-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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5.義兄さんは幸せ

 義妹とのランチを終えた純一は、自分で黒い車を運転し、この基地を後にする。
 警備口の隊員もすっかり顔馴染みになってしまった。

『御園家跡取り孫の父親。大佐嬢の義兄。連隊長の旧友。元軍人』

 色々な目で皆が見てくれる。
 闇世界一歩手前にいたこの男が、今は日の当たるこの基地の中へ出入りが出来るようになっていた。

 今日もこの小笠原は快晴。
 純一が気に入ってしまった空も海も、いつも通りに綺麗だ。
 運転席の窓を開け、純一は潮風と潮騒を感じる。
 この島に来てまだ間もないが、純一は思ったとおりの生活を定着させていた。

 そうだな、幸せだね。
 そんな言葉が、ふと心の中に浮かんだ。
 思わず、浮かれている指先がカーオーディオのボタンを押していた。
 ……懐かしい曲が流れる。純一が二十代の頃に流行っていた曲だった。
 普段は頭の中であらゆる事を考えているので使わないのだが、何故かそんな気分……。こんな気分になるのはなにも今だけじゃない。この島に来てから、今まで以上に心の中にゆとりが出来た気がしていた。このように音楽を聴く事もそのひとつで。急にどうしたのか『あの頃』のなにもかもが懐かしく思えるようになって、その時代の音楽CDを買い集めたりするようになったり、あの頃見逃した映画を一晩中観たり。そんなことをするようになったのだ。
 闇世界の入り口で、表世界と裏世界を行ったり来たり。生と死の境目にいたのはなにも義妹だけじゃなく、この義兄自身もそうだった。だが、純一の場合は『死ぬ訳にはいかなかった』。幽霊を見つけなければ、死んでも死にきれない。幽霊を追う事、幽霊がまたいつ攻撃してくるか、息子や義妹を守らねばならない。幽霊はきっと御園を憎んでいるだろうから……。そんな思いで戦ってきた。

 その戦いが終わったのだろう。
 そして息子が独り立ちをした。
 真一が後押しをしてくれたように、純一は今度こそ、自分の心にあるがままの生活を選ぶ事にした。

 義妹の側に行こう。
 あの頃のように、海がある場所で義妹の笑顔を見て暮らそう。

 そうした途端に、急に、自分の為に我が儘になっても良い時間を作るようになった。
 息子が出ていって、父親一人になったはずなのに……。
 今まで一緒に住んでいた弟分二人もいなくなった一人きりの生活。しかも離島の……。

 しかし純一の生活は満たされていた。

 そして今日も……。
 悪友のロイと、また散々に口悪を叩き合うお喋りを楽しんできて、自分がいるはずのない基地では皆に良くしてもらい、それ以上に『愛しいばかりの義妹』の凛々しい大佐嬢の姿を見守る事ができ、さらにそんな彼女の一番近い日常である職場で『仲の良い義兄妹』の交流の時間までもが手の中にある。

 だから──『そうだ、俺は幸せだね』と、思えるのだ。

 純一の車は、いつの間にか、渚がある砂浜の路肩に停車していた。
 今度は窓をめいっぱい開けて、煙草を吸う。
 懐かしい青春の音楽を、お気に入りの景色に包まれ堪能する。

 そうだなあ……。欲を言えば、こっそりと取って置いてあるシャンパンを飲みながら、あいつが大好きなチョコレートを出してあげて、取り寄せたままパッケージも開けていないDVD、あの映画を一緒に観られたらいいなあと。
 しかしそれは、純一の中にある、ささやかな秘密だった。

 それが叶わずとも、そう思う事が出来る今に、純一は微笑んでいた。
 以前なら、荒んでいくばかりの義妹が、ただただ生きていける事を考える事しかできなかったから……。

 その気持ちの良い一曲を聴き終えて、純一は腕時計を見る。
 おっと……いけない。義弟の隼人と丘のマンションで待ち合わせをしている時間が過ぎていた。
 純一は、慌てて車を発進させ、自宅となった丘のマンションへと急いだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「遅い!」

 マンションの駐車場にたどり着くと、そこには自転車にまたがったままの隼人が睨んでいた。

「悪い、悪い。少し、長居をした」

 黒い車から降りロックをしながら笑うと、ハンドルに頬杖をついている隼人が冷めた目でじっと純一を見ている。
 少しばっかり、純一はドキリとするのだ。何故なら、何故遅れたかをしっかりと見抜かれている顔だと思ったからだ。
 隼人はその通りの事を、呆れた顔で言った。

「どうせ、葉月とランチでもしてから来たんだろう?」

 その通りだ。と、笑い飛ばしたいが、義妹の夫の前では出来るはずもなく……。だが誤魔化す術もなく、純一はただ苦笑いをこぼした。

「そうだろうと思って、葉月のランチが終わる頃にと、俺も少し時間を遅らせて来たけれどね。それでも遅いってどういう事だよ、義兄さん」
「なんだ。天気が良いから寄り道をしてしまった……」
「あっそう。まあ、そんな気分だよな。俺も、久しぶりに自転車で走ったら、そうなりかけたもんな。でも、こっちは『フリーの社長さん』じゃなくて、『拘束勤務のサラリーマン』と同じなんだからさ。これでも抜け出してくる為に吉田の目を誤魔化すのが大変だったんだからな。それに、葉月にも気づかれないようにするのにも──」
「わかった、わかった。俺が悪かった」

 この義弟、時には酷くくどくなる。
 妻の葉月に対しても、くどくどと説教をしているのを見た事がある。義妹は『いつものごもっともな小言』とぼやきながらも、それほど『くどい』とは思っていないよう……。それに隼人も相手が『お嬢ちゃん』であるぶん、まあ、抑え込んで手加減をしているようだった。
 だからなのか。隼人は純一には容赦ない。くどいというが、それは時には『徹底的』とも言うものだったり、時には『見逃してくれない』とも言えるものだったり、時には『容赦ない』とでも言おうか? そういうの全てひっくるめて純一は『くどい』と思っているのだ。そして今も、純一の『遅刻』に容赦ない。
 これをある時、右京にぽろっとこぼしてみると『それはお前が何でも完璧に出来ると、隼人が思っているから、お前が不甲斐ない姿を見せると叱責したくなるだけじゃないのか? 立派な兄でいて欲しいから、腹が立つんだ。もしくは、あれで割と甘えているのではないか?』と教えてくれた。それはそれで、義兄としては嬉しいことだが、その反動が時にこうして返ってくる。

「いけね。俺もついつい……。時間がないから、義兄さん、さっさと済まそう」

 そして隼人も我に返ったのか、乗ってきた赤い自転車を軽々と片手で引きながら、マンション玄関へと向かっていく。
 純一がロビーへはいる自動ドアを開けると、隼人も元居住者、スイスイとエレベーターまで進んでいき、先に乗り込んだ。
 動き出したエレベーター。義弟の隼人は、年季の入っている赤い自転車をお供にして階数ランプを眺めている。三階なのであっと言う間についてしまうのだが……。三階に到着すると、その赤い自転車を隼人は慣れているように、純一宅になった玄関の前へと置いた。きっと以前に住んでいた時も、そこに止めていたのだと思った。

「だいぶ年季が入っているが、大事に乗っているんだな。他にも数台自転車があったな」

 純一が赤い自転車のサドルを撫でながらそう言うと、隼人がいつにない少年のような顔で笑っていた。

「それ、フランスに出張に来た葉月に貸した事があるんだ。あいつ、毎日これに乗って、基地まで来ていた……」

 つまり……。この夫妻が出会った時の『思い出』の一台ということらしい。
 純一は、撫でていたサドルから手を離してしまった。そこに義妹が乗っていたのかと思うと……。さらに、あの頃の自分を思い返すと……。
 そう言えば、男に本気になって哀しい思いをするのはお前自身だなんて、葉月に釘を刺してしまったのも、あのマルセイユだったかと思い返す。それを目の前の男は、ことごとく覆し、義妹の心を大きく抱き留める男となってしまったのだ。

「そうか。『あの時』……の」
「あの時? まさか義兄さん、あの頃の葉月を見張っていたとか言わないよな」
「ま、まさか」

 隼人の疑わしい目が、純一をみていた。
 実際、それは大当たりなので内心は慌てていたが、顔はいつもの固い義兄でやり過ごそうとした。

「怪しいな〜。きっとあの頃の兄さんなら、葉月が他の男に触れられそうになった時点で『やめておけ』なんて釘を刺していそうだけれどな」
「そんな面倒くさい事、するか」
「まあ、いいけれどね。今となってはだいぶ昔の事。だけれど、俺が知っている純兄さんは、その『面倒くさい事』は、義妹の為なら厭わない人だからな」
「しつこいな〜」

 義弟の隼人から時にはこうしてチクチクと言われもするが、それはまあ、一言で言えば彼も裏表なく付き合ってくれているからだ。
 そして次にはそんな隼人の顔が引き締まる。

「そう、今回だってそうだ。兄さんは『面倒くさい』けれど、やるんだよな」
「何を言っているんだ。一番、表立って頑張らなくちゃいけないのはお前、『婿殿』じゃないか」

 すると隼人の表情が険しくなる。

「当然だ。ムコでなくても、家族を守る為なんだから。なんだってやる」
「よく言った。さあ、その支度だ」

 そうなのだ。隼人が勤務時間を人目を避けて抜け出してきたのも、葉月には気付かれないように『準備』をしなくてはならないからだ。

「俺の嫁さんと、御園の両親は『見せ物』じゃないんだ。思い知らせてやる」

 あれから『華夜の会』で、何があったか純一は即座に調べた。
 幸い、こちらの華夜の会でも馴染みの者がいた為に、その日の内に『御園の両親』に何が起こったのか知る事が出来た。
 それを隼人に報告するところでもあった。

 すっかり内装が変わってしまった元住居へと、隼人が入る。
 今や純一の仕事場になってしまった元リビング。しかしテラスから見える小笠原の海の景色は変わっていない事だろう。だからか、隼人は仕事場に入るなり、目を細め黙ってその景色を見つめていた。

 その隼人が、書類を片づけている純一に言った。

「兄さんだって、婿殿じゃないか。約束しただろう。俺と守っていこうと……」

 変わらぬその景色に、義弟は何を思ったのだろう?
 ひどく感慨深げな眼差しと微笑みを、青い空と蒼い海に投げかけながらそう言うのだ。
 その景色が変わらぬように。その美しい青さそのものが失われないように……。それはまた、愛する家族が変わらずに幸せにいられるようにということと重ねているかのように純一には見えた。

「ああ、約束した。ただし俺は裏方婿な。ぞんぶんにサポートするから、表婿はしっかり頼んだぞ」
「分かっている」

 実際、隼人はまだそれほど『婿殿』という姿を世間では見せる事はなかった。
 あくまで軍人で、御園当主家末娘の夫として婿養子に入ったとはいえ、そういった政財界とはまったく無縁であった。
 いや、純一がそうさせてきたのだ。

 だがついに、この御園の婿養子となった『婿殿』を表に出さねばならぬ時が来たようなのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今まで、そうした『つきあい』はどうしていたのかというと、幽霊逮捕の事件前までは、あの右京が存分に立ち回ってくれていたのだ。
 だが、右京は幽霊が逮捕されてから、あの華やかな世界からはほぼ引退したといっても良いほどに、身を引いてしまっていた。それには純一は反対はしない。むしろ、右京がやっと自分らしく生きてくれるようになって安心している。
 しかし、彼ほど、あのような世界が似合っている者もいないし、その手腕も任せて安心なものだった。だから純一はレイチェルが残した海外の資本を上手く運営する事に集中が出来た。そして裏世界を走り回る事も……。その右京が身を引いた今、それなら『そのような用事』が出来た場合はどうしていたかというと、『御園系列の会社』という事で、代役の者を外の挨拶には出していた。まあ、日本で言えば『若槻』に頼む事が多い。
 ただ、この『華夜の会』となると話は別だった。レイチェルが作っただけあって、それなりの格式ある家の者が集まるという風潮がある。それでもここ近年、その昔ながらの財閥なども弱体化したところが多く、新参者が増え始めているということを若槻から聞かされていた。

 そんな背景からだろうか? 御園の両親がまるで『見せ物』のようにして、招かれたというのだ。最初は、創設者の息子夫妻が日本に帰国して暮らし始めたから、是非……と誘われたらしい。
 そこは自分の母親が良かれと思って開いた『会』が、未だに存続している事の御礼のつもりで二人は出向いたのだろう。
 だがそこで良くしてもらっていたのは最初だけで、いつからか、御園の両親を取り巻く者達の口からは『事件』についての質問が多くなっていたという。それならそれで、次からはそのお招きを断ればいいのだろうに……と、純一も思った。

 ところがだった。
 純一が昔から、まあまあ懇意にさせてもらっている『ある女性』から電話で聞き出せた事が……。

 『華夜の会』──。
 心を煌びやかに、華やかに、気高く、美しく。そんな宵を楽しみましょう。
 そんなばあやの願いが込められ、レイチェルが懇意にしていた財界人を集めて、楽しんでいたという。
 そんな中でもばあやが力を入れていたのが『チャリティーオークション』だったとか。ばあやらしい、ちょっとした慈善事業といったところか。
 参加者が所持している品に見つけてきた逸品を披露したりする趣向が『出品』には含まれているようで、当時はかなり盛り上がり、皆で楽しんだということらしい。今でも、そのオークションは華夜の会で伝統のように行われているとのことだった。もちろん、収益金は全て慈善事業に。
 しかし、今回問題なのは、そのオークションの品に、御園の例の家宝が望まれていると言う事だった。
 『不幸を招く宝石』という噂も充分に伝わっている中、そんなことは迷信だと恐れない輩がいるのか、御園の両親にそれを出すように仕向けているようだった。勿論、門外不出を守ってきた御園としては固く断った事だろう。だがそこで亮介と登貴子が退けなくなったのが『事件ネタ』で会の中で吊し上げられた事だったようだ。
 『そんな事件に遭遇してしまったのは、石のせい。ここは手早く手放した方がよいのでは』という者もいれば、『このような事件が、それほど報道されなかったのもおかしな事。二度と起きない為にも、世間に知ってもらうのが後の為。ましてや、お嬢さんを手にかけた男は元軍人で傭兵だったとか? それは軍隊にも大きな問題ではないか。報道すべきだ』などと、御園やフランク一家が何とかして程々の報道で抑え込んだのを、蒸し返してやろうかと脅す者もいたらしい。それほどに金にもの言わせる事が出来る者達なら、他愛もなくやってのけるだろうから、『やってみればいい』などと安易に突き返す事も得策とは言えず、御園の両親はここでもなんとかかわしては、ぐっと堪えていたようだ。
 ただ、御園の両親がもっとも怯えたのが──『確か、青い方は、小笠原にいるお嬢さんが所持されているとか? まあ、そちらを当たっても良いのですがね』という脅しをする者もいたことだった。亮介と登貴子が最も恐れたのは、やっと幸せに暮らしている娘が……事件の当事者で一番恐ろしい目にあった娘が、こんな下世話な欲を丸出しにしている金の亡者達に、再度、傷つけられる事だったようだ。

 それを聞いて、純一はやっと……亮介と登貴子が二人だけで、自分達の盾になって戦っていた事を思い知らされた。

 その『女性』から、他にも色々と聞かされた。

「お久しぶりね。貴方の事だから、そのうち私のところに攻めに来ると思ったわ。でも、今回は私じゃない。私も困っているのよ……近頃の狼たちは野蛮よ。貴方も気を付けた方が良いわ」
「あの、おっかない会長はなにしているんだ」
「おじ様は駄目よ。面白がるだけだから。貴方一族の事件の事だって、まるで見せ物のようにしてつるし上げてきた『新参者』がやること、同じように面白がっていたもの。でも、そうね。きっと『あれ』が目的なんだわ。……いったい今は誰が持っているの? 皐月嬢に相続されたと噂では聞いていたけれど?」
「あんたも、興味あるか?」

 純一のその問いに『彼女』が呆れたように笑った。

「とんでもない。あの宝石が欲しいなんて口に出来る者は、よっぽどの成り上がり者か、大馬鹿よ。失礼だけれど、私はお宅のようには『耐えられない』わね。あれだけ不幸を招く指輪だと教えてあげたのに……。本当に近頃、一気に成り上がった新参者は、怖い者知らず。ちょっと触って、痛い目にあったら良いのだわ」

 彼女の名は『東條蘭子』。
 東條グループの娘ではあるが、年令は純一とそうは変わらない『未亡人』。
 彼女の夫は『婿養子』だったが、運悪く若くして亡くなった。彼女は夫の間に出来た一粒種の息子と共に再婚もせずに暮らしている。それどころか……彼女自身がいつのまにか『東條グループ』の総裁になっていた。
 そんな彼女は、若い頃から女だてらに才覚を放っており、そこにレイチェルが目を付けて可愛がっていたのだ。レイチェルはこの会を手放す時、まだまだ若い蘭子に『任せる』と『会長』を譲ったのだ。それ以来、この財閥令嬢の彼女が大事に守ってきてくれようだが、近頃のマネーをどっかりと動かすやり手の若僧達にかなりやられているらしく、彼女も存続に手いっぱいといったところのようだ。

「その点、貴方は賢かったわね。小さく、数多く、しかも何処の系列の会社だかちっともわからないような経営ばかりして。勝手に潰してみたり、勝手に立ち上げてみたり。なにがなんだかさっぱり分からなかったわ。そのくせ、イタリアにごっそりと資本を置いたりして……御園の会社といってもどれがどれだかちっとも分からないのですもの」
「あんたのところみたいに、派手に経営できる力がないだけだ。こっちはこつこつちまちま、保守的に祖母さんの資産を守ってきただけだ」
「そうよね。それが一番手堅いわ。きっとね。そうなると貴方も、今のマネーゲームの成功者達とは反りが合わないわね」
「まあね。やり方を批判する気はないが、真似もしないね」

 つまり、彼女の言う『野蛮な新参者』とはそんな者達。そして彼等が今回の御園の敵という事らしい。
 そんな彼女に、純一は頼んでみた。

「悪いが、あんたの招待を『うちの婿』に出してくれないかね」

 純一がそう頼むと、向こうから引いたような息遣いが聞こえた。

「なんですって? 噂では『なんの変哲もない工学軍人さん』と聞いてるわよ! そんな学者肌の男性では、狼たちには太刀打ちできないと思うわ。もし、御園のおじ様とおば様の敵を取りに来るなら……」
「事件の当事者だった『葉月』をよこせというのか?」

 そこだけ、急に怒りを含めた声になったせいか……。東條蘭子が黙り込んでしまった。

「別に、そういう意味ではないわ。当事者が来たら、彼等が余計に面白がるだけじゃない。私が言いたいのはそんなことじゃないわ。おちびちゃんのことも……噂で聞いてるわ。こちらは凄いわね。小笠原の空部隊の大隊長になりそうだって……。あの可愛らしいだけのお嬢ちゃまが……。それぐらいになった彼女なら、きっとと思ったのだけれど」

 そこにも純一は妙な腹立たしさを覚えた。
 確かに義妹の頑張りは、並ではなかったと思う。
 そう言われたら、義兄としては嬉しい。だが、違うのだ。

「義妹を大佐嬢にし、そして空部隊に据え置こうと水面下で動いているのは、その『変哲もない工学婿殿』なんでね。勘違いしないで欲しい」

 そう言いきると、また……東條蘭子が黙り込む沈黙が。
 次には彼女の高らかに笑う声。

「あら、ほほほほ! 『黒猫のジュン』にそこまで言わせる程の……ってことなの? 貴方が本気で怒った声、初めて聞いたわ」

 彼女の妙に勝ち誇った声に、流石の純一も我に返り頬が熱くなるのを感じた。
 これが電話で助かった。そうでなければ若い頃から食えないこの『蘭子お嬢様』に、一生笑いネタにされるところだったと純一は苦虫を噛みつぶす思い。

「それは興味が湧いたわね。その婿殿、会ってみたいわ」
「だろう。亮介伯父貴と登貴子伯母さんのお墨付きなんだぞ」

 今度は純一も笑い飛ばしたが、それだけ済むはずもなく、今度は神妙に純一は言う。

「もちろん、礼は弾む」
「なんでも?」
「出来る限り……かね」
「それっぽっちの覚悟……?」

 受話器の向こう。暫く会っていない曲者お嬢様の、艶やかな微笑みが浮かぶ。
 彼女は食えない女だ。
 だがそこまで彼女に言われて引き下がる訳にもいかないし、確かに覚悟はある。

「なんでもだ」
「分かったわ。次の会は二週間後。オークションがある日よ。それに合わせて招待状を『若槻社長経由』で送るわ。直送を好まない黒猫さん方式。いいでしょう?」
「有難う」
「まあ、黒猫さんから有難うですって。貴方も変わったわね」

 蘭子はそう言ってまた笑うが、純一もそこはそんな自分に今は満足しているから、そっと微笑んでいた。
 しかし、その雰囲気は、向こうの曲者お嬢様にも通じたのか……?

「……貴方、幸せになったのね。きっと。……聞いても良い?」
「聞かれても、口では言えない事。それを聞こうとしていないか? だったら聞かないでくれ」

 そう即答すると、向こうで驚いた息遣い。
 どうしてか……。彼女とは昔から気が合う。
 だから、彼女も察してくれたのか、やや諦め加減の溜息が聞こえて来た。

「じゃあ、聞かない。私の独り言。貴方、おちびちゃんを愛してるわね」

 純一は答えなかったが、受話器の側ではそっと微笑んでいた。
 その顔も彼女は見えないだろうが、きっと見抜かれているだろう。
 彼女とはそこで電話を互いに切った。

 東條蘭子とは時には事業で顔を合わせる事もあったし、逆に純一の裏稼業を知った彼女に協力した事もある。それがあるから彼女には表稼業でもかなりの世話になった。
 なによりも昔から、本当に話が合った。
 特に、皐月に連れられて軍服で参加したパーティーなどで出会った時なんかは、このころから経済の話を彼女と楽しんだものだった。
 だが、問題がひとつ。蘭子と皐月はまるで天敵のように仲が悪かった……こと。
 皐月はそうでもなかったようなのだが、気位が高かったお嬢様の蘭子には、憧れているレイチェルの華やかなパーティに、女だてらに軍服で来る皐月が気に入らなかったらしいのだ。その上、皐月は男顔負けの口を叩いてはパーティーで華やいでいた会話を引っかき回すところもあった。
 ──『あの子が、レイチェルおば様の孫娘だなんて信じられない!!』──これが蘭子の口癖だった。
 蘭子と純一はあくまでも気が合うお喋り相手ではあるが、今度は皐月がそこを嫉妬してみたり、蘭子はそれを知って純一を手元に引き寄せてみたり。そんな『可愛らしいお嬢様のバトル』も、今となっては、楽しい思い出? と言おうか。
 葉月は覚えていないかも知れないが、一度か二度はレイチェルに連れられてきた事がある。蘭子とはその時に何度か会っているはずだが、記憶に残っているかどうか。蘭子は小さな葉月には、品良いお姉さまの顔で接していた。『レディになるなら、妹の方ね。姉はあばずれで生涯を軍服で終えたらいいのよ』なんて口悪を叩いていたが……本当は……あの皐月が軍服姿でパーティーに出てきても、そこはかとない花の香りを振りまいていたのを蘭子はよく分かっていたのだ。いつか皐月がドレスを着てきたら、自分などひとたまりもない輝きを秘めている事を……。
 それももう昔の話。彼女は婿養子をもらって結婚をし、夫と共に事業を拡大させていたが、その夫が若くして他界。残された一人息子を生き甲斐にして、女身で家を守ってきているのだ。
 息子を一人残され、連れあいを亡くす。これも純一とはなんとなく話が合う一つになってしまったかも知れない。

 そんな東條蘭子は、業界では『虎の女』と呼ばれるほどに恐れられているが、この『黒猫のジュン』にしてみれば、いつまで経っても『可愛らしいお嬢さん』の面影は消えない昔なじみの女だった。

 その女が、今度の戦いの場にいることはある意味強みだったが、彼女の条件は『会長である私の立場を悪くしない』だった。
 それからもうひとつ『篠原グループのおじ様のご機嫌を損ねない』だった。
 なんだ、虎の蘭子もまだまだあのクソジジを恐れているのか……と、純一は密かに鼻で笑いたくなったが……。確かに、要注意ではある。今は『新参者と面白がっている』と言うが、その本心は計り知れない。
 何故なら、この篠原のじいさん……実は純一が尊敬している経済人だからだ。彼の経営の本は隈無く読んだ。若い頃からずっとだ。
 なによりも、純一が尊敬したことの一つに、レイチェルと彼が『良きライバル』だったこともある。
 二人は時にはちょっと怪しげな雰囲気を創り出していたが、それさえも、あの『華夜』に君臨してきた二人の『洒落た駆け引き』に見えたものだった。
 あの頃の『彼』は、まだ若く男ぶりも最高だった。それでもレイチェルが盲目に愛していたのは、あの厳つい日本男児の源介祖父さんだった訳なのだが。
 その篠原も今では『じいさん』。その彼が蘭子のサポートをレイチェルに頼まれていたはずだが、今でも、あの会に居ついているのはちょっと驚きだった。

(さて、彼はどういうつもりなのか……)

 ともかく、新参者の欲望をはね除けなくてはならない。

 

 純一は、仕事場にあるテーブルに落ち着いた隼人に、その一部始終を報告する。
 そして義弟の目の前に、宝石を品定めする為のビロードのトレイを置いた。
 そこに無造作に、赤い石が光る指輪を転がす。

「これが、『鮮血の花』? 葉月の指輪と対になっているという……」
「そうだ。皐月のものだったが、本来の所有は亮介おじさんになっている。が、こうして俺が預かっている」
「そうだったんだ。それで、これを今回、『海の氷月』と一緒にオークションに出せと? 兄さんはどうするつもりなんだよ」

 隼人が指輪を恐る恐る指で触れながら、純一を不安そうに見上げてきた。

「婿殿が出品者となって乗り込もうじゃないか。文句あるまい? 望んでいた品が出てきた訳だから」
「葉月の指輪は?」
「赤い方だけで今回は充分だろう……。なにせ品質は『ピジョンブラッド』だ。とにかくこれを先に欲しがる者がほとんどのはず」

 まだ不安そうな隼人に、純一は微笑む。

「隼人、大丈夫だ。競り落とすなんて状態にはならなくなるはずだ」
「……それが『この指輪』の魔力ってところ?」

 少し呆れた顔をしている隼人が、もう既に何かを考えてくれている事に、純一は頼もしさを感じた。

「そうさ。魔力にやられた亡者達が狂うのを楽しむのは、俺達だ」
「ふうん。『そうなるようにしなくちゃ』ねえ、兄さん」

 何かが通じ合ったようで、純一と隼人はそろってほくそ笑んだ。

 だが最後に隼人が一つだけ、反抗した。
 何故なら、純一が注文しようとしたスーツが『真っ白』だったからだ。
 純一は似合うだろうと本気で思ったのに……。隼人は『俺をからかっているのか』と本気で怒って基地に帰っていった。

 やれやれと一息ついた純一だが、一人になってふと思うのは……。

「じゃじゃ馬は、本当に大丈夫だろうなあ?」

 義妹も実は『曲者嬢』。可愛いだけの妹だと思ったら大間違いだ。
 なにもかぎつけていない事を、純一は小笠原の青空に祈った。

 

 

 

Update/2007.5.13
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