-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

TOP | BACK | NEXT

11.モン プチ ココ

 もう十数年も乗っている真っ赤なトヨタ車。葉月の愛車。
 仕事に行く時は、未だにこの車に乗っていく。
 その毎度の真っ赤な車は、いまや大佐嬢の目印。
 近頃では、若い青年隊員達からも『もうこの車種、あまり走っていないんすよ』とか『いらなくなったら、俺に売ってください』とか『運転させてください』とか……そのように言われる時代の代物になってきたらしい?
 夫とは既に別出勤。隼人は自転車だったり、ファミリーカーにしているワゴン車に乗って出勤している。

 その車で、愛する青い空と蒼い海が広がる海岸沿いを基地から走り抜けるのだが、元自宅である『丘のマンション』までは二キロほどで、車だとあっと言う間に着いてしまう。ドライブにしては短い距離。

 懐かしい駐車場に車を停め、運転席から降りた途端に、胸ポケットに入れてきた携帯電話が鳴った。
 曲は『グノーのアヴェマリア』。着信画面には『意地悪猫』という着信。葉月はハッとして上を見上げると、既にテラスに『意地悪猫』の義兄が立ってこちらを見下ろしていた。葉月は着信のボタンを押し、携帯電話を耳に当ててみる。

『おう、どうした? はいってこいよ。丁度、一休みしていたらお前の車がここから見えたから、驚いた』

 ……なんてことだろう。
 同じく携帯電話を耳にあて、『意地悪猫』の余裕な声を聞き届けた葉月は、ひとりでぶすっとする。
 上を見上げれば、元自宅のテラスににっこりと微笑んでいる義兄がいるのだが、ちっとも嬉しくない。
 この勤務時間中に、こうして義兄の現自宅に訪ねてくることなんて滅多にない。それでなくても義兄に言いたいことは沢山あって、突然行って『驚かせて』、突然押しかけて『文句を言ってやるのだ』と頭の中に描いて、義兄を困らせてやろうと思っていたのに……。こうして来た途端に『上から見ている俺には、お前のことなら手に取るように判るぞ』とばかりに、葉月の思惑は全て台無しにしてくれるのだから。

『どうした? なにかあったのか?』

 一言も返答しない義妹の不機嫌さに気が付いたのか、そんなお兄さんの声。
 だが、葉月はぶちっとその電話を切って、玄関へと歩き出す。

 正面玄関を入ってインターホンを押さずに突き進んでも、ロビーに入るオートロックの自動ドアはすうっと簡単に開いた。
 まるで葉月がそこに立ったら自然に開くかのように……。
 きっと義兄がすかさず、ロックを解除してくれたのだろうが、葉月はそんなことも考えずただただ元自宅の玄関へと目指した。
 三階に辿り着いて、玄関を開けると、やはりそこにはにこりとしている義兄が既に待ち構えていた。

「この時間に珍しいな。部隊はどうした」
「達也に任せたわ」
「まあ、あがれよ」

 純一はそれだけいうと、急に真顔になってすうっと中へと戻っていってしまった。
 その顔を見せられた義妹としては、急にひやっとする感触──。
 いつまでも子供扱いをされてはいても、ある程度は『お前は立派な社会人になった』といつもまでも敵うことのない義兄も認めてくれているかもしれないと、そんな自信もついてきただけに……。その自信をひっさげて『私は子供じゃない』という文句を言いに来た覚悟はあっても、やはり今まで社会人の先輩としても畏怖してきた義兄にそうして『しら』とした顔をされると、葉月は緊張する。

 でも、だからとて。
 このまま黙っている義妹として流されたのなら、それは今までの『オチビのままで充分』と、義兄の腕の中で甘えてきた自分となんら変わらなくなってしまうのだ。
 葉月は、同期生の達也に送りだしてもらった頼もしさをもう一度思い返し、拳を握りながら玄関を上がった。

 リビングに入ると、懐かしい海原と青空が広がるパノラマのテラス。
 それを目にしてしまうと、今は、この部屋を出ていった者としては、つい……口元がほころぶ。

「エスプレッソでいいか?」
「そうね……」

 義兄の顔を見たら噛みつきたい勢いでやってきたのに……。
 変わらぬ窓辺の景色に、どこまでも落ち着いている義兄を側にすると、なんだか葉月の心はなだらかに均されてしまったようだ。

 いつも訪ねてきた時に、先ずは座る椅子に葉月は腰をかけて、純一が入れてくれる珈琲を待つ。
 珈琲豆の香りが漂ってきた中、葉月は自分が住んでいた時の面影がなくなっているリビングを見渡す。自分が籠もっていた箱だったような八畳部屋の壁は取り払われ、そこには資料や書類をまとめている書棚が幾つか置かれるようになり、何台ものノートパソコンがセッティングされているデスク、デスクトップPCが置かれているデスク、果てには純一がものを書く専用で置いている木造の机など、本当に一人でやっているのかと思うほどに、雑然としたオフィス化を遂げている。
 そんな広くなったリビングの端っこにある小さなダイニングテーブルの一角。そこにある白い椅子に葉月はいつも腰をかける。
 このテーブルだけは、オフィスと同化していない生活感があるテーブルになっている。つい先日、あまりにも殺風景なので、葉月は小さなグリーンの鉢植えを置いてあげたばかり。それがちょっとした彩りを見せているだけで、後は爪切りとか灰皿とか、飲みかけのカップとか、買いだめしてある煙草のカートンが二、三箱積まれていたりとか……。そんな義兄の生活雑貨品で溢れている。
 それを目の前に、葉月は対面式キッチンのカウンターに一番近い椅子に座るのが恒例だった。
 やがて、その珈琲がやってきて、葉月の手元に置かれた。

 目の前に置かれた白いカップ……。そのカップには小さなスミレのような青っぽい小花が描かれている。義兄は葉月にお茶を入れてくれる時、いつもこのカップに入れてくれる。色柄違いで花の絵も異なるが、シリーズになっているという五客セット。このセットを純一が買ってきたのを知った当初は、凝ったシリーズで揃っているのだから特別なお客様用に取っておくようにと何度も純一に訴えたのに、義兄は何度でもそのうちの一客である『青小花』のカップで入れてしまう。呆れた葉月だが、純一が最後に『その一客だけがお前に似合うなあと思ったから、五客セットでも買った。代わりを探す気もない』などと言ってくれた時には、何も言えなくなり……。それからは『そこまでして買ってくれたカップ、本当は嬉しかった』と言えずとも、黙って義兄の気持ちを静かにひとりで噛みしめて、このカップを使わせてもらうようになった。
 そのカップが出てくるたびに、葉月はいつだって……。……この義兄の心には……『私が、いて』……と。……いや、これ以上は解っていても、誰も覗くことなど出来ない我が心の中だと言っても、『決して呟いてはいけない』と葉月は己を叱責するようにして、心のタイプキーが打ち込みそうになった一言を真っ白に消し去った。

 とりあえずは、いつも美味しく入れてくれるこの珈琲を一口。心を落ち着けて、そう……達也が言ってくれた通りに、冷静に、言いたいことを。と、頭の中にまとめてきたものを反芻させていたのだが。
 カップを置いてくれたその手元に、義兄の大きな手がすうっと、広げた状態の雑誌を差し出してきた。

 その雑誌は、先ほど大佐室で達也が見せてくれた雑誌で、開かれているページも例の『不幸の指輪のジンクス……』という見出しのページだった。
 葉月は驚いて、側に来た義兄を思わず見上げた。

「用事は、これか?」

 葉月は『ああ、やっぱり』と思う。
 自分が何か言わなくても、何かを言おうとしても。なにもかもこの大人の義兄には見抜かれているのだって。
 そして、以前はここで言葉をなくしていた。それがこんなふうに『この人の前では無駄』と思うこともあれば、逆に『この人は言わなくても理解してくれている』と思える良い面もある。だけれど、今回は前者。『文句を言いに来ても無駄。言う前に、この人は私の心の中の炎を静かに消してしまうのだ』と──。
 葉月は、義兄の気持ちがこもっているだろうスミレのカップを柔らかく包み込みながら、小さく呟く。

「そう、それよ……」

 でも。と、『現在』の葉月は、今度はカップを強く握りしめ、もう一度義兄を見上げた。

「どうして、私には何も言ってくれないの? いつも……隼人さんと二人きりで勝手にやっちゃうの、どうして? 私は『おちび』だから? 結局、いつまでも『お嬢ちゃま』だから?」

 前なら『そう、それよ』の時点で、何かを言うことをやめていた。
 そこから先は、大人の義兄が考えていることの方が、これから彼が手を打つことで間違いなく世の中が動き、自分にとってもそれが良いことだと思っていたからだ。
 でも、今はもう違う。……と、思う。
 達也に押してもらった背中。無駄にしてはいけないし、やはりここから先に行きたいと葉月は思う。なによりも──! 『純兄様と一緒にやっていきたい』と思っているから、置いて行かれた不満を口にする。
 だって、もう……。『そういう形』でしか、このいつまでも離れたくない義兄と分かち合う術がないからだ。
 彼と生きていく。夫ではないこの人と側で暮らしていく意味、その中に『潜む愛』は、ただ単に『共に生きていくこと』だけなのだから……。
 そこを逃したら、もう……何もない。だから、必死でこの人の側に葉月は居ようとしているのだ。

 その為に、こうして言いに来た。
 でも、『おちびちゃん』が大人になったと自負しながら言えたことは、そこまでだった……。
 カップを強く握りしめた力がふっと解け、柔らかに開いた。

 すると、雑誌に手をついて葉月の側に立っていた純一は、小さな溜息をふとついて、隣の椅子に座り込んだ。
 しかしその座り方が、なんだかふてぶてしい。椅子の背を身体の正面に持ってきて、大股で座っているのだから。そしてその椅子の背に頬杖をついて、ちょっと困った顔で葉月をただ見ている。
 椅子に座った義兄と葉月は、目線が一緒になる。
 大きな目。黒い目。そして黒い目なのにどこか透き通っているよう……。奥深くに空を隠し持っているかのようなその義兄の黒い瞳をみつめると、葉月はいつだって吸い込まれそうな気持ちになってしまう。だから、そっと静かに逸らし、栗色の横髪の中に、ひっそりと焦りの顔を隠した。

「なに……? オチビの言うことは、やっぱり可笑しいの?」
「いいや。可笑しくはない」

 オチビの言うことは『面白い』と思ったなら、この義兄は意地悪な切り返しをしてくるはずなのだ。
 なのに……。割と真面目な声が返ってきたので、葉月は隠した顔を再び、意地悪なお兄さんの前にさらけ出してしまった。それもちょっと驚いた顔で。
 そしてそれに対する義兄は、格好はふてぶてしいのに、とても真剣な顔を見せてくれていて、葉月の胸はドキリと固まった。

「じゃあ、なに?」
「悪かったと思っている」

 また。格好はそのままなのに、返ってくる言葉が、葉月が良く知っている意地悪なお兄さんじゃなかった。
 葉月はまたまた驚いた顔で義兄を見てしまっていた。
 義妹がそんな顔をして黙り込んでしまったせいか、今度の純一は大きな溜息をつきながら、椅子の背をちゃんと背の方に回して、きっちりとした姿勢に座り直してくれた。しかも、椅子の向きを直しながらも、葉月の直ぐ側、目の前まで椅子を持って来た。葉月の目の前に、いつしか痛いほどに恋していた人の顔がある。あの遠い空の目が、いつも口づけていた唇が、いつも髭があって痛かった尖った顎が……目の前に。しかも彼の大きな手が、カップを柔らかく握りしめている葉月の手を久しぶりに握ってきた。

「お前になにも相談もせずに、隼人と勝手にやったことは、後になって悪かったと『俺達』は反省している」

 ……それどころじゃない葉月。
 もう忘れたはずの、違う、忘れなければならないと必死に押し込めてきたものが……近頃はそれさえも『もう私は大人になったのだから、上手く割り切れる』とさえ思っていたものが……実はそうでないことを思い知らされるかのような衝撃を含みながら、もう堰を切って溢れ出てしまいそう。それ程の鮮烈な熱がかあっと身体を火照らせようとしていた。
 でも、葉月はその手を握られたままでも、ぎゅっと強くカップを握り直すことで、なんとか堪え『澤村の妻となった現在』をきちんと留めるよう努める。

「い、いいの。本当は分かっているの……。私とパパとママを、二度と、あの事件のことで直面させたくないから、婿の二人で力を合わせてくれたって……」
「分かってくれているなら、心苦しかったことも軽くなる。だが、今回の岩佐に対する『制裁』のことも、お前にも一言でも言っておくべきだった」
「きっと、戸惑っていたわ」
「だろうな。そこまでしなくても良いと、葉月なら言うような気もして……。だがな、葉月、それでも正面から我が家にデメリットだけ叩きつけて、己はメリットだけを吸い取っていこうとする男は、俺も隼人も許せなかった。しかもそのデメリットが、お前や皐月を侮辱することならば、お前が止めても『俺達』は行っていた」

 葉月は『それも分かっている』と小さく頷く。
 そして『俺達』という彼等に、そうして愛されて守ってもらっていることにだって感謝しているし、本当は頼っているのだから。
 でも……。葉月はそこで『現在の私』が、あの事件を経て、大人になって思うことは、今度こそ義兄にはっきり言おうと思う。
 それが今日、本当に言いたいことだった。

「でも、純兄様。このままじゃいけないわ。私は、こんなのイヤ」

 その声を真っ直ぐに目の前にいる彼に伝える。
 彼等の気持ちを無にするつもりもないし、反抗している訳でもない。ただ、これは葉月という今の自分が思うこととその他に『御園の女』として言いたいことでもあった。
 遠い空の目を見て、その目を恐れず、吸い込まれず、そこに踏みとどまって、『葉月』という大人になったオチビは言う。
 先ほどは怖くて逸らしてしまったその目を、葉月は今にも額がひっつきそうな程に目の前にいる純一の目をずうっと見つめてその想いをぶつけていた。
 こんな時は、『言葉がなくても良い二人』になれる。葉月にも分かる。義兄の目の色がじんわりと変わったり、そっと静かに訴えてきたり。昔から『それだけで』分かり合ってきた『私達の間』がそこにあった。
 静かで静かで……。気が付けば、遠いさざ波の音と風の音だけが二人を取り囲んでいるだけだった。
 しかし、それは時折空を賑わす戦闘機がこのマンションの側を通ったことで、我に返ってしまった。
 その時、純一の顔は笑っていた。

「そう言うと思った。いいぞ、それでこそきっと『レイチェルばあや』の孫娘であると、俺は思う」

 通じた。葉月はそれだけで笑顔を純一に見せることが出来た。
 そして、純一は少し感慨深いような一息をついて言った。

「では、後のことは『当家本筋の娘』にバトンタッチだ。『俺達、婿』のやることは終わったということでね」
「有難う。兄様。感謝しています」
「馬鹿者。俺じゃなく、隼人に言え」

 途端に照れくさそうにして純一は顔を逸らしてしまった。
 やっと以前通りの『意地悪猫さん』になったみたいで、葉月は笑っていた。

 それでその後は『どうするのか』なんてことは、純一に問われもしなければ、葉月もどうするつもりかは話し合わなかった。
 義兄が問わないのも、『後は任せた』ということの証なのだろう。葉月はそう思ったから、自分が思うことも言わなかった。
 そのまま、一杯の珈琲を飲み干して立ち上がり、部隊に職場に戻ろうとした。

「ほっとしたわ。お邪魔しました、純兄様」

 葉月はすっきりして去ることが出来そうだったのだが……。
 目の前の照れたままの? まだ顔を背けている義兄は、急に不機嫌になったかのようにだんまりしていた。
 早速の『意地悪』に葉月は呆れながら、『いつものこと』と諦め、そのままいつもの席を後にしてこの家を出ていこうと純一に背を向けた。

「待て」

 義兄に背を向けて一歩踏み出したその時。
 葉月は純一の大きな手に手首を掴まれ、そのまま元の椅子の前に連れ戻されていた。

「な、なに? 兄様」

 そこには立ち去ろうとしている義妹を、座ったままの義兄がじいっと見つめている『妙な視線』があった。
 その『視線』が、どのようなものかだなんて心の思うままに認めてしまえば、きっと葉月もおかしくなる。……そんな目線。
 先ほど抑え込んだ『想い』がまた溢れ出しそうになった。
 胸の早まる鼓動を感じながら、葉月の身体はいつしかのように、恋して止まなかった人を目の前に動かなくなる。
 その人に捕まえられたまま、そんなふうに、熱っぽく見つめられてしまい……葉月は今まで通りに動けないままに、義兄をただ見下ろし、同じように見つめ返すことしか出来なかった。
 義兄の黒く揺らめく目が、葉月を映しながら言った。

「お前は、いつまで経っても、俺にとっては『おちび』だ。どうしようもないことだろう?」

 そして、葉月は『こっくり』と頷きそうになる。でも、なんとか思いとどまり、心の中で頭を懸命に振って『もう、おちびじゃない!』という本日の訴えを貫き通そうとしたのだが。
 その葉月の懸命な踏みとどまりを無にするかのように、なんと……立ちつくしている葉月に、座ったままの純一が抱きついてきた。
 葉月の制服の胸元に、義兄の顔が埋まっている。
 それを認識した義妹の身体は、以前の全てを思い出すかのように固まっていた。
 彼の大きな手が、優しく葉月の背に回り、柔らかに抱きしめる。

「みろ。ちっともお前は変わらないじゃないか」

 違う……! 私は変わったんだから!!

 でも、それは声にならず、身体にも出なかった。
 葉月の顎の直ぐ下に、何度も抱きしめたことがある黒髪の頭がある。
 そこから良く知っている匂いがする。それも暫くずうっと封印してしまった懐かしい、この人だけの懐かしい男性の匂いが……。
 おかしくなりそう。でも、まだ『現在の葉月』が身体を固まったままの状態でもその状態を保っている。以前の『オチビ』なら、ここでもうなし崩しになって、義兄に抱きついていたはず……。
 そうして、なんとかその先に崩れない葉月を見上げて、純一が笑っていた。
 その顔は、葉月をただ奪うばかりの荒々しさを見せていた義兄の鋭い顔はなく、何処か穏やかで柔らかになった顔。
 それを見た途端に、昔のままに抵抗も出来ずただ彼の中に溶け込んでしまいそうだった葉月は、呪文から解けたように指先が動かせる自分に戻っていることに気が付く。

「もう、オチビじゃないわ」

 やっと言えた一言。
 どうしようもないことじゃないわ。ねえ、義兄様。私のこと、ちゃんと『葉月』って呼んで? オチビの葉月じゃなくて、大人になったなあ葉月って言って?
 でも、そう思う言葉も上手く言えないままになってしまうのは、この人の前では『オチビ』な証拠なのか……。葉月は身体が柔らかく元に戻っていくことに安心しながらもそう思った。
 だけれど、純一はまだ葉月の胸元でまるでくつろぐように頬を埋め、そして背中を抱いている。

「そんなにオチビと言われるのが嫌なのか? 俺は……お前がチビなのが気に入っている」
「……でも、わたしだって、もう。……これでも三十歳越えたし、奥さんだし、ママだし……。だから、お兄ちゃまにも素敵な大人になったと思って……欲しい……」
「じゃあ、言い方を変える。俺にとって、お前を『チビ』というのは『愛称』だ。変えられない愛称」

 『言い方を変えるって?』と、言っている意味が分からず、葉月が首を傾げていると、純一の目線が葉月専用のスミレ花のカップに視線が行く。

「代えはないし、変わりはしない。むしろ、そのままでいて欲しい。俺の『モン プチ ココ』。いつまでも……」

 葉月の心臓がドクリと大きく蠢いて、そして止まってしまった……。
 ──『モン プチ ココ』。仏語で『おちびちゃん』。
 意味は一緒なのだけれど、その義兄の言い方と言葉の選び方に、葉月は何かの栄誉ある称号をもらえたような熱い気持ちにさせられた。
 今、葉月の目の前には、水色の服を着ている幼かった頃の自分がいて、その栗毛の頭に大好きなお兄ちゃまが世界でたった一つのキラキラしている冠をちょこんと置いてくれたような……そんな気分。

 ずっと『オチビ』と言われることに、『いつも子供扱い』と不満に思っていたけれど。
 まさかそんな『称号』のような『愛称』と言われると、もう、何も言えない。

 そうして突然に襲ってきた感動に茫然としていると、胸の先にちくりとした感触が走った。

「あ……っ」

 思わず漏れてしまった、そんな声。
 気が付けば、胸元でくつろいでいたような義兄が、制服の上着の上からでも、葉月のその胸先に甘噛みをしていた。
 何枚もの生地に覆われているはずなのに、義兄が口づけの感触で施してしまっただろうその甘噛みは、葉月の身体中に甘い痺れを帯電させた。
 唇へのキスじゃない。肌への愛撫じゃない。ただ、服の上から押された刻印。
 なのに……。そこにはもう、あの時、二人を甘い楽園へと連れ去っていった淡い薔薇色のもやがかかったよう……。

「純、兄様……」

 いつしか葉月は、その甘噛みを躊躇うことなく刻印した男の人の頭を抱きしめていた。
 でも、葉月はもうあの時の葉月とは違う。今はしっかりと目が覚める。だからその目には涙が浮かんでいた。

「モン プチ ココでいいわ、私。それでいい……ずっと、そうでいい」

 義兄の中でも封印されているものが、ふっと湧いて出ても。
 彼の口は葉月のことを『いつまでも、おちびちゃん』と言うのだから。
 それでいい。ずうっとこの人の『おちびちゃん』でいい。

 頭の上に小さな王冠。
 世界に一つしかない王冠。
 この人からしかもらえない王冠。

 そう思いながら、葉月は抱きしめていた義兄の頭を、自分の胸元でくつろいでいた彼を突き放す。

「じゃあ、また……ね。お兄ちゃま」

 涙で曇って見えないけれど、純一も小さく『ああ』と応えただけで、葉月同様にすうっと立ち上がって背を向けてしまった。
 葉月もそのまま、この家の玄関まで急いで向かう。振り返らない。だって、もう……キーボードを打つ音が聞こえるから。
 あの人も、すっぱりと切り捨てて、ちゃんと抜け出ていったから。だから、葉月も『ここ』を抜け出ていく!

 おちびの王冠。
 だけれど、それは、ミューズの王冠じゃないことを葉月は分かっていた。
 ミューズの王冠は、ずうっとあの人の胸の中。二度と彼の手に触れることのないまま、沈んでいることだろう。
 そして葉月はそれを望まない。そんな愛だから。

 

 でも、丘のマンションを出た葉月の赤い車は、直ぐには部隊には戻らなかった。
 それどころか基地とは正反対の……。自宅近くの小さな渚で停めて、葉月はひとしきり泣いていた。
 やがて、そんな赤い車の横に、一台のジープが停まった。そこから降りてきた隊員は、達也だった。

「……まずかったかな。やっぱりこの時間に行かせるのではなかったか」

 砂浜で泣いている葉月を見つけて、彼は静かに隣に座ると黙ってそのまま一緒に海を眺めている。
 海岸線のカーブを三つ程曲がった先に、『私達の白い住宅地』が見える。二軒は似たような佇まいで並んでいる。

「俺も、口にはしたくないけどさ。封印したものってあるからさ」
「……分かっていて送り出してくれたの?」
「今のお前なら、大丈夫だと思ったから。それとも? 純一さんの方が駄目だったとか? 帰りが遅いから何かあったと思って、送り出した手前、ちょっと焦った」

 そして、時折、葉月がひとりで思い耽っている渚を知っている者として、達也はここまで探しに来てくれたようだ。
 ……達也の心の奥底に封印されているものも、葉月は探し当ててはいけないのだと思う。ましてや、葉月本人が探してはいけないもの。
 だけれど、私達はそんな思いを抱えていることすら、同期生になってしまったような気分。
 そんな彼が迎えに来てくれて、葉月はやっと微笑む。

「大丈夫よ、達也。私、ここで、この渚で、海の波が幾重にも足下にやってくるぶんだけ、うんと愛し合っていたから」

 ……ひとりで。
 まるで昔をなぞるように。
 心の奥にそっと焼き付いているものが、ふうっと海底から顔を出して太陽の光を一瞬だけ浴びに来た。そういうこともあるのだと、葉月は思う。往生際悪くても、人の心にはそんなことも有る。
 だけれど、その時は『二人』じゃなくて『独り』でなくてはいけない。そんな愛を選んだ者達は、このようにして生きていくのだ。
 隣の彼もまた……。

「俺も、それぐらいは良いと思う」

 そして葉月は頷かない。
 ただお互いに……幾重にもやってくる波の向こうにある答にはならない水平線を、切ない想いで遠く眺めるだけだ。

「ここから俺達の家、よく見えるんだな。お前が眺めに来る新ポイントにしたの、頷ける」
「でしょ。青い海と空と私達の白い家がね」

 だから、この渚に来る。
 そこには葉月が大事にしているものが一目で見える。
 一目で見えるこの場所で、その愛を置き去りにし、葉月は再び赤い車に乗って、いつもの場所に戻っていく。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日の夕方、葉月は珍しく夫の隼人より先に帰宅し、キッチンに立って夕食の支度をしていた。

「ただいま」

 工学科の彼が帰ってくる。
 まだ空が明るい内に。

『パパ! お帰りなさい』
『パパーー!』

 いつも通りに、海人と杏奈が直ぐさま玄関にパパを迎えに行くのも変わらない毎日。
 葉月はふと微笑みながら、キッチンから廊下に出て玄関へと向かう。

「貴方、お帰りなさい」
「連絡有難う。珍しいな、大佐嬢が残業無しだなんて」
「そんな日もあるわ……」

 弱めた語尾の中に、今日、色濃く残っているものを想いながら、葉月は思わず眼差しを伏せてしまっていた。
 はたと気が付いた時には、流石の夫がちょっと窺うような顔をしていた。

「そう。じゃあ、今夜は和食」
「うん。久しぶりに魚屋に行って、見繕ってきたの。もちろん、お野菜の煮物もね」
「いいね」

 夫の何知らぬ笑顔にまるで救われるかのようにして、葉月もいつもの笑顔を返す。

「ぼく、もずく嫌だ!」
「あんな、もずく、好き!」

 先ほど、ママのご飯作りを覗いていた子供達。
 小鉢にもずくを盛っているのを見た海人は嫌がり、酢の物大好きの杏奈は喜んでいた。それも既にいつもの光景。

「やれやれ。また『もずく嫌い』の坊ちゃんが現れたか」
「パパの魔法も効かないしね」
「真一には効いたのになあ?」
「海人が、あの頃のしんちゃんのように十六歳になったら効くかもしれないわよ?」

 隼人は『かもしれないなあー!』と笑いながら、着替えてくると二階の寝室へと階段を上がろうとしていたのだが。

「あ、ママ。忘れていた」
「え? なにを?」

 なにかと笑顔で振り返ると、そこにはいつもの眼鏡の微笑みがあり、その顔が葉月の目の前に迫ってくる。

「ただいま、奥さん」
「……また、子供の前で……」

 お帰りのキス。
 必ず毎回ではないけれど、なるべく心がけてくれる夫の習慣。勿論、自分からも心がけている。
 なのに……。今日は長く感じる。
 心が暴れた痣があるせい? それとも……?

「やっぱり、パパ、ちゅーちゅーパパじゃん!」
「ママもちゅーちゅー! やーん、パパ! アンにもして!」

 いつもの子供達の、ひやかしながらも楽しそうに眺めている声。

「もう、いいから……。パパったら!」

 あまりの長さに、隼人に『心に何かがあったこと』を見抜かれていると葉月は感じた。
 だから、彼は挨拶の口づけなのに、長く長く妻を愛して呼び込んでいるのだって……。
 堪らなくなって、葉月はついに、隼人を突き放してキッチンへと逃げてしまう。
 こんなこと、滅多にないのに……。
 料理の続きになんとか没頭している間に、隼人は子供達と楽しそうに二階へと上がったようだ。

 暫くして、その子供達とまた賑やかに一階へと下りてくる。

「手伝おうか?」

 白いシャツとジーンズに着替えた夫が、袖をまくりながら、彼専用の黒いエプロンを身体に着ける。
 そして、そのエプロンの紐を結ぶ彼の手が止まり、隼人はテーブルのある一点に釘付けになっていた。

「葉月、これは……」
「ああ、そうなの。貴方にも相談しようと思って……。でも、私は行くつもり」
「行くつもり?」

 夫の隼人がテーブルの上に見つけたのは、岩佐からの招待状。
 それに対して『行くつもり』と言った妻を、隼人はとても驚いた顔で見ている。

「ねえ、貴方。『あれ以上』に屈辱的な事ってあるの? 私には、今のところ、『あれ以上』はないの。だから、怖くない。ずうっと小さな私を縛り付けていた恐怖以上のものなど、ないもの」

 静かにそういうと、隼人の驚いて固まっていた表情がふっと緩んだ。

「……そうだった。そうだよな」
「隼人さん。それでも、嬉しかった。私を全身で傷つかないようにと包んでくれたこと。私に知られないよう華夜の会に行ったことも、華夜の会で篠原会長に痛いところをつつかれた時に、あんなに包み込んでくれて。どんなに怖くないと言っても、やっぱり独りはもう駄目みたい。だから、あんなに頼もしいことはないわ。有難う」

 葉月は真顔で夫に伝える。
 心よりの感謝の言葉を。

「俺だって、お前と一緒に戦えば良かったと思ったよ。そこはちょっと悪かったと」
「もう、いいの。でも、これは『御園の娘』としてさせてちょうだい」
「分かった。だが、条件がある。婿ではない『夫の俺』も、出席する。いいな」

 またそこに頼もしい彼の顔がある。
 葉月は笑顔でこっくりと頷いた。

 しかし、隼人はその招待状を手にとって、ややしらけた顔でテーブルにひらりと落とした。

「まあ、出席に至るかどうか分からない状況だよな。夫妻で出席は、宝石展が開催されたらの場合だけどね」

 隼人も今日、雑誌の記事をしっかり目にしていると葉月は思った。
 その宝石展が開催されるかどうかは分からないが、葉月は『受けて立つ』ことを選んだ。

 

 その晩。葉月は綺麗に身体を洗った後、ベッドでいつもの読書をしている夫の目の前に、そのままの姿で現れる。
 妻からの誘いに、隼人はなに思うこともない様子で、すんなりと受け入れてくれた。
 ゆっくりと静かに更けていく夜の中、こちらもゆっくりと静かに……。それが葉月の今日の気分。

「いいね、今日のお前」
「そう? 貴方もね……」

 柔らかいキャラメルが、葉月の身体の中でとろとろととろけていくような、そんなじっくりとした甘い睦み合いを望んだ。
 心の痣なんて、出来ていやしない。本当はあるけれど、痛いだなんて、感じようとは思わない。
 今はただ、貴方の中に深く深く潜り込んで。貴方の中なら、どんな深海でも潜って、貴方を探り当てたい。
 そして隼人は、葉月がどんなに潜り込んできても、何処までも潜らせてくれる。受け入れてくれる……。
 葉月の夫の中への、じっくりと満足するまでのダイビングは夜更けまで続いた。

 でも……。本当は夫に気付かれていると、分かっていた。

 

 

 

Update/2007.6.28
TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.