* ラブリーラッシュ♪ * 

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20.恋愛IQ/ゼロ

 

 袋小路に追い込まれた女は、途方に暮れながら一人歩く。

 走り逃げてきた廊下をマリアは戻る。
 工学科がある方向へと向かっている途中、廊下の窓から見えたものにマリアは立ち止まった。

 あのベンチに、マイクが座っていた。
 マリアに逃げられ、元恋人の研究室では恥をかかされ……。秘書室に帰ったのかと思ったら、あの仕事男が、木陰のベンチでぼんやりしている。
 今日も晴れ渡っている青い空を見上げて、一人でぼんやりと、勤務中なのに……。また、あんな彼を見たら、基地の誰もが『何があったのか』と訝るだろう。彼にはあってはいけない姿だった。

 流石に、追い返されたなら秘書室に帰ったと思っていたマリアは堪らなくなってくる。
 あんな彼のままじゃいけない。そしてマリアも『中途半端』じゃいけない。

 恋愛とは、曖昧という意味なのか。
 結婚なら、なにかがはっきりしていて確実という意味なのか。
 だから誰もが、そこに至ってしまうのか。

 マリアはそんな自問をしながら、工学棟へ向かう廊下から中庭に出て、そのベンチへと向かった。

「隣、いい?」
「マ、マリー……。あ、ああ、いいよ」

 逃げた彼女から戻ってきてくれたせいか、マイクはとても驚いた顔をした。
 でも、一緒に住むようになってからそうであるように、マリアが自分の隣に座りたいと寄ってくると、マイクは自宅にいる時と同様に笑顔で迎えてくれた。

 彼の隣に座ったマリアは、暫くは黙って隣にいた。
 返事を言うべきなのだろう。今、思っている事、今まで思ってきた事を、正直に言うべきなのだろう。田舎への帰省を断ったわけも……。だが、言葉をかけてくれたのは、やはり大人の彼からだった。

「ごめんな。唐突すぎたな、さっきの」
「うん、びっくりしちゃった……」

 ここは笑顔でマリアは答える。
 すると緊張していた様子の彼の表情がほっと緩んだ。

「秘書室に帰らなくていいの? パパに怒られるわよ」

 しかしマイクはふと、可笑しそうに笑った。

「帰ってもきっと入れてくれない。あいつら、マリアを捕まえるまで戻ってくるなと……」

 それを聞いて、マリアはまた胸が痛くなる思い。
 あの秘書室の男性達が、そこまでしてマイクを応援し、そしてマリアとのこれからを幸せになるはずだと祈ってくれているのだ伝わってきた……。
 そうして部下達の気持ちを思いながら戻れずにいるマイクは、ここで何を思っていたのだろう。

 先ほど、空をぼんやりと眺めていた彼の……妙にからっぽになってしまったかのような一人きりの姿がマリアの目に焼き付いていた。
 今、隣にいる彼も、また空を見上げてそんな顔。でも、どこか、何かが吹っ切れているかのような爽やかな笑顔にも見えて、マリアは不思議に思った。

「その、女性を捕まえる……という、さじ加減が上手くできなくて」
「仕事は誰も敵わないほどやり手なのに? それに私……マイクと親しくなる前は、貴方がすごく大人に見えて、女の子にも人気があって、だから経験も豊富で恋愛の経験値もすごく高いとおもっていたもの」
「……違うよ。マリーは本当の俺を知らないだけ。いや、俺も見せていなかった、かな……。俺、恋をしたらこんなものなんだよ。その人しか見えなくなって、その人を必死に追いかけて、そして振り向かせようと躍起になるんだ」

 マリアは、『まさか』と笑いたくなった。
 少なくとも、マリアが今まで付き合ってきたマイクという素敵な大人の男性は、そんな恋に不慣れである少年のような不格好さをみせてくれたことなどない……。でも、次に彼が言った言葉で、マリアの今までの彼に対する印象は一転させられた。

「イザベルの時がそうだった。必死だったよ。とにかく、あれやこれや理由を付けて、登貴子ママの研究室を訪ねて……」

 『それが本当の俺なんだ』と、彼がマリアに微笑んだ。
 その笑顔が──。マリアだけしか知らないはずと自負していた、純粋な少年のままの部分を残している彼を垣間見せる笑顔だった。
 そこでマリアはハッとさせられた。

 もしかして、マイク。それは今日の貴方も……?
 恋に一生懸命だった頃の気持ちのままにマリアを追いかけてくれた……?

 それはもしかすると『感動』が湧き出てくるが為の震えだったかもしれない。
 マリアの胸の奥が、冷めていくようだった胸が、やっと熱く盛り上がってきた。

 だが──そこまでだった。
 隣に寄り添って座っていた彼が立ち上がった。
 マリアは急に、彼に置いて行かれるような焦りを感じながら、立ち上がって空を眺めている彼を見上げてしまった。

「マリー。今は、返事はいらない」

 そうなの? 少し考えさせてくれるの?
 是非、そうさせて。今は、答えられない……。

 マリアはそう言おうとしているのだが、それが言えなかった。
 違う──。『考えさせて』じゃない。『まだ結婚はしたくない』のだと。
 さあ、それを正直に彼に告げなくては。これ以上、彼を振り回さない為に──。

「今、マリーに大事なのは、まずは企業訪問と小笠原への出張だ」

 そ、そうね。それに先ず、集中したいわ。
 流石、ジャッジ中佐。先ずはそれが先決だわ!

「だから、返事は今はいい。帰ってきたら聞かせてくれ──」

 何故だろう。彼が次々と話しかけてくれているのに、マリアも心では返事をしているのに……。
 それが言葉にならなかった。
 なにもかも。言葉にするのが怖くなっていた。
 どうして? いつも頭より先に口や手が出ているのに。身体が先に動き出すのに……!
 今のマリアは、隣に彼のぬくもりが消えた瞬間に、どの言葉を口にしても彼が遠くに行ってしまうようなそんな恐怖を感じてしまっていた。

 貴方の心からの求愛にすぐには応えられない自分がいる。
 待ってくれる貴方より、目の前の仕事に集中したい自分がいる。
 結婚が出来ないと言えば、彼が離れていってしまいそうで……。それを言えば、出張している間に、もしかして……別れた恋人に隙をつかれて連れ去られてしまいそうな気がして。

 なにもかも『保留』にしておけば、とりあえずはプロポーズをしてくれたままに『待っていてくれる』のでは──。
 非常にずるい自己中心的な自分がそこに君臨している事に、マリア自身も気が付いている。
 でも、彼の言葉に……。今まで通りの『余裕の大人で、マリアの思うままに甘えさせてくれる寛大さ』から、マリアは抜け出られないでいた。

「あの家で、マリーの帰りを待っているよ」

 その言葉も、臆病に凝り固まり動けなくなったマリアを、どれだけ安心させてくれた事か……。
 しかし彼の笑顔はもう、マリアを必死に追いかけてくれた少年のような彼の笑顔ではなく、マリアが良く知っている『寛大な大人の笑顔』に戻っていた。

 マイクが腕時計を見た。

「やばいな。今度は本当に秘書室に帰らないと。パパと大事な会議がある。こればかりはすっぽかせない……」

 彼の顔が、見る見る間に『ジャッジ中佐』に戻っていった。
 そして彼が動き始める。今度は躊躇いもなくマリアに背を向け、歩き始めてしまう。

 マイク──!

 声が、出ない。

 マイクも、秘書官としての使命に染まったのなら、もう振り返らない。
 自分が投げかけた求愛の行方も、マリアの気持ちの行方も──。もう、彼には関係ない。

 あっと言う間に彼が去っていった。

 ベンチに一人残ったマリアはただ、それを見送ってしまった。

 なにも答えられなかったから。
 彼の求愛を無視して自分がやりたい事だけを優先させようとしているから。
 だから、仕事に帰ってマリアの事など頭の中から消し去った彼を追いかける事も出来る訳がなかった。

 言おうと決心していたのに。
 まだ結婚はしたくないのだと、その理由も──。

 一歩も前に進めなかった。

 マリアは一人、そこで泣いていた。
 本当ね。テイラー博士が言ったとおり、中途半端で本気じゃないのかもしれない。
 彼女が帰ってくるまで、どれだけ……彼の我慢に甘えていたか思い知った。そしてその甘えにどっぷりと浸かっていた自分は、そこからなかなか抜け出られないほどに不抜けた臆病者になっていたことにも目が覚めた。

 しかし。マリアはこの後思い知らされる。
 マイクもマイクで、ただ今まで通りにマリアを寛大に受け入れてくれていた訳ではなかったのだと……。

 プロポーズをした彼にも、彼なりの決意があったことをマリアはこの後、思い知る事になる。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夕方。重い気持ちを引きずりながらフェニックスの家に帰ると、ベッキーがマリアの帰りを待ち構えていたように駆け寄ってきた。

「アンタ達、どんな喧嘩をしたんだよ!」

 ベッキーの剣幕も尋常ではなかった。それはもう……ママがマリアに詰め寄ってくるような気迫を放っていた。
 仲違いをしたわけではないが、ベッキーが『喧嘩』と思ってしまったなら、今日のプロポーズを挟んで噛み合う事が出来なかった同居人同士のすれ違いのことに指して言っているのだと思った。
 しかしだからとて、この家に帰ってきて、何故、ベッキーが慌てているのかがマリアには分からない。

 しかし彼女が知らせてくれたことに、マリアは愕然とさせられる。

「マイクが暫くはこの家には帰ってこないから、マリアの事をよろしくと──」

 ──簡単に荷物をまとめて、出ていった。

 そう聞かされ、マリアは気が遠くなるほどに茫然とした。

「い、いったい……どこへ!?」

 この家で、マリアの帰りを待っていると言ってくれたのは嘘だった?
 そう思うマリアの目の前で、ベッキーは『行き先を聞いても教えてくれなかった』と力無く首を振っている。

「仕事が第一のあの子が、珍しく日中に帰ってきてね……」

 またもや。ジャッジ中佐らしからぬ行動を……。茫然としているマリアに、ベッキーが『どうするんだい』と尋ねてきたが、マリアは気を確かにして微笑みを浮かべる。

「どうもしない。マイクがそうしたいなら、それを受け入れるわ」

 だって。今まで自分がそうさせてもらってきたから。
 そして彼をそこまで追い込んだのは自分だから。
 出ていったというのなら、それはマリアがさせたのだ……。

「ブラウンの実家に帰るかい」

 マリアは首を振る。
 それをしてしまったら、本当に逃げた事になる。達也と離婚する前、彼が『話し合おう』と言ってくれたのに実家に逃げた時とちっとも変わらない自分になってしまう。

「帰ってくるのを待つわ」
「そうだね。それがいい。私もマイクが留守の間もちゃんと通うつもりだから、一緒に待とうじゃないか。マリアも気兼ねするんじゃないよ」

 ベッキーの気遣いを有り難く思いながら、マリアはこっくりと頷く。
 今、何かを言えば、涙がこぼれそうだった。

 彼が出て行ってしまった事が哀しくて泣きたいのではない。もしかすると別れた恋人である博士が、出ていった彼に接近して誘惑するかもしれない心配で泣きたい訳でもない。なによりも泣きたいのは、彼をそこまで追い込んでしまった今までの自分が情けないから──それが今一番、マリアに重くのしかかっている。
 結局、離婚してからも自分は、愛する男性に対する愛し方の数値がちっとも発展していなかった事を思い知った。これでは達也を困らせた時と一緒、今度も同じようにマイクを悩ませ困らせている。
 いままでマイクと楽しく過ごせてきたのは、それは彼の、大人であるマイクの、マリアに対する大きな愛情が心地良くさせてくれていたのだと、やっと気が付いた。

 これまでマリアは『離婚をして結婚生活を良く知っているから、もう恋愛だけで充分』などと分かりきった顔で、マイクの隣にいられる事を当たり前のような顔で過ごしてきただけ。そのくせ『恋愛だけで充分』だなんてことを甘く見て、対する男性の要領に任せるままに『素で向き合う』ということからも逃げていたのだ。その上、上手く接してくれていた男性からの要望には応えずに、向き合う間柄の中で怠ってはいけないことをマリアは平気で投げ出して逃走したのだ。

 この家でマリアの帰りを待っていると言ってくれたその日のうちに、彼から出て行ってしまったその真相は今は分からない。
 でも、今度は自分が待つ。
 自分から離れてしまった彼も、この家にきっと帰ってきてくれると信じて……。『愛している』という彼の気持ちも揺るぎないものだと信じて。もう元恋人の所には帰らないと信じて──。

「ベッキー。今日のお夕食はなに?」

 心配そうな顔をしているが、ベッキーも、この家を出ていかずに腰を据えようとしているマリアを元気づけるかのようにいつもの笑顔をみせてくれた。

「なに。あの子の家はもうここだよ。いつかは帰ってくるさ」

 彼女に背中を撫でてもらい、ついに涙がこぼれてしまった。
 本当に、今までの自分が情けない。特に今日、彼からのプロポーズから逃走した自分を叱責したい気持ちでいっぱいだった。

 当然の事ながら、その日の晩、マイクは本当に帰ってこなかった。

 

 幾日か経ち、ついに出張前。マリアはその準備に追われながらも今まで通りにフェニックスの家で日々を過ごしていた。
 今度は、実家には一度も帰らなかった。
 そしてマイクも一度も帰ってこない。
 しかし姿は、基地で何度か見かける事があった。いつも通りに気迫ある足取りで前しか見ていない『ジャッジ中佐』としての姿を見かけた。
 マリアはその彼の姿をみかけても、近寄らなかった。いつものジャッジ中佐に戻って基地の中で縦横無尽に活躍している姿を見送る。
 ここで彼を捕まえなくても良い──。

「私達には、同じ帰る場所があるんだもの」

 いつマイクが帰ってきてくれるのか分からない。
 でも……。やっと分かった。
 結婚とマイクは言ったけれど、そうじゃなかったのだと、マリアにも分かってきた。

 ただ、同じ帰る場所の約束を。
 他の誰でもない貴方と私だけの家。
 きっと彼もそれを言いたかっただけじゃないのかと、マイクと離れてやっとそう思えるようになっていた。

 だからマリアはあの家で彼を待つ。

 しかし出張に行くその日が迫ってきても、マイクがフェニックスの家に帰ってくる事はなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ついに長期出張へと出かける日を迎えてしまった。

「忘れ物はないかい。気を付けて行ってくるんだよ」
「有難う、ベッキー。お留守番、よろしくね」

 出発のこの日は、午後から出発。
 マイアミの民間空港まで先輩のブルースと共に向かい、そこから国内の企業を回る。
 燦々とした正午の光の中、大きなトランクケースを引きずって、マリアはフェニックスの家をベッキーの見送りで出るところ。

「もし、マイクが帰ってきたら……」

 もし彼が帰ってきたら……。
 その先をベッキーに伝言しようとして、マリアは口を閉じてしまった。

「なんだい。言っておきたい事があるなら教えておくれよ。アンタ、一ヶ月もいないんだよ。決定的にすれ違う前にちゃんと伝えたい事は言っておき」

 でもマリアは首を振った。

「ううん。自分の口で言いたいから……帰ったら言うわ」
「携帯電話で連絡したらいいだろうに」
「しようとしたのだけれど……」

 出来なかった。
 電話で返事をする、話し合う事ではないとマリアは思う。ちゃんと彼の顔を見て……。でも、いつものジャッジ中佐にちゃんと戻った彼の背を見かけるたびに、『どんなに彼が特別な行動に打って出てくれたからとて』、やはりあの仕事に徹する男の背中を呼び止める事はマリアには出来なかった。
 彼には、基地で一番の秘書官と誉れるままにこれからもそうであって欲しい。マリアという特別な家族が出来たからと変わって欲しくない。そしてきっとマイクも同じ事を思ってくれているのだと、マリアもそんなふうに思える余裕が出てきた。
 もしかすると、彼は──俺のせいで、新しい佳境へと一歩踏み出したマリアには動揺して欲しくない。──もしかすると、そんな心積もりでこの家を出ていったのではないかと思えるようになった。
 彼からも近づいてこなければ、連絡もない、そして帰ってこない。マリアから今は離れておこうという強い意志が窺えた。

「帰ったらちゃんと話し合うわ。なんとなく確信しているの。私が小笠原から帰ってきたら、マイク、この家にいてくれるような気がする……」

 離れてみて初めて感じる事が出来た彼の『距離感』。
 彼にばかり任せてきた『マリアの為の心地良い距離感』。
 やっぱり彼は凄いとマリアは思った。だけれど、それは女には『甘すぎる毒』でもあるとマリアは思う。
 きっとイザベルもマイクの上手い距離取りにどっぷりと嵌ってしまい、そして嵌っている事すら気が付かないまま、自分の思うままに振る舞って我を通してしまっていたのだろう。マリアもまさにそれになっていた。マイクが上手に付かず離れず傍にいてくれる絶妙な距離感にすっかり甘えていた。だから彼が本気になって踏み込んできた時、逃げてしまったのだ。

(きっと博士は、それを分かっていたから、あんなに私の事を怒っていたんだわ)

 中途半端──。きっとあの言葉はマリアに攻撃する為ではなく、気が付いて欲しい為に言ったのではないかと今はそう思う。そしてイザベルは昔の、マイクを捨ててしまった浅はかな自分を叱責する為にも叫んでいたのかもしれないとも思った。
 このままあの人に甘えているなら先は見えている。まさにその通りだとマリアも思った。うかうかしていると私じゃなくても、他の女性が狙っている。だから甘ったれた中途半端な恋愛を如何に持続するか躍起になるような追いかけっこなどすぐにやめなさい。彼女、そう言いたかったんじゃないかと思う。だから『狙っている女』を演じてくれたのではないかと。

(……まだ、愛しているんだマイクのこと)

 そうとも感じられた。しかもそれは自分の想いを満たす為に、別れた男を奪い返すだなんて自己的なことではなく。別れた男の今の気持ちを大切に応援するかのような『愛』。

 ──貴方の事を、死ぬまで愛するわ。

 イザベルがマイクと別れてフロリダを去る時に、彼に残した言葉をマリアは思い出す。
 本当にそのとおりにするつもりなんだと思った。一緒にいられない気持ちになっても、愛している事は変わらない。二度と戻れない関係になっても、一生に一度、心の底より愛した事を忘れる事はない。彼女にとって、それがこれからの『愛』なんだと感じることができた。
 それは本当に大人の愛だった。自分よりも大きな、そしてマリアが知らない大きな壁を超えた愛。

 それに対して、求愛をしてもらえた自分は……。

 だから、今度はちゃんと向き合う決心をマリアは決めていた。
 もう、逃げない。

「じゃあ、行ってきます」

 トランクケースを手にとって、マリアは見送りのベッキーに元気な笑顔を見せて出発しようとしたのだが。どうしたことかベッキーは、マリアの顔を見てくれず、『いってらっしゃい』とも言ってくれなかった。
 しかもマリアの肩を越すような視線を向けた驚き顔で固まっている。どうやら、マリアの後ろに誰かがいるようだった。
 マリアにも驚きが生じた。ベッキーが驚いている顔ですぐに察したのだ。もしや、自分の後ろにいるのは──。

「ただいま」

 その声にマリアは振り返る。
 基地では勤務時間のはずなのに、そこには制服姿のマイクがアタッシュケース片手に立っていた。

「マイク! ど、どうしたの? 仕事は……!?」

 すかさず問いただすマリアに、マイクはちょっと照れた顔。

「マリーが一ヶ月もいなくなるのに、どうでも良いだろう。仕事なんて」

 え。本当にあのジャッジ中佐の言葉!?
 マリアは唖然とさせられた。

「パパに頭を下げて下げて、やっと出てきたんだよ。そりゃあ、『マイクらしからぬ私情』と説教されてさ」

 ボスであるパパに説教されたと聞いて、娘のマリアも気が遠くなりそうになった。

「パパ、に……怒られる〜! いっつも困らせて迷惑をかけて、秘書室をひっかきまわすのじゃないって説教されているのに!」

 近頃、娘には今まで以上に甘くすることは御法度にしている将軍の父に『またお前がマイクを困らせているのか』と呼び出されるとマリアは目をつむった。
 だけれど、マイクは楽しそうに笑っている。

「あはは。『ここを逃すと、お嬢さんとは一緒に住めなくなるので行かせて欲しい』と言ったら、流石のパパもちょっと娘のことが心配になったんじゃないかな。『今回だけ』って渋々ながらも『すぐに行ってこい』と送り出してくれたよ」

 パパが……! マリアは益々『帰ってきたら、まず一番はパパの説教だわ』と飛び上がりたくなった。
 さらにマイクが驚く事をマリアに告げた。それも先ほど以上に照れくさそうに、黒髪をかきながら……。

「えっと、マリーに、また謝っておかないと……」

 何を? と、マリアが問い返すと、またあのジャッジ中佐が純な少年が物怖じするような顔で小さく答えてくれる。

「その、お嬢さんにプロポーズをしたのだけれど『保留中の別居中の緊急事態』なので、出張に出る前に会わせて欲しいと──パパにはそれも言ってしまって」

 それを聞いて、マリアの頭は真っ白になった。
 それが、あの大事な職場をなんとか抜け出す為に、大ボスである将軍にお願いした理由!?
 しかも、その大ボスは自分がプロポーズした女性の父親ではないか。大ボスが面識のない女性を追いかける為に行かせて欲しいとお願いするのとは訳が違う。貴方のお嬢さんを捕まえたいので、行かせて欲しいと、職場でお願いしたと言う事だ!

 また気が遠くなるマリア……。
 経過を知らない父は、きっと、マイクがここまで追い込まれたのは、毎度ダッシュアタックがお手の物のお騒がせな娘が振り回しているに違いないと思っただろう。
 説教決定。しかも、かなりきっついやつ。マリアはもう、このトランクを手にして猛ダッシュでとにかくフロリダを脱出したい気持ちにさせられた。

「なんて理由で抜け出してくるのよ!! それならどうして昨夜のうちに来てくれなかったの?」
「俺もそのつもりだったけど、毎度の如く、スケジュールが噛み合わなくて抜け出られなかったんだよ。日中に出ていくなら、そうでも言わないと、パパも納得しないと思って」
「も、も、もっと他の理由で上手くできなかったの!?」
「無理だ。先日、この家を出ようとした時にも怪しい嘘で抜け出てきたから二度目は通用しない。俺がそれなりの理由で抜け出すなんて言えば、パパは不審に思って許可しないだろう。だったら正直に言うしかないと思って、一か八か勝負に出たら、あっさりと──」

 うわーん。絶対にパパは今頃、内心ではもの凄く怒って、そして不安に思っているとマリアは思った。
 離婚して実家に出戻ってきてから、父親のリチャードはマリアを外に出そうと少しばかり厳しい説教をしたり、かと思ったら、やっぱり一人娘をもつ優しいパパになって、マリアの今の日々を案じてくれたり。むしろ母親のマドレーヌの方が悠然と構えて、マリアを受け入れてくれていた。
 マイクが住む事になった元御園家の一室を、葉月の部屋を借りる事になったから出ていくと告げた時、ママが一番張りきってマリアを送り出してくれた。
 『マイクと仲良くね。ちゃんと逃がさないように』なんて意味深なアドバイスをくれたほどに。しかし父親のリチャードには『マイクから部屋を借りる事になったから出ていく』とだけ告げ、パパは『そうか』と返しただけの、淡泊な報告で収まってしまったのだ。
 一番信頼を寄せている忠実な主席側近である部下と娘の曖昧な関係のまま始まった同居生活。暫くは固唾を呑んで黙認していた事だろう。
 それが数ヶ月経ってみたら、職務中に決して私情を挟む事のなかった基地一番のエリート秘書官が『プロポーズをしたお嬢様を捕まえたいので、職務中に外に出たい』だなんてお願いを唐突に突きつけた訳だ。
 きっと、パパ・リチャードも慌てているとマリアは焦った。

「だからもう、俺も引くに引けないわけでね」

 そしてマイクは先日ほどに思い詰めている様子もなく、からっとしている。
 彼も彼なりに、離れている間に吹っ切れたものがあるようだった。

「……聞いても良い?」
「なんだい?」

 いつも聞いていた優しい大人の声。
 彼のいない大きさを噛みしめながらこの家で一人で待っていたマリアの心が、柔らかくほぐれていく。

「どこにいたの?」
「知り合いのアパートを一ヶ月だけ借りて、そこに」
「どうして出ていったの……?」
「……マリアの邪魔をしそうだったからだ」

 邪魔? と、マリアは首を傾げた。

「そう、邪魔だよ。今、君は俺が振った仕事を成功させようと大事な一歩を踏み出したばかりだ。俺がそうして君の背を押したのに。俺はそんな頑張る君に惚れ直してしまったあまりに、本当に俺のものにしたいと衝動的にプロポーズをしてしまった。きっと同じ家にいたら、君を捕まえようと、仕事に集中したいだろう君を自分勝手に独占して困らせてしまうだろうと思ったんだよ」

 つまり、それだけ彼が『愛にがむしゃらに走り出してしまった』ということらしい。
 もう止まらなくなったから、ひとつ屋根の下にいたら、マリアを抱きしめて独占して『結婚する』と言わせるまで、なりふりかまわずの愛の攻撃をしかけていただろう。だから、出ていった。熱を冷ます為に、大事な第一歩を目の前にしているマリアの邪魔をしないように。溢れだしてしまった気持ちを抑えに抑え、この家を出ていくしかなかった。出ていった理由を、マイクはそう明かしてくれた。
 マリアは先日の熱烈なプロポーズを熱く思いだしてしまったほどに、そんなマイクの一途に一直線に向かってきてくれている愛に感激するしかなかった。

「きっと、若い頃、恋を懸命に追いかけていた俺そのもの。不格好でも不器用でも、なりふり構わずにマリアを捕まえようと頑張ってしまったと思うんだ。すごく若返った気持ちで、マリー……君を追いかけて……いるよ、今」

 初めての愛を追いかけた自分を取り戻して、マリアを追いかけてみた。
 それが何を意味するか、ちゃんとマリアも理解できた。
 熱い涙が、溢れてきた。彼の愛は、自分への愛は揺るがない本物だって……。

 でも、と。今度はマリアも素直になって彼に告げる。
 今度は自分の番だ。さあ、もう逃げないで! なにもかもをかなぐり捨てて自分の所に来てくれた彼の為に、さあ、心を開いて!
 マリアは今度こそ、マイクに向かってその扉を開いた。

「マイク、ごめんなさい。今、結婚なんて考えられない」

 プロポーズへの真摯な返事。
 これがマリアの偽りのない心からの、彼に伝えたい。
 それをマリアは躊躇わずに、彼に告げていた。

 マイクの表情が少し、固まった。

 

 

 

Update/2008.2.22
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