-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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18.君の後ろに、僕がいる。

 いつも軍服の妻が、今日はどこか厳かな黒いスーツ姿。
 今回は、彼女もそれだけ気持ちを引き締めたい思いでやってきたのだと夫の隼人は思う。
 だから、自分も同じように控えめなコーディネイトを選んだ。それにもう、真っ白いスーツなどごめんだ。

 それでも、テーラードの襟からこぼれそうな白いブラウスのフリルの波が、妻の胸元を華やかに、且つ清楚に演出している。
 こうして傍から眺めていると、この歳になった妻のプライベートの装いに雰囲気は、やはり彼女の清楚な母親に似てきたようにも思えた。
 楚々とした横顔を崩さないのは、大佐室にいる時と変わらない。それでも軍服でない妻のそうしたフェミニンな佇まいは『御園家ご令嬢』にふさわしい雰囲気だと、夫になった隼人は今でも唸ってしまう。夫とはいえ、隣に連れ合いとして立っていることに少しばかり気後れする思い……。
 それもこれも。葉月がどんなに黒い控えめな装いをしても、『その雰囲気』が直ぐに周りの空気を変えてしまうからだ。ほら……そこのご婦人に、そこの紳士に、そこの……岩佐から付かず離れず視線を向けているカメラを持った男達などが、葉月を見ている。

「ふうん。やっぱり流石というのかな。参ったな」

 そしてその空気を嗅ぎ取っていたのは夫の隼人だけじゃない。
 岩佐も同じように感じたようだった。
 彼を見ていたはずの者達が、そこから彼が案内している夫人へと目線を変えてしまうからだ。

 岩佐が苦笑いを浮かべながら、隼人に小さい声で言った。

「実は。持ち主が現れるのではないかと、散々聞かれましてね。なんだかバレバレかも?」

 その話に隼人はドキリとし、つい……岩佐を追っているカメラマンらしき男達がいる方へと振り返ってしまった。
 彼等の視線がもう、妻へと貼り付いている雰囲気。しかも既にシャッターを押しているではないか。
 それを見て驚いた隼人は、妻が岩佐ときちんと話し終わるまで何も言葉を挟むまいと思っていたのに、ついに口を開けてしまう。

「困りますよ。私達夫妻は、ごくごく一般人ですよ」

 ……たぶん? と、隼人は心の中では少しばかり自信のない呟きをしつつも、一族が一般的ではなくても、それでも表では彼のように脚光を浴びるステージには立っていないことを主張する。
 岩佐も『重々承知ですよ』と言ってくれるのだが、なにせ、この男の今までの喋り方、言葉を発する時の調子の良さを思い返すと、どうも信用できない。
 これまでの彼なら、『相手がどうであろうと、プラスになる話題なら何でも利用する』というスタンスだったはず。それが証拠に、世間には顔すら出さなかった二対の指輪をメインとしたこの展示会が、彼が他人様の不幸につけこんだお陰で催されているではないか。
 今回だって、まだ彼がどのような心境でこの宝石展の開催に臨んだかが判らない。窮地に陥っているところ、妻の気持ち一つで開催に繋がった宝石展。彼がその意を汲んでくれたかどうかを確かめに来た今日。この男が『やはり、逆に上手く利用した』のか、『やっとこちらの気持ちを察してくれた』のかは見てみなくちゃ分からない。

 マスコミ陣が『どうして宝石展が開催できたのか』とか『あの社長自らの宝石紹介はどのようなものか』とか『不幸の指輪の持ち主は国内資産家という噂』とか記事にしていた。ここに来る前に雑誌で目にしたそれらの記事を思い浮かべた隼人には、この岩佐という男が一族を喰ったか喰わなかったかはまだまだ油断が出来ないのだ。
 そんな中、もし……『喰われていた』のなら。もし、岩佐の『指輪紹介』の中に、今までの彼のやり方で使われたような『一族の闇』を『美味しい話題』として扱われていたのなら……!
 妻の葉月は、いや妻だけじゃなく隼人が大事にしている御園の家族が、ここにいる客や、そこにいるマスコミ陣の好奇の渦の中へと巻き込まれ、散々に傷つけられる結果となってしまう!

 今、夫妻ではなく、妻の葉月がその渦の中へと直面してる。

 隼人は、先を歩いている妻の背を確かめる。
 もう目の前には、御園門外不出だった『秘宝』を目の前に、好奇の目を輝かせている閲覧客が輝いているケースを取り囲んでいる。
 そして彼等は、その傍に立てられている案内板らしきものにも目を凝らし立ち止まっている。
 それを目の前にしている妻が、彼等を遠巻きにして立ち止まっていた。
 このようにして後ろから見守っていると、その構図は、御園の様々な事情を覗き込む一般人の好奇の姿を、遠くから当事者である葉月が客観的に眺めているようにも見える。
 そして、そんな妻の肩が──『震えている』?
 隼人はハッとして、直ぐさま、葉月の背に寄った。

「大丈夫か」

 声をかけたが、妻の目線は真っ直ぐに『好奇の人山』に釘付けになっていた。
 おそらく。隼人が感じたような『構図』を妻も感じてしまったのだと思った。
 どんなに闇が遠のいても、薄らいでも──。妻がそれらと上手く付き合えるような、コントロールが出来るようになった『大人』になっても。頼れる夫を得ても、しっかりせねばらなぬ母親になっても。『消えないものは、消えない』のだ。
 強くなれ? 早く忘れろ? もう終わったじゃないか? そんなこと言える者がいるなら、隼人は後先考えずにぶっ飛ばす。……それぐらいの『恐怖と闇』を死ぬまで持つ運命を妻は背負ってしまっているのだ。それは誰にも消せないし、葉月本人も二度と消すことは出来ない運命。
 彼女は再度、その運命に立ち向かう瞬間を迎えようとしているのだ。
 被害者としてどんなに人目を避けて生きていこうとも、やはり時にはこうして人目を避けられなくなってしまう事態もある。それが今回、瀬川逮捕後、初めて直面したことになる。
 妻が出した答は、『それをこの目で見て確かめる』、『そして結局、人はどうなのか』。だから、妻は此処にいる。
 そしてそれは目の前。……そして妻は、やはり震えている。

 隼人は唇を噛みしめながら、ここ最近、あまり見ることもなくなった『怯える妻』の肩をそっと両手で包んだ。

「無理するな。ここまででも、充分だ」

 小さく妻の耳元に囁いた。

『岩佐社長、あちらはどのようなお客様なのですか』

 隼人の背にそんなカメラマンの声。
 ついに彼等は我慢が出来ず、岩佐を直撃する行動に出たようだ。

 輝くケースをいつまでも眺めている人々の好奇の目。
 近づいてくるマスコミの直撃。
 そして。どのような答を出したかも判らない岩佐の答は?

 二人、夫妻の周りにはそんなものが濛々と入り交じり取り囲もうとしていた。

「あ、貴方……」

 葉月の汗ばんだ手が、彼女の肩を包んでいる隼人の手に触れた。
 やはり、震えていた。
 ここが人目のないところなら、この妻を抱きしめて、直ぐさまここから連れ去りたい。
 もう、いい。充分だ。岩佐がどんな答を出していようが、やっぱりこんな『好奇の目』を確かめに来るのではなかった。人は、理解充分の性格が出来ている人もいれば、岩佐のように自分の為なら他がどうなろうと関係ないという自分が先立つだけの無情な人間も、どちらも当たり前のようにいるんだよ。どちらの人間も同じようにいて、どちらがいなくなることもない。……だから、どんな答が待っていても、今までの俺達にもこれからの俺達にも、大した変化など与えてなんかくれないよ。いい人に出会えば良かったことになるし、岩佐のような男に出会ってしまったのも、これも良かったことと同じくらいに起きる『悪かったことのひとつ』に過ぎないんだ。心に痛みを覚え、それを克服するが為になにもここまで自分を酷使することない。お前の側には俺がいる。義兄さんもいる。同じように苦しんだ家族がいる。皆がお前が苦しむ顔を見たくはないと、そんなに自分を苛めることないよと、ここから引き返したって、『お前は弱い』だなんて言わない。そして家族の皆が笑顔で迎えてくれる。だから、帰ろう! ──隼人はもう少しで、妻にそれを訴え、抱きしめることは出来なくても、その震える手を引っ張って外へと連れ出したい衝動に駆られた。
 でも、そこで『もう一度、立ち止まってみる』。
 隼人はそこに至って、再度、妻の横顔を見つめた。

「葉月。どうする?」

 まだ動けない妻に、隼人は念を押すように問う。
 隼人の中の衝動は隼人個人の意見であるに過ぎない。妻にとってそれが本当に良いことだと思っても、隼人はそれでも『妻』に問う。
 もし、どんなに苦しくても。それが妻が選んだ道となるなら、隼人はやっぱり彼女の背を押してやりたいと思う。

 やがて、妻がそっと隼人を見上げた。
 隼人の手に触れていた葉月の手も、いつの間にか震えが止まっている。

「大丈夫よ。見に行くわ」

 そして妻の顔も毅然と、そして瞳は凛と輝いていた。
 ついに、葉月が一歩を踏み出す──。
 彼女が選んだ道だった。どんなにそれが痛くて苦しいことでも。回れ右をして帰ることが出来ても。それでも妻は、自分の運命の痛さからは逃げないのだと──。
 夫である隼人は、それを見送る。そして妻のその背に、隼人は心の中で呼びかけた。
 やはり痛くて立ち上がれないほど傷ついて帰ってきても、俺はここにいる。その時はどんなに泣いても、立てなくても、いい。お前が立ちたくなるまで側にいるから。……だから、行きたいと決めたなら行ってこい!
 歩き出した妻が、自分が決めたことだからと向かっていく背中を見守る。

 さあ、お前が岩佐の中に望んだ『人』は、一欠片でもあったか?
 その答が出ようとしている……!

『困りますよ。僕のお客様なのですから、失礼のないようにしてくださいよ。あまり強引なことされたなら、筋を通してもらいますからね!』
『だったら、どうしてわざわざ、例の指輪まで直行の案内をされているのですかー。教えてくださいよー』
『メインだからに決まっているでしょう。他のもじっくりと見てもらう予定ですよ』

 隼人の背からはそんな声。
 あの岩佐が、直撃してきたマスコミを葉月に近づけまいと必死に阻止してくれている姿。

 今度聞こえてくるのは、指輪のケースを取り囲んでいた女性一行の会話。

『まあ、あの社長さんも良いことを言うわね』
『本当にそう思っているのかしら?』
『でも、良いことだと私は思うわ。彼、きっと今まで誤解されていたのよ』

 そして、同じくケースを見入っている老夫妻の楽しそうな会話。

『綺麗な物ほど、人の欲望を掻き立てるものなのだね。きっと』
『罪な指輪ってことですわね。でも、本当に綺麗。古い物みたいだけれど、きっとこの輝きだけは変わらなかったのね。だからなんだわ』

 ……どこか、ふと何かが緩まったような気にさせられた隼人。
 よく見れば、当家の指輪に見入っている人々の顔は穏やかだった。

 そんな周りを取り囲む雰囲気に声に気を取られている内に、葉月はいつの間にか隼人の手から離れ、その老夫妻の隣まで進んでいってしまった。
 そして、隼人は……ハラハラしながらも、今度は自分が遠巻きにして、妻が自ら進んでいくその姿を見守る。

 肝心の岩佐は、マスコミを避けるのに必死で、ついに彼等を追い払う為に離れていってしまった。
 もしかして……。これは彼の、初めての気遣い?
 だとしたら、今、この薄暗い照明の中、ぼんやりと浮かび上がる美しいケースを囲んでいる人々も……?

 ついに葉月は、そこだけ煌々と浮かび上がっているガラスケースの前へと辿り着いている。
 他の好奇の目の中、その人々の合間へと恐れることなく、彼女も割って入っていった。

 妻の顔が、自分の手から『世間』という旅に出ていった『家族』を確かめる横顔。
 ほのかな照明が、妻の頬を真っ白に照らす。葉月の白い頬が誰の顔よりも浮かび上がったように隼人には見えた。

「まあ、綺麗……」

 ……葉月が笑った。

 するとどうしてか、側にいた老夫妻が、不思議そうに葉月の顔を見入っていた。
 そして二人がまた怪訝そうに顔を見合わせ、また揃って、葉月の顔を見ていたのだ。

「本当に綺麗だよね」
「ねえ。お嬢さんのようなお若い素敵な女性になら、きっと合うでしょうに。不幸だなんて云われを背負ってしまって可哀想な指輪だこと……」

 気さくな老夫妻のようで、彼等に笑顔で話しかけられ、妻はちょっと戸惑った顔。
 いけない。外ではまだ子供のように時々『人見知り』をしてしまう奥さんだって事、忘れていた……と、隼人も意を決して妻の側へと向かったのだが。

「いいえ、私のような者はまだまだ。きっと指輪が人を選びます。祖母がそう言っていました」

 葉月の側に来た隼人は、そんな妻の笑顔の言葉を聞いて驚いた。
 そんなことを言ったら、『噂の持ち主』だって判ってしまうじゃないか!? と──。
 当然、葉月のその一言で、老夫妻は驚いた顔。そしてそこに共にいた婦人の一行も、ぎょっとした顔を連れと見合わせている。
 『旦那さん?』とでも言いたそうな人々の目も、隼人に向かってきた。

 だが……やがて。そこにいた老夫妻の夫の方が笑い出す。

「お祖母さん、良いこと言うね」
「本当。岩佐さんの先生なのかしら?」

 老夫妻のその言葉に、今度は葉月と隼人が顔を見合わせた……。
 若夫妻の不思議そうな顔に、老夫人がにっこりと、ケースの横に立っている案内板を指さしたのだ。
 それを葉月と共に眺め……一時して、今度は若夫妻が顔を見合わせる。

「隼人さん、これ」
「ああ……!」

 そこには『不幸の指輪は、本当に不幸を呼ぶものなのか』という一文から始まっている。
 そして、最後には『この指輪自ら望むままの場所へと行くだろう。そしてそれを手に出来た後、彼女(指輪)に不幸にされたと言うか言わないかは、持ち主次第。やはりこの指輪は、当家のお方に守られてきたまま、これからもそこに在ることになるだろう』──老夫妻が教えてくれたように、『指輪が人を選ぶ』という内容に岩佐が触れていた。
 それはまさしく『御園祖母の家系』が引き継いできた言葉、そのものだった。
 ──つまり!? 全ての紹介を読み終えて、隼人と葉月はまたもや顔を見合わせる。
 『当家のお方に守られてきたまま、これからもそこに在る』、岩佐はこの指輪を持つにふさわしい一族は、やはり御園だったと言っているのだ。
 そして不幸になったと感じるのも、それを持った者の心持ち一つ。欲望にまみれていた者は、いつかはこのような指輪を欲しがり、それを手にした時には既に欲望の末期状態、不幸の一歩手前にいるのだという、我が身のことをほのめかす内容にも触れていた。
 もし、この指輪を持つ者全てに不幸が起ることが本当のことだとするならば、不幸の根元である彼女を握りしめても尚生き続けられる『強き一族』程、この指輪が居るにふさわしい居場所は他にはないだろう──と、そんな話で締めくくられている。

 御園という一族に不幸が起きても、尚、強く乗り越えてきた。
 そのような一族だからこそ、指輪はそこに在り続ける。
 不幸が起きて直ぐに手放すような者には当然の事ながら、ふさわしくもなく、指輪はまた一族の元に帰っていくことだろう。

 そんな岩佐の『答』。
 葉月は何度も何度も、その案内板を読み返しているよう……。
 その目が、どこか感極まっているように見えなくもない。
 だけれど、隼人にはそこまでの気持ちが湧かない。何故なら、今回、岩佐のバックにはあの『篠原会長』がサポートしてくれているからだ。元々、祖母のレイチェルと懇意にしていた人物。あの会長が彼にいろいろと叩き込んでくれたのなら、きっとレイチェルが残した言葉も懇々と語ってくれたはずだ。
 それを単に書き写したかのようにして、『とりあえず、ここは早く一族に納得してもらおう』という一時しのぎで作り上げた内容とも思える。
 あの男のこと、隼人はまだ全然信じられない。これが心よりの言葉とは思えない。

 ……でも。妻は感動しているようだった。
 隼人は溜息をつきつつも、でも、妻のその気持ちも分からないでもないと思う。
 岩佐が心より言った言わないということも勿論、葉月の中でも重要な瞬間だったと思うのだが、そうでなくても、その内容に、今まで一族が心内に秘めていた想いを改めさせてくれる内容であったのだろう。
 ──『不幸が起きても、尚も生き続けられる強き一族』。
 妻の離れない目線は、そこに貼り付いているのではないかと、隼人は思った。

(まあ、合格ってことにするか……)

 腑に落ちない部分はあるが、恐れていた内容ではなかったから……。
 そしてあの彼が己の欲望で己の首を絞めて今回窮地に陥っただけで、指輪のせいなんかじゃなく、この指輪はただ人間の勝手で扱われてきただけなのだと。そしてもし、本当に不幸を引き寄せてしまう魔力を持っていたとしても、今までこの指輪を守ってきてた一族はそれを幾たびも乗り越えてきたという理解も『とりあえず』示してくれたのだから──。

「ね。お祖母さんが言ったようなことを、あの青年も気が付いたのだろうね」
「それとも……。もしかして……?」

 笑顔の老夫妻だが、そこで岩佐の初めての言葉に茫然としている妻の顔を覗き込み、どうやら『持ち主一族のお嬢様なのでは』という顔をしている。
 隼人はホッとしたのも束の間、やはりそれなりの好奇の目で妻を見られ始め、ハラハラしてきた。
 葉月はまだ指輪に見入っているのだが、隼人は老夫妻の反応だけじゃなく、そこにいるご婦人一行がヒソヒソと囁き合いながら葉月を見ている様子や、遠くから聞こえてくるマスコミと岩佐の騒々しいやり取りがまた近づいてきているような気配が気になって仕様がない。だから、妻の耳元に急かすように囁く。

「葉月、行こうか……」
「え、ええ」

 葉月もやっと周りの様子を察したようだった。
 それでも毅然としている。
 もし、持ち主と判明してしまっても、それでも良いような顔をしているが、だが流石にマスコミの気配には怯んでしまうようだ。

 ケースを離れようとするその前、葉月は名残惜しそうに指輪を見つめ呟いた。

「私……。この指輪はこんなに綺麗なものだなんて思っていなかった。こんなに綺麗だったのね。知らなかった。こんなに綺麗にして沢山の人に見てもらって……」

 濡れた瞳。感動したのか泣きそうな顔をしている妻が、隼人に向かって小さく呟いた。
 ──『良かった』。
 その一言と顔を見て、隼人もやっと心から妻に微笑みかけられる。

「うん。本当に綺麗だ。良かったな」

 やはり老夫妻に集まっていた婦人達が『持ち主だったんだ』という顔を揃えても……。隼人ももう、その目線を気にしなかった。
 だから妻の肩を抱いて、もう暫く。今日は美しく披露してもらった指輪を二人で見つめた。
 確かに。ただ自分達の手元にあった時は『大きな石が古びた金具に着いている』という単に受け継がれてきた物にしか見えなかった。『石が大きいだけの……』。ただそれだけのことで、『価値がある石』と言う者達だけが欲しがっているのだと思ってた。でも、こうして見ると本当に美しい指輪だった。そして指輪の云われも、レイチェルが言い伝えてきたままに紹介され、やっとこの指輪本来の、外観も内面からも醸し出される美しさを人々に理解されている気がした。

『ちょっと! 君達、本当に困るよ!! 他のお客様もいるのだから、騒がないでくれ!!』

 葉月にゆっくりと見てもらおうと、自らマスコミを遠ざけていた岩佐の声が、また近くまで迫ってきた。
 それに……本当にカメラマン達がこちらに何かを取り巻いてやってくるじゃないか!?
 流石に隼人と葉月は揃ってぎょっとし、今度こそ指輪の側から離れようと後ずさった。

「早くお行きなさい」
「そうよ」

 老夫妻の案ずる顔。判ってしまっても判らなかった顔をしてくれている。

「まったく。本当……騒がしいこと」
「無粋よね」
「岩佐さんももっとしっかり取り締まればいいのに。静かにゆったりと見たい私達にとっても大迷惑だわ」
「本当よね。せっかくの気分が台無し」

 そして目の前の女性達がしかめる顔。

「早く行った方が良いわよ」

 彼女達も気の良い顔で、もう……判っているだろう事を口にはせずに『早く、早く』という手振りで、若夫妻を逃がしてくれようとしていた。

「有難うございます」
「有難うございます、皆様」

 二人で揃って頭を下げ、その指輪のケースから離れた。
 メインの宝石を展示しているそこは煌々としているが、他の展示品の通路はほの暗く、点々と並べられている宝石だけがぼんやりと浮かび上がっている。
 二人はその薄闇に乗じるようにして、注目されている指輪から遠ざかる。

「岩佐さんに会えるかしら」

 葉月は岩佐に一言かけたいところだろう。
 だが、向こうからやってくる『妙な人山』が見えてきて、当家指輪のスペースへと向かってきている。
 それを二人で振り返りつつも、隼人は今度こそ、しっかりと妻の手を握りしめ、そこを去ろうとした。

「一階のラウンジで休憩しよう。受付に伝言しておけば、彼も後で来てくれるよ」

 やはりそれなりの汗を滲ませている妻の手、そして額。
 慣れない人々の中での緊張感を窺わせる。そして、どんな自分でも毅然としようと自ら律する試練に立ち向かった気力も葉月の表情に滲んでいた。
 だからか、葉月は夫の提案に、やっとほっと一息つけたという顔に緩んだ。

「そうね……。そうするわ」

 うん、そうしよう。と、背後の騒々しい人山を傍目に、密かにそこを二人で去ろうとしたのだが……。

 

「なんですか。貴方達は、私が『持ち主』だと仰るのですか?」

 

 背後の人山の中から聞こえてきた、その声──。
 男性の声。
 何処かで聞いた声?

 隼人にはその声が誰だか直ぐに判った。
 判ったからこそ、驚いて立ち止まり、振り返ってしまった。
 そしてそれは、隣の葉月も同じような驚き顔で固まっていた。

 

「う、右京さん?」
「右京兄様!?」

 

 なんと。その人だかりを連れてやってきたのは、どうやら『右京』?
 隼人と葉月は揃って目を見開いて、再び、当家指輪がある人山を凝視した。

「篠原会長の招待でやってきたただの客ですよ。まったく」

 近頃、鎌倉での彼はすっかりカジュアルな格好を好むようになり、以前の華々しさの輝きを潜めてしまったのだが。今、二人の目の前に現れた『華の従兄』は、以前皆を魅了していた華やかなスーツ姿でそこにいた。
 紺色の落ち着いたスーツに、ネクタイは忘れてはいない従兄妹のパーソナルカラーである水色。洒落たクレリックシャツに合わせ、ちゃんとポケットチーフもあしらって……。そしてなによりも、もっと華やかに見えるのは、彼の隣に豪華な金髪の妻『ジャンヌ』を連れ添っていたからだ。

 ここにいる客の視線が一変にして、その輝かしい夫妻の元へと走っていく。
 控えめな紺色の装いでシックにしている大人の夫妻。なのに紺色という色合いで抑えようとしているようだが、その雰囲気の奥から華やかさが溢れんばかりにこぼれ落ちているという感じだ。

 暫くすると葉月は『やっぱり兄様達は素敵』と納得しちゃったようだが、隼人は絶句していた。
 ……さっきまでの『俺達』がぶっ飛んでいったと思った。
 妻の葉月だって、あれだけ人の視線を集めたのに。なんだ? あの兄さんは? やっぱり手強い! そこに現れただけで、従妹を取り囲んでいた様々な渦を、があっとかっさらっていったのだから!

 しかしそこの『人山』が騒々しいのは『持ち主かも』という華やかな男が雰囲気たっぷりで現れただけじゃない。
 なんとそこには、いつも白いスーツを着こなしている『篠原』が。そしてジャンヌに対するかのように、明るいアイボリーのゴージャスなスーツを着ている蘭子もいた。
 それだけの人物が揃えば、そりゃ、岩佐を押しのけて、カメラマンが食い付くよな……と、隼人はあっけにとられた。
 だがそれだけじゃない、まだそれだけじゃない! 蘭子の側に付き人らしき外人の男がいるなあと思っていたら……。

「な、なんで。ホプキンス中佐がいるんだよ?」
「本当だわ! あ、やっぱり諦めていないのよ。確かめに来たんだわ」

 二人は遠くから、ますます揃っておののいた。
 二人の脳裏に浮かんだ言葉は『リッキー兄さんの執念』!
 しかも彼の、滅多に見ることのない黒いスーツ姿。だから一目で判らなかった。しかも、仕事柄か? 蘭子の側にひっそりと付き添って『付き人らしい顔』をしているのがこれまた『化けている』と隼人は唸った。

 それだけ人目を引く一行が現れたなら、もう、こっちの『本家お嬢様と若婿殿』は、本当に背後の暗闇にすうっと消されたも同然。
 でも、そこで葉月が呟いた。

「もしかして、お兄ちゃま。私の為に来てくれたのかしら……。俺を見てくれって言っていた程、目立っても平気だったお兄ちゃまが、あの男を捕まえた後は、もうあんなに目立ちたくないって言っていたのに。今になってどうして?」

 その言葉に、隼人もハッとさせられた。
 そうだ。今日、葉月が来ることを右京兄さんは知っていたはず。
 もう家のことも純一に任せ、今はただ妻となったジャンヌと慎ましやかに過ごしている右京が、その腰を上げ、人目の中へとその身を投じているだなんて……。
 そう思った時、隼人の脳裏に、右京のいつもの威厳ある声が聞こえてきた。

『事件で傷ついた従妹の為なら、何でもする。それが置き去りにした兄貴の償いだから』

 どんなに華々しい世界から身を引いても、ある程度の地位や信頼を得ていた職場を捨てても。事件が法的な解決へと向かい、彼が幽霊への闘志と気迫を取り除き、静かな毎日を慎ましく過ごしていく日常を選んでも──。
 それでも『従妹の苦しみは消えない』。だから、それがまた襲ってきた時はどんな姿になっても戻っても、『俺が行く』。
 きっとそうなんだと隼人も思えてきた。

 それが証拠に、先ほどまで葉月にじりじりと迫っていた人々の好奇の目は、あっさりと華々しい雰囲気を備えた従兄へと行ってしまった。

 記者らしき男が、右京に直撃していた。

「鎌倉の資産家が……という話を聞いています。確か、そちら様は……鎌倉の……お父様が横須賀基地の……」

 その記者はカメラは持っていないきっちりとした佇まいの男で、ただ手帳を構え右京に真剣に向かっていた。
 ゴシップ記者もいれば、そうではない落ち着いた雰囲気の記者もいる。その落ち着いている記者が右京に向かっている。
 それに彼のその『情報』はかなり的確のようで、隼人は驚いた。そして隣の妻も『どうしよう』と青ざめている。
 隼人は大丈夫と、妻の手を握る。
 あの兄さんのこと。従妹に向けられてしまうだろう好奇の目を、自分へ向けられるようにと出てきた程、何か策があるに決まっている?
 そして右京は、その記者を冷ややかに見下ろして呟いた。

「そうですよ。仰るとおりその『鎌倉の息子』ですが。気になるなら、なにもかもを調べて頂いても構いません。ただ、本日は『招待客』として楽しみたいので、それ以上はノーコメントです」

 きっぱりと右京が言い放つと、記者達がざわつく。
 しかし、それ以上は誰も何も問わなくなったのは、右京のその気迫からなのか……。
 今日は口は割らないが、調べてもらっても結構と右京も毅然としていた。

「我が家に目をつけているといった様子ですね。ただ、あることないことを書くのがお得意でしょうが、万が一、こちらに負担になるようなことが起きましたら、『一般的な処置』は取らせてもらいますよ。そういうの、記事にする記者さんの方がよーくご存じでしょう。私側はそれで結構ですから、どうぞ、どうぞ。お気の済むまでに」

 いつもは輝く笑顔を絶やさない人だったのに、今、記者を制しているその顔は、とても冷ややかだった。
 一般的なことと右京は軽く言い流しているが、裏を取れば『徹底的に戦う』と言っているのだと隼人は思った。
 そんな右京の徹底抗戦宣言は、とても力強い気迫があった。
 そして隣で黙って寄り添っているジャンヌの目もとても冷ややか……。
 いや、篠原も蘭子も記者を睨みつけている? 勿論、リッキーも……?
 それだけ揃えば、なにかと騒ぎ立てたい彼等も黙らざる得ないのか、少しばかりこの豪華な一行を遠巻きにし始める。

 その一行もやっと静かになったとばかりに、共にやってきた者同士でケースの中を見つめ始めている。

「まあ、綺麗ね」
「本当だ。こんなに綺麗だったとは……」

 やっとジャンヌから笑顔が。
 そして右京も──。葉月同様の笑顔をこぼしていた。
 きっと、感じていることは葉月と一緒に違いないと隼人も微笑みを浮かべることが出来ていた。
 そして隣の妻、葉月も……。遠くから従兄夫妻の仲むつまじい笑顔を、微笑ましく眺めている。
 その笑顔の妻が、先ほどから繋いでいた手を、彼女からぎゅっと握ってくる。だから、隼人もぎゅっと握り返した。

 兄さんも大丈夫。
 それにいざというとき、やっぱり頼り甲斐がある『長兄』だった。

 一安心し、二人は右京に礼を述べたいのは山々のところであるが、彼がここまで出てきてくれたその気持ちを無にしないよう、そうっとその場を立ち去る。
 息苦しい洞窟をくぐり抜けてきたような心持ちで、二人は明るい廊下へと抜け出ていた。

「……右京兄様に、あんなことをさせてしまったわ。やっぱり……こんなことしない方が、宝石展なんか出来ないようにしてしまえば良かったのかしら」

 会場となっているホールを出た途端、葉月が出てきたドアを振り返り、従兄にかけてしまった負担を気にしている。
 だが隼人は、そんな妻に真っ直ぐに言い放つ。

「何を言っているんだ。じゃあ、お前は今日、自分で得たものはなにもなかったのか? あっただろう? いつまでも家の中に閉じこめられていた『不幸の指輪』が、不幸の指輪じゃないという云われを説いてもらって、とても綺麗な顔で世間に出られたこと、とても喜んでいたように俺には見えたよ。お前、そうしたかったんだろう? 岩佐社長がどんな答を出しても、お前はそうなるように願って彼に託したんだろう? 彼にだってお前の気持ち、通じていたじゃないか!」

 妻の目に、やっと……。先ほど、こぼしたくてもこぼせなかった『感動の涙』が一粒、光っていた。

「……右京さんだって、お前と同じ事を感じて、きっと。来て良かった。お前を守れて良かったと、彼自身で満足していると思うよ」

 葉月が『そうね』と涙を拭いて頷く。
 もう終わった。本当に終わったんだと、隼人は妻の肩を抱いて歩き出した。

 煌びやかなシャンデリアがあるホテルのロビーが見える二階の踊り場。
 そこから二人は華やかで静かな午後の光を浴びて、ゆっくりと共に階段を降りる。

 やっと優雅な気持ちになれる。
 そして、後味は清々しかった。
 ゆったりとしている階段。その下は大理石の水場があり、小さな階段を水が滝のように滑り落ちていく。
 その涼しげな音が、さらに夫妻を優しく包み込んでいた。

「もう、汗かいちゃった。冷たいものが飲みたーい」

 ほっとしたのだろう。葉月は持っていたカルティエのバッグを、ぶんぶんと振り回しながら階段を降りていく。
 さっきまでとってもお上品なご令嬢の顔をしていたくせに。もう、いつもの『ウサギお嬢さん』に戻っていて、隼人は苦笑い。

 それでも……。

 隼人は、いつものお嬢さんになって、どこか満足げに階段を降りていく妻の背をまた見ている。

 勇ましく向かっていく奥さんも。
 今にも倒れそうなのに一歩を踏み出していく彼女も。
 そして、いつまでも無邪気なままのウサギお嬢さんも。

 きっとこれからも、ずうっとこうして沢山の彼女を見ていくんだろうなと、微笑んでいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夫と一息のお茶を、優雅なティーサロンで味わっていた。

「遅いな、岩佐社長」

 隼人が青いシャツの袖の下にある腕時計を確かめる。
 あれだけの客が一度に来たら、主催の彼も大変だろう……と、思った。

「子供達、大丈夫かしら……」

 アイスティーのストローを、グラスの中くるくると葉月は回す。
 今日は週末で、御園若夫妻は子供達と共にこちらに出向いてきた。
 子供達は、横須賀のマンションにいる両親に預け、夫と二人、都心まで出てきたのだが……。
 やはり心が落ち着くと、子供達のことが気になる。
 なによりも、無事に手術を終えて退院をしたとはいえ、父は病み上がりでまだそれほど軽快に動ける訳ではないし、母もそんな父の世話をしている身。そこへ、あの『やんちゃウサギ』と『お兄ちゃんまねっこチビ姫』が騒いだりしたら、そりゃあもう……老夫妻は大変だろうと、ふと溜息が出てきた。

「きっと大丈夫だよ。義兄さんもこっちに出てきてくれたし、それに……今日は真一も面倒をみてくれることになっているんだろう?」
「しんちゃん、お気の毒……かも。せっかくのお休みに、子守だなんて」
「喜んでやってくるよ。なんたって、真一にとっては『従弟妹』で、これまた右京さんとお前みたいにさ、従兄弟でも兄弟みたいなんだから。真一だって、やっとできた『いとこ』だぜ。海人が生まれた時、すごい喜びようで、暫くの『おもちゃ攻撃』すごかったじゃないか」

 それを思い出しても、葉月は溜息。
 でも、直ぐに微笑んでいた。

「そうそう。いまじゃ、海人と杏奈にとっては『大好きな、おっきいお兄ちゃん』だものね」
「葉月と右京兄さんの如く、歳もめちゃくちゃ離れているから、真一なんかちょっとしたオヤジ気分らしいもんな」
「そうそう。小児心理学ばっちりにご指導されちゃって。葉月ちゃん、しっかりね……だもんね」

 従兄弟が出来たと喜び勇んでいた小さな甥っ子の、急な世話焼き兄さんへの変身ぶり。
 そんな真一を思い浮かべたら、今日も張り切って『小さなパパ』をやっている気がした。
 その昔、葉月がそれほど頼り甲斐がある訳でもない不安定な叔母なのに『小さなママ』として張り切ってしまっていたように……。

 今思えば、義兄が葉月に真一を預けてくれたのも、真一が望んでくれたというのもあったかと思うが、葉月が真一の為に頑張ってくれると思ってくれたからなのだろうかと振り返る。
 ちょっとしたお姉ちゃんの顔で、時にはそれほどの精神もないのに『ママぶって』。それでもそこで二人が支え合っていけば、二人はちゃんと生きていけると義兄は信じてくれていたのだろう。
 叔母と甥っ子であって、そうじゃなく。姉と弟に近くて、やっぱりそうではない。でも『おちび同士』。いつも一緒にいた二人。それはやっぱり葉月にとって『一番身近な家族』だったと思う。

 今ではその甥っ子も凛々しい立派な青年。お医者様の道を一直線。
 久しぶりに会えそうで、葉月もなんだか『早く帰りたいな』と腕時計を眺めてしまった。

「お待たせ致しました」

 やっと岩佐がやってきた。
 そして、そこには篠原も蘭子も、そしてリッキーもいた。

 

 

 

Update/2007.8.12
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