-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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8.奥様は氷の微笑みで

 ウサギ奥さんが、この夫に断りもなく何か行動を起こすのは昔から良くあることだった。
 でも、隼人はやはり何処か気が済まない。夫妻なのだから言って欲しかった……とかではない。それなら隼人側も妻に内緒で行動を起こしたのだから、おあいこだ。
 ただ、この場でさらされ再び傷つくぐらいなら……。そう思って、純一と共にひた隠しに準備をしていたのに……。

 隼人と純一が、葉月を蚊帳の外にしてしまったのは、彼女自身の一番の傷である『被害者』という姿をさらして痛い思いをさせたくないからだ。
 今まで充分に哀しんで傷ついてきた。心の中の重苦しさは一生晴れる事はなくても、それでも戦いは終わっている。そしてやっと御園ファミリーは誰もが前を向いて小さな一歩を踏み出し、幸せを感じ始めたところ。
 だから、煩わしいことに二度と囚われて欲しくなかったのだ。

 そう思った時、隼人の中には、亮介が病院に運ばれた時の彼の疲れた顔や、登貴子の疲労を垣間見せる寝顔とかを思い出していた。
 生き残った娘に二度と嫌な思いをして欲しくない。やっと訪れた幸せの中で笑っていて欲しい。そんな両親の切なる願いの中、御園の義父と義母は自分達の心だけを痛めつけて、葉月の生きる環境を守ってくれていたのだ。

 だから、それを知った義兄の純一と養子の隼人が『交替』しただけ。
 それだけのつもりだったのに……。
 隣の妻は、いつもの無感情な横顔でトレイを会場にいる招待客達に突きつけていた。
 まるで乗り込んできた彼女からの『挑戦状』のよう。
 そして彼女は、夫の隼人の事などちらりとも見ない。つまり、怒っているのだろう。
 隼人は溜息をついた。しかし妻はその指輪を前方に突き出しながら、大佐嬢の低い声、横顔のまま呟いた。

「先にこっちを売るわ。うんと値を釣り上げてやる。貴方が持っている姉様の指輪がもっと高く売れるようにね」

 隼人ははっとして妻を見る。
 彼女のその横顔と冷ややかでもどこか燃えている瞳の奥の色。それを知って、強く頷いた。
 妻はもう戦う事に覚悟を決めている。

 ああ、そうだった。
 彼女は脆く傷つきはするけれど、どんなに傷ついてもただでは倒れないウサギだったんだと……。
 それをもっと信じてあげるべきだったかと反省する。夫として、彼女と一緒に戦ってやれば良かったのだと。

 だが、それはまだ遅くはない。

「なにか兄様と作戦があって、この指輪を持ってきたのでしょう。私も同じ考え」

 妻の小声の問いに、隼人も静かに頷く。
 『そう、指輪を手放す向こうにちゃんと作戦はある』とばかりに。
 すると葉月がやっと夫である隼人を見てくれた。そして彼女も無言で頷く。

 この指輪は、手放してもちゃんと帰ってくる。
 いつもそうだった。

 隼人の頭の中で、義兄純一のその声がこだました。
 それは御園家の血を引く娘である葉月には重々分かっている事だろう。

 二人は再度『どうぞ』と会場にお揃いの指輪を差し向ける。
 突然の妻の乱入だったが、息は揃った。

 

「では、始めましょうか。葉月さんがお持ちの『海の氷月』から……」

 蘭子が開始の一言を呟いた途端、若手社長陣の輪から『一億』という声があがった。
 誰もがそちらを見たが、それでも『一億』という声には驚いてはいないようだった。
 岩佐社長は黙っている。手を挙げているのは彼の輪にいて協力をしているだろう四十代の社長だった。

「では、私は一億五千万」

 次に手を挙げたのは、ゴッドファーザー陣にいる近代鉄道の社長。
 彼は常に篠原会長の側に立っている。
 隼人が見た限り、彼の意志ではなく篠原会長の指示で動いているように見えた。

 そうだ。ある程度は釣り上げてもらわないといけない。

「二億──」

 今度は岩佐社長の声。

「三億」

 東條蘭子の声。
 その女性の声に、会場からざわめき起こった。
 前から傍観の姿勢を示したはずの蘭子嬢が、参戦したからなのだろう。『何をしても良い』と許可してくれたとはいえ、これには隼人は驚いた。彼女の中でどのような心境の変化が起きたのだろう? 彼女自身も『中に入ってきた』のだから。
 純一から聞いた話では、蘭子はこの指輪などちっとも欲していないという。レイチェルの昔馴染みの者たちは、御園が受けた悲劇から迷信を信じている節もあるとか。しかしそれだけではない。迷信があってもなくても、彼等が一目置いてきたレイチェル御園の心中や苦労を思ってくれているから? そこを思っての参戦かも知れない。

 

『いいか、隼人。周りの社長達がもし参戦してきてもそれは値を釣り上げる為のみせかけ。どんなことがあっても若手の社長側に競り落とせるようにもっていけよ』

 

 ここに来る前に純一と何度も打ち合わせたこと。
 今日、義兄は黙って見守っている事しかできない。
 俺達が背中に隠して守ろうとした葉月が乱入してしまっても、こうなったからには純一も腹をくくった事だろう。それが証拠に、先ほどは流石に慌てただろう彼も、今は壁際で直立不動の姿勢を保ってこちらを静かに見守っている。
 そして義兄の純一も、信じているはずだ。
 ──俺達の葉月は、やれるのだ。と、信じているはずだ。

 蘭子の三億という一声で、会場がシンとした。
 きっと若手社長陣も思わぬ伏兵に驚いている事だろう。
 先ほどのように即座に切り返すような反撃はしてこない。予算オーバーか?
 と、なると蘭子嬢が三億を払ってこの指輪を買う事になってしまう。しかも支払った代金は慈善事業の為に投資され、彼女の手元には彼女自身が『そんな不幸を招くような物いらない』と豪語している曰く付きのお宝だけが残ってしまう事になるのだが……。

(三億で、終わりか?)

 まだ会ったばかりの蘭子ではあるが、彼女なら買うつもりはないが、発破をかけたてみたという『ハッタリ』ぐらいやりそうだと隼人は思う。きっと蘭子も『そこを楽しんでいる』のだろう。葉月同様に『サファイアの値が上がれば、それより格が上のルビーにはもっと値が付く』と──。勿論、この駆け引きに負ければ、彼女は首を突っ込んだ以上、三億円を支払うことにはなるが、その覚悟もあるだろう。そして自分が会長をしているサロンから上がった金が多ければ多いほど、彼女達のサロンの名もあがるだろうし? 蘭子としては金を出したい物はせいぜい出せ。といったところなのだろうか……。

「あら。私の物になるのかしら?」

 扇子を口元にあて、蘭子がにっこりと微笑む。
 岩佐グループでは、ひそひそとした相談をしているようだが、どうもサファイアの方はそれほど目的でもない様子。
 ここで予算が削れるぐらいなら、サファイアは見送って、ルビーだけは絶対に競り落とさねば──。そんな彼等の相談声が隼人には聞こえてきそうな雰囲気だった。

「では、五億」

 その声にまた皆の視線が一カ所に動く。
 今度は壁際。近代鉄道の社長と一緒にいる『篠原会長』だった。
 それには蘭子もやや驚いた様子。そして座っている篠原の横で立って付き添っている近代鉄道の社長も驚いて見下ろしていた。
 彼自身が参戦する事はない……誰もがそう思っていただろう。隼人から見ても、口をぎゅっと結んでいる彼の雰囲気では、もし参戦したとしても、そこに子分のように従えている近代鉄道社長を使ってだと思っていた。
 なのに、ゴッドファーザー自身、彼のその自身の口で『競り』に入ってきたのだから。
 ……しかも、五億!
 妻が、パイロットとして一人前になったご褒美に、登貴子から譲り受けたというそのサファイアが『五億』──。
 鑑定など出した事はないと妻は言っていたから、本当の値など隼人も知らない。五億が相当なのかそうではないのか基準も分からない。それでも『五億』は、一般庶民の隼人には驚きの値だ。

 さあ、岩佐陣はどうなのか……。
 予算オーバーか? ルビーにつぎ込む所存か?
 やはり先ほど以上に、黙り込んでしまっていた。

 会場を華やかに彩っている柔らかい花びらを持つピンク色の花が、皆の沈黙の波だけで揺れているようにも見える間。

 やがて、蘭子が扇子をぱちんと閉じて口を開く。

「もうないようですわね。では、葉月さんの『海の氷月』は、篠原会長がお買いあげでよろしいですわね」

 蘭子は静まっている会場にいる招待客をひと眺め。最後に、岩佐をじっと見つめたが、彼は蘭子と目が合わないような姿勢で俯いている。
 そして蘭子は葉月も見た。

 葉月はただ、トレイを手にしているだけで、まったくの無表情だ。
 先ほどから隼人は妻の様子も見ていたが、その固い構えときたら、大佐室にいる時以上だ。
 ある意味『これはすごく怒っているなあ』と、隼人には思えてしまい、それがその無感情そうな顔をしている彼女から、いつどのようにしてドバッと噴出するか、それもひやひやさせられるところ。

「葉月さんもよろしいですわね。貴女のお祖母様からお母様へ、そしてお母様から貴女へと受け継いできた指輪ですが……」
「構いません。祖母はこのサロンを含め、各方面で慈善事業をしていたと聞いております。その祖母でしたら、自分が始めたチャリティーオークションで指輪が望まれたと知ったなら、当家の家宝を守る事よりも『投げ出してしまえ』と言う事でしょう。なによりもこの指輪のお陰で、五億という寄付金が出た訳です。それを取り消すほどの理由がありましょうか? せっかく寄付して頂いた五億、蘭子さんのお力でちゃんとお役に立ててください。その方が祖母もきっと喜びます」

 初めて葉月が発した声。そしてその淡々としている物言い、冷たい横顔。なのに、会場の紳士淑女達はとても驚いたような顔……。
 会場のシャンデリアから降り注ぐ煌めく光を受けて輝く栗毛。そしてガラス玉のような透明感のある茶色い瞳。日本人から見ればちょっと不思議な雰囲気のクォーターの横顔。そして真っ白な軍正装。そんな葉月を目にした者ならば、一目で『どのような女性か』と興味をそそられる事だろう。なのにそれを拒むかのような葉月の冷たい雰囲気。今夜はより一層、格別のような気がする隼人。それがまた引き寄せた人々を彼女の数歩手前で立ち止まらせながらも、そこから引く事も押す事も出来ない雰囲気に葉月が見事に制している。夫で部下である隼人はそんな『御園葉月』を何度も見てきた。軍ではないこの場でも、妻は見事に彼女独特の場を制する状況を作り上げてしまっていた。
 一見、優雅に見える『お嬢様』の顔をしている葉月。それをただ見ていた者は、今の葉月の冷たい氷の姿を目にした瞬間、心の中で一つの言葉を呟いたはずだ。

 ──『大佐嬢』。

 その一言が心の中で成立してしまえば、誰もが『御園の孫娘』だけでは済まない何かが襲ってきたはずだ。
 ……隼人は思わず、にんまりとしたくなる。それでも堪える。でも、頬が緩みそうだ。

「どうぞ、お役に立ててくださいませ。篠原会長」

 妻が壁際にいる老紳士に厳かに頭を下げた。
 彼は椅子に座ったまま、葉月にはうんともすんとも言わない。ただふんぞり返っているだけのようにも見える。
 そしていつまで経っても、葉月に対する言葉は返ってこない。
 妻など眼中にないといったふうの篠原。一筋縄ではいかない人間だと隼人も分かってはいるが、先ほど婿の隼人とは言葉を交わしてくれたのに、婿の自分より縁がある昔馴染みであったレイチェルの孫娘である葉月にはなにも言葉がないのは心外だった。

 でも……どうしたことだろうか?
 壁際で真っ白い三添えスーツで杖を片手に座っているオーラある老紳士、そして真っ白い軍正装に身を固めている栗毛の若い女性。
 その二人がいつまでも見つめ合っているのだ。無言で……。まるで目で会話をしているかのような間。これは夫である隼人には分かる。何故なら、この夫はこの栗毛の妻とそんな意志疎通をする事が度々あるからだ。それを、今、妻が老紳士と交わしている? ……嫉妬? いや、それよりもどちらもその視線を真っ正面から受け止め、そして、隼人には徐々にそれが『対等』に見えてきたから不思議だ。

 だが、篠原から葉月への言葉は一切なかった。
 困った顔をした蘭子が苦笑いを浮かべて、次へと進行を始める。

「では、よろしいようなので……。御園隼人さんがお持ちの『鮮血の花』に行きましょうか」

 蘭子の第二ラウンド開始の声。

 今度は直ぐに声は上がらない。
 壁際にいる篠原一派。会場の中央側に集まっている岩佐一派。どちらもお互いを牽制しているよう。もの凄い緊迫した空気が会場を取り囲む。
 やはり──。欲しいが『不幸の指輪』という曰くがここにきて足踏みをさせているのか? その『不幸の指輪』を手にしている隼人自身もかなり胸の鼓動が早くなるほど緊張してくる。
 だが、そんな中、岩佐がふと笑った顔。

「どなたもいらないと? 『不幸の指輪』なんて迷信でしょう?」

 彼はそう言うと、

「七億!」

 ルビーの指輪、最初の値に岩佐は、先ほど競り落とされたばかりのサファイアの最終値を上回る値を真顔で言い放ってきた。
 葉月の指輪を諦めた分の仕返しのように、先ほど使わずに済んだ予算をここぞとばかりにぶつけてくるつもりだ。

 これが俺の実力とでも言いたそうな、勝利を確信している彼の顔。

 だが……。
 誰もその後、彼以上の値を突きつけてくる者はいない。
 会場はシンとしていた……。

 先ほどはサファイアで値を煽った蘭子も、『ドン』の側にいる近代鉄道の社長も、そして壁際でサファイアを競り落とした篠原も……。
 誰も、ここでは触れようともしない姿勢。
 そこには本当にレイチェルが御園家の中に込めた想いに同調してくれているかのようだった。
 それほどに、レイチェルの存在を、彼女が去った後も尊重してくれていると隼人には思えた。

 ……それならば?
 蘭子はともかくとして、若い彼等と一緒になって事件を面白おかしい話題にして楽しんでいたという篠原の『真意』は?

 隼人はちらりと純一を見る。
 彼はただただ真っ直ぐに立っているだけ。隼人が視線を送ってもなんの反応も無しだ。
 きっと純一も思っていることだろう。ゴッドファーザーが御園の両親を冗談交じりに話題のネタにしておいて、そして今回はレイチェルを尊重するような態度を取っているその腹の中を……。

 しかし、そこで思わぬ展開に立たされているのは、なにも指輪を競りに出した隼人だけではない。
 ここでサファイアの分まで資金を注ぎ込もうとした岩佐も『七億』と言ったきり、競りが始まるどころか止まってしまい意外だったようだ。

「あれ? 東條さん……先ほどは三億だすつもりだったのでは」

 だが蘭子は扇子を再び開いて、苦笑い。

「ごめんなさい。わたくし、気が小さくて……。迷信、信じるほうなのよね」

 彼女こそ『迷信』なんて信じない総裁であろうに、なのに白々しい怯えた微笑みを扇子の影からちらりと見せる。
 岩佐としても『虎の女総裁が何を言っているんだ』と呆れた顔をしているが、蘭子がルビーには触りたくないというのは理解したようだった。そして彼は蘭子を諦めるようにして、強敵の喧嘩相手を今度は見た。篠原会長……。だが、今度の岩佐は気易く声はかけられないようで、ただゴッドファーザーを窺っている。

 やがて、その目線の先にいる篠原が持っている杖を頼りながら、初めて椅子から立った。
 大きく見えるが、小柄だった。葉月より小さいかも知れない。でも、やはりその威勢のような強さは、彼が立っただけで隼人の位置までざあっと波がやってくるかのようだった。

「どうやら、七億で終わりのようだねえ。蘭子、締めてくれ」
「はい、おじ様」

 つまり、篠原も触れたくないという意味らしい。
 ゴッドファーザー陣では元々それが作戦だったのか? 篠原の考えなのか? 岩佐のたった一度の声であっさりとルビー争奪戦が終わったことに彼は呆気にとられた顔をしていた。

「え? まさか。七億で良いんですか? 十億でも良かったのに、参ったなあ〜!」

 岩佐の嬉しそうでも戸惑う声。
 彼はこれは夢なのかとばかりにあたりを見渡し、これで本当に終わりかと他の客にも確かめているようだった。

「終わりですわよ、岩佐さん。なんなら十億出しますか? チャリティーとしては歓迎ですが?」

 蘭子の妙ににっこり満面の笑み。だが岩佐は『とんでもない、これで結構』と手で制し調子良い笑い声。
 彼としては、これもまた、可笑しいくらいの勝利なのかも知れないと……。いったんは指輪を投げ出す覚悟を決めている隼人だが、どうもあの男の軽薄そうな笑いには腹が立ってくる。それをなんとか堪えているのは当然の事なのだが……必死に堪えようとする前に横にいる真っ白い軍服の妻の葉月が、あんまりにもひんやりと無表情なので腹立たしさもそこですうっと引いてしまうのだ。

(本当に怖いな。これはかなり本気だな)

 妻の内で静かに燃える炎。夫の隼人はそれが赤く燃え上がった時の恐ろしさを知っている。

「では、『鮮血の花』は『七億円』でワイドリンクの岩佐社長のものになりました。おめでとうございます。『念願のお宝』を手に入れられましたわね」

 蘭子の締める声に、どこか会場の客達もほっとした顔になったように隼人には見えた。
 しかし蘭子の妙な笑みは、岩佐だけではなく隼人にも向けられていた。

「婿殿? よろしいですわよね」
「はい。構いません」

 さらに笑みを増した蘭子の目元。『どうせ幾らで競り落とされても同じなのでしょう?』と、こちらの御園婿殿サイドの作戦を読まれているかのよう?
 そう、これでいい。値なんてどうでも良い。純一が言ったとおりに、岩佐の手に『鮮血の花』が渡るのだから。
 それにしても。隼人がやきもきしなくても、蘭子と篠原が上手く運んでくれたような気がしないでも? 葉月のサファイアは隼人サイドでは誤算ではあったし、こちらの方が競りに競ったほうが違和感だった。

「ふむ。では、噂の石を拝ませてもらおうかね。なあ、岩佐君」

 篠原がついに、動かなかった壁際から中央にいる御園若夫妻へと歩み寄ってくる。
 念願のお宝を競り落としたものの、あまりにも戦い甲斐がなかった為か、ちょっと拍子抜けしている岩佐。しかし実感が湧いてきたのだろう。篠原と共にやっと実感で胸躍らせている笑顔を浮かべ、こちらにやってくる。

 その岩佐が隼人の前に。
 葉月の前には、篠原が付き添いの黒服男を従えてやってきた。
 夫妻の前に、指輪の獲得者が二人。
 しかし、隼人も葉月も釘付けになったのは、小柄な老紳士の方だった。彼に睨まれてはいないのに、そうなったかのように。そして睨まれているとしたならば、何故にこんなに一瞬で固まってしまったのか。軍隊で部下を多数従えている二人でも、これは揃って固まったと言っても良いほどに、『本物の気迫』というのを突きつけられている気がしたのだ。隼人はともかく……流石の大佐嬢がこうなるのだから、余程だと隼人は唸る。

 そんな篠原は自分が持っていた杖の先で、触りたくないものを手ではない何かで確かめるといったぞんざいな仕草でつつき始めた。
 葉月の胸元に位置しているトレイにあるサファイアの指輪が、弄ばれるように杖の先でころころと転がされる。
 隼人としてはなんだか葉月を転がされているようで、嫌な気分だった。しかし、葉月はいつもの如く、平坦な横顔。
 しかし葉月は指輪が転がされている中、篠原を窺うように見つめると、途端にふと微笑んだのだ。当然、篠原もその大佐嬢の静かな微笑みに気が付いた。
 だが、彼はどうしたことか直ぐに顔を背けてしまった。そして、杖もやっと降ろした。

「五億の寄付、有難うございます」
「なんの」
「……あの、寄付をする先はわたくしの希望があるのですが」
「蘭子と相談すれば良い。寄付すると決めたなら、私はどこでも構わないよ」

 割と穏やかな会話。
 隼人はほっとした。
 そして初めて葉月が嬉しそうな顔をする。だが篠原はやはり顔を背けてしまい、葉月の顔は二度と見なかった。

 一方、岩佐は、隼人や葉月の様子など、もう眼中にもないようだ。

「これが……。宝石業界でも、噂の……」

 彼の眼が爛々と輝き、そして喉元がごくりと動いたのを隼人は見る。
 彼が言う宝石業界でも噂……というのは、この指輪が存在する事は皆が噂で知っているが、展示もなければ持ち主も曖昧でちっともお目にかかれない。という事なのだろう。
 そんな岩佐が頬を紅潮させ、隼人に言った。

「御園さん。これで宝石展をしようと思っているんですよ。他の有名宝石も交えて……。良いですよね! 沢山の注目を集めると思うんですよ!」

 彼の興奮……。
 隼人は初対面の挨拶で勝利を得た気持ちを、全てかき消されるかのような『敗北感』のようなものを感じてしまった。
 勿論、敗北なんかではない。それでも、『もし』。それを本当にされてしまうと御園にダメージが伴う。この男の事。『不幸の指輪』という云われもとことん利用して人を集めるだろう。その中に……もし……御園の名を出すような事があれば。いや、それはしないといっても、事件の事などに触れた上での展示をされたのならば……!?
 隼人はもうすぐ手放さなくてはならないトレイを持っている両手でぎゅっと握りしめる。でも、だ。『御園家の男』になった以上、ここは『御園家の気持ち』も大いに持たねばならない。
 隼人の頭の中で、登貴子のような、葉月のような、区別が付かない落ち着いた女性の声が聞こえる。

『浅ましい人間が手にすると不幸を招く。無理に欲しがる人間には渡せばいい、いずれ正統な所持者に自然に指輪から戻って来る』

 純一から教わったレイチェルの実家から引き継がれている指輪に対する家訓。
 『無理に欲しがる人間には渡せばいい』。
 隼人はそこをもう一度唱え、正面にいる勝利者の顔をしている岩佐を毅然と見た。

「ご自由にどうぞ。その指輪はもう、貴方のものですから」

 展示会など、させるものか。
 そうなる前に、きっと……あんたにもそれ相応の『不幸が来る』はず。
 それでも、隼人の動じない様子にも、岩佐はなんだか楽しそうだった。
 やがて、彼が隼人に一矢を報う事が出来なくてもなんのその。岩佐は新しい楽しみを見つけたかのように、葉月を見た。

「お嬢さん、ご安心下さい。きっと『不幸の指輪』などという迷信など、僕のところで消滅させてあげますよ。やっぱり迷信だったんだとね」

 『奥さん』ではなく、『お嬢さん』。
 御園のお嬢さんという意味だろうが、妻の隣に夫としても御園の婿としても並んでいる隼人にとっては、かなり屈辱的な言葉にも聞こえた。
 ええい、もう……我慢の限界、そこまできている。それでも、それでも我慢、我慢。隼人はなんとか堪える。
 そしてやっぱり隣の妻は、涼しい顔をしている。そんな葉月がやっと岩佐を見つめる。彼の方は篠原と違い、ややドキッとしたように表情を固めた。それも夫の隼人が幾度となく見てきた妻に見つめられた男がしてしまう顔だった。

「あの、岩佐さん」
「はい、なんでございましょう? 葉月さん」
「私達は不幸を売りに来た訳ではありません。それはご了承願いますか?」

 岩佐は『はあ?』という顔で首を傾げる。
 そして次には笑い出した。

「あはは! だから言っているでしょう? 僕は大丈夫ですって!」
「そうだと願います。祖母の伝統のオークションであること、そしてこの指輪が慈善事業に役に立つならと思って持ってきましたから。そうよね? 貴方」

 葉月がにっこりと隼人を見る。『貴方』と呼んで……。
 岩佐が笑い声を止め、隼人をチラリと見た。

「勿論だとも。奥さんの実家の『家訓』を破ってまで、出品したのも、寄付金が出ればこそ。こちらの指輪がお役に立てた事を『不幸を余所には出したくない』という気持ちで門外不出にしていた祖母は喜ぶと私は思いますね」
「主人の言うとおりです。岩佐さん。『私はこの指輪を欲しがって死んだ人間を何人も見てきました』が、岩佐さんは寄付の為にお買いあげになってくださったから、大丈夫だと……家族一同、そして隣の夫とともに信じております」

 その時、葉月の目がいつもの大佐室での冷たく燃える眼で岩佐を射抜く。
 なのに口元はやんわりと優雅に……。
 何度か見た顔だが、夫の隼人でさえ、ひんやりと背筋が寒くなる。
 それは岩佐にも通じたようだ。

 葉月と岩佐の間で、ピンとした張りつめた冷たい眼差しが取り交わされる。
 『貴方は死ぬ』とばかりに念を押す妻の氷の目と、それが指輪が引き継いできた云われに初めて怖れを抱いた岩佐の目。
 しかしそんな二人のひんやりとした間に、間延びした声が滑り込んできた。

「ふうむ。それほどの品かね。死にたくないなあ……」

 気が付けば、また、篠原が杖の先でサファイアの指輪を転がしている。

「これ。あんたに預けておくよ。貸して欲しい時に貸してくれるかね」
「まあ、会長……。それでよろしいのですか?」
「あ、岩佐君。欲しいなら君にあげるよ。これも一緒に展示すれば良いのではないだろうかねえ? 『葉月さん』、それが良いだろうねえ?」

 篠原の途端の提案に、妻もやや戸惑っていたが……。やがて葉月はいつもの妙な含みある笑みを浮かべていた。

「そうですわね。それが一番よろしいでしょう。死んだ姉と姉妹で対にして持たせてもらっておりましたから。『指輪も関わっていた事件』で亡くなった姉も、そして妹の私も、そうしていただけたら嬉しいです」
「お姉さんもあんたも、まあ、大変だったそうだねえ」

 篠原の哀れむ声。
 なんとか余裕で流そうとしていた葉月の表情が一瞬、強張る。見守っている隼人も、そこはどうなっていくか構えてしまう。篠原の声は哀れんでいるが、どこかわざとらしい。御園の両親もこうされていたということか? 岩佐が指輪を出させようと『指輪のせいで起きた不幸』として口にしていた『幽霊事件』のことを、篠原もこうして楽しんでいたというのか? これは両親から娘へと移行した嫌がらせの続きなのだろうか……?

 そんな隼人の心配を煽るかのように、篠原は指輪をつついていた杖の先を、人々が見ている中、葉月の胸の中心へと突き刺したのだ。
 そこはまさに、葉月が瀬川に一突きにされた場所。あろうことか篠原はそこを何度もつんつんと杖の先でつついている。

「ここかね。横須賀の件で負ったというのは……」

 誰もが引いたような息遣い。会場のそんなざわめき。その杖の先は、葉月が数年前、横須賀基地の滑走路駐車場で幽霊・瀬川に一突きされた『三日月の傷跡』があるところ。ひた隠しにされた姉の事件よりも、この妹が二度も襲われた事件の方が人々の記憶には新しいだろう。
 それを、その傷を再び蒸し返し、妻を辱めるかのようなその行為。

 もう……! 隼人はそれを見ただけで、今まで保ってきた冷静も忍耐も、なにもかもがざあっと吹き飛んでいった!
 気が付けば、妻の胸に突き刺さっているその杖を、隼人は腕を振り上げ勢いよく跳ねとばしていた。

「やめてください!!」
「あ、貴方……」

 それは、隼人にとっては『あの時の絶望』を再現させるには充分の行為!

 妻の目の前に立ちはだかり、誰もが恐れる『ドン』を隼人は睨みつけていた。
 ……しかし、そこで正気になって、跳ねとばしてしまった杖へと目線が行く。
 しまった。この男が一番厄介だと義兄に叩き込まれていたのに! やってしまった!! と、気が付いても既に遅し。
 隼人が正気に戻ったその時、篠原にはぐっと睨まれ、彼の背で控えていた護衛の男がずいっとこちらに踏み込んできそうな気配だった。

 そして会場も、一番恐れている男に『刃向かった』隼人にどのような雷が落ちる事かと、怯えている。
 誰もが先ほどまで近寄り始め縮めていた輪が、さあっと一歩二歩退くようにして大きく外へと広がっていくよう……。
 そんな張りつめた雰囲気──!
 まるで一時停止を押されたテレビ画面のようだった。

 しかし静まりかえったその中。
 一人の男性の声が静かに響いた。

「……当家の婿に取っては、それは奥方が傷ついた時を彷彿とさせられる行為だったと思います」

 たった一人、静寂の中を動いている男。
 彼は隼人と葉月の横に落ちてしまった杖を拾っていた。
 黒いスーツ、サングラスをかけた男。その杖を拾うと静かに丁寧に頭を下げ、篠原に差し出していた。

 

 

 

Update/2007.6.2
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