを感じさせられた。

 そんな隼人は例の澄ました顔のまま、葉月に渡された吾郎の資料を開いた。しかも開いた途端にすごく渋い顔。眉間に皺を寄せて唸り始めた。

「どうかしました?」
「い、いや……。まったく。すごい書き込み方だなあと……」
「なんか一生懸命に書いていましたよ」
「書いてあることはすごいのだけれど、ぱっと見た感じ、落書きに近いんだこれが。いつもだ」

 すると隼人の場合は、胸に差している赤いペンを取りだし、葉月が手渡した資料に彼も何かを書き始めた。

「あー。もう、また、いろいろと考えやがったなー。岸本、覚悟をしておいた方がいいぞ」
「え、なんかお嬢さんがまた企みを?」
「うん、ちょっと待ってくれな。まとめるから……」

 やがて隼人がざっとその資料を吾郎の前に差し出した。
 それを見て吾郎はのけぞった。げ。本当にいっぱい文字が並んでいる! しかも日本語も英語もめちゃくちゃ入り乱れているじゃないかーーっ! 葉月のおおざっぱさを目にして吾郎は絶句。
 自分が受けた研修の名目がずらっと一覧でまとめられているのだが、彼女がその横に暗号のような走り書きをした後を、澤村中佐が赤丸でひとまとめ。さらに日本語で簡略にひとまとめ。大きな赤丸が五つほどある。

「ぱっと見て、俺が直ぐに手配できそう、直ぐに実行に移せそうな企画がこの赤丸な」
「げ。これが直ぐ出来るって言うんですか!?」
「とりあえずね」

 吾郎は再び絶句しつつも、もう一度、その資料を眺めた。
 吾郎がこなした研修、その中で葉月の目にとまったものの横にある、隼人がまとめたタイトルを見ると……。

「あ、なんだか、面白そう」
「だよな〜。たぶん、お茶を取りに行くと言いながら、もう既に後輩達に伝達して手配の下準備に入っていると思うよ」

 吾郎は驚いた。もう!?

「俺も戻ったらすぐに手配するから、そのつもりで」
「は、はい……! が、頑張ります!」

 吾郎の気合いに、隼人がやっと穏やかな笑顔を見せてくれた。
 しかしこの話がまとまっても、葉月はなかなか帰ってこない。やっぱり手配しているのだなと吾郎は隼人の言葉を実感した。
 隼人は変わらずに赤ペンで彼女の重要な落書きに向かっていた。暫く二人で黙りこむ間が続いた。

「あの……。中佐は春に工学科に異動してしまうのですよね」

 吾郎から話しかけると、隼人が神妙な面もちで顔をあげる。

「うん、そうなんだ。俺もそこは気にしていたんだ。ごめんな……。俺のチームに絶対に入って、俺の力になってくれると言ってマルセイユまで行ってくれたのに」

 隼人も申し訳なさそうな顔。でも吾郎は笑顔で『いいえ』と頭を振る。

「俺、マルセイユで沢山の経験が出来ましたから。そのチャンスをくれたお嬢さんには感謝をしているし、マルセイユまで手配してくれた中佐にも感謝を……」

 そして吾郎は……帰国してこの男を前にして言えるか、言えないかと自問自答していたことを、ついに口にしていた。

「中佐が残していた交流に、俺、いっぱい守られてきました。貴方のところから来たと言えば、皆が温かく迎えてくれて」

 隼人もそこは嬉しそうに『そう、良かった』と微笑んでくれたのだが……。

「それに、俺──向こうで最高の恋が出来ました。これもきっと中佐のおかげなんでしょうね」

 すると笑顔だった隼人の表情が、一瞬にして固まった。
 そして彼はまた資料へと視線を戻してしまう。

「……そうなんだ。いい恋、だったんだな」

 なんて、ありきたりな短い返答が余計によそよそしかった。
 だから吾郎はもう、躊躇わずに言った。

「知っていますよね?」
「知らない」

 隼人の冷たい即答。吾郎はますます確信する。
 あんなに仲の良いジャンが、隼人に報告しないはずはない。彼の元恋人のこと……。

「セシル。俺にとって、これからもきっと最高の女性です」
「ああ、彼女は良い子だよ」

 つい最近まで恋人だった吾郎という男は彼女を『最高の女性』と言い、元恋人だった男は『彼女は良い子』と言う……。
 ここに歴然とした差が生まれたと吾郎は思った。しかも元恋人の彼が今でも最高の女性と言えばそれも腹立たしいはずなのに、それでも彼女が忘れずに隼人のことを心に残していたというのに相手の彼の方は『良い子』で終わっている冷たさにも腹が立った。勿論、後者の方でなくては困るのに。

「彼女は……!」

 吾郎が感情に任せて、今までの口惜しかった全ても、そして彼女の密やかな思いの無念も、隼人にぶつけようとした途端だった。

「岸本。俺が知っているセシルと、お前が知っているセシルは、全然異なる女性だと思うよ」

 彼は毅然とした顔で、吾郎にそう言い切った。そして吾郎はどうしてか急に、何も言えなくなる……。

「岸本が知っているセシルは、大人になった綺麗な素敵な女性だと思う。でも、俺が知っている彼女は……まだ赤いチェックのミニスカートがとても似合っていたキュートな『女の子』。まだ少女だったよ。俺の心に残っているのは、そんな彼女だ。マスカレードのオーナーになった彼女は、俺の良き友人だ。今はもう……」

 そこで隼人はちょっと言い難そうに口ごもったが、吾郎に向けてはっきりと言ってくれた。

「今はもう……彼女の全ては岸本のものだ。……別れても、彼女がパリへと行ってしまっても。俺にもわかるよ。彼女は、そう簡単には心にある思いを忘れたりなんかしないよ」

 ……やっぱり、知っていた。
 吾郎は、なんだか力が抜けてきた。
 もしかすると……。彼女のことを良く知っている隼人になにもかもをぶつければ、もしかすると、今はもう触れることが出来なくなったセシルの声に等しいものが得られるのではないかと……そう思っていたのではないかと思わされた。

「きっと、今もパリで……。吾郎という男と恋した日々を胸に、頑張っているよ」

 その言葉に、吾郎は拳を握ってがっくりと机に項垂れた。
 恋人と離れてしまった為に認めたくなかったなにもかもが……。彼女がパリに行ってしまっただなんて哀しい出来事も、やっと受け入れられた気がした。なぜだかわからないけれど、隼人の静かな声が自然とそう思わせてくれた。

「まだ愛しているなら……。今のセシルを、今度は岸本が見守って待ってみてはどうかな……」
「見守って、待つ?」
「たぶん、セシルは……。岸本の為に出ていったのも本当かも知れないけれど。でも、どこかで自分もあのままじゃいけないと、初めて気が付いたんじゃないかな。皆はマルセイユで成功した若手実業家と思っているだろうけれど。俺は彼女が大きな夢を描いてパリに出ていったのを知っているから。帰ってきた時も驚いたぐらいだよ。それほど、前のパリ修行は若い彼女には厳しかったんだろね」

 吾郎は隼人のそんな昔話に黙って耳を傾ける。
 相手が落ち着いて自分の話を聞いてくれるようになったと隼人も察したのか、さらに吾郎が知らないセシルを語ってくれた。

「実際にあの業界は上を目指したら厳しい。彼女はパリでぶつけられなかったエネルギーを今度はマルセイユで事業をすることに注ぎ込んだ。だから成功した。でも美の世界の頂点を、パリを舞台に目指すなら……それは情熱だけじゃどうにもならないことを彼女自身は知っているんだ。でも……きっと前に出戻ってきた時のこと、実は彼女、すごい敗北感を持っていたんじゃないかな。つまり……」

 心残りだった。
 隼人が最後に呟いた一言に、吾郎の脳裏にあの日のセシルの叫びが聞こえてきた。

『私も終われないの! まだ夢を諦めていないの! だから……行かせて……!』

 やっと解った。
 俺達まだ、寄りそうには不完全すぎる関係だったのだと。
 吾郎には吾郎の道があり、彼女には彼女の道があった。
 愛し合った日々は、ただ違う道の二人が縁あって交差しただけの……。でも、だからこそかけがえのない素敵な偶然で、運命だったと吾郎は思う。
 吾郎には吾郎の心残りが小笠原にあり、セシルにはセシルの心残りがパリにあった。
 そして、今──二人は離ればなれ。
 セシルは既にパリの空の下で、吾郎の健闘を祈ってくれているだろう。だから、今度は吾郎が彼女の健闘を祈る。

「お互いの想いが残っていれば、必ず、会う日は来るよ」
「俺も……そう思って、マルセイユを出てきました」
「だったら……。岸本も自分に納得できるまで、突き進めばいい」

 そう言ってくれる隼人の顔を、吾郎はすがるように見ていたと思う。
 隼人が少し戸惑った顔をしているが、吾郎はそのまま聞いてみた。

「中佐も、そうして葉月さんと?」

 愛し合っているのに別れてしまった二人。その経験がある先輩。
 隼人はそれを知っているのかという困惑した表情を見せたけれど、ここまで話し込んだ為か、どこか居直ったようにして溜息をひとつ。

「ああ。やりすぎた、と思うぐらいにね」
「やりすぎた、ですか……」
「でも、そうしたかったんだ。そうするしかなかったんだ。そうでなければ、前に進めなかった」

 その時の苦さを思い出したような顔をした隼人。
 そしてその言葉に、吾郎は『俺達と一緒だ』と驚いた。

「岸本──。今どこにいるとか、どれだけ離れた場所にいるとか、そんな距離なんて関係ないよ。側にいても心が離れてしまうこともあるし、何処に心があるか判らないほど、目の前にいる相手が遠く感じることだってあるんだ。逆に離れているのに、どうしてか、傍にいてくれるんだと信じられることもある」

 そして隼人は吾郎に逆に聞いてきた。

「岸本とセシルは、今はどっちなんだろうな……」

 もし近いなら、待ってみては。
 もし遠く感じるなら、会いに行ってみては……?
 そんな選択肢まで隼人は見せてくれる。

 だが吾郎はそう問われて、今の自分をやっと見たような気がした。

「離れているけれど、近いです。だから、会いに行きません。彼女、頑張っているだろうから──」

 すると隼人は吾郎に慈しむように微笑みかけてくれた。だが、その後に感慨深い溜息をこぼしながら、胸ポケットから何かを取りだして、吾郎に差し出してきた。

「……余計なお世話だと思ったんだけれど」

 彼の長い指に挟まれて差し出されたのは折り畳まれた白いメモ用紙。

「今年のコンテストは、まったく駄目だったみたいだ。たぶん、まだ彼女は納得していないと思う。来年も挑戦するんじゃないかな……」

 いきなりのその報告。それが気になっていた彼女の近況だと知って、吾郎は驚いて隼人を見上げた。
 そして直ぐにそのメモ用紙を開いた。

 そこにはパリの住所──!

「会いに行かなくても。セシルが望んでいなくても。応援している声を届けることは出来るかも知れない」

 その判断は、岸本本人に任せるよと、隼人は言った。
 思わぬものが、自分の手に滑り込んできて、吾郎は何とも言えない複雑な心境になる。それは直ぐに会いに行きたいという衝動と、そしてそれをやっては駄目だという彼女の信念を尊重したいが為のブレーキ。メモ用紙を握る手に汗が滲んでいた。

「お待たせ」

 そこに葉月がカップを乗せたトレイ片手に戻ってきたのだが、吾郎は上の空。

「遅い!」

 それを解っているかのように、隼人が自分の方へと妻の気をひいてくれた。

 当然、葉月はいい気分で戻ってきたというのに、旦那に直ぐさまの文句を突きつけられて途端にふてくされ顔。

「なにを怒っているのよ」
「早足はやめろと言っているだろ! それにお前、紅茶を飲んだな!?」
「ミルク多めで香り付けぐらいの紅茶だもの! 一日一杯なら大丈夫だってジャンヌ姉様も許してくれたもの!」

 あ、なんだか目の前で騒々しい夫婦喧嘩が始まったようだ?
 でも吾郎はずっとそのメモ用紙を見ていた。

「あ、また動いたわ。 なーんか隼人さんがここに来てから、この子ったら活発になったみたい。声、判るのかしら?」

 葉月がそう言って、夫に向けてお腹を突き出して、丸い膨らみを手で撫でる。
 すると流石の隼人も向かう勢いを収めて、『本当か、本当か』とお腹を触りたそうな手。きっと吾郎がいなかったら、その可愛らしい丸みに手をあてたり話しかけたりしているんだろうなと思った。

 そんな二人にも、離れなくてはいけない時があったのか……。でも、こんな幸せそうに結ばれたんだと……。吾郎はとても明るい勇気が湧く光を見せてもらった気がした。

 再会の語らいを終えて、吾郎はいよいよ明日から小笠原の空母甲板へ立つことになった。
 珊瑚礁の海の上。今度は俺が彼女を見守ってみる。再び愛し合える仲に戻れなくても……。いつか、彼女が美容師として出した答だけは知りたいと思っている。
 そんな気持ちの新たなるスタート。

 

 

 

Update/2007.10.26
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