【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![15]

 どれぐらい経ったのだろう……。
 ただただ整備という仕事に没頭しているうちに、『その日』はやってきた。

 空母甲板も夕日に染まる。
 今日の訓練が終わり、甲板には羽を休めたスズメバチがずらっと威風堂々の姿で整列をしている。
 尾翼にサングラスをかけたような悪ぶった大きな黒目の蜂のペイント。フライト・ビーストームのマークをつけた戦闘機の列。そのうちの一機であるホーネットのコックピットに、吾郎は今いる。
 コックピットを密閉するキャノピーは全開、シートに腰をかけ、吾郎は計器のチェック、操縦桿のチェック……様々なチェックを繰り返していた。

 濃い潮の匂い。目の前には珊瑚礁の海……。
 変わらずの空が夕に染まってく様も、新入隊員としてこの島にやってきた時から馴染んでいたものだ。ただ、その頃は海上の甲板ではなく、陸の滑走路から眺めていた。
 すっかり見慣れ、もう吾郎の日常の、当たり前にある景色。なのに近頃は、なにもかもが切なくて仕様がない。もう若くはないのかと思ってしまった。

 今、座っているシートは、数年前、彼女が座っていたもの。以前に話してくれたように、今、吾郎の目の前にある操縦桿を握って彼女はここで全身全霊を傾けて戦っていたのだと……。そんな彼女のコックピットでの日々を感じ取るように、吾郎は丁寧に向かっていた。

 そう、ついに葉月のラストフライトが近づいてきたのだ。

 

 あの日──。吾郎は隼人に頭を下げられ、心とは裏腹に、サインをして『ホワイトの整備士』としての誓約を交わした。
 だから今も、小笠原にいる。
 あの時、心では『いつでもマルセイユに帰れるよう、自由でいたい』という気持ちが強かった。だが、隼人に『頼む』と言われ『嫌だ』と心では思っていたのに、最後には吾郎の手が自らペンを握ってサインをしていた。隼人はその決意を労ってくれ、そして安堵し喜んでくれた。
 ……今、思えば。隼人に感謝せねばならないと思っている。
 あの人が頭を下げてまで吾郎を引き留めてくれたのは、やはり一流のメンテ員として精進する道へ導きたいと思ってくれたからだ。あんな時に、頭を下げられる先輩、上官は後にも先にも彼だけだった。
 もしあの時サインをしていなければ、吾郎はひどく後悔する日がやってきたと思う。ホワイトを触るようになって、その『実感』は奥からわあっと湧き出てきたのだ。
 やはり自分は機械屋だと思った。ホワイトというまだ姿も形も定まっていない未知の機体がどんどんと変化していく様は、機械屋としての気持ちをいつも高揚させてくれる。気が抜けない整備をしている毎日はとても充実していたし、やり甲斐を感じていた。
 そんな新機種を相手にしているうちに思った。『もしこれを辞退していたら、こんなやり甲斐のある仕事、あとから喉から手が出るほどやりたくてたまらなくて切望し、羨ましい思いでホワイトを遠くから眺め後悔していたに違いない』と、痛切に感じる日々に悶えていただろうと……。それこそ『メンテ員としての最大の後悔』。
 隼人は吾郎がそのような日々を迎えないよう、または、メンテ員としての誇りを失わないよう、そう思って、あそこまでして吾郎をこちらに引っ張り込んでくれたのだ。
 今は、その感謝の気持ちでいっぱいだ。
 もし、あのまま『マルセイユに帰りたいんだ』などと、ホワイトとは無関係の日々を送っていたら、後悔だけでなく、それを知った『セシル』も、吾郎のことに愛想を尽かしたかも知れない……。
 あの頃、マルセイユにいつか帰りたいから、いつでも『セシル』に会いに行けるような身でいたいと思って辞退していたなら、きっと彼女は『また、私の為に自分のことを疎かにしたのか』と呆れたに違いない。隼人は一言も言わなかったが、彼はきっとそんなふうに彼女が感じることも分かっていて、それを吾郎に言いたかったのではないかと思った。『今ここでメンテ員として身を引けば、必ずきっと後悔する。そして……捨て身覚悟でマルセイユでの栄光を手放してまで吾郎を帰国させようとパリに出ていったセシルも幻滅するだろう』と、言いたかったに違いないと後で気が付き愕然とした。
 でも最後にサインをしたのは、心では『嫌だ』と思っても、吾郎のメンテ員としての最後の僅かな思いが『やっておくべき』と判断したのだろう。
 あの時、吾郎の中にある僅かなメンテ員としての誇りを引き出してくれた隼人には感謝している……。

 その後。隼人は『二年はやって欲しい』と言ったが、その二年がとうに過ぎても吾郎はここにいた。
 約束の二年が経った時、隼人がさりげなく『今はどんなかんじ?』とだけ問うてきた。その時の隼人はきっと『約束の二年が来たけれど、どうする? 小笠原を出ていきたいか?』などとは、管理をしている上官としてはメンテメンバーを簡単には手放せない立場故、そうはあからさまには聞けなくなったのだろう。だから上官ではなく隼人先輩個人として吾郎にさりげなく『今はどのように思っているか知りたい』と問うているのだと吾郎も判っていた。
 そしてその時の吾郎の返答は──『このままやっていきたい』だった。
 帰国して二年、さらにホワイトの整備士に選ばれて二年。この二年の間も、全く変化なし。ホワイトという仕事に没頭しているうちに、……そして、彼女に数枚の葉書を届けるだけで、なんら変わらなかった。この間に吾郎の心は既に固まっていた。
 やはりいつかはマルセイユに行こう。もし、この仕事がどこかで区切りがつけられるなら……。
 『俺から彼女に会いに行こう』。
 そう決めていた。こんなに心が離れないのだから……。
 今だって目をつむれば、いつかは別れが来ることを承知で始めた恋だなんてことを忘れ、永遠に続く恋なんだと信じ始めたあの日々が綺麗に蘇る。ちっとも色褪せていない。

 でも『会いに行こう』という決意はしても、三十歳を過ぎた今、吾郎はもう慌ててはいない。
 この二年で隼人が言っていた『待って、見守る』というものが、本当の意味でどんなものか吾郎は知り尽くし味わい尽くしたと言っても良いだろうか。
 年に数枚の、季節の挨拶を添えるだけの葉書。そしてセシルからも変わらずに年に一度だけ、声のない住所だけが記されている葉書がくるようになった。住所は相変わらず『パリ』のまま。ただ、住居はその時々で変わるようで、隼人に教えてもらった住所から数回変わった。それでも彼女が移転したらちゃんと教えてくれるようになっただけでも吾郎は安心していた。無言の手紙でも良かった。彼女が元気で、パリでまだまだ頑張っているなら、吾郎は会いたいとも、一緒にマルセイユに帰ろうとも言わない。
 彼女が納得するまで、『待つ』。
 そんな『待つ』自分になれたと思う。待てると言うことは、まだまだ愛していると言うこと。それが吾郎が小笠原で見つけた答。
 そして『見守る』。
 彼女の負担にならない程度に、吾郎は『一人じゃないよ』という声かけをするだけ。もし、寂しくなったなら。もし、くじけそうになったら。いつだって俺がいるよと。まだまだ美容に対して意欲があり元気で頑張っているなら、吾郎のことなど片隅にあるだけでも良い。忘れて欲しいなら葉書を送らなくなっても良い。彼女がそれっぽっちしか思っていなくても、『待つ』ということが出来るようになった吾郎には、そんな程度でもちっとも構わないのだ。
 だが、その分。自分も彼女に負けないよう、頑張っている彼女をがっかりさせない整備士になること。それがセシルが願ってくれたこと、そしてそれが彼女の信念。だから……あの時サインをして正解だったと、今の吾郎は思っていた。

 そして、整備士としての日々を送る小笠原で、ついに『約束の日』が来ようとしていた。
 長かったと人は言うかも知れない。でも、吾郎にはあっというまの数年だった。
 このシートに座って戦っていたパイロットのおかげで、今の俺がいる。
 友人である大佐嬢が与えてくれたチャンスのおかげで、吾郎は機械に向かう情熱も、そして愛も手に入れた。

 ここ数日、小笠原の基地は騒々しかった。葉月が数年前に計画した『合同演習』がついに実現し、参加する将校に隊員達が横須賀や岩国、そしてマルセイユからフロリダから大勢がここ小笠原に集合している。
 マルセイユからは既にジャン先輩がメンテチームを率いて小笠原入り。康夫のフライトチームはまだ。開催日のギリギリに小笠原入りする予定だった。
 小笠原メンテ員は、毎日その準備に追われている。チーム割に関係なく小笠原のメンテ員は総出で甲板を走り回っていた。
 源や隼人の跡を継いだファーマーキャプテン、そしてロベルト=ハリスキャプテンや、工学科からも隼人にマクティアン大佐など……。主だったメンテの幹部達が常に交替で甲板にいて、メンテ員の監督をしている。
 この日の夕方も、遠くで源と隼人、そしてハリスキャプテンが真剣な顔を突き合わせ、甲板を見渡し打ち合わせをしている。

 隼人が言っていた。──『今回、フロリダにもマルセイユにも、ホワイトを見せるから』と。
 既に話としてはここ数年、あちこちに流れていたと思う。だが今回、ついに小笠原以外の幹部や隊員達に、まだ実験体ではあるがホワイトを公開するらしい。
 それだけに隼人自身も、今回の合同演習には力が入っているようだった。

 

 そんな親愛なる大佐嬢葉月が、空との別れを告げる為に乗る『ビーストーム二号機』のコックピットの点検を吾郎は続ける。

「もう、いいんじゃないの?」

 甲板からコックピットまで上る為の梯子から、吾郎がいるコックピットに一人の男がやってきた。
 この機体をずっと守ってきた男、エディだった。

「だって、最後なんだぜ。本当に最後。なにも起きないようにしておかないと」
「そんなのどの機体も一緒だろ」

 そりゃそうだけれど──と、共感してくれない相棒にむくれてみせた。

「エディだって、この時を待っていただろ?」
「待っていたけれど、来て欲しくもなかったね」

 甲板から数メートルも高い位置まである梯子だというのに、彼はそこに立ったままコックピットに背を向け、機体に寄りかかった。
 シートに座っている吾郎に見せる、エディの後ろ姿。いつもは何事も『機械以外は興味なし、どうでもいい』とばかりにするっとかわしてしまうくせに、いま彼が見せている後ろ姿は機械以外のことを思って、哀しそうな背に見えた。
 だが、彼は頬とまつげしか見えない横顔で夕空に向かって呟いた。

「──『空の私』、『甲板の俺』」
「なに、それ……」

 機械のことになると猛烈な熱意とずば抜けたセンスを発揮するのに、このエディという男が喋ることは、ちょっと人とは違うテンポがずれたことばかり。
 彼が言っていることに上手く合わせられるのは、大佐嬢の葉月か、メンテチームでは紅一点のトリシア。吾郎もややそのうちの一人と周囲は思っているらしいが、このように今でも吾郎は『いきなり、なにを言いだした?』と眉をひそめてしまうのだ。
 しかし、そんな彼がやっとコックピットに向き直って教えてくれる。その時の彼の顔は少年のような笑顔だった。

「俺とレイの、最初の出会い。そしてレイが俺を誘ってくれた言葉だよ」
「えー! お嬢さんがフロリダ出張でエディを引き抜いた時の?」
「そう。俺、その言葉で、小笠原に来た」
「で、それってどういう意味なの」

 だがそこでエディの口が困ったように、もごもご。

「えっと。だから甲板にいる時は俺って感じ。それで、空にいる時はレイなんだよ」
「良く分からないけれど?」
「だから……。くそ、レイに聞け!」

 吾郎は『わかった、そうする』と答える。エディとのお喋りはメンテ以外になるとだいたいこんな感じだ。
 その言葉の意味については葉月から聞いた方が確かに的確だと吾郎も納得、それ以上の追求はやめた。

「とにかくさ、俺が甲板にいる限りは、レイは空にいるもの。そんなつもりでやってきたんだ。それが……コックピットを引退というレイの決意が先にあったとは言っても、訳のわからない暴漢に襲われて、二度と飛べない身体にさせられたのは、今でも……俺っ」

 あのエディが歯を軋ませながら拳を握って悔しがっている。
 彼が人と対することでここまで感情を露わにすることも珍しいこと。そして吾郎も、哀しく目を細めた。

「どんなにレイが『女性としての身体を大事にしたい』という決意でコックピットを降りても、それならそれでさ……子供が生まれたら、その決意を覆して復帰できることもあったかもしれないじゃないか。レイならまだまだやれたよ。俺、きっとそれを期待していたよ」

 吾郎も、うん、わかる。と頷いた。
 コックピットを降りたいという葉月の決意は、暴漢に襲われる前に既にあったという話も既に誰もが知るところ。しかしエディが言うように、彼女の願いであった出産が終わったなら……復帰できる可能性も残っていた訳だ。
 だが……。もう重力に耐えるには危険な傷を負ってしまった葉月。しかも呼吸に負担がかかるだろう胸部にだ。これはどうにも覆せない。どんなに腕があるパイロットでも、命に関わることなら、本人がどんなにコックピットにしがみついても、もうパイロットとしての資格は剥奪されるのだ。

 その、『剥奪の日』が……いや彼女の場合は違うかと吾郎は頭を振る。葉月の場合は『返却の日』と言うのかもしれない。
 その日が迫ってきていた。葉月のケジメの日。そして、彼女を空へと見守っていた人々がそれを見届ける日。

『その日、私の中にあったひとつのものが、揺るがない大きなものになるとおもうの──』

 葉月は近頃、そう言っている。
 とても吹っ切れた笑顔で。そして皆が惜しむ中、彼女だけはその日を心待ちにしている。
 そして吾郎は何故か、ここでも葉月のサバサバとした笑顔を見て、切なくなる。いや、『羨ましい』という言葉も、ぱっとここで浮かんでしまうのだ。
 終わりが目の前にあるのに、彼女はまるで『今から始まるのよ』と言わんばかりの輝きよう。その笑顔で『ラストフライト』を待ち望んでいた。
 あと一回。本当にあと一回。それが終わったら、彼女は最愛の場所と永遠の別れを告げるのだ。彼女の闘志を支えてきた戦友『コックピット』。今、吾郎が座っているこのシートに、握っているスロットル、操縦桿。計器にスイッチ。きっと彼女の心を映すようにして、この二号機も飛んでいたことだろう。キャノピーを閉めたら、この狭い空間は、葉月の心そのものだっただろう。時には意気揚々と上空を飛び、時には重たい何かを抱えるままに、高度上空から急降下をしては、海面ギリギリで『生きたい』と気が付いて、戻ってくる。そのひとこま、ひとこまを、この狭い空間は刻んできたはずだ。
 彼女はもうすぐ、この戦友とお別れをするのだ。いや、もしかすると卒業なのかも知れない。

 そう『ケジメ』。
 葉月は『ケジメ』を……。きっと十代の、パイロットになろうと思っただろうその時の『死線』に近づこうとしていた小さな心と向き合った時からの全て……その戦いの終わり、ケジメをつける……。それは吾郎には『卒業』なのではと感じた。

 彼女の今までを見守っていたこのコックピットも、もうすぐ彼女ともお別れ。
 そしてその最後、ラストチャンスの飛行をサポートする日を待っていた『俺達』。

「エディ、しっかり見送ろう……!」
「あったりまえだろう! もう替われよっ。この二号機のキャップは俺だぞ。最終チェックは俺!」
「わーかっているよっ。そうそう、俺は何年経っても、二号機のサブね。サブです」

 葉月が乗らない間も、他のパイロットが二号機に乗ることは多々あった。
 それでも、エディと吾郎がこの機体の管理を任され、パイロット不在の状態で整備をしてきた。
 エディは、『パイロットの操縦癖』というものを、整備をするその手先にちゃんと覚えさせてた。彼のすごいところは、担当機ならともかく、小笠原のパイロットの癖はだいたい叩き込んでいると言うところだ。いや、叩き込んでいるではなくて、彼の場合はずば抜けた感覚というのだろうか? 覚えると言うよりは、彼の機械への嗅覚が察知すると言った方が良いかも知れない。吾郎はそれを初めて目の当たりにした時も、かなりのショック。これはマルセイユでもいなかったメンテ員だった。そして真似しようと側について観察しても、やはり真似では修得できないものだと、数年経って吾郎も悟った。
 そんなエディは、ビーストーム二号機に葉月以外の誰かが乗っても、見事に乗り込んだパイロット仕様にしてしまう。そして彼等が降りたら、すぐに葉月仕様に直して『いつでも飛べる状態』にして保っていた。

 そんなエディも、葉月のコックピットに座って、真剣に整備を始める。
 彼のこんな時の横顔は、吾郎も息を呑む。あの師匠を思わすばかりの眼光で向かっているのだ。

 甲板はますます夕暮れ、真っ赤に染まっていた。

「お疲れさま」

 機体の下から、そんな女性の声が聞こえてきて、梯子にいる吾郎もコックピットに座っているエディも共に見下ろした。

「お嬢さん!」
「レイ!」

 吾郎は驚き、エディは嬉しそうな笑顔になってコックピットを立ち上がる。
 葉月は甲板指揮官が着る紺色の作業服姿で、二人に向かって笑顔で手を振っていた。

「どうしたの、この時間に珍しいね」
「うん、終礼が終わったから、大佐室は達也に任せて、こっちに来ちゃったの。なんだか、落ち着かなくて──」

 葉月はちょっと照れたような顔を見せる。
 年甲斐もなく、大佐嬢が『落ち着かなくて、うろうろ』。そんなところだろうか。
 でも、吾郎は『それ、分かるよー』と、葉月に笑い返した。自分も落ち着かなくて、こうして何度も葉月のシートに座って再々コックピットのチェックをしているのだから。

「ねえ、座っても良い?」

 そんな彼女の申し出に、吾郎とエディは顔を見合わせたが、直ぐに一緒に笑顔になる。

「乗れよ、レイ。もう今すぐ、レイの手で飛ばせるようにしてあるんだ」
「有難う、エディ。飛ぶ日はよろしくね」
「あったりまえだろ! 早く来いよ。俺も、レイがここに座るのを見るのは久しぶりだもんな」

 吾郎も、葉月がこのコックピットに座るのは初めて目にすることに。
 そう思ったら、ドキドキしてきた。
 吾郎とエディは梯子を降りて、葉月に譲った。

「こんなに高い位置にあったのね。私のコックピット」

 私の……。そう彼女が呟いただけで、隣に並んでいるエディは泣きそうな顔をしていた。
 彼女がゆっくりと梯子を上っていくのを、吾郎はエディと見守った。
 そしてついに、葉月はキャノピーが開いているコックピットに座った。

 小笠原の燃えるような夕焼けの中、時折強い潮風が吹く。
 赤く染まったホーネットのコックピットに収まった葉月は、長い髪を風にそよがせながら、空を見上げて微笑んでいた。
 吾郎もエディも、守ってきたコックピットの主がそこに帰ってきただけで感激。色々と喜びの声をかけたいのだけれど、声にならなかった。

「来たな。待ちきれないじゃじゃ馬が……」

 今度、後ろから聞こえてきた声に振り返ると、そこには真っ赤なメンテ服を着込んでいる隼人が立っていた。

「なんだ大佐室を放ってきたのか。まったく……」

 コックピットの感触が待ちきれなくて甲板にわざわざ来てしまった妻を見て、隼人は苦笑いをこぼしている。だが、やがてコックピットにいる葉月を、彼も遠い目で見つめ、静かに微笑んでいた。
 そして葉月が機体の下にいる夫に気が付いた。

「貴方!」
「待ちきれなかったのか、じゃじゃ馬」

 基地の中では夫妻ではなく、四中隊隊長大佐嬢と工学科副科長の中佐。夫は妻を『大佐嬢』と呼び、妻は夫のことを『澤村』と基地では言う。その二人が今ここで、懐かしい機体を挟んで『夫妻』の雰囲気。
 吾郎だけでなく、いつもは鈍感なエディも気が付いた。──『二人だけにしてやろう』。無言の意志疎通で、吾郎はエディと微笑み頷き合う。
 二人がそっと機体を離れると、隼人が梯子を上っていく。

 遠くから振り向けば、真っ赤に染まる空の中、コックピットに乗る奥さんと直ぐ側で梯子のてっぺんにいる旦那さんの立ち姿。パイロットと整備士の夫妻が、お互いに微笑み合いながら水平線を一緒に眺めている。
 時折、葉月がコックピットを触っては、隼人も覗き込んでなにやら話し込んでいた。最後にはエンジンまでかけ、あれこれと二人で操縦席を挟んで笑い合っている。
 機体は飛ばないが、二人の心は一緒に空に飛び立ちそうだと、吾郎にはそう見えた。

 夫妻は夕焼けの中、水平線に日が沈むまで、そこにいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 小笠原に続々と連合軍の参加隊員達が集っていた。
 いよいよ数日後、この小笠原で『合同演習』が開幕する。空だけじゃなく、陸部でも、工学科でも、それぞれの分野の者が集結し、それぞれの基地で持っている力を披露し、情報交換をするといった目的がある。大佐嬢が二十代の独身の頃から補佐達と少しずつ積み重ねてきたものの集大成が目の前で始めるのだ。

 基地中がざわざわとしている中、吾郎は急に『大佐嬢』から本部に来るようにと言われ、向かっているところだった。
 四中隊本部事務所に顔を出すと、いつも直ぐ目の前の席で入り口を守っている『柏木少佐』が彼特有の柔和な笑顔で出迎えてくれた。
 総合管理班のリーダーを務めている彼も、ラングラー少佐に負けず、雰囲気は穏やかだが身のこなしは秘書官並。『こちらにどうぞ』と優雅に誘導してくれたのは、帰国した時に葉月と再会した四中隊のミーティング室だった。

「いらっしゃい。待っていたわ」

 葉月はまた、長机で向き合うような席を作って待っていた。
 しかし、今回は前と違うことが……。ここは四中隊のミーティング室なのに、葉月の側には工学科へと出ていった夫の御園中佐、隼人もいたのだ。
 夫妻で揃って? いや、それとも大佐嬢と工学科副科長の二人が関わる何かが、吾郎にあるのかと緊張を覚えた。

「どうぞ、そこに座って楽にしてね」
「失礼致します」

 彼女はいつもの友人の雰囲気で穏和だったが、吾郎はそこは上下関係の線はピッシリとひいて上官に接する丁寧さで腰をかけた。
 向かいには大佐嬢、そして彼女が穏和にしている分、今日は少しばかり硬い雰囲気を漂わせている隼人が並んでいた。
 どちらかというと、吾郎はそんな隼人の様子に緊張させられた。

「お忙しい中、ご苦労様です。岸本少尉」

 やっと葉月が大佐嬢の雰囲気になった。
 吾郎も改めて背筋が伸びる。彼女が大佐嬢になった時の威圧感は良く知っている。彼女の目は師匠と一緒、畏怖しているところがある。でも大佐嬢の雰囲気になったかと思ったら、彼女はまた途端に吾郎のお嬢様になってしまう。

「吾郎君、私のコックピットをエディと一緒に何年も守ってくれて有難う。御礼を言うわ」
「なにいっているの。エディも俺も、待っていたいから待っていたんだし……。何年も何度も言っているだろう? もうそれは言いっこなしだよ」

 葉月は吾郎が帰国してからは『二度の出産と初めての育児』という大仕事に追われるようになり、約束のラストフライトになかなか辿り着かないことを気にしているところがあった。
 その度に吾郎は『そんなに早く俺との約束をなくしたいの?』とわざと言って、『本当はいつまでもお嬢さんと関わっていたいんだよ』と何度も言っては葉月にそれを考えないように訴えてきた。だから今日も、ちょっとそこはふてくされたくなった。

「でも、私達の何年も前の約束──。その日が目の前だわ。言わずにはいられないの」
「……うん、分かっている。お嬢さんのその気持ちは、俺も整備をしてきた中で嬉しく思っているよ」

 葉月のその気持ちは本当に嬉しいから、吾郎も素直にその言葉を今日は受け取ってみた。
 隣にいる隼人も、先ほどの面もちはどこへやら。妻と友人である後輩の男が紡いできた約束を挟んでの仲を見守って、優しく微笑んでいた。

 でも、吾郎はまだ腑に落ちない。
 夫妻でのお呼びでなければ、なんなのか……。

「忙しい最中だから、早速本題にはいるわね」

 また葉月の顔つきが大佐嬢に戻る。
 そして彼女は吾郎の目の前に、一枚の紙切れを差し出した。

「岸本少尉に、このような辞令をと思っています。まだ正式には決まっていません。本日はその打診です。お考えいただけませんか?」

 目の前に突き出された紙切れは、その辞令を出す為に連隊長に提出する為の書類。そこに吾郎のネームと、大佐嬢がこの隊員をこのように配置したいという希望である申し込みが書かれていた。
 吾郎はそれを目にして、一瞬、目を疑った! そして葉月の顔を見て、呆然としてしまった。
 葉月はあの冷めた大佐嬢の顔で、それはもう譲れないものとばかりに、はっきりとその紙に記されている配属を吾郎に言った。

「マルセイユ航空部隊の、メンテ本部員。クロード=レジュ中佐の配下へと思っています」

 ──クロードのもとに帰れと!?

 葉月にそう問い返したいのに、吾郎の声は出なかった。
 それを望んでいたはずなのに、いざそれが叶うなら、まず自分がどうなるかなんて──。ここ数年、どっしりと小笠原で構えて整備士の仕事に没頭していただけに突然すぎて頭が真っ白になった。
 そして吾郎はハッとして、隼人の顔を見た。

「ちゅ、中佐? ホ、ホワイトの整備は……」

 彼が二年。二年、やって欲しいと、最終的には吾郎自身の決意で臨んだ仕事ではあったが、そうなるまでは半ば強引にその仕事に引っ張り込まれたようなもの。それにまだホワイトは他基地には詳しい情報を流していない。そこにホワイトをじっくりと触って守ってきた隊員を手放すと言うことは、ある程度の情報の塊を向こうに送り込むに等しい行為になるではないか。それを防ぐ為に、専属整備士は、転属なしで小笠原に貼り付けて置いたのではないのか?

 すると隼人も、工学科副科長の顔つきで、話し始めた。

「そのマルセイユにも、クロウズ社から数機、テスト用に置くことになったんだ。つまり、良く知っている整備士が必要という訳だ。クロードキャプテンが、良く知っている整備士をよこして欲しいと言っている。マルセイユに精通していてホワイトの情報も任せられるとなると、岸本少尉以外の適任はいないかと──」

 吾郎はさらに驚いて声も出なくなった!
 まさか……二年前、これを見越して!? だから彼は頭を下げて『二年いて欲しい』と?

「まさか、中佐……あの時、こんなこと……」
「まだ、そこまで言えるほど、マルセイユ部隊ともクロウズ社とも折り合いが付いていなかったから、あの時は言えなかった。だけれど、クロードキャプテンは、吾郎ならと望んでいたことを口にはしなくても、それを俺は感じ取ったし、これは育てていけばこんな適任はいないと思ったものだから……」

 強引だったその訳を初めて知って、吾郎はまた泣きたくなる。
 そして葉月がゆっくりと吾郎に問う。

「異存がなければこのまま提出します。転属は、今回の演習が終わった後になります。決めかねるのなら、暫くは考える時間を……」

 だが、吾郎はきっぱりと大佐嬢に告げた。

「いえ、行かせて頂きます」

 決めていた。いつかマルセイユに帰る。
 その時が来たのだと。もう、迷わない。これが機だと吾郎は揺るがない思いで確信した。
 葉月も『そう、分かりました』と、吾郎の前に差し出した連隊長行きの書類を手元に戻した。

「吾郎、もう少ししたら、この大佐嬢がテストパイロットの発掘に乗り出すんだ。小笠原とフロリダ、そしてマルセイユ。ここで情報を共有し、テストパイロットを配置し、飛行操縦データーを集めるんだ。今までもそうだったが、ホワイトに何か新しいものを搭載、組み込むことになったら、この三つの部隊で一斉に機体に載せていくことになる。その時、既に知っている整備士が不可欠。フロリダにも数名、ホワイトの専属メンテ員を転属させる予定なんだ。補欠になったところは小笠原から新しい専属メンテ員を補充するから安心してくれ」

 つまり、マルセイユに帰っても、それはそれで吾郎には『大仕事』という訳らしい。
 マルセイユにもう一度送ってくれるだけでなく、そんな大仕事を吾郎に任せてくれるだなんて……単なる御礼をひとこと口にするだけでは済まないほどの、感謝の念で吾郎の心はいっぱいだった。

「吾郎君がいなくなると寂しいけれど。私は言ったわよね? 貴方の幸せを望むと……」
「お嬢さん……」
「ここは貴方の母国だもの。いつでも帰ってこられるし、またいつか必ず会えるわ」

 でも葉月はもう、目を潤ませてくれていた。
 吾郎の胸にも熱い物が迫ってくる……。

「……何度も、有難うございます」

 吾郎はお世話になった夫妻に、頭を深々と下げた。
 今度の二人は夫妻の顔で、にっこりと微笑み合っていた。

 だが、その落ち着いた時、ちょっと隼人が神妙な面もちで吾郎に新たに何かを差し出してきた。
 それはフランス語のファッション雑誌?

「この前、小笠原入りしたジャンが持ってきて、俺に見せてくれたんだ」

 そして隼人はその雑誌の、付箋がついているページを見て欲しいと吾郎に言った。 
 吾郎は妙な予感があり、ドキドキとしてきたが、言われたとおりにそのページをめくった。

 付箋がついていたそのページには……『セシル』がいた!

「コンテストで『サムライ』というタイトルで、三位に入賞したそうだ」

 隼人が言うとおりに、セシルが写っている横には『サムライ』のタイトル!
 だが、吾郎が驚いたのはそれ以上のこと!

 そこに写っているセシルはとてもやせ細り、活き活きと明るく健康的に輝いていた彼女ではなかった。

 

Update/2007.11.2
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