-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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13.すみれ暴走特急便

 義兄と相談した時、『指輪を返したくなるほどに、ジンクスを本物にすればいい』と決めた。
 そして義兄がジュールを呼び寄せて、岩佐が仕組むだろう株仕手戦で勝ち、あちらに大損害を与える作戦を実行。黒猫チームは見事にそれをやりのけ、勝利を掴んだ。その後の岩佐は仕手戦を敗退し大損をした失敗が原因かどうかはしらないが、情報誌で見る限りでもかなりの経営不振に陥っていると知り、後は『彼が指輪を手放すまで待つばかり』と隼人は思っていた。

 しかし、どのようにして岩佐が『敗北宣言』に来るか……。隼人の予想としては、向こうから会いたいとか、または篠原や蘭子のつてを使って、御園に連絡をしてくると思っていた。
 なのに……。思ってもいない状況が目の前にある。

 岩佐の『会いたい』というアポイントメントもなく『指輪を返したい』などという打診もなにもなく、御園の前に突き出されている形だ。

 隼人も知らない間に、どのようにして彼が軍内まで足を運んできたか、その過程を思う……。
 そう思うと、隼人はどうしてもリッキーへと目がいってしまった。

(相当、怒っているのだろうな)

 妻の葉月に気苦労をさせたくないから黙って『華夜の会、オークション』に参加した。
 なのに、御園婿義兄弟の作戦を逆手に取るかのようにして、リッキーは本元令嬢の葉月を表舞台に引っ張り出してきた。
 それだけじゃない。今回もこの様にして、一番の被害者であった『御園姉妹』を、自分のメリットの為に利用した男に有無も言わせないような形で、生き残った妹がいる職場まで引っ張り出してきた……。
 隼人の脳裏に、あらゆる戦いに敗れ傷つき倒れそうになっている獣を、倒れることも許さず、首根っこに縄をかけて葉月の元までぐいぐいと強引に引っ張ってくるリッキーの姿が目に浮かび、ゾッとした。
 彼のいつにない凍っている横顔がそれを語っていた。

 とりあえず隼人は、不安そうな小夜の肩を叩いて『大丈夫だ』を示し、彼女に下がっているように指示する。
 そして、小さなソファーにまるで親子のように肩を並べて座っている岩佐と篠原の向かいに座った。

「お久しぶりですね。その節は有難うございました。このような離島までわざわざ……。本日はどうされましたか?」

 挨拶をすると、篠原は先日うち解けてくれた笑顔を見せ、隼人にもきちんと会釈をしてくれたのだが、岩佐は疲れ切った顔で俯いたままだった。
 その顔を正面にし、情報誌である程度の状況を知っている隼人でも、『それほどに追い詰められたのか』と絶句した。
 本当に戦い敗れ、今にも倒れそうな獣──だった。
 隼人は思わず、どれほどのことがあったのかと、篠原に答を求めるかのような眼差しを向けたのだが、彼は無言で首を振っただけだ。

「……岩佐社長、どうされましたか?」

 隼人はそっと声をかけると、俯いている彼がぎろっと隼人を下から睨んできた。それにはややドキリとさせられる。彼の眼はまだ死んでいなかった。どんなことをしてでもトップに立ってやろうという野心が、先日同様にそこにある。……ただ、彼の風貌は既に疲れ果てた敗者だ。そして彼は隼人に告げた。

「もう社長ではないので、岩佐で結構」

 その一言に、流石の隼人も『え』と固まった。
 そしてそれは岩佐を凝視することで答を探したかったが、彼の哀れな姿を直視することが出来ず、やはり篠原の方に説明を求める視線を向けてしまう。
 だが篠原は黙っているだけだった。

 そして岩佐は引きつった笑みを浮かべながら、隼人に言った。

「会社、乗っ取られましてね。幹部も皆、ごっそりと……。今、僕は孤独なのですよ」

 孤独……つまり『孤立無援』ということかと思い、隼人はなんと言って良いか分からずに、固まっていた。目線の置き場にも困った。
 やがて、岩佐は側に置いていたアタッシュケース開け、そこからビロードの箱を出して隼人の前に差し出した。
 彼の手で、ゆっくりとそのケースが開けられ、そこから煌々と深紅に輝くあの指輪が顔を出した。

「お返しに来ました」

 隼人はこの瞬間を待っていたのだが、本当にその瞬間が来たことに暫く固まっていた。
 目の前に、手放した当家の物が本当に帰ってきた。
 それを目にした瞬間、隼人は黒猫兄貴達があらゆる手を尽くしたことを分かっていながらも、本当にこの指輪が一人歩いて、当家にこの男を引っ張って連れてきたように思える感覚に陥った。
 本当にこの指輪には魔力があるように思える。きっと隼人が今こうして感じたことを、先人達も感じ取り、それで『言い伝え』が出来たのではないかと思えた。
 しかし、やはり……それは魔力であるかもしれないが、人間の複雑な心理と関係性が生んだ物に過ぎない。
 それでも隼人は、その指輪を見つめながら、岩佐に問うてみる。

「不幸が起きたから返しに来たと?」
「言ったでしょう。指輪の伝説など、僕は信じちゃいない。今だって信じてはいないですよ」
「それならお返しして頂く理由はありませんが?」

 岩佐がそこでギリッと悔しそうに奥歯を噛んだような歪んだ口元をあからさまに見せた。
 しかしやがて、その指輪のケースを握りしめたまま、黙り込んでしまった。

「婿殿。彼は『不幸の指輪』を『不幸になったから返しに来た』のではないのだよ」

 やっと篠原の助け船が出る。
 彼が岩佐に伴ってきた訳はまだ明確ではないが、それでもやはりこの会長の力も借りなくては、岩佐もここまで来られなかったのだと隼人は思った。

「では、どういうことで? 今更、返したいと言われましても……。それでしたら、寄付金はどうなるのですか?」
「そこなのだがね。岩佐君があのオークションで出資した寄付金七億は、彼だけの出資じゃないのだよ」

 隼人は『ああ』と、あのサロンで岩佐の周りを囲んでいた若社長達の顔を思い浮かべた。
 純一から聞かされたが、あの宝石展をバックアップしていた『宝石商社長』もかなり乗り気でサロンに参加し、岩佐の競りに協力していたそうだ。彼等と合同出資をして、あの宝石展も合同で企画していたのではないかと思えた。

「それがね、その共にしていた仲間に『もう不幸の指輪には関わりたくない』と断られたりね、オークションで出資した資金も蘭子から返してもらうようにして欲しいとか揉めるようになったらしくてね。蘭子はもう既に寄付の手配をしてしまっていたからそれは無理だと。しかし彼女もこの状況を見かねて、岩佐君に七億の貸しという状態で返金、寄付金を払っていないも同様になったのだから指輪を元の持ち主に返すようにと、それを条件にしたのだよ」

 隼人は『なるほど』と、岩佐を突きだした過程には、蘭子も協力してくれていたことに密かに感謝をした。
 これで岩佐が、心ならずとも指輪を返しに来た理由は分かった。

 だが、まだ御園には敗北などしていないと言う悔しさを滲ませながら指輪を返しに来た岩佐を、隼人は見つめる。

「岩佐さん……。不幸の指輪のせいではないと仰いましたね。それならば、何故、指輪が我が家に戻ってくることになったか。そこは、どう思われているのですか?」

 するとまた、岩佐が隼人を睨みつけてくる。
 だが、隼人も動じることなく、それを真っ正面から受けて立った。

「……指輪のジンクスで不幸なんてあるわけがない」
「仰るとおり、現実的なお答ですよ」

 そう、あんたのスタンスそのままに、現実にあることだけを信じる。一番、確実なのはあんたにとっては『金』。睨んでくる岩佐に対し、隼人は静かに見つめかえす。その『金』に今度は見捨てられたのだと。では、頼っていた物に見捨てられてしまった理由となる『現実的なお答』を聞かせてもらおうじゃないかと。

 しかし岩佐が隼人に向けていったことは、それとはまったく異なること……。

「この前、御園さんの側に黒いスーツを着ていた護衛がいましたよね。実は、護衛じゃないと思っているのだけれど」

 表世界にはおおっぴらには顔を出さないことを信条にしている義兄。今までは表立った社交は右京がこなしてくれていた。その右京が戦いを終え、迎えた伴侶ジャンヌと共に穏やかに慎ましやかに暮らしたい願いから、煌びやかな資産家交流から引退した。だから今後は御園の表立ったお付き合いは『俺が……』、そう思って隼人は先日、やっと決意をして表社交界に顔を出した。
 しかし、そこであくまで御園の使用人の顔で立っていた義兄を見て、岩佐はその違和感を感じ取っていたようだ。やはり急成長を遂げさせた青年実業家の眼力か。義兄のあの雰囲気は護衛という仮の姿では物足りないものであるのは違いなく、その独特の雰囲気をしっかりと嗅ぎ取られていたようで驚いた。しかし、隼人はあくまで『使用人』として通した。

「その『彼』が何か?」

 しかしまたそこで岩佐に睨まれ……。
 いや、彼がその眼を光らせた途端に、がたりとソファーから立ち上がり、隼人につかみかかってきた!

「俺は、あの男にやられたに違いないんだ! そうだ、あんた達、俺に何をしたんだ!!」

 追い詰められた野獣に、胸ぐらをつかまれ、隼人は顔を歪めながらも負けずと岩佐の手を振りほどこうとしたのだが、その顔はかなり追い詰められたのか命懸けにも見えたほど……。

「やめないかね、岩佐君!」

 篠原も席を立って、岩佐の手を隼人から振りほどこうと割って入ってきてくれたが、ここは若い青年の力には敵わなかったのか、そこは老人らしく弾かれてしまっていた。
 しかし、隼人がぐうっと唸りながら応戦すること暫く。岩佐が軽々と元の位置へと宙に浮くようにして遠のいていったではないか? 隼人の首元がほっと緩まった時には岩佐も何事が起きたのかという茫然とした顔でソファーに元通りになっている。掴まれた首元をさすりながら、隼人は何が起きたのかと顔をあげると、そこには岩佐のスーツとシャツの襟首をひとつかみにして軽々と持ち上げているリッキーがいた。
 まるですっ飛んでいった子供が親に軽々と襟を持たれて手元に引き戻されたかのような情けない格好になっている岩佐。彼もそこにいる連隊長秘書官の男に軽々と力で負けたことに茫然としているようだ。
 それにしても、岩佐を立った姿勢から冷ややかに見下ろしているリッキーの顔は、本当に見たことがない顔。

「岩佐君、約束でしたよね。取り乱して暴れたりしない。それを条件に軍内へ入る許可をしたのですから慎んでもらいましょうか?」

 今日の彼の不思議な色合いの瞳は、青色寄りに冷たく燃えているようだ。隼人は岩佐の情けない姿よりも、リッキーのその笑顔のない張りつめた顔の方がヒヤッとし、釘付けになる。

 岩佐がそこでがっくりと肩を落とす。

「絶対にあんた達しかいないはずなんだ。いったいあんた達御園の会社はどことどこで、それで何社あるんだ!? あの若槻社長を影でバックアップしている『組織がある』と噂に聞いたことがある。あの黒いスーツの男はきっとその男に違いないんだ。そしてあの夜、俺の顔を見に来て、ワザと指輪を渡したに違いないんだ」

 おー、当たっているよ。と、隼人は見抜かれてややどっきり。
 しかし、見抜かれたとて、岩佐も分かっているだろう。今回は御園を怒らせたとして、その報復を被ったのは『身から出た錆』なのだと……。
 だが隼人は岩佐のその言葉に、益々怒りを覚える。つまり彼の『現実的な答』とは、『身から出た錆でした』という詫びではなく、『アンタ達が結束して俺を貶めた』だったからだ。

 ふと気が付けば、岩佐の後ろに立っているリッキーの形相が……。
 隼人はそれを見て、逆にそっちをなんとかせねばと苦笑いが浮かびそうになった。
 ここは婿として決めたことを早々に固めてしまおうと、岩佐に思うところを告げた。

「我が家の事業関係は、軍隊にいる私と妻は殆どノータッチです。若槻社長を始めとしてそれぞれの代表者に任せている次第でして、把握はしておりません」
「自分の家なのに、分かりもしないのか。まったく飾り物の婿と令嬢ってわけだな」

 岩佐のその言葉に、隼人はムッとしたのだが……。

「レイチェルが実兄から引き継いだ会社を元にして、彼女が託した青年達が事業展開した企業は、ヨーロッパを中心に日本も含めて数十社あると思うね。どの会社も会社の規模は小さい、だが分野も幅広く、その専門に長けている」

 大御所篠原の一言が滑り込んできた。それを初めて知ったのか、岩佐がとても驚いた顔をした。

「業界の知る者ぞ知る情報も、まだまだ知らない、見抜けない、情報ももらえない。君はそんな新参者。そういう中で、御園一族やレイチェルが子供のように可愛がっていた部下達全員に喧嘩をふっかけていたわけだよ。まあ、命知らずだなあと私は楽しませてもらっていたがね」

 途端に、サロンにいた時のようなひねくれた老人の顔になる篠原──。
 しかし隼人も『うちってそうだったんだ』と内心ではちょっと驚いていた。まさか、篠原ほどの男にそう思われるほどのものを義兄が筆頭にしてまとめているとは……。これでは岩佐に『飾り物婿!』と言われても仕方がないかも知れないと、思ったほど。
 だが、それは規模は大きくとも小さくとも義兄の範囲。そして隼人には隼人の範囲がある。今がそれなのかもしれない。

「岩佐さんのお気持ちとお考えはよく分かりました。つまりは、このような事態になったのは『我が家の傘下のせい』ということですね。この指輪は受け取れません」

 隼人はその指輪のケースを岩佐の手元に突き返す。
 岩佐が分かっていたのか悔しそうに唇を噛みしめている。
 指輪を返却せねば、東條蘭子からの寄付金の返金が受けられないのだ。
 しかし……もし岩佐が『申し訳なかった』と詫びたとしても、隼人はここで指輪も詫びも受け取るつもりはなかった。

 さあ、婿殿。最後の仕上げだ。
 隼人はリッキーを見た。彼はもういつもの顔で隼人を見つめ、隼人の婿としての考えを分かっているかのような顔で頷いている。──『そうだ、御園君。そうしてくれ』──と聞こえてきそうな顔。
 リッキーが隼人の前に岩佐を突きだしてきたのは、岩佐にとって最後の砦ではないことを彼に示す為。岩佐は、隼人の所で指輪を収めてくれたら、それ以上のことをしなくて良くなるから『肝心なところを免れた』と、ほっとするに違いない。ただ彼に『あることをするのは俺の間違いを認めることになり、俺は間違っていた』という分別が出来る程の『良心』があるかどうかは疑問だが……? 隼人はその『あること』を岩佐に差し向けることにする。それが御園の婿として最後の仕上げだ。

「私のところでは、もうお話しすることは何もありません。いえ、貴方とはもうお話はしたくありません。もし、どうしてもと仰るならば──『妻』の葉月の所に行ってくださいませんか?」

 隼人は淡々と岩佐に告げた。
 彼がはっとした顔になる。
 そして苦々しい顔で、今度は本当に何かに敗北したかのようにうなだれた。
 隣の篠原は、隼人の言葉に頷いていた。そしてリッキーも、やっと満足そうないつもの笑みを浮かべている。

 本来、本人の目の前で詫びねばならぬ所を、そこを逃れる為に御園の婿隼人のところでなんとか事を収められたなら『頭を下げなくて済む』と岩佐は思っていることだろう。そんな彼に自身が利用した『御園』の前に自ら出向く気持ちにさせる為に、隼人のところで徹底的に逃げ道を遮断する。それがリッキーの狙いであろうし、隼人も妻の前に行ってもらうべきだと思ったから、ここで岩佐を突き放す。
 婿の隼人に詫びてもらっても、本当に生傷をえぐられた痛みを味わったのは御園の両親と御園姉妹。彼等の前で詫びてもらわねば、御園と寄り添って生きている者達は納得しない。そんなリッキーの気持ちは隼人にも共鳴する。

「岩佐さん。妻を二度殺そうと散々彼女を傷つけ、義姉を弄んで殺害した『犯人』ですら、最後には妻にも亡き義姉にも土下座して泣いて詫びましたよ。貴方、それ以下ですか。それならそれでかまいません。ですが、私はこれで失礼させて頂きますからね。後は貴方次第です」

 隼人はそのまま席を立った。
 岩佐の茫然としている顔を目の端に止めて……。
 きっと今の彼の中に、『今度は大佐室に引きずられて突き出される』という……彼にとってはある意味『屈辱的なシーン』が頭に浮かんできたのだろう。
 それでも隼人はあっさりと彼を捨て、席を立つ。

「それではホプキンス中佐。私もまだ講義が残っているので、お願いできますか」
「了解したよ。御園君」

 リッキーはもう、勝利を得た顔でいつもの余裕あるにこにこ顔に戻っている。
 彼にとって、きっとやっと納得出来る瞬間がやってきたのだろう。
 クイーンを侮辱した男を、まるで市中引き回しのようにして、妹の下に送り届けその瞬間を見届けることだろう。

 そして、それを頭に描いた時、隼人の中に午前中会ったロイとの別れ際の言葉を思い出す。

『悪いな、隼人。リッキーの我が儘に付き合ってくれないか。あいつの中でずっと宙ぶらりんなんだ。あいつもあいつ自身の手で『幽霊を仕留めたい』とその時を待っていたと思うよ。今だって瀬川が服役したって、その心に残った憎しみは消えない。そんなところ本当に御園の者と良くシンクロしていると思う』

 トップの秘書官になっても、彼がその能力を発揮したかった女王はいない。
 彼の中でもずうっと終わらない。そして、終わっていない。
 その終わらない想いを、いつもは静かに水面下に沈めているのに、彼も今回の件で理不尽に水面を荒らされた……。
 だから今回のリッキーは自分らしくなくとも、我が事のように怒りを覚え、奔走していたのだろう。
 最後にロイはこう言った。

『あれが自分のことは自分でよく分かっている。何処かで終わらせなくてはと。今回のことがきっかけになるかどうかは分からないが、皐月の為に何かしたいんだよ。もしかしたら良いきっかけになって、あいつも前に進めるかもしれないから……』

 だから、ロイは黙って見ていた、やりたいようにやらせていたと言う。
 隼人も日頃はなんでもパーフェクトに余裕の顔で仕事をこなしているリッキーの、そんならしからぬ弱い部分に触れて、その想いの深さを思い知る。
 もし……。隼人が、葉月を失っていたら。きっと同じような彷徨いをしていたと思えるから。だから彼の中にある今でも捨てることのできない女王への情熱は、隼人も大事に見守りたいと思う。
 今回も、彼がそこまでして葉月の目の前に岩佐を跪かせたいと詫びのレールを必死に引いて引っ張り込んで来たことは、隼人もそうしてリッキーの思うままにさせたい。だから後は彼にお任せだ。

「吉田、次の講義の資料、もらえるかな」
「は、はい……!」

 小夜もあらかたの事情は知っているだろうが、この職場で『御園の件』が目の前で繰り広げられたことに、後方で固唾を呑んで見守ってくれていたようだ。
 彼女はやや落ち着きのない手で、隼人の席から講義の資料を抜き取って、それでも落ち着いて手渡してくれた。

「では、行ってくるので後を頼んだぞ」
「いってらっしゃいませ、中佐」

 補佐の彼女に丁寧に見送られ、隼人はもう、岩佐には振り返らない。
 彼のことを、切り捨てたそのままの姿で科長室を出た。

 ウサギ奥さんがどうするか、隼人には分からない。
 でも信じていた。きっと葉月という妻らしい答を出してくれると……。
 覗きに行きたいのは山々だが、きっとこの講義が終わる頃には、期待通りの報告があることだろうと、隼人は役目を終えた気持ちで微笑んでいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 『あれから』、義兄の姿を見ていない。
 そして連絡もない。

 昼下がり。いつもの大佐席で、葉月はただ書面に向かっていた。
 静かな室内だが、両隣では側近のテッドと副隊長の達也も黙々と事務作業をこなしている。
 キーボードやマウスを指先で打つ音。書類をめくる音。今、大佐室の三人はそれぞれの事務作業に没頭……しているはずなのだが、大佐嬢の葉月はそうではなかった。

 いつも週に二回ほどは基地に顔を出しに来ていた純一が、ここ数日さっぱりだった。姿を見なくても『谷村社長が来ていましたね』という一報が何処からでも耳に入れることが出来るのに、それもさっぱりだった。
 もう、心の中は空っぽにしたので、今、あの人の姿を見ても『いつも通り』でいられると思う。
 ……ただし、表面上だけ。心の中、奥底ではまたあの渚に行きたくなるぐらいに、切ない想いがくすぶるだろうけど。でも、それももう『いつものこと』。それだけできっと収まるはず。あの日、義兄に抱きしめられた大きな波と突風は、あの渚で一人で解き放ったから、もう大丈夫。
 と、葉月側は思っているのだが、葉月よりずっとお兄さんの純一が、あれから姿を見せないということは、『あっちはまだ駄目なのかしら』とも思えた。

 そう思うと、また胸が締め付けられる。
 お兄ちゃまが、たった一人で、どうしているのかって。
 自分でも今の状態は、義兄にも夫にも甘えた都合の良い状態だって……。
 でも、純一があのマンションに来てから、『私達三人は楽しく暮らしていた』と思う! ……と断言したいが、自信がなくなってきた。
 いつか、どこかでバランスが崩れるかもしれないと覚悟はしていたし、それがついに来たのかと葉月は思っていた。

 丘のマンションに、純一がいる気配がしない。
 連絡をしようと思っても、まだそんな気になれないし、あちらからもない。

(……でも、週末の食事会の時は、誘ってみよう)

 恒例の食事会。毎週土曜日の、二家族のお楽しみ。
 それを理由にすれば、まだ躊躇っている葉月自身も、気軽に連絡することが出来ると思うのだ。
 でも、今はいないかもしれない。横須賀のマンションにとりあえず籠もっているとか、酷ければ、暫くは日本を不在にして、何処か海外へと出かけてしまったかもしれない。以前はそういう『雲の人』。実体がなくて、形がなくて、目に見えているけれど遠くて、さあっと消えたり現れたり、そして風に乗って遠くに直ぐに去っていってしまう。また、そんな人になっていやしないかと、やはり長年彼を愛してきたことが当たり前になっている義妹としては、訳もなく不安になってしまうのだ。

 こうしている間にも、義兄がどこか遠くへと消えてしまわないかと気が気じゃなかった。
 物心つく前、いや、自分が生まれた時から側にいたお隣のお兄さん。あまりにも共に寄り添ってきた時間が長すぎて。十歳の時の幽霊事件後、その環境が破壊され離ればなれになっても、少なくとも葉月の心にはいつだって鎌倉で過ごしてきたままに、純一は存在していた。彼がいなければ寂しく、彼が傍にいれば至福を感じてきた。もう、ずうっとだ。
 でも家族とも兄妹とも、そしてある時までは約束のない恋人として、そんなふうに長年愛しあってきたからこそ、その愛を成就することの出来なかった二人が寄りそう今の生活は無理があり、ここに来て、大きな反動が生まれ出たような気もしていた。
 だからもう……。純一がそれでどうしようもなくなって、また遠くに行くというなら、本当にもう、今度こそ葉月は止められない。

 義兄様、今、どこにいるの?
 ねえ、義兄様。やっぱり、私達は駄目なのかしら。
 義兄様と私は、ただ義兄妹でいればいいのだわ。
 そう、世界の何処に貴方がいても、義兄妹には変わりはない。そんな関係性だけで、私達には充分であるはずなのよね?
 本当はそうであるべきなのよね? それで満足しなくてはいけないのよね?

 義兄に、こうしたことを問うことはない。
 だけれど、葉月は一人で問う。まるで自分自身にも問うように。

 そして最後の、素直な答も決まっていた。
 ──やっぱり、そんなの嫌。お兄ちゃまと昔のまま、一緒に暮らしたい!

 それだけで、いいから……。

 でも、それはきっと葉月の独りよがりなのだ。
 自分だって、あんなに熱く湧き上がった想いを空っぽにするのに、痣が出来るぐらいに心が暴れたのだから、義兄の純一だってきっと……。
 そんな想いを幾たびも味わうことになるかもしれない日々を、葉月の為に何年も何年も送ってくれるのだろうか?
 今はまだ、共に暮らし始めて僅か。今ならそれも解消できるかも知れないし、やはり無理があってここが潮時なのかもしれない……。

 それだけで、いいからなんて……。

 無理なのかも知れない。

 ぐっと沈み込む心が、大佐席の大きな革椅子から身体をずずずっと床に引きずり降ろしそうなほど重く感じ、葉月はただペンを握りしめたまま、俯いていたようだ。

「おい、気持ちは分かるけれど。そろそろ『ここ』では、いい加減にしておけよ」

 そんな声がして、葉月ははっと顔をあげる。
 声の主は達也で、彼が中佐席から呆れた眼差しを向けていた。しかし、その声色は彼が本気で部下を叱責する時のような真剣みを帯びていたので、流石の葉月もひやっと固まる。

「えっと……。は、はい……ごめんなさい」

 葉月は『しまった』と思いながら、誤魔化すかのように栗毛をかき上げて姿勢を正す。
 なにも言い返せなかった。
 達也には、純一の心と絡み合ってしまったその日を良く知られてしまっていて、彼はその後も、葉月の心情を良く汲んでくれ黙って見守ってくれていた。
 その黙って見守ってくれていた仕事でのパートナーが、口にして注意したくなるほどに至ったのだから、葉月の姿に様子は目に余るようになったということか……。

 葉月は、一息ついて、またペンを握り直す。
 気を取り直した瞬間、側近席のテッドが席を立った。

「少し早いですが、お茶でも入れますね。海野中佐も如何ですか」
「お、いいね。俺も気分転換必要。したい、したい」

 デスクが向かい合うようになった二人は、今は息の合い方も意志疎通もばっちりの大佐室右腕コンビになっている。
 大佐嬢の有様に、怒り爆発数秒前だった達也が、いつもの調子に戻ったので、葉月はほっと胸をなで下ろす。そこで彼の静かでも重厚な注意を重く受け止めて、頭の中に発生していた熱いもやを振り払おうとした。
 しかし、いつもの調子に戻って『きっついお叱り』を収めてくれた分、達也の調子の良い口調がいつも以上に炸裂した。

「ああ、なんだか俺達の大佐室、この前から熱いよなあ。大佐ちゃんの『もの思い』、なーんかめっちゃむんむんしているのよね。ここらへんの空気、ちょっとピンク色っぽいし、しかもちょっと重いのよね〜」

 またまたいつもの『大佐嬢ちゃん口調』で、今の葉月の有様をそうしてきっつい表現で突きつけてきた。
 勿論、葉月は『ピンク色の重いもの思い』をしていたのは確かなので、ぐうの音も出ず、言われるまま黙ってしまうだけ……。

 つまり、それだけ。まるで恋煩いをしているかのような熱い顔で悶々と彷徨っていたと言うことになるのだろう。
 しかも良く知り抜いてくれている補佐官二人と言えども、彼等の目に余るほどにありありと、今回の『湧き起こった熱い嵐』に翻弄している姿を葉月は見せてしまっていたようだ。

「あの、いい加減にします」
「よろしい。聞いた話だと、『あっち』もどうやら大変のようだぜ? なあ、テッド」

 テッドが『そのようですね』と、静かに微笑みながらキッチンへと向かっていく。
 『あっち』が、工学科にいる主人のことだと分かって、葉月は益々頬を染めた。
 テッドに同意を求めたところも、その情報が彼の恋人である小夜経由で伝わってきたことだとも判った。

「なんだよ。お前の嵐に、兄さんは簡単に捕まっちゃったんだ、相変わらずだな」

 そうそう、達也の言うとおり。あの晩、葉月は隼人も巻き込んでしまったみたいで、あれから夫の隼人も様子がおかしい。
 おかしいって……。もう落ち着いた夫妻になったかと思っていたのに、まるで新婚の時のような、そんな熱さが毎晩継続され……。そして、葉月もそんな隼人に応えて、身体の全てを預けて与えて、堪能していた。身体の隅々、栗色の毛先、指先、つま先まで、全てを隼人に染めて……。その熱い愛の営みも、葉月の頭の中に熱いもやを生む。
 それをも見事に見抜いている達也の白けた顔にも、葉月は頬を熱くする。
 工学科で働いている夫も、葉月と同じように、熱いもやの中を彷徨ってしまっているって……。と、言うことは、彼らしくない落ち着きない仕事ぶりになっているのかと心配してしまった。

「純兄さんも然り。ここ最近、姿が見えないって事は、あの時にやっぱりやられちゃった訳だ」
「……し、しらない。お兄ちゃまのことなんか」

 そう、あんなお兄ちゃまなんか、また直ぐ何処かに姿をくらましてしまうのよと、葉月はふてくされる。

「嘘だあ。お兄ちゃま、もう、どこかに行っちゃうかも……なんて、死にそうな顔をしているくせに」

 そこまで言い当てられて、葉月は驚いて達也を見つめてしまった。
 この同期生。本当に葉月のことも、共に寄り添って暮らしている男性二人のことも知り抜いていると──。
 そして、その驚いて固まった表情は達也が言い当てたことを、あっさりと認めてしまったことに。
 おまけに、キッチンでお茶を入れ始めたテッドも、ふと笑っている横顔。
 二人はなにもかもお見通しで、それで数日間、黙って見守ってくれていたことを葉月は知る。

 もう、隠そうとは思わなかった。
 それだけ、見守ってくれている二人だから見抜けることなのだと降参する。

「そうだけれど……。いいの、もう」

 葉月は今度こそ、すうっと熱くなっていたもやが引いていくのを感じた。昔からよく使っている自分の何もかもを心の奥へと押し込めて感情を冷ましていく術を呼び戻し、大佐嬢の顔に戻す。

「諦めるなよ」
「達也──」

 達也はそれだけ言うと、仕事の顔に戻ってデスクのキーボードを叩き始めた。
 ──諦めるなよ。それだけ。彼なりに色々と言いたいことがありそうだけれど、それでも彼は、今ある葉月と二人の男性の間柄を尊重してくれている。だから、『諦めるな』。なによりも、葉月に後悔するぐらいなら、ぶつかってしまえと彼なら言いそうだ。

「有難う、達也」

 やっと落ち着いた気持ちで彼にそう言ったが、達也は知らぬ顔で仕事を続けているだけだった。

 やがて、テッドも心配して見守ってくれていただろうに、静かにいつもの紅茶を差し出してくれただけ。でも、その紅茶には、久しぶりに可愛いピンクリボンの飾り砂糖が浮かんでいた。だから、葉月もそっと微笑む。

 とりあえず……もう少ししたら、葉月から連絡は取ろうと思っている。
 きっと、その時には純兄様も──。

 心がほっと柔らかにほぐれてきたところ、海野中佐席の内線が鳴った。
 達也は仕事をしながら、受話器を取り耳に当てる。

「うん。どうした? う……ん??」

 外事務室の後輩の誰かからの連絡だったようだが。
 達也がやや驚いた後、中佐席からちらりと葉月を見たので、何事かと気になった。

「分かった。いいから、そのままこっちに案内してくれ」

 達也の何かを察した顔。そして、その顔がとても冷たく固まった。
 彼が中佐として何かに立ち向かう時の顔。
 何故か葉月に緊張が走る。それほどの横顔を見せ、達也は席を立った。

「大佐、お客様だそうです」
「お客様?」
「入り口で出迎えた柏木がどうしようかと躊躇っていましたが、お通ししますからね」

 達也が案内を許可した客って誰? と、葉月も席を立った。
 そして大佐室の自動ドアが開いて、そこに姿を現したのは、リッキーだった。
 またこのお兄さんは何を企んで来たのかと葉月は眉をひそめたのだが、なんとそのお兄さんの後ろには、あの岩佐と篠原がついていて、彼等が揃って大佐室に入ってきたのだ。

 当然、またもや、なにがあったのかと葉月は一瞬、目を見張った。
 仕事中のこの部屋に、葉月のテリトリーに、この軍隊には無関係のはずの社長二人がまたもや姿を現したのだから。
 だけれど、そこにリッキーがいることで、葉月は直ぐに理解した。

 そして、その瞬間がやってきたのだと分かった──!

 また、姉の信奉者であったリッキーお兄さんが、やってくれたのだと……!
 葉月に『華夜の会』で何が起こっているか教えてくれ、なおかつ、夫と義兄が自分に内緒で戦いに出かけようとしていることも教えてくれた。
 『レイ、やはり御園の血を引く者が行くべきだよ』──リッキーの思惑とは葉月の思うところは少しばかりずれているけれど、でも最後の決断『御園の娘だからこそ』という意見は一致したから、リッキーの作戦に乗った。
 あの華夜の会の後、リッキーはとても満足そうであって、……とても、寂しそうだったのを葉月は見てしまっていた。
 いつも余裕でなんでも冷静にこなせて、それでいて穏和でやさしいお兄さんの彼。だけれど、その穏やかな顔の奥底にある考えはいつも深く、読めず、恐ろしい部分を隠し持っていることを知っていた。そんなお兄さんが、ちょっと歳を取ったかと思わせるぐらいに、寂しそうな顔をしたその向こうに、葉月は『姉』を映し見ることが出来たのだ。
 幼い頃の記憶でも、兄達と姉が集まると、姉が気兼ねない顔で兄妹のようにいつも一緒に笑っていたのは、このリッキー兄様だった。
 そう。今の葉月なら分かる。あの関係は、葉月と達也にそっくりだったのではないかと思う。恋があったかどうかは葉月には分からない。でも、リッキーにとっての『一番の親友』は姉だったと思うから、彼が今回のこと、単独で必死になってしまった気持ちはとてもよく分かった。

 そして今日も。いつも冷静に筋道を立てて、そつなく事を処理するやり手のお兄さんが……。ついに両親に痛い思いをさせ、姉の屈辱の瞬間を指輪を手に入れる為、御園から引き出す為に利用した無情な男を、この大佐室、葉月のホームに縄をつけて引っ張り込んできてしまったのだ。

「大佐嬢、お二方が是非、お会いしたいと──」

 リッキーがついに葉月の前に、いや、妹の向こうに透けて見えるだろう姉に跪かせようと、岩佐を突き出す。

「なにか……? このようなところまでわざわざ」

 葉月の問いに、リッキーは勝ち誇ったように微笑む。

「ええ、指輪のことで」

 勿論、大佐室に岩佐がいるということは違和感だが、岩佐が葉月に会いに来るとなればそれしかない。
 そしてリッキーは、彼が葉月に跪くように誘導成功し、その瞬間を待ち構えているという顔だった。

 葉月が思っていた予想とは異なる状況がここにある。
 宝石展に出席しようと思っていた葉月には、この状況はあまりにも『早すぎる』出来事だ。
 だが、それでも……。時期が早かろうが遅かろうが、岩佐と会うのが宝石展であろうが、この大佐室であろうが、葉月が岩佐という無情な男に伝えたいことは変わることはないのだから、何時だろうと何処だろうと同じ事。

 葉月は拳を握って、大佐席からそのまま、リッキーの後ろにとても疲れた様子でただ立っている岩佐を見た。
 隣には変わらずに白いスーツを着込んできている篠原もいるが、彼はただ傍観しているだけのようで、口を挟むことなく黙っている。
 その篠原が黙っていることを確認した葉月は、ついに岩佐と一対一になる時が来たと思った。

 だが、葉月の思惑は、リッキーとは多少ずれる。
 それを口にした。

「お帰り下さい」

 葉月のその一言に、大佐室に案内された男達は固まっていた。
 それは勿論、リッキーも……。

「大佐嬢、彼の話を……」
「お引き取り下さい」

 すみれ色の瞳を持つお兄さんが苦心してここまでやってきただろうことも分かっていて、葉月は頑とはね除ける。

 リッキーの表情が、驚きの顔のまま固まった──。
 なんでも上手にこなしている先輩で、他のお兄さん達とはちょっと違う思考を持っていて、いつまでも敵うことのないやり手のお兄さん。なのに彼は冷めて尖った様子など決して見せることなく、葉月のお転婆や台風にもいつだって柔軟に受け止めて、フォローしてくれた。本当に秘書官らしく、その人が何も言わなくてもその気持ちを察することに長けていると思う。
 そして今回も、葉月が岩佐と向き合うことを決意しているのを、このお兄さんは知っていたのだと思う……。
 でも、やっぱり違う。岩佐と会うことは合っていた。でも、ここから一歩先が違う。
 彼のすみれ色の瞳が『レイ、どうして解ってくれないんだ?』とでも言いたそうな、哀しそうな色合いを見せている気がした。

 

 

 

Update/2007.7.10
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